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今日の人145.神谷 哲さん [2015年05月30日(Sat)]
 今日の人は愛知に住み航海士として船を安全に航海させる重責を担いながら、お休みに入ると富山の「コミュニティハウスひとのま」に来てくれて、子どもたちにも大人気の神谷哲さんです。
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 神谷さんは愛知県半田市で3人兄弟の長男として生まれました。小さい頃から自分の世界で遊ぶのが大好きな子でした。粘土で自分の好きなロボットを作って、そのロボットを使ってストーリーを創作するのが好きでした。粘土遊びの世界に入ると、何時間でも没頭していました。 
 神谷さんの家は庭が広く、近所の子どもたちの絶好の遊び場にもなっていました。お父さんが木にロープをぶら下げて作ったブランコがあったり、池もあったりしたので、子どもたちがいろいろなことをして遊ぶには事欠かなかったのです。もちろん、そんな時は神谷さんもそこに混じって遊んでいました。

 動物が好きで、家ではイヌ、ネコ、アヒル、ヘビまで飼っていました。それで、小学校でも飼育係をすることが多かったのです。将来は獣医か先生になれたらいいな、と思っていました。先生がいいな、と思ったのは、当時学校の先生ってかっこいいなというあこがれがあったからでした。けれど、おとなしくてあまりしゃべらない子でした。小さい頃から一人遊びが好きで、一人でいるのがちっとも苦になりませんでした。いや、むしろ好んで一人でいるような子だったのです。
 
 粘土でロボットを作るのが好きだったのは、ロボットアニメが好きだったせいもありました。ダイターン3、ザンボット3、トライダーG7、ダグラムetc、実は私も子どもの頃、ロボットアニメが大好きだったので、全部わかるところが、さすがに同世代(笑)
とにかく、そういうロボットアニメや、SF小説が大好きで、それらを自分の世界で創作しつつ、粘土で表現していたのです。

プロレスを見るのも好きでした。いろんな技を繰り出すのがカッコよく、強い人に憧れました。それで自分も強くなりたいと、小学校5年の時に空手を習い始めます。今はスリムなので想像できませんが、その頃の神谷さんはぽっちゃり体型でした。空手はとてもハードで、ぽっちゃり体型の神谷さんにはついていくのが大変でした。そうして6年生の時に柔道に転向します。

中学校に行っても柔道部に入りました。私の地区の中学校は柔道部が一番ハードな部なのですが、神谷さんの中学校の柔道部はとてもゆる〜い部でした。
勉強はほとんどしませんでした。相変わらず一人時間が好きで、本を読んだり、空想の世界で遊んだりしていました。淡々と過ごすのが好きだったので、運動会や文化祭などの行事は苦手でした。行事でみんなが盛り上がっている時も、その輪に入ることはしませんでした。入れなくて寂しいというのではなく、輪に入らずに一人でいるのがむしろ好きだったのです。

 高校は中学校の目の前にある普通科の高校に進学。中高一貫校というわけではないのですが、神谷さんの中学校の生徒で普通科にいく子は大抵がそこの高校に進んだのです。
 高校ではハンドボール部に入りましたが、1か月でリタイア。その後は帰宅部で、ひらすら本を読んで過ごしていました。
 
 とりあえず大学には行こうかと思って大学を2校受けたのですが、2校とも落ちてしまいます。勉強するのは好きではなかったので、浪人する気持ちにはなれず、隣の市の大府市の学童保育でアルバイトの指導員を募集していたので、そこで働き始めました。

 学童保育で働き始めて、この仕事は自分にとても合っているなと感じました。不思議なことに神谷さんは子どもたちにすぐになつかれるのです。それは今も変わりなく、コミュニティハウスひとのまに来ている子どもたちは、ホントに小さな子から高校生までみんな神谷さんのことが大好きです。子どもが壁を感じずにすうっと近寄れる人って、ごく稀にいるのですが、神谷さんはまさにそんな人。不思議な魅力で相手に安心感を与えてくれるのです。

 学童保育で働き始めて2年目に、仕事をしながら日本福祉大学の2部に通い始めました。それだけこの仕事は自分に合っていると思ったのです。けれども、やはり仕事をしながらの学業は大変で、3年生の時に中退。この期間も含めて7年間、学童保育で働いたのですが、その間にバイクの免許と小型船舶の免許を取得したのでした。
 そして、もうちょっと手に職をつけよう、学童はその後また戻ればよいと思って7年勤めた学童保育の仕事を辞めました。もう一つには、やはり給料が安すぎることもありました。お金儲けに心が動くタイプではありませんが、いろいろやりたいことをするには心もとないお給料だったのです。

 いつの日か世界一周の旅に出たいとの思いも抱くようになった神谷さんは、学童保育の仕事を辞めた後、バイクに乗って2か月の日本一周の旅に出ました。自分の中に決めたルールは、都道府県毎に一泊以上宿泊すること。
この旅を通して自分の中に変化がありました。それまでの神谷さんは一人が好きで、敢えて人と交わるようなことはしませんでした。どちらかと言えば人間嫌いでした。けれど、さすがに一人でずっと旅をしていると寂しくなります。それでキャンプ場に来ているグループに声をかけたりするのが平気になりました。そして人と話をするのも好きになったのです。47都道府県で一番印象に残ったのは、やはり北海道でした。北海道は広いだけあって、安く泊まれて楽しいライダーハウスがいくつもありました。そこで、現地で会ったライダーと話すのもまた楽しい時間でした。

 日本一周の旅から帰った神谷さんは職業訓練校でクレーンの資格を取ります。なぜクレーンかというと、やはり小さい時からロボット好きだったこともあって、そういう機械を自在に操ることに一種の憧れに似た思いがあったからでした。そうして、資格を取った後に、台船の上でクレーン作業の見習いの仕事に就いたのです。台船というのは、海上作業の箱舟のことです。陸上でのクレーン作業よりきっと面白い、そう思って台船での仕事を選んだのでした。台船の上にはトイレはありません。つまりぜ〜んぶ海に直接です。え、大きい方はどうやって?と思ったあなた、今度神谷さんに直接聞いてみてくださいね。

 こうして台船で働いて3年。それなりに仕事は楽しかったのですが、そろそろまた旅に出たくなってきた神谷さん。ちょうどある学童保育から一緒にやらないかと声がかかります。この機に神谷さんは台船のクレーン技師の仕事を辞め、学童で働く前に今度はお遍路さんとして四国巡礼の旅に出たのでした。なぜお遍路さんかというと、最初はバイクの旅をしたので、次は徒歩での旅だという風に考えたからでした。バイクも歩きもいつか世界一周をするための予行演習のようなものだと神谷さんは考えています。

 最初は普通の格好でお遍路さんに出た神谷さん。でも、お遍路さんをしていると、途中所々でお接待があります。お接待というのは、お遍路の道中で見知らぬ方から食べ物や飲み物をいただいたり、接待所と呼ばれる休憩所を開放してくださったりすることを言います。それを巡礼者に施しをくださる慣習「お接待」と言っているのです。お接待は「行けない私の分まで宜しくお参り下さい」という代参の意味でもあったり、お接待自体がその方の行でもあり功徳となります。ですから参拝の際には、お接待をして頂いた方の分までお参りするという気持ちで参拝します。そういうこともあって、最初は全くの普段着でお遍路さんを始めた神谷さんでしたが、最後はしっかりとした白装束で結願したのでした。

 そうして、お遍路の後で神谷さんは学童保育の現場で再び働き始めました。この時に出会ったのが、当時やはり学童保育で働いていた元島生さんでした。当時は、元島くんも富山とのつながりはなかったのですが、元島くんが宮田隼くんとともに富山でコミュニティハウスひとのまを開くことになり、神谷さんと富山との縁も生まれたのです。人と人との出会いは本当に不思議なものです。どんなに近くにいても、通じ合えない人たちもいるし、遠く離れていても、すっと距離が近くなる人もいる。神谷さんと富山の子どもたちとの出会いは間違いなく後者でした。

 学童保育で働いて7年、組合の仕事もしていたのでそれなりに忙しかったのですが、神谷さんは一か所に留まることが苦手なのでしょう。だんだん気持ちが外に向かうようになります。かつて台船で働いていた時に出会った現場監督が「陸運局に行けば船の仕事を紹介してくれる」と言っていたのを思い出し陸運局へ。そうして、今の航海士の仕事に就くことになるのです。

 海に出る前に再び旅に出た神谷さん。バイク、徒歩、その次は自転車でした。愛知から山越えをしてやってきたのが、そう、富山のひとのまだったのです。

 そうして今は、2か月船の上で過ごした後の2週間の休みになると、ひとのまにやってきて、子どもたちと一緒に過ごしてくれています。ひとのまには思春期の男の子が何人かいるのですが、悩み相談からエッチな話までいろんな話ができる神谷さんはみんなから引っ張りだこ。「今度はいつ神谷さん来てくれるかなぁ」と指折り数えて待っているのです。

 船の上では航海士として、船を港から港まで安全に航海させるのに気を配っています。船にいると、遮るもののない星空、朝日や真っ赤に染まる夕日、そしてイルカやクジラなど、地上にいるととても出逢えない数々の場面に出会うことができます。一度でいいから、そんな体験をしてみたいなぁと私なんかは憧れてしまうのですが、やはり仕事の場面なので、そこまでの感動はないのだとか。少しのミスが大事故に繋がりかねない緊張感のある仕事なので、気を緩める暇がないのでしょうね。

けれど、やっぱり船が好きな神谷さんは、自分のボートも持っていて、休みに愛知にいる時は、そのボートで海の上で過ごしているのでした。今度ひとのまの子どもたちをそのボートに乗せてあげたい、と屈託なく少年のように笑う神谷さん。子どもたちだけじゃなく、ぜひ私も乗せてくださいね。泳ぐのは得意ですから(笑)

 先日の台風の時は、アンカーが外れてしまうくらいに波がひどく、そのアンカーを戻しにいった時に、波をかぶって甲板の上でゴロゴロ転がってしまったという神谷さん。やはり、自然相手の仕事は常に命がけなのです。

 そうして、いずれは念願の世界一周を果たし、ヘリコプターかセスナを操縦できるようになって空も飛びたいと思っています。これまでも飄々とやりたいことを叶えてきた神谷さんだから、きっとそれもいつの間にか叶えていることでしょう。そして、ひとのまの子どもたちはわくわくしながらその話を聞くにちがいありません。

「僕はいいかげんだから」と神谷さんは言います。でも、私は思います。それは「いい加減」なのだと。人の力では抗いようのない自然の中に身を置いていることや、旅を通して神谷さんが得てきたものが、そんな神谷さんの生き方につながっているのかもしれません。神谷さんは坊主頭なのですが、Tシャツ短パン姿でガリガリ君をかじっている姿は、「三丁目の夕陽」に出てくる少年そのもの。そして、ある時は、その姿がお坊さんのようにも見えます。子どもたちが何の警戒もなく神谷さんに近寄れるのは、神谷さんが自分を飾らずに、いいも悪いも素のままを出しているからなのでしょう。何かを装っていると、子どもたちはそれを敏感に感じ取ります。神谷さんの生き方は嘘がない。それを子どもたちが教えてくれています。

 これから先、神谷さんはどんな旅をしていくのでしょう。そこにはどんな出逢いが待っているのでしょう。また、そんなお話を聴かせていただく日を楽しみにしています。
今日の人144.林 不二男さん [2015年05月18日(Mon)]
 今日の人は和楽グループ(法人5、学校法人1、協同組合1、美容室・貸衣装・エステ・美容学校)代表であり、共育和楽塾塾長としても、さまざまな講演会、セミナー、コンサルティングなどに引っ張りだこの林不二男さんです。
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 林さんは1964年に、富山市で生まれました。小さい頃は、もっぱら外で遊ぶわんぱくな男の子でした。林さんが4歳の時に、お母さんは和楽美容院を創業し、大変忙しかったので、林さんは親戚やご近所に預けられるのが当たり前の日々でした。寂しくないと言えば嘘になりますが、ご両親が自分に愛情をいっぱい注いでくれているのは十分感じていたので、むしろその環境を楽しんでいたといっても過言ではありません。

 小学校に入っても、野球や外遊びが大好きでしたが、「店のお姉ちゃんたちのおかげで
たべさせてもらっているんだよ」と躾の厳しい両親の元、店が忙しいときはお店の手伝いをする日々だったそうです

 小学校2年生からは千石町に住んでいたので、いわゆる街の子でした。周りは小学生の時から寿司栄(富山では有名な寿司屋)で食べているような裕福な子が多く、林さんもそういう友だちと遊んではいましたが、ご自身はとても厳格に育てられお小遣いも友人の数分の1でした。小学校3年生の時の夢は学校の先生でした。この夢はすっかり忘れていたのですが、総曲輪小学校130周年の時に、当時埋めたタイムカプセルを掘り出して、それで先生になる夢を持っていたことを思い出したのです。当時担任の先生が好きだったので、先生になりたいと書いた不二男少年でした。
 5年生の時になると、夢は美容師に変わっていました。バリバリ働き店も繁盛し、広げている母の姿がとてもかっこよく見えたのでしょう。当時美容師になりたいと言っている男子はいなかったので、笑われましたが、林さんはどこ吹く風でした。子どものころから度胸が据わっていたのです。

 中学生になると、本格的に美容師になりたいと思っていました。いや、もう一歩進んで美容室の経営者になりたいと思っていました。お父さんからは「鶏口牛後」を言われていましたから、無理していい学校に行くより、できる所でトップに立とうと思っていました。林さんには反抗期というものがありませんでした。ご両親とも厳格でしたが、心から尊敬していました。ご両親はお店がどんどん大きくなるときに、スタッフの教育にもとても厳しい人でした。そういうご両親の真摯な背中を見て育った息子には親に反抗するなどと、思いもよらないことでした。
 なんと林さんの家は門限が6時でした。それは高校に行っても変わりませんでした。そして林さんはそれを完璧に守ったのです。周囲が煙草を吸おうが麻雀をやろうが、流されることはありませんでした。ただなんとなくやる、というのは大嫌いでした。そして当時から徹底的にプラス思考でした。
 高校は富山北部高校に進み、軟式テニス同好会に入りました。同好会は2年生の時に部に格上げしたのですが、林さんは軟式テニスよりもクラスメイトとするバレーボールに夢中になりました。当時のワールドカップ女子バレーボールの影響を強く受けていたようです。毎朝、昼休みとバレーボールにのめりこんでいました。

 高校3年生の頃、林さんは東京の大学へ行って経営の勉強をしようと考えていました。美容師になるためには東京の情報は大事だし、いったん東京で就職して、いずれ富山に戻ろう、そう考えていました。そして帝京大学に進学したのです。

 林さんはお父さんに資産運用でマンションを買ってそこに住むことを提案しました。けれど、お父さんは人脈を広げるためにも富山県学生寮へ行けと強く勧めました。このお父さんの勧めは林さんの人生を大きく変えるきっかけを作ってくれました。富山県学生寮には東京大学や早慶の学生もいれば、偏差値の低い大学の学生もいました。これだけ色々な大学の学生がいるのが楽しくて仕方がなかった。そして、大事なのは偏差値ではなく、人間力だということをここで痛感したのです。2年の時には寮の自治会のトップに立ちました。寮の様々な行事をこなすうちに、将来、リーダーとして生きて行こうと決めたのでした。
 富山県学生寮のOBには政財界のトップクラスの人材が多く輩出され、寮出身というだけで大きなネットワークができました。お父さんに寮に入ることを勧められた時、なぜそんなに勧めたのか「あとからわかる」と言われたのですが、その言葉通り、このネットワークは本当に大きな財産になったのです。
 
 大学ではアーチェリー部に入りました。ここに1年後輩で入ってきたのが後の奥様になる人です。通学が一緒の方向だった彼女を明治大学の五月祭に誘い、6月30日から交際を始め、7月7日の七夕の日にはもうお母さんに彼女を紹介していました。彼女の両親にも付き合う前に「お嬢さんとお付き合いさせていただきたいと思っています」と挨拶に行きました。昔から筋を通すことを徹底していたのです。デートの後は必ず彼女の家の居間にあがり、将来の夢や富山の両親に対する感謝と尊敬の思いを語っていたそうです。

 大学の時から日経流通新聞(現日経MJ新聞)を読んでいて、記事から未来を予測するということもしていました。当時はバブル期、周りをを見ても明確にやりたい仕事があった人は少数で、皆仕事の条件だけで就活をしていたようです。

 大学4年の時に知人から勧誘された自己啓発セミナーで、林さんは大きな衝撃を受けます。ベーシックで感動し、卒業式も参加せず、箱根の山奥での合宿、4日間のアドバンスコースに進みました。その最後に「ノアの箱舟」というワークをやったのですが、そのワークは「今いる30人の中から3人だけを選んでください」というものでした。選ばなかった残りの26人には「あなたは死にます」と伝えなければならない極めて厳しいワークです。この4日間でみんなと深いところまで話し合って、仲良くなっていたし、自分は3人の中に選んでもらえるかもと思っていました。けれど、ものの見事に全員に「林さん、あなたは死にます」と宣告を受けました。学生生活で自信をつけていた林さんは大きなショックを受けました。この体験が、「自分はもっと人のために生きよう」と思ったきっかけになったのです。
 自己啓発セミナーを40代になってもむやみに受講している人もいますが、林さんはそういう類のものは、そんなにいくつも受けるものじゃないと考えています。変わる時には一発で変わる!変わらない人は変わる気がないからいくら受講しても何も変わらない。林さんはノアの箱舟の応用ワークを自社の新人研修などで使うことがありますが、素直な社員たちも見事に一度で変わります。
 林さんはハウツー本も一切読みません。そんなものに頼っているようじゃ絶対にいけないと。ハウツー本や自己啓発セミナーより自分のブレない軸を実践で作ることが大事です。
自分や世の中がどうあるべきか。何のために生まれてきたのか。自分の使命は何か。そのために今を生きることが何よりも大切だと考えています。

 こうして大学を卒業した林さんは、マネージメントも学べて美容師になれる美容室(株)田谷に就職しました。実は、就職する前に美容商材卸問屋がいいか、美容メーカーがいいか、それともこの美容室がいいか、3択で迷っていました。その時に相談したのは、会社の経営者でもあった彼女のお父さんでした。彼女のお父さんに「現場に入ったほうがいい」とアドバイスを受け、最終的に田谷(美容師)を選んだのです。こういう時に、彼女のお父さんに相談しちゃうところが林さんの素敵さの一端を表していますね。

 就職して最初の新人研修、50人の新人の中で林さんはいろんな場面で一人だけ積極的に手を挙げて発言していました。将来の夢はと聞かれると「田谷の営業部長です」と答えていましたし、それだけ元気な新人職員なので、社長の目にもよく止まりました。ヘアケア商品の販売でも4月は売上1位、5月は1位を逃して社長から「大したことないな」と言われたのに発奮して、6月からは1位。その後も常にトップ争いをしていました。
 バブルの真っ盛りで不動産屋の同世代のお客さんから「君は、大卒なのに、なんでこんなお金にならないことをやってるの?」と言われたことがあります。でも、林さんは当時手取り9万でずっとシャンプーをやっていようが全く気になりませんでした。むしろやりたい道に進んで楽しかった。お金をいただいて勉強できることに感謝していました。
 若手社員から6名だけ選抜される青年将校にも選ばれ、美容専門誌「美容と経営」の勉強会にも参加。その時から企画書を矢継ぎ早にあげていました。美容室にプリペイドカードを導入したらいい、フロンガス対策が必要だ、当時はまだ言われていなかったことを先取りして企画書にした林さん。もっとも時代の先を行き過ぎて、その意見が採用されることはなかったのですが。
 船井幸雄さんの異業種勉強会にも当時から参加していました。船井イズムをしっかり継承できているという自負があります。

 23歳で彼女にプロポーズ。お父さんから「来週もらいうけに行くから」と言われトントンと話が決まったのでした。あまり長い間女性を待たせるものではない、そういうご両親の気配りでした。そして24歳で彼女と結婚したのでした。

 就職して3年目、目からウロコ事件が起きます。それは松山の代表的な美容室、リオ美容室の創業者である橋本勝子さんとの運命の出会いでした。橋本さんはおっしゃいました。
 「あんた、今帰ったほうがいいんじゃない?営業部長になってから帰るのも一つだけど、26歳の目線で22人の和楽のスタッフと一緒にがんばったらいいんじゃない?営業部長になって肩で風切って何億も動かしたからって、帰っても誰もついてきてくれないよ」

本当にそうだと思いました。もちろん、葛藤はありました。就職して2年目の駆け出しの時に、結婚式に社長自ら出席したいと言われるほどかわいがってもらいました。それが3年目にやめるといったのですから、社長は引き留めに飛んできました。それはとても光栄なことでした。しかしながら林さんは社長に言いました。
「社長も昔はゼロからスタートされたではないですか。私もそうしたいのです。」
社長は納得してくれました。田谷イズムも十分に林さんの中に染み込んでいました。こうして、26歳の5月に、奥様と共に富山へ戻ってきたのです。

 帰ってくるにあたって、林さんはハサミを置くことを決めました。創業者ではない自分がプレイングマネージャーをやっても、中途半端になる。マネージメント一本で行こう、そう決意してハサミを置いたのです。ハサミを置いた以上、もうスタッフが頼みの綱になります。ここで林さんに新たな覚悟と決意が生まれたのでした。

 こうして社長である父や創業者である母と社員をつなぐパイプ役として帰った初年度からさまざまに動き始めました。帰った当初から新人教育を担当したり、様々な企画をしてみたり「不易流行」を意識し、継承から進化へ突き進んでいくのでした。
 1年後、お父さんからJC(日本青年会議所)に入会しろと言われます。富山県学生寮の時もそうでしたが、とにかく人脈を大事にしろというのがお父さんのポリシーでした。お前は2代目だからどんどん外に出ろ、そんな言葉に押されて、JCに入会しました。
 入会してみると、自分以外の同期は知り合いが多い感じでした。知り合いが全然いない状態で入会した林さんでしたが、仕事を切り上げて活動するのだから何か学び取ろう、何か役に立つことをしようと一生懸命でどんどん周りに注目されるようになっていきました。あるとき人脈を広げたい、という林さんに「それはちがうよ」と言ってくれた先輩がいました。富山いすゞ自動車の池田徳郎さんです。池田さんはおっしゃいました。
「林君、人脈より人望だよ」
ハッとしました。それからは人脈つくりより人望という言葉を胸に活動しました。
まさに人は人でしか磨かれない、それを教えてくれたJCでの活動だったのです。
 2002年に翌年の理事長に立候補し2003年にはJCの理事長に就任しました。
しかしそのプロセスには人生の反省を促される色々な出来事もあったようです。そして己の人生をもう一度見直しました。人に認めてもらえる理事長になるべくがんばろうと。

 2004年は日本青年会議所常任理事兼北信越地区会長として、地区や全国行脚することで、富山JCのポテンシャルの高さを実感します。そして、この伝統を伝えていかなければと思った林さんは、後輩の育成にも力を入れ始めました。
その一環で共育和楽塾も誕生したということです。

 共育和楽塾は未来を切り拓き、自律した自立型人間になるため、自ら学び、自らが変わり、行動する。そんな人財の育成を目指している塾です。塾長はもちろん林さん。口コミでどんどん広がり、今年は富山だけでなく、東京、軽井沢、金沢、魚津でも開催しています。全国に100名を優に超える塾生がいます。

 もちろん、和楽グループの代表としても日々、人財育成の日々です。「和やかに楽しい人財育成」LOCAL BLANDとして小さくて強い会社づくりを目指し、様々な取組みをされています。社員満足が顧客満足を得る。ですから、社員のことを徹底して考えた共育がなされている、それが和楽グループなのです。
「すなお」「プラス思考」「損得より善悪」「利他精神」「矢印を自分に向ける」「因我にあり」などの和楽スピリッツを伝承し、徹底して「信じて」「認めて」「任せて」います。
そんな林イズムの元で、たくさんの人財が育っているのです。

 自らも常に仕事と人生を楽しんでいる林さん。林さんは特別な夢は持ちません。今を真剣に生きていると次が見えてくる。そして、またその次に真剣に取り組んでいけばいい。どこまでも前向きでパワフルです。

 みなさんも一度林さんの講演を聴いて、そのエネルギーに触れてみてください。きっと帰り道はモチベーションMAXになっているに違いありません。
今日の人143.書家satoshi(片山諭志)さん [2015年05月16日(Sat)]
今日の人は、書家として大活躍で先日個展を終えたばかりのsatoshiさんです。
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satoshiさんは1975年7月19日に現南砺市の旧福野町で生まれました。心室中隔欠損症という先天的に心臓に穴が開いている病気で3歳の時に金沢で手術をします。小学校低学年の時は、体育は禁止されていました。
また、小さい頃は絵を描くのがとても好きな子でした。絵と言ってももっぱら写し絵だったのですが、時間も忘れて描いていました。

小学校3年生の時に、ソフトテニススポーツ少年団に出会います。その事が後の人生を大きく変えることになります。
この頃になると、普通に運動してもよくなっていたこともあり、ソフトテニスの練習にのめりこんでいきます。負けず嫌いということもあってメキメキ力を伸ばし、小学校5年の時には県大会で優勝。その後も県内では無敗でしたから、小6の時には本気で全国優勝を目指していました。

中学校ではソフトテニスが強くなることしか考えていませんでした。部活だけでなく、自主練でランニングや筋トレをし、中2からプロテインを飲み始め、とにかくテニス一色だったのです。中2、中3と北信越大会に出場。北信越大会ではベスト4に残入ると、全国大会に出場できます。そのことを目標としてやってきた中3の北信越大会でベスト8まで進み、ベスト4を決める大事な試合で3−1とでリードし、マッチポイントを2回とります。しかし、ペアが2回ともミスをし、そこから流れが変わり、3−4で負けました。(ソフトテニスはダブルスが主流)本当にあと一歩のところで全国大会を逃したのです。
けれど、そこでペアを責めませんでした。マッチポイントを2回も逃し、その後のプレーで気持ちを立て直せなかった自分の弱さをひしひしと感じていたからです。

高校は県外の強豪校に進学したかったのですが、母親が反対でした。地元の福野高校には、尊敬する先輩が行っていましたが、指導者がいませんでした。そしてどうしても来てほしいと声をかけてもらっていた高岡工芸高校へ進学します。

今でもそうなのですが、当時から硬派でかっこよく、とてもモテました。城端線と氷見線を乗り継いで通学していたのですが、通学途中の女子高生たちのあこがれの的だったのです。けれど、本人はテニス一筋でした。当時からメンタルトレーニングや栄養学の本を読み、常に強くなるにはどうすべきかを常に考えていました。「こうする!」と自分で決めたことは徹底的にやる超ストイックな高校生だったのです。

高校2年の時は、先輩とペアを組んで、県総体優勝。先輩が引退し、ペアを組んだ同級生は高校に来てからソフトテニスを始めたような素人に近い選手でしたが、それがきっかけでものすごく勉強になったとsatoshiさん。なにしろ逆境で燃えるタイプ。3年になってから、1,2年の時の倍の練習をこなしました。ペアは下手だけれど、すごく純粋で素直で努力家でした。諭志さんは高校2年からキャプテンを務めていたのですが、その時から先生は部活のやり方に一切口を出しませんでした。練習メニューから何から何までsatoshiさんが決めていましたし、部員もそんな諭志さんを慕っていました。そうして、3年の時は先輩も成し遂げられなかった団体・個人も優勝を果たしたのです。

中学生の頃から大学はテニスの名門「日体大」に行くと決めていた事からスポーツ推薦入試を受け、セレクションでも推薦枠である8人の1人に選ばれ、日体大でさらにソフトテニスへの道をひた走ることになりました。大学へ入ると合宿所に入寮するのですが、ここでは1年生から4年生までが同部屋になります。そして、1年生は3年生の、2年生は4年生の付き人になるのですが、satoshiさんはいきなり、当時の大学チャンピオンの付き人に。とても緊張もしましたが、大変うれしいことでもありました。しかし、一時たりとも気を抜ける時間はありませんでした。なにしろ1年生の門限は6時でしたし、先輩の付き人以外にも掃除当番や食事当番など様々な仕事もありました。

satoshiさんはいつも同級生の誰にも負けないくらい大きな声を出してひたすら頑張りました。常に1軍にはいたのですが、なかなか結果が出せずにいました。3年の夏の大会が終わった時、人生で初めてと言っていいくらいの挫折感を味わっていました。なぜ、これだけ真剣に取り組んでいるのに、結果がついてこないのだろう…。チームも不振だった時期でありそのことを見かねて、監督がいろいろなアドバイスをしてくれました。それがきっかけとなり、3年の秋からはおもしろいくらいに結果が出せるようになったのです。

そして大学4年の全日本学生選手権のダブルスで優勝。ついに日本一の栄冠に輝いたのです。

実は、大学に行く前から、卒業後は地元に帰って福野町役場に就職すると決めていました。スポーツ少年団に在籍していた時から、日本各地や海外との交流をさせてもらいコーチの方や役場の方々に大変感謝していました。そして今度は自分がスポーツで地元に貢献したい!そう思っていたからです。教職課程もとっていて、母校に教育実習にも行きましたが、自分は教師として子どもたちに接するのは何かちがうな、と感じたのです。もっとも、教育実習に行っている間は「あの片山さんが来ている!!」というので、生徒たちからも、そしてその父兄の皆さまからも熱い眼差しを一身に受けていたのですが…。当初の思いを曲げることなく、福野町役場(現在は南砺市役所)に就職して、体育施設の管理や事務仕事をし、夜は社会人選手としてソフトテニスに取り組みました。

社会人になって、まず思ったのは、なんて自由なんだろうということ。大学時代はずっと1分1秒に追われる生活でしたから、社会人になって初めて自由な時間ができたのです。卒業して最初の年は、神奈川国体で8位。富山県が国体のソフトテニスで入賞したのはこの時が初めてでした。そして2年目の熊本国体が2位。3年目の地元開催になった富山国体では3位、次の宮城国体では2位に輝きました。
北信越のインドア大会ではなんと6連覇、全日本クラブ選手権2連覇、東日本大会では2位と、社会人になってからも華々しい活躍を続けたのです。そうして、31歳の兵庫国体をもって現役選手から引退しました。

その後は本格的に中学生の指導に力を入れ始めます。指導に少しでも役立てたいと様々なジャンルの本もたくさん読み漁りました。コーチングのセミナーを受けた時には、今まで怒鳴り散らして教えていたけれど、子どもたちの力を引き出していないのは実は自分だった!と気付いて、指導方法を180度変えました。変える、直すというベクトルを選手ではなく、まず自分に向けるようになりました。福野中学校では、自分の学んだことを生徒達にわかりやすく伝えるソフトテニスクラブ通信も発行していました。そうして指導した生徒の中には、現在ナショナルチームで活躍している選手もいます。

そんな風に自分自身がいろいろな学びを続ける中で出会ったのが、福島正伸さんだったり、てんつくマンだったりしました。そして中学生にテニスを指導しているだけというのは何かちがうな、と感じるようになっていったのです。

もっと広い視野で何かしたい、そう思ったsatoshiさんは福野にてんつくマンを呼んで、てんつくマンの映画上映と書き下ろしのイベントを企画しました。インスピレーションで言葉を書く書き下ろしを見れば見るほど素晴らしいと思うようになりました。そして、自分も書きたいという思いが沸々を湧き上がってくるのを感じたのです。書き下ろした言葉を見て、涙を流して喜ぶ人たちがいる。自分の自己満足のためではなく、人のために書きたい、と心から思ったのです。

こうして6年前から筆を執るようになりました。書の心得があったわけではありませんが、書けば書くほどよくなると思い、毎週土曜の夜に富山駅の地下に座って書くことを1年間続けました。そして1年続けて確信に変わりました。これは自分が本当にやりたいことだということを。その時に、安定した公務員の職を辞めることを決意します。親や上司にはもちろん反対されました。けれど、昔から、決めたら引かないことを、ご両親は言われた時点でわかっていらしたのだろうと思います。むしろ説得に時間がかかったのは上司の方でした。

周りの人たちからも収入はどうするんだと心配されましたが、本人は一切そういうことは心配していませんでした。人のために、という強い思いがあった。これは俺の使命なんだ。もし、仮に収入がなくても、その時はバイトすればいい、そんな風に思っていました。

ちょうど役所をやめる前に役所近くの家で自殺した人がいました。これが現実だ、でもやっぱり自分はこれを止めたい。そのために書きたい。

最初の年はあちこちのイベント会場に出かけて書いていました。1年目は結構売れたのですが、2年目にガクンと落ち込んだ時期がありました。何かを変えるタイミングかもしれない。それまでは比較的丸くてかわいい字で書き下ろしを書き、パステルで色も付けていましたが、そこから作風を変えました。すると客層も変わって自分の中でも変化を感じていました。今までは誰かのためにと思って書いていたけれど、自分が「心から書きたい」に変わっていったのです。こうして、書の専門書からも本格的に学び始めました。

阪神百貨店に出店していたとき、たまたま隣のブースの女性が創作服を作っている人で、彼女はパリでファッションショーや個展もしていると言っていました。彼女ができるなら俺にもできる。なんだか妙な確信が生まれて、satoshiさんは3年目にニューヨークに一週間滞在し、書き下ろしをしてきました。ニューヨークなら、いろいろな国の人々を感じられる、そして最先端のアートが見られる!そしてそんな最先端のアートが集まっているにもかかわらず、書き下ろしは日本にしかありませんでした。書き下ろしは日本の誇りなのです。
ニューヨークに行ったのは2012年。東日本大震災に対する海外からの支援に対して感謝の思いを伝えたいというのもありました。そして、予想通り、とても楽しく充実した一週間になりました。路上に座った瞬間そこにずっと前からいたかのような感覚があり、とても落ち着きました。そんな中で最初から3時間ぶっ通しで書き続けました。来てくれた人の名前はすべて漢字で書きました。皆さんその書き下ろしを受け取って大喜びでした。通訳も頼んでいたのですが、訳してくれたのを聞いた時の皆さんのパフォーマンスがすごかった。ハグされたり、全身で喜びを表現されたり、それらの体験を通して、satoshiさんはなお一層、書き下ろしに確信を持ったのです。そして、言霊を大切にする日本の文化を改めて感じました。
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翌年には、再びニューヨークを訪問しチェルシーのギャラリーで企画されたの日本人の書展にも3点出品。その後、ロンドンとパリでも1週間ずつ滞在し書き下ろしをしてきました。

帰国してからは、本格的に個展へ向けての準備に入りました。イベントに出張する機会も減らし、創作中心の生活でした。個展会場もどこがいいか、下見を重ねました。そうして思い描くものと一番しっくり来る富山市民プラザを会場に選びました。

satoshiさんの作品へのこだわりは半端ありません。個展に出した101点の全ての空間設計に1ミリ単位にまでこだわりぬきました。それは、落款を押す位置を決める時でも、作品の余白を作る上でも、表具する上でも、作品の配置を決める上でも変わりありません。1ミリで表情、表現が変わる、だから妥協という言葉は諭志さんの中にはありません。

そうして開催された初の本格的な個展には、多くの来場者が訪れ、またたくさんの人が驚くほど長い時間会場で作品に触れてくれました。心地よくてずっとこの場にいたかった、そんな感想がたくさん聞かれたのです。作品を搬入して展示したばかりの時と、最終日では、明らかにその場の空気が変わっていました。作品とお客さんが創り出す空間というものをひしひしと感じた時間になりました。
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個展をこれからも続けていきたい、とsatoshiさん。もし、自分の命があと一日しかなかったら作品を書く、それくらい書くことが一番幸せで楽しい時間なのです。

そして今やりたいと思っていることがもう一つあります。それは子どもたち、特に中高校生にいろいろな生き方を伝えていくこと。そのために「道プロジェクト」を立ち上げました。それぞれ自分の道を歩いている南砺の大人5人が講師となって学校などで講演活動を行います。子どもたちにわくわくする人生を伝えたい−。正解なんてないんだよ。他の人じゃなく自分がわくわくするほうを選んで自分らしく生きてもらいたい。そんな思いで活動していきたい、そう思っています。そして、この講師はこれからどんどん増やしていく予定です。今の自分があるのもいろいろな生き方を見てきたから。だから子どもたちにもいろいろな生き方を見てもらいたい。

satoshiさんの創作は自分の体が資本なだけに、健康管理にも気を付けています。食材にもこだわりますし、野菜中心でほとんど自炊。基本外食はしません。そして、寝る前にはスクワットと腕立て伏せも欠かしません。
 
自然の中にいるのも大好きです。植物や樹木から学ぶことは本当に多い。そうして常に自然と自分の気持ちをリンクさせて物事を考えるようにしています。それが創作へのインスピレーションにもつながっているにちがいありません。

テニスラケットを筆に持ち替えても、自分に厳しく妥協しない姿勢はずっと変わりません。そんなsatoshiさんから、この先どんな作品が生み出されていくでしょうか。これからも目が離せませんね。
今日の人142.川田真紀さん [2015年05月02日(Sat)]
 今日の人は看板屋さんとしてたくさんの看板を製作し、また「なんと里山なりわい塾」で地元の間伐材で割り箸活用を進めたり、里山を守る活動について小学校などで特別授業をしたりして幅広く活躍中の川田真紀さんです。
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 真紀さんは福光生まれの福光育ち。小さい時は山の中を走り回るのが好きでした。背戸の川のほとりでおままごとをしたり、友達と秘密基地を作ったり…。でも、ある日、秘密基地で火を炊いているのを爺ちゃんに見つかってしまったからさぁ大変!真紀さんは蔵に閉じ込められてしまったのです。南砺市の家は大きくて、蔵のあるうちもたくさんあるのですが、蔵に閉じ込められるのはそれは怖かった。なにしろ蔵には光が差し込まないので、真っ暗になってしまうのです。それが幼心に怖くて怖くて仕方がなかったのでした。それ以外にも、何かいたずらをしたり時間を守らなかったりしたら蔵に入れられました。入れるのはいつもお父さん、そして出してくれるのはいつもおばあちゃんでした。

 真紀さんには弟がいるのですが、弟さんは体が弱く、いろいろな家の仕事をやらなくてもよかったので、不公平だなぁと感じていました。昔の家は家中みんな働き者で、まして農家もしていましたから、真紀さんも子どもの頃から働くのが当たり前、働かざるもの食うべからず、という感覚でいました。稲刈りの後の落ち葉拾いなども決まって真紀さんの仕事でした。
  
 おばあちゃんはいつも「女も手に職があるといい」と言っていて、父方のおばが3人共看護師をしていたこともあって、真紀さんもいつの頃からか将来は看護師になろうと思うようになっていました。一方、お母さんが独身の時からデザインの仕事をしていて、結婚後はペンキ屋さんで看板を作る仕事をしていたことも影響してか、デザイン関係にも興味がありました。それに真紀さん自身、美術の成績がとってもよかったのです。
 看護科かデザイン科か、乙女心は揺れましたが、高校の体験入学をした時に、高岡工芸の印象がよかったので、デザイン科に進むことに決めたのでした。

 実は若い時にデザインの仕事をしていたお母さんからは「あんたがおらんかったらこの家出て行っとったわ」とよく言われていました。「かたい子(富山弁でいい子という意味)でおれ」といつも言われていました。だから、かたい子が価値があって、かたい子なら愛してもらえると思っていた真紀さんは、かたい子でいるためにいっつもお手伝いをしていたし、先生にも可愛がられるようにしていました。
 事実先生にはとても可愛がられました。それが他の子には真紀さんばかりが贔屓されているように写ったのです。ある出来事がきっかけで6年生のある時期にクラスのみんなから無視されていたことがありました。でも、かたい子でいなくてはいけないという思いが強かった真紀さんは誰にも相談できず、ただ耐えました。そんな真紀さんにそっと励ましの手紙をくれた友だちがいました。偽名を使ってあったけど、それが誰かははっきりわかりました。本当に嬉しかった。

 そんな日々の中でのある集会でのことです。校長先生の話に真紀さんの心は大きく揺さぶられました。校長先生は仏教でいうところの七施のお話をしてくれました。その中に和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」 という話がありました。たとえイヤなことがあっても、笑顔でいる。笑顔でいると周りにいる人も笑顔になれる。そんな話だったのですが、それを聴きながら、真紀さんは自分の中の価値観がグワンと回転する感覚になったのです。
 今まで自分は自分のことを可哀想だと思い、してもらうことばっかり考えていた。だからいつもしてもらえないという不満を抱いていた。そうじゃない。自分が笑顔になって周りも笑顔にしていけばいいんだ!そう思ったのです。6年生でそう素直に思った真紀さんの感性がすごい!そして、もっとすばらしいのは真紀さんは思うだけではなく、実際にそれを実行したのです。そうすることで、真紀さんのことをシカトしていた友達が少しずつ真紀さんに話しかけるようになっていき、最後には真紀さんを無視し始めた一番の元だった人とも仲直りできたのでした。

 お父さんが本を読ませるのが好きだったこともあって小さい時から読書好きだった真紀さん。お父さんが仕事の時に砺波の図書館に連れて行かれ、そこで一日過ごすこともありました。それはちっとも苦ではなく、むしろ好きな本に囲まれる素敵な時間だったのです。

 中学校では美術部に入り、運動会のマスコットを描くなどもしていました。クラスで漫画を描くのが流行っていて、同人誌も流行り始めた頃でした。真紀さんも中3の時に同人誌を作り、学校で友達に売ったのですが、それが先生にバレて怒られて廊下に正座させられたこともありました。
 天然パーマなのに疑われて、先生に水をかけられたこともあります。パーマだと水をかけるとくしゅくしゅっとなりますが、天パだと水をかけるとまっすぐになるのです。それでまっすぐになったのですが、先生は謝ってくれなかったので、腹が立って五分刈りにしちゃったこともありました。でも、その年最後の給食についてきたケーキを先生が真紀さんにくれたので、少しは先生も悪いと思ってくれていたのかな、とその時思ったのでした。

 そんな少女時代を過ごして工芸高校のデザイン科に進んだ真紀さん。お母さんは賛成してくれたのですが、お父さんは工芸高校に行くことに反対でした。なにかうまくいかないことがあると、それみたことかと言われるので、絶対に言わないようにしていました。高校からは一番遠いところから通っていた真紀さんでしたが、そういうこともあって、親に送迎を頼むことはまずありませんでした。そうは言ってもやはり娘のことが心配だったのでしょう。よほど雪がひどいような日には迎えに来てくれました。

 卒業したらすぐ手に職を持ちたいと思っていた真紀さんは、最初伝統工芸の道に進もうかとも考えました。でも、加賀友禅の世界に入った先輩がちっとも楽しそうじゃないのを見て、気持ちが揺れました。ちょうどその頃はまだ、映画の手描き看板が出ている時代でした。映画看板カッコいいな、そうおもった真紀さんは看板屋さんに就職したのです。しかし、そんな簡単に映画看板を描かせてもらえるはずもなく、普通の看板ばかり描くことになったのでした。しかし、それでもプロの世界はやはり厳しく、最初は思うように描けない日々。常に先輩のしていることを見ないとちゃんとできない、そんな世界でした。でも、何度も失敗を重ねて、ある日フッと出来るようになる瞬間があるのです。それがとても嬉しかった。

 こうして少しずつ仕事を覚えていった20歳の時、ばあちゃんが亡くなります。その日の朝、ばあちゃんがむくんでいるのを見た真紀さんは「病院に行ったらいいよ」と言ってそのまま仕事に出かけたのです。その朝、ばあちゃんが笑いかけてくれたのに、真紀さんは視線を逸らして仕事に行ってしまった。そしてばあちゃんは病院に行かずに亡くなった。そのことが猛烈な後悔として残りました。
 だから、ばあちゃんの代わりにじいちゃんの世話は私がせんなん、そんな気持ちでいました。真紀さんは私がじいちゃんを見る、と言ったのですが、お母さんが仕事を辞め、じいちゃんの介護にあたったのです。しかし、お母さんは仕事を辞め、家に入ったことで大きなストレスを抱え込みました。そして、お母さんの後を継いで、真紀さんがペンキ屋さんに入ったのですが、相当に苛酷な現場でした。そして苛酷な現場から家に帰っても、じいちゃんの介護が待っていましたから、この頃の家族はみんないっぱいいっぱいだったのです。そんな中で弟さんだけは大学生で家にいませんでしたから、とことんこの子は苦労しないようになっているんだなぁと真紀さんは思うのでした。

 そのじいちゃんも2年後に亡くなり、お母さんはまたペンキ屋さんに戻ってきました。母と娘が同じ職場で働く…かなり厳しいものがありました。
 そんな時に真紀さんの気持ちを晴らしてくれたのが、オートバイでした。400ccのバイクを乗り回し、ツーリング仲間とあちこち出かけるのが何よりも楽しかったのです。

 その頃真紀さんは、ペンキ屋の社長が入会させてくれたローターアクトクラブの活動にも顔を出していたのですが、そこで知り合ったのが、旦那さんでした。6歳年上の彼は、千葉で働いていたのですが、うつの療養で実家のある城端町にいました。その時に2人は出会ったのです。
 真紀さんは彼の事情を聞いて、親切にしてあげんなん、と思いました。そうして一緒にカウンセリングの会に行って一緒に話を聞いたりしているうちに彼の状態がよくなっていきました。もしかしたら、私、この人のことを治せるかもしれない!そう思った真紀さんは、彼と結婚することを決意します。
 けれど両親は大反対でした。しかし、真紀さんは押し切りました。

 結婚後、彼は再起のために学校に行きたいと言いました。真紀さんも建築のことを学びたい気持ちがありましたから、2人で東京の専門学校に行くことにしました。昼は働きながら夜学の専門学校に通ったのでした。
しかし、お盆に彼の城端町の実家に帰省している時に、彼のご両親から「もうこっちに帰ってきてくれ」と言われます。その言葉にほだされて、結局二人で帰り、そのまま彼の実家で暮らすことになりました。

 城端に住んで2年程は前のペンキ屋で働いていたのですが、ある人間模様を垣間見たことがきっかけでそこを辞め、仕方なく、という感じで独立しました。それが20年程前のことです。

 その後、婦人会で出逢った人から頼まれて、看板屋の傍ら、学校の心の相談室で支援員もやりました。本好きだったこともあり、図書室で司書の補佐もやりました。心の相談室ですから、発達凸凹を抱えた子たちがやってきます。やりがいもあって13年やりました。しかし、自分には専門的なスキルがないのに、そういう凸凹のある子の相手をするのはどうなんだろう、次第にそう感じ始めた真紀さんは、ちゃんと専門的なスキルを持っている方に支援員をバトンタッチしました。

 そうして支援員を辞めた時に、ちょうど「なんと里山元気塾」に入りました。里山で水害が起こるのは、ちゃんと山の手入れをしていなかったから、そういう話を知っていたので、自分にもできることを探したい、そういう気持ちが芽生えました。
 そして真紀さんが考えだしたのが、「きくばりプロジェクト」でした。柱や建材にならない木でも割り箸にすることはできる。そうして里山の木の手入れをすることで、里山が荒れていくのを防ぐことができる。そしてそうやって作った割り箸の袋詰を福祉作業所の方に頼みました。この袋がまたとても素敵です。
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また子どもたちとワークショップも開催しています。変わらない山河を子どもたちに残したい。それはひいては、未来の子どもたちのためにやりたいという自分のためなのだと真紀さん。

友人と一緒に3か所で手植え手刈りの稲作も始めました。完全に自給自足生活というわけにはいかないけれど、自然と共に暮らす、それがとっても心地いいのです。

 そして、つい最近有志と「道プロジェクト」もスタートさせました。真紀さんを含むそれぞれに自分の道を歩いている南砺のスペシャリスト5人が講師になって学校で講演活動を行います。子どもたちにわくわくする人生を伝えたい−。何が正解なんてないんだよ。他の人じゃなく自分がわくわくするほうを選んで自分らしく生きてもらいたい。そんな思いで活動していきたい、そう思っています。

 南砺の地で、しっかり地に足をつけて活動を続ける真紀さん。きっと真紀さんと一緒に活動したいという方の輪はこれからますます広がっていくことでしょう。これからもその素敵な生き方をたくさんの方に伝えていってくださいね。