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今日の人130.坪田佳奈さん [2014年09月29日(Mon)]
 今日の人は、脳性まひ・身体障がいの当事者やご家族同士の交流の会、歩む会の代表・坪田佳奈さんです。
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 佳奈さんは1991年の3月に高岡で生まれました。予定日より3ヶ月も早く生まれ、生まれた時の体重は675gしかありませんでした。まだ肺が出来上がっていない時に生まれ、保育器の中でたくさんの管に繋がれた状態。NICUで半年を過ごしたのでした。

 その頃のことはご両親も触れたがらないので、20歳になるまではそんな話をするのはタブーでした。今もあまりその話はしませんし、その頃の写真も残っていません。
 でもその時に担当してくれた先生は、間違いなく佳奈さんにとって命の恩人だったし、今もその先生とはつながりがあります。
 
 退院はしたものの、初めて歩いたのは2歳5ヶ月の時でした。高志リハビリセンターに一度両親が連れて行ったのですが、程度は軽いし、家でリハビリをすればいい、みんなと同じ育て方をすればいい、と言われ、それきり行きませんでした。が、これはつい最近わかったことなのですが、その時のカルテには次の診察の予約が記されていたのです。今となれば、真相はわからないままですが、その時リハビリに通い続けていれば、今ごろどうなっていたかな、という思いがないわけでもありません。

 こうして、佳奈さんは他の子と同じように、という両親の教育方針の元、ピアノ、くもん、水泳、いろんなことに挑戦しました。左半身は小さい時から都合が悪かったけれど、両親には大きくなったら治ると言われ、それを信じていました。そうして、ハードルや平均台などできないことはあるものの、なんでも「できなかったらやればいいんだ」と思って、なんでも人一倍練習を重ねました。なわとびができないのがイヤで何度も何度も練習して、前跳びが跳べるようになりました。
 ただ、食が細く、給食を食べるのにはとても苦労しました。今とちがって昔の先生はちゃんと完食するまで食べさせようとしたので、毎日のようにお昼休みの時間がなくなってしまいました。

 平均台ができない時はお父さんが家に平均台を作ってくれたりしました。親からは、いろいろできないのは小さく生まれたからで、時が解決してくれると聞いていたので、それを信じてひたすら練習しました。今、自分が生きているのはすごいことなんだ、それは漠然とわかっていました。わかっていただけに、生きられなかった子どもたちの分までちゃんと生きなきゃ、そういう気持ちがいつの間にか重荷にもなっていました。

中学に入ると、やっぱり私はみんなとちがうという思いがだんだん大きくなっていきました。自分でちゃんと靴下が履けないし、名札もつけられない。足が突っ張って階段を上がれないので、学校に掛け合ってなんとか手すりをつけてもらいました。

 自分の症状に納得のいかない佳奈さんは、ある日病院の先生に聞きました。
「先生、私、何の病気け?」
病院の先生は「脳性まひ」と告げました。
「脳性まひ?それは治るの?」
「今の医学では治らない」と聞かされ、佳奈さんは衝撃を受けました。
「え?親には大きくなったら治るって聞いてきたよ。なんで治らないの?先生、治してよ!治らないなら、なんで私のこと助けたの!!」
つらい気持ちを病院の先生にぶつけるしかありませんでした。

 学校でもつらいことがたくさんありました。保健体育の授業の時、先生は母子手帳を持って来なさいと言いました。そこに記してある何ヶ月で何ができるという項目を見て、佳奈さんはとてもショックでした。全てにおいてみんなとずれている…。保健体育の先生には、自分が小さく生まれたことを言って、そういうことを言わないで欲しいと話しておいたのに、先生は授業中にみんなに何gで生まれたかを聞いたのです。
3000g以下で生まれた人?などと聞いていき、「1000g以下の人は、まさかおらんよねぇ。」と言った先生。なんで???佳奈さんの心は悲しみで溢れました。先生にちゃんと言っておいたのに、どうしてこんなことになるの?あまりに悲しかった佳奈さんは親にその事を言いました。そんな事を言ったのは初めてだったのですが、それを聞いて号泣した親を見て、ああ、もうこの話は絶対にしてはいけない。そう子ども心に思ったのです。中学生にしてその思いを全て一人で抱えることに決めた佳奈さんなのでした。

 部活は最初卓球部だったのですが、先輩や同級生に「なんで腹筋ができないの?」と叱られ、シカトされるなどのいじめも受けていました。後に腹筋出来ない理由は、脳性まひの筋緊張によるものだとわかります。佳奈さんは合唱部に転部しました。けれど、思うようにならないことがだんだん増えていき、学校には行っていたけれど精神的につらい毎日でした。いつも死にたい死にたいと思っていました。でもがんばった。いつも無理をして、いつも頑張りすぎてしまう、そんな佳奈さんでした。

 高校は自由な雰囲気の所に行きたいと思い、小杉高校へ。でも入学式で担任にいきなり言いました。「私は教師が嫌いです。」
そんな佳奈さんにその先生は「俺が3年間かけて信じさせてやる」と言いました。最初は信じなかった。でも、その先生は本当にいい先生でした。今まで先生なんて大っ嫌いだったけれど、その先生のことは大好きになりました。そして、先生は3年間ずっと佳奈さんを受け持ってくれました。その先生の影響で、教師になりたい、そんな思いまで芽生えたのです。

 高校では吹奏楽部に入り、トランペットを吹きました。トランペットは左手を動かさなくてもよかった。だからトランペットを選んだのです。でも、そのころから体が痛むなどの異変が頻繁に出てくるようになりました。手にも負担がかかって腱鞘炎を繰り返してしまい、佳奈さんは吹奏楽部を辞めました。みんなにちゃんと事情を説明せずに、やめてしまったので、それは今も心残りです。でも、だんだんいうことをきかなくなってくる身体に向き合わなければならなかった高校生の佳奈さんには、それがせいいっぱいだったにちがいありません。

 高校の終わり頃に身体に更なる異変を感じました。骨が痛い。そして足が常に浮いている感じがしたのです。見かねて先生が、リハビリのある病院を探してきてくれました。その頃、関節が固まってきていました。脳性まひの二次障害で確実に進行すると言われ頭が真っ白になりました。そんなのひと言も聞いてないよ。ずっと治る治ると思ってやってきたのに、治るどころか症状が悪化する?何よそれ。どこにぶつければいいのかわからない怒りがふつふつと湧いてきました。リハビリの理学療法士につっかかっていました。私は手帳なんて取らない。装具なんてつけない。
 そうして、病院の先生に訴えました。「私、リハビリしてたら自分のことがわかってつらいんです」
 先生は改めてはっきり言いました。「君はそんなにたいしたことはないと思っているかもしれないが、すごくひどいんだ」

 私はどうしたらいいかなぁ。佳奈さんは悩みます。障害者手帳のことだって、誰にも言われたことがなかった。もっと情報があれば、私は二次障害でこんなに苦しまずに済んだかもしれない。この苦しさは本人じゃないとわからない。やっぱり当事者の会がないとダメだ。

 こうしていろいろ悩みながら時を過ごし、2011年12月に高岡のひとのまで当事者の会「歩む会〜Andante〜」を立ち上げました。新聞記者に脳性まひって脳が麻痺しているの?と聞かれ、『新聞記者でさえこんな認識なんだ。何年たっても変わらない状況がある。余計に誰かがしゃべらなきゃ。普段から交流できる場を作らなきゃ!』そう決意を新たにしたのです。
 ひとのまの元島くんにも手伝ってもらって、障害者手帳も取得しました。しかし、制度と現実のずれを感じることも多々あります。

 当事者会でいろいろなことを話している時に、「佳奈ちゃんがこんなに小さく生まれて頑張ってこれたのは奇跡なんだよ。それだけでもホントにすごいんだ。負担に思わなくてもいいんだよ。」そんな風に言われ、とても気持ちが楽になったことがあります。
障害の重い子も普通に見られるそんな社会にしたい!そう願ってもちっとも情報が入ってこないし、役所に相談してもあまり頼りにならない。自分自身が知識をつけてやれることをやろう。福祉の勉強をしよう!

 そう思って佳奈さんは今、福祉の勉強を一生懸命にやっています。将来は社会福祉士になって、自分と同じような立場の人の救いになりたい。それを歩む会でも語っていきたい。今は無理をしないで生きるという選択肢を選べないけれど、障害があろうがなかろうが無理をせずに自然体で生きていける社会を作りたいと願う佳奈さんなのでした。

 足の突っ張りが激しくなってきた佳奈さんは、先生に「君はどういう人生を歩みたいの?できることを伸ばしていくの?寝たきりになるの?」と問われて、とうとう手術を決意します。
 手術は怖かったし、手術した後になかなか歩けないのもとてもつらい。けれど、自分で選んだことです。まだまだ自分には乗り越えていかねばならない壁がたくさんあるけれど、自分らしく生きていこう!そう心に誓う佳奈さんなのでした。
 もちろん不安で怖くて仕方がない時もまだまだあります。そんな時にいちばん力になってくれるのは担当医の先生です。辛い時、悔しいとき、現状と向き合っていく中でそういった気持ちをありのまま受け止めてくれ佳奈さんの話を聴いてくれる先生。
出来なくなったことも増えて、今後を考ると不安だったり、現状に辛くなることもあるけれど、1人じゃない。と思えます。ありのままの自分を唯一話せる先生であり、本当に感謝しているのです。

だから佳奈さんは思います。私も先生のような人でありたい。歩む会でみんなの話を聴くことで、私のように悩み苦しんでいる当事者が少しでも笑顔になってくれれば…と。
「ダイバーシティーの原点は、自分をありのまま話せることなのかもしれませんね」と佳奈さん。
本当に苦しんできた彼女だけど、その笑顔は誰よりもキラキラと輝いていました。

みなさんもぜひ脳性まひ当事者の会「歩む会」のホームページをご覧になってください。そして、歩む会の活動にも一緒に参加してみてください。障がいがあってもなくても、いろんな人がごちゃまぜで暮らしやすい社会はまさにダイバーシティ。佳奈さんをずっと応援しています。

歩む会⇒http://ayumu-kai.jimdo.com/
今日の人129.藤岡直也さん [2014年09月22日(Mon)]
 今日の人はストレッチ&体幹トレーニングの専門店パーフェクトストレッチ高岡駅南店の店長として姿勢改善・肩こり・腰痛・減量などの悩みをストレッチで解決している藤岡直也さんです。藤岡さんは元富山サンダーバーズの選手としても活躍していたので、富山の野球ファンならきっとご存知ですね。
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 藤岡さんは1987年に兵庫県宝塚市で生まれました。野球好きのお父さんの影響で小さい頃から野球が大好き。幼稚園の頃からお父さんといつもキャッチボールをしていました。野球のクラブチームには小学校3年生から所属していました。実は格闘技も習いたかったのですが、お父さんに格闘技は傷だらけになるからダメと言われ、それは諦めざるを得なかったのでした。でも、負けず嫌いで喧嘩っ早かったので、結局傷だらけで帰ってきたことはしょっちゅうあったのですが。

 負けず嫌いの性格は野球にも現れました。とにかく野球漬けの毎日。肩が強かったので、外野からのバックホームもバッティングにも自信がありました。運動会等、スポーツ系のイベントではいつも大活躍。イケメンだし、小・中・高を通して相当モテたようです。
 当然、夢はプロ野球選手でした。

 中学校では硬式の野球クラブ、シニアリーグに所属しながら陸上部にも籍を置いていました。その後、陸上部から軟式野球部に転向しました。
 中2の反抗期の頃は、お母さんに反抗するとお父さんから鉄拳がお見舞いされました。悪いことをすると倍以上になって返ってくることがわかっていたので、ぐれたりはとてもできませんでした。高校では当然硬式野球部に入りましたが、残念ながら甲子園には行けませんでした。そして、大学は地元を離れ、埼玉の大学に入ったのですが、ここの野球部は軍隊方式でとにかく厳しかったのです。理不尽なこともたくさんありました。

 藤岡さんは大学在学中にBCリーグのトライアウトを受けて見事合格。大学を2年で中退し、富山サンダーバーズに入団したのです。20歳の時でした。

 富山に来てまず驚いたのは雪でした。最初自転車で通っていた藤岡さんはつるつるに凍った交差点で転んで、雪国の洗礼を受けてしまったのでした。
 藤岡さんがルーキーの時に、サンダーバーズは総合優勝します。しかし、さすがにプロの世界は厳しかった。大学まではチームの中でずっとトップでやってきた藤岡さんでしたが、プロのチームの中には自分より実力が上の人がたくさんいましたから。
 そしてその時、改めて思ったのが、基本の大切さでした。プロだからこそ、基本の動作を疎かにしてはいけない。そういう場面に数多く出会ったのです。と同時に、自分の持ち味が大事だということを痛感しました。藤岡さんの場合、それは肩の強さでした。肩の強さだけは誰にも負けない。レーザービームのように外野から返球する自信は常にありました。

 しかし、3年目の契約を交わした後に、突然の戦力外通告を受けたのです。頭が真っ白になりました。でも、じっとしているわけにはいきません。いろいろなチームにトライアウトがないか尋ねました。そうした中、群馬のBCリーグ、群馬ダイヤモンドペガサスでトライアウトがあると連絡を受け、練習生としてならOKだと言われたのです。登録はいつになるかわかりません。登録してもらえないということは給料ももらえないということです。でも、答えはひとつしかありませんでした。野球を続けたい。そのためなら練習生だろうと構わない。

 こうして群馬に移籍した藤岡さん。練習生としてアルバイトしながら練習する毎日が始まりました。毎朝4時に起きて、ホテルの朝食ビュッフェのレストランでお昼の12時まで働き、その後はチームの練習、そして夜は自主とレーニングというハードな毎日。3ヶ月を過ぎ、そろそろ体力が限界かと思い始めた頃、選手に登録すると言われました。過酷な毎日からやっと練習だけに打ち込める環境になったのです。

 そして迎えた初試合の相手はなんと富山サンダーバーズでした!代打としてバッターボックスに立った藤岡さんは、センターオーバーの2ベースヒットを放ったのです!ベース上で今までのことが走馬灯のように思い出され、自然に涙があふれました。今までのことは決して自分にとって無駄ではなかった。きっともっとがんばれ、という意味だったのだ、そう思えました。

 藤岡さんはその年の8月、BCリーグで打率トップに立ち、月間MVPに輝いたのです。
ファンの方にもとてもよくしていただいて、とてもいい時間を過ごせた群馬での2年間でした。なぜ、2年間かというと、藤岡さんはトレーニングで無理をしすぎて、アピールポイントだった肩を痛めてしまったのです。自分の一番の持ち味の肩を壊してしまっては、もう野球選手としてはやっていけない、藤岡さんは自ら野球を辞めるという苦渋の決断をしたのでした。

 群馬を後にした藤岡さんは再び富山に来ました。なぜ生まれ故郷の兵庫ではなく富山だったのか、それは藤岡さんがサンダーバーズの選手だったころからつき合っていた彼女が富山の人だったからです。サンダーバーズ時代に知り合った会社の社長がうちで働けと言ってくれました。こうして富山で働き始めた藤岡さんは、富山に戻って1年経った頃に結婚しました。
 
 そして思います。自分は無理なトレーニングをして肩を壊してしまった。こんな思いをして夢を諦めなければならない人を一人でも減らしたい。だから自分は本物のトレーナー、本物の治療家になりたい、そう強く思うようになっていたのです。こうして自分を拾ってくれた社長にその思いを告げると、社長は応援すると言ってくれました。その後、治療家になるべく、会社を辞めて接骨院で働きはじめます。ひたすら勉強の1年間でした。その中で、患者さんとのコミュニケーションも学び、いろんなことを吸収していきました。しかし、その接骨院はとにかく来院数が多く、1日に100人を4人で治療するような所でしたので、もう少しちゃんと患者さんとコミュニケーションを取りながらやっていきたいという思いがどんどん強くなっていきました。

 そんな時に、サンダーバーズの後輩が富山で代表をやっているストレッチのお店を高岡でも開くのでやってみないかと声がかかりました。一人ひとりにしっかり時間をかけられるやり方はまさに藤岡さんの思いと合致していました。接骨院の院長はできれば引き続き働いて欲しかったけれど藤岡さんの未来のためにその選択を尊重すると言ってくれました。

 こうして、パーフェクトストレッチ高岡駅南店の店長になった藤岡さん。今は自分のやりたかった形に少しずつ近づいているという実感とやりがいがあります。

 藤岡さんの尊敬する治療家にKen Yamamotoさんという方がいらっしゃるのですが、Kenさんは自分のお店を持ちつつ、世界中の腰痛を治したいと、病院に行けない人を無料で治療しています。藤岡さんはそんなKenさんの生き方に憧れています。自分は肩で悩んでいる世界中の人を助けたい。肩のことなら藤岡に聞け、と言われるようになりたい。それが藤岡さんの夢です。

 充実した毎日を過ごしている藤岡さん。今、ホッとする時間は生まれたばかりの娘さんの顔を見る時間。最近、ゴルフもやり始めました。
 でも、やはり何より楽しいのは自分の思っていたことと施術がピタッとはまる仕事の時間。今のお仕事に誇りを持っていらっしゃるのが伝わってきます。

 今後は小学生や中学生や高校生に向けても、野球のためのストレッチ教室やケガをしないための身体作りの教室を開いたりもしていきたいし、自宅で動けない人のところに行って施術もしたい。やりたいことがたくさん広がっている藤岡さんなのでした。

 みなさんも一度、パーフェクトストレッチ高岡駅南店に行って、藤岡さんのストレッチを体感してみませんか。きっと自分自身の身体と向き合える素敵な時間になることうけあいです。
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効きます♪
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体幹トレーニングもあります♪
今日の人128.徳倉康之さん [2014年09月12日(Fri)]
 今日の人は、NPO法人ファザーリング・ジャパン事務局長の徳倉康之さんです。
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イクメン・カジダンという言葉が急速に浸透してきまたが、Fathering Japanは、父親支援事業による「Fathering=父親であることを楽しもう」の理解・浸 透こそが、「よい父親」ではなく「笑っている父親」を増やし、ひいてはそれが働き方の見直し、企業の意識改革、社会不安の解消、次世代の育成に繋がり、 10年後・20年後の日本社会に大きな変革をもたらすということを信じ、これを目的(ミッション)としてさまざまな事業を展開していく、ソーシャル・ビジ ネス・プロジェクトです。

 徳倉さんは1979年に香川県高松市で生まれ、18歳まで高松で育ちました。小さい頃は人見知りで引っ込み思案だったのですが、小学校3年生の時にクラスで級長になったことがきっかけで変わりました。自分が話してそれを相手がわかってくれるってなんて楽しいんだろう!伝える楽しさを実感したのです。実は後から知ったのですが、引っ込み思案な息子を心配して、お父さんが担任の先生に息子に何か役を与えてやって欲しいとお願いしていらしたのでした。徳倉さんが変わるきっかけを作ってくれたのはお父さんだったのです。そしてお父さんは、昔から家事、育児を当たり前にやる人でした。お母さんが病弱でよく入院していたというのもありますが、仕事のやりくりをしながら、家事育児を楽しんでやっているお父さんの姿が徳倉さんにとってはスタンダード。だから、あえてイクメン・カジダンという言葉を使わなくても、そうなることは徳倉さんにとってはごく自然なことだったのです。

 話すことの楽しさに目覚めた徳倉さんは放送委員にもなり、将来の夢はアナウンサーでした。児童会、その後中学や高校の生徒会でも全て副会長として活躍しました。会長よりも補佐して運営を仕切る副会長の方に魅力を感じる徳倉さん。それは今も変わっていないのかもしれません。

 中学に入ると、ソフトテニス部に入り、そこではキャプテンでした。進学校でしたが、勉強は特にせず、本ばかり読んでいました。本と靴は好きなだけ買ってやる、というのがお父さんの教育方針。あらゆるジャンルの本を読みました。釣りも小さい頃からずっと好きで、よく海釣りに出かけていました。ファミコン世代だったので、もちろんゲームもやっていたそうです。中学時代の夢は引き続きアナウンサー、しかし同時に実家の家業を継ぎたいという思いもありました。

 香川で一番の県立の進学校に落ちてしまった徳倉さんは私立高校へ。ここはまさにダイバーシティな高校でした。富山もそうなのですが、地方の私立高校は県立に落ちてしまった超優秀な生徒から、遊んでばかりいる生徒まで本当にいろいろな生徒が集まってきます。中学が進学校で優秀な生徒ばかりが集まっていた学校でしたので、高校で初めて多様な価値観を持つ人々に出会うことになった徳倉さん。ですから、この高校に入って本当によかったと思っています。高校では死ぬほど遊びました。でも、同時に勉強もやりました。「お前、勉強できるな」とほめられて、勉強も楽しくなってきたのです。部活は硬式テニス部に入っていました。

 大学進学にあたってお父さんから言われたことがあります。それは、「バイトはするな」というものでした。「毎月仕送りする。その金額でちゃんとやりくりしながら生活しなさい」
 徳倉さんは硬派なテニスサークルにも入ったので、最初はお金のやりくりがうまくいかず、サークルでお金を使い過ぎたり、好きな服を買ってしまったりで、残ったお金がとんでもなく少なくなりました。そうなると切り詰めざるを得ないのが食費。なんと、77sあった体重が1年で60sにまで落ちたのです。でも、そうやっていくうちに徐々にどうやりくりすればうまくいくのかわかってきました。この時、決まった額で生活したことは社会人になってからもとても役に立ちました。もしあの時、バイトをして自分に自由なお金が増えていたら、決して身につくことのなかった感覚でした。工夫して楽しめというお父さんの教育方針は実によかったのです。

 サークルは2年でやめて、大学時代しかできないことをしようと思いました。シアトルに留学している幼なじみがいたので、友だち3人でシアトルからカナダそして南下してメキシコまで超貧乏旅行をしたりもしました。なにしろ治安の悪い所で安いモーテルに泊まったりしたので、怖い思いもいっぱいしましたが、得難い体験もたくさんできたのでした。

 こうして充実した大学生活を送った徳倉さんは実家に入る前に、修行として大手メーカーで勤務することになりました。勤務地は埼玉県。およそ3年後転職しかし、仕事に追われる毎日の中、無理に無理を重ね、とうとう十二指腸潰瘍で入院。腹膜炎になり、命の危機にまでさらされたのです。なんとか峠を脱したものの、一ヶ月は水さえ飲めない状態で、骨と皮になるくらいに痩せこけました。25歳の時でした。療養のため、故郷に帰っていたのですが、その時に10年ぶりに再会したのが、中学校の同級生でもある奥さまでした。その時研修医だった奥さまと恋に落ちた徳倉さん。1年後修行していたメーカーへ復職して埼玉へ戻りましたが、遠距離恋愛が始まり、27歳で結婚します。奥さまは埼玉でお医者様として働きはじめました。

 大病後に復職した徳倉さんは働き方を考えないとバランスを崩すと痛感しました。ワーク・ライフ・バランスの概念に出会ったのです。そして、29歳の時に長男が誕生。奥さんのキャリアを重視して、息子さんが4ヶ月から1歳になる間、徳倉さんが育休を取ることにしました。徳倉さんの会社では男性の育休第一号でした。当時の営業部長は怒って2年も口をきいてくれないくらいでした。でも、徳倉さんは気にしませんでした。自分は営業でbPの成績を挙げていたし、何より自分のキャリアに対する考え方が変わっていたのです。何を大事にすべきか、一度死にかけた徳倉さんは仕事が全てというような生き方だけはしたくなかったのでした。

 2011年の5月には2人目のお子さんが生まれ、その時は奥さんが産休の時に徳倉さんが育休を取りました。1人目の時は奥さんは里帰り出産をしていたので、生まれた直後の育児は体験していなかった徳倉さん。ですから、2人目は、住んでいる町で産んでもらって最初から2人で一緒に育てたいという思いがあったのです。ちょうどその頃にファザーリング・ジャパンに出会い、ボランティアスタッフとして活動に参加するようになりました。活動する中で、ここでは自分の経験を生かせるという想いが大きくなり、2012年の2月に、「ここで働きたい」と申し出ました。

 こうして、やっていた仕事の引き継ぎ等をキチンとこなし、夏前にそれまでの営業の仕事をやめて、ファザーリング・ジャパンの事務局長となった徳倉さん。その後、イクメンという言葉は急速に広がり続けています。それはきっと徳倉さんが尽力された部分も大きいからでしょう。

 そうして、3,4年前は総論でさえNGだったイクメン話が今は、OKになってきました。しかし、各論ではまだまだNG。男が育休を取るなんてとんでもないという部署はまだまだたくさんあります。
 もちろん、今の流れでいけば、10年もすれば放っておいても変わる、そう思います。でも、10年を5年、3年にしたい。そのために、今やりたいのはイクボスを増やすこと。イクボスとはつまり、男性が育児をすることに理解のある上司のこと。イクメンのボス、つまりイクボスというわけです。
 管理職を変えていくことが社会の流れを変える近道になると思う、と徳倉さん。

 何より、夫婦で子育てできるのは本当に楽しいのです。子育てにもパートナーシップが肝心。お互いの苦手を把握して、補完し合えるからいいのです。子どもを授かって、子育てできるそんな環境に恵まれたなら、それを楽しまない手はありません。この楽しさを知らずに過ごすのは実にもったいないし、人生を損していると思います。期間限定でしかできない子育てを楽しんでもらいたい、と徳倉さんはおっしゃるのでした。

 そして今年1月には3人目も誕生した徳倉家。男、男、女という3人のお子さんたちと毎日めいっぱい楽しんでいます。特に今楽しいのは、3人目の娘さんとじゃれあう時間。やっぱりお父さんって女の子にはメロメロになっちゃうようですね。でも、もちろん、息子さんたちと戦いごっこをしたり、釣りに行ったりする時間も心から楽しんでいます。

 今の仕事は世の中が変わっていくきっかけを作っているという手応えがあり、とても充実した毎日を送っている徳倉さん。出張も多く、東奔西走して日本中でイクメンカジダンのお話をされています。もちろん、今は世の中が変わっている過渡期ですから、いろいろなことを言ってくる人もいます。でも、25歳の時に一度死にかけた徳倉さんは、不思議とそういうことは気にならなくなりました。もう死ぬかもしれない、と思った時は、空が青いことさえありがたかった。だから誰かがとやかく言っていることなんてどうでもいいと思ってしまうのです。まさに死ぬこと以外はかすり傷、といった感じで達観されている徳倉さんなのでした。

 そんな徳倉さんの夢は、奥さまと世界中の素敵な所を旅すること。特に今いちばん見せたいのはドイツのエアフルトという街です。街の建築物は中世から近代にいたる各時代の荘厳な建築物が林立しており、「建築物の博物館」と評する建築家もいるくらい素晴らしい建築物がたくさん残っています。ゲーテやナポレオンが訪れた場所もそのまま残っていて、街全体の雰囲気がたまらないくいい。そんな街を奥さんとゆっくり歩いてみたいと思っています。

 そう、徳倉さんは誰よりも奥さんをまず愛していらっしゃる。実はそれがイクメンの一番大切なポイントなんだろうなぁと思った今回のインタビューでした。
徳倉さんたちの活動が広まることは、まさにダイバーシティな社会につながります。これからもますますワクワクのご活躍を!