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今日の人115.水内豊和さん [2014年03月25日(Tue)]
 今日の人は、富山大学人間発達科学部准教授水内豊和さんです。
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向かって右が水内先生♪

水内さんは岡山市生まれ、ベネッセの本社ビルの向かい側が家でした。両親とも特別支援学級の教員という家庭で育ちます。本人曰くしつけにはとても厳しい両親で、クリスマスにラジコンがほしいとサンタさんにお願いしましたが、袋に入っていたのは百人一首だったことは忘れられない思い出です。そういうこともあったせいか、自分は先生にはなりたくない、と思っていました。しかし、社会の役に立ちたいという思いは持っていたので、弁護士になりたい、小学校時代の水内少年はそう思っていました。
小3まではみんなと外で遊んでいたのに、小4の時にファミコンが登場すると、遊び方が一気に変わりました。みんな外で遊ばなくなった。それが子ども心にとても寂しかったと水内さん。

 ハマるととことんやるのも特徴でした。ハンダゴテで電子工作するのも好きだったし、小4でアマチュア無線の免許も取りました。小・中・高と卓球部に所属し、部長も務めました。おじいさん、お父さんに仕込まれた釣りも得意でした。中学校の時は週末になると自転車で海へ行っていました。特に、紀州釣りでチヌ(黒鯛)を釣っていました。ピアノも小4から始めます。ベートーベンのピアノソナタ第14番「月光」、特に第3楽章を弾きたい、との思いで自分からやり始めました。水内先生の月光、いつか聴く機会があったらぜひ聴きたいです。

 高校の時は卓球部に加え、書道部の副部長も務めます。本当に多岐にわたって才能を発揮してきた水内さん。そんな水内さんにとっての大事な友だちが高校の同級生でした。その友だちは障がいのことに目が向いている人でした。それで大学ではその分野を学びたいと。それまで水内さんは先生になるのはやめようと思ってきましたが、やはりずっと特別支援に携わる両親を見てきたので、その同級生の想いは本当にすんなりと胸に入ってきたのでした。そしてその友だちと一緒に岡山大学教育学部養護教員養成課程を目指し、2人揃って合格。

 大学ではクルマにはまります。B級ライセンスを取り、エンジンを自ら分解して草レースにもいつも出場していました。と同時にバンド活動も始めます。前述のようにピアノをやっていた水内さんですから、キーボードを担当。レッド・ツェッペリン、ミスチル、レベッカ、そしてオリジナル曲と幅広く演奏していました。

 バイトもいろいろやりました。バイトでいちばんはまったのは「つまり抜きセンター」のバイトです。バキュームカーによるつまり抜きですから、あまりみんながやりたがらないような仕事でしたが、それ故、世の中の裏のこともいろいろ知ることができました。社長もとてもおもしろい人で、水内さんのことをとても可愛がってくれ、最後はリーダーも任されるくらいになっていました。ここで学んだことはとても大きかったと今も思います。

 もうひとつ大学1年生の頃からずっとはまっていたことがありました。それは保育園。水内さんは4年間、ずっと保育園に入り浸っていました。ボランティアと名のつく仰々しいものではなく、本当に好きで行っていたのです。4年間でいったいどれくらいオムツ替えをしただろう、というくらい楽しくてオムツ替えもやりました。その頃から、障がいのある子も一緒に受け入れてはいたけれど、インテグレーション(統合教育)・インクルージョン(包括教育)の方法論がないと強く感じていました。自分がその部分を担うにはどうしたらいいか、そのためにもっと学ぼうと思いました。それで大学院に進むことを決意します。幼年期に関する総合的な研究ができる広島大学大学院へ。七木田敦先生に師事し、ドクターまでの5年を広島で過ごしたのでした。七木田研究室の本には秀逸なものが多いのですが、「ちょっと変わった幼児学用語集」もその一冊です。博士課程の後、教務補佐員を経てやって来たのが富山大学人間発達科学部でした。

 水内さんが院で勉強している時に、痛ましい出来事がありました。岡山大学在学中にバンドを組んでいた時に、ひとつ下だった後輩がいました。彼女はバンドでボーカルを務める、とても明るい子でした。彼女は大学を卒業後、特別支援学校の先生になっていました。新任の彼女に対して、そのクラスの担当の先生は3人。彼女はその先生方の指導法の対立に挟まれて悩み、研究授業の日に自殺してしまったのです。なぜ、彼女が死ななければならなかったのか?水内さんの中に悲しさと共に怒りがこみ上げてきました。学校教育という場に反発を覚えました。なぜ彼女はそこまで追い詰められなければならなかったのだ。彼女を必要とする場面は教育以外にもあったはずなのに…

 だから、水内さんは自分のゼミを取る学生たちには言っています。ぼくは君たちに教員になってほしいと思っているわけじゃない。いろんな体験をし、いろんな生き方があることを知った上で、先生という選択をする、そういう先生になるならいいけど、先生にしかならない、そう思っている学生は自分のゼミには入ってほしくないのだと。
 ですから、水内先生のゼミに入ると実に多様な体験が待っています。企画立案するのも実施するのも学生自身、そうして学生のうちから社会との接点をたくさん持つことで、彼らには授業とは離れた多様性を大事にする心が育っていきます。かつて水内さん自身もつまり抜きのアルバイト等で多様な人を多様な生き方を知ることができました。学生たちにもたくさんの体験を積んでほしい。そして人の縦軸(発達)と横軸(障がいを含めた多様性)を両方見てほしい、それが大事だと考えているのです。

 ですから、水内ゼミでは特別支援教育についてのベクトルが、指導や介入というように支援者から対象者に向いているのではないのです。むしろ逆のベクトルを大事にしていると言っていいでしょう。つまり、こちらから何かをしてあげるのではなく、子どもたちや保護者自身の力をどうやって引き出すか、その参加の場づくりや、環境を整えることを大事にしています。そのために親子サークルや成人当事者のサークルなど、いろいろなサークルを作って当事者自らがアクションを起こせることをいろいろ学生たちと考えています。ですからゼミ生はとても忙しい。でも、みんな本当にイキイキとしています。
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水内ゼミはいつも和気藹々です♪

 水内さんのテーマは教育×アクセシビリティ。アクセシビリティとは、高齢者・障害者を含む誰もが、さまざまな製品や建物やサービスなどを支障なく利用できるかどうか、あるいはその度合いのこと。生活のしやすさをどう促進させていくか、それを学生たちと喧々諤々しながら仕掛けを考える時間がたまらなく楽しいと水内さん。そんな話をしていると、なんでもハマるととことんという水内少年の顔がのぞきます。今はそんな風に好きなことを思い切りやっていますが、富山に来たばかりの頃は、いわゆる特別支援教育の流行に沿って、教育現場が期待しているソーシャルスキルトレーニングやペアレントトレーニングをしなければという観念に迫られ、行っていました。でも、それでは全然楽しくないのです。スキルトレーニングをスキルトレーニング然としてやることが全く性に合わない水内さん。そんなことをするぐらいなら当事者本人が行きたいと思うレストランに行く機会をサポートし、その中で経験を積む方がよほどQOLが上がる。それで何か問題が生じるのなら、自分がしっかり責任を取ればいい。今はそう思って、ゼミ生と一緒にどんどん新たな取り組みを始めている水内先生なのでした。水内さんは思っています。学生たちには水内ゼミだったことを誇りに思ってほしい、それだけの経験を積める場なのだと。

 そんな水内さんのkeywordは、まずファン。自分自身が楽しくないといけない。うん、納得です。
 そしてノーリミット。限界をもうけてしまわない。自分で自分ができないと考えることほど面白くないものはありません。
 もうひとつはノーレジャー・ノーライフ。なんでもハマってきた水内さんらしく、今ハマっているのは山登りです。単純なきっかけですが、飛行機の中で見た「岳」という映画の虜になった水内さんは、それ以降誰に教えられたわけでもなく独学で自らリュックやテントを背負い、山に入ります。テントで一人で見る星空のキレイなことと言ったら!その瞬間、この小さな小さな自分はまぎれもなく生きているのだ、この宇宙の中で!きっとそういう感慨に包まれていらっしゃることでしょう。

 水内さんの今の夢はプライベートでは自転車に乗って、四国霊場をお遍路さんをすること。
そして仕事では、本気の家族支援をしていきたいと思っています。お母さんが自己実現できるサポートをしたい、それでなくても今の母親は社会に追い詰められています。ベビーシッター殺人事件のようなことが起こればなおのこと。お母さん一人にしわ寄せが来る現状。それではお母さんも子どもも不幸です。
 でも、水内さんはカウンセリングは好きではありません。カウンセリングをするくらいなら、その日から使える子どもに向き合うときの具体的なコツ、それはたとえば遊びや絵本、おもちゃなどですが、それをこっそり教えたい。お母さんが楽しければ子どもも絶対に楽しいのです。お母さんが義務感で何かをやっていれば、もちろんそれも子どもは敏感に察知します。発達障がいを抱えたお子さんはなおのこと敏感に反応するかもしれません。
 そんな水内先生のとっておきの、保護者が子どもに向き合う時のコツのひとつを特別にご紹介。まず、お母さんは子どもの名前をちゃんと呼んであげること。そして具体的にほめること。上手ねえ、だけではなく、何が、どんなふうに、そこを伝えてほめることが大事です。そして、決定的に大事な言葉。それは「お母さんも嬉しい。」っていう言葉。ついつい否定的な言葉を口にしているお母さん、ぜひ今日からこの水内流を実践してみてください。きっと、お子さんのとびきりの笑顔が見られると思います。

 そして、水内さんは近い将来、保育園もつくりたいと思っています。子どもたちの発達が個々に保障されながら育っていく保育園。きっとそこはお子さん自身もお母さんもお父さんも兄弟姉妹もみんな心から笑顔になれる場所になりますね。

 少年のようなはにかんだ笑顔でたくさんの夢を語ってくださった水内さん。どんな人もその人らしくキラキラしていけるそんなソーシャル・インクルージョンな社会を目指してこれからもめいっぱい夢を追いかけてくださいね。私も一緒にその夢追いかけます!
今日の人114.村木真紀さん [2014年03月19日(Wed)]
 今日の人は、虹色ダイバーシティ代表理事の村木真紀さんです。
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「虹色ダイバーシティ」は、性的マイノリティ(性のあり方が「自分の性別が戸籍上の性別と同じ、男/女のどちらかで、特に違和感がなく」かつ「異性のみが好き」ではない人たちや、性別を越境していきる人たちのことです。同性愛者(レズビアン、ゲイ)、両性愛者(バイセクシュアル)、性別越境者(トランスジェンダー、性同一性障害者)など、多様なあり方があります。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダーの頭文字をとってLGBTと呼んでいます)がいきいきと働ける職場づくりをめざして、調査・講演活動、コンサルティング事業等を行っているNPO法人です。なぜ虹色かというと、虹色は、性的マイノリティのシンボルだからです。虹の色のような性の多様性を祝福する意味があると言われています。


 村木さんは茨城県のトマト農家で3人姉妹の長女として生まれました。子どもの頃は農家のお手伝いをするのも当たり前。太陽の味のするトマトがおやつ代わりでした。その合間に牛や豚を見に行くのが好きでした。

 幼稚園の頃から手先が器用で、やたらと難しい折り紙に俄然やる気が出る子どもでした。小学生の時はサッカーやバスケをするのが大好きなボーイッシュな子。世界ふしぎ発見のレポーターになりたい、それがその頃の村木さんの夢でした。そしてその頃、千夜一夜物語やギリシャ神話が大好きでした。今思えば、その中にはセクシャルマイノリティが出てくる話がたくさんありました。自分でも無意識のうちにそういうことが気になっていたのかもしれません。

 中学生の時は能の世界にはまります。また剣道や空手もやっていました。道着がかっこよく思えたのです。生徒会の役員選挙ではトップ当選を果たしたけれど、慣例で生徒会長は男子に。素直に副会長をやっていたものの、そうやって慣例に縛られることに居心地の悪さを感じていました。勉強もスポーツもできるし、生徒会の副会長もやっているし、きっと周囲からは羨ましがられる存在だったであろう村木さんでしたが、本人はずっと居心地が悪く、高校は奨学金を出してもらいながら家から2時間かけて通う私学に行きました。今までの環境からどこか離れたい気持ちがあった。

 ある時、高校の担任の先生が「家裁の人」を薦めてくれて、それを読んだことから、判事になりたいと思うようになりました。
 
 京都大学総合人間学部に進んだ村木さん。住まいは女子寮に入ります。2人部屋で、同室は高知の人でした。彼女と一緒に飲みにいった帰り、泣きながら震えながら、自分がレズビアンであることをカミングアウトしました。彼女も一緒に泣いてくれました。こうして大学に行ってから、自分が解放された感覚を味わいました。
 そうして、LGBTの人に会う機会も増えました。美術部やHIVのボランティア団体の中でLGBTを含む多様な人たちに会う中で、いろんな人がいる方がクリエイティブでおもしろい、ということを肌で感じることができました。

 総合人間学部は学際的な学問ができるところだったので、村木さんも法律から生物学まで幅広く学びます。そして、生物学の講義の中で生物多様性の概念を知りました。ちゃんと観察すると、同性同士で子育てをしたり、性転換をする生物もいるのに、それを生物学は例外として重視していないことに気づきます。いろんな種がいることで恒常性が保たれる、それを生物学は教えてくれたのでした。

 HIVのボランティアで出会った人に10歳年上のレズビアンの人がいて、彼女は有名企業の広報担当としてバリバリ働いていました。その働き方がとてもかっこよく見えた村木さん。
 無理してスカートをはいて就活をし、ビール会社の経理部に就職が決まります。担当は支社の経理だったのですが、夜逃げした酒屋さんの債権整理などもしていました。震災の後で、つぶれるお店がとても多かった時代、なかなか希望が持てない状況でした。けれど、経理部同士は仲がよく、よく一緒に飲みに行ったりもしました。仲がいい分、プライベートのことも聞かれるので、だんだん辻褄を合わせるのがつらくなり、ごはんや飲み会に行くのがつらくなっていきました。そして徐々に居づらくなって、仕事を辞めることにします。

 その後しばらくいた会社で、コンサルタントの人の働きを見て興味を持ち、自分もコンサルタントの仕事をやりたいと思って、外資系のコンサル会社に転職。数ヶ月のプロジェクトで50社、100社の決算をいかにはやくまとめるかという連結決算のコンサルを担当しました。これは実におもしろかった。決算のポイントはすなわち商売のポイントでもあります。この仕事で、この会社のポイントはどこなのかを考えるクセがつきました。

 このころ、両親にもようやくカミングアウトしたのですが、両親の反応は予想外に暖かく、この家族の理解は村木さんの心理面にはとても大きくプラスに働きました。

 新たに働き始めた会社は経理ソフトウェアの会社でした。ここは中途で入ってきた人が多く、お互いプライバシーについて尋ねることもなかったので、居心地のいい働きやすい会社でした。ここの職場では特にカミングアウトもせず、ひたすらまじめに仕事をしていました。

 そんな村木さんに衝撃の出来事が襲います。ゲイの友だちの自死。彼は鬱で生活保護を受け、何度か就職にトライしていたけれど難しかった。そしてとうとう自死を選んだのです。身寄りはお姉さんだけだったのですが、ゲイであることを言っていませんでした。お姉さんが来るまで、ゲイだった証拠を友だちみんなで必死に片付けました。
 次の日、無理して会社に行きましたが、怒りで震えがとまりませんでした。なぜ死んだあとまでゲイであることを隠さなくてはいけなかったのか。LGBTのことをちゃんと認めてくれる働ける場があればこんなことにはならなかったのではないか…。
 村木さんは彼の部屋に入った時の匂いが忘れられません。私だって、いつそうなってもおかしくないのだ…。どうしてLGBTというだけでこんなにも哀しい想いをしなくてはいけないのだろう…
友だちの友だちも自死。立て続けに3人を自死で亡くして、大きな大きなショックを抱えたけれど、それを会社に言えない自分。
 2日間、ヘッドフォンをかけて大音量で音楽を聴きながら仕事をしたけれど、会社で気持ちが保てない自分がいまいた。やがて体調を崩してしまい、夜眠れず、会社でミーティング中にうとうとするような日が続き、休職。
 
 やはりLGBTで鬱で仕事を休んでいる友だちと話していると、仕事に対しても会社に対しても報われないと嘆いていました。その子の会社は人を大事にするというポリシーの会社。そういう会社においてさえ、そうなのだ。LGBTであることの大変さをいつもいつも突きつけられる現実。どうしてこんな世の中なのだろう。環境を恨んではいけないことはわかっていても、あまりにもつらい現実がありました。

 でも、少しずつ世の中の流れが変わります。オバマ大統領がLGBTに積極的であることで、日本もほんとに一歩ずつではあるけれど変わってきました。LGBTのために立ち上がるのは今じゃないのか。嘆くばかりでなくLGBTのために力を尽くしたい、独立したい、その気持ちが膨らんで、ついに村木さんは虹色ダイバーシティを立ちあげたのです。

 村木さんと同じように、時代の風を感じた当事者たちによる活動もどんどん一般の人にも見えるようになってきました。先日は関西でLGBTの成人式も開催されました。200人くらい集まってくれて、元気な顔を見せてくれました。みんないろいろ悩んでいる。でも、こんなに仲間がいる。それは孤独の中で悩んでいたLGBTの若者にとってどんなに希望の光になったことでしょう。彼らのためにも働きやすい職場を作ろう、村木さんはそう思っています。

 そのためにも企業向けのコンサルタントはどんどん進めています。ポイントを外さずに動けば、企業もLGBTのことをわかってくれます。そして、今はLGBTに取り組まないのはリスクであり損なんだと企業に言っています。
 活動拠点の大阪では企業にもだいぶん浸透してきましたが、これを地方にも広げていきたい。住んでいる所にLGBTがいるという安心感。これは思春期に悩む子にとってどれだけ救いになることか。各市町村のレベルでセーフプレイスを作りたい。私はこのままでいいんだ、という安心出来る場所。安全にお互いがつながれる場所。そして、その中で承認の経験を積むことの大切さ、それを伝えたい。

LGBTは実は人口の5%だと言われています。つまり、どこにでもいるのです。それなのに、いないと思ってしまうのは、みんなそうじゃないふりをしているからなのです。まずそれを知ることが大切。全ての人が100%自分の力を発揮できる環境にしたい。自分の中の今までの常識という枠でとらえていると、発想の芽をつぶすことになります。常識とされているものを疑うことで、いろんなものが見えてきます。自然界でも、オスとメスだけではない、いろんないきもの、生き方が見えてくるようになるのです。

 これからは5%の当事者ではなく、当事者の周りの95%の人への働きかけをもっともっとしていきたいと村木さん。大阪の淀川区では村木さんたちの活動もあり、LGBT支援宣言が出されました。全国の自治体が淀川区につづいてほしい。LGBTの友だちが普通にいる、それがあたりまえの日本になる日もそんなに遠くない、私はそう信じています。
 いろんな人がいる方が楽しいにきまっているのです。それをたくさんの人が実感してほしい。もちろん、私たちも一緒に歩いていきます。ちがいに気づき、ちがいを活かし、ちがいが創る、しなやかな地域社会に向けて…
今日の人113.喜田一弘さん [2014年03月03日(Mon)]
 今日の人は損保ジャパン高岡支社長、喜田一弘さんです。喜田さんは昨年、高岡に来られたばかり。前任地の浜松では「さくや姫プロジェクト」の一環として地域ダイバーシティ交流会を開催し、男女共同参画社会づくり活動に関する知事褒賞を受賞されるなど、企業の最先端でダイバーシティに取り組んで来られた方です。
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 さくや姫プロジェクトでの取り組みはこちらをどうぞ
http://sakuyahime.jp/?post_type=sengenjigyosho&p=4620

 喜田さんは岡山の倉敷、繊維の町「児島」で生まれ育ちました。国産ジーンズ発祥の地でジャパンデニムの中枢を担う町、そして実は学生服の9割はこの町で作られています。
 子どもの頃はソフトボールをやっていて3年でファースト、5,6年ではサードを守っていました。親は商売をやっていましたが、休みになると山菜採りやアサリ採りに連れて行ってくれたので、自然に触れるのは今も大好きです。

 繊維の町に育ったこともあるのでしょう。服飾デザイナーになりたいという夢を持っていました。実家も親戚もやはり服飾関係の仕事をやっていたこともあって、小学校から高校まで学生服を買ったことがありません。子ども服もジーンズも全部試作品を着ていたのでした。でも、服飾デザイナーになりたいだけあって、おしゃれにはとても敏感で、よく買い物にも出かけていました。当時流行りだったオーバーオールも着たりしていました。

 中学校に入ると1年生の時はバスケ部に入部しましたが、先輩の理不尽な態度でやめてしまいます。2年からはバレーボール部に入り、3年では岡山県代表のメンバーに選ばれました。小学校の時のソフトボールのメンバーが大半というメンバー構成。それだけ、ソフトボールの仲間は運動能力が高かったのです。きっと野球やサッカーをやっていればもっと活躍はできたと思うのですが、中学校はグラウンドが狭くて野球部もサッカー部もなかったのでした。
 この時のバレーボール部が強かったのは、管理されていなかったからだと喜田さんは思っています。他のチームはだいたいジャージから何から揃えるのが普通でしたが、喜田さんたちのチームはユニフォーム以外は何を着ても自由でした。自分たちが思うようにやる中で自分たちで考えを組み立てることができた、それがこのチームが強かった所以だと思っています。

 高校では最初理系を選択していました。医学部か薬学部に進もうと考えていたのですが、小さい時に交通事故を見たのがトラウマになっていて、血を見るのが怖く、解剖実習等があると聞いて、医学部薬学部は断念。次に考えたのは文転しての経済学部でした。心の中には子どもの頃に思っていたデザイナーの夢もまだ残っていました。

 こうして香川大の経済学部に入った喜田さん。勉強もしっかりやりましたが、友だちの下宿で麻雀もよくやりました。昔の学生は朝まで麻雀というのが当たり前のようにありました。
 また石州流の茶道部の部長も務めます。春と秋には茶会を催す本格的な茶道部でした。意外なことに男女比率は半々。そして、同じ部の1年年上の方が、奥さまとなられた方です。茶道部に入ったことで人生の伴侶を得たのですから、大きな選択だったわけですね。

 経済学部では金融のゼミをとっていたのですが、毎年そこから一人、安田火災に就職していました。受けてみるか?と聞かれて、初めて就職の面接に行った喜田さん。他の人はもうとっくに就職活動を始めていましたが、喜田さんにとってはこれが初体験だったのです。
 でも、就職試験くらい楽なものはなかったとおっしゃいます。面接も建前でなく本音をズバズバ話しました。それが面接官に好評で見事内定をもらいます。面接される方ではなく、する方になった今、どんな基準で採用を決めていますか?とお聞きしたところ、シンプルに「本当にこの会社に入りたい人をとる」とのお答えでした。やはり本気でこの仕事をしたいと思っているかどうかは面接すればわかるそうです。
 
 就職試験を受ける時も、まだデザイナーの夢を捨てたわけではなかったのですが、服飾関係の会社があまりに給料が安かったので、現実的にこれでは暮らしていけないと考え、就職先を保険会社に決めました。

 大学卒業後は東京で1年2ヶ月研修を受けました。きっちり9時から5時の定時の規則正しい生活で体重が49キロから65キロになりました。この時は都会でしか経験できないようなこともいろいろ体験できて、本当に毎日が楽しかった。

 その後は岡山の営業所で4年過ごしました。就職3年目には結婚。その後も転勤は続き、高知、神戸、長岡、姫路、鹿児島と過ごして、その次が先の知事褒章を受章された浜松でした。そうしてその後、高岡支社に支社長としてやってこられたのでした。

 喜田さんが楽しいと感じるのは新たなことを考えたり、新たなものを作り出したりする時です。97年に自由化されたとはいえ、まだまだ考えの固い保険業界ですが。周辺を見渡すと、変わっていることがたくさんあります。そしてまだまだ変わること、やれることはあるのです。それを部下にも伝えていきたい。旧態依然としたことをやっていると、お客さんに受け入れられないことを気付いて欲しいと。社内でダイバーシティに率先して取り組んでこられた方だけあって、考え方がとても柔軟でいらっしゃいます。喜田さんのような方が保険業界にイノベーションを起こしてくださる方なのでしょう。

 そんな喜田さんがホッとできる時間は、仕事が休みの時に富山のいろいろな場所をめぐること。まだまだ知らない場所がたくさんある。そうして、素敵な場所やものや人に出会える時間はなにものにもかえがたいものです。

 そしてこれから人作り、教育の分野に関わっていくことが喜田さんの夢です。会社の中じゃなくてもいい。今までやってきたことを教える場が欲しい。そうして今まで関わってくれた人に何らかの形でお返しができたらいいと考えています。
 
 もう一つ、今まで行ったいろいろな場所で味わってきたその土地ならではの“食”に関する希少品を集めたアンテナショップを開きたいという夢も持っています。自分がいいと思ったものを自分のお世話になった人たちにも味わってもらいたい。素敵な空間で素敵なものや素敵な人に囲まれて過ごすのは、最高に贅沢な時間ですね。

 社内で和製コーチング「わもん」の研修も取り入れられている喜田さん。笑って泣いて、笑顔のたえない空間がこれからも生まれていくことでしょう。