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今日の人117.笹野瞳さん [2014年05月28日(Wed)]
 今日の人は「お産の学校」主宰、そしてこの度富山に「ママのいえ」をオープンされた笹野瞳さんです。
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 瞳さんは九州長崎の佐世保で生まれ育ちました。3人兄弟の長女で、外で遊ぶのが大好きな、とっても活発な女の子でした。団地の友だちと缶けりをしたり鉄棒をしたり、リレーをしたり、とにかく体を動かすのが大好き。ミニバスケットボールの選手もやっていて、ボールは絶対に渡したくないという負けん気の強い子でした。そんな瞳さんでしたが、その頃の夢は看護師さん。従姉妹のお姉さんが看護師をしていたこともあり、憧れていたのです。

 瞳さんの家はお父さんは遠洋漁業の漁師さんで一年に一度しか家に帰って来ず、お母さんは朝早くに働きに出かけて、夜遅く帰ってくる人だったので、日中はおじいさんと過ごしていました。授業参観にはお母さんは最初から来ないと思っていたので、お便りを渡さずにゴミ箱に捨てていました。それをお母さんが偶然見つけたこともあったそうです。おじいちゃんに「ただいま」は言うけど、お母さんには言わない、そんな時期もありました。きっとお母さんは寂しかっただろうな、と今ならその頃のお母さんの気持ちがとてもよくわかって申し訳ない気持ちになるのでした。

 中学校は引き続きバスケ部に入りましたが、あまりに練習がスパルタだったので、ソフトボール部に転部します。この頃は女の子同士で手紙のやり取りをするのに、はまっていました。授業中はひたすら手紙を書く時間。そうして書いた手紙を休み時間に友だちに渡すのです。先生の様子をマンウォッチングして、それを観察日記に書いたり、夜は電話を自分の部屋に引き込んで友だちと長電話したり、そういうことが楽しくてたまりませんでした。もちろん恋バナが友だちとの一番の話題。ずっと好きな人のことを話していたら、その友だちも実はその人のことが好きだということが修学旅行の時にわかったりして、まさに青春真っ盛りと言った感じの瞳さんでした。

 年に一回しか帰ってこないお父さんは、いないのが当たり前になっていたので、家にいるときは逆に怖かった。一度仕事で遅く帰ってきたお母さんをお父さんがいきなりぶったので(どうやら浮気を疑ったようです)、その行動に対して瞳さんは切れて、逆にお父さんを叩いてしまいました。漁師でとても気の荒い人ではありましたが、瞳さんに対してはお父さんは手を上げませんでした。そして、船で世界中を周っていたので、世界中のお土産を買ってきてくれる人でもありました。それも影響したのでしょう。瞳さんはこの頃、世界中のいろいろな所に行きたい、旅行会社で働きたい、そう思うようになっていました。
 一方で、子どもの頃からたくさんの子ども達と一緒に遊ぶ環境で育ち、小さい子どものお世話をすることも好きだったことから、保育士になりたいという気持ちも持っていました。

 そこで、いろんな進路に対応できるように高校は進学校の普通科を選びます。高校はかなり勉強をさせられる高校でした。そして部活動もハードでした。瞳さんの高校はハンドボール部が強かったのですが、昔からスポーツをやっていた瞳さんはハンドボール部からスカウトされたのです。ハンドボール部は強いからあちこち遠征できるよ、との言葉に旅好きの瞳さんは反応し、そうか、あちこち行けるんだ、と思い入部したのですが、これが半端無く練習のきつい部だったのです。最初たくさんいた部員でしたが、あまりのきつさに徐々に人数が減り、最終的には5人になってしまいました。この時の練習ほどきついものはその後の人生でなかったと瞳さん。ですから、この時身につけた忍耐力は今も大きな財産になっていますし、最後まで残った5人は時を経た今でも大の仲良しです。

 そしてこの頃、大学に行くなら教育学部に行こうと決め勉強していました。そして、大学は遠い所へ行きたい、家を出たいと思っていたので、ひとつは大阪、ひとつは沖縄の大学を受験します。
 そして最終的には琉球大学教育学部に決まったのですが、決まったのがギリギリだったので、すぐに住める部屋がなく、最初は那覇のホテルから大学までバスで通っていました。 ようやく部屋が決まって家財道具を買いに行こうとバス停にいた時のことです。偶然バス停にいたおばさんに瞳さんはどこで買い物をしたらよいかと尋ねました。するとその方は見も知らぬ瞳さんのために午後から空いているから買い物につき合ってあげる、車も出してあげると言ってくださったのです。なんでこんなに人に親切にしてくれるの?瞳さんの価値観が変わった瞬間でした。沖縄は今まで普通だと思っていたことが普通じゃない。
沖縄の人は人が何をしようと基本的に気にしませんでした。無理して誰かに合わせなくていいんだ!この感覚は瞳さんを本当に楽にしてくれました。

 そして、大学時代は本当に自由に過ごしました。授業をサボって海に行って過ごすこともありました。
 しかし、教育学部なので、大学3年になると、教育実習がありました。教育実習に行っている時に、やはりレールの上に乗せられている自分に気付いてしまいます。そういえば昔の私は旅行会社で働きたいって思っていたんだよなぁ。そういうことを思い出してから、海外にバックパッカーとして出かけていくようになりました。行き先はタイやカンボジアといった東南アジアが多かったけれど、旅先で目につくのはいつも子どもたちの笑顔でした。ああ、やっぱり私は子どもと関わる仕事がしたいんだなぁ。そう感じたことで、レールに乗せられた受け身の姿勢で教師になるのではなく、主体的に「教師になろう!」そう思ったのです。

 瞳さんは大学時代はサッカー部のマネージャーもしていました。その時、とてもかっこいい憧れの人とつき合いました。けれど、些細なケンカが原因で瞳さんの方から別れを切り出します。でも、やっぱり彼とやり直したいなと思ってその気持ちを告白しようとした矢先、彼は出場していたマラソン大会中に突然死してしまったのです。大きな大きなショックを受けました。人が生きていく意味を考えました。そのあまりにも悲しい出来事もまた、瞳さんを子どもたちに生き方を伝える教職へと向かわせたのでした。

 こうして瞳さんは故郷の長崎で小学校の臨時教員として働き始めました。そうして何年か経った頃、元気だったお母さんに肺がんが見つかります。宣告されて1年半、毎日病院に通いました。ただひたすら子どもたちのために一生懸命に生きた人、そんなお母さんでした。そして、その死に際も見事でした。改めて母の偉大さを想った瞳さん。その頃、友人が教えてくれた心理学の講座にも通い始めていた瞳さんは、もう少し本格的に学ぼうとアメリカに行って学び、更にマスターコースを韓国で学びました。そのマスターコースには20人の日本人が参加していたのですが、その中に瞳さんが初めて出会う富山県の人がいました。心理学の講座ですから、いろいろなワークをやるのですが、その彼とやっているときは、2人で未来を作っていく不思議な感覚がしたのです。

こうして意気投合した2人はつき合い始め、富山と長崎での遠距離恋愛が始まりました。しかし月1で会っているとお金ももったいない!6月につき合い出した瞳さんでしたが、12月には富山に引っ越すことに決めたのです。寒いところは苦手、太陽が好きな瞳さんがそういうわけで全く知らない土地、富山に来ることになったのでした。

 風来坊のお父さんは福岡県に住んでいたのですが、たまたま長崎に彼を連れていった時に来ていて、「さすが俺の娘だな」と言って、2人の結婚をあっさり認めてくれました。
 こうして1月に富山に来て、その年の4月から富山市の小学校の先生として働き始めました。そして7月に入籍。その翌年の9月、妊娠8ヶ月の時に、先生の仕事を辞めました。

 実は瞳さんは旦那様とつき合う前のお産に関するイベントで今までのお産に対する常識がすっかり変わっていたので、自分が出産するときにはちゃんと勉強して助産院で産めるところを探しました。しかし、富山では助産院で産めるところはなく、自宅出産をさせてくれる助産師さんが一人いらっしゃるだけでした。瞳さんは迷わず自宅出産をすることに決めます。
 しかし、お産が近づいてくるつれ、だんだん怖くなってきました。それで、先輩ママさんたちにお産の話を聴かせてもらう会を開いたのです。これがとてもよかった。お産の未経験者が経験者の話を聴けるのは本当に心強いし、漠然とした不安や怖さが解消できました。この経験が瞳さんが「お産の学校」を主宰するきっかけになったといえるでしょう。
 こうして実際の自分のお産を迎えた瞳さん。赤ちゃんは自分で産むと思っていたけど、そうじゃない!自分の力で生まれてくるんだ!と強く感動した瞳さん。そして、これはなんとしても伝えなければ!そう思ったのです。

瞳さんが出産したのは2010年の11月です。そして、2011年の春にとても素敵な人たちに出会います。それはこのブログにも以前に登場してくれたひとのま宮田隼くん元島しょうくんでした。

 2011年の春、まだひとのまはオープンしておらず、その立ちあげミーティングに参加した瞳さん。そこで何かイベントをやりたい人は?と聞かれたときに、「お産をテーマにした何かをやりたい」と名乗りを上げました。

 こうして2011年7月のひとのまのオープンの後の9月に「お産の学校」を開校した瞳さん。ひとのまの暖かさのある中だからこそお産の学校を始めることができたのだと思っています。

 そして今やお産の学校も第6期を終え、メーリングリストに名前を連ねている人は90名近くになりました。富山のママたちに大きな影響を与え続けている瞳さんなのです。

 そして今、新たに「ママのいえ」というコミュニティハウスをオープンしたことで、ここから更に大きなつながりが広がっていく予感がしています。
 人と人がつながる場所。ママが気軽に行ける場所。子育て中で外に出にくいお母さんがフラッと寄って愚痴を言える場所。そんな場所になればいいな、と瞳さん。まだオープンしたばかりですが、噂を聞きつけてたくさんの方が訪れています。富山に新たなパワースポットが生まれた、そんな感じです。

 瞳さんは今、2児の母でもあります。低体重児だったので、自宅では出産できなかったのですが、病院でもまるで自宅のようにとても自然なお産をすることができました。
 一生に一度、一人ずつの壮大なドラマ、それが出産です。女性は出産で力をもらって自分らしく生きていける、だからこそ、「お産の学校」も「ママのいえ」も大事にしていきたい!そう思う瞳さんなのでした。

 人は誰でも一人一人役割を持って生きている。一人ひとりがその役割を果たせばみんなが楽しく生きていける。学校教育でレールを敷かれてその上で苦しんでいる人が、本来の自分に戻ってそれぞれの役割を果たして笑っていきていける社会、それが瞳さんの夢です。
 
今日もそしてこれからも「ママのいえ」には、たくさんのママの笑顔があふれて、その輪が広がっていくことでしょう。
今日の人116.佐田 洋さん [2014年05月14日(Wed)]
今日の人は、丸善醤油株式会社専務取締役、入善ブラウンラーメンやレッドラーメンの仕掛け人でもある佐田洋さんです。
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佐田さんは昭和54年生まれ、入善生まれの入善育ちです。入善と言えば富山でいちばん人気のゆるキャラ「ジャンボール三世」もとっても人気ですよね。
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ジャンボール三世と佐田さん

お父さんは醤油会社を経営しながら空手道場もやっていらっしゃったこともあり、小さい頃から空手をやっていました。それで小さい頃は空手の先生になりたいと思っていました。
とはいえ、空手だけでなく、運動全般得意な子ども時代。水泳も大会に出ていましたし、夏だけ相撲にも駆り出され、スポーツ少年団ではラクビーも。でも、スポーツをしている時がとても好きでした。

中学校では柔道部に入り、ここでも大活躍。この頃になると、夢は日本一の社長に。
その頃の悩みは彼女がいないことでしたが、いつも男子生徒のたまり場になるとても楽しい家でした。

高校に入ってからは、空手部を作って欲しいと先生に頼みましたが認められませんでした。そんな時にショッピングセンターでブラブラしていると、体育の先生にグラウンドに連れて行かれてハンマー投げをさせられます。小さい時からスポーツマンの佐田さんでしたから、ハンマーはぐんぐん飛びました。そして、高校3年間はハンマー投げの選手として活躍することになります。この頃は体育の先生になりたいと思っていました。とにかく体を動かすのが大好きだった佐田さん。体育の先生は1日中体育をしていさえすればいいと思っていたのです。

家には相変わらずたくさんの友だちが遊びに来ていました。小・中・高を通してずっと佐田さんのうちに遊びに来る友だちもたくさんいました。誕生会をしたり、お花見会をしたり、考えてみるとこの頃からイベントを企画するのが大好きだったのです。

こうして運動一筋で過ごし、そして仲間とのつき合いも大事にしてきた佐田さんでしたが、大学では東京に出ます。実は、陸上で体育大学への推薦をもらっていたのですが、面接試験の時に空手をやりたいと言っていた佐田さん。陸上で推薦をもらっているのに空手をやりたいと言って通るわけもなく、結局一浪して経営学部に入りました。しかし、入った大学にはやりたかった空手部がありませんでした。がっかりした佐田さん。

でも人生とは何が転機になるかわからないものです。声が大きかった佐田さんは学籍番号が隣だった男子に誘われバンドでボーカルをやることに。このパンクバンドがとても人気が出て、年間100回ものライブをこなすことになったのです。こうして音楽に夢中になっていった佐田さん。ボーカルは本当に楽しかった。大学時代空手はやっていなかったのですが、体を鍛えることは忘れてはいませんでした。
 
大学時代に佐田さんの人生に大きな影響を与えた人がいます。それはアルバイト先の社長と専務でした。いつも怒られながらも可愛がってくれました。仕事とはなにか?お金をもらうとはどういうことか?失敗の中からさまざまなことを学びました。この時に仕事をする上での気持ちの在り方を学べたことが、自分の人生の中で大きかった、そう思っています。

実は大学を卒業した後も、そのまま東京に残りバイトしながらバンド活動を続けていた佐田さん。しかし、富山のお父さんが無呼吸症候群で事故を起こしたことがきっかけで実家に戻ることを決意します。バイト先の社長からは正社員にならないかと誘われていましたし、バンド活動も楽しかったので、後ろ髪を引かれながらの帰郷でした。

バンドを休止し実家の丸善醤油味噌株式会社で働き始めた佐田さん。でも、最初は毎日つまらなくてたまらなかった。刺激にあふれていた東京と田舎の生活はあまりにもちがっていました。
しかし、ここで腐らないのが佐田さんです。どうやって田舎の生活を楽しもうか、そちらに視点をシフトしました。まずは昔の仲間たちを集めていろいろやることから始めました。元々何か企画するのが好きだった佐田さんは会社の屋上でBBQをしたり、古民家で飲み会を開催したりと昔のイベント屋っぷりがよみがえりました。

入善町商工会青年部にも入って活動を開始しました。商工会青年部の50周年事業について話し合われた時のことです。60周年にも残るものを何か作ろうという声が上がりました。そこで佐田さんはラーメンを作ろうと提案。その頃、富山で有名なラーメンといえばブラックラーメンしかありませんでした。ブラックに続くラーメンに続け~と、佐田さんが中心になってラーメンを開発していました。

その頃佐田さんがよく通っていたロックバーOTO(実はこのお店は佐田さんが奥さんと出会われた運命の場所でもあります)というお店では〆に甘エビで出汁を取った味噌汁を出していました。これがすごく美味しかった。「エビ味噌ラーメンよくない?それに自分は味噌屋だ!」

こうして出来上がった入善ブラウンラーメンを50周年記念式典で食べてもらったら、みんな大絶賛でした。そして、おいしいからずっと食べられるようにしてくれと言われます。
こうして、商工会青年部の有志で合弁会社善商を立ちあげ、佐田さんは最年少ながら初代代表になりました。そしていろいろな人たちと繋がる中、知事の懇談会でNPO法人工房あおの丘の皆さんと話す機会がありました。あおの丘さんは障がいを持つ方々を、 社会の一員として自覚出来るよう、支援し、社会活動に「参加」し、「協働」出来る機会を 常に提供しているNPO法人です。佐田さんたちは忙しくてなかなか麺を作るのが追いつかない。あおの丘さんには手はたくさんある。じゃあ!ということであおの丘さんに入善ブラウンラーメンのパッケージを頼むことになりました。
JAさんにはトウガラシを提供してもらって、入善レッドラーメンを作ったり、地元高校の農業科の生徒と一緒に高校生レストランをやったり本当にいろんな人たちとつながり、いろんなあたらしい商品を生み出している佐田さんなのです。

入善町といえば、ジャンボ西瓜も有名なのですが、ジャンボ西瓜のB級品を畑に捨てているという話を聞いて、これを何かに使えないかとも考えました。それでまず作ったのがジャンボ西瓜ワインでした。それを先の50周年記念イベントでお披露目したのですが、西瓜ワインというよりはキュウリワインといった風味で、10人に1人は大絶賛したのですが、それが世に出回ることはありませんでした。しかし、そこから改良を重ねてできた入善ジャンボ西瓜サイダーは大ヒット。今年も2万本のサイダーがすぐに売り切れそうないきおいです。

こんな風に次々に新商品も開発している善商さんですので、ぜひHPでチェックしてくださいね!HPで商品購入もできます(^^)⇒http://www.zensyou.com/index.html

あおの丘の皆さんとも一緒にいろいろ話をしている中で、また新たなプロジェクトも誕生しました。それまで佐田さんは障がい者の方と接することは全然ありませんでした。でも、あおの丘さんとのコラボでイキイキと働く姿に接し、その力を表に出すことで何か化学反応が起きるんじゃないかとワクワクしたのです。
障がい者の方も一緒に夢を語ろう!障がい者の人も接客にも携われるそんなお店を立ち上げよう!そうして生まれたプロジェクトを太陽プロジェクトと名付け、そして、「入善食堂 太陽と月のとおりみち」をオープンさせたのです。
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語ったことをちゃんと形にしていく佐田さん。その企画力や実行力は本当にすばらしいのに、エラそうなところはひとつもありません。きっとそういうところも佐田さんが人を引きつける大きな魅力なのでしょう。

福祉の方と次に何をやるかを考えるのがとても楽しいという佐田さん。北欧にスピリチュアルなものを感じるから行ってみたいという夢もお持ちです。実は入善食堂をいう名前もフィンランドのヘルシンキを舞台にした映画「かもめ食堂」に惹かれてつけた名前です。

今はお父さんの空手道場で佐田さんご自身も子どもたちに週に2,3回ボランティアで空手を教えています。本当は大好きな山登りやボードもやりたいところなのですが、さまざまな会議やイベントでなかなか行けない日々が続いています。けれど、こうやっていろんな人と触れ合って、いろんなアイディアを出しているそんな時間もきっと大好きな佐田さん。これからもイベント屋の本領を発揮して、入善を富山をますます元気にしていってくださいね。