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今日の人108.山元三百代(みもよ)さん [2013年10月24日(Thu)]
 今日の人は、先日ダイバーシティ・ドリプラでもプレゼンしてくださった山元三百代さんです。
2013-10-11 13.22.52.jpg
 笑顔が可愛くて、いつもとっても元気な三百代さんですが、実はその笑顔の裏には、筆舌に尽くしがたい、壮絶な想いがありました。

 富山県は良くも悪くも地縁の強い土地柄です。三百代さんも富山県で生まれ育ちました。そして小さい時からずっと大人の顔色を見て過ごしてきました。ものごころついた頃からは、自分はもしかしたら、誰からも愛されていないのではないか。生まれてきてよかったのだろうか。ずっとそう感じながら過ごす毎日でした。
 
 三百代さんの周りを取り巻く大人はとても世間体を気にする人ばかりでした。
 三百代さんのお父さんは、婿養子。お父さんは、子煩悩で三百代さんをとても可愛がってくれましたが、娘と二人だけの時に見せる表情と家族の前で見せる表情は全く違ったものに感じたそう。
 お父さんはもしかしたら、この家にいても窮屈なのかな。大好きなお父さんに私は絶対イヤな思いをさせたくない。そんな風に考えていたので、ますます自分の気持ちや想いを殺すようになって、とにかく家族の前ではひたすら元気に明るくふるまいました。

 そんな三百代さんがホッとできるのは、空想の世界で遊ぶときでした。友達と遊んでいても心から楽しいと感じることが出来なかった。この子は、本当に私と遊びたくて遊んでいるの?もしかしたら、遊びたくないんじゃないのかなぁ?すぐにそういう思いが強く浮かんできてしまうのでした。

 中学時代には壮絶なイジメに遭いました。暴力も受けたことがあります。
『痛いよ、怖いよ。助けてお父さん、助けて!』心の中で叫び続けた…。
 ついに親が呼び出されました。迎えに来たお父さんに三百代さんはひたすらあやまりつづけました。「ごめんなさい。ごめんなさい。」
 
 三百代さんは何にも悪くないのに…。それなのに、お父さんにあやまり続けた心境はいかばかりだったでしょう。ただただ、お父さんに悲しい思いをさせたくなかった、自分が傷つくよりお父さんが傷つくのがイヤだった。

 自分の思いを言葉にできずにいる三百代さんは世の中に絶望します。同時に言葉に言えないばかりに理不尽な思いをすることでますます世の中に絶望します。私なんて生きている意味があるのかな…

 そういう経験から三百代さんはますます人が信じられなくなります。その経験以降、三百代さんは他人の笑顔を見るのが怖くなりました。他人の笑顔を見ると、自分がからかわれているように感じました。だから、どうしても学校に行きたくなかった。本当は、ひきこもりたかった…世の中からいなくなりたかった…でも、学校へ行くしかなかった…何故なら、これ以上大好きなお父さんに心配かけてはいけない。私が元気で明るくすることで、保てると思っていたから。

 当時行きたくなくても中学校へ行くことしか許されなかった三百代さんは針のむしろにいるような毎日を過ごすしかありませんでした。そして、家では何事もなかったかのようにふるまう…

 中学校を卒業して、高校に入ると壮絶なイジメはなくなりました。楽しい時間はたくさんあったし、出会いにも恵まれました。でも、やっぱり心から楽しいと感じられる時間はなかった様に感じていると三百代さん。

 高校卒業後、就職先で旦那さまに出会いました。
 ずっと男の子になりたいと思っていた。でも、出産を経てようやく女に生まれてよかった、かもしれないと思うことができました。
 でも、やはり生まれてきたのが男の子でホッとしました。まだ「女は怖い」という思いを拭い去れないのです。

 生まれてきた子には発達凸凹、知的凸凹がありました。
 三百代さんは子どもに決して無理強いはさせません。子どものペースを守りたい。だから、オムツだって長くとれなくても全く気にしませんでした。それがこの子のペースなんだからそれでいい。
 私も子どものオムツがなかなか取れない頃「坂本龍馬だって10歳までおねしょをしていたって言うし、大丈夫だよ」って自分に言い聞かせていましたが、三百代さんのような境地には到底達していなかったなぁ。
 とにかく自分が経験したようなつらい思い、疎外感を絶対に子どもには感じさせたくない!この子はどんなことがあっても私が守る!そう思っているのです。

 それでも、やっぱりママ達が集団でいるのを見ると怖くて仕方がなかった。そして追い打ちをかけるように、世間体を気にする身内から子どものことに関してあれやこれやと言われます。「あんたの育て方が悪いんや」

 孤独感の中で、自分を追い込んでいった三百代さんは、ついにうつ病になってしまいます。そんな中、大好きだったお父さんが亡くなり、ますます心の行き場を失ってしまった三百代さん。ご主人と子どもの存在だけが、三百代さんをこの世に繋ぎ止めていました。

 自分の事より、三百代さんやお孫さんを心配しながらこの世を去ったお父さん。そんなお父さんへ三百代さんは自分が元気になることが、お父さんへの唯一の恩返しと気づき、自ら薬を断ちます。そして、外の世界へと大きな一歩を踏み出します。発達凸凹のサークルへとご縁は繋がり、そのサークルのお母さんより発達凸凹についていろいろ活動されている水野 薫さんを紹介され、さくらカフェの加藤愛理子さんと出会い、コミュニティハウスひとのまの宮田隼さんたちと出会います。そしてその広がりはどんどん広まりを見せています。

 ひとのまにいると、自分は自分のままでいいのかもと思えるようになりました。少しずつ少しずつ心のなかの氷が溶けていくのがわかりました。

 こうして、今、ピアサポートグループイイトコサガシ富山のファシリテーターとして、かつての自分と同じように苦しんでいる人たちと、話をすることからの一歩を踏み出しています。

 三百代さんは困っている人を見かけると助けずにはいられません。損な生き方だね、と言われても、誰かのために何かしたいという気持ちで動いていたいとはっきり言い切る三百代さん。「損」からしか見えない世界だってある、そう思っています。そして、私はそれは決して損な生き方ではないと確信しています。
 三百代ちゃん、それは、あなた自身を輝かせる生き方だよ。
 その生き方に胸を張ればいい。

 めひの野園の東真盛さんがFacebookで書いていらっしゃった言葉が印象的でした。

 この仕事をしてて思う。
 発達障害の人と接してて思う。
「無駄を除き、効率をいかに高めるか」ではなくて、
 今求められているのは、
「面倒くさいこと、無駄かもしれないと思うこと」を一生懸命やることじゃないかな。
 そうしないと新しいものが生まれないような気がする。

 私もその通りだと思います。そして、それはまさに三百代さんの生き方だと思っています。
 
 三百代さんは、かつての自分と同じように自分を殺して苦しんでいる人に、今どこにも助けを求められない人に、自分の想いを伝えたい。心の叫びを伝えたい、そう思ってプレゼンしました。そうして実際にそのプレゼンはたくさんの人の心に届きました。
 きっと天国のお父さんも三百代さんのことを応援してくれているにちがいありません。誰にも遠慮することのない、心からの笑顔で。
今日の人107.伊藤博芳さん [2013年10月14日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティドリプラのプレゼンター、大正15年生まれ御年87歳ですが「日野原重明さんに比べれば自分はまだ若い」とおっしゃる伊藤博芳さんです。
写真 (7).JPG
娘さんの加藤愛理子さんと愛犬と一緒に
 
 伊藤さんが幼少期を過ごしたのは現在の富士市。旧制中学から海軍兵学校に進んだエリートでした。
 
 海軍兵学校で鍛えられた伊藤さん。体が弱かった伊藤さんが柔道5段にまでなったのも、この時に鍛えられたからに他ならなかったのです。
 海軍では3Sが重視されました。スマート、スムース、スピーディの3つのSです。日常生活の中でも常に機敏な動きを求められました。軍人である前に国際人であれ、というのが海軍の方針でしたから、日常のことも英語で言うくらいでした。そして上の人にも忌憚なく意見を言える風潮でした。
 
 そんな伊藤さんが戦後は陸上自衛隊に入りました。陸は上のいうことは絶対、という風潮でしたが、伊藤さんはそれに反発。上の人に生意気だと文句を言われながらも自分の意見を言い続けてきました。そういうわけで、部下からは慕われていたのです。
 伊藤さんは第11施設群の初代群長としても大いに活躍されました。第11施設群(JGSDF 11th Engineer Group(Construction))は、福島県福島市の福島駐屯地に駐屯する陸上自衛隊第2施設団の隷下部隊で施設科部隊としてさまざまな災害派遣や国際貢献活動で活躍しています。そして東日本大震災でも大きな働きをされた部隊です。
 ご存知のように震災時の自衛隊の働きを見た被災地の男の子の夢は断トツで自衛官が多かったそうです。それだけ大きな大きな働きをされた第11施設群の基礎をしっかりと築いた方が誰隠そう伊藤さんなのです。
 
 転勤に次ぐ転勤を重ね、富士宮に居を構えられた後は、そこを終の棲家にするつもりでいました。しかし、奥様の病気が発覚し、その手術のために娘さんのいらっしゃる富山に越してこられたのが平成21年末でした。

 伊藤さんは実に愛妻家です。でもご本人曰く
「うちのが亡くなってから愛妻家になったんだ。それまでは恐妻家だったよ」
 ご近所でも評判の仲のよいご夫婦でした。いろいろな話をよくしましたが、ケンカもありました。
伊藤さんが「おまえ、出て行け」と言うと、
「私は出て行く所がないから、あなたが出ていらっしゃい」と奥様。
どうやら奥様の方が一枚上手でいらっしゃったようで…

 近所の人に「ケンカが出来るうちはいいですよ。私は連れ合いをなくしましてね。」
と言われたのですが、その気持ちが奥様を亡くされた今は痛いほどよくわかります。
 奥様は家のことも外に対しても万事にキチンとしていらした方でした。亡くなる時も誰にも迷惑はかけたくない、とその言葉通りすべてをキチンと片付けられた上で旅立っていかれました。「最期の言葉は『お父さん、鼻ほじらない』だったよ。ちょうど鼻を触っていたんだろうねえ」と涙ぐまれる伊藤さん。自分も最期は奥様のように、立つ鳥跡を濁さず、そんな死に方ができればなと思っています。
 
 死に方は選べないけれど、キレイな死に方に近づくためにはきちんとした生き方をしていないとダメだと伊藤さん。だらしない生き方だと、結局死に方もだらしなくなってしまうことが多い。だから、せいいっぱい生きることが大切、そうおっしゃいます。
 
 でも、伊藤さんの言うせいいっぱい生きるとは無理をすることでは決してありません。気楽に人と話せて、自然体でいる。自分が楽しんでいたら相手もきっと楽しんでくれるだろう。人とにこやかに過ごし、美しいものは美しいと言える心を持って生きていきたい。そんな風に人と自然体で接する伊藤さんですから、今もとてもおモテになります。

 伊藤さんが大切にしていることに『三惚れ』があります。
人生において三つのものに惚れるのが大事だと。仕事に惚れる。女房に惚れる。土地に惚れる。
 今までもそしてこれからもその生き方は変わりません。
そして、土地に惚れるの章に新たな土地、砺波が加わるのです。

 伊藤さんの娘さん、加藤愛理子さんが今度砺波にコミュニティハウスをオープンされます。そのコミュニティハウスを核に砺波に誰もが自分らしく暮らせる村を作ろうと思っていらっしゃいます。伊藤さんは娘さんと一緒に砺波の野に新たなコミュニティを拓いていこうと思っているのです。それは砺波の地を愛し、そこに住む人を愛していくことでもあります。
 今、伊藤さんは新たなコミュニティでいろいろなことをやっていこうと考えています。生活の場であり、学びの場であり、憩いの場であり、遊びの場でもあるそんな村にしたい。そしてまさに生病老死がそこに自然にある村にしたいのです。

 87歳、これからできることがたくさんあります。人生何歳になっても楽しんだらいい、そんな伊藤さんのプレゼンが、とっても楽しみです。

伊藤さんもプレゼンに立つダイバーシティドリプラは
10月19日(土)午後1時から
ウイングウイング高岡大ホールにて!
http://diversity-toyama.org/?p=942

ぜひ伊藤さんの生プレゼンを聴きにいらしてください!
今日の人106.阪本アンドレさん [2013年10月07日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティ・ドリームプラン・プレゼンテーションのプレゼンターでもある日系ブラジル人の阪本アンドレくんです。
写真 (5).JPG

 アンドレくんは1991年にブラジルのアマゾン川に浮かぶ島パリンチンス(Parintins)で生まれ育ちました。パリンチンスはボイブンバというお祭りで有名です。ボイブンバ祭りはブラジル・アマゾン地方で毎年6月最後の週末3日間に開催されるアマゾン地方で最大のお祭りで、地元民族の文化をテーマにした世界最大のオペラとも言われています。
祭りの期間中は町中の人々が赤組「ガランチード」と青組「カプリショーゾ」の2チームに分かれて、アマゾン河流域に住む地元住民らの衣装をまとい歌や踊りを3夜に渡って競い合います。

 そんな町で13歳まで過ごしたアンドレくん。ブラジルにいる時はサッカーやハンドボールも好きでしたが、もっと好きだったのは絵の勉強でした。ブラジルや日本のアニメのキャラクターを描いて遊ぶのも大好きでした。
 
 そんなアンドレくんが来日したのは14歳の時でした。学校に通い出してからとてもショックを受けます。何も話せない。ほとんど誰とも話せず、教室で過ごす日々はすごく苦痛でした。そんな状況で学校に行かなくなってしまう日系ブラジル人の子はとても多いのですが、アンドレくんはどんなにきつくてもずっと学校に行き続けました。お母さんに、どんなにつらくても学校には行きなさいと言われていたからでした。

 ずっと悶々していましたが、先生に自分の胸の内を話します。授業がなにもわからないんだと。そう話すことで、先生は日本語の本を渡してくれたりしました。そうして日本語をがんばっていくうちに、少しずつ友だちも出来て、学校に行くのが楽しくなってきました。それでも、そのままの日本語力で高校に行くのは不可能と思われました。「まぁいいや、高校に行けなくても工場で働けば」アンドレくんはそんな風に思っていました。今までいたブラジル人の子はみんなそうだったので先生もそれでいいという調子だったのですが、そこで動いたのはアンドレくんのお母さんでした。

「うちの息子は外国人だから、勉強させてもらえないんですか。それはおかしいんじゃないですか」通訳を通してでしたが、お母さんの熱意は先生方に伝わりました。先生だけでなくアンドレくんにも。

 こうしてアンドレくんは受験勉強もがんばりました。「つらくてもがんばれば、それは絶対にあなたのためになるよ」というお母さんの言葉を励みにがんばったのでした。そうして、富山工業高校の定時制に入学します。先生はとても親切でわからない所を徹底的に教えてくれました。3人一組で出場するロボット相撲大会にも出場したりしました。結果は負けましたが、出られただけでもとても嬉しかった。資格もいくつか取り、リタイヤする子も多い中、ちゃんと卒業まで頑張り通しました。
 お母さんの言葉、「つらい時は前に進んでいる時よ」それは今もずっとアンドレくんを支え続けている言葉です。

 素敵な出会いもありました。アンドレくんは8番ラーメンでバイトしていた時があります。まだ日本人に対して心を開けず接客が苦手だったアンドレくんに店長は言ってくれました。
「日本人にもブラジル人にもいい所もあるし、悪い所もある。お互いのいい所だけ吸収すればいい。そうしたら、アンドレの人生はすごく豊かなものになるだろ」
 この言葉もアンドレくんには大きな励みになりました。
「そうだ、自分は日本にいるんだから、文句ばかり言っていても始まらない。ブラジル人の自分 だからできることもある。」

 高校生の時、製図等も学びながら、アンドレくんは独学で漫画を描き始めました。ひたすら描き続け、出版社にも送ったりしているうちにポツポツとイラストの依頼がくるようになりました。漫画家のアシスタントの職を得て上京していた時もあります。朝7時から夜の12時までひたすら描き続ける日々でした。

 そんな生活を経てまた富山に戻ってきたアンドレくん。
今は通訳の傍ら、イラストを描いたり、仲間とゲームのソフトを作り始めています。
自分の作ったソフトが世界中で使われることを夢見て、今日も仲間とアイディアを出しあっているアンドレくん。そんな時間がとても楽しいと言います。

 いろんな人と出会って、いろんなことを学んだ。辛いこともいっぱいあったけど、ここに暮らして本当によかった、そう思っているアンドレくん。自分の経験、想い、夢、それを10月19日のダイバーシティドリプラでプレゼンします。
 アンドレくんがプレゼンすることを知った高校の先生方も「アンドレが出るなら見に行かなきゃな」と言って来てくださいます。アンドレくんのプレゼンがたくさんの外国籍の子どもたちに勇気を与えると信じます。
 
 そんなアンドレくんのプレゼンは10月19日、ウイングウイング高岡にて!
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