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今日の人149.河除静香さん [2015年08月27日(Thu)]
 今日の人は、今年6月に行われた『「こわれ者の祭典」×「見た目問題」inとやま〜生きづらさだヨ!全員集合』を主催され、大反響を呼んだ河除静香さんです。NHK富山の「ニュース富山人」でも取り上げられ、9月6日(日)朝にはNHK全国版の「おはよう日本」でも取り上げられる予定のまさに時の人です。
IMG_9345.JPG

 静香さんは1975年に庄川町で生まれました。生まれて10日間、お母さんは静香さんに会わせてもらえなかったそうです。それは静香さんが「顔面動静脈奇形」という難病で生まれたからでした。おばあさんは若いお母さんにこの子を育てるのは無理だと考え、「私が育てようか」とおっしゃったそうです。でも、お母さんは言いました。「この子は私の子。私が育てます!」

 静香さんは病気のせいで鼻血を出してばかりいました。そしていったん鼻血が出ると止まらなくなることから、保育園に入るのを断られました。けれどお母さんは役場と掛け合い、静香さんの入園を勝ち取ります。けれど、入園したものの、静香さんは保育園に行くのが大嫌いでした。なぜなら顔のことで仲間外れにされていじめられたからです。でも、保育園にあるオルガンが静香さんは大好きでした。それで大人になったらオルガンの先生になりたいと思ったりしていたのでした。

 いじめは小学校に入ってからも続きました。女の子の友だちはたくさんいたのですが、男の子はいつもいじめてくるので、イヤでした。けれど、お母さんは絶対に学校を休ませてくれませんでした。それでどんなに学校に行くのがイヤでも休むことはなかったのです。
 いじめが一番ひどかったのは中学校の時でした。小さな町ですから、小学校のほぼ全員が同じ中学校に入ります。それで男子のいじめはそのまま続き、むしろ中学生になって狡猾になってきたのでした。給食をとられたり、揶揄する言葉が巧妙になってきたりしました。でも、一番ショックだったのは、社会で「基本的人権」について習った時に、「お前に基本的人権はない」と言われた時でした。悔しくて情けなくてたまりませんでしたが、親にも先生にもいじめられていると訴えたことは一度もありませんでした。むしろ明るい自分を見せなきゃいけない、そう思って努めて明るく振舞っていました。何しろ学校は絶対休めない、と思っていたので、一日一日いじめを切り抜けていくしかなかったのです。死にたいと思ったことはありませんでしたが、自分をいじめている人たちが死ねばいいのに、そう思ったことは何度となくありました。

 そんな静香さんが自分を守る方法は、自分をお笑いキャラに仕立てることでした。おちゃらけることで自己防衛していたのです。
その頃静香さんは漫画やアニメが大好きでした。F1レースのアニメの影響でF1レーサーになりたいと思ったり、「地球へ…(テラへ)」が大好きで宇宙から地球が見てみたいと思い、宇宙飛行士になりたいと思ったりしていました。宇宙の写真を見るのも大好きでした。

高校に進学すると、いじめていた男子たちとはすっかり離れてしまったこともあり、いじめはパタッとなくなりました。けれど、あまりに知らない子だらけの高校だったので、1年生の時は友だちが全然作れませんでした。自分の見た目を気にして、自分で殻を作ってしまっていたのかもしれません。私と友だちになってくれる子なんているのかな、そんな風に感じるようになりました。中学の時のおちゃらけキャラはなりを潜め、休み時間はずっと本を読んで過ごしていました。この頃が一番読書をしていた時期だったように思います。
けれど、ソフトボール部のマネージャーをしていて部活がすごく楽しくなり、また2年生からは自分からも声を掛けるようになって、友だちは徐々に増えていきました。

ただ、悩みも増えました。友だちと一緒に帰っている時に、田んぼを挟んで向こうにいる小学生に「あの顔〜」と言われすごく腹が立ちました。友だちは、あんなの気にしられんなと言ってくれましたが、それでも好きな人も出来た頃だったので、イヤなことがあると自分の顔のことが気になりました。こんな顔じゃなかったらなんでももっとうまくいくのに、そう思って落ち込んでいました。顔面動静脈奇形の治療で使うエタノール注射という筋肉注射よりももっと痛い注射を何本打たれても構わないので、朝起きたら普通の顔になっていたい、そう思ったことが何度あったでしょう。

それでも、友だちと恋バナをしたり、部活のみんなとワイワイしたり、楽しい時間も過ごしました。その頃、安田成美が司書役のドラマが流行っていたこともあって、高校の終わりごろには司書になりたいと思うようになりました。もちろん本が好きなことも大きな理由です。

そして司書になるための勉強ができる富山女子短大に進学。短大時代に合コンに誘われることもありましたが、行ってもいつも自分は蚊帳の外に置かれていると感じました。それでワザと男っぽい格好をして出かけたりしていたのです。
サークルは軽音楽部で女の子ばかりのバンドでドラムを叩いていました。目立ちたがり屋だけれど、目立ちたくない、そんな矛盾した気持ちが常にありました。

司書の資格は取れましたが、さりとてすぐに司書の就職口が見つかるほど甘くはなく、静香さんは興味のあったブライダル関係の会社を受けました。けれど、4社受けて全て不採用。その中で1社だけ不採用の理由を教えてくれた会社がありました。「あなたの見た目ではダメ」とはっきりと言われたのです。今でこそ、そうやってちゃんと理由を言ってくれた会社は誠意があったなと思えますが、当時はすごく落ち込みました。もちろん、不採用になったのは見た目の問題だけではなく、スキルの足りない点もあったにちがいないのですが、当時はすべてを見た目のせいにして荒れていました。この頃がいちばん親にも反抗していた時かもしれません。

 けれど半年後、静香さんは就職。就職先は葬祭ホールでした。静香さんは我ながら極端だとおっしゃるのですが、ブライダルがダメなら葬儀だと思って選んだのです。面接試験の時に、「君の目がすごくいい」と言われ、採用が決まりました。
 しかし、事務職での採用だったのですが、現場に代わってほしいと言われ、現場担当に。半年後には遺体搬送業務を依頼され、その研修で亡くなった方を搬送する時に、ご遺体の横に座らなければならず、まだ短大を卒業して間もない静香さんにはさすがに堪えられませんでした。どうしても怖くて続かなかったのです。

 やはり事務をやりたい、そう思った静香さんは職業訓練校で半年過ごしました。その後スリーティという会社で短期のアルバイトをしたのですが、この会社の雰囲気がとてもよく、その後正社員として採用されます。そして、この会社に就職したことで、静香さんは運命の人に出会うことになったのです。

 入社して4年目、会社のみんなで遊びに行っていた時に静香さんは後にパートナーになる河除さんに言われました。「付き合ってくれないか」
そうしてお付き合いが始まったのですが、しばらくたって河除さんが怒り出したことがありました。「何で病気のことをちゃんと話してくれないんだ?」
またこうも言われました。
「じろじろ見られるのがイヤながやったら、俺が着ぐるみを着て隣で歩いてやる」
ああ、この人はこんなにも自分のことを真剣に思ってくれているんだ、そう思った静香さん、こうして2人は1年後に結婚したのです。

 河除さんのご両親も見た目のことを気にする人ではなく、それが結婚の障害になることはありませんでした。結婚式の時も、みんな笑ってお祝いしてくれて、静香さんは幸せに包まれたのです。

 2002年、静香さんは妊娠します。実は20歳の時を最後に手術はしていなかったのですが、顔面動静脈奇形は少しずつ進行していく病気なのです。長男出産から5か月後、目や耳、鼻から出血が止まらなくなり、緊急に手術。その時の手術で皮膚がケロイド状になってしまい、それ以降外出時にはマスクをするようになりました。それまで、静香さんはマスクをしていなかったのですが、マスクをして出かけるようになると、すごく楽になりました。他の人の目を気にせずに普通に歩けるってなんてラクなんだろう。ケロイド状のかさぶたが取れたらマスクを外そうと思っていたけれど、一度そのラクさを味わうと、マスクを外せなくなってしまったのです。

 その後2人の息子さんに恵まれた静香さん。7年前からは中学校で学校司書として働いています。中学生との何気ない会話が楽しい。けれど、やはりマスクは外せずにいるし、お昼ご飯を食べている時にも誰かが部屋に入ってこないかハラハラしながら急いで食べる習慣になりました。

 2010年、ネットで「見た目問題」に取り組む団体があることを知り、また大阪で初の交流会があることもわかりました。「行ってみたい」そう思いました。そうして旦那さんに相談すると、「行っておいでよ」と言ってくれました。
 それまでずっと見た目問題で悩んできたけれど、そのことで悩んでいる他の人に出会ったことはありませんでした。交流会に行くと、みんな自分と同じ見た目問題で悩んでいて、今まで誰にも話したことがないことをいろいろ話してすごく楽しくて、すごくすっきりしました。大阪の主催者の方に「富山でもやってみたらいいじゃないですか」と言われましたが、その時は自分がやるのは無理だと思いました。でも、その時間が本当にいい時間だったので、富山にもこういう催しがあるのではないかと思って調べてみましたが、全く見当たりませんでした。こういう場は絶対に必要だ!そう感じた静香さんは自らが主催者になることを決意。そして2011年に富山で第一回目の交流会を開催したのです。
 すると、県内のみならず京都、滋賀、東京といった県外からも見た目問題で悩んでいる人たちが来てくれました。来た時はとても辛そうな表情だった方が、交流会が終わる頃には笑顔になっている。その姿を見て、本当にみんな話したいのだ、話したいけれど自分のことを話せる場がなかったのだ、そう感じます。ですから、この交流会は細々とではあるけれど、ずっと続けていきたい。そう思っています。そうして年に2回、交流会やイベントを続け、先日10回目を開催することができました。今では、見た目問題だけでなく、吃音で悩んでいる方、身体障がい者の方、いろんな人が来てくれる交流会になっています。

 2012年には 「見た目問題」を解決し、誰もが自分らしい顔で、自分らしい生き方を楽しめる社会をめざすNPO法人マイフェイス・マイスタイルと共催で写真展も開催しました。いろんな方とのつながりが生まれる中、交流会に来てくださる常連さんから「『こわれ者の祭典』っていうのがあるよ。この会と合っているから一回富山に呼んだらいいよ」と言われます。「こわれ者の祭典」はアルコール依存や薬物依存、DVなどさまざまに生きづらさを持っている方の体験発表&パフォーマンスイベント。「病気でどう苦しみ、そこからどう回復したか」をユーモアを交えたトークと、その病気に関するパフォーマンスで盛り上げるイベントを開催しています。その「こわれ者の祭典」の代表が月乃光司さんなのですが、静香さんは月乃光司さんが大阪での公演で出演者を募集しているのを知って、「見るだけではなくて、出る方でやろう」と思い立ちます。最初は詩の朗読を考えていたのですが、そのうちにお芝居の方が伝わると思い、一人芝居の形で舞台に立ちました。たくさんの方の前でスポットライトを浴びての一人芝居はものすごく爽快感がありました。そして、富山で開催した『「こわれ者の祭典」×「見た目問題」inとやま〜生きづらさだヨ!全員集合』でも素晴らしい一人芝居を披露された静香さん。私もその舞台を見たのですが、本当に胸を打つ舞台でした。とても芝居の経験がないとは思えない迫真の演技。このお芝居はこれからももっともっとたくさんの人に見てもらいたい、そう心から思えるそんな舞台なのでした。

 静香さんが今楽しいことは、普通の日々を家族と一緒に送れること。そして「見た目問題」の活動でいろいろな人と知り合えること。今、いろいろな場所で話す機会がある静香さんは、この顔に生まれてきた意義、そしてそこでできることをいつも考えると言います。きっと私にしかできないことがある。私にしか語れないことがある。それを伝えたい。

 けれど、イヤなこともやっぱり見た目のことです。普段はマスクが手放せません。外で食事をする時も気を遣うし。児童クラブの集まりなどで、食べ物が出て来てもマスクを外せません。本来我慢しなくてもいいことを我慢しなくてはいけない、それが辛いなぁと思うのです。
 
 静香さんは子どもたちには自分の好きな道をのびのびと歩いていってほしい、そう思っています。そして自分は今のこの活動をずっと続けていきたい、そしていろんな人と知り合いたい、そう思います。見た目問題を抱えている人は、自分で自分のことをセーブしている人がすごく多いのです。もちろん静香さん自身もそんなところもあるけれど、思い切って舞台に立ったりすれば、すごく楽しいし、人は勇気を出せばなんだってやれるんだって心から思えます。私も、静香さんの新たなステージを楽しみにしています。
今日の人148.野上達也さん [2015年08月11日(Tue)]
 今日の人は、富山大学医学薬学研究部和漢診療学講座助教で、大学附属病院の和漢診療科の外来も担当、J3のサッカーチームのチームドクターでもある野上達也さんです。
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 野上さんは1973年神奈川県で生まれました。3人兄弟の長男として育った野上さん。小学校1年生から空手、小2からはサッカーを習い、その他にも習字、そろばん、スイミングなど、一通りの習い事はやっていました。小学校の時から、とても活発でいかにも頼れる兄貴タイプといった感じだったので、自然に野上さんの周りには人が集まってきました。必然的に学校委員長をやっている、そんなタイプだったのです。けれど、好きな女の子にはスカートめくりをしていたずらをするという、いたずらっ子な面もありました。優等生っぽくないそんなところが逆に人気の秘訣だったかもしれませんね。
 その頃の夢は空手の師範かサッカー選手になりたいというものでした。空手は黒帯をもっている野上さんです。

 中学では、サッカー部に入って、ますますサッカー熱は高まりました。強豪ぞろいの神奈川県大会でベスト8に入ったことも。その時のサッカー部の監督が、「俺はサッカーを知らないからみんな一緒に強くなろう」という方で、野上さんはその先生にとても憧れました。そうして、将来は教員になって、サッカー部の監督になりたい!そんな風に思っていたのです。
 でも、中学に入ったころには不良グループの嫌がらせの対象になってしまったこともありました。机に生ごみを入れられたり、椅子に画びょうを置かれたり。その中心になっていたのが小学校時代のサッカーのチームメイトだったこともあり、胃が痛くなったりもしました。今になって思えば勉強やスポーツが得意なことを鼻にかけるような態度があったかもしれない、と振り返る野上さん。何をどう変えた、という自覚はありませんでしたが、中2になって、お互いが成長したためか、そのチームメイトもサッカー部に戻り、嫌がらせをされることもなくなったのでした。ゴールキーパーだった彼も含めてチームメイトと力を合わせて戦った中学サッカーは今では良い思い出になっているそうです。
 中3の時には、生徒会長にもなりました。そのときに、グラウンドにビックアートを描くというイベントをやりました。生徒ひとりひとりが色板を持ってグラウンドに葛飾北斎の富嶽三十六景の一枚、神奈川沖浪裏のイラストを描いたのです。一人でもずれると絵はうまく完成しません。かったるいと言ってやりたがらない子も当然いて、うまくみんなが並んでくれるようにするのはなかなか大変でした。そこを野上さんは、リーダーシップを発揮して、うまくみんなをまとめて、見事な神奈川沖浪裏を完成させたのでした。

 文武両道の野上さんが進学したのは、進学校としても名高い厚木高校でした。進学校にいても、やっぱりサッカー漬けの毎日。3年生の時には10番をつけてエースとして頑張りましたが、国体選手との練習や強豪校との対戦などを通じて、プロに行くような人はやはりレベルがちがうと実感することにもなったのでした。

 ほぼサッカー漬けとはいえ、本を読んだりするのも好きでした。特に歴史が好きで、三国志も全巻そろえていた野上さんは、東洋思想、そして東洋医学にも興味を持ちました。西洋医学のように全てを分析的に考えるのではなく、すべてを統合的に考える東洋医学に惹かれたのです。また弟さんが気管支ぜんそく持ちで、家族旅行に行った時に発作を起こしたりするのを見る度に、子ども心になんとかしたい、と思っていたこともあって、医学部を目指すことに決めたのです。

 でも、受験勉強に本腰を入れたのは高3になってからでした。受験雑誌で、漢方医学を学べる医学部を探したところ、国立では富山大学だけでした。立山町に小学生の頃にサッカーの遠征に来たことがあったり、親しい友人が富山出身だったりしたこともあり、野上さんは富山に良い印象を持っていました。そうした縁もあり、野上さんは富山大学医学部を受験し、見事現役合格したのです。

 こうして、初めての地、富山へとやって来た野上さん。大学ではサッカー部とスキー部に所属し、サッカー部では全日本医科学生大会で準優勝2回、競技スキー部では距離競技3種目制覇など部活動を中心に住みやすい富山での生活を満喫しながらの学生生活を送りました。

 卒業後の専門を決める時、実は少し迷いました。和漢診療学にはもちろん興味がある。しかし、ずっとスポーツをやっていた野上さんにはスポーツ整形の方に進みたいという気持ちもありました。実際、野上さんはパッと見は漢方医というより、外科医といった方がぴったりくる印象です。   
けれど、和漢診療科のある富山大学医学部においてでさえ、漢方医学の道へ進む学生はあまりいません。野上さんの学年でも全くいませんでした。そこで思ったのです。「俺がやらねば誰がやる」と。昔から全体のバランスを常に考える性格でした。そして、それは悪くない、そう思っています。

 こうして和漢診療学の道を選び、今は現代医学ではよくならずに半ばあきらめた人たちが、和漢に出会ってから元気になっていくことに何よりやりがいを感じる毎日です。患者さんに、ありがとうと言ってもらえることに喜びを感じます。

 けれど、「なんで漢方やっているの?」と言われることがあるのも現実です。漢方医学が何か怪しいもののように思われていると感じることもあるといいます。日本の伝統医学をそんな風に言われるのはとても悔しい。漢方医学を正しく普及していきたい。和漢診療学という現代西洋医学と漢方医学の長所を生かす学問を究めて、現代医学の中でいかに漢方医学を活用するかを追求することが野上さんのテーマです。
 例えば西洋医学の対症療法で行くと、例えば咳が出て、めまいもしてというと別々のクスリが処方されてたくさんの薬剤を服用することになってしまうことが多いけれど、漢方はそうではありません。漢方では、咳もめまいも根は一つと考え、その根本に効く漢方薬を1種類、多くても2種類ほど処方することで患者さんの体調全般を整えることを目指すのです。
 周知のように、今日、1人の患者が多数の薬剤の処方を受けるpolypharmacyが問題になっています。一人の人間が何十種類もの薬を飲んだらどんな副作用が出るのか?はあまり研究されていないのが実情です。polypharmacy の問題は1人1人の医師が自分の専門領域を一生懸命治療する結果ではあるのだけれども、本来は必要最低限の薬剤で最大の効果を出すことが正しい医療。和漢診療学にはこの問題を解決するヒントがあると野上さんは考えています。
 また、漢方薬は高価、という印象が一般にはありますが、実は漢方薬はとても安いのです。漢方薬をうまく使っていけば、医療費を大幅に削減できる可能性があることを示した報告もあり、この点でももっと着目していくべきと考えます。日本にもともとある漢方医学と西洋医学をうまく連携させることで、これからの超高齢社会に備えることができる、いや、そうしていかなければならない。そのために野上さんは和漢診療学ができる医師を育成していくことも自分の役割だと思っています。

 漢方医学は実はプライマリケア向きだという野上さん。プライマリケアとは簡単に言うと国民のあらゆる健康上の問題、疫病に対し、総合的・継続的、そして全人的に対応する地域の保健医療福祉機能です。高度な医療機器を必要とせず、五感を活用して診療に当たる漢方医学はプライマリケアの現場にぴったりな医療です。最初にかかってなんでも相談できる地域の医師が漢方薬を使いこなして、多くの患者さんを治せたらとても素敵なことだと思います。プライマリケアの現場で、漢方医学を正しく認識してもらい、きちんと使ってもらうことが大切だと野上さんは考えています。
 でも実際は、今、富山大学の和漢診療科にこられる方は、多くの医療機関で治療を受けて十分な効果が得られなかったという場合が少なくありません。もっと早くに漢方治療を行えていたら・・・という思うこともしばしば。そんな患者さんを一人でも減らすことが野上さんの役割の一つだと考えているそうです。

 ただ、今、漢方薬の原料は国産のものはとても少なく、大部分を輸入に頼っているのが実情です。しかも、その輸入も、今、心もとなくなってきています。日本の各都道府県に適した漢方薬の原料を育て、国を挙げたプロジェクトとして取り組んでいければ…。それを実現させて、かつ、プライマリケアに和漢診療を取り入れていければ、高齢社会に突き進んでいく日本の医療を支えることができるのではないか・・・。
野上さんの漢方にかける情熱はとても大きくて、そして深い。そしてこれは素晴らしいプロジェクトになるのは間違いないのです。これは決して絵空事にしてはいけない、そう思います。

 そんな大きな志を胸に抱きつつ、日々のささやかな暮らしの中に感じる幸せを大切にしていらっしゃる野上さん。7歳と5歳の男の子のお父さんでもいらっしゃるので、今は子育てが何よりも楽しい時間です。何しろ子どもたちの成長は目を見張るほどです。1週間前にできなかったことが、できるようになるのですから。
そして、もうすぐ3人目のお子さんも生まれる予定です。これで、ますますお父さんの出番が多くなりそうですね。

 そして外来の仕事をしていると、患者さんがよくなっていく姿が目に見えることにとても幸せを感じる時間です。やはり、野上さんは人に接する時間がお好きなのだとつくづく思います。スポーツマンで人情に厚い、とっても素敵なお医者様。私も野上先生に漢方薬を処方してもらいに行きたくなりました。