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今日の人152.吉谷奈艶子さん [2015年10月30日(Fri)]
 今日の人は、企業研修や子育てコーチングやホワイトボード×コーチング等の講師、そして自立支援家としてあちこちでひっぱりだこの吉谷奈艶子さんです。愛称よっしーなので、ここでもよっしーと書かせていただきます。
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 よっしーは1970年大阪万博開幕の日に高岡市佐加野で生まれました。小さい時は引っ込み思案でいつも誰かの後ろについていくタイプでした。ゴム跳びをしたり、稲刈り後の田んぼの農具の納屋を秘密基地にして遊んだりしていました。タンポポやシロツメクサを摘むのも好きで、とにかく外でばかり遊んでいました。けれど、体は弱かったので、しょっちゅう熱を出して月に一回は医者に通っていたくらいです。
 引っ込み思案ではありましたが、習字、そろばんは自分から習いたいと言いだして習いに行きました。そして一度習い始めると結構長く続くのでした。

 3月生まれのよっしーは親からいつも「知恵遅れ」と言われていました。早生まれで不利だということを言いたかったのかもしれませんが、そう言われて育ったため、自分は頭が悪いものだと思い込んでいました。それで小学校では絶対に手を挙げて発表することはしませんでした。そういうことをするのは頭のいい人がすることで、自分のような子がすることではない、そう思っていたのです。そして実際に勉強も嫌いでした。私は勉強なんかしなくていいんだと思っていました。
 
 小学校の時になりたかったのはピンクレディです。テーブルの上に乗っかってピンクレディになりきって踊っていてテーブルの脚を壊してしまったこともありました。でも、あまりテレビを見させてもらえるうちではなかったので、友だちの話題についていけないこともしばしばありました。お菓子もあまり食べさせてもらえませんでした。でも、これは今から考えるととってもいいことだったように思います。なにしろ当時は、合成着色料だらけのすごい色のお菓子が多かった時代ですから。

 6年になって川原小学校に転校したよっしー。でも転校した当日に友だちができて、すんなり新しい学校に溶け込むことができました。5年の時担任だった先生がなんと転校先に赴任してきたのも安心感を倍増させてくれました。

 そして高岡西部中学校に。中学校ではバレーボール部に入部します。当時高岡西部中のバレー部は外にコートがありました。練習に行くと見せかけて駄菓子屋にサボりに行くような比較的緩い部活でした。

 でも、中学時代のよっしーには誰にも言えなかったイジメられた経験もあります。ある先輩から「目つきが悪い」と別室に呼び出されて、ビンタされたりしたことが何回かありました。言い返すこともできなかったし、それを誰かに言うこともできなかった。とてもつらかったのですが、それでも学校を休もうと思ったことはなかったのです。

 もちろん、イヤなことばかりではありません。当時よっしーには好きな人がいました。3年間で3回同じ人を好きになりました。そうして、3年生の時、思い切って手紙を書いて渡したのです。もしOKだったら廊下の黒板の端っこにYESって書いておいてね、とその手紙には書きました。YESと書いてあるかどうかを見に行くのは勇気がなかったので、友だちに見に行ってもらいました。結果は…OK!みんなで飛び上がって喜びました。その恋は手紙のやりとりだけで終わったのですが、青春の甘い思い出です。

 小学校の時から大和の店員にあこがれがあったこと、近所で好きだったお姉ちゃんが高岡商業に行っていたので、高岡商業に行って大和の店員になるぞとなんとなく思っていたよっしー。当然のように高岡商業高校に進学しました。

 子どもの頃から習っていた書道は高校1年まで続けました。小6から高1までは山田無涯先生に師事。書道はとても好きでした。
 けれど、高岡商業のバレー部は中学時代の部活とは比べものにならないくらいに厳しく、とても書道を続ける余裕はありませんでした。顧問の先生には一日に一回は怒られるといった感じで「人の話は目を見て聞くもんじゃ!」と厳しく言われました。炭酸もアイスもそして恋愛も禁止の部活でした。しかし、そうやって厳しい指導を受ける中で、バレーはこんなに楽しいんだと思うようになりました。けれど回転レシーブの練習のし過ぎで腰椎分離症になり、ドクターストップがかかります。少しでも早く復帰したくて無理をしたら、本来2か月で治るはずが半年もかかってしまいました。それで結局レギュラーにはなれずに悔しい思いをすることになりました。

 中学校までは全く興味の出なかった勉強も好きになり、必死に勉強したら番数が急激に上がって、担任にカンニングしたと勘違いされるほどでした。何かやりだすと止まらなくなるのは昔も今も変わらないようです。

 部活をやめた後はスポーツ用品店でアルバイトを始めました。販売の仕事がすごく面白いと感じました。

そして、夏休み中に学校から推薦されて、就職先が決まります。決まったのは立山アルミでした。第一志望の会社ではなかったのですが、薦められるままに決めたのでした。
3月16日が入社式で配属先が決まるのは4月1日だと言われました。事務職で決まったはずなのに、どんな仕事になるかその時はまだわかりませんでした。入社式の後すぐに会社から国泰寺までランニングで行って、2泊3日の研修が始まりました。帰りはさすがにバスでしたが、迎えに来てもらった時は、熱が出始めて、「事務員になれなかったら辞める!」と口走っていました。

 幸いにして住宅関連の部署に事務員として配置されました。その部署はどんどん大きくなり、最初は30人だった人員が120人にまで増えました。仕事は大変やりがいがあり、男性と対等にやれる現場でした。仕事に対して負けたらダメだという思いのあったよっしーは常に全力でした。

 ある日、関連会社に課長と一緒に打合せに行った時の事、相手側の担当者は開口一番「女か」と言ったのです。聞けば、その会社では女子社員の役割はコピー取りなどの雑用ばかりで責任のある仕事は全く任せてもらえていなかったのです。実は高校の時に第一志望にしていたのはその会社でした。ですが、その時、この会社に行かなくてよかった!と心底思いました。
「女か」と言われた時に「ですから何か?」と言ったよっしー。会社でも女だからと言われたくなくて、いつもケンカしていました。けれど、お客さんのことを常に考えて動いていたので、お客さん受けは本当によかったのです。

 横浜ランドマークタワーの大きな物件も任され、「ようやった」とほめられましたし、後日ランドマークタワーへも招待してもらいました。こうした実績を認められ、東京に転勤して営業をしたらどうだと誘いを受けるほどに。しかし、親に反対されたよっしーは行くことができませんでした。後日、なぜ反対したのかと聞いたとき、本当に行きたいなら反対を押し切ってでも行っただろうと言われ、ああ、自分の意志を通してもよかったんだとようやく思えたのです。

 23歳の時に、当時好きだった人と結婚しますが、一番大きかったのは早く親から離れたいという気持ちでした。けれどよっしー自身も仕事ばかりで帰ってくるのはいつも深夜。家族としては成り立つかもしれないけれど、夫婦としては成り立たない。そう感じたよっしーは26歳の時に離婚。この時生まれて初めて親の反対を押し切って大きな決断をしたのでした。

 離婚直後には胆石で入院。急性膵炎を併発し、3週間入院します。手術の時にちょうど停電になり予備電源で手術するというめったにない体験もしました。

 会社に戻ったよっしーは、営業をさせてくださいと頼みますが、断られます。どうしてもあきらめきれなかったよっしーは、役員が散歩している時間を見計らって一緒に歩き、「どうしてもやりたいんです!」と訴えました。熱意が通じて、ニューオータニの展示場で住宅リフォームの営業として働くことになったのです。
 
 しかし、1年たたないうちに次の結婚が決まります。胆石と急性膵炎で苦しんだよっしーは、今度は子宮内膜症で出血が止まらなくなりました。そうして結婚式の前日に妊娠が発覚したのです。
 自分から頼み込んでもらった仕事だっただけに、1年もたたないうちに結婚になり、本当に申し訳ない気持ちになりました。でも、この仕事は本当に好きでした。あるお客さんがいて、その方のお話を聞くのが大好きだったよっしー。その方は亡くなる直前に「家を直すならあいつの所で直してやってくれ」と言っていらしたそうです。「だからあなたにお願いするわ」と言われた時は本当にこの仕事にやりがいを感じました。
 だから産休中にもカラーコーディネーターやインテリアコーディネーターの資格を取得するなど、積極的に動いていました。けれど、あまりに仕事一辺倒になってしまうので、このままではいけないと感じ、「いったん本社に戻してください」とお願いしたのでした。

 それでもやはり完璧主義は変えられず、仕事も負けられない、子どももいい子に育てたい、だから一切手は抜かず全部手作り、そういう生活が続き、とうとういっぱいいっぱいになってしまったのです。2人目が出来た時、これはもう無理だと思いました。

 そんな時にご主人の実家で一緒に住まないかという話があり、これはいい機会だと思って一緒に住むことにしました。会社に時短を申し出るも断られたため、それまでずっと情熱を傾けてきた仕事を辞めることを決意しました。なんでも適当にやるというのは、よっしーの性格上無理なことでした。

 さりとて、主婦業だけに専念するのもこれまた無理でした。保険代理店をやっている友人に頼まれて、時短の準社員として働き始めました。ある時お客さんから電話応対が素晴らしいとほめられます。「いったいどこで研修を受けられたの?」と聞かれてはたと思いました。そういえば、東京や大阪には研修講師がたくさんいるけど、富山にはちっともいない。いないなら私がやればいい!よっしーはそう思ったのでした。

 そしてたまたま見ていた高校の同窓会のホームページで同級生の飯山晄朗さんの炎のブログを見つけます。見ると、飯山さんはすでに研修講師として大活躍中でした。高校の時はほとんど話したことはなかったけれど、そこは同級生のよしみ、飯山さんに直接「私、研修講師になりたいんだけど」と話しに行ったのです。飯山さんは「まずコーチングの勉強をすべきだよ」とおっしゃいました。そこでコーチングの勉強を始めたよっしーは愕然とします。自分は自分のことを全然しゃべれていない…。どう思う?と聞かれて自分のことを考えていなかった自分に気付きます。相手に合わせることばかり無意識にやっている自分にショックを受けたのです。そして、自分を常に完璧に保とうとしているのと同様に、娘にも完璧を求めていたことに気付いたのです。いつもああしなさい、こうしなさい、と命令ばかりしていて、自分のものさしから外れることをするといつも怒っていました。子どもは支配するもの、そう思っていました。その結果、人の顔色を見てしゃべるような子になっていたのです。

 これではいけない!コーチングを学んでからよっしーは少しずつ子どもとの関わりを変えていきました。しかし、応援したいのに、応援し切れていない自分にジレンマも感じていました。そんな時に出会ったのがナニメンさんこと吉井雅之さんでした。実はこのナニメンさんの講演会を開催したのはダイバーシティとやまだったので、よっしーとナニメンさんの出会いの場を作れたのはとっても嬉しいことです(*’ω’*)
その時のナニメンさんの講演内容はこちら⇒http://diversity-toyama.org/?p=751

 こうして子どもをとことん信じて応援する姿勢に変わったよっしー。よっしーが変わると娘さんも変わっていきました。いや、変わったのではなくて、もともとあったその子のキラキラ光っているところに気付いてやれていなかっただけかもしれません。
 子育てに悩み、辛くて、苦しくて、宗教に救いを求めようかと思ったくらい思い悩んでいたけれど、自分の考え方を変えただけで笑顔になれた。だから、それをたくさんの人に伝えて、みんなを笑顔にしたい。お母さんが笑顔になると子どもも笑顔になる。みんなも笑顔になる。その輪を広げたい。そしてそれが自分の使命だとよっしーは確信しています。
 「信じるから始めよう☆よっしーの子育てコーチング」というブログは子育てに関するヒントがギュッと凝縮されています。ぜひ皆さんも読んでみてください。
ブログはこちら⇒http://ameblo.jp/yossi-smile/

 よっしーの娘さんは2人とも幼い頃からバレエを習っているのですが、つい最近2人一緒に舞台に立つということがありました。ああ、こんな日が来たんだなぁと感慨ひとしおでした。
小さい頃、自分の顔色ばかりうかがっていた娘さんが、今はキラキラした笑顔でいてくれる、それは何より嬉しいことだとよっしーは思っています。そして、そんなよっしーの肩をいつも押してくれる旦那さんやご両親に感謝の気持ちでいっぱいです。

 これからもよっしーは北陸を代表するコーチとしてますます輝いていくでしょう。
11月1日からは〜信じるから始めよう☆子どもの心に効くコーチング〜というメルマガも配信されます。皆さんもぜひ登録されてはいかがでしょうか。きっと子育てに悩んでいるママたちの心が軽くなりますよ。
メルマガの登録はこちらからどうぞ⇒http://ameblo.jp/yossi-smile/

今日の人151.Tamang Abee(タマン アスビル)さん [2015年10月11日(Sun)]
 今日の人はネパール出身のタマン・アスビルさんです。タマンさんは富山ネパール文化交流協会の主要メンバーで、ネパール大地震の復興支援コンサートでもギターと歌で盛り上げるなどして活躍しています。
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コンサートにて 真ん中がタマンさん

 タマンさんは1982年にネパールのカブレという村で6人兄弟の次男として生まれました。子どもの時から音楽が大好きで、いつもラジオで音楽を聴いていたし、竹やぶから竹を切り出して、自分で竹の笛を作って吹いていました。笛とラジオはいつもタマンさんのそばにありました。

 小学校はお兄さんと一緒に入学しました。5歳のタマンさんは同級生の中でいちばん年下でした。日本とちがって入学年齢は割合アバウトでした。給食はなく、お昼ご飯には乾燥トウモロコシを持っていきました。それを炒ってお昼に食べるのです。小学校ではカバティというネパールの鬼ごっこやチェスをして遊びました。でも、もちろん一番好きなのは音楽でした。

 ネパールの子どもたちにとって家のお手伝いをするのは当然でした。家には水牛、牛、ヤギ、鶏がいて、エサをやるのも子どもたちの仕事でした。今となってはとても懐かしい思い出です。しかし、村には小学校しかなかったので、中学校からはお母さんの実家に下宿して町の中学校に通いました。村までは遠かったので1年に1回くらいしか家には帰れなくなりました。お母さんの実家にはお母さんのお兄さん、つまりタマンさんにとってのおじさんが住んでいたのですが、おじさんには子どもがなく、タマンさんをわが子のようにかわいがってくれました。そのおじさんがタマンさんが中学生の時に亡くなります。それが中学校時代に一番心に残ったことでした。

 高校からはカトマンズに出て、1人暮らしを始めました。料理をはじめ家事全般もちろん自分でやりました。友だちからもらったギターに夢中になり、勉強もギターも一生懸命。とても充実した時代でした。

 大学はそのままカトマンズの大学に入り、経営経済の勉強をしました。けれど、オートバイを買って、授業をサボって出かけてばかりいました。その頃、友だちの間ではいろいろな国へ留学するのが流行っていました。中でも一番イメージが良かったのが日本です。タマンさんも留学したいと思っていて、最初はシンガポールに行こうかと思っていたのですが、シンガポールに留学していた先輩の話を聞くとあまりいい印象がありませんでした。それならやはり一番印象がいい日本がいい、小学生の時から憧れていた日本に行ってみたい!そう思いました。日本留学は人気があるだけあっていろいろな手続きは大変でしたが、タマンさんは日本に来るチャンスを手にすることができたのです。

こうして、大学の卒業を待たずに日本に留学したタマンさん。
日本での生活は思ったよりずっと大変でした。ショックだったのは食用油を買いたくてスーパーに行ったのに買えなかったこと。日本で食用油がどんな入れ物に入れられて売られているのかもわからなかったし、「あぶらをください」という日本語さえ言えなかったのです。国で少しは勉強してきたつもりでしたが、全然役に立ちませんでした。こうして、富山の日本語学校に入って日本語を勉強し始めたタマンさん。私はタマンさんが日本語学校2年生の時に担当したのですが、その時はもうかなり日本語は上手になっていて、ギターで日本語の歌を自作して聴かせてくれるくらいでした。日本語学校では花見に行ったり遠足に行ったりするのですが、タマンさんはそんな風に外に出かけて外でご飯を食べる時間が大好きだと言います。それは日本では全く普通にできることだけど、それを普通にできない国もたくさんあるのです。

タマンさんが日本語学校2年生の8月にバイト先で出会ったのが、奥様となった方でした。彼女は日本人。タマンさんが彼女のために曲を作っていたのを私もよく覚えています。そして、タマンさんが日本語学校を卒業した翌月の4月に2人は結婚したのでした。外国の人との結婚に反対がなかったのかと思いましたが、彼女の家は2人が良ければいいよとすんなりと受け入れてくれました。タマンさんのご両親も認めてくれました。
そんなタマンさんは今では小学校1年生と保育園年長の2人の子どものお父さんでもあります。掃除も洗濯も料理もなんでもする、カジダン、イクメンを地で行くタマンさんなのでした。

そして音楽は今もずっとタマンさんのそばにあります。時々ギターを手にLiveやコンサートにも出演しているタマンさん。大地震のあったネパールの復興支援コンサートに出演するために富山のみならず東京でも活動してきました。地震後は早々にネパール入りし、生まれ故郷のカブレに支援物資を運んだりしています。そして11月にも現地入りして活動してくる予定です。

富山に一軒家も構えたタマンさんは、いつかは自分の会社を持ちたいという夢も持っています。この先ネパールから留学する学生はもっと増えるでしょう。そんな留学生が留学後に安心して生活できて、そして日本での就職も紹介できる、そんな場所を提供できる会社を作れたら、そんな風に思っています。
 
 もう一つはギターや歌に関する夢です。これはきっともうすぐタマンさんから発表があるので、その時に情報をシェアしますね。

 最後にタマンさんに日本に実際何年も住んでみて抱いた思いを聞いてみました。
やはり日本は日本語のわからない外国人にとっては住みにくい。英語もなかなか通じない。それにどこか外国人に対する偏見を持っている。表面に出さない人もいるけど、露骨に出してくる人もいる。
 でも、日本ほどどこに行ってもきれいなところはないと思っています。システムも技術もしっかりしているし、なんでも安心できる。まず、日本に上陸してトイレに入った時にその違いを感じるそうです。そのトイレの快適さと同じ快適さがずっと続くのが日本だと。でも、そのすばらしさを実感していない日本人も多い。日本はこんなに素敵な国なんだよ、ということをもっと誇りに感じてほしい、そうタマンさんは言います。

 2人の子どもたちの成長に伴って、タマンさんがPTA活動などに関わっていく中で、またいろいろな新たな体験が生まれていくでしょう。日本人とはちがったタマンさんの視点でのお話をこれからもとっても楽しみにしています。