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今日の人110.上坂博亨(うえさかひろゆき)さん [2014年01月16日(Thu)]
今日の人は富山国際大学教授で富山県小水力利用推進協議会会長の上坂博亨さんです。
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上坂さんは福井生まれ、今立郡池田町水海集落で小学2年まで過ごしました。森林率92%の過疎山村ですが、ここでの原体験が今でも物事を考える時のベースになっています。
 
池田第一小学校水海分校、そこは同級生がたった17人の小さな学校でした。「出席番号の1番は村上君、2番と3番は漆原さん、私は4番、次は三ツ本君、最後の方に下村さんという子がいましたね、何の順番だとおもいますか?」と上坂さん。実は集落を流れる川の流れの順番だったそうです。秋になると稲がなくなった田んぼで切り株投げをしたり、切り株で陣地を作って遊んだり、そこで木を削ってやり投げをしたり、外は絶好の遊び場所でした。その頃は上級生、下級生が入り混じって遊ぶのが当たり前。もちろんいじめっ子やガキ大将の子もいましたが、そうやって集団の中で遊ぶことで、昔の子どもたちは人間関係を学んでいったものでした。

小さい頃はよくおじいさんとお風呂に入っていました。五右衛門風呂だったので底が熱く、おじいさんの膝の上で湯船に入っていることが多かったのですが、おじいさんはいつも「お前は大きくなったら先生になれ、先生になれ・・」と呪文のように言っていたので、その言葉で自分も先生になるものだと思い込んでいました。

小学校3年の時に福井市の小学校に転校しましたが、そこでものびのびと過ごします。上坂さんのうちはご両親とも理科の先生だったのですが、上坂さん自身もクリスマスプレゼントに理科の実験セットが欲しいというくらい、やはり理科に興味のある子どもでした。
実験セットを買ってもらったことで、いろんな実験にはまっていきます。過酸化水素から酸素を作ったり、水を電気分解して水素を作ったり、いろんなものを分解したり、そういうことが楽しくてたまらない少年時代でした。

そんな少年は中学校では吹奏楽部に入り、トランペットにはまります。朝6時から自主トレをするほど、部活に打ち込んでいました。自主練では腹筋や基礎トレをして、授業を受けてからはまた部活という毎日。宿題はプリント10枚~15枚と大量だったものの、昔の先生は怖くて宿題をしていかないなどということは到底考えられませんでした。

高校は県立藤島高校。やはり、吹奏楽部に入り、部活に打ち込みます。吹奏楽コンクールの北陸大会では、いつも富山商業高校に負けていたそうです。本気で音楽家になりたいと思ったこともありましたが、ピアノが無理だと思い、結局その道はあきらめました。

進学したのは東京教育大学から変わったばかりの筑波大学。第二学群生物学類に入りました。やはり音楽はやめたくなかったので、オーケストラに入りましたが、吹奏楽部とトランペットの演奏の仕方がちがうことが面白くなくて、2年でやめます。代わりにはまっていたのが麻雀でした。1,2年生の時はひたすら麻雀に明け暮れていたなぁ、と上坂さん。

しかし、3年で専門課程になると、ようやく興味の対象が生物に移りました。動物系の実験が好きだったので、心臓の生理学を卒論のテーマにし、日夜心臓のリズムの研究に明け暮れていました。牡蠣の心臓、心房と心室のリズム形成、時差ボケの同調のメカニズム、エントレインメント…

実験は楽しかったものの、卒業研究が完成しなかったこともあり、大学院に進みます。でも、これは表向きの理由でした。実は教職科目の「教育原理」を落としていたので、このまま卒業すると、教師になれなかったのです。やはり、子どもの頃のおじいさんの「先生になれ」という洗脳は大きかったようです。

生物学で大学院に進んだ上坂さん。そのまま研究にはまり、結局博士号まで取ることになるのですから、人生は何がきっかけになるかわからないものですね。

こうして生物学でずっと研究を続けていたわけですが、その研究のためにコンピューターを使った全自動実験装置を作ったことが、上坂さんがまた次のステップに進むきっかけになります。本当はそのまま研究職に就きたかった上坂さん。ところが、研究者として採用してくれる所がありませんでした。そんな時、指導教官から富士通を受けないかと言われたのです。コンピューターを使った全自動実験装置を作ったことが評価されての推薦でした。
 
こうして、それまでやってきた生物学をきっぱりと辞め、以後12年間プログラム開発に携わることになりました。
筑波の居心地は大変よく、学生時代から含めると24年間を筑波で過ごした上坂さん。でも、また新たな転機が訪れます。
大学院で論文の審査をしてくれた先生が、富山国際大学の創始者の弟さんでした。そして、情報教員が必要だから富山に来てくれないかと声がかかったのです。
 
こうして富山に来ることになった上坂さん。思いもよらなかった形でおじいさんの言っていた「先生」になることになったのでした。

富山で大学教員としての日々を送っている中、日本のエネルギーに関するオピニオンリーダーの一人、環境研究所の元所長で当時富山国際大学の教授をされていた先生からマイクロ風車を一本渡されます。
「これで何とかしろ」
そして、2002年から2004年までの期間、風力発電に取り組みました。
しかしその後、その元所長の教授が、小水力発電が見直されてくるから小水力発電に取り組めとおっしゃいます。

こうして小水力発電にも取り組み始めました。調べれば調べるほど、富山は水の力が大きい所だと実感するようになりました。県の予算で水車も作りました。
2009年に科学技術振興機構から5年間の研究予算をもらって、本格的に小水力普及の研究に取り組みました。当時、機構からは「5年後に君たちは小水力発電のトップランナーになっているんだからしっかり研究してくれなくては困る!」と言われ、厳しい要求に耐えながら研究を進めたそうです。ただ、その時、小水力発電はまだまだ亜流の1つに過ぎなかった。

その流れが大きく変わったのが、東日本大震災でした。エネルギー問題が大きくクローズアップされたことで、再生可能エネルギーの一つである小水力発電がメインストリームに踊り出すことになったのです。

これにより、世間の見方が大きく変わり、その後は講演会で全国を飛び回ることも増えました。常に書き物にも追われています。ですから、書き物が一段落ついてホッとできるひと時は、楽しい時間です。

学生に講義をしていて、学生が目から鱗が落ちるのを見るのもとても楽しい瞬間です。教えている時間が楽しいと感じる時、子どもの頃おじいさんにずっと「お前は先生になれ」と言われてきたことを思い出します。もしかしたらおじいさんは自分が教えることが好きなことを見抜いていたのかなと思うことがあるそうです。

富山国際大学の吹奏楽部のコンサートでタクトを振るのも楽しみのひとつです。年に2回、定期コンサートがあるのです。音楽家になりたかった中学時代の想いも少しは実現していらっしゃるのかもしれません。

そして、今、上坂さんが抱いている夢は農業をやること。「自分で生きていく」を実践したいと思っているそうです。
宇奈月、南砺市、八尾町、いろいろ候補地もありますが、「どこも受け入れてくれなければ、生まれ育った福井の池田町に帰ろうかな」とおっしゃいます。この2月にはその池田町に講演にも行きます。池田町の田んぼで走り回っていた少年の講演を地元の方たちはさぞ楽しみにされていることでしょう。

田んぼで切り株を投げていた幼い頃のように、理科の実験で目をキラキラさせていた少年時代のように、トランペットにはまっていた中学高校時代のように、今も上坂さんはワクワクすることに胸を踊らせながら、富山の若者たちに夢を与えて続けていらっしゃるのでした。
今日の人109.北島洋一さん [2014年01月07日(Tue)]
 今日の人は北陸でドリプラと言えばこの方、2013年のドリンピックで金沢ドリプラを金賞に導いた北島洋一さんです。
仕事は何をしている人なのというと、こちら⇒http://www.kitajima-sr.jp/
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 北島さんは金沢生まれ、金沢育ち。3歳年上のお姉さんがいて兼業農家の両親の元、すくすくと育ちました。昔は子どもがとても多かったので、近所の子どもたちと神社の床下に潜り込んで遊んだり、外で鬼ごっこをしたりして遊んでいました。もちろん、お手伝いもします。田んぼの時期は稲架掛けを手伝ったり、いちご、スイカ、たけのこの収穫、犬の散歩も担当でした。
 そして、子どもの頃からとても賢い子でした。小学生の頃の夢は学者。資源回収に出してあった数学の本を拾って読みふけっているような子どもだったのです。学者の他になりなかったのは漫画家。よく四コマ漫画を描いていました。

勉強はできるけど、生徒会活動などには関わらず、中学から高校まではずっとバトミントン部。同学年に15クラス、600人もいるマンモス校で常に成績は上位でした。ラジオ世代の北島さん。深夜放送を聴きながら勉強するのが日課でした。オールナイトニッポン、パックインミュージック、いろいろなラジオに耳を傾けながら勉強する時間が好きでした。私も聴いていたなぁ。中島みゆきのオールナイトニッポン。

 でも、中学や高校の頃は特段夢はありませんでした。ただ、試験でいい点数を取るのが楽しくて、勉強はおもしろかった。特に中2の時に、大変難しいテストでみんな50点も取れないような中、唯一北島さんだけが99点を取った時に、いつも厳しい先生が北島さんのテストを貼り出して、「すごいな!」とホメてくれたのが勉強をがんばるきっかけになったのでした。塾に行って勉強をするというタイプではなく、ずっとラジオを友にして家で勉強していました。受験期になると帰ってからちょっとだけ仮眠を取り、夜9時から朝5時ごろまで集中して勉強していました。こうして勉強を頑張った北島さん。

 某有名国立大学では理学部数学科で学びました。卒業後は研究職には進まず、大阪の不動産会社に就職します。
 大阪で3年、住宅売買の部門で活躍し、その後金沢に戻り、建設会社に転職して、不動産部門で営業の仕事をしました。そこは支店開設2年目で不夜城のように仕事を行う会社でした。

 仕事に明け暮れていたある日、アルバイトの女子事務員が聞いてきました。
「彼女はいるの?」
「いないよ」
「じゃあ友達を紹介してあげる」
 そうやって紹介してくれた子にビビっときた北島さん。それが奥様です。

 結婚してからはより仕事に集中できるようになり、営業課長に抜擢されて、朝7時から夜12時まで働く毎日。部下は全員年上という中、全国の優秀課長にも選ばれました。激務の毎日でしたが、少し余裕が出来てきて、何か勉強したいと思い(根っから勉強好きでいらっしゃいます)ファイナンシャルプランナーの資格を取得しました。(宅建はもう取得済みでした。)そんな時に、縁があって生命保険会社に転職。そこは北島さんの旺盛な知識欲を満たしてくれる仕事で楽しかったのですが、 まわりの期待と自分の期待に反して、たいした成績もあがらないので、 自分に向いていないのかなーと思いつつ、 上司の勧めで社労士の勉強をしていたら2回目のチャレンジで合格してしまいました。

 世の中に役立てそうな資格を取った以上はいずれ独立しよう、そう思っていました。その時、たまたま10年来の友人が独立するにあたり、 オフィスの一部を使っていいから、と言われ、渡りに舟とばかりに、保険会社を退職して独立開業。それが2000年10月のことです。何ができるかわからないけど、なんとかなる!そういう思いでした。

 それまでに築いてきた人脈からのご紹介で顧問契約を少しずついただく中、県や金沢市からも就職支援のセミナー講師の声がかかるようになりました。
セミナー講師をやっていくうちに、キャリアアップの仕事のおもしろさに目覚めます。会社の人事制度づくりも始めました。

 こんな風にずっと順風満帆に見える北島さんの歩みですが、ご自分の中にはずっとモヤモヤ感がありました。自分には、これをやりたい、どうしてもやり遂げたい、という燃えるような気持で何かをしたことがなかったのです。実際、会社員時代から、「おまえはもっとできるだろう。本気でやってみろよ」と何度か言われました。

 それに、ずっと恩師、師匠と呼べる人がいなかった。上司や先生に恵まれ、素晴らしい人と巡り合いはしてきたけど、自分の中途半端さから、自ら縁を切ってきたのでした。
苦しい、つらいことがあったら、自分のできる範囲のことはやりましたが、上手な言い訳を見つけて、それを本気で乗り越えることなく、避け、逃げてきたと感じていました。
このままでいいのか、ずっとやりきった感がないままの人生を送っていていいのか…

 そんな時に初めて福島正伸さんに出会ったのです。2007年5月、たまたま上京していた時に、福島正伸さんの第一回超人気コンサルタント養成講座が開催されていたので受講しました。はじめは斜に構えて講義を聞いていました。でも、講義が進むうちにすっかり福島先生のお話に魅了されてしまいます。講義が終わる頃には完全にやられた、と思いました。

 その後の北島さんの姿勢はずっと一貫しています。
「僕はこの人が大好きだ。だからこの人を喜ばせたい。この人の笑顔が見たい」

 これが北島さんのパワーの源になっていると言ってもいいでしょう。2011年から金沢でずっとドリプラを開催しているのも、ドリームメンターとしてドリプラ世界大会や各地のドリプラに関わり続けるのも全てはそこが根源になっているのです。

 究極のコンサルタント養成講座を受けた年の2007年末に、初めてのドリームプラン・プレゼンテーションが開催されました。その舞台を見て、金沢でも絶対にドリプラをやろう!と決意しました。

 2008年にドリプラ世界大会でドリームメンターをしたのが、北島さんの支援者としてのターニングポイントになりました。その年、北島さんが支援していたプレゼンターの一人がプレゼンがギリギリまでできなかった。前日支援会で写真を撮り、夕方4時から5~6人で作り始めて、早朝4時になんとかプレゼンデータが仕上がります。
ですからそのプレゼンターが予選の舞台に立った時は、もうそれだけで泣けて泣けて仕方がなかった。でも、そのプレゼンターは、本選に進むことはできませんでした。彼は本選後の懇親会で、本選に行けなかったことが悔しいと言った。けれど、前日までプレゼンができなかったのに、自分はドリームメンターとして何もできなかったではないか。それで思ったのです。メンターは、支援者は、一緒に悔しがって泣いてちゃいけない。ただ、尽くすという姿勢に徹するだけだと。そうしなきゃいけないと。

 自分がやったことを「ふ~ん」と軽くあしらわれようが、感謝されなかろうが、とにかく自分ができることを探してやってみる。
「自分ができることなら、やってみようと思います」は面白く無い。
「自分ができないことをやってみたい!!」でなきゃ。

 もちろん、それは自分との戦いだし、苦しい。仮にメンターが支援に行かなくても「今日は都合が悪いから行けません」と言えばそれで済むけれど、やると決めたんならやれよ、という自分の声が聴こえるのです。こうして、北島さんは徹底的に「尽くす」という支援者であり続けているのです。

 そして、2011年6月に初めての北陸開催となるドリプラ金沢も開催しました。次の年からドリプラ金沢は毎年2回開催しています。そして北島さんはそのうち1回は必ず福島正伸先生をゲストとして招きます。
 ドリプラはやはりドリプラ生みの親の福島正伸さんがいてこそ、という当初の思い、それを忠実に守り続ける北島さんなのでした。それになんと言っても、福島先生のコメントはプレゼンターをとことんやる気にさせます。究極のメンター、それが福島正伸さんであり、その究極のメンターの姿を1年に1度金沢でたくさんの人に見てもらいたい、感じてもらいたい、そして福島先生ご自身が笑顔になってもらいたい、それが北島さんの想いなのでしょう。

 北島さんの夢は、これから変わっていく世界をみんなで一緒に見ること、みんなが夢を語る社会を、みんなと一緒に見たい。そのためにずっとやり続けるのが自分の使命だと力強くおっしゃいました。

 そんな北島さんの今の楽しみは京都旅行に行って、京大在学中のお嬢様に会うこと。お嬢様は三十三間堂の通し矢にも参加されるまさに文武両道の才媛。2014年の三十三間堂の通し矢で、袴姿の凛々しいお嬢様のお姿に目を細めていらっしゃる北島さんの様子が目に浮かびます。

 北島さんの愛称は“親分”。これからも北陸のドリプラチームの親分として、たくさんの夢と笑顔を紡ぎだしていってくださることでしょう。