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今日の人105.土屋佳瑞さん [2013年08月27日(Tue)]
 今日の人は、働く女性専門コーチ&モノとココロのスッキリスト、土屋佳瑞さんです。
いつも凛とした美しさのステキな女性で、身も心も環境もいつもキレイにしていらっしゃるんだろうなぁというのが一目瞭然。いつもバタバタの私には憧れです。
2013-08-12 17.49.38.jpg

 佳瑞さんは富山市の生まれ。いたち川沿いの桜がキレイに見えるお家でしたので、ひょっとしたら“桜”という名前になっていたかもしれないそうです。
 それが佳瑞というお名前になったのは、社会科教師だったお父さんが気に入ってつけたのだとか。確かにいかにも賢そうで神聖な感じのする名前です。
 
 幼稚園の頃は、本を読むのが大好きでおしゃまな幼稚園児でした。体は小さいけれど口は達者な子でした。お母さんは県職員で忙しく、佳瑞さんは同居だった祖父母に育てられた感じでした。特におばあちゃんは大好きでなんでもおばあちゃんに話していたものでした。

 幼稚園の年長の発表会の時に、みんなで花咲かじいさんをやりました。佳瑞さんはセリフのない桜の花の精の役。主役を演じている子を見て、「私の方がうまいのに!」と思うととても悔しかった。その頃から演じるということに興味を持っていたのかもしれません。後に佳瑞さんは演劇にはまっていくことになるのですが、その話はあとのお楽しみにとっておきましょう。

 小学校に入った佳瑞さんは相変わらず読書が大好きでした。特に好きだったのは大草原の小さな家や赤毛のアンシリーズ。小学校の1,2年の時に担当だった先生が「先生あのねノート」を子どもたちに書かせていて、佳瑞さんもそれを書くのが大好きでした。
「先生、あのね、今日ね…」で始まるそのノート、それを書くと、先生からもお返事がもらえるので、それがたまらなく楽しかった佳瑞さんでした。

 小学校低学年の時は外で遊ぶのも好きでした。川でタニシをとったり、シロツメクサでネックレスを作ったり。でも、みんなで落ち葉を燃やしているときに、小さな男の子が瓶をそこに入れてしまい、熱をもった瓶が破裂して、佳瑞さんは砕け散った瓶の破片を全身に浴びてしまいます。
 幸い、今はその跡はほとんど残っていませんが、女の子がそんな怪我をしてしまったのでご家族はさぞかしご心配されたことでしょう。
 
 佳瑞さんの名前をつけてくれたお父さんは家でNHK以外の番組を見せてくれない人でした。チャンネル権は当然お父さんが持っています。小学校3,4年の頃、その当時流行っていた“紅い糸シリーズ”が見られず、グループで仲間はずれにされてしまった佳瑞さん。女の世界の陰険な部分を垣間見た思いがしました。

 佳瑞さんはずっと習字とピアノを習っていて、児童館の合唱団にも通っていました。そんな中、佳瑞さんはお芝居の世界に惹かれていきます。劇場中継がある時は、テレビに釘付けになっていました。確かに時々劇場中継なるものをNHKでやっていましたが、小学校の女の子がそこに釘付けになるのは、珍しいことだったかもしれません。
 
しかし、学年が上がるに連れて親が厳しくなってきました。お母さんは、何か注意する時には「勉強しなさい」が口癖の人。出来る所をホメるのではなく、できないところを伸ばそうとするタイプでした。そんな訳で佳瑞さんはお母さんから褒められたという記憶はあまりありません。国語が得意だった佳瑞さんは、ちらしの裏を使って、家族新聞なるものを発行していたのですがその時も怒られました。「こんなものを作っている暇があるなら勉強しなさい」家族が喜んでくれるかな、と思って一生懸命その新聞を作っていた少女の心がどれだけ傷ついただろうかと思うと、こちらも胸がチクチクしてきます。

中学生になった佳瑞さんはテニス部に入りました。本当は演劇部に入りたかったのですが、中学校に演劇部はなく、クラブ活動だけは3年間通して演劇クラブに入っていました。
中学校になると部活が忙しく、ピアノにもあまり通えなくなりました。でも、本を読むのはずっと好きでした。特にアンネの日記は繰り返し読むほど好きでした。彼女を倣って、手紙形式の日記も書き始めました。それは大人になるまで続きました。思春期のお母さんとの間の確執が、アンネと自分を近づけていたのかしら、今はそんな風に感じるのです。

 意外と落ち着きのない子で怠けものだったことを心配してか、お母さんは学年が上がるに連れてさらに厳しくなっていきました。男の子から電話がかかってこようものならやはりここでも「ちゃんと勉強しなさい!」
ただでさえ反抗期の中学生がその言葉で勉強するはずはなく、むしろ反発して勉強しなくなっていったのでした。
 
佳瑞さんは思います。お母さんは仕事が忙しく、夜12時くらいに帰ってくることもある位でした。あの時代の仕事と家庭の両立は、相当に大変だっただろうと。初めての子育てできっといろんなことが必死だったんだろうなと。
でもあの頃、もっとお母さんの仕事の話をして欲しかった。将来、この子が成長して仕事や結婚後の家庭で苦労をしたりしないようにと心配して、とにかく今は勉強しなさいというよりは、親がいきいき仕事している姿を見せて欲しかった。誰かに会ってもお母さんは、自分のことを自慢してくれたという記憶はない。確かに自慢できるようなことなんてそうないのだけれど、子供は単純に、ほめられないから自分は大したことがない人間だと思ってしまう。人前でしゃべることは得意だったけど、それをほめられたことがないので、その他の苦手な、できないことばかり頭に浮かぶようになっていってしまいました。
それでも、ずっと好きだったのは演劇でした。テレビで舞台中継をやっているとかじりついて見ていました。お芝居を見ている時は嫌なことは全て忘れられる気がしました。
 
ある時、演劇クラブの先輩が高校の演劇部のチケットをもってきてくれました。その舞台を見てすごい!と思った佳瑞さん。その高校でさえすごいんだから全国大会に行く高校はもっと凄いだろうと思って、演劇で全国大会に行く高校に行きたいと思うようになりました。 

こうしてその当時 富山で一番実績のある富山女子高校に進学します。進学したのは普通科でしたが、自分としては普通科1年ではなく、まるで演劇科1年といった気分でした。
演劇部は楽しくて楽しくて仕方がありませんでした。創作劇では一人一本以上脚本を提出しなくてはなりませんでしたし、大会の度にオーディションもありました。
レベルが高く部員の層も厚かったので、自分に回ってくる役は主人公の母の役や掃除婦の役といった脇役が多かったのですが、それでもすごく楽しく充実していました。夏は合宿をし、遅くまで稽古、自宅でも勉強よりも役作り。
1年、2年ともに、地区大会、県大会を勝ち抜いて、富山県代表で中部日本大会へ進出、クリスマスは部員全員で遠征先の宿舎でケーキを食べたのが懐かしい想い出です。

高3の時、お父さんが大病をします。もともと、私立の四大はダメと言われていたのですが東京の短大に行こうと思っていました。ところが、県外には出ない方がいいとお父さんの主治医に言われてしまった佳瑞さん。結局、急遽最終募集で当時魚津にあった洗足学園魚津短期大学の国文科に進学しました。全く行くつもりのなかった地元の短大への進学。でも、ここでの授業は予想外にとてもおもしろかったのです。先生方も個性的な方が多く、近松門左衛門の演習だったり、言語学の講義だったり、心から勉強することがおもしろいと感じたのはこれが初めてだったかもしれません。民俗学の授業も大好きでした。卒論ではハレとケについて書いたくらいです。

もちろん、演劇も続けていました。富山のアマチュア劇団に所属し、練習で帰宅が午前様になることもありました。厳しい家でしたから、「何しとるが!」と当然厳しく怒られました。でも、演劇を辞めることだけは出来なかった佳瑞さん。
短大時代は他にも古代文化研究会、富山大学の映画研究会という二つのサークルにも入り、それなりに忙しく過ごしていましたが、世の中はバブル真っ盛り。東京の短大に進んだ友だちの華やかな生活ぶりを見聞きするにつけ、何か複雑な想いになることももちろんありました。その後お父さんは順調に回復し、今も元気でいらっしゃるので、本当によかったのですが。

やがて高校を卒業した佳瑞さんは学校推薦で富山の有名企業に就職。男女雇用機会均等法が施行された年でした。
会社は社内にコンピューターを入れて新しいシステムを活用し始めたばかりでした。佳瑞さんはその新システムの導入のもと、入社早々残業も休日出勤も当たり前の生活になりました。以来25年間、佳瑞さんは会社でずっと社内でのシステムの運用と仕事の仕組み作りに携わっていくことになります。

当時のその会社では女子社員は結婚退職が当たり前の時代でした。佳瑞さんは同期入社のご主人と24歳の時に結婚。その後は嘱託で働き続けました。「なぜ女性は結婚して正社員を辞めなければならないの?」そういう疑問がフツフツと湧き上がりました。
しかし、その1.5年後、正社員に戻されます。当時としては異例とも言える措置が取られたのでした。
やがて佳瑞さんは妊娠出産。そして、会社にとっての育休第一号となります。育休といっても取ったのは半年だけです。佳瑞さんは4月に会社に戻るつもりで、保育園に申し込みも済ませていました。ところが、2月に金沢転勤の辞令が出ます。まさに青天の霹靂。それでも佳瑞さんは、金沢転勤の道を選び、ご主人とともに金沢支社へと転勤しました。朝早くから夜7時くらいまで子どもを保育園に預けるのですが、本当に忙しく毎日矢のように過ぎていきました。

5年経って富山に戻ってからは更に忙しくなりました。配属された部署は10年前の古いシステムをまだ使っていて、しかもわからないことがあるとそこにいる生き字引のような女子社員に聞くしかないのでした。そんなわけで、そこに新たなシステムを構築することになったのです。残業で夜中1時になってしまうこともありました。多くは夜7時か8時まででしたが、それでも小さい子を抱える佳瑞さんには大変な毎日だったことでしょう。近所のラーメン屋でおでんとラーメンを子供と二人で分けて夕食にするということもよくありました。それでもその部署はみんなが仲良く楽しい部署だったので、なんとか乗り切ることが出来たのです。

やがて、また新たな部署へと異動になります。そこは忙しさのあまり問題が続発していいました。これまでの職場では聞いた事のない「うざい」や「死ね」という言葉を特に悪気なく普通に使う世代もいました。仕事は山積み、連携はうまくいかない。これまでの経験で培ってきた仕事の段取りや、チーム作りは、何をやっても裏目にでました。なんとかチームをまとめたいと必死になればなるほど空回りして人間関係はどんどん悪くなっていきます。
そうして一部の人からの猛烈なバッシングが始まります。話しかけてもまるっきり無視される。ひどい言葉を言われる。そんな状況に佳瑞さんは一回だけ耐えられずに会社で隠れて泣いてしまったことがあります。自分はなんでこんなにひどいことを言われなくてはならないのか。入社以来、これまでにも何度も車や自宅で泣いたことはあったけど、会社で耐えられなかったのはそのときだけでした。
そんな時に ふと これはきっと、自分が変わらなければ何も変らないのでは と思いました。そして以前から気になっていた「コーチング」を学び始めました。


コーチングの中でいちばんハッとしたことは「認める」ということでした。
「認める」は、評価することではなく、ただ、ありのまま、そのままを認めること。
まずは ただ自分の辛かった思いをそのまま認めることができたとき、自分が「先輩としてこうあるべき」と自分自身をしばっていたことも認めることができました。
そして気付きました。
こちらが認めない限り相手が認めるわけがない。
相手も、きっと認めてほしいという思いがあったはず。
そう確信しました。そしてコーチとはどんな人だろう。自分のことも相手のことも認めるにはどうしらいいんだろう。自分は人としてどうありたいんだろう。常にそう考えるようになりました。
そんな時、佳瑞さんの部署に新しい人が入ってきました。
「これ、わかりにくいですよね」
その人が言った時、今までだったら、「これはこうすればいいよ」と簡単に教えていたことでしょう。でも、その時佳瑞さんは「そうだね、わかりにくいんだね」「○○さんはどうなってたら解りやすいと思う?」と質問したのです。その問いによって、「こうしたらいいと思います」と言う返事が返ってきました。それは、それまでとは全く違う仕事のやり方でした。コーチングが初めて実践で生きた!そう思いました。
こうしてコーチングを仕事でも生かしていった佳瑞さんでしたが、ご主人が取締役になることが決まりました。
ここまで仕事をしてきたというプロ意識は当然ありました。でも、ご主人が絡んでくる以上、ここが引き時だと判断して佳瑞さんは長年働いた職場を去りました。

2011年の4月に退職、それまでずっと仕事をしていたのに、家にいる…。それが苦痛でした。カーテンを閉めてうちにいない振りをしました。自分の居場所がない。家のことも出来ない。仕事をしていた時より時間があるのに全く片付かない家にいて、気持ちはふさぎ込むばかりでした。
そんな時に、整理収納アドバイザーという資格があることを知り、今の現状をなんとかしようと、その資格を取ることにしたのです。2級、1級と順調に資格を取り、その後はライフオーガナイズ2級、1級も取得しました。

今、佳瑞さんは富山でコーチングと片付けの分野でさまざまに活躍されています。コーチングの手法を取り入れた片付け講座はわかりやすいと大人気!きっとこれから、佳瑞さんの講座はますます人気が出てきてなかなか予約が取れなくなると思うので、ぜひ今のうちに受講されることをお薦めします。

さて、佳瑞さんと切っても切れない演劇の話をずっと出していなかったのですが、実は佳瑞さんは社会人になってから、高校の演劇部のメンバーと共に「ハートクラブ」というアマチュア劇団を立ちあげ 以降年に2回ずつの公演を5年間行なっていたのです。その後メンバーの結婚や出産で活動は休止状態だったのですが、昨年実に19年ぶりに公演を再開!見事に舞台に返り咲いた佳瑞さんなのでした。
そんな佳瑞さんがワクワクすることはやはり芝居をすること。演じることは無条件に楽しい!とおっしゃる佳瑞さん。去年の公演を観た若い女性から、「大人の女性ってステキだと思った」と言われた時は何より嬉しく思いました。

そして夢は、働く人が笑顔でいられるようにしたい!ということ。みんなが自分の力を出し惜しみせずに発揮できるようにしたい。それは、ダイバーシティとやまの目指すところと同じなのでとっても嬉しいです!

もちろん、一人息子さんを全力でサポートすることも忘れません。今は息子さんが受験生なので、優先順位の一番はやはり息子さんです。
そして今はいい関係のお母さんとも、ずっとお互いに気持ちをまっすぐ伝えあえるようになりたい、そう思っています。母と娘ってずうっと母と娘ですものね。母親っていつまで経っても怖い存在なのかもしれません。でも、厳しいことを言ってくれる存在って年を取れば取るほど少なくなってくるから、ありがたい存在なのですよね。(自戒を込めて)

これからもコーチングをベースに、モノとココロのスッキリストという新しいジャンルでもどんどん活躍を広げていく佳瑞さん。
これから目が離せない富山のステキな女性なのです。
佳瑞さんは毎日ブログを更新していらっしゃるので、ぜひこちらもチェックしてみてくださいね。
佳瑞さんのブログ⇒「女神になろう!~働く女性専門コーチ&モノとココロのスッキリスト~

これからも社会の先端を走るステキな女性として、そして優しいお母さんとして、富山でダイバーシティを推進する時の中心的な方でいてください。そしていつかまたピンクレディメドレーをご一緒出来る日を楽しみにしています(^^)
今日の人104.伊藤 勝さん [2013年08月21日(Wed)]
 今日の人は群馬で奇跡の眼科と呼ばれている「いとう眼科」の事務長、そして11月23日に初開催される日本人の生き方を問うサムライドリプラ実行委員長として、日夜東奔西走されている伊藤 勝さんです。伊藤さんはみなさんからえむさんと呼ばれ親しまれています。
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 えむさんは小さい頃から人気者で、みんなに可愛がられて育った次男坊でした。幼稚園の年中から剣道を始め、それは高校1年まで続きました。
 中学の時は剣道部で抜きん出て強く、また勉強も出来る方だったので、文武両道を地で行っていました。彼女もいてルンルンの中学校時代。ビー・バップ・ハイスクールに憧れ、モテることばかり考えていました。でも、タバコを吸ったりするようなことはなく、明るく挫折ない道を歩いてきた思春期だったのです。

 お母さんはえむさんをエリートサラリーマンにさせたいと思っていました。それで、えむさんもエリートになりたい。いい会社に入っていい生活をしたい!そんな風に思っていました。

 お父さんは銀行員でした。といっても、近所のおじいちゃんおばあちゃんを担当している銀行員でしたから、外でお客さんに会うといつもペコペコ頭を下げていました。えむさんはそれを見るのがものすごくイヤでした。親父、カッコ悪いよなぁ。そう思っていました。こんな親父には絶対になりたくない、理想の父親とは真逆の父親像だったのです。今、思うとそう思っていた自分がホントに情けなくなりますが、当時はそう思っていました。
 
 今でこそ読書家のえむさんですが、当時は漫画しか読まない少年でした。ジャンプの発売日の月曜になると、いつもお父さんはジャンプを買ってくれて、肉まんと一緒にえむさんの枕元に置いておいてくれました。ホントに優しいお父さん。それなのに、そんなお父さんを尊敬できない勝少年なのでした。

 剣道で神童と呼ばれた中学時代から一転、高校は剣道部も強く、今までのようにチヤホヤされることはなくなりました。なんだか今までずっと日の当たる場所を歩いてきたのに、明るい道から突然、凡庸な道に落とされたようなそんな気分になりました。

 もう剣道はいい、それより勉強をちゃんとやろう、そう思ったえむさんは部活を辞めました。と言ってもそのまま勉強に突っ走ったかと言えばそうではなく、バンドでギターを弾いて学園祭ではじけていました。当時流行っていたBOØWYを真似たりしました。それはやっぱり女の子にモテたいという思いがあったからです。
 
 しかし、徐々に自分が自分勝手だということに気づきます。俺は本当の友だちがいないんじゃないか?女の子の取り合いとかそういうのばっかりだ。俺はなんて自己中心的なんだろう。

 大学進学に際しては東京六大学に行きたいという思いがありました。少しでも就職に有利、そういう思いもありました。やはりお母さんの願いがえむさんに入り込んでいたのでしょうか。こうして法政大学の経済学部に入学します。しかし、サークルには入りませんでした。
 
 大学1年の時に出会ったのが奥さまになる女性です。その後、えむさんはずっと彼女と一緒でした。友だちにもっと合コンとか出たらどう?と誘われましたが全くそういう気分にならなかった。波長の合う彼女とずっと一緒にいることは、えむさんにとってごく自然なことだったのです。高校時代までは女の子にモテることばかり考えていたえむさんのこの変わり様。きっと彼女と会うことがえむさんにとっての必然だったのでしょう。

 サークルに入らなかったえむさんが一生懸命に取り組んだのはアルバイトでした。お金のためというよりは、親分かたぎの社長の生き方に影響を受けたからでした。体育会のようなノリのバイト先でしたが、親分肌でいつもどっしり構えている社長の姿勢に学ぶところがたくさんありましたし、厳しい中にもえむさん達をとても可愛がってくれました。えむさんはこのビジネスホテルで4年間ずっとバイトをやり続けたのでした。

 しかし、大学生活自体にはあまり意義を見出せませんでした。何もがんばることをしていない自分。いったい何のためにここにいるのだろう。意味のない時間を過ごしているように思えました。

 就職活動をしても何か虚しさがありました。都銀などを受けて受かったとしてもきっと一生地方まわりの運命だ。それならば、地元に帰って、地元の安定した企業を受けよう、とう思いました。
 こうして就職したのは地元群馬の農業関連の総合商社でした。エリートとは言えないけれど、安定企業だし、落ち着いたよな、そう思いました。

 実はこの時、群馬に彼女もついてきたのでした。大学時代は空虚だったとえむさんはおっしゃるけれど、その大学時代に生涯の伴侶を得たのですから、決して空虚だとは言えないですよね。

 就職した頃は自分は最悪なサラリーマンだったとえむさんはおっしゃいます。
視野がとても狭く、チヤホヤされて育ったから自分はできると思い込んでいるという最悪なヤツでした。同僚と飲みに言って会社の愚痴を言うのは日常茶飯事。総務部では若くてもみんなに頭を下げられましたので、ますます調子にノリました。
時間内に仕事を終えられないヤツは使いもんにならん。そう思っていました。だから自分は6時きっかりに帰ります。仕事に楽しみはない。なんだか週末のために仕事をしているようで、虚しさばかりが胸に広がりました。自分は何のために働いているのだろう…

 このままでは俺はダメだ、何か勉強したい。そう思って始めたのが、社会保険労務士の資格を取る勉強でした。元々、やり始めるとハマりやすいえむさん。全ての遊びをやめ、飲み会の誘いも断り、ひたすら受験勉強に取り組みました。当時、えむさんのお嬢さんはまだ1歳だったのですが、そのお嬢さんと遊ぶこともほとんどなく、家族の娯楽はえむさんの受験勉強の合間に公園で一緒に奥さんの作ってくれたお弁当を食べるくらい。それでも、一切文句を言わない奥さまはなんと素晴らしい方でしょうか。

 そこまで全てをかけてチャレンジした試験でしたが、最初の年は合格できませんでした。2ヶ月間、何も手がつかずに過ごしましたが、やはりチャレンジすることをあきらめきれず、もう一年頑張ることにしました。こうして2年目に社会保険労務士の試験に合格。

 ちょうどその頃、眼科医のお兄さんに開業するから手伝ってくれないかと声をかけられました。その時えむさんは会社では600人を束ねる部署にいましたが、考えた末お兄さんと一緒に歩いていく道を選択。
 
 こうしてえむさんは会社を辞め、他の眼科で4ヶ月修行した後、お兄さんの眼科で働き始めます。平成17年4月のことでした。

 しかし、どうしようもない男が組織を作っても、所詮どうしようもない組織しかできない、それを実感することとなりました。
 
 その頃、えむさんには感謝とか貢献といった概念がなかったとおっしゃいます。とにかく業績を伸ばさなければ!そのためにいいスタッフを集めよう!対外的にはほめられていましたが、実はスタッフ間の人間関係はよくありませんでした。押し付けでなんとか見栄えのいい形は作った。でもそこに中身は伴っていなかったのです。

 そんなえむさんを変えたのは3つの出会いでした。まずは人との出会い。朝必ず自分からスタッフのところへ行って握手をしているという歯医者さんとの出会いがありました。医者がスタッフに感謝して毎朝握手までしている。衝撃的でした。こんな人がいるのか!次に本との出会い。本屋でたまたま手に取った「仕事が嫌になった人へ」という本。
それまで仕事は生活のためにやるものだと思っていたえむさんに、「仕事が楽しい」という考えは強烈でした。
3つ目はDVDとの出会い。それは居酒屋てっぺんの朝礼のDVDでした。(居酒屋てっぺんの朝礼についてはこちらをどうぞ⇒ )そこに写っている人たち一人一人の顔が輝いていました。自分もスタッフも輝くにはこれだ!そう思いました。

 これらの出会いを経て、えむさんは今までの仕事への取り組み方を180度変えました。すると仕事が楽しくて仕方がなくなったのです。しかし、えむさんがその取り組みをやればやるほど、そのやり方に反発するスタッフとの対立は深くなりました。やがて12人いたスタッフの内9人が辞めてしまうという事態が起こりました。

 その頃、既にいとう眼科は1日に160名の患者が来る病院になっていました。今まで12人のスタッフでやっていたものを3人で回さなければならない。お兄さんである院長の苦悩は深く、わずか2日で体重が5s落ちました。
 辞めた9人のうち、2人は戻って来てくれましたが、それでもまだ5人。
 これでは患者さんに迷惑が及ぶことになってしまう。

 えむさんは一旦病院を閉めようという大胆な提案をします。そうして残ってくれたスタッフ5人と一緒にできることをとことん考えました。今までの制服も辞め、ユニクロに行って、かっこよさげな服を選び、それをユニフォームにしました。
 理念は「仕事を通じて社会に貢献したい」
その想いに共感してくれた人のみを採用していきました。

 こうして、その後2年の間にいとう眼科は「奇跡の眼科」と呼ばれるようになるまでになったのです。その2年間はチーム作りをみんなでワクワクしながら取り組めましたし、もっと本質的なものがあるんじゃないかとの思いでドリプラにも取り組みました。

 えむさんは3つのドリプラの実行委員長を同時にやられたそうです。ドリプラの実行委員長というのは、ひとつでも大変なはずなのに、それを3つ同時にだなんて、まさに変態です。(ここでいう変態はいい意味です。常人離れしていて、すごい人という意味です)
 こうして9月に群馬ドリプラ、10月に眼科ドリプラ、11月に大阪歯科ドリプラという3つのドリプラの実行委員長をやり遂げたえむさん。
 
 ドリプラに取り組むというのは、自分のお金、労力、時間を手放すことだと思っています。そしてそれはボディブローのようにジワジワと効いてくるのです。もちろんいい意味で。実行委員長が何かに固執していては形だけのドリプラにしかならない。いい意味でも悪い意味でも実行委員長の姿勢が出てしまう場、それがドリプラだとえむさんは言います。
 こうして、いとう眼科はどうしたって「いいチームですね」と言われるチームに育っていきました。
 
 その頃のえむさんのキーワードは「輝き」です。
 どういうものが輝き?どういう状態が幸せ?どうやったら成長?
常に自分に問い続けていました。時にそれらの問いはえむさんを苦しめることがありました。僕はスタッフが大好きだ。これは真実だ。では幸せってなんだろう?いいものを着て、美味しいものを食べることが幸せ?スタッフにそういう想いをさせてあげるのが幸せ?いや、そうではないはずだ。

 しかし、そういう曖昧だったことを全て明らかにしてくれるものに出会いました。えむさんにとってそれは仏教でした。仏教の教えは途方もなく深く、到底ここで語れるものではありません。
 ただ言えることは、仏教の深い教えに出会ってから、えむさんのキーワードは「真」になったということです。そして、奇跡は必然なのだと悟ります。自分は生きていると思っていたがそうではなかった、自分は生かしてもらっているのだ、と初めて気づいたのです。そこで自分の中にブレない軸が出来ました。迷いがなくなったのですから、あとはやるしかないのです。
 
 今まで、先人たちが長い年月をかけて培ってきた精神、それを自分たちは次の世代に残せるのか。今までは自分のためとまわりのためという想いでなんでもやってきたけれど、これからは私心なく「未来の子どもたちのために」その思いで生きていきたい、そのために自分がやれることはひたすらやるのだと決めています。

11月23日に開催するサムライドリプラも愚直にまっすぐに
「未来の子どもたちのために」
それのみがテーマなのです。
 
 このままの日本で、子どもたちは幸せなのでしょうか。どうしたら子どもたちのために誇れる未来を創っていけるのでしょうか。
 そのことを真剣に考えたい人はぜひ足を運んでみてください。

 詳しくはこちらをどうぞ⇒http://mana378.wix.com/samurai

 えむさんは日々ブログでもご自身の想いを発信していらっしゃいます。そちらもぜひお読みください⇒http://ameblo.jp/em-u/

 爽やかな笑顔の中に強い決意を持ったステキなサムライ、そんなえむさんのお話を伺っていると、私も自分の使命を果たしていこうと強く思えるのでした。
今日の人103.篠田 法正さん [2013年08月05日(Mon)]
 今日の人は、一般社団法人 最幸経営研究所代表理事、株式会社LBC代表取締役、工学博士、中小企業診断士、ファイナンシャルプランナーAFP、生涯学習開発財団認定シニアスキルリーダー、経産省後援ドリームゲートアドバイザー(起業支援)…と、たくさんの肩書をお持ちの篠田 法正さんです。
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 法正さんは1962年に名古屋で生まれました。子どもの頃はスポーツが苦手で、野球をしている時は「ボールがきても触るな!」と言われていました。打順は10番、二人目のライト、のび太みたいな感じでしょうか。
今はとってもスリムな法正さんですが、当時はポチャポチャだったそうです。運動ができない、という疎外感があったので、親に言ってグローブを買ってもらったりして、なんとかみんなの仲間でいようと思っていました。

 でも、勉強はとてもよくできました。読書も大好き、将棋もよくやっていました。頭脳派少年だったんですね。
 
4年生の時に家族でグアム旅行に行った時に、コックピットを見せてもらいました。(当時は安定飛行の時は希望すればコックピットを見せてもらうことができたのです。今は不可能ですけど)
「うわぁ、パイロットってカッコいいな!」それで当時の夢はパイロットでした。

 法正さんのお父さんは葉巻を吸ってボルボに乗っているお酒大好きな人でした。
何か国語も話せてしょっちゅう豪華客船の旅をしているというような羽振りのいい人でした。
 しかし、だからと言って家が大金持ちだったわけではありません。お父さんがそういう人でしたから、お母さんはヤクルトレディをしながら苦労して生計を立てていました。

 小学校高学年の時に、森田健作の「俺は男だ」というドラマに影響を受け、中学では剣道部に入りました。しかし、続かず、以後は囲碁将棋部へ。この頃、パイロットになるには身長も視力も運動能力も及ばないことを知り、パイロットになりたいという夢はあきらめました。

中学生にありがちな反抗期も特になく、本当にいい子で育ちました。でも、お父さんがたまに家にいると、緊張しました。好きだけど、怖い存在、それがお父さんだったのですね。

 高校進学のとき、家の近くに新設校ができます。そこへは中学校でも成績がいい子が送り込まれました。法正さんも送り込まれました。自分にとっては、プールがないというのが最大の魅力でした。しかし、文武両道を謳った学校だったの、何か運動部に入れということになり、選んだのは弓道部。この選択は大正解でした。法正さんは結局大学時代までずっと弓道部で活動することになります。

 さて、そんな風に運動部には入ったものの、もちろん、勉強はしっかりやっていました。特に好きだったのは物理でした。物理がわかると世の中の現象のからくりがわかる。なんで電車で通り過ぎる踏切の音が変わるのか、どの角度でボールで投げればいいか、そういうことが全部物理でわかるのです。と言われても、物理がワクワクする科目だなんて、物理が全科目の中で一番苦手な私には到底理解できない感覚ですが…

 大学受験の時は電子工学が楽しそうだと思って、名古屋大学の工学部を受けました。ところが、合格発表の時、自分の番号がありませんでした。がっかりしている所に、名大から電話が。第三希望に書いていた農学部に繰り上げ合格ですが、どうしますか?という内容だったのです。本人は迷ったのですが、高校の先生に取り囲まれて「入れ入れ」の大合唱。それはそうですよね。先生方にしたら新設校の第一期生なので、少しでも進学率をあげたいでしょうから。

 こうして名古屋大学農学部に入学した法正さん。弓道部に所属し、朝から道場に通う日々でした。アルバイトもいろいろやりました。家庭教師や塾の講師をやり、自分は教えることが好きなのだということに気が付きました。
 アトラクションショーではショッカーの戦闘員もやりました。ここで、ステージに立つ楽しさも知りました。あの頃の仮面ライダーの人気たるや今の比ではありませんから、ショッカーをやっていると子どもたちからたくさんのヤジがとんできそうですが、いつもの自分とちがう自分になれてすごくワクワクしました。

 もちろん、勉強の方もしっかりやりました。特に、研究室に入ってからは実験に没頭しました。法正さんが入ったのは、プラスチックの合成を研究している研究室です。重合反応の実験をやるのですが、いろんなつなぎ方でいろんなものが作れる。それが楽しくて、学部だけでは飽きたらず、大学院に入って実験を重ねました。

 そして教授の推薦もあって三井化学に入社が内定します。あと半年で入社する時に、そこの研究チームが溶ける樹脂で手術の糸を作るのに成功します。絶対ここで研究したい!法正さんの願いが叶い、すんなり研究担当になります。
 溶けてなくなる手術用の糸の開発、他にも20ミクロンの粒のなかに制癌剤を入れて、注射で一ヶ月に一回打てばずっと効果が続く前立腺がん用の徐放性制癌剤の開発、国内でそれができるのは法正さんのいる研究室だけでした。海外からも引き合いが来て、一流ホテルで接待を受けることもしばしばありました。
 世界で初めてトウモロコシの樹脂をプラスチックにすることに成功したのも法正さん
です。これによって捨てても分解できるプラスチックができるようになったのですから、本当にすごい開発です。

 こんな風にいくつも世の中に役立つヒット商品を生み出した法正さんですから、仕事は楽しくて仕方がありませんでした。

 プライベートの方も、同じ大学の同じサークルだった彼女と就職1年目に結婚。一男一女に恵まれ、仕事も家庭生活も充実していました。

 しかし会社はより規模を大きくするために合併。今までと違って管理のとても厳しい会社になりました。嫌だなぁと思っていた時に上司にアメリカへの留学を薦められ、渡りに舟とばかりに留学します。
 
 2年間の留学生活は大変充実していました。周りはノーベル賞クラスの研究者ばかりだったし、研究の合間にはキレイな景色や芸術鑑賞で心も潤せる、後から振り返るとまるで竜宮城で過ごしたかのように楽しい日々でした。

 2年の留学生活が終わって日本に帰ってきたら、本当に浦島太郎のような気持ちになりました。昔のようにユニークな研究はできなくなっていて、選択と集中の中で、短期的な収益の上がる研究、大量生産の樹脂に関する研究が主流となりました。自分がおもしろくないことを部下にやらせなければならないのも苦痛でした。
 研究者を、研究成果を挙げていかに名声を得るかに重点を置く人と、新しいものを生み出して喜ぶエンターティナータイプに分けるとすると、法正さんは明らかに後者でした。
 
仕事はおもしろくない。そうは言っても家族を養っていかなければならない。なんだかお金のために働いているようでイヤでした。もうやめてもいいかなと薄々思い始めていた時に、いろいろなセミナーを受け始めるようになりました。外の世界との接点を持ち始めた法正さん。いろいろセミナーを受けながら、資格取得の勉強も始めました。半年で750時間の勉強をこなし、中小企業診断士の資格も取りました。

 こうして法正さんは、研究職で入った時から数えると20年という歳月を過ごした会社を割合軽い気持ちで辞めました。

 コンサルタントとしてやっていこうと起業した法正さんでしたが、最初は集客で悩みました。しかし、セミナーをしかけ、ダイレクトメール等で地道に集客していくうちに顧客がつくようになってきました。けれども、一生懸命にやっていると疲れるのです。思えば研究職の時は、朝から晩までやっていても疲れなかった。けれども、好きだからやるではなく、できるからやるという仕事は疲労感がどっと出るのです。

 そんな時に出会ったのが福祉正伸さんの究極のコンサルタント養成講座でした。福島先生の話を聴いているうちに自分は何のために働いているのだろう?自分は何者だろう?と思い始めた法正さん。 
 
もう一つ大きな出会いがありました。それは東洋運命学でした。人にはそれぞれその人が生まれ持った潜在能力がある。神様はちゃんと個性のちがう人を創って天命を与えている。自分の能力がわかると天命がわかる。

 玉ネギの皮を剥ぐように一枚一枚剥いで行くと、最後にコアなあきらめない思いが残ります。それは恥ずかしいし、人には言いたくない。でも、みんなそれが炎のように燃えているものなのです。それを価値に変えることが自分のやりたいことなんじゃないか、みんなの夢を応援することが僕のやりたいことなんじゃないか、そう気づいたのです。

 誰にだってマイナスの思いはあります。悔しい、悲しい、ちくしょう!そんな思いを価値を届けるエネルギーに変えられたらいいな。みんなが自分の中に持っていて気付いていない炎を価値に変える方法を教えてあげられたらいいな。

 こうして法正さんは、自分の能力を生かして仕事したい人を応援することに特化したコンサルタントになりました。

時間をかけてセッションしていくと、必ず「あ、私これがやりたかったんだ!」と気づく瞬間があります。本当に自分のやりたいことを追求したら人はイキイキ輝きます。まさに人生がガラッとかわる瞬間に立ち会えることができる。ホントに手伝いたいことができる。
この喜びはちょっと言葉では表せません。
 
 今、法正さんの所には特に一生懸命に宣伝しなくても、口コミでお客さんが来るようになりました。個別セッションはワクワクする時間です。まさにこの仕事こそ、我が天命。そう胸を張って言えます。

 法正さんがやっていることに【自分軸確立ワークショップ】というものもあります。これは10時から18時までじっくり取り組むのですが、これをやるとだいたい16時半くらいに自分のやりたいことが明確になってきます。そして1週間後くらいに「私が本当にやりたいことが見つかりました!」とメールが来ることが多いのです。

その後は奇跡の連続が起こります。でも、本当はそれは奇跡でも何でもないのです。誰でも、自分軸がしっかりして、これだというものができると無駄なことをしなくなります。そうすることでレーザービームのように自分のパワーが何千倍にもなって全てが思い通りに進むようになるのです。それを奇跡のように感じるだけなのです。

 そして法正さんは専門家の機能集団をまた新たに結成しました。それが一般社団法人最幸経営研究所です。こちらは会社をよくしたい!という理想の会社作りを中心に据えています。そこで取り入れているのが社内ドリプラです!これが今、実に楽しい。社内ドリプラに取り組んでいくうちに社内がどんどん変わっていく様子がよくわかるからです。

「最幸経営」とは、理念に共感したメンバーが、目標をもち、夢を語り、愛と感謝で社会に価値と感感動を提供する経営のことを言います。
さらには、様々な課題や困難に対して、一人ひとりが持てる能力・個性を生かし、自立型姿勢と相互支援で乗り越え、常に学び、成長し、創造し続けることにより、関わる全ての人が幸せになる経営のことを言います。

こういう会社が日本全国に増えれば、日本はまさに最幸の国になりますね!

法正さんの自分軸確立ワークショップを受けてみたい方はこちらのページをご覧になってください。きっと素敵な自分に出会えることでしょう。⇒http://www.lbclabo.com/article/14528365.html

そして社内ドリプラを実施されたい方はこちらへどうぞ⇒http://saikoken.or.jp/lp/offer001/

いつも朝出かける時は奥さまにハグをしてから出かけるとおっしゃる素敵な旦那さまでもある法正さん、これからもますます世の中をツルツルに、いやキラキラにしていってくださいね!