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今日の人124.伊東 翼さん [2014年07月22日(Tue)]
 今日の人は東京育ちで今は氷見に住む氷見市役所職員、伊東 翼さんです。
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氷見市役所にて 向かって右が伊東さん

 伊東さんは1983年生まれ。東京は江東区の門前仲町で育ちました。大好きだったのは虫捕りです。弟もいたので、弟や友だちと一緒にザリガニやハゼを釣って遊ぶのも好きでした。お母さんの実家が氷見だったので、そこに遊びに行くのが楽しみでたまらなかった。なにしろ虫捕りをするのに、こんなに素晴らしい場所はなかったですから。

 小学3年生からはサッカーを始めます。サッカーチームに所属して頑張っていました。この頃の夢はサッカー選手。まさにキャプテン翼!という感じですが、お父さんが翼という名前を付けたのは、パイロットに憧れてのことだったのでした。
 
 そんな父の影響もあったのでしょう。パイロットになるには理系かなぁとなんとなく感じ、最初は理系だった伊東さん。サッカーもずっと続け、中学時代も高校時代もキャプテンでした。しかし、高校生の時、サッカーだけでは物足りなくなります。何か創作がしたいと思うようになり、映画を作ろうと思い立ちます。そうしてサッカーをやりつつも同好会を作って、映画製作に乗り出します。もちろん、映画を作るなんて初めてですから、脚本を書いてもボロクソに言われました。でも、友だちを集め、編集や音楽担当を決め、高校の全クラスを周って出演交渉をし、映画が出来上がったときの感動といったら!そしてその作品を文化祭で上映。こんなに素晴らしいことってあるんだな、伊東さんは言いようのない感動を覚えたのでした。それが高校2年の時です。それまで理系でしたが、この映画創作の経験をして、文転することを決意します。文系の方が創造的だと思ったからでした。
 進学校だったので、当然勉強もきつかったのですが、それでもサッカー部で活動し、映画作りは2年に続いて3年でもやりました。

 大学は千葉大の法経学部に進み、放送研究会にも入ります。年に2,3回発表会があり、1年の時はとにかく作品を作りたくて作りたくてたまりませんでした。作れば作るほど楽しくなって、図書館で映画作りのために本を読んだり映画を見たりもたくさんしました。2年になるとサークルの会長となり、50人程のサークル員をまとめていました。
 といっても単位はしっかり取るのが伊東さん。3年生で取ったゼミの先生はフランス政治学を教える先生でした。ゼミ生は伊東さん含めて2人だけ。なぜ、伊東さんがこのゼミを選んだかというと、フランス語が勉強できるからなのでした。

 3年になると就活も始まります。伊東さんは将来は映像系に行きたいと思っていたので、TV局などを受けました。しかし、就活をやっていくうちに、何かちがうぞと思うようになっていったのです。自分で作っているときにはものすごくワクワク感があった。でも、マスコミ業界で働いている人の話を聞くと、みんなつらそうだ。TV局に受からなかったこともあり、伊藤さんは4年生の後期になって、これまでの考えを1回リセットしようと思いました。

 こうして大学を1年休学。半年アルバイトをしてお金をため、残り半年はカナダのモントリオールに留学したのです。今でいうGap Yearの走りだったのですね。
 アルバイトはデイズニーシーの駐車場でやりました。ディズニーシーでは駐車場でもショーをやります。現場が大好きな人もたくさんいて、現場にこだわって社員になる道を断り、ずっとアルバイトでいつづける人もいました。みんな誇りを持って仕事をしている。アルバイトでこんな経験ができたのは、伊東さんにとって本当に大きな財産になりました。
 そして留学。カナダはご存知のように移民の多い国です。モントリオールではイタリア出身の家族の家でホームスティしました。イタリア系なだけにみんな底抜けに明るかった。そしてカナダではみんな5~6ヶ国語は話せるのが普通でした。伊東さんはここでも大きな刺激を受けました。そして語学学校で英語を3ヶ月、フランス語を3ヶ月やりました。

 1年後日本に戻った伊東さんは再び就活を始めます。そして、今回は専門的な知識を身につけられる職場に就職しようと思いました。頭の片隅にはいつか地方に行って地方を元気にするための活動をしたいという思いがあったので、専門的な知識はきっと役に立つと思ったのです。こうして交通のインフラ関係の製造会社の経理部門で働くことになりました。最初は怒られてばかりで、仕事でいっぱいいっぱいでしたが、1~2年経った頃には仕事にも慣れ、なんだかもの足りなくなってきました。
そして社会人2年目には神奈川の藤野のパーマカルチャー塾で学ぶことにしたのです。 パーマカルチャーという語そのものは、パーマネント(permanent 永久の)とアグリカルチャー(agriculture 農業)をつづめたものですが、同時にパーマネントとカルチャー(文化)の縮約形でもあります。 自然の働きや仕組みを理解し、伝統文化を活かしながら地球上で永続可能に豊かに暮らすデザイン方法のことです。
伊東さんたち塾生はそれぞれ寝袋を持って古民家に集い、農業体験をしたり、持続可能なまちづくりについて話し合ったりしました。そこでは本当にいい仲間と出合い、夜遅くまで話が尽きることはありませんでした。その中のお一人が奥さまとなられた葉子さんでした。葉子さんは長野からパーマカルチャーに通っていたのですが、2人はすっかり意気投合し、翌年につき合い始め、その次の年に結婚が決まったのです。
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とっても素敵なお二人

結婚を6月に控え、葉子さんは東京に住み始めました。結婚式に向けていろいろ準備をし始めたその矢先、あの東日本大震災が起こったのでした。食べ物は買い占めで買えない。そして買えないと食べ物がない。原発の心配もある。いったいこの先ここでずっと生きていけるのか?

地方でなら自給自足で生活することもできる。やはり、今こそ地方ではないか。こうして本気で地方に行くことを考え始めた伊東さんは、週末毎に夜行バスに乗って地方に出かけていき、農家を訪ねたり、農業就業支援の人に会ったりしていました。

パーマカルチャーの仲間ともしょっちゅう会い、いろいろ話し込みました。でも、現実的に電気を使っている自分たちは原発反対と大きく声を上げることもできない。ならば、やはり自給自足の暮らしを自分たちで実践していくのが大事だよね、そういう話になるのでした。こういう時だから…と結婚式もやめようかと思ったのですが、家族に説得されて式を挙げ、その直後に大阪に転勤が決まります。

大阪ではできるだけ山に近い自然を感じられる場所に住みたいと、通勤に片道1.5時間かかる山の麓に住みました。職場は工業地帯にあったのですが、家に帰ってくると、周りのカエルの大合唱を聴いてホッとしていました。通勤時間は長くても、やはり自然の中に勝るものはない、そう感じる伊東さんなのでした。

関西は人もオープンでとても楽しかった。そして、東京のパーマカルチャーの仲間とトランジション・タウン運動も始めます。トランジション・タウンとは、ピークオイルと気候変動という危機を受け、市民の創意と工夫、および地域の資源を最大限に活用しながら脱石油型社会へ移行していくための草の根運動です。地域の自給を少しずつ高めていくことで少しずつなら暮らしを変えていける。みんなで知恵を出せばずっと楽しい生活ができる。ロケットストーブ作りのワークショップをやったり、地域通貨を作ったり、少しずつトランジションタウンの考えを広めていきました。

それと並行して地方で暮らす選択肢もずっと探していた伊東さん。インターネットで氷見市役所の採用情報を見つけます。氷見は昔から大好きな場所。幼い頃オニヤンマの通り道を見つけてワクワクしたこと、降り立った時の空気が全然ちがうこと、そんな大好きな場所に行けたら…。そして、氷見市役所の採用試験に合格。受かった直後に会社から、東京転勤の話を出され、「会社を辞めます」と辞表を出したのでした。

 伊東さんが氷見に住み始めたのは昨年3月。その前の年の秋から家探しをして古い家を見つけたのですが、なにしろボロボロな家でした。しかし、修理を頼もうとは全く考えなかったという伊東さん。雪が降る中、1週間泊まりこんで、自分たちで修理作業をしたのです。キッチンも解体して、自分たちで組み直して、床も張り替えて、そういういろいろな作業をしているのが全然苦ではなく、むしろ自分でちゃんとできるんだなと自信がつきました。そして、作業をしていて夕方近くになるとふくろうがホーホーと鳴き出すのです。その声を聴いて、ああ、ホントに来てよかったなぁとしみじみ思うのでした。

 氷見に越してきてから仕事が始まるまでの1ヶ月は家具を手作りしたり、畑を耕したりの日々。自分たちで桑で耕していると、そんなんじゃ無理だよと近所の人が機械でおこしてくれたり、親戚のおじちゃんおばちゃんが野菜や魚を持ってきてくれたり、なんて豊かな生活なんだろうと実感する日々でした。だいたい新鮮でキトキトの魚が1パック100円で売られているのも信じられない話でした。こんなに豊かですばらしい所で暮らしているということを富山の人たちはどれくらい自覚しているかな、そんな風にも感じました。

 氷見に移住してすぐに活動も始めました。まずやったのは鎌仲ひとみ監督の『六ヶ所村ラプソディー』の自主上映会やトークショーです。この上映会を通して新たな仲間にも出会いました。そして東京でトランジションタウンのシンポジウムがあったときは、ヒミングと東京をUstreamでつないだりもしました。

 山の資源を使って地域おこしをする越の国自然エネルギー協議会のお手伝いもしました。木の駅プロジェクトの活動も取り入れようとも思いました。木の駅というのは山から木を切って運び、木材と地域通貨を交換することで地域が潤う仕組みです。お金とエネルギーをうまく循環させるというのが木の駅プロジェクト。しかし、氷見は木を切るにしても人手が足りない、そもそもその山主がどこにいるかわからない。そして、薪ボイラーを使ってもらおうと思っても、コスト面で受け入れてもらえない。また地域通貨も成功している地域に比べて大型スーパーが多くて馴染みにくい等、様々な問題がありました。

 でも、問題が多いからと言って、何もしないわけにはいきません。伊東さんは氷見で本格的にトランジションタウンをやろうと決意します。
まず、場を作ろう。そう思い、それまでつながりができた人たちを集めて、T.Tカフェを開催しました。15人くらい集まってひたすら妄想。するとすごく盛り上がってワクワクが止まらなくなりました。メンバーの一人は神奈川藤野のパーマカルチャーの出身でこちらに移住してヤギを飼って草刈りを始めました。ヤギの駅を作ろう。そこを地域の人との交流の場にしよう。時が経つのも忘れて話し込む伊東さんたちなのでした。

 このトランジションタウンをぜひ北陸で広めたい。伊東さんは11月下旬にトランジションタウンの合宿を氷見に誘致したいと考えています。きっと妄想が止まらない合宿になるんでしょうね。

 トランジションタウンでは夏祭も開催しているのですが、今年の開催場所は奥さま葉子さんの故郷長野。その夏祭りに氷見もブースを出すつもりです。こうして少しずつでも確実に氷見にトランジションタウンの根を張り始めた伊東さんです。

 氷見市役所の仕事の方も、1年目は市民課にいましたが、もっと24時間山と関わっていたい、そう思って異動届を出します。伊東さんの願いは叶えられ、2年目の今年4月からは農林畜産課の林業・循環エネルギー振興担当になる辞令が降りました。メインは林業で、山主や森林組合の人と山の整備に力を入れています。
 例えば市民プールにバイオマスボイラーを導入。製材した木の余りを有効利用して、ボイラーの燃料にしています。本当はこういう所に、山で切り捨てられる木を有効活用したい、それを木の駅とからめていければ…そういうふうにも思っています。

 そんな伊東さんが来たる7月27日、ドリプラ富山でプレゼンをされます。富山では他の場所から来た人のことを「旅の人」と呼びますが、まさに旅の人の伊東さんならではの視点で、氷見がいかにすばらしい場所かということを伝えたい。ここは地域の力がすごくあるんだよ、ここでもっともっとできるよ、ということを伝えたい。しかも、イヤイヤじゃなくて、ホントに楽しく生活できるということを伝えたいのです。
 
 今、都会の人でトランジションタウン活動に興味がある人は、西日本や九州、あるいは海外に行ってしまう人が多いのですが、北陸にこんなにおもしろい場所があって、こんなにおもしろい人がたくさんいることも知って欲しいと思っています。そうやって人の縁をつないでいくこともやっていきます。
 例えば空き家を改修して都会の人が滞在できるゲストハウスにする。そこは地元の人も集まれる寺子屋に。そうして、自然の中で勉強したり、山の手入れを一緒にできる。ここでは地域の人それぞれが先生で、お互いにできることとして欲しいことを交換して支えあって生きていく、そんな場所。
 食べ物、住む場所、教育、地域でいろんなものが循環していくことで、今大量に使っているエネルギーの量を減らしていくことができるでしょう。そして究極にはお金がなくてもやっていける、そんな暮らしが伊東さんの理想です。

 そんな想いを夜な夜な話せる仲間がいて、それがいつしか現実になっていく。みんなと話している時間がたまらなく楽しいと伊東さん。
 アメリカン・インディアンは7世代後のことを考えて、今やることを決めるというけれど、自分たちも未来の子どもたちのためにできることをやっていきたい。そしてそれは決してイヤイヤやることではなくて、本当に楽しくて清々しいことなのです。自分が未来のためにできることを考える時間、それは伊東さんにとってワクワクできて、氷見に来た意味を再確認できる素敵な時間にちがいありません。そして伊東さんはそれを机上の空論ではなく、実際に生活に結びつけていくことの出来る人なのです。
 
 急速な人口変動の中、消滅してしまう自治体も多く現れると言われている現実があります。今のままエネルギーを無駄に使い続けられる時代がそう長続きするともとても思えません。でも、伊東さんの描く氷見になれば、きっと人々が心豊かに暮らせる、そんな道を見つけられるでしょう。
今日の人4+.森本耕司さん [2014年07月17日(Thu)]
 今日の人は、実は2回目の登場になる有限会社森本自動車代表取締役の森本耕司さんです。1回目のインタビューはこちら⇒https://blog.canpan.info/diversityt/archive/5
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 森本さんは1967年滑川で生まれました。1歳になる前から3歳までを東京で過ごします。
お父さんは雇われエンジニアをしていましたが、森本さんが3歳になった時に一念発起し滑川に自動車整備の工場を建てました。建てたと言っても廃材で建てた工場。その当時はまだ周辺は砂利道でした。お母さんはその当時としては大変珍しいピアノにバレエを習って育ったお嬢様でしたが、車の整備をしにきたお父さんを好きになり、二人は結ばれたのでした。そしてお父さんが工場を建ててからというもの、そのお嬢様のお母さんが耕司さんをおんぶしてお父さんと2人3脚で汗水たらして働き始めだしたのです。森本さんは小さい頃、いつも工場で両親につきまとっていた記憶があります。そして、その頃の車の排気ガスのニオイが好きでした。今と匂いがちがってとてもいいニオイだったそうです。
 お父さんはとにかく職人気質の人で、仕事は本当に丁寧でした。それで、少しずつお客さんが増えていきました。でも、お金儲けには向かない人でした。借金することも嫌いで、借金したことは生涯一度もなかったそうです。
 
 森本さんは小さい頃は泣き虫で、保育園に行くのが嫌で近くの神社の境内に隠れていたりしました。それでも見つけられて連れていかれたのでした。両親とも仕事が忙しく、迎えに来るのはいつも最後。お迎えはまだかな、まだかなといつもずっと待っていました。
 その頃なりたかったのは仮面ライダーです。遊びと言えば仮面ライダーごっこで、いつも桜の木から飛び降りたりしていました。

 かしこまった場所がとても苦手で、卒園式の時もじっとしておられず、お母さんに抱っこされてどこかに連れていかれたのを覚えています。それは小学校に入っても変わらず、じっと座っているのがとても苦痛でした。整列する時に異様に緊張していました。
教室でじっとしているのは苦手でしたが、昆虫はいくらでも飽きずに眺めていられました。石をひっくり返して出てきた虫をずっと見ているのです。昆虫図鑑も大好きでした。

 森本さんが学校生活がどうにも苦痛になったのは3年生の時です。3年の途中から突然担任の先生に怒られ始めました。なんで怒られているのかわからない。でも先生は森本さんだけを執拗に怒ったり無視したり、本読みを当てるときに森本さんだけ飛ばされたり、とにかく徹底的に先生によるイジメの対象にされたのです。先生がイジメの対象にするのですから、子どもたちもそういう雰囲気になるのにさほど時間はかかりませんでした。
 森本さんは学校に行きたくなくて、押入れに隠れたりしましたが、それを許してくれるお父さんではありませんでした。何があっても学校には絶対に行かされたのです。森本さんは3人兄弟の長男でしたので、特に厳しく育てられたのでした。
 しかし、学校が終わったら学校の友だちと野球をしたりもしていました。学校ではあいつに構ったらダメだという雰囲気で一人で孤立していた感じでしたが、放課後はそうではなかったのです。学校は地獄、放課後は天国でした。
また、いとこが別の校区にいて、そこに行って卓球をしたりボードゲームを作って遊んでいたりもしました。

 お父さんの工場はマツダの代理店だったこともあって、森本さんはカープファンでした。いつも駅前の水銀灯のある通りで野球をしていました。今では駅前の道路で野球をするなんて考えられませんが、その当時はまだそこまで交通量が多くなく、車が来たら野球を中断して車が通ったらまた再開ということができたのです。その水銀灯にはノコギリクワガタやカブトムシが飛んできてそれを捕まえたりもしていました。カナブンもたくさん飛んできましたが、森本さんの中ではカナブンやトンボは格下の虫で、カナブンにキンカンを注射したり、輪ゴムを飛ばしてトンボのクビをはねたりもしていました。

 一人遊びも好きで、小川で木の棒を投げてそれを追いかけたりしていました。その時もちゃんと自分でルールを決めて、ここまで何にも引っかからずに流れたらOKとか、引っかかったらダメとか決めてそれを達成するまではずーっとやっていました。電信柱のここからここまでは息を止めてというのもやりました。その当時の子どもって、みんなそれぞれに自分のルールを作ってそういうことをやっていたような気がします。果たして、ゲーム世代の今の子どもたちはどうなのか気になるところですが。

 しかし、相変わらず先生によるイジメは続きました。4年になっても5年になってもそして6年になってもずっと森本さんはその陰血な先生が担任だったのです。学年が変わる時、今年こそは先生が変わってほしいと願い続けた森本さんの願いは結局小学校を卒業するまで叶えられなかったのでした。それでも学校を休むことはありませんでした。

 小さい頃は図鑑を見る以外は全く読書しなかった森本さんでしたが、小6のクリスマスプレゼントに「フランダースの犬」の本をプレゼントされます。最初はなんでおもちゃじゃないんだ!とすねていましたが、読み始めると涙が出て仕方がなかった。それからは少しずつ読書する楽しさを覚えていきました。

 普段は休みなく働いていた両親でしたが、お盆やゴールデンウィークだけは家族で旅行に行きました。お父さんはいつも皮の手袋をはめて運転していてその姿がとてもかっこよかった。

つらかった小学校時代が終わり、中学校に入った森本さん。最初は小学校の流れでまたイヤな思いをしたらどうしようと思っていましたが、それは杞憂に終わります。テニス部にも入り、新たな友だちもできました。超不良の友だちもいて、その子と一緒に悪いこともしていたので、校長室に呼び出しをくらったことが何回かあります。でも、中学に入ったとたん、お父さんは一切怒らなくなりました。もう自分でものの良し悪しを判断しなさいというお父さんからのメッセージだったのでしょうか。

 ちょうどインベーダーゲームが出始めた頃で、森本さんもご多分に漏れずすっかりハマってしまい、時間があればインベーダーゲームばかりしていました。その頃は今とちがって、家にゲーム機があるわけではありませんから、ゲームセンターや、お好み焼き屋さんでずっとゲームしていたのでした。

 勉強はしたことがないと言ってもいいくらいでしたが、中3になった時に、このままじゃあダメだ、ちゃんと高校に行こうと思って勉強をやり始めます。するとみるみる成績が伸び始めて、学年で中くらいだった成績が一桁になりました。しかし、提出物を出したことが一回もなかった森本さんは内申書が悪く、高校は富山第一高校の特進コースに進みました。

 ブラックジャックが好きだったこともあって、医学部に進みたいと最初のうちはがんばっていました。しかし、朝が弱い森本さん。どうしても電車の時間に間に合わないのです。都会の人にはわからない感覚ですが、富山は一本電車を逃すと30分は待たなければなりません。そうすると完全に遅刻なので、電車を待たずに自転車で学校まで行くことが多くなりました。それにしたって間に合わず、森本さんは遅刻の常習犯に。
 もらった定期代はすぐに遊びに使ってしまったので、結局自転車で通わざるを得ず、そのうちそれが面倒になって、富山市の友だちの家に毎日のように泊まるようになっていきました。友だちの家で麻雀ばっかりやって、タバコを吸ってブラブラして補導されたりもしました。そうなると学校謹慎ということで、学校で写経されられました。丸坊主にもさせられました。

 高3になった時に、やっぱりこのままじゃいけないと思い立ちます。それで、夏休みに東京の駿台予備校の夏期講習へ。最初は意気込んでいましたが、それもあまり長続きはせず、飲んで昼間も寝ていたり、東大のベンチに寝転がって、ウォークマンを聴きながら身体を焼いたりしていました。学食の食事も美味しくて、やっぱり東大はいいなぁと思いました。それでちゃんと勉強していい大学に入ろう、そう思ったのです。

 最終的に第一志望に選んだのは北海道大学でした。医学部はさすがに難しいので、理学部でバイオテクノロジーを勉強しようと思ったのです。模試の結果からいっても受かると思っていたのですが、なんと受験の日に遅刻してしまった森本さん。下見をしていなかったので、北大のキャンパスがとっても広いことを把握していなかったのです。この時、試験に遅刻せず北大に行っていたら、また全然ちがう人生になっていたのかもしれませんね。

 こうして、浪人することになり、東京の駿台予備校に通うことになりました。しかし、予備校生になると、大学は楽をしたいと思ってしまい、理系から文系に志望を変えました。そして、卒論がないという理由で、志望学部は法学部に。

 どうも学校に入ると遊んでしまう森本さん。予備校もやがて全然行かなくなり、模試だけ受けに行っている感じでした。しかし、予備校時代には素敵な出会いもいっぱいありました。駿台予備校は大学に入るより難しいくらいなので、当然優秀な人がいっぱい集まっています。同じ寮には哲学書ばっかり読んでる人、ギターばっかり触っている人、フランス語ばっかり勉強している人、いろんな人がいて、哲学談義をしたり、いろんな話で夜通し語り合うことが多かったのです。もちろん酒を飲みながら…。
この時からタバコなしでは生きていけなくなった森本さん。漫画「独身アパートどくだみ荘」そのものの時代でした。
 しかし、あまり勉強はしなかったので、共通一次の点数は現役の時より100点落ちました。そして、東京はあまり水が合わないと思ったので、大阪市立大学の法学部に入ったのです。

 大阪に行って一ヶ月くらいは全然友だちができませんでした。あまりに変な奴ばかりでしたから。でも、慣れてくるとみんな格好つけないところが心地よく、自分も格好つけなくていいんだと思うと、ずいぶん気持ちがラクになりました。こうして大阪がだんだん大好きになっていったのです。

 大学1年の後期くらいからは麻雀荘に通い始めた森本さん。自由と言われると自分を律することができない性分でした。いつも自分を追い込まないと力を発揮できないのです。ですから、自由がたっぷりの大学時代は、当然遊ぶ方に重点が置かれました。ドイツ語の先生に「あなただけは通しません」と言われ、留年確定。(語学は必修なので専門課程に上がる時までに単位を取らないと留年になってしまうのです)まさかの体育の単位も落とします。要するにそれはほとんど大学に行かなかったということに他なりません。「内面がしっかりしていないと外面を着飾ろうとする」というのは森本さんの弁ですが、大学時代にはDCブランドで身を固め、なんとソバージュヘアをしていたというのですから、その時のお写真をぜひ見たいものです。

 ある時期、知り合いが立て続けに亡くなります。麻雀荘が火事になってとっても仲良しだった友だちが死に、同じクラスだった子も首を吊って亡くなります。京都大学に行っている友だちも自殺。自分も小学生の時にとてもつらくて死を考えたことがあったけれど、みんな今なぜ死ななければならないのか。死というものを見つめるようになった時でした。とはいえ、生活は変わらず、相変わらず酔っ払って、また必修の単位をひとつ落として留年。つき合っていた子が先に就職して社会人になり、これじゃあいかんな、と思うようになります。同じように留年している友だちもいましたが、彼は弁護士になるという確固とした理由があってのこと。自分はいつもちゃらんぽらんじゃないか、こんなんじゃあかん。

 そしてちゃんと就職活動もはじめました。一番行きたかった政府系の銀行でのトップ面接の時に、「どんな会社でも2年あれば潰れる。いくら政府系のところでも下手な経営をしていれば2年あれば潰れるからね」と言われ、続けて「君はうちの会社に来ないほうがいい」と言われます。次の面接日も決まっていたのですが、自ら行かない方を選びました。
 実は競馬も大好きだったので、中央競馬会にも就職したくてここも面接まで行ったのですが、面接でいろいろ話している時に、ダブっているのは浪人含めて2年までしかダメだということがわかります。つまり、1浪2留の森本さんは受験資格がなかったのです。
 とはいえ、世はまだバブルが終わってはいなかったので、就職するのにさほど苦労はありませんでした。そのまま大阪で就職し、充実した毎日を送っていました。この時は富山に帰ろうなんて全然思っていませんでした。
 
 就職して2年経った時、お母さんから電話が入ります。お父さんがあと5年の命だと言われたと。そこから3日間の記憶が欠落している森本さん。気がつくと辞表を提出していました。

 お父さんはあとを継がなくていいと言っていたけれど、息子が帰ってきてとても喜んでいたと後でお母さんから聞かされました。
 しかし、それまで車に関して全く興味がなかった森本さん、3~4年は仕事が苦痛で仕方がありませんでした。毎日ツナギを着て、油まみれになりながらの仕事。ディーラーで直せない故障も直してしまうお父さんと違い、自分の中で修理が体系化できませんでした。
でも、ある時、電話で話している時に、突然頭の中でバラバラだったものがバチッとつながった瞬間がありました。それからは自分の中で体系化できるようになり、お客さんとの会話も楽しくなっていきました。最初は2代目のやり方に文句を言っていたお客さんからほめられるようになり大変うれしかった。
 でも、集客のことではお父さんと意見が対立しました。お客さんはお父さんが少しずつ大切に作ってきたお客さんばかり。しかもそのお父さんは入退院を繰り返しています。集客のためにチラシを打ちたかったけれど、その当時業界でチラシを打つことはタブー視されていました。

 29歳の時、森本さんは結婚してすぐに子どもが出来ました。生まれた時、めちゃめちゃ男前な男の子で本当に嬉しかった。でも、翌日奥さんから泣きながら電話がかかってきました。チアノーゼが出て調べたところ、心臓の左心室が未形成だということがわかったのです。もし手術をするとしたら毎年大掛かりな手術が必要になる。そしてその成功確率は10%。手術をし続けて最高に長く生きられたケースは6歳。手術をするか否か、森本さんにはどうしても決められませんでした。それで奥さんに言います。「お前の判断に任せる」結局奥さんも幼い心臓に危険を冒してメスを入れる決断など下すことはできませんでした。
小さな赤ちゃんはずっと保育器に入って、でも一生懸命手足を動かし、いろんな表情をしてくれます。搾乳器で絞った母乳を看護師さんに渡しながら、ひょっとして、この子は大丈夫じゃないか、ずっと生きてくれるんじゃないか、そんな想いが溢れました。出生届には「凱斗」という名前を出しました。一生懸命画数も考えてつけた名前でした。
そうして生後44日、凱斗くんは天に召されていきました。わが子の死亡届を出す気持ちはいったいいかばかりでしょうか。ずっと泣いて泣いて…。その当時は元気な子どもたちの姿をまともに見られませんでした。なぜうちばかりこんなことに…。すぐに涙が溢れてきてしまうのです。
 
 それからしばらくは子どもができませんでした。でも、森本さんが32歳の時に、元気な女の子が生まれました。とにかく可愛くて仕方がなかった。壁に落書きをした時にそれが嬉しく、壁中落書きだらけになった時もあります。
 
 お父さんは元気なお孫さんの顔を見届けて、それから凱斗くんのところへ旅立っていきました。お父さんが亡くなって、森本さんは仕事への危機感を覚えました。お父さんは腕でお客さんを満足させていた。お客さんは父に関係のある人ばかり。その父が亡くなった。このままではいけない。

 それからです。森本さんがたくさんの本を読み、いろいろなセミナーに行き始めたのは。
 そんな時に東京でたまたま有限会社香取感動マネジメントの香取貴信さんの講演会を聴く機会がありました。それまでいかにして社員が自分の思ったように働いてくれるかしか考えていなかったけれど、社員の人間性を育むという考え方に衝撃的を受けた森本さん。それまでセミナーを受けても懇親会に出たことなどありませんでしたが、その時初めて懇親会にも参加します。そこで聞いたのが「一週間後にドリプラというイベントがあるよ」という話でした。「大人の夢を聴いて、それを聴いてる人が感動の涙をながす。」そんな全然知らない人の夢を聴いて泣くなんてことがあるものか、そう思いましたが、強く薦められたこともあって、行くことにしました。そうすると1人目のプレゼンから号泣している自分がいたのです。こんなにも人を応援したくなるものなのか。強く感じた森本さんは、ドリプラを主催している福島正伸さんのセミナーに出ることにしました。そこで初めて気がついたのです。社員たちはなんで俺のいうことをわかってくれないのかと思っていたけれど、全部俺のやっていることが出ていただけなのだ、と。それまでは性悪説で人を見ていたけれど、経営スタイルを社員を信じる方へ変えていったのです。

 そしてNO.1理論の西田文郎さんのセミナーで自分の頭の中のことが現実になっているだけだということを学び、ついてるワクワク脳にすることの大切さを実感します。

 森本さんはついに、当時業界ではタブーだった価格を明瞭にした森本車検のチラシを打ちました。最初は組合の人から総スカンでしたが、価格を明瞭にすることの大切さを丁寧に話して理解を得て、そのうち車屋さんの知り合いも増えていきました。コバックにも加盟しました。そうして森本車検に来るお客さんがうなぎのぼりに増えていったのです。

 森本さんは人と人をつなげていくのがとても得意です。そしてそれがとても楽しいとおっしゃいます。人脈はその人の器を作っていくのだと。
 そして、いろいろな所にたくさんの寄付をしています。最初は儲けたらもっと寄付しようと思っていました。けれど、ある人に言われます。「出すから入ってくるんだ」と。
その言葉を聞いてからは、森本さんはどんどん出すようになりました。最初しんどいこともあったけれど、しんどい時こそ出そう、そう決意して。そして、決意して動けば大抵のことはうまくいくものです。うまくいかないのは覚悟が足りない時、そう感じます。

 何か大きな決断をするときは、今もお母さんがやりなさいと後押ししてくれます。亡くなったお父さん、そして今も元気なお母さんに守られて今ここにいる自分なのです。

 今は、社員に対して目先のことでは腹が立たなくなりました。お客さんに向き合う時の感度、人としてどうあるか、「ありがとう」が言えるか、同じ感覚で感じてくれる社員が増えてくれたらこんなに嬉しいことはありません。でも、裏でこそこそ悪口を言い合うくらいなら、胸ぐらをつかみ合ってでも堂々とやりあって欲しい。ずるいことが大嫌いな森本さんなのです。
 そして、上司になる社員は、上司になったからと言って人間的に上下をつけるようでは絶対にうまくいかないと思っています。人間的にはあくまでもフラット。ちゃんと部下にありがとうを言える上司であってほしい。もちろん、自分自身もそうです。

 森本さんは今後、お店の数を増やしていきます。上の役割を持った人間をたくさん作っていきたい。舞台を増やすことで人は成長できます。お店を増やすことが目的ではなく、森本さんが目指すのは人作りなのです。人としての在り方、生きる強さを持った人作りをしたい。以前インタビューした時に、教師をやってみたいとおっしゃっていました。つまりどちらも人を育てていくという点で一致していますよね。

 そんな森本さん、楽しいこととしんどいことは並んでいるんだとおっしゃいます。ワクワクと危機感がどっちかだけになるのはよくないと。

 森本さんは老若男女問わず好かれますが、それはご自身の根本に大きな人間愛が溢れているからだと思います。昔は完全に自分は性悪説だったとおっしゃいますが、森本さんはどう見たって相手を信じきっています。自分に甘いとおっしゃいますが、その人間臭さが余計にみんなに親近感を持たせるのかもしれません。

 そんな森本さんが7月27日に富山国際会議場で行われるドリプラ富山2014にプレゼンターとして登壇されます。森本さんは第1回のドリプラ富山2011の実行委員長。私はその時プレゼンターでした。果たして森本さんはどんな夢を語ってくれるのでしょう。とっても楽しみです。


喫茶店2011年ドリプラ富山実行委員長だった森本さんの元で私がプレゼンターをして、2012年の世界大会に至るまでの道のりはこちら
ドリプラマガジン プレゼンターメッセージ宮田妙子

 
今日の人123.高橋太郎さん [2014年07月02日(Wed)]
 今日の人は、看護師であり、富山で和漢薬の原料となる植物の栽培を薦めるプロジェクト阿羅漢の仕掛人であり、握力が85sもあって武道家の顔も持つ高橋太郎さんです。
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 太郎さんは1975年、高岡で生まれました。幼い頃は金沢で育ったのですが、その頃の記憶はあまりありません。小学生になる頃には高岡に戻っていましたが、喘息やアレルギーで身体も弱く、いじめられっ子でした。いじめっ子にやられていたので、いつも服をボロボロにして帰っていました。それで小1の頃から剣道を習い始めます。そしていつの間にか、棒を持ったら絶対に負けない子になっていました。こうなると、もちろんやられっぱなしではありません。おまけにお父さんはケンカに負けて帰ってくると、勝つまで帰ってくるな、という人でしたから、相手をとことんボコボコにしていました。勝ってから家に帰ると、既に菓子折りが用意してあり、父とその菓子折りを持って相手のうちに頭を下げに行ったのも一度や二度ではありませんでした。しかし、ケンカをやめようという気はなく、ずっとやられたらやり返すという姿勢でした。
ただ、自分からは仕掛けませんでした。あくまで仕掛けてこられたら完膚なきまでに叩きのめしていたのです。集団でケンカを仕掛けられることも多く、時には1対10ということも。それでも、学校を休もうと思ったことは一度もなかったと太郎さん。それはお母さんを悲しませてしまうと思ったからです。ですから、お母さんの前ではどんなにつらい時もいつもにこにこしていました。もっとも、ケンカで服をボロボロにしてきたり、血を出して息子が帰ってきた段階で、お母さんには相当心配をかけたとは思いますが…

 中学校の時に、岐阜のじいちゃん、ばあちゃんが高岡にやってきていて、しばらく一緒に暮らしていました。実は太郎さんはこのおじいさんから受けた影響がとても大きいのです。おじいさんは何度も戦争に行った人でしたが、戦場で一人も人を殺すことはなかった。その機会は何度もあったけれど、できなかったのです。でも、その度に守られているのではないかと思うくらいに生き延びて、シベリアに抑留された時も、仲間がバタバタと倒れていく中を生き延びた。そしてチベットの僧に治療を受け、その間にその手技を身につけたのです。日本に帰ってからその手技の評判が徐々に広がり、仕事の後などの時間におじいさんは請われるままに手当てしてあげていたのでした。そのおじいさんに手を添えられて、「ほら、太郎ここが悪いのわかるか?」と言われ、太郎さんには確かにそこがわかったのでした。おじいさんはいつも言っていました。「自分のために生きるな、人のために生きなさい。」その言葉が今も太郎さんを支える原動力になっています。

 とはいえ、中学時代もヤンチャだった太郎さん。しょっちゅうケンカもしましたし、ものも壊しました。公共物破損でしょっぴかれたことも一度や二度ではありません。ですから、内申書があまりにも悪く、県立は無理だと言われました。そうして私立の高校に通い始めましたが、校門の前で待ち伏せされることもよくありました。ですから高1の頃は相変わらずケンカばかりでした。空手も習って相当にはまっていたので、ますます強くなっていた太郎さん。しかし、この頃読書にも目覚めます。太郎さんが心を開いていた教頭先生から「太郎君、図書室で本読まん?」と誘われ読み始めたのです。その高校は仏教系の高校なので、仏教や哲学の本がたくさんありました。そういうものを片っ端から読んだ太郎さん。授業中も先生方はヤンキーにも納得できるような禅問答をしてきます。ケンカばかりしていた太郎さんでしたが、読書やそういう授業で少しずつですが、尖った角が取れていきました。

 就職する時、先生に郵便局や農協があるぞと薦められます。実は先輩方から、消防、警察、自衛隊にも誘われていたのですが、そのどれかを選んでしまうと他の先輩に義理が立たないと思い、先生に薦められた農協を受けることにしました。
 面接で何がしたいと聞かれた時に、ずっと「空手」と答えていたので、てっきり落ちたかと思いきや、次の日に内定が出て、あまりにすんなりと就職が決まったのでした。

 こうして農協に就職した太郎さん。もともとお年寄りに可愛がられるタイプなのでしょう。農家の人にとっても可愛がられました。仕事と同時に空手もずっとやっていて、道場にはヤクザに絡まれても平気な位に強くてすごい人がいっぱいいました。ですから、そういう強い人達の中にいると、弱い人達相手にケンカする気も起きなくなっていて、いつの間にかケンカはしなくなっていました。ただ当時の若者らしく、車で二上万葉ラインを爆走したりはしていました。

 そうして26歳まで勤めたのですが、保険業務をしなければならなくなって農家の人に売りつける感じがとてもイヤだったのと、ちょうど空手の先輩にS警備会社に入るか、デンマークの空手支部に行くかどちらか選んでほしいと有無をいわさぬ選択を迫られていたこともあり、S警備会社に転職することにした太郎さん。その頃ちょうど結婚したこともあって、太郎さんは強靭な肉体を活かして、危険な現場をかいくぐる仕事でどんどん出世していきました。映画「バックドラフト」そのものの火災現場で、動くはずのないものを動かす火事場のクソ力で扉をこじ開けて、消防車や救急車を通したり、後輩を救ったり、発砲現場に行ったりと、ずっとアドレナリンが出まくっているような状態が続きました。そんな太郎さんのあまりに過酷な環境に、奥さんからは「いつもいつも危ない目に遭っているから、いいかげんに辞めてほしい」とも言われていました。

 一方で警備の仕事ですから、昼間独居老人に呼び出されて会いに行くこともよくありました。おじいさん、おばあさんたちは太郎さんが来るのを待ちわびていてくれて、そうやっておじいさんおばあさんと話すのはとても嬉しかったのです。しかし、緊急時に呼び出しボタンで助けを求められても、医療的な資格が何もないので何もできない、それがとてももどかしかったのです。その話をケアマネージャーの方にしていた時に、「救急車の後ろに乗る看護師さんはどう?合っていると思うよ」と言われたのです。看護師をしていた奥さんもそれを支持してくれました。

確かにこんなに心身をすり減らす仕事を年を取ってもずっと続けられるわけもないし、なにより妻を心配させてしまう。そう思った太郎さんは1年かけて警備員の仕事を辞め、看護師になるべく、看護学校に通い始めました。
しかし、太郎さんと奥さんを引き離す予期せぬ出来事が起こり、二人はお互いに好きなままに離婚することになってしまったのです。これが太郎さんにはあまりにもショックが大きかった。眠れない、食べられない、何も考えられない。やがて太郎さんは重度のうつに陥ってしまったのでした。

看護師として働き始める時に、太郎さんはなるべく人と会わないで済む病院に行きたいと思いました。引きこもりたいという想いがとても強かったのです。それで選んだのが富山大学附属病院でした。県内で唯一の大学病院ですし、どう考えても大勢の患者さんに会う病院なのですが、心身ともに病んだ状態の太郎さんには山の中にある病院=引きこもれるという図式しかなかったのでした。
何もかも忘れたかった太郎さんは、何も考えなくてもいいように「一番過酷な現場」を希望します。こうして心臓外科の看護師になります。仕事でクタクタになって帰ってくるのに、一睡もできない…。ひどい時は2週間ずっと眠れないという状態でした。こうなると、もうまともに何かを考えられる状態ではありません。ある夜勤の日、患者さんに点滴が刺せないという事態が起こります。見かねた副師長さんが、「今日はもう帰りなさい」と言ってくれ、その日たまたま当直だった和漢薬診療科の先生が明日和漢薬診療科を受診しなさいと薦めてくれました。富山大学には国立大学で唯一、和漢医薬学総合研究所があって、附属病院に和漢診療科があるのです。
しかし、その時の太郎さんは受診手続きもちゃんとできないほどになっていました。次の日、受診手続きの仕方がわからずにボーっと突っ立っていると、「病院の看護師がそこでなに突っ立ってるの。とっとと帰りなさい」と先輩看護師に叱られます。その時、太郎さんを助けてくれたのが他でもない、病院の患者さんでした。太郎さんのために受診手続きをしてくれて、県外から来ているのに、診察が終わるまでずっと待っていてくれて、診察後は病院内の喫茶店で太郎さんの話をずっと聴いてくれたのです。太郎さんはその間中、ずっと泣きっぱなしでした。辛くて辛くて何度も自殺未遂を繰り返していた太郎さんでしたが、この時、自分の中で何かが変わったのです。

次の週、その患者さんは入院されて、太郎さんの受け持ち患者になりました。太郎さんは思います。「俺はこの人達のために本気になろう。この人達に恩返しをしてから死のう。」

こうして、それまで全く無関心だった和漢の本を読みあさりました。知れば知るほど和漢の世界は奥深く、太郎さんは和漢診療科の看護師になります。そして、そこで何度も奇跡を目撃してきました。西洋医学で医者から見放された人が和漢の力で回復していく場面を幾度となく見たのです。全国から富山に患者さんがやってきました。
しかし一方で、和漢薬の厳しい現実を痛感します。和漢の先生が苦しい胸のうちを話してくれました。「今、和漢の生薬はほとんどが中国頼み。しかももう原料が確保できるとは言いがたい状況だ。このまま和漢にいても先が見えている。」他の看護師からは和漢で甘えるな、もっと大事な部署があるでしょう!そんなことも言われました。自分は一看護師に過ぎないけれど、和漢が衰退していくのをこのまま黙って見ているわけにはいかない。そう思った太郎さんは決心します。「自分は和漢で生きていきたいからこそここを辞めます!」

漢方薬を中国頼みにしなくて済むよう、日本で漢方薬を作ろう!富山で作ろう!…でもどうやって?
何もわからずに大学病院を飛び出し、和漢薬を扱っている病院に移った太郎さん。それからはつながりを模索して、様々な場所に顔を出すようになりました。そんな中で多くの仲間に出会うことになったのです。どんなことにも思い切り前向きな仲間たちを見て、自分は何を臆していたんだろうと思いました。できない理由じゃなくて、できる理由を探せばいいじゃないか。

そうして上市にある県の富山県薬用植物指導センターを訪ねます。
「富山で漢方薬を作りたいと思っています!」
最初は『こいつ何言ってるの?』という対応をされました。でも、何度も何度も通ううちに、あ、こいつはホントに変なヤツで本気で考えているんだな、わかってもらえたのです。それからはいろいろ話し合う仲間になりました
 そして、自民党の政策コンテストでもプレゼンする機会を得て、『薬都とやま』への想いを訴えました。こうして太郎さんの「患者さんへ富山県産の漢方薬を届けたい」という想いは県に届いたのです!
ここからは急展開で話が進み、県自らがどんどんセミナーを開催し、漢方薬を扱う製薬会社を招いて話し合いをする場を設けてくれるまでになりました 。
そのうちに国も動き出しました。農林水産省、厚生労働省が同席し、漢方薬栽培について、どんどん話を進めていきました。
そしてとうとう、県知事まで動いたのです。!県内に漢方生薬栽培研究会が設けられ、県内に生薬を生産している農家を集め、生薬生産組合が設立されたのです。

 ただひたすら患者さんを守りたい、助けたい、そんな想いで動き続けたことが、こんなにも早く大きな結果を生み出したでした。
 こうして漢方薬の原料を作るのに農家さんが動ける環境は作った。今まで必死でずっとボランティアでやってきたけれど、これからもちゃんと活動を続けていくために、自分自身がロマンとソロバンを両立させる取り組みを始めていこうと今、思っています。
 そのための取り組みも実はもう始まっているのですが、それは太郎さんからの発表を楽しみに待つことにしましょう。

 太郎さんのこの取り組みの全体のプロジェクト名はProject阿羅漢といいます。漢方薬を途絶えさせないために、富山が和漢薬で盛り上がるように、そして何より患者さんのために。
 自分は自殺を何回しても生かされた。それはじいちゃんから続く使命だったのではないかと思うのです。使命だから、命をかけてやる。
 実は、この取り組みを始めた時もまだ太郎さんは自分の声に悩まされていました。何かしている時はいいのですが、一人になると「お前なんか死んでしまえ」という声が聞こえてくるのです。それで眠れずにまた仕事に行くという日々が続いてしまうのです。
 それが聞こえなくなったのはつい2ヶ月ほど前のことです。
「死なないで。私のために生きて」そう言ってくれる人が現れて、それで「ああ、俺、生きていいんだ」と心から思えたのです。
 だから、今、太郎さんは使命感に燃えています。その名の通りの薬都とやまにするために。
 
そして、その使命を果たしたらやりたいことがあります。
それは自分の空手教室を開くこと。子どもたち相手に空手教室を開いて教えたい。
きっと、太郎さんのことだから、熱い指導で子どもたちに接することでしょう。

生薬の元になる芍薬の花が咲き誇る薬都とやま。薬膳もすっかり有名になって、日本国内のみならず、海外からも富山の和漢薬を求めにたくさんの人がやってきます。
そして太郎さんの空手教室には、今日も子どもたちの笑顔が溢れています。
そんな日はきっと訪れることでしょう。

そんな太郎さんがプレゼンターとして登場するドリプラ富山2014は7月27日に富山国際会議場にて開催されます。
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