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今日の人122.岡崎朋也さん [2014年06月29日(Sun)]
 今日の人は富山県滑川市にある有限会社岡崎工務店代表取締役でドリプラ富山2014のプレゼンターでもいらっしゃる岡崎朋也さんです。
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 岡崎さんは二人兄弟の弟として生まれました。
今は写真を撮られるのが大の苦手ですが、幼稚園の時はとても目立ちたがりやで、写真を撮る時もいちばん目立つ所に率先して立つような子でした。ザリガニやクワガタを取って遊ぶのが好きでした。
 お母さんは習い事をさせるのが好きで、小さい時は水泳や柔道もやっていました。小学校でもサッカークラブに入って活躍していました。体を動かすことが大好きでした。
でも、勉強の方はさっぱりでした。勉強することに意義が全く見いだせなかったのです。そして、意義を見出せないことは頑としてやらない子でした。だから、宿題を提出したことは一度もありません。
 けれど、お母さんは勉強ができることに重きを置く人でした。弟とちがって、5歳年上のお兄さんはとにかくマジメで親の期待通りに育った子でした。岡崎さんはお母さんにホメられた記憶がありません。いつも言われていたのは「どうせできないでしょ」という言葉でした。そのせいかどうかはわかりませんが、ますます勉強なんかする気はおきませんでした。そしてお母さんには縛り付けられたり、お風呂で熱湯を掛けられたこともあります。その頃の岡崎さんに夢はありませんでした。夢の意味がわからなかった。

 中学校でもサッカー部とスキー部の活動だけは一生懸命やっていましたが、相変わらず勉強の方は全くしませんでした。鉛筆を持ったことなどないというほどそれは徹底していました。中3で部活を引退すると、体力を持て余してケンカもしょっちゅうしましたし、タバコを吸ったり万引きしたりするのは当たり前くらいの感覚でした。没頭するものが欲しくてパチンコに行ったりカラオケに行ったり飲みに行ったり…。でも、全く罪悪感はなかった。中3の時、一度万引きで捕まった時にお父さんが泣いたことがあります。あまり何も言わない父でしたが、その時は泣いたのです。お父さんはなぜその時、涙を流したのか…、その時の岡崎さんにはお父さんの気持ちを慮ることはできず、お父さんの涙にさほどショックを受けませんでした。

 高校は私立の職業科へ進みました。中学校よりなお学校の先生はゆるいと感じ、雨が降るとサボってパチンコ屋でくわえタバコでパチンコをしていたし、誰かと目が合うとケンカになりました。
 ある時、珍しくお父さんが好きなものを買ってやると言いました。後にも先にもそれきりだったけれど、お父さんは当時はやっていたオーディオキットを買ってくれました。どういうわけだかお父さんと腕相撲をして、あまりに弱くてなんだか悲しかったのも覚えています。

 そんな時でした。お父さんが末期がんだと知らされたのは…。でも、人が急に死ぬ、その実感がありませんでした。そうしてやはり好き放題をしていました。結局1年半の闘病生活の間、病室に顔を出したのは3回だけでした。その間、お母さんはお父さんに付き添ってずっと病院で寝泊まりしていました。
 ある日、親戚の人が家にやってきて、お父さんが危ないからと一緒に車に乗せられて病院へ。「お父さん」そう言って、お父さんに触れようとしたその時、お父さんは岡崎さんの手をふり払ったのです。
『そうだよな。こんな息子だもんな』その時、岡崎さんは思いました。
でも、死に際した父親が息子の手をふり払ったのは、息子を拒絶する意味だったのでしょうか?
岡崎さんが小学生の頃、お父さんは何回か海釣りに連れていってくれたことがありました。ほとんど話さなかったけれど、オーディオキットを買ってくれたお父さん、一緒に腕相撲したお父さん、息子が万引きで捕まったときに涙を流したお父さん…。今、岡崎さんには0歳の息子さんがいます。その息子さんの顔を見る時間が一番癒されると、岡崎さん。きっと、お父さんも仕事から疲れて帰ってきた時、小さな息子の顔を見て癒やされたことが何度もあったはずです。病床で死に際して思い出すのは息子のそんなあどけない頃や、一緒に海で釣りをしたことではなかったでしょうか。
 きっと、手をふりはらったのは、息子が嫌だからではなく、息子への叱咤激励だったのだ、私はそう思います。「おい朋也、俺はもうあっちへ逝くんだぞ、しっかりしろや」と。

 しかし、その時の岡崎さんはお父さんの死でさらにやけくそになり、ついには高校をやめてしまいます。群れるのは嫌いだった。求めてそうなったわけではないけれど、いつも一匹狼でした。感情が動くのはパチンコくらい。悲しさや虚しさをそこで埋めていたのかもしれません。

 このままではいけない。そう思って名古屋で住み込みで働いて自分を変えようと思いました。けれど、一週間ともたずに富山へ帰ってきてしまいます。さすがに実家に戻るわけにもいかず、昔のツレを頼って、高岡で住むことに。そこでもやはり日々ギャンブルしたり、ナンパしたりの日々でした。そんな時、ナンパで声をかけたのが、運命の人になる栄子さんでした。今まで自分が知っていたやんちゃなタイプの子とは全然ちがう栄子さんに岡崎さんは惹かれます。やがて、栄子さんは妊娠。岡崎さんは父になる決意をしました。

 19歳で結婚した岡崎さん。奥さんと二人、魚津で生活を始めました。「家族のために稼がなかれば」目的ができると岡崎さんはとことんまでやる人です。長距離ドライバーとしてがむしゃらに働きました。そしてある程度貯金も出来て、弱冠二十歳で家を建てることにしたのです。

 家が建っていく工程を見ながら、岡崎さんはワクワクしていました。そして、ないものが形になって目の前にマイホームとして現れた時に、言いようのない感動を覚えたのです。そして心から思いました。「自分もこんな風にお客さんに感動してもらえる仕事がしたい!」
こうして無謀にも家を建ててくれた住宅会社の社長さんに頼みました。
「いつか自分で住宅会社をやりたいので、大工さんの見習いとして雇ってもらえませんか?」
もちろん、社長さんからは無理だと断られました。それでも岡崎さんはあきらめませんでした。何回も何回も社長さんにお願いに行きました。そうして半年たったころ、とうとうOKしてもらえたのです。何度もお願いに行った岡崎さんの熱意についに社長がほだされたのでした。

 それからは何とか早く一人前の大工さんになろうと必死に働きました。
しかしその会社はなんと1年で倒産!そのあとに行った会社も自分が勤めて1年で倒産してしまったのです。それでも、家を建てた時のあの感動は岡崎さんの心から情熱を奪いませんでした。それまで何に対しても感動できなかった自分がこんなにも感動した「家づくり」をあきらめるなんて岡崎さんには考えられませんでした。そうして試行錯誤する中でいろんな人に助けてもらいながら24歳で独立を果たしたのでした。

 最初は、小さい仕事や下請けの仕事をしながら「30歳までに工務店になる!」と決め         
 色んな仕事をしました。その頃は、職人以外の経験がなく見積り・仕入れ・営業などは何もわからなかった。大工の仕事だけでは食べて行くことが出来ず、借金を返すために夜は、漁師をしていたこともありました。
「やはり何もわからないのはダメだ。この仕事をやっていくために、ちゃんと勉強しないと」初めて勉強することに意義を見出した岡崎さん。意義を見出したことには全力で取り組める岡崎さんは必死でさまざまなことを勉強しながら仕事をこなしていきました。
 やがて少しずつ仕事が増え、奥さんにも仕事を手伝ってもらう事になり、社員も3人雇えるまでになりました。そして、毎日、朝から晩まで現場で頑張っていました。
 しかし、どんなにがんばっていても、元請の会社が倒産したり未収金の為お金が払えないなどで借金がどんどん増えていきました。なんだか借金をなくす為に必死に仕事をこなしている感じでした。そして、借金がなくなると思ったとたん、また、元請の倒産。しばらく仕事をする気をなくしてしまい、とことん落ち込みました。

 でも、とことん落ち込んだ後に決めたのです。「もう、下請けは、やらない!これからは、「お客様の為だけの家づくりをしよう!」と。
「30歳までに工務店になる!」それが現実になった瞬間でした。

 それからは、お客さんにいかに満足してもらうかを大切に、一軒一軒丁寧に家づくりをしてきました。家づくりを通じてお客さんに感動を与えられていることが岡崎さんにはこの上ない喜びでした。
 
 しかし工務店を初めて5年がたったころから住宅の受注が思うようにできなくなりました。不安を感じて、初めて東京まで行って住宅会社の経営勉強会に参加しました。そこで感じた事は、今までがむしゃらに仕事に取り組んできたと思っていたけれど、自分はまだ全然勉強が足りなかったのだということでした。
 それからは本を読んだり、さまざまな研修を受けるようになりました。そこで気づいたのは、お客さんの為に一生懸命にしていたつもりだったけれど、実は自分の考えを押し付けていただけだったのだということでした。「自分はお客様に感動を与えたいと言いながら、お客様の声に耳を傾ける事をせず、自分の事を理解されたい為だけに必死に頑張っていたのだ…」
もっと大きかったのは、今まで自分一人だけで必死で頑張ってきたと思っていた事に気づけたことでした。自分はどれだけの支えがあって今があるのかということに初めて気づくことができたのです。
 文句も言わず現場にも出てくれる奥さん、休日も仕事で何処にも連れて行けないのに明るく素直に育ってくれている娘たち、そして家の事を全部してくれているお母さん…。他にもいろんな人に支えられて今の自分がいるのだ。
 思えば、お母さんも言葉や態度は厳しくても、愛情は深い人でした。そういえば、小さい頃デパートに連れて行ってもらった時、なにか募金活動をしている人がいると、お母さんはいつも岡崎さんに100円玉を渡して募金させていました。岡崎さんもどんなにケンカしたりしていても、弱い子やイジメられている子はかばうそんな少年でした。みんなに気持ち悪がられて不登校になっている女の子の家に迎えに行って、運動会の時に一緒に走ったりしたこともあります。自分は一人で育ってきたような気になっていたけれど、決してそうではなかった。お父さんもお母さんも自分に愛情を注いでくれていたのだ。そして、今は奥さんにも子どもたちにも、そして周りの人たちにも自分はこんなにも支えられている…。

 色々考えているうちに浮かんできたことは、自分に夢を持たせてくれた建築業界に恩返しをしたいという強い思いでした。今こうして自分が楽しく仕事が出来るのは、ずっと日本の建築業界を引っ張ってきてくれた過去の職人さん達のおかげなのだ。今自分がここにいるのは、決して当たり前のことではない。だからこそ、未来の建築業界の為にも、日本の伝統建築を絶やさないためにも、これからの大工さんを育成し、世界に日本建築の素晴らしさを伝えていかなければ!今、動かないと日本の建築業界は後進が育たなくなってしまう。今やらないで、自分がやらないでどうするのだ!
 子どもたちに物づくりの楽しさや価値を本気で伝え、自分たちが世界に誇れるプロフェッショナル集団になっていこう!…それが今の岡崎さんの本気の思いです。
 
 10代の夢の持てなかった時、ただ自分の欲求を満たすのが目的だった。それは、どんなに欲してどんなに手に入れても、決して心が満たされることはありませんでした。
 でも、40代で夢を持てた今、建築業界のために、子どもたちのために、自分ができることを命をかけてやっていきたいという想いが溢れる泉のように湧き続けてくるのです。

 「自分はお父さんを失望させてしまった。だから、お父さんにほめられる、そんな男になりたい。」岡崎さんはそうおっしゃいます。
 でもね岡崎さん、私はお父さんはきっと向こうでこんな話をしていると思うんです。
「おい、あれが俺の息子だ。自分で工務店を立ちあげて、これから従業員もバンバン雇って、富山で建築業界の伝説を作っていく自慢の息子だ」って…

 岡崎朋也さん、本気の男の生き様をみせてくれるとても素敵な方です。コワモテだけど、はにかんだ笑顔がとってもキュート。そんな岡崎さんのプレゼンを見に、ぜひ7月27日は富山国際会議場へお運びくださいね。
今日の人121.相沢英樹さん [2014年06月28日(Sat)]
 今日の人は富山でスイーツを作らせたら右に出るものがいないパティスリー・シュウエトのオーナーシェフ、相沢英樹さんです。
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 相沢さんは1966年に富山市で生まれました。富山市育ちではあるのですが、弟二人が喘息で入院しがちだったので、幼い頃は1年のうち半分は滑川の親戚のうちに預けられて育ちました。でもあまり寂しかった記憶はありません。お父さんは三交代の社員で忙しかったですし、お母さんも弟たちの看病で大変なのはわかっていましたから、駄々をこねたりすることもありませんでした。

 小学生になると、親戚の家に預けられることもなくなり、いつも近所の子どもたちと外で遊びまわっていました。野球少年だったので、いつも野球ばかり。とりわけ王貞治さんの大ファンで、部屋には雑誌「冒険王」の付録について来た王さんのポスターがずっと大切に貼ってありました。一本足打法の王さんの写真に「努力」の二文字が書かれているポスターでした。将来の夢もプロ野球選手でした。当然、巨人に入るつもりでいました。
 お父さんがスキー好きだったこともあって、冬にスキーをするのも好きでした。学校はとても楽しく、学校に行くのががいやだと思ったことは一度もありませんでした。

 中学校でも野球部に入る!と心に決めていたのですが、小学校時代一緒に野球をしていた先輩に強制的に卓球部に入れさせられます。ショックでした。絶対に野球を続けたかったのに…。
 でも、卓球部に入ったからにはここでやるしかないな、と切り替えられるのが相沢さん。そして2年の時には富山市の大会で優勝したのです。相沢さんを卓球部に入れさせた先輩は相沢さんのそういう素質を見抜いていたのでしょう。
 学校には相変わらずちゃんと行っていましたが、一方では不良少年たちともつるんでいました。一通りの悪さもしたそうです。もしかしたら野球部に入れなかった鬱憤をここで少し晴らしていたのかもしれません。

 高校ではアルバイトとパチンコ三昧の日々を送っていました。といっても学校はサボらず行っていました。その場の中で楽しいことを見つけることが昔から得意でした。
『自分はものづくりが好きだな。特に食に関することに興味があるな』という想いも、野球から遠ざかった頃から漠然と抱いていました。そして、高校2年の時には親にこう言ったのです。
「卒業したら辻調理師専門学校に行かせてください」

 こうして大阪にある辻調理師専門学校に進学した相沢さん。学校が斡旋してくれた寮付きの中華料理屋でアルバイトしながらの学生生活でした。寮は大部屋に10人ほどで雑魚寝するような部屋ではありましたが、学校に行って、アルバイトに行って、寝に帰ってくるだけなので、全然苦にはなりませんでした。ただ、学校に入って早々にわかったことがありました。エビに触ると手が痒くなることから、甲殻アレルギーがあることがわかったのです!さて、そうなると甲殻類を使う和洋中の料理人には向きません。こうして、お菓子分野を専門にすることに決めた相沢さん。ただ、専門学校時代は出席単位ギリギリでの卒業になりました。アルバイト先の仕事は毎日が終電の連続で、しかもその後飲んだりしていたので、朝寝坊して起きられない日が続いてしまったのでした。
 でも、アルバイト先での仕事ぶりは本当にマジメそのものでした。相沢さんは仕事に本当にマジメな人で、仕事をさぼりたいとは一切思わないそうです。お父さんが仕事人間だった影響も大きいかなと思っています。そして、仕事の愚痴は一切家族の前ではこぼさない相沢さんなのでした。

 卒業後は大阪のケーキ屋に就職しました。シェフは昔気質の人だったのでよく殴られましたが、とても面倒見の良い人でした。2年経つと「お前退職届を書け」と言って、相沢さんが更に技術が磨ける店を紹介してくれました。こうして更に2年、大阪で働きました。朝の5時から夜の9時、10時まで働くのが当たり前のような毎日でしたがそれを不満に思うこともなくひたすら腕を磨いていったのでした。。

 こうして大阪で4年間働き、今度はフランスか東京で働きたいと思っていました。でも、どうしても地元に帰らざるを得ない事情が出来ました。フランスにも東京にも行きたかったので、ずいぶん悩みました。好奇心が強いので、一度行きたいと思ったら本来行かずにはいられない性格の相沢さん。でも、「本当に行きたかったら、後からでも行けるやろ」と言われ、泣く泣くその想いを封じました。

 そして金沢の全日空ホテルでシェフに。ここでは3年働くのですが、その間に結婚もしました。その後はいろいろ落ち着いたこともあって、北海道のホテルで2年働きます。しかし、そのホテルは内部派閥がすごく、すぐに足の引っ張り合いになり仕事がまともにできませんでした。ここにいると自分はダメになる。そう思ってまた金沢に戻ります。

 相沢さんの基準はいつも世界でした。世界レベルの中で自分のレベルがどこにあるか?それをいつも考えるのです。そして、そこに追い付きたいから努力は決して惜しみません。だから自分の技術と常に逃げずに向き合ってきたという誇りがあるのです。
「メジャーリーグと触れ合った時に負けていないと思えるのは努力以外にない」とイチローが言っていたように、世界のパティシエと遜色ないと思えるのは自分の努力以外にはないのだと相沢さんは思っています。

 しかし、やっとの思いで北海道のホテルを辞めさせてもらってからの新たな金沢時代、こちらも暗黒の時代と言っていいほど、しんどい5年間でした。5日間連続で徹夜して仕事するほど忙しい日々。2年間は全く休みがありませんでした。今から思うとなんでやめなかったのかと思うほど過酷な労働状況でしたが、責任感の強い相沢さんですから、やればやるほどドツボにはまっていく、そんな感じの5年間だったのです。この時の忙しさは、家庭生活にも多大な影響を与えてしまいます。あまりに家に帰らずに仕事ばかりだったためでしょうか。8人いたスタッフは全員離婚。実は相沢さんは最後の一人だったのですが、その相沢さんもこの時のすれ違いが響いて、後に離婚してしまうことになったのです。仕事の愚痴は一切家で言わなかったので、家に帰ってこない相沢さんが浮気をしているのではないかと疑われてしまったこともありました。ですから、家でもある程度仕事の愚痴もこぼした方がいいと、この時の経験から思っています。

 相沢さんは大変な労働環境からようやく抜け出せたのは、富山全日空ホテルで働き始めてからでした。金沢全日空ホテル時代の副料理長が富山全日空ホテルの料理長になり、ぜひ来てほしいと声がかかり、相沢さんはようやく富山に帰ってきたのでした。
 富山全日空ホテル時代はとても安定していました。ちょうどホテル自体もオープンして2年目に相沢さんが入り、いちばん売上を伸ばした時でもありました。忙しいなりにも月に2,3回は休めるようになり、ゴルフにも行けましたし仕事もプライベートも充実した時になりました。お子さんを連れてよく遊びに行ったのもこの頃です。

 相沢さんは読書もよくします。大阪での最初のお店のシェフに薦められて司馬遼太郎の「関ヶ原」を読んでからというもの、司馬遼太郎は読破しましたし、開高健も好きでした。金沢のお店で責任者を任されてからはビジネス書もよく読むようになりました。セミナーには基本的に行かない相沢さん。いろんな人がいるのにセミナーだとどうしてもみんな一緒くたになってしまう。それが好きじゃないと相沢さん。

 さて、相沢さんは40歳になったら自分の店を出そうとずっと心に決めていました。40まではいろいろなものを見聞きして、その後自分で独立しようと決めていたのです。幸いにして富山全日空ホテルは人も育ってきていたので、やめやすい状況にはありました。それでも相沢さんの変わりの人がなかなか見つからず自分のお店をオープンする3ヶ月前には辞めるつもりが、結局半月前までいることになるというハプニングはありましたが。

 しかし、こうして相沢さんのお店パティスリー・シュウエトは2006年10月にオープンしたのです。それから8年。お店では自分のやりたいようにやっていると相沢さん。しかし前述したように、お菓子作りに一切妥協はありません。だから相沢さんはお客さんに合わせるのではなく、自分の美味しいと思うものだけを出します。

 お店を出して、しばらくしてからeラーニングで大前研一さんの問題解決力トレーニングプログラムを受講。100人の受講者のうち、20人しか最後まで残らないタフなプログラムでしたが、途中で投げ出すのが大嫌いな相沢さんはもちろん最後までやり遂げます。その学びの中で、自分はカウンセラーもやりたいのだと気づきます。実は独学でずっと心理学も勉強していた相沢さん。お菓子教室を開催して、いろいろな人の話を聞くうちに、自分にはカウンセラーが向いているのではないか、と思うようになったのです。パティシエはとても肉体労働です。歳を取ってからもずっと立ちっぱなしのこの仕事には無理があるのではないかと思った時に、歳を取った自分に一番いいのはカウンセラーだと思ったのです。そして、その分野で相沢さんの師匠とも言える人は心理分析士のつじようこさんなのでした。
 セミナーとちがってカウンセリングなら一対一のやりとりを大切にできる、それは相沢さんにとってとても大切なことです。今の日本はあまりにポジティブ志向が強いように感じるけれど、ポジティブじゃないといけないというのはよくない風潮だと感じています。日本人はなかなか助けてといえない人が多いけれど、そう言えない人々の話をうまく引き出せるようにしていきたいと思っているのです。昔の職人さんたちは怖いけどあったかかった。今の若い人はそういう機会がなかなかないのだとしたら自分がその役割を担いたい。それが自分ができる社会への恩返しでもある、そう思っています。

 まだまだ先の話ではありますが、今、東京でパティシエをしている息子さんが富山に帰ってきて跡を継げば、相沢さんは移動販売車でケーキを売りながら、一緒にカウセリングもやっていくつもりです。パティシエ&カウンセラーなんてちょっと聞いたことがないかもしれませんね。相沢さんにはまだまだお店をやっていただきたいですが、その移動販売のケーキを食べながら相沢さんのカウセリングを受けるのもとっても楽しみです。

 もうひとつやりたいと思っていることがあります。それは障がい者と言われる人々がちゃんとした収入を得られるシステムを構築すること。もちろん、その事業も得意のお菓子屋さんからの出発になると思いますが、相沢さんは彼らにもちゃんとお金を稼いでもらいたいと思っています。収入を得て税金を納めることが、いちばんの社会貢献だと思うし、自信にもなると思うからです。

 こんな風にやりたいことがてんこ盛りの相沢さんですが、最近は自分の体作りにも気を遣っています。実は今年の1~3月に体調が絶不調だったことから、やはり体は大事だと改めて思わされたのです。ですから、最近はジムにもマジメに通い、体重も順調に落ちています。おかげで体調はとてもいいと相沢さん。今日も妥協無くお菓子作りに励んでいらっしゃいます。

 最後にお店のHPに書いてある相沢さんの想いをぜひお読みください。
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 ≪街のおかし屋でありたい≫
子供の頃、僕がおもちゃ屋さんにいくと、最新の人気ゲームプラモデル、盤ゲームや女の子向けのぬいぐるみなどありとあらゆる数多くのおもちゃが並び、圧倒され、目を輝かせてワクワクしたのを覚えています。僕はケーキをつくる仕事に就くようになり自分をお店をもつことに夢をみてそんなおもちゃ屋さんのようなお店でありたいと考えました。それはケーキ屋さんではなく色々なものが置いてあり「今日はどれにしょう?」とワクワクせずにはいられないような街のおかし屋さん(Pâtisserie,パティスリー)でありたいと。

≪すべてが手作り、材料は1流、絶対妥協はしたくないんです≫
こうして僕の中に広がった、富山の地に『街のお菓子屋さん』を開く夢、店の扉を開けると色々なお菓子が溢れていてしかもすべて手作り、出来立て材料は世界各国の人々がていねいに育ててくれた良いもの、1流のものだけを使う。構想が頭の中でどんどんふくらむ…。実は、こんな僕の夢を多くの人が否定しました。『理想を追いすぎだ』『綺麗事だけじゃ経営はできない』と。けれども、僕は絶対に妥協したくなかった。そして、『えい!』と勢いだけで、夢への第1歩を踏み出したのです。

≪お菓子を囲む人たちが、みんな笑顔になれますように≫
こうして生まれた僕の店は、『パティスリーシュゥエト』と名づけました。シュゥエトとはフランス語でふくろうのこと。知っていましたか?ふくろうは欧米では『幸せを運んでくれる鳥』なんです。そこには、こんな想いを込めました。

"お菓子を囲む人たちが、みんな笑顔になれますように"

お菓子は生活必需品ではなく、嗜好品です。もしもお菓子がこの地上から消えても、我々は生きていけます。けれどもお菓子には、人を一瞬で幸せにする魔法のような力があると思うのです。だから僕は、お菓子という名の『人を幸せにする鳥』を生み出す人になろうと決めたのです。
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こんな幸せなコンセプトで作られた相沢さんのお菓子がおいしくないわけがありません。
みなさんもぜひ、大好きな人と一緒に、相沢さんのお菓子で幸せな時間をお過ごしくださいね。
今日の人120.下村豪徳(かつのり)さん [2014年06月23日(Mon)]
 今日の人は株式会社笑農和代表取締役、富山の滑川(なめりかわ)を活性化する目的で作られた滑活交流会の主催者でもある下村豪徳さんです。
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 下村さんは1977年に立山町で3人の男兄弟の長男として生まれ育ちました。弟は4歳下と10歳下に2人います。小さい頃は、戦隊物のサンバルカンのモノマネをするのが好きでした。友だちと一緒にやるのですが、下村さんは決まって赤、つまり主役の役をやっていました。なので、そのころなりたかったのはやっぱりサンバルカンでした。(私たち世代にしたらゴレンジャーの赤レンジャーと言ったらとってもピンと来るのですが)
 下村さんは物心つかないうちに両親が離婚して、母方の祖父母と一緒に暮らしました。お母さんはすぐに再婚したのですが、下村さんは新しいお父さんを本当のお父さんだと思ってずっと育ったそうです。そのお父さんもあまり家に帰ってくる人ではなく、またお母さんも仕事ばかりだったので、下村さんは完全におじいちゃん・おばあちゃんっ子でした。中でもおばあちゃんと過ごす時間がいちばん長かったのです。兼業農家でしたから、下村さんもいつも農作業現場に行って、そこで遊んでいました。小さい頃は絵本が大好きで、おばあちゃんもいつも絵本を読んでくれました。おはあちゃんは計算も教えてくれて、5歳の頃、少しくらいの掛け算ならできました。それで計算も好きになりました。

 小学校に入ると、ドラゴンボールの悟空やパーマンのマネをして遊んでいました。宿題はさっさと済ませてしまっていたので、宿題をいやだと思ったことはありません。夏休みの宿題も大体7月のうちに終わらせてしまう方でした。
 小学2年からファミコンにハマリます。ゲームをしたさに頻繁に友だちの家で夜遅くまで遊ぶようになったので、みかねてゲーム機を買ってくれました。それからは誕生日プレゼントも決まってゲームのカセットをもらうようになりました。

でも、どんなにゲームに夢中になっても、農作業の手伝いをするのだけは欠かしませんでした。イヤイヤやっていたこともありますが、子ども心にもこれは自分がやらなければいけないことだという気持ちが強くはたらいていたようです。

 農作業にたくさんの人出が必要な時、おばあちゃんは親戚に手伝ってもらっていました。おじいちゃんは自分のペースでなんでもやりたがる人だったので、あまり他の人の手が入るのを嫌がりましたが、そこをおばあちゃんはうまく調整して、おじいちゃんの機嫌を損ねないように親戚に手伝ってもらっていました。そしてそういう時は決まって家でばあちゃんが振る舞いをするのでした。下村さんはそんな時間がとっても好きでした。
家は100年位経っている古民家で、おじいちゃんは百姓でも大工仕事でもなんでも器用にする人でした。下村さんが小さい頃は隣の家が牛舎で牛が農作業にも活躍していたのを覚えています。その牛乳があまりに濃くて、逆に牛乳嫌いになってしまった下村さん。特に土曜日のミルク給食(昔、土曜は牛乳だけ出たのです)が大の苦手でした。

 小4の時はキャプテン翼のオーバーヘッドシュートにあこがれてスポーツ少年団に入りましたが、ドリブルばかりやらされてちっともオーバーヘッドの練習をさせてもらえず(当たり前と言えば当たり前ですが)サッカーのスポ少は半年でやめました。
 小学5年6年の時は卓球クラブで卓球をやっていました。これは続きました。でも、同じ5,6年の頃、一部の友だちからいじめにも遭っていました。みんなにシカトされるとかではないのですが、この経験で遊ぶ友だちを絞るようになったと下村さん。
 その頃もゲームが大好きで、自分でキャラをノートに書いてシナリオを作ったりもしていました。それを何冊も作ってつなげたりしていたので、将来はゲームソフトを作りたいなぁと思っていた下村さんです。
 
 中学校では卓球部に入ります。ちょうどとんねるずの卓球対決が流行っていたので、それをマネしたりもしていました。計算好きな幼少期からずっと数字に関することは好きだったので、数学は得意でした。そして相変わらずゲーム少年でした。
 中3になるとギターに目覚めます。エレキギターを持った漫画の主人公がとってもかっこよく見えて、「これだ!」と思ったのでした。それで、ギターを買ってもらい、自分で練習して、弾けた気になっていました。しかし、バンドをやろうと思ってメンバーを集めたところ、全然弾けてないよ、と言われてしまってがっかりします。

 それで一念発起した下村さんは高校に入ると、ギターを習い始め、ギター三昧の日々を送るようになります。この頃になると、ゲームよりもなによりもとにかくギターでした。バンドもいくつも組みましたし、高2の時は自らイベントを企画したりもしました。高3の時にはなんとティーンズミュージックフェスティバルで優勝し、次の年には全国大会へ出るくらいにギターの腕があがっていました。
 バンドを始めてからの下村さんはとにかく積極的になり、生徒会長にも立候補しましたし、応援団にも入りました。高校生ディベート大会の富山県大会で決勝まで進んだこともあります。そして、吹奏楽部の舞台にエレキギターを持って立ったり、学園祭でも大活躍したり、とにかく本当に楽しい高校生活でした。他の学校に彼女がいて、始めて失恋を味わったのも高校時代。失恋したことをばあちゃんに話したのもいい思い出です。

 高校卒業後はポリテクカレッジでコンピューターを専攻します。その短大1年の時にティーンズミュージックフェスティバルの全国大会に出場しました。そして同じく短大1年の時に、奥さまと出会ったのでした。

 そしてコンピュータの勉強も下村さんにはとても合いました。勉強も恋愛も音楽も、とても充実した2年間でした。

 その頃、地元の楽器店のギター教室で講師で入ることもありましたから、そこに就職しようと思って面接試験を受けましたが、面接のめの字も練習をせずに受けて、トンチンカンな受け答えをしていたので、当然受かりませんでした。
 そしてどこかまだ受けられるところはないかと先生に聞いて受けたコンピュータの会社にすんなり受かります。

 半年みっちり研修を受け、その後プログラマーとしてとても充実した仕事をやらせてもらいました。一方音楽の方でもインディーズバンドとしてCDを出し、全国を回るなど大活躍でした。
 しかし就職して1,2年経った頃、大好きなおばあちゃんが亡くなり、大きなショックを受けました。やがてバンドのメンバー間で方向性の違いを感じ、バンド活動を辞め次の年に結婚。滑川に住み始めたのです。

 ちょうど結婚した頃、下村さんは営業へと転向させられました。部長は「営業は飲むもんだ!」という人でしたから、毎日のように夜中に帰ってきたので、さすがに奥さんはカンカン。家をしめだされたりしたこともありました。
 しかし営業2年目になると、次第に自分で時間をコントロールできるようになり、奥さんも理解を示してくれるようになりました。ただ、今度は出張が増え、3週間ずっと出張で土日だけ家に帰るというような時も多くありました。
 4~5年、そういう生活が続いたのですが、県外に数多く行ったこともあり、県外目線で富山を見ることもできるようになりました。

 そんな時です。リーマンショックが起きたのは。会社は営業部門は閉鎖すると言い、営業職はクビか他の部門へ移るという選択を迫られました。しかし、お客さんごと切るという会社の方針が納得できなかった営業部門と開発部門がそっくり会社を出て、新しい会社で再出発したのです。下村さんは役員ではありませんでしたが、リーマンショック後の会社経営は厳しく、その会社は3年で潰れてしまったのでした。

 それで下村さんは踏ん切りがつき、独立して会社を立ち上げる心が決まったのです。
小さい時からずっと手伝ってきた農業。そして、仕事で携わってきたIT。これらをつなげて仕事をしよう、そう思いました。それまで農業と言えば、アナログの世界でした。全国的にはITを使った農業の事例も出来てき始めてはいましたが、富山ではまだまだ。こうして「農業を通じて笑顔の人の和を創り社会貢献する」をミッションに掲げ株式会社笑農和を設立したのです。

下村さんの会社が手がけているのは以下のことです。
1、 農業に関するコンサルティング業務
2、商品企画・マーケティングに関するコンサルティングサービス
3、米、玄米の販売およびインターネット販売並びに輸出入
4、米、玄米の加工品の販売及びインターネット販売並びに輸出入
5、農業生産管理システムの開発・販売
6、農産物流通システムの開発・販売
7、農家向けパソコン相談
下村さんのネット販売を通じて、今まで全然知らなかったお客さんと農家をつなぐ、そしてその人たちが農家のファンになって、さらに和が広がる。下村さんは自分の「つなぐ」役割をひしひしと感じているのです。

これから先、ITを活用する農業はますます当たり前になります。コンピュータの形も変わっていくでしょう。だとすると、つなぐ役割はもっと重要になってきます。下村さんは農作物を作る人、買う人、料理する人、食べる人、それぞれの想いをきちんとつなげて、富山の農業を世界中とつなげるのが夢です。
そして、ITだけでなく、直に農業に触れる田植え体験、稲刈り体験。袋詰体験。いろいろな体験メニューもこれから増やしていく予定です。

 今、農業の世界も伝統がだんだん失われてきています。本当に伝えなければならないことを次の世代につないでいきたい、そこにも強い想いがあります。その一つが収穫の喜びを表す祭りの復活。弥生時代の収穫の喜びを純粋に表す祭りを再現できたら…。昨年は神主さんを呼んで収穫感謝祭を開催しましたが、これをもっともっと発展させて広げていきたい。世界とつないで、世界中で収穫祭をやれたら素敵だという想いもあります。やりたいことを考えるとワクワクが止まらなくなる下村さんなのでした。
 
 そして、今は2歳と3ヶ月の2人のお嬢さんの育児にお忙しい奥さんですが、いつか夫婦二人三脚で一緒に会社をやっていけたらというふうに思っています。そう、じいちゃんとばあちゃんがいつも一緒に農作業をしていたように。

 音楽に関しても、世界各地のメンバーと一緒に海外のライブハウスで演奏するのが夢です。そして、世界中の農場もまわってみたい。そこからまた、新たなつながりもたくさん生まれてきそうですね。

 いつも外を歩きまわっているのにとても白い下村さん。実は尋常性白斑という難病も持っています。マイケル・ジャクソンもこの病気でしたが、どんどん白くなっていく病気です。本当は太陽にあまり当たらない方がいいらしいのですが、下村さんは今日も農家さんの所を飛び回っています。そしていろんな人をつないで笑顔を生み出しています。
 
 そんな下村さんが、7月27日に開催されるドリームプレゼンテーション富山2014でプレゼンターとして登壇されます。下村さんの夢のプレゼンを、ぜひ聴きに来てください。特に農業にITを取り入れたいと思っている農家さんは必聴ですよ〜!富山国際会議場で13時スタートです。
詳しくはこちらまで
http://drepla-toyama.com/
今日の人119.落合良幸さん [2014年06月22日(Sun)]
 今日の人は、富山市八尾町に7月にプレオープンするブルーベリー農園「ベリー・ベリー・ヤミー」の代表、落合良幸さんです。
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 落合さんは昭和46年に男3人兄弟の末っ子として千葉の幕張で生まれました。当時の幕張は本当に自然がいっぱいの田舎で、いつも家の裏の森でクワガタやカブトムシを捕まえたり友だちと走り回っていた子ども時代でした。とにかく勉強が大嫌いで、どうやってサボろうか、それをいつも考えていました。授業をサボって友だちと一緒にゲンゴロウやタニシを夢中で捕まえていたなぁ。その友だちのお父さんにイナゴを袋一杯にしたら1万円をやると言われて、2人で必死になってイナゴを捕まえたことがあります。見事袋に一杯にし、1万円をゲット。友だちとわけて5000円もらえたのが嬉しくて嬉しくて忘れられない思い出です。

 その頃は大きくなったらお金を稼ぎたい、そのために社長になりたいと思っていました。落合さんのうちは貧乏だったので、親のために稼ぎたい、そして美味しいものをいっぱい食べさせてあげたいと考えていたのです。元々お父さんは島根の人でした。島根で農業をやり、木こりをやり、その稼ぎで家族を養っていたのですが、おじいさんとケンカをして無一文で家を追い出され、親戚を頼って千葉にやってきたのでした。そして千葉で初めてサラリーマンになり、ようやく落ち着いてきたと思ったら不動産詐欺にあって大工さんにも家作りを放棄されるという大変な目に遭って来た方なのでした。でもお父さんは木こりの腕を活かして、玄関や風呂などは全部手作りしていました。そしてお母さんもいつも笑顔でした。だから家は貧しくとも、落合さんは家族でいる時間がとても幸せだったのです。だからこそ、お金を稼いでお父さんやお母さんに楽をさせてあげたいと思ったのでしょうね。

 夢はでっかくですが、相変わらず勉強は全然せずに外で遊びまくっていました。友だちと一緒にテントを立ててキャンプをしたり野球したり、体操もやっていたのでバク転も得意でした。イタズラもいっぱいしました。ピンポンダッシュをしたり、カエルを爆竹で破裂させたり、高速道路を自転車で走ったり、プールに潜って落ちている小銭を拾ったり…。そんなヤンチャな子ども時代でした。

 中学に入っても、そのヤンチャな仲間とつるんでいました。でも中1の時に、自転車を盗んでその自転車で交通事故を起こし、救急車やパトカーを呼ばれるいう大騒動になった時がありました。落合さんは、警察からこっぴどく怒られました。家でも怒られるんだろうなぁと覚悟していましたが、不思議と怒られませんでした。お母さんによるとお父さんが「警察でさんざん怒られて反省もしているだろうから、これ以上怒る必要はない」と言っていたそうです。それを聞いて落合さんはここままじゃダメだと強く思いました。『何か変えなきゃ!』そうしてその仲間からは抜けたのです。
 
 部活はバレー部に入っていました。夜も自主練をするくらいに打ち込んでいました。でもケンカもよくしました。実は4つ上のお兄さんの時はその中学校は一番荒れている時で、しかもお兄さんはガタイもでかく、番長クラスのツワモノでした。だからよく「あの落合の弟か」と言われたものです。落合さんはお兄さんとちがって小さかったけれど、負けん気は人一倍強く、ケンカも強かったのです。

 中3で部活を引退するまで一切勉強をやっていませんでしたので偏差値は40くらいでした。しかし、中3の夏休みから猛然と勉強に打ち込み、短期間で偏差値を20以上もあげたのです!それだけ打ち込んだらとことんの落合さんなのでした。

 家が貧しかったこともあり、高校は県立一本に絞りました。そして家から自転車でも通える市立習志野高校へ。強豪のバレー部からも誘われましたが、みんな190cmを超える長身でしたし、坊主にしなければならないこともあって断りました。そうしてボクシング部へ入るのですが目が悪くなってしまったので辞め、その後はアルバイト三昧の日々を送ります。コンビニ、弁当屋、スーパー、皿洗い、ウエイター、時給のいい方へいい方へと移り、高校3年で時給1000円をもらっていました。高校に入ると勉強熱はすっかり冷めていて、なりたいものも特になかった。就職試験も2社受けましたが面接で落ちます。家は国立大学しか進学させてもらえないし、お兄さんたちが浪人で苦労しているのも見てきたので浪人はイヤでした。そこで選んだのが東京にある法律の専門学校。特に法律に興味があるわけではなかったのですが、とにかく学費が安かったのです。

 専門学校時代はアルバイトをしつつも学校にはマジメに通い宿題もちゃんとして2年生の時には就職活動もちゃんとやりました。そして、千葉地方検察庁の事務官になったのです。ヤンチャ坊主が公務員、しかも検察庁の事務官になったのですから、まわりはみんなびっくりでした。

 しかし、この仕事は自分には合わないと感じましたし、将来も見えてしまい1年半で辞めてしばらく放浪の旅にでることに。1ヶ月くらいヨーロッパを周り、その後は1年くらいかけて自転車で日本国内を周りました。各地でバイトをしながらの放浪の旅。いろんな人が声をかけてくれて、人の優しさをひしひしと感じる旅になりました。

 こうして1年くらい経った頃、そろそろちゃんと就職しようと思い、旅にピリオドを打ちました。そして面接を受けたのが、富山に本社を持つ廣貫堂だったのです。営業の仕事は落合さんには向いていました。優秀な営業マンとして、千葉、仙台、そして富山へと赴任になったのです。30歳の時でした。

 富山に来ても毎日仕事に打ち込み、真夜中まで飛び回る日々。しかし、営業所を回っている時に体に違和感を感じ、倒れます。そして即入院。そこで不治の病と言われるクローン病に侵されていることがわかったのです。68キロあった体重があっという間に53キロに。ガリガリに痩せました。体力回復の為に千葉の実家に帰省していたとき、何度も「会社を辞めて帰ってこい」と言われました。しかし、入院しているときに両親が言った言葉がどうしても頭から離れませんでした。
「ごめんね…」
なんでオヤジやお袋が謝るんだ?落合さんは申し訳ない気持ちいっぱいになります。そうしてこれ以上に両親に心配や迷惑をかけたくないと、千葉に戻る選択はしませんでした。

 しかし富山に帰ってからも入退院を繰り返し、なんで自分がこんな病気にならないといけないんだ!と自暴自棄となっていました。
 そんな日々を繰り返していた33歳の時のことです。いつも行っていた小料理屋さんから「会ってみない?」と看護師の女性を紹介されたのは。
 二人はすぐに意気投合しつき合い始めました。1年程たって、一緒に旅行していた時、落合さんは熱を出して旅先で倒れてしまいます。彼女はずっとソバで看病してくれました。『こんな子はいない』落合さんは思いました。
「結婚してくれないか?」落合さんはプロポーズします。その言葉に彼女はしっかり応えてくれました。そして言ってくれました。
「病気は関係ない」
「私はあなたの病気と一緒になるんじゃなくって、あなたと一緒になりたいの」

 こうして34歳の時に結婚し、次の年に女の子が誕生します。こんなにも愛おしい存在ってあるんだな、この子のためならなんだってできる。オヤジやお袋も俺たちをこういう想いで育ててくれていたのか…、親になって改めて両親への感謝の気持ちがふつふつと湧いてくるのでした。
 ずっと薬を飲んでいたので2人目を作るのは怖い気持ちもあったのですが、どんな子でも受け入れよう、そう奥さんと話し、2人目の男の子が生まれたのは39歳の時でした。

 その男の子が生まれる前の年、娘さんが3歳の時のことです。
落合さんが仕事がお休みの時に娘さんに聞きました。
「今日、どこに遊びに行きたい?」
すると娘さんはこう言ったのです。
「ゲームセンターに行きたい!」
ショックでした。自分が子どもの頃は貧乏だったけど、両親はいつも子どもたちの前では愚痴ひとつこぼさずにイキイキと働いていた。自分も外で遊びまわっていた。大自然の中で育った。楽しかったことにゲームの思い出なんてない。
 自分は子どもにイキイキとした背中を見せているだろうか…?

 それから落合さんは休みになるといろいろな所に子どもを連れて行きました。富山県内各地も行きましたし、県外にもいろいろ行きました。そんな中で娘さんがいちばん喜んだのが「キッザニア」でした。キッザニアはご存知子どもがいろいろな職業をプチ体験できる職業体験施設です。そこで動物のお医者さんを経験したことで、娘さんは将来の夢は「動物のお医者さん」になりました。それは今も変わっていません。
 子どもたちにこんなワクワクな気持ちを与えられる施設ってすごい!これを富山でも作りたい!そんな強い気持ちがむくむくと湧き上がってきました。

 何かやりたいと思った後の落合さんの集中力は健在でした。それからは知り合いの社長さんから、また別の社長さんへとたくさんの人に会いまくりました。
「富山版キッザニアを作りたいんです!」
でも、言われる言葉はいつも同じでした。
「富山じゃできないよ」
しかし諦めきれませんでした。

 ある時、愛知のブルーベリー農園で500円玉くらいの大きなブルーベリーに出会い、衝撃を受けます。今まで自分が持っていたブルーベリーの常識を覆されました。そして思ったのです。ブルーベリー農園をメインにして富山版のキッザニアを作れないかと。
 もちろん、それまで農業の経験なんてこれっぽっちもありませんでした。自分が農家をやるためにはどうしたらいいのか、さっぱりわかりません。それで、県庁、JA、いろいろな所に相談に行きました。けれどどこでも門前払いのたらい回しで結局為す術が見つかりません。「農地もないなら話にならない。まず農地を見つけてからまた来てくれ」と言われ途方に暮れました。しかし、待っていても何も始まらない。自分が真剣なんだということを見せるためにもなんとしても農地を見つけてみせる!そう思って県内あちこちを一人で回りました。そうした折、八尾町の高台の耕作放棄地にとても素敵な場所がありました。とにかく見晴らしが抜群にいい。こんな場所でブルーベリー農園ができたらどんなに素敵かと思いました。すると、その近くで偶然立っている方を見つけました。その方はその土地の地主さんと知り合いで、なんと地主さんを紹介してくれることになったのです!それからは、あれよあれよという間に話が進み、その土地を借りられることになりました。まさに落合さんの強い思いが引き寄せた出会いだったのでしょう。

 こうして農地が見つかったことで、県の人もようやく重い腰を上げてくれ「じゃあ、書類を作っていきましょう」ということになりました。
 さて、その次は銀行です。しかし、農家として認可されないと融資してくれないとのこと。それで、認定農家になるために研修制度を利用して、一年間福井のブルーベリー農園に研修に行くことになりました。
 さあ、そうなるといつまでもサラリーマンを続けているわけにはいきません。落合さんは自分の思いを奥さんに話します。看護師の奥さんはおっしゃいました。
「好きにやっていいよ。失敗したら私が食べさせてあげるから」

 こうして落合さんは奥さんの大きな応援を得て、ブルーベリー農園へと踏み出したのです。研修に入る前の半年は、耕作放棄地だった場所を草刈りしてすっかりきれいにしました。そのことで地主さんからも大変感謝され、大きな信用を得ました。1年の研修を経て、認定農家としての許可をもらい、補助金と融資で農園を本格的に整備し始めたのです。整備の時には千葉からお父さんも応援に駆けつけてくれました。手際よく作業を進めるお父さんの姿に、「オヤジはやっぱりかっこいいな」と改めて感じた落合さん。そしてブルーベリーをポットに植えたのが2013年の6月26日。ちょうど一年前です。

そしてつい2014年の7月19日に、ブルーベリー農園「ベリー・ベリー・ヤミー」はプレオープンを迎えます。1500坪の場所に1000本39品種のブルーベリーが出迎えてくれる様子は圧巻です。あれ?地植えじゃないの?と思われるかもしれませんが、ブルーベリーは酸性の土壌を好みます。地植えではその環境を整えてやるのがとても難しいのです。
それで落合さんはブルーベリーが美味しく食べられるポット栽培を選んだのでした。この栽培方法のブルーベリー農園は富山では初のお目見えです。

 もちろん、落合さんが目指しているのは単なるブルーベリー観光農園ではありません。もともと子どもたちにイキイキとした体験をさせたくて動き出したのですから、目指すのはブルーベリー農園を中心にした農業版のキッザニア!その名も「トレジャーキッズ」
この後は体験施設・加工施設・レストラン・宿泊施設と、どんどんトレジャーキッズを広げていきたいと思っています。
 体験ではブルーベリー収穫体験・ジャムつくり体験・米つくり体験・野菜つくり体験・販売体験・フロント体験・ウエイトレス・ウエイター体験などなどの仕事体験をして、作物を作る楽しさや、収穫の喜び、売り上げをあげる喜びなどを通して、子供たちに仕事の楽しさや、喜びを教え、自分の将来なりたいものを見つけられる場所にしたい!そんなワクワクの未来を描いています。
 そして子どもたちだけではなく、親もいろいろな体験をして、その姿を子ども達に見せることができます。お父さんがのこぎりを持って家具を作っている姿をきっと子どもたちはカッコいいと思うでしょう。多少曲がっていたっていい。その姿を見せることが大事だと落合さんは思っています。実際、落合さんの農園にある家具はほとんどが落合さんの手作りです。味のある素敵な家具がお出迎えしてくれます。
 ここを親子でいろんなことに気付ける場所にしていきたい。そしてトレジャーキッズでたくさんの笑顔が見られる日を妄想するのが落合さんが今一番ワクワクすることです。

 不安はあるけれど、ストレスはない。だって不安もワクワクの要素だから、と落合さん。
きっと、数年後富山にはこんな子どもたちが増えるでしょう。
「今日はお父さんが休みだから、どこか行きたいところあるか?」
「お父さん、そんなのトレジャーキッズに決まってる!」

みなさん、7月のプレオープンを迎えたら、ぜひ落合さんの夢のブルーベリー農園に行ってみてください。本当に素敵な景色とそして笑顔に出会える場所がそこには広がっています。
ベリー・ベリー・ヤミーfacebookページ⇒https://www.facebook.com/ochiai.berry?fref=ts
ブログ⇒http://ameblo.jp/berry-very-yummy/
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こちらの素敵なカウンターも落合さんの手作りです♪

そして、落合さんの夢のプレゼンを聴けるドリームプラン・プレゼンテーション富山が7月27日に富山国際会議場で開催されます。ぜひ会場で落合さんの夢を直に触れてください。
詳しくはこちら⇒ドリプラ富山2014
今日の人118.小熊昭良さん [2014年06月17日(Tue)]
 今日の人は木田流津軽三味線奏者、米谷流尺八奏者として大活躍の小熊昭良さんです。
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小熊さん、通称くまさんは1956年、魚津漁港の近くで生まれ育ちました。男2人兄弟だったのですが、お兄さんは8歳離れていて、小3の時には東京の大学に進学したので、ほとんどひとりっ子のようなものでした。
 近所にあまり遊び友だちがおらず、小さいころのくまさんの友だちは国語辞典でした。辞書を引くのが大好きな子だったのです。そんな辞書引きの少年だったにもかかわらず、お兄さんが超優秀だったため、両親は弟にもそれを望みいつも「勉強しろ」とばかり言われました。それが昭良少年の悩みの種でした。

 そんなくまさんの心に光を与えてくれたのが音楽でした。くまさんの音楽との出会いはクラシックギターが始まりです。小6の時におじさんがクラシックギターをタダでくれたので、独学で弾き始めたのですが、あまり上手に弾けませんでした。それが悔しくて通信教育で習い始めたところ、メキメキ上達し、クラシックの古典曲をかなり弾けるようになり、ギターに夢中になります。そうなると自分のギターも欲しくなり、お小遣いローンでクラシックギターを購入。ギターにどっぷり浸かった中学時代でした。ですから、この頃の夢はギタリストになることでした。ギター、ギターな毎日を過ごし、高校に進学します。

 高校は魚津高校の理数科へ。高校では友人にそそのかされて吹奏楽部に入部し、ホルンを担当します。一度やるとハマってしまうのがくまさん。今度は見事にホルンにハマり、ホルン漬けの毎日を過ごしました。とはいえ、一方ではギターサークルを作ってギターも続けていました。当時はクラシックギターの人気があまりなかったこともあって2人だけのサークルでしたが、文化祭で発表する等していました。同時にフラメンコギターもやっていたので、独学でスペイン語を学んだりもしました。そういうこともあって、漠然と仕事は旅行業がいいのではないかと思い始め、大学も理数科とは縁遠い京都の外国語大学のスペイン語学科へ進学します。
 大学では吹奏楽部にするか軽音楽部にするか悩んだ末、軽音楽部に入部。トランペットに転向しましたが、部の在り方に疑問を感じ、退部しました。そして大学の方も勉強にちっとも熱が入らず退学。
 退学した後も京都に残り、呉服屋で丁稚をするなどして、都合3年間京都で過ごしました。しかし、富山で歯科技工士をしている両親がくまさんの将来を心配し、歯科技工士の専門学校へ行くよう強く薦めました。しぶしぶOKし、富山に戻って歯科技工士の専門学校へ通い始めたくまさん。しかし、ここで運命の人となる奥さまと出会うのですから、今となってはご両親に感謝感謝ですね。

卒業し、石川県の歯科医院で働き始め、2年目に結婚。結婚生活が落ち着いて来た頃、石川の吹奏楽団に参加して再びホルンを吹き始めました。一度音楽熱に火がつくと止められないのがくまさん。立て続けに何十万もするホルンを購入して、吹奏楽団の活動に夢中になっていた頃でした。

やがて歯科技工士として独立し、富山に戻ってきたくまさん。今度は富山の吹奏楽団に参加しましたが、何年か経った時に音楽の方向性のことで上層部ともめ、あれだけ心血を注いできたホルンをきっぱりとやめたのです。35歳のことでした。

しかしやめたものの、やはり音楽からすっかり離れることは寂しくてなりませんでした。そうした時に、義母が三味線を習うと言い始め、一緒に習い始めることにしたくまさん。
実は幼い頃、花街で育ったので、街のあちらこちらから流れてくる三味の音が耳に残っていたのです。
 こうして加賀山流民謡教室「昭滋会」に入会し、民謡三味線を習い始めました。民謡用の細棹三味線を購入し、その後合奏用に太棹の三味線も購入。やり始めると途中で投げ出すのが嫌いなくまさんですから、とにかくとことん練習し、たった2年で名取になってしまいます。2年で名取になるなんて、ちょっと信じられない速さです!
 
1990年に三味線を始めたくまさん。奥さんと二人三脚の歯科技工士の仕事も順調でした。2000年に「昭滋会」は名前を「藤浪会」に変更し、同時に富山県民謡連合会に加盟しました。そして三味線を始めてちょうど12年たった2002年、くまさんは藤浪会会主の出村先生の紹介で砺波の木田貫松輝先生の元で本格的に津軽三味線を習い始めることにしたのです。思えば、これが大きな転機になりました。

 津軽三味線のお稽古はとにかく厳しく、お稽古の間はずっと叱られっぱなしだったとくまさん。昔気質のお師匠さんで、楽譜も何もなく、とにかく覚えてこい、それだけでした。しかし、くまさんはそれを毎回完璧に覚え、ひたすら練習に励みました。そして、津軽三味線を始めてからたった2年で津軽三味線の大会に個人と団体でエントリー。団体で4位に入賞したのです。その後も次々にいろいろな大会に参加し、2005年には富山市の「街角パフォーマンスオーディション」で最優秀賞、2006年にはシニア津軽三味線全国コンテスト実年の部(50歳代の部)で準優勝の栄冠に輝いたのです。この頃、生徒さんも引き受け始め、いよいよ先生としても活躍が始まったくまさんなのでした。

 これだけ充実していたら、それで満足できそうなものですが、そうならないところがくまさん。2007年には尺八米谷流師範の米谷威和久先生に師事し、なんと尺八も習い始めます。こうしてまたまた尺八もあっという間に上達して、三味線と同じように習い始めてからわずか2年の2009年5月に名取になってしまいます。「米谷威久昭」を襲名しました。
同じく2009年5月に津軽三味線木田流貫松栄派の名取「小熊貫昭」も襲名。

その後もさまざまな大会で数多くの成績を残してきたくまさんですが、なんと今年行われた津軽三味線世界大会ではミドル級で優勝という快挙を成し遂げたのです。みんな幼い頃から津軽三味線を弾き続けているのに、30代半ばで三味線を始めた人がこの大会で優勝するなんて異例中の異例。

 何がくまさんをここまで三味線に駆り立てるのでしょうか。くまさんは三味線を弾いている時は無になれるのだとおっしゃいます。そして、どんな日でも必ず練習する時間を取る、とおっしゃいます。「みんなから器用だと言われるけれど、自分では努力タイプだと思っている。努力すればちゃんとできるようになることを体がわかっている。」とくまさん。どれだけ上達しても日々の練習を忘れない、その芸を追い求め続ける姿勢が、彼の三味線の音に表れ、あれだけ大きな大会での結果につながっているのでしょう。

 そんなくまさんが今楽しいことは全国の邦楽仲間と集まること。
くまさんはブログをずっと続けているので、そこで邦楽仲間がたくさんできました。そのオフ会を毎年12月に開催しているのですが、飲んで話してずっと三味線や尺八を演奏して、本当に楽しい時間です。そういう集まりをぜひ北陸の若い人たちとの間でも開催したい、そう思っています。
 そう、くまさんはもっともっと若い人に邦楽のよさを知って欲しい、そして実際に楽器を手にとって欲しい、そして受け継いでいって欲しい、そう思っています。そしてそれがくまさんの夢です。
 今、実際に和楽器をやっている人は、祖父母や親がやっていたという人が圧倒的に多いのです。どこか敷居が高い楽器だと感じている人が多い。そんな垣根をとっぱらって交流できるようにしていけたら、いや、そうしていこう、そう思っています。

 三味線をやっていると、全国に、いや世界に、友だちができます。その楽しさをたくさんの人に知ってほしい。尺八にしても、今や外国でも流行っています。日本の尺八人口は減る一方ですが、外国の尺八人口は増え続けています。だから、日本の若い人たちにも、もっと気軽に和楽器に触れて欲しいのです。

 そしてもちろん、くまさんがこうやって和楽器に打ち込めるのは、奥さんの理解があるからこそです。一緒に家で歯科技工の仕事をしているくまさんと奥さんは周囲の人がいつまでたってもラブラブだね、という程、大の仲良しです。仲良しの秘訣は?と尋ねると、「文句を言わずに家事をシェアすることと、ありがとうの言葉を忘れないことかな。」とくまさん。世の殿方、これほんとに大事なポイントですよ!

 くまさんには実はバイクの趣味もあります。毎年お盆に3泊4日位で一人で走るのが命の洗濯になっています。去年は九州へのバイクの旅でした。かねてから行きたかった知覧に行って大きな衝撃を受けたとくまさん。知覧はご存知、多くの特攻隊員が飛び立っていった場所です。果たして今年はどこに命の洗濯に行かれるのでしょうか。

 大学で挫折して帰ってきた時、くまさんは相当落ち込んだとおっしゃいました。けれど、くまさんがこうして三味線に打ち込める環境になって、そして津軽三味線の世界大会で優勝するまでのなられたことを考えると、本当に人生万事塞翁が馬ですね。
 
 そして、まだ一度も和楽器に触れたことのないみなさん、ぜひ一度気軽に和楽器に触れてみてください。きっと今まで感じたことのないワクワクを感じるかもしれません。

くまさんの教室はこちら⇒
http://61.213.216.174/jh9cdz/shamisen_school.html

くまさんの楽しいHPはこちら⇒
http://kuma555.fc2web.com/index.html