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 今日の人はMETLIFE生命シニアコンサルタントであり、全世界の生命保険コンサルタントのトップセールスマンのわずか1%の方だけがもらえる最高のタイトルMDRT(Million Dollar Round Table) の会員でもある鈴江唯史さんです。
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向かって右が鈴江さん

 鈴江さんは1967年に神戸で生まれました。小学校3年生までは明石でのびのび過ごす少年時代を送ります。暗くなるまで外で遊び、スポーツがとっても得意な男の子でした。小学校3年生までは巨人ファンだったのですが、小3の時に甲子園に連れて行ってもらってからは阪神ファンに。団地の廊下にゴザを敷いて友だちと野球盤に興じたりもしていました。鬼ごっこや虫捕りも大好きでした。その当時はどこにでもあったゴミの焼却炉に粘土で作った器を入れて焼いて、それを磨いて仕上げたり、当時の子どもたちはいろんなことで上手に遊んでいたものでした。

 そんなふうにのびのび過ごしていた唯史少年でしたが、小学3年生の時に明石から神戸のニュータウンに引っ越します。公立の小学校でしたが、そこはどちらかと言えば進学モードで勉強熱心な小学校でした。転校したクラスの担任の先生はいつも竹棹を持ち歩いてバンバン叩く厳しい先生ではありましたが(当時はそれが当たり前でもありました)、ちゃんとできるとものすごくホメてくれる先生でした。ほめられるとやはりすごくうれしくて、鈴江さんは勉強するようになっていきました。とはいえ、勉強ばかりしていたわけではありません。なにしろスポーツが大得意ですから、ずっと野球もやっていましたし、マラソン大会に出ると優勝です。運動会ではいつもリレーのアンカーとして活躍し、2〜3人ゴボウ抜きしてゴールしたりしていたものでした。

 家ではパートで帰りが遅いお母さんに代わって、洗濯物を取り込んだりお米をといだり、朝はゴミ出しをしたりするとっても優しい少年でした。
昆虫図鑑や植物図鑑が大好きで、お母さんが植えた木を挿し木して増やしたりもしていました。イチゴ、あじさい、コスモス、南天、いろいろな植物を育てるのも好きでした。
恐竜の秘密や宇宙の秘密といった秘密シリーズも大好きで、欄外に書いてあるミニ知識まで熟読していたものです。

 担任の先生にほめられて勉強ができるようになると、中学受験も考えるようになりました。どうせなら家から通える一番いい所に行きたい。鈴江さんはあの名高い灘中を受験しようと決意します。こうして、まず灘中の受験専門の塾を受験しました。入塾テストで400点以上とらないと入れないところ、鈴江さんの点数はなんと401点。こうして無事入塾を果たした鈴江さんは塾に通い始めました。寺子屋的な雰囲気のところで、先生は剣道の先生ということもあり、礼儀にもとても厳しいところでした。毎日決まったページの宿題があり、それをキチンとやっていたとってもマジメな鈴江さん。しかも各教科何分以内に終わらせようと自分にノルマを課してそれを忠実にこなしていたとってもストイックな小学生でした。ですから、最初500番台だった全国模試の成績が、なんと5年生の終わりには全国2位になったのです。しかし、6年になって要領よく宿題を終わらせることを覚えると、成績が下がりだし、夏休み前に100番台から外れます。これはいけないと軌道修正し(小学生でできるところがすごい!)また全国模試で一桁台を連発するようになっていったのでした。

 こうして勉強にいそしんでいる合間に、スポーツにも駆り出され、兵庫リレーカーニバルでは予選で兵庫県1位、決勝でも3位の成績を残します。100mは県で1位、勉強は全国模試で一桁だなんて、天は二物を与えずどころか、まったく正反対の小学生時代の鈴江さんなのでした。この頃、鈴江さんは将来日銀総裁になりたいと思っていました。これだけなんでもできるのだから、きっと自信に満ち溢れた小学生だったことでしょう。でも鼻持ちならない自信家というふうではなく、友達もたくさんいる人気者だったのです。

 そしてこれだけ忙しいのに生徒会活動にも参加していて、鈴江さんは副会長として会長を補佐していました。塾があって忙しいので、会長職はできないけれど、支える方ならできる、それが鈴江さんなのでした。今も全国の社長さんを支えている鈴江さんですが、その基盤はもうこの頃すでにあったのかもしれませんね。

 そして迎えた灘中の受験。不思議と緊張はしませんでした。というのも、その時鈴江さんの中には合格するイメージが鮮やかにあったのです。受かって喜んでいるシーンまでもが具体的な映像で鮮明に浮かびました。そうして、その通りに超難関の灘中学に合格を果たした鈴江さんなのでした。

 こうして灘中に入学し、最初はソフトボール同好会に入ります。運動神経抜群ですからいきなりレギュラーになり、市大会、県大会も勝ち進み、近畿大会まで進みました。練習がハードなので帰ってきて寝るだけの生活でほとんど勉強しなかったところ、赤点を取ってしまいます。親にもこのままだとダメなんじゃないかと諭され、監督に背番号を返しにいった鈴江さん。もちろん、残念な気持ちもありましたが、何が何でも続けたいというほどの熱さはなかったのでした。

 その後は180度方向が違う感じの物理化学研究部に入部します。灘中〜灘高は中高一貫校ですから、鈴江さんは6年間、この部に籍を置くことになりました。まだ今のようにロボットコンテストもない時代でしたが、全てをゼロから自分たちで作ることがとてもおもしろく感じました。秋葉原に次ぐ日本第二の電気街である日本橋(大阪)でパーツを見て回ったりもしていました。
 物理化学研究部の向かい側がアマチュア無線部で、そちらにも誘われて入部した鈴江さんは中1にしてアマチュア無線の資格を取ります。こちらは高校生になって部長にもなりました。真夜中に学校に集合し、守衛さんに見つからないように部室に板を貼り付けて電気が漏れないようにしながら南極の越冬隊と交信したりしていました。交信は簡単にできるわけではなく、無線の電波をちょうどうまく電離層に反射させないといけないのです。そうして交信できるとQSLカードがもらえるのですが、このカードがもらえることがアマチュア無線をやっている人にはとても嬉しいことなのでした。

 灘高は誰もが知っている超難関校ですが、実にバンカラな男子校なのです。校則なし、生徒手帳なし、制服はあるにはあるけど着て行かなくてよし、鈴江さんにとって素のままでいられるとてもおもしろい学校でした。東大や京大に行くのが当たり前のような学校なので、みんな勉強三昧かと思えばさにあらず。鈴江さんが高3の時は阪神が優勝した年で、甲子園のチケット販売の時はクラスには生徒が3分の1しかいないという感じでしたが、それに目くじらを立てるような先生もいませんでした。旅に出たり、街に出たり、飲みに出たり?と自由闊達に過ごす中で将来の日本を担う人材が育っていくのだろうなぁと鈴江さんの話を聴きながらつくづく思いました。逆に詰め込み式で規則に縛られた中高一貫校ではそういう自主性は育たないのではないか、それこそいわゆる勉強は出来ても何も自分では決められないそんな人間を育ててしまっているのではないか、とそういう危惧も覚えてしまうのでした。

 鈴江さんも部活の他にも友だちと青春18切符で東京に行ったり、Wonderful KOBE(今年で創刊50周年になる神戸の情報誌)に載ってるお店を制覇すべく帰り道に神戸の街をあちこち歩いたり、女子校の文化祭に顔を出したり、いろいろなことをしていました。もちろん自分の学校の文化祭や体育祭でも活躍。運動神経抜群なのは相変わらずでしたから、バレー部やバスケ部の試合に駆り出されることもあるくらいでした。

 高2の時から灘高のOBの先生が開設されているアットホームで塾的な予備校に通っていたのですが、灘高は進度が進んでいることもあって、高2にして高3のクラスに入りました。そこで1歳上の高3の女の子とお付き合いしました。一緒にお茶を飲みに行く程度のかわいいデートでしたが、1歳違うので彼女が大学生になった時に、テニス等に誘われたりもして、高3の時に(つまり受験生の時に)よくテニスにも行っていました。灘高OBの予備校の塾長もおおらかな方で自らもテニスの会を開いたりする方だったのでした。

 高校2年の時の化学の先生の授業がとてもおもしろく、立体異性体の話などは身を乗り出して聞いていた鈴江さん。そうして自分も化学の道に進もうと思います。その頃の夢はノーベル賞を取ること。そして、灘高の生徒にとってはそれは決して絵空事ではないといってもいいのでしょう。
 
 大学に入ったらアメリカンフットボールをしたかったこと、そして化学をやりたかったこともあって京都大学を受験。実力的には合格圏だったのですが、残念ながら現役では不合格になってしまいました。きっと鈴江さんにとって人生で初めての挫折感を味わった時だったのではないかと思います。その後、大阪の予備校で授業料を免除された特待生になりました。けれど、授業を抜けて淀川沿いでソフトボールやサッカーをいつもやっていた浪人時代。とはいえ、模試の成績では十分京大に合格できる判定でした。これなら東大でも大丈夫じゃないか?そう思った鈴江さんは次の年は前期で東京大学、後期で大阪大学を受験。しかし、直前に志望校を変えたこともあり、大阪大学の二次試験対策は全くと言っていいほどやっていませんでした。共通一次は1000点満点中、910点という高得点でしたが、結果は残念ながら不合格。なぜ最初の志望通りに京都大学を受けなかったかなぁ・・・後にこの後悔に苛まされることになるのでした。二次募集を調べたところ、化学系で受けられるのは岡山大学だけでした。そうして不本意ながら岡山大学に進学します。

 大学時代は超ストイックに過ごしました。アメリカンフットボール部に入部し一日五食食べる生活。外食ではあっという間にお金がなくなってしまうので、自炊でまかなっていました。小さい時から家の手伝いをしていたので、家事はあまり苦になりませんでした。毎日毎日練習、そして自主トレーニング。最初ベンチプレスでは30kgも持ち上げられませんでしたが、1年もたたないうちに100kgあげられるようになった鈴江さんは2年生にして控えながらアメフトの花形ポジションのクォーターバックに。いろいろしんどいこともありましたが、絶対にやめませんでした。一緒に入った灘高出身の学生がアメフト部をやめたこともあって、自分がやめたら灘高のヤツって勉強だけだろ、と言われそうでイヤだったし、コンプレックスもありました。高校時代に仲のよかった友達はみんな東大や京大に行っている。せめて体育会で理系で活躍しているということでもないと、彼らと一緒にいられないんじゃないか…そういう気持ちが強かったのです。本流に戻りたい、そんな気持ちが常にありました。きっと周囲が思う以上に本人はつらかったのだと思います。自分の存在価値を見出すためにも必死にストイックになっていたのかもしれません。

 1年の時は半月板損傷で手術、2年の時は胸の手術で夏の合宿に行けなかった鈴江さんでしたが、3年の時からレギュラーのクォーターバックとして試合に出るようになりました。指示を出すポジションなので、年上の4年生にも指示を出さなければなりません。それはなかなか大変ではありましたが、大きな学びにもなりました。全体練習は午後4時半に始まるのですが、鈴江さんは2時半から先に練習を始め、7時半に全体練習が終わると研究室に戻って研究する日々。そしてシーズン中はお酒を1滴も飲まないと自分に課し、それを忠実に守っていたのでした。筋肉のために鶏肉でタンパク質をとり、ビタミンKをとるためにグレープフルーツジュースにするなど、食生活にも気を配っていました。
 
 シーズンオフはオフでアメフトの合宿費等を稼ぐためにバイト三昧の日々。家庭教師が中心でしたが、花屋、居酒屋の厨房、バーテンダー、煙突掃除、港の綱引き、赤ペン先生、遺跡掘り等々、ありとあらゆるバイトをやりました。多い時は一日16時間バイトしたことも。それでもオフにもウエイトトレーニングをしていましたし、なんてパワフルなんでしょう。
 アメフト部だし、さぞかしモテたんでしょうとお聞きしたら、関西の一部リーグの大学とちがってそんなにモテなかったとご謙遜(いえいえ絶対モテたと思います)

 世はバブルの時期で、就活時は超売り手市場でした。研究室経由で企業から接待され、接待の場で「今OKと言ってくれたらこの場で採用するから」と人事部長に言われる、そんな接待づくしの就活が嫌で、鈴江さんは担当の教授に言いました。
「こういうのは嫌なので、自分で就職活動をしたいです」
教授は「鈴江くんならそういうと思っていたよ」とおっしゃってくださって、この時から鈴江さんは理系の就活ではなく、文系の就活を始めたのです。
 こうしてOB訪問などを始めました。その頃はゆくゆくは自分で会社を作りたいという気持ちが芽生えていたので、社長に会える仕事はなんだと思った時に商社よりも銀行だろうと考えました。三井住友銀行の役員の方がわざわざ出向いてくれて採用が決まりました。実はリクルートにも内定をもらっていたのですが、リクルート事件も記憶に新しい頃で、銀行の方がいいだろうというお父さんの声もあり、銀行に決めたのでした。今の学生には信じがたいでしょうが、バブルの頃の企業の学生の取り込み方はすごく、鈴江さんは電話攻勢を避けるために電話線を抜いておいたくらいでした。
 
 こうして4年の夏に内定が出た後はひたすら試合と卒論に没頭する日々でした。鈴江さんの担当教授は卒論に厳しく、卒論発表で終わりではなかったので、卒業ギリギリまで卒論の手直しに追われていました。ですから、卒論を提出して、就職するまではわずか1〜2週間ほどしかありませんでした。みんな卒業旅行だと言って1ヶ月ほど海外を旅したりしていましたが、そんな余裕は全くありませんでした。バックパッカーをやりたかったのに出来なかったというのが鈴江さんにとって学生時代にやり残したことでした。でも、時間がたっぷりあるはずの大学時代にその余裕がなかったということは、言い換えればそれくらい充実した大学生活だったということでしょう。

 社会人ではアメフトはやらないつもりでしたが、やらないかと誘われて練習は土日だけだしまぁいいかなとOKします。アメフトのチームは東京にあったので東京の支店に配属されることになりました。
 
 こうして上京した鈴江さんは1ヶ月の研修の後に三井住友銀行数奇屋橋支店に配属になります。最初の2〜3ヶ月こそ広報のお手伝いくらいでお客さん状態でしたが、その後、融資課に配属されてからはすぐにセブンイレブン状態に。つまり7時に出社して11時まで仕事するというような毎日になりました。大学時代にストイックに過ごしていたので、社会人になったら3年はお金を全部使いきって遊ぶぞ、と思っていたのに早くも忙しくてそれが難しくなってきました。けれど、研修の同期たちが合コンをしょっちゅう企画してくれたので、そこにはよく顔を出していました。電通、博報堂、JAL、ANA…メジャーなところはほぼ押さえてありました。まだバブルの色が残っていましたので、ジュリアナ等にも行きました。アメフトで鍛えあげていた鈴江さん、この頃はかなりモテました。ただ、それも最初は楽しかったのですが、土日は練習なので、次が続かないのでした。

 入社後1年くらいたつと外周りで忙しくなりました。しかし、銀座の真ん中で仕事をしていましたから、融資の課長にピアノバーや会員制のクラブに連れていかれたり、単身赴任の次長に飲みに連れだされたりしてそれなりに楽しかったのです。また、銀座の街を歩いている時に取引先の社長さんたちに会って、お寿司屋さんに連れていってもらったり、画廊のオーナーや地主の蕎麦屋さん、いろんな人にかわいがってもらいました。まだ駆け出しの自分をこんなに可愛がってくれて、お客さんに育ててもらっている部分はとても大きいと思う鈴江さんなのでした。そしてそう素直に思える鈴江さんだからこそ、社長さんたちは目をかけてくださったのだと思います。

 最初の配属先だった数寄屋橋支店は2年半で統廃合され、次に配属になったのは麹町支店でした。ここでは官公庁の担当になり、扱う金額も桁外れに大きくなりました。何十億、何百億、何千億の運用をすることもありました。たとえ0.1%でもとんでもない損失を出してしまう、そんな場所で鈴江さんは活躍していたのです。

 阪神淡路大震災が起きたのはそんな時でした。最初親に電話した時は大丈夫だと言っていたのでそこまでひどい状況だとは思ってもいませんでした。東京と神戸の温度差にも気づいていませんでした。1ヶ月後にようやく神戸に戻った時に鈴江さんは愕然としました。もっと早く戻るべきだった…。この時の想いが、鈴江さんが今MDRT会員として社会貢献活動に積極的にかかわるようになった原動力のひとつなのかもしれません。

 麹町支店にいた時に忘れてはならないことのひとつが奥様との出会いです。ある時、先輩に餃子パーティをやるからお前も来い、と誘われます。練習後の汚い格好のまま餃子パーティに行った鈴江さん。そこに奥様も来ていらしたのでした。その家ではネコを飼っていて、ネコ好きの鈴江さんがそのネコを見に行くと、ちょうど彼女もそのネコを見ていました。その時、なんとなく彼女のことが気にはなったのですが、その後はアメフトのシーズンになり仕事と練習に追われて連絡ができずにいました。
 3ヶ月程経って彼女に連絡を取り、八景島シーパラダイスに遊びに行ったのですが、彼女は家でご飯を食べなきゃいけないから帰らないといけないといい、そのまま食事をせずに帰ってしまったのです。それが逆に強烈なインパクトでした。鈴江さんは結婚するなら30歳くらいのつもりだったし、当初の計画通り3年分の給料は使い果たしていました。でも、きっとその時が結婚するタイミングだったのでしょう。鈴江さんは彼女と結婚を前提で付き合いたいとご両親に挨拶して、1年後に籍を入れたのでした。

 アメフトの方は4年間続けました。チームには全日本クラスの選手もいて、彼らのプレイスタイルから学ぶことがとても多くありました。大学時代はこう動いて欲しいと思っていたのに思うように動いてくれなくてはがゆい時もありましたが、全日本クラスの選手になると、こう動いて欲しいというまさにその動きをしてくれるのです。そして、映像だけでは身につかない間のとり方、スキル、そういうものがどんどん自分に身についていくのが実感できてとても楽しかった。体力的にはピークは過ぎていても、技術力はあげられる、それが自信につながりました。

 結婚後1年してアメフトをやめた時に、大阪への転勤辞令がおりました。こうして本当は東京を離れたくなかった奥様とともに大阪へ。オリンピック招致の仕事にも携わりました。関西に来て三店目は神戸での仕事。この時は中の仕事をやっていたのですが、それがどうも性に合いませんでした。銀行で働き始めて10年を過ぎ、そろそろ将来像も見え始めていました。給料はよかったし、普通に考えれば何の問題もなかったのかもしれません。でも、鈴江さんは思いました。中学・高校の頃は自分に無限の可能性があると信じていた。自分は本当にこのままでいいのだろうか…?そんな時にアリコ(当時)に転職していた人に誘われます。こっち来ないか?やりがいあるぞ。

 同じ頃にある人に言われました。自分の人生のストーリーは自分で考えているの?
自分だと言い切れない自分がいました。自分で決めていない自分がイヤになりました。銀行の早期退職は12年先の48歳。そこから新たなチャレンジでは遅すぎる!今のうちにやろう。
 
 こうして36歳の時に保険の仕事に転職した鈴江さん。奥さんは全く反対しませんでした。それは本当に力になりました。
 そして鈴江さんはこの仕事をやり始めた時に自分に課したことがあります。それは、親、親族、友だち、銀行時代のお客さんのところには勧誘に行かない!ということでした。
1年目は銀行員時代から給料が半減しましたが、初期補給があってなんとかしのげました。けれど2年目はそれがなく、契約もなかなか取れず、貯金をくいつぶし、ついにはカードローンでお金を借りて給料のふりをして家にお金を入れていました。

 自分の人生のストーリーは自分で決めたい、そう思って転職したけれど、このままで大丈夫だろうか?時に押しつぶされそうになる気持ちと闘いながら、でもここで負けるわけにはいかないと踏みとどまりました。そんな2年目のある時、ある所で大口契約が取れたのです。あれ?こんな簡単でいいのか?肩の力が抜けた瞬間でした。それまではどうしても売る人と買う人という立場に立っている自分がいた。一方的に話し手になっていることが多かったのです。でも、それからは聞き手になることの方が圧倒的に多くなりました。お客さんの話をとことん聞いて、最後にお客さんのことを心底考えた商品選びを一緒にやっていく。売り込むのではなくて、一緒に選んでいくのです。

 それからの鈴江さんはすごかった。あれよあれよという間にトップセールスマンに昇りつめ、3年目にはトップセールスマンのうちでもわずか1%の方だけがもらえる最高のタイトルMDRTの会員になっていたのです。そしてそれだけではありませんでした。MDRTの会員の集まりに出た時に、ああ、自分はもっと上のレベルを目指さないといけない、そう思ったのです。1%でも十分難しいのにそれの更に上のレベルって…と思ってしまいますが、そこは小学校の時から全国模試で一桁台だった鈴江さんのことです。この世界でも5000人くらいいる中で常にトップ10に入っているような方なのでした。
 この10年間の間にもAIGショックやリーマンショックといった状況が5回くらいありましたが、それでも鈴江さんはそれらを乗り越え、今もトップを走り続けています。

 実は鈴江さんにはこの仕事をする時にもうひとつ決めていたことがあります。それは、自分が好きになれないお客さんとは仕事をしない、ということでした。銀行員時代はそれはできないことでした。でも、今つき合っているお客さんとは一生のつき合いだと思っているので、ちゃんと自分の仕事に責任を持ちたい。無責任なことは絶対にしたくないのです。それだけ誇りと責任を持って仕事をしている鈴江さんだからこそ、たくさんのお客さんに慕われているのでしょうね。そして、鈴江さんのお客さんに選ばれた人は彼がずっとつき合いたい人ということですから、鈴江さんはお仕事以外の経営のアドバイスなどもどんどんやってくれちゃうそうです。それでますます鈴ちゃんファンが生まれていくのでした。

 今の仕事は人間力が試されると鈴江さん。お客さんは商品を見ているのではなく、それを扱う人を見ているのです。どうしたってその人の人間力が出てしまうのです。表面で取り繕おうとしても、少しくらいは成功できるかもしれない。でも、それがずっと続くことはありえないでしょう。それだけ人はちゃんと人を見ています。こんな方が担当だったら、お客さんもさぞかし幸せだろうなぁと鈴江さんの人間力溢れる眼差しをみながら思いました。

 銀行員時代より今の方がはるかに楽しい!と鈴江さん。大学の時に時間がなくて行けなかった海外にも今はよく行く機会を得ています。きっと今までずっとがんばって来られたご褒美ですね。
 
 保険業界は10年いたら2割の人しか残りません。それだけ厳しい世界なのです。でも、鈴江さんはこれほどおもしろいところはないよ、とおっしゃいます。銀行では決められた仕事をこなすだけだったけれど、今はリスクを取りながらも全部自分で決められるからです。そう、人生のストーリーを自分で描いているのだと、今なら自信を持って言えます。

 今、鈴江さんは実家のお母さんの介護にも携わっています。お母さんは大脳皮質基底核変性症という難病指定の病気になり約5年経ちます。10万人に2人程度という稀な病気なので、最初は病名がはっきりわかりませんでした。ずっととても元気なお母さんだっただけに、自分の体が思うように動かなくなっていくはがゆさにお母さん自身が病気のことを受け止めるのにとても時間がかかりました。大脳皮質基底核変性症というのはパーキンソン病の一種で手の動きや足の動きが鈍くなってきたり、自分がイメージしたとおりに字が書けなかったりして、徐々にそれが進行していく病気です。鈴江さんはご両親にこれから自分たちが何をやっていきたいか決めようよ、とずっと提案してきましたが、最初は聞く耳を持ってくれませんでした。お父さんも昔はとても論理的な人だったのに、お母さんの介護で外に出掛けることも減り、また介護疲れもあってか感情的になることも多くなっていました。鈴江さんはそんなご両親のために、時間を作って実家に行き、得意な料理を作ってあげたりしています。小さい時もずっと家の手伝いをしていた唯史少年でしたが、大人になってもとても親孝行な息子さんなのです。そうして、ご両親は最近になってようやく本音をいろいろ話してくれるようになってきました。現実的なお金の事も、鈴江さんは専門家ですから、もっと早く言ってくれればいろいろしてあげられたのに、という後悔もありますが、今は自分のできることをやっていこうと思っています。

 ご両親のことを通して、老後のライフプランをちゃんと作ることの大切さを改めて感じた鈴江さん。仕事をリタイアしたくらいからプランニングしていたらもっといろいろなことができるし、実際今はそれが必要な時代になってきたと思っています。既に急速な勢いで高齢者が増えている時代ですから、鈴江さんのような実体験を伴う専門家の必要性もますます高まることでしょうね。それに親の人生と向き合うことで、今まで知らなかった親のことをいろいろ知ることにもなり、自分のルーツに思いを馳せることができる、そんな時間を持つことができるのかもしれません。それはまさに私たち世代がちゃんとしておかなければならないことなのだろうと思うのでした。

 こんな風に自分の人生のストーリーをご自分でちゃんと描いている鈴江さんの今の夢は、自分とかかわった人が幸せになるお手伝いをすること。銀行員になった当初はゆくゆくは自分で会社を起こしたいと思っていましたが、それだと作れたとしても1社2社。でも、自分が社長じゃなくてフリーな立場でお手伝いしている今なら30社から50社の社長さんたちをファイナンスの面でお手伝いすることができる。社会貢献をしているNPOや社会起業家の人たちの支援もできる。
 もし自分が仕事だけに徹してガツガツやれば、今の3倍くらいはやれる自信があります。でも、それは鈴江さん自身が幸せではないのだと。自然体で自分がお手伝いしているところがうまく回り始めている。そんな会社もずいぶん増えてきました。そしてその人たちの笑顔に触れる機会も。それが鈴江さんにはたまらなく嬉しいのです。

 私たちのような市民団体は、こういう方と協働していくことが、きっとこれから大事なんだろうな、と鈴江さんのお話を聴きながら思った今回のインタビューでした。企業だけではなく、行政だけではなく、NPOだけでもない、マルチステークホルダープロセスを進めて行く時に、鈴江さんのように人をつなげる力のある人はこれからますますご活躍されること間違いなしですね。ただ、その前に私も、鈴江さんにお客さんとしてちゃんと選んでもらえるようにしなくっちゃ!
今日の人137.江畑美由紀さん [2015年02月10日(Tue)]
 今日の人は先日キャンナス高岡を立ち上げた江畑美由紀さんです。キャンナスのネーミングは、“デキル(Can)ことをデキル範囲で行うナース(Nurse)”の意味から名づけられました。地域に住んでいる看護師が忙しい家族の代わりに介護のお手伝いをするキャンナス。介護保険制度下では対応しきれない滞在型訪問介護のスタイルを貫いて、地域に根付いたボランティア団体として全国各地で活動しています。
 江畑さんは看護師、臨床美術士、応急手当普及員、介護支援専門員、認知ケア専門士などいろいろな顔もお持ちのスーパーウーマン。いつもパワフルに動きまわっていらっしゃいます。
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 江畑さんは1965年生まれ。お父さんの勤務の都合で、小さい頃は新潟で過ごしました。今はとても明るくてよくおしゃべりする江畑さんですが、子どもの頃はとてもおとなしい子でした。給食を食べるのが遅くていつもみんなが掃除をしている時間まで給食を食べていたので、学校に行って給食を食べなくちゃと思うと、お腹が痛くなるのでした。あまりしゃべらない子でしたが、いじめられたことはありませんでした。

 お父さんは家では寡黙でしたが、人前ではとてもよく話し、場を盛り上げるのも得意。ひとづきあいを大切にする人で、人を楽しませるのが大好きでした。家族の記念日も大切にする人で誕生日や結婚記念日は絶対忘れない、そうして洋食屋さんに行っても緊張しない子になってほしいと家ではナイフとフォークでご飯を食べていました。もっとも、外づきあいを大切にする人なので、家にはあまりお金を入れず家は貧乏でした。けれど、紳士で人当たりのいいお父さんのことが江畑さんは大好きで、とても尊敬していました。対してお母さんはおっちょこちょいでKYでいつも余計なひと言を言うトラブルメーカーでした。子どもにもすぐ叱る人でした。実はこのお母さんも、そしてお父さんも生まれは高岡の人だったので、江畑さんが生まれたのも高岡です。お母さんは、実の母を幼いころに亡くし、母の愛を知らずに育ったので、江畑さんたちの子育てには戸惑うことも多かったのでしょう。江畑さんには弟がいるのですが、弟の親はお母さんだけど、自分の親はお父さんだという感覚でいました。お父さんにほめられると満足、お父さんといると嬉しい。完全にお父さんっ子だったのです。

 江畑さんはひとりで遊ぶのがとても得意でした。絵はどれだけでも描いていられたし、石をめくってそこにいるダンゴムシを全部丸めてまた戻す、なんて遊びもやっていました。葉っぱを葉脈に沿ってちぎったり、一人遊びはいくらでも見つけられました。
 もっともずっと一人あそびをしていたわけではありません。近所の子どもたちともよく遊んでいました。学校ではおとなしくて目立たない子だったけれど、近所では少年探偵団を作っていろんな子を連れて遊んでいました。
 この頃の江畑さんの夢は学校の先生でした。人前で話せなかったから、話せるようになりたかった。リーダーシップが取れる人がうらやましかった。遊びの中ではできるのに、なんでやらせてくれないのかなぁ、やらせてくれればきっとできるはずなのに、そんな風に思ったりもしていました。

 中学校に入ってもおとなしいのは変わりませんでした。でも中2まではバレー部で選手もしていたし、成績も中の上でした。先生にもよくほめられていました。
 ところが、中3で突然転校した時に、先生にできないというレッテルを貼られ、成績もどんどん下がり、最悪な一年を過ごしました。

 娘の落ち込む様子を見てお父さんは、これじゃあ美由紀が可哀想だと言って、自分だけ単身赴任することにして、お母さんと江畑さんと弟さんは富山に住まわせることにしたのです。わざわざ高岡にマンションを買って…。

 江畑さんは富山の県立高校に受かり、富山での生活が始まりました。単身赴任になったお父さんだけ長岡に残して。

 ゴールデンウイークに富山に来たお父さんはなんだかすごく調子が悪そうでした。江畑さんはなんだか妙な胸騒ぎがしました。お父さんが長岡に帰るのを見送る時、ずっと泣いていました。
 
 そうして江畑さんの嫌な予感は当たってしまいます。長岡に帰ったお父さんはしばらくして亡くなってしまったのでした。

 つらかった。本当につらかった。お父さんが亡くなって、学校を1週間休んだ後の最初の授業は体育でした。こんなにも心がつらいのに、みんなと同じように体育館を何周も走っている…。ああ、これが現実なんだな。みんなの時間はいつもとなんら変わらない。

 お父さんが亡くなってお葬式の時に倒れ込んだお母さんを江畑さんは抱きとめました。江畑さんは思います。「私がこの家でしっかりしなければ!」そう、もう頼りになるお父さんはいないのだから。それでも、やっぱりつらかった。そんな江畑さんたちを見かねて、お母さんの継母の妹さんが一ヶ月江畑さんの家に泊まり込みで来てくれました。実際の血のつながりはないけれど江畑さん家族のことを心配して1ヶ月も泊まり込みで来てくれたおばさん。江畑さんたちをおばさんはいつもお腹を抱えるほど笑わせてくれました。ああ、人ってこんなに辛い時でも笑うことができるんだ。こうしておばさんが江畑さんを立ち直らせてくれたのです。きっとそれがなかったら、家の中はずっと真っ暗だったことでしょう。人の温かさを骨身にしみて感じました。本当にこのおばさんは江畑さんにとっては恩人でした。この時の経験が、きっと困っている人を見捨てておけない今の江畑さんに繋がっているのでしょうね。

 お母さんが仕事を見つけ、働き始めると、江畑さんは家事を一手に引き受けるようになりました。高校から帰り、弟のためにご飯を作り、弟と一緒に過ごす。洗濯も掃除もなんでもやりました。でも、学校は全然休みませんでした。学校の友だちにつらかったことを話すことも江畑さんにとってはとても大事な時間だったにちがいありません。
 学校に行ってもちっとも勉强はせずに、ノートにずっと詩を書いていました。
その頃、富山の国鉄マンだった伊藤敏弘がヒット曲を出して、「伊藤敏弘と行こう、能登の旅」という企画がありました。それに参加した江畑さんは、あれ?私も曲作れるんじゃないかな、と思うようになります。こうして高2の時から自分で作詞作曲をするようになりました。風来坊というデュオを組んで高校生ながらライブハウスで歌っていました。風来坊は富山のあみんと呼ばれ、新聞でも取り上げられるくらいの人気でした。そんなに活躍しているのに、家事もしっかりやり、部活ではギターマンドリンでギターのパートリーダーまでやっていました。

 そんな時、高2の担任から、あんたの行ける学校はないと言われてしまいます。その言葉に奮起して3年からは勉強もやり始めました。私は自分の力で食べていけるようになろう、食べていくためには、どんな仕事?よし、看護師になろう!こうして江畑さんは2年の担任の言葉をはねのけて、見事看護学校に合格。

 看護学校に行っている時にも風来坊の活動は続けていました。県内のアマチュアとしてはとても人気があって、自作のカセットテープも100本を売り切りました。ポプコンの県大会でも入賞し、1年の著作権ももらいましたし、当時高岡駅前にあったショッピングセンターMsの街のサテライトスタジオでラジオのDJもやっていました。そういうわけで、社会人の友だちもたくさん出来て、当時からいろんな人に可愛がられるタイプでした。

 そうして看護師の国家試験にも見事合格し、最初は大きい病院で働きたいと京都の日赤病院で働き始めました。厳しいし忙しいし、最初は1年目でやめようと思っていましたが、だんだん仕事が面白くなってきました。先生方にもとても可愛がってもらい、飲みに連れて行ってもらったり、遊園地に連れて行ってもらったりしました。でも3年で富山に戻るとお母さんに約束していたので、泣く泣くその病院をやめることにしたのですが、各科の先生が送別会を開いてくれるほどでした。

 富山に戻ってからは伏木の社会保険高岡病院で働きました。ここでも上司にとても可愛がられ、各科の先生が江畑さんをなかなか離してくれませんでした。脳外科、外科、整形外科でいろんな命が救われていく場面に出逢いました。もちろん終末期もたくさん経験しました。一晩に救急車が何台も入ってくるそんな病院だったので、本当にたくさんのことを体験しました。常に現場をよくしたいという思いがあって、それをいつも実行していたので、うざがられる面もありましたが、仕事の楽しさはすごくありました。

 時々LIVEでも歌っていて、そんなLIVEを通じて知り合った人と結婚しました。お金も学歴もない人だけど、趣味が一緒だったし、何よりお母さんが早く結婚してほしいとうるさかったのもありました。そして、お父さんみたいに真面目すぎる人より少しくらい不真面目な人の方がいいとその時は思ったのです。

 でも、子どもを産んだ後に二人の関係は急激に悪くなりました。子育ては一切手伝ってくれなかったこともあって、江畑さんは軽いうつになりました。実家に戻るとお母さんと旦那さんが大げんかです。結局子どもが1歳を迎える前に離婚しました。江畑さんは高校生の時から自立したいという思いがあって貯金魔でした。結婚資金も自分で全部用意したし、離婚しても困らない貯金もありました。だから離婚にも踏み切れたのでしょう。
 けれど、離婚してまた看護師として病院に働き始めた頃から、うつが一気にひどくなりました。子どもを保育園に送り迎えすることさえしんどかった。仕事もやめざるを得ませんでした。家では倒れこむようにいつも布団に入る日々。そんな江畑さんを気遣って、幼い息子さんは枕元にそっとお菓子を置いていってくれるのです。この子がいなかったら生きていられなかったかもしれません。
 それでも生きているのが苦しかった。このまま目が覚めなければいいのに…そんな風に思う毎日でした。でもやっぱり、悔しかった。私はあんなにいきいき働いてきたのに、このまま死にたくないと思いました。その悔しさが江畑さんのバネになりました。治りたいと本人が強く願うこと、そうしないとうつは治らない、そう江畑さんは思っています。

 そしていろいろなパートをしながら徐々に社会復帰をしていきました。保育園でも働いたし、寝たきりの方の病棟での仕事や救護の仕事、いろいろやりました。そんな中、一生やれる仕事に落ち着きたいと訪問看護の仕事を始めました。すごく楽しかった。一人の患者さんやご家族とこんなにゆっくり向き合える。これは病院勤務の時には考えられないことでした。これを一生の仕事にしよう、そう思って訪問看護に取り組んでいた3年目、訪問先に向かう江畑さんの車は青信号で直進していました。そこに信号無視の車が突っ込んできたのです。江畑さんの車は回転し、首が振り回されました。肋骨が折れ、一ヶ月後に仕事に復帰しましたが、右手に力が入らないのです。これでは患者さんを支えられない!愕然としました。外傷性胸郭出口症候群による神経障害と診断されました。普段はなんともなくても、重たいものを持つと麻痺が出てくるのです。
 このままでは仕事を続けられない…江畑さんは仕事をやめました。絶望的な気持ちになりました。看護師の資格さえあれば何とかなると思っていた。でも、この右手が動かない…。私はどうしたらいいんだろう。けれど不思議とうつにはなりませんでした。

 働けない間に何かしよう、そう思ってハローワークに行き、医療事務の学校に通うことにしました。3日後に学校が始まるという時に、江畑さんはもう一度ハローワークに行きます。そこで地域包括支援センターで相談業の看護師を募集しているのを見つけたのです。問い合わせをすると、ぜひ見に来てくださいとのこと。行ってみると「江畑さんのような人を待っていた!」と言われました。ここなら私の経験を活かして働ける!そう思った江畑さんは医療事務の学校に行くのをやめ、地域包括支援センターで働くことにしたのです。

 介護予防教室で寸劇をやったり、苦手な相談を受けたり、最初は戸惑うこともたくさんありました。看護師は人の相談事には首を突っ込まないけれど、この包括の仕事は突っ込まざるをえない。でも、さじ加減を楽しめるようになった自分がいました。どんな仕事でも楽しんでやろう。人っていくつになっても変われるんだ!

 cocoloのサポーター養成講座の第一期生としても学び、素敵な方ともたくさん出会えました。その中の一人がとやまcocolo会の副代表でダイバーシティとやま副代表でもある柴垣さん。彼にはいつも背中を押してもらっています。そして自ら立ち上げたのが「うつnet高岡」でした。高岡のひとのまで月に1回カウンセリングを受けたり勉強会を開催したりしていました。臨床美術士でもある江畑さんは月に一回の勉強会で臨床美術を取り上げた所、ものすごく人気がでました。でもお金を取らずにやっていると赤字になるので、参加費を徴収するようになると参加者が減り、その頃ちょうど息子さんも調子を崩したこともあって、一時中断しました。

 その間、福祉や介護保険のこともたくさん勉強しました。病院や訪問看護の世界では知り得なかったこともたくさんありました。でも、制度の縛りでできないこともたくさんあって悔しい思いもしました。
 なんでできないんだろう、悔しい、そうfacebookでつぶやいていると、キャンナスがあるよと教えてくれた人がいました。キャンナスでは制度でできないことができる。うつの人だけに限定しなくてもいい。訪問看護で出来ないこともできる。ああ、私はこれをやろう!制度の中で出来ないことをやっていこう。資格がありながら働けずにいる看護師さんにも出てきてもらおう。

 江畑さんは包括の中で出来ないと言っていることが自分の中のストレスになっていました。なんでも疑問になりました。世の中から出来なくてごめんね、ということをなくしたい。困っている人がいたらできないって諦めないでできるようにしたい。末期の人と一緒に最後の旅行に行ったり、一緒に大好きなものを食べたり、疲れ果てた配偶者の代わりにお世話をしてあげたり…キャンナスだったらできることは無限にある。そう熱く語る江畑さんは本当に楽しそうです。専門職でありながら、看護師の組織から離れて柔軟な仕組みを作っていくことができる。そして、その仕組みを作って行く時に、これまでの江畑さんのネットワークが活きてきます。

 気がつくと、江畑さんの周りには助けてくれる仲間がたくさんできていました。自分は本当に人に恵まれているとつくづく思います。
 交通事故にあってツイッターで愚痴っていたらつながったのが、北澤晃さん。北澤さんは富山福祉短期大学の学長で、いろいろな活動をやっていらっしゃるのですが、その中のひとつが臨床美術です。北澤先生に出会わなければ、江畑さんが臨床美術士になることもありませんでした。ツイッターで出会った時は、亡くなったお父さんに出会えたかと思いました。こんな優しい人がいるのか!江畑さんが再就職するまでずっと応援してくれた北澤さん。お父さんと呼べる人がいないと言ったら、お父さんと呼んでいいよ、と言ってくれました。なんとツイッターのやりとりだけで心がつながってしまったのです。そうして本当に出会った時に今の江畑さんのメンタルを支えていると言っていい臨床美術と出会ったのでした。臨床美術はうつの人とすごく相性がいい。いずれ、キャンナスの中にうつネット高岡も組み込みたいと思っている江畑さんなのです。

 先に書いた柴垣さんも江畑さんの背中を大きく押してくれた人でした。
「病気を経験した人も社会の財産なんだ」柴垣さんの言葉が大きな勇気をくれました。だから今も柴垣さんはずっと年下のアニキです。
 コミュニティハウスひとのまの宮田隼くんと元島生くんは親友だと思っています。他にもたくさんの人が応援してくれる。

 そしていつもいちばん自分のことを理解してくれるのは息子さんでした。子どもが成長していくことで江畑さん自身が救われたことが何度もありました。今は離れて暮らして建築の勉強をしているけれど、将来はお母さんの家を建てたいと言ってくれている本当に優しい息子さんなのです。

 亡くなったお父さんと北澤先生と息子さんは江畑さんと感受性が同じだと感じます。どんなにぶつかっても素の自分でいられる、どんなことがあっても許してくれる安心感があります。江畑さんはレ・ミゼラブルの、ジャン・バルジャンがコゼットを迎えに来たシーンを見た時に先生と重なって号泣しました。ずっとお父さんが亡くなったことにコンプレックスを抱いていて自分に自信が持てませんでした。お父さんが亡くなったことを誰にも話さずに生きてきてすごくすごく苦しかった。そんな江畑さんに「自信を持って堂々と生きたらいい」と言ってくれたのも北澤先生でした。

 今はもう胸を張って生きていけると江畑さんは思っています。どんなつらいことも乗り越えてこそ意味がある。だから私は負けない。私が時代を変えていくんだ!
 いろいろやっていると批判をしてくる人ももちろん出てきます。でも、自分の信念を貫けば応援する人が必ず残ってくれる。だから私はくじけず、えらそうにならずに、足元を見ながら一歩一歩 歩いていこう、そう思っている江畑さんなのでした。

 キャンナスをやっている全国の仲間はみんな変わっています。熱くて、みんなホントにナイチンゲールのよう。このあとどんなことがあっても支えあっていける仲間たちです。誹謗中傷どんとこい!江畑美由紀はこれからもガハハと笑って乗り越えていきます。
 そうです。人生楽しまないとだめ。楽しくなかったら軌道修正です。そうして死ぬまでやるのがキャンナス。死ぬまでやれることが見つかった自分はなんて幸せなんだろうと思っています。

 看護師、応急手当普及員、介護支援専門員、認知ケア専門士、いっぱい資格も持っている江畑さんだけど、最後は資格ではなくて人。
そこにいるだけで安心。あなたがいるだけで安心。そんなおばちゃんの感覚を持った専門職でいたい。常に反省するけど、引きずらない。そして常に学ぶ姿勢を忘れずにいたい。
 常に根っこにあるのは、最愛のお父さんと十分なお別れができなかったという後悔。だから、終末期の患者さんや家族を応援したいと思うのは後悔がないように最期まで生き抜いてほしいという願いがあるのです。

 老後の夢はキャンナスで一生現役ナース。そして一生、臨床美術の伝道師。ずっと人の心をつなぐ架け橋でいたい、そう熱く語ってくれた江畑さんでした。
 いっぱい泣いていっぱい笑って、これからも太陽のような江畑さんの周りにはたくさんの笑顔があふれていることでしょう。
 ダイバーシティとやまもこれからもずっとキャンナス高岡を応援します!