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今日の人102.堀元栄詞さん [2013年07月27日(Sat)]
 今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、衛生研究所で感染症対策に従事されている堀元栄嗣さんです。
写真 13-07-05 19 31 25.jpg
 堀元さんは福野生まれ、福野育ち、3人兄弟の長男として育ちました。家は南砺地方の典型的な散居村の中にあり、兼業農家で両親は共働きでした。祖父母も働いていましたので、昔の農家はどこもそうだったように、どこでも行ってしまわないように柱に縛り付けられていた幼児の頃の記憶があります。そういうわけで自然と一人遊びが上手になりました。
 
 幼稚園の頃にはコンバインに乗って、農作業の手伝いをしていました。そんな小さい時からお手伝いをしているなんて、ホンマにかたい子です。(かたい子は富山弁で、いい子という意味です)

散居村に家がありましたから、小学校までは片道4km。スクールバスで通いました。この頃から、お笑い系だったと堀元さん。どこのクラスにも一人はひょうきんな子がいたものですが、堀元さんはまさにそんな子どもだったそうです。
小学校1年生の時は通知票に1と2しかなくて、お母さんは担任の先生から言われました。
 「あなたの息子はバカです」
 …それを聞いたお母さん、必死で息子に勉強させました。
一週間ずっと朝から晩まで算数のドリルをやらされました。できないとすぐに叩かれます。
お母さんに叩かれて、あごが外れてしまったこともありました。

 でも、もっと怖かったのはお父さんです。
お父さんとのキャッチボールは、全然楽しくありませんでした。お父さんは子ども相手に真剣にボールを投げるのです。そのボールが身体に当たってあざになることもしょっちゅうでした。
 まさに巨人の星の星一徹のようなお父さんだったのです。

 ですから、両親はとても怖い存在でした。
授業参観には絶対来て欲しくありませんでした。勉強のことでとやかく言われるのも嫌だったけれど、なにより学校という自分のテリトリーに親が入ってきて欲しくありませんでした。
 学校ではひょうきんに振る舞えるけれど、家では本当におとなしい性格だった堀元さん。
その両面を使い分けることで、なんとか自分を保っていたのかもしれませんね。

 スクールバスに乗らずに、泣きながら家に帰ったことも記憶に残っています。家のことをからかわれたのか、農機具のTシャツをからかわれたのか、記憶は確かではないのですが、とにかく悔し泣きしていたことだけは覚えているのです。
 家が農家なのが嫌だった。でもそれをからかわれるのはもっと嫌だったのかもしれません。

 小3の時に一日に一枚A4のプリントを埋めたらシールをもらえるというのを担任の先生がやり始めました。
 そのシールが欲しくて初めて自分から頑張り始めた堀元さん。すると、そこから理科の勉強が楽しくなり始めたのです。その後は勉強のことでお母さんにとやかく言われることはなくなりました。
 
 4年生からはスポーツ少年団で水泳もやり始めました。自由形の選手として水泳は高校までずっと続けることになります。特に中学の時は本格的に水泳に打ち込み、厳しい合宿でも鍛えられました。

 高校受験の時に、お父さんに言われます。
「お前は将来何になりたいんだ?」
「それを考えるために高校に行く」そう答えました。

 そうして地元の福野高校に入った堀元さんでしたが、勉強をやれと言われるのが嫌で早々に落ちこぼれました。福野高校にはセミナーハウスがあって、成績の悪い人は勉強合宿というのがあるのですが、もちろん常連でした。そこでまたまたひょうきんぶりを発揮して、すごく楽しい勉強合宿になっていました。そのおかげか成績の悪くない友だちまで、勉強合宿に参加する盛況ぶりでした。

 高1からギターにも目覚めます。時はイカ天ブーム。堀元さんの家は欲しいものは自分で買え、という家でしたので、アルバイトでお金を貯め、ギターを買いました。バンドを組んで、ヘヴィメタルを演奏したりしていました。ヘヴィメタだからペイントしたのですが、誰もやり方がわからなかったので、絵の具でペイントしたところ、汗で絵の具が流れだし悲惨な目に遭ったことも。
 
学園祭でもバンドで演奏しましたし、当時好きだった子に告白して振られた時にキャンプファイヤーで世紀末を熱唱して大いに盛り上げたこともありました。堀元さんを振った子は後に堀元さんの大親友と付き合い二人は結婚。今は二人とも友だちです。
 高2の時には水泳で県体会にも出場し、フリーの100mと200mで入賞します。

 そんな堀元さんの人生に大きなきっかけを与えてくれた出来事がやはり高校2年の時に起こりました。
 集会で体育館に生徒が集まっていた時のことです。一人の子が突然、てんかん発作を起こしました。堀元さんはとっさに体が動いて、その子を抱えていました。その時に思ったのです。俺は困っている人を助けたいのかな…

 そんな高2の夏休みの三者面談で、堀元さんは言いました。
「医者になりたい」と。
成績は下から数えた方が早かったし、数学も一桁の点数しか取れていない。
それでも決めたからには、やる!そう決心し、バンドもやめて猛勉強を始めました。医学部を目指すとなると、当然理系のクラスで勉強しなければなりません。相変わらず数学は一人だけ高1レベルからやっているような状況でしたが、化学の勉強は大好きで常にトップでした。思えば、小学校3年生で理科の面白さに目覚めた時から理科はずっと得意だったのです。

でもやはり現役合格は難しく、堀元さんは一浪しました。親には浪人は1年しかダメだと言われていました。ずっと勉強していなかったのを医学部合格まで持って行くのは相当にハードなことでした。そんな時にお母さんから言われます。
「獣医なんてどう?」
獣医か…自分は動物が嫌いなわけではない。でもじいちゃんが動物嫌いで家でペットを飼えなかった。唯一飼っていたインコは、自分の餌やりのやり方が悪くて死なせてしまった。
そんな僕が獣医?
 疑問が残りました。でも、医学部には入れなくても獣医学部なら入れそうでした。ここは折れて獣医学部を受けよう。1年でやめて医学部に転部しよう。そんな思いで入ったのが、麻生大学でした。

 堀元さん、入学して3日目には彼女がいました。(早っ!)オリエンテーションで声をかけたら地方出身者同士で意気投合したのでした。彼女はかいがいしくお弁当を作ってくれるような子でした。

 医学部にいずれ変わろう、そう思って入った獣医学部でしたが、獣医学概論で言われた言葉が心に残ります。
「獣医学とは人を幸せにする学問なんだ。動物を通してその先にある人を幸せにする」
 その言葉を聞いて、ああ、獣医も人を幸せにできるんだ、じゃ獣医もいい仕事ではないか、そう思いが到ったのです。こうして堀元さんは6年間、獣医学部で学ぶ道を選んだのでした。

 堀元さんが大学時代に入ったのは馬術部でした。ものすごい封建的な部で、4年生の存在は絶対です。当時は先輩に殴られるのも当たり前といった風潮でした。
 馬術部は朝6時に集合なのですが、1年生は5時半には行かなければなりません。授業が終わるとまた厩舎に行き、終わるのは午後7時。一週間に一度は泊まり当番もありました。厳しかったですが、馬はおもしろかった。馬の気持ちがわかるまでに3年かかりました。4年生の時には全日本で9位の成績も。授業よりも馬が中心といった毎日を送っていました。
 それでもなんとか単位を落とさずに乗り切りました。5年生になると部活は引退し、学問の方に専念しました。専門は厳しいといわれる病理の方を選びました。厳しいけれど、堀元さんは病理切片の研究が好きでした。顕微鏡で覗いている時間がすごく楽しかった。
 6年になると大動物コースというのもあって、牛の世話もやりました。
 
 そうして無事に6年で卒業。就職活動の時は、馬好きということもあってJRAも受けましたがダメでした。その時、広島の子と付き合っていたこともあって、広島市の職員の採用試験も受けましたがこちらも不合格。彼女とは結局10年付き合って別れるという長い春になってしまいます。

 最終的に受かったのが、富山県職員の採用試験でした。獣医師国家試験にも無事合格し、堀元さんは富山に戻って働くことになりました。
 
 最初の配属先は食肉検査場。病理学的に検査することが大好きな堀元さんにはここでの仕事は天職に思えました。ここで骨をうずめるんだ、それくらいの思いでしたが、3年で異動になります。異動先は本庁。そこで感染症対策の仕事につくことになります。

大好きな仕事から事務作業ばかりの仕事に。あまりにつらくて、号泣したこともありました。それまでは感染症に全く興味がありませんでした。でも、即専門家と見られ、事務作業を進めていかなければなりません。4年間、そこでの仕事を続けました。
そんな時、衛生研究所の獣医の椅子がひとつ空きました。こうして堀元さんは衛生研究所へ異動になったのです。

でも、つらかった本庁での仕事も決して無駄ではありませんでした。なぜなら、そこで堀元さんは感染症対策の重大さに気付き、そしてやがてAIDSの活動に目覚めていくのですから。

 衛生研究所の感染症情報センターではそれまで集計表を作って渡すだけ、というような状況でした。これでは一般の人には響かない。堀元さんは誰もがわかりやすいように魂を込めて文書を作りました。直接わかりやすい言葉で伝えたい。そしたらわかってもらえるかもしれない。こうして、一般の人にわかりやすく、という事を常に心がけ、いろいろな場面で講義講演する機会も増えました。

感染症についていろいろ取り組む中で、いちばん心にひっかかったのはエイズのことでした。エイズは薬を飲んでいれば、助かる病気になりました。でも、その医療費が莫大にかかるのです。その金額、実に一人に1億円。今、日本で新規エイズ患者になる人は一日平均4人。つまり毎日4億円ずつ失われていくことになるのです。
でも、今の日本社会はエイズに関心を払わなくなりました。新型インフルエンザ以降、世の中全体が感染症に疲弊した空気になり、AIDSという言葉にもあまり関心を払わなくなったのです。でも、今もエイズは確実に広がっている。
 
今の子どもたちは、学校教育の中でエイズ対策についても勉強していて、それなりに知識もあります。問題は20代から50代のエイズは未だに死の病だと思っている人たちです。そしてその年代の人々はオープンに話すことをタブー視していることが多い。啓発のためにティッシュを配ったくらいでは意識は変えられない。
そんな人に誰がことの重大さを伝えるの?
…俺でしょ?
いつ伝えるの?
…今でしょ?

そして堀元さんは立ち上がりました。「Let’s Know AIDS in Toyama」を立ち上げたの
です。略称L-KAT(えるかっと)は音楽や芸術を通じてHIV・エイズに関する正しい知識を広めようという活動をしています。
きっかけになったのは桑田佳祐のアクト・アゲインスト・エイズ(Act Against AIDS、略称AAA)でした。
93年から12月1日の世界エイズデーにずっと開催されている音楽イベントがAct Against AIDS。この音楽イベントには毎年多くのアーチストが参加して、今も大変盛り上がっています。

桑田佳祐さんのようなことが少しでもできないか…。自分もかつてバンドを組んでいたから音楽の力がわかる。エイズの問題に興味がなくても、音楽を取っ掛かりにすれば、興味を持ってもらえるのではないか。それをきっかけに会場まで足を運んでもらえれば、みんなで一緒に考えることができる、
 親子で一緒に考える簡単なクイズ。それを考えることで意識が芽生えます。エイズは特別な病気ではなく、みんなに関係しているんだということに気づいてほしい。
 堀元さんは何より、対話を大事にしたいと思っています。だから、団体名に「Let’s」を入れました。みんなで一緒に行動しよう。対話しよう。それによって世界が変えられるんだ。

 人類が今まで撲滅できた感染症は実は天然痘だけです。それも莫大な金額を投じて撲滅することができた。

 もし、エイズを知識だけで防ぐことができたとしたなら、これはすごいことです。
「知ることは何よりいいワクチン」それを信条に、堀内さんは今日も頑張っています。

 そしてなにより、自分が活動を楽しんでやることが大事だと思っています。イヤイヤやっていては、思いは伝わりっこない。
 イベントには感動が大切なんだ。堀元さんは祭りを見るのが好きなのですが、祭りがずっと続いているのは、地元の人が心底祭りを愛して、自分たちが楽しんでいるから、こんなに続くしこんなに感動するのだ、そう思うようになりました。啓発活動も一緒です。
やっている人が楽しいことが大事なんだ!

 動き出したら止まらない堀元さん。みんなからダメだよ、無理だよと言われた世界を作りたい!今、夢に向かって歩き出しています。
 堀元さんの活動を応援したい、一緒にやりたいという方はぜひ、7月28日に行われる大人の夢の発表会、ドリプラ富山に来て、堀元さんの熱い夢を聞いてくださいね。
今日の人101.鄭暁彤さん [2013年07月25日(Thu)]
 今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、現在富山の日本語学校富山国際学院で留学生として日本語を勉強している鄭暁彤さんです。
写真 13-07-17 11 42 13.jpg

 鄭さんは中国西安で生まれ育ちました。西安と言えばシルクロードでもおなじみの中国の古都。かつては長安と呼ばれていました。
 鄭さんは中国のこの世代では当たり前と言っていいのですが、一人っ子です。
両親は共働きだったので、10歳までは祖父母の家で育ちました。これは中国では珍しいことではありません。
 
おじいさん、おばあさんはとても優しく、鄭さんは愛情をいっぱい受けて育ちました。
中国の小学校は給食ではなく、家に帰ってお昼ごはんを食べるのが一般的です。授業時間は午前8時から12時までと午後2時から6時まで。その間の2時間がお昼休みなのです。
鄭さんはいつもおばあさんの作った美味しいお昼ごはんを食べに帰っていました。おじいさんは朝早く体操に出かけていましたし、おばあさんは近所の人たちと麻雀をするのが大好きでした。中国では当たり前のように麻雀が出来る人が多いのです。おばあさんが麻雀をしている横でよく遊んでいたという鄭さん。
 
 両親と一緒には住んでいませんでしたが、出張の時によくいろんな場所に連れていってくれました。そうした中で、特に印象深かったのは自然がたくさんある田舎でした。
西安は都市なので、空気もきれいだとはいえません。ですから自然が豊かで空気も美味しい田舎に惹かれました。

鄭さんが10歳になった時、祖父母の元を離れ、両親の元で暮らし始めました。ちゃんとした教育を受けさせるにはその方がいいと両親が判断したからでした。
でもそれは、鄭さんにとってはそれまでの自由で楽しい生活との別れを意味していました。

 勉強、ダンス、そしてピアノ。息つく間もないほど時間に追われます。
友だちとちょっと遅くなろうものなら、
「あんな友だちとは遊ばないで」
成績が下ると
「なんでこんな悪い点しか取れないの?」
いろいろ言われました。
「なんでこんな悪いことをするの?」
そう言って椅子で殴られたこともありました。
鄭さんの腕にはその時の傷がまだ残っています。
「なんでこんなつらい思いをしなくちゃいけないかなぁ。こんなつらい思いをするなら死んだ方がいい」
そう思って部屋で一晩中泣いていたこともありました。

でも、学校は決して休みませんでした。
鄭さんは思います。学校の先生はいいなぁ。いつも堂々としていてえらくて。
私は学校の先生になろう。そしたら、もう殴られることもない。

そんな風な思いから学校の先生になろうと思い始めた鄭さんなのでした。

 ただ、両親とは仲が悪かったわけではありません。殴られたりした翌日には、必ず美味しいごちそうが食卓に並んでいました。それでなんとなく和解、というわけです。
 中国では家族の絆はとっても強いのです。

 こうして、両親からのさまざまなプレッシャーに耐えながら、鄭さんは大学に入学します。大学では日本語を専攻しました。
 元々日本語には興味がありました。日本アニメは中国の若者の間ではすっかり定着しているし、日本語には漢字が使われている。だから、他の言語より勉強しやすいはずだ。
 それに西安は昔から、日本人観光客が多い場所でもありました。そういうわけで、日本語を専攻したのです。

 大学生になってから、家庭教師をやり始めました。
鄭さんが担当した男子生徒は最初やる気がなく、心も閉ざしていました。
「どうせ僕はできないから」
そう言って投げやりな態度を見せる男の子。鄭さんは言いました。
「じゃあ、私と一緒にちょっとずつ覚えようよ」
鄭さんは粘り強く教えました。そうして、ちょっとずつですが努力が実を結び、彼はテストでついに満点をとったのです。
やったー。お互いに本当に嬉しかった。
彼は、勉強のことだけではなく、恋愛のことも鄭さんに相談したりしました。
自信のない子を笑顔にすることのできる先生という仕事。
最初は「先生はえらいから」という理由で先生になりたいと思ったけれど、先生は子どもたちを笑顔にできる仕事なんだ。そう思うとなんだか心がすっきりしました。

 大学2年の時には鄭さんにとって忘れられない出会いがありました。
それが日本から来られた佐々木先生との出会いでした。
 最初はこの先生が苦手でした。なにしろ、まじめだし、黒板に板書したものは全部ノートに書いて提出しなければなりませんでした。しかも佐々木先生は夏の暑い時であろうと冬の寒い時であろうといつだってきちっとスーツを着ていました。
 なんでこんなに固いんだろう。

ある時、佐々木先生が自分がここにいるわけを教えてくれました。
「私は山登りが好きで、いろいろな山に登ってきました。そんな中で出会ったのが西安の山々です。私は中国が好きです。そして特にこの西安が大好きです。私はここにずっといるつもりです。私が死んだら西安の山のふもとで眠りたいと思っています」

衝撃を受けました。なぜならそれまで日本人はみんな中国が嫌いだとばかり思っていたからです。それは幼い時からの教育や新聞報道のせいもあると思いますが、とにかく日本人は中国をそして中国人を嫌いだとばかり思っていた鄭さんは、佐々木先生の言葉を聞いてとても感動したのでした。

それからは、真剣にノートも取るようになりました。今ではそのノートは鄭さんの宝物になっています。
佐々木先生との出会いで、ますます先生になりたいという思いは強くなりました。そして、日本に留学したいという気持ちも強くなりました。

こうして、鄭さんは富山に留学しました。知り合いが富山にいたということもありますし、都会より田舎に行きたかった。なにしろ小さい頃から自然が豊かな所が大好きでしたから。

まず入ったのは富山国際学院という日本語学校です。ん?富山国際学院?そうです。このブログを書いてる宮田が日本語教師をしている学校です。

日本語学校の先生はみんなとっても優しくて、日本のお母さんやお姉さんみたいでした。困ったことがあったら親身に相談に乗ってくれました。
佐々木先生の厳しさに触れ、日本語学校の先生の優しさに触れ、ますます日本語教師へのあこがれは強くなりました。
 そして、今年の10月からは富山大学の大学院で勉強したいと思っています。

 鄭さんの夢は、日本語教師になること。そしていろいろな人の心の壁を崩すこと。
今、日本と中国の間にはいろいろな問題があります。
中国人のことを知らずに中国のことを悪くいう日本人。
日本人のことを知らずに日本のことを悪くいう中国人。
でも、それじゃあ、いつまでたっても心の壁は壊せません。
それは日本と中国の間のことだけではなく、他の国の間だってそうです。

そのために作りたいものがあります。
 それが、誰でも参加できる放課後多文化教室「大家」(ダーヂャ)。大家は中国語で「みんな」という意味。
 誰もが参加できていろんな国の人が集える場所。
 そして、日本語を教えてもらったり、逆に自分の国の言葉を教えられる場所。
 外国人が、そして日本人も抱えている「ことばの壁」そして「心の壁」を取ってくれる場所。
 そんな大家を作る夢を鄭さんがドリプラ富山2013でプレゼンします。

 鄭さんは今も佐々木先生と文通しています。
中国に骨をうずめる覚悟の佐々木先生が鄭さんの夢を聞いたら、なんと言ってくれるでしょうか?佐々木先生にお会いしたことがありませんが、私も同じ日本語教師として、教え子が日本で夢を描いてくれることはすごく幸せなこと。こういうの、教師冥利に尽きます。
今日の人99.山内健太郎さん [2013年07月22日(Mon)]
 今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、高齢者の方を笑顔にすべくケアマネ−ジャーとして活躍している山内健太郎さんです。
999341_470546653038559_2083608928_n.jpg

 山内さんは3人兄弟の長男でした。小さい頃から数字に興味があって、幼稚園の頃には自然に九九は覚えていました。でも、アンバランスさがあって、数字にはめっぽう強いけれど、図形になるとさっぱりわからなくなります。立方体なんていうのはお手上げでした。目が極度に悪く、平衡感覚がつかめません。立体感も感じることができません。
 
 5歳からはピアノを習い始めます。いえ、正確には習わされたのですが…。
最初は練習が嫌で嫌でたまりませんでした。高校の音楽教師だったお母さんは、山内さんが練習している時に間違うと、自分がご飯を作っていてもピアノのところまできて山内さんを叩きました。それくらいスパルタな人でした。

おばあちゃんはユニークな人で、ゲームの攻略本を一緒になって読んでいるような人でした。民謡が大好きでいつもおわら節を歌っていました。
その頃の山内さんはゲーム音楽をずっとピアノで弾いていました。なにしろ一度聴くと忘れないのです。
そんな音楽が自然にある環境で育った山内さんは物音が全部ドレミに聞こえます。つまり絶対音感があるのです。

でも、中学に入るといじめられるようになりました。メガネを壊されたり、くつを隠されたり…。ホワイトデーに好きな女の子にピアスを渡そうとしたら、彼女に渡すためのプレゼントの袋にパンツを入れられていて、思いっきりふられたこともあります。それからしばらくは恋愛恐怖症で女の子に近づけなかった山内さん。

山内さんは得意なことと不得意なことがはっきり分かれていました。国語の現代文はなにを言っているのかてんでわからない。図形も苦手。技術家庭で何かを作ることは徹底的に苦手でした。
けれど、得意なことは本当に得意でした。絶対音感がある音楽、一度見たら忘れない数字。そして、歴史も大好きでした。
実は山内さんのお父さんが歴史好きで、小さい頃にしょっちゅうお城に連れていかれました。それで山内さんもすっかりお城マニア、歴史マニアになったのです。
 小学生の時の夢はピアノの先生でしたが、中学生になると、歴史番組のコメンテーターになりたいと思うようになりました。

 高校に入るとレスリング部に入りますが、そこでもまたいじめに遭います。たばこ、お酒、髪を染める、そういうこともやっていた高校時代でした。そしてCDにも目覚めました。中古で買ったCDをひたすら聴く毎日。ですから、その頃はサウンドクリエイターになりたいと思うようになりました。

 音楽の専門学校に行きたい!と言いましたが、お金を出さないと言われあえなく却下。神戸の私大の経済学部に入ります。後から自分は歴史が好きなのに、なんで史学科に行かなかったんだろうと後悔することになりましたが・・・。
そういうわけで授業は楽しくありませんでしたが、バンド活動は楽しかった!
キーボード、ギター、いろんな曲をやりました。
大学2年の時にはバンドのリーダーになって、好きな曲をライブで弾くのがたまらなく楽しく、生きてるっていう実感がありました。
 この頃、山内さんには長崎の彼女がいましたが、彼女にオリジナル曲を作ってメロディメールで送る、ということもやっていました。
 やっぱり自分は音楽をやりたい!そう思って受けた会社はことごとく不採用。
 山内さんは、両親に言われます。「富山に帰って来なさい」

 こうして富山に戻ってきた山内さんでしたが、息子の将来を心配したお父さんはあんま鍼灸を習いに行けと言います。お父さんにしてみれば、これだけ目の悪い息子でもちゃんとやっていける仕事につかせてやりたいという親心で言ったのにちがいありませんが、山内さんには不満でした。なんで目が悪かったらあんま鍼灸になるんだよ?

 山内さんは富山福祉短大の幼児教育学科に入りなおしました。この時、出会った尾崎豊の音楽にはまり、弾き語りをしたりしました。なんでこんなに弾けるの?と驚かれるのがとても気分よかった。
 発達心理学の授業にもはまりました。占いやスピリチュアル系のものに惹かれる自分がいることも知りました。

 ハンドベルのサークルも立ちあげ、クリスマスコンサート、絵本の読み聞かせ、七夕、いろいろな所で演奏していました。レクリエーション的なことをうまくやれる、そんな才能が山内さんにはあるのです。

 でも、就職活動はまたもやうまくいきませんでした。あなたの目では子どもたちを見るのは無理だと言われ保育所では働けませんでした。グループホームで働いた時も、遠近感がわかっていないから危ないと言われ3ヶ月で解雇。
「あの人と一緒だとやりにくいのよね」
そんな噂話も耳に入ってきます。自分はいったいどうしたらいいんだ。自分は何をしたいんだ…。

その頃、お母さんは癌を患っていました。
癌は既に頭にも転移しています。まだ小学校の時にお母さんと一緒にピアノで連弾したっけ。プリプリとか、懐かしいなぁ…
 お母さんは山内さんのピアノが聴きたいと言いました。
山内さんが弾いた曲は「Long long ago」それを聴いたお母さんの頬には涙の筋が伝いました。そして言いました「ありがとう…」
思えば厳しいお母さんでした。でも、誰よりも優しく包んでくれた母でした。お母さんがいなければ、山内さんがピアノに出会うこともなかったのですから。
こうしてお母さんは旅立っていきました。

 お母さんが亡くなって2年。山内さんは介護福祉士、そしてケアマネージャーの資格を取りました。お母さんが残していったたくさんの楽譜は、そのまま老人のリハビリに役に立ちました。その楽譜を使って一緒に歌を歌うとおじいちゃんやおばあちゃんは途端に笑顔になるのです。お母さんは大きな大きなプレゼントを残してくれたのでした。

 山内さんは今思っています。自分が一番楽しいのはピアノ、歴史を訪ねる旅、そしておじいちゃんやおばあちゃんを笑顔にすること。

 以前、こんなことがありました。失語症で普段めったに笑うことのないおじいさんがいました。そのおじいさんに、山内さんは戦艦大和ミュージアムで撮ってきた写真を見せました。するとおじいさんの表情がいきなりパッと輝いたのです。おじいさんは自分も大和に乗って仲間と一緒に日本のために戦いたかったのかもしれない。今は、失語症で表情もないおじいさんだけど、彼の生きていたたくさんの道のり、経験、そういうものがずっとベッドにいる生活で失われてしまっているのではないか。自分の写真や音楽でそれを取り戻すことができたら…。
そうだ、僕にはピアノがある。これで、おじいちゃんやおばあちゃんに時間旅行をプレゼントしよう。
ずっとベッドにいて、行きたくても行けない場所がある。帰りたくても帰れない時代がある。でも、音楽は時間を飛び越えることができる。

ただじっとベッドにいるだけだったおばあちゃんが、山内さんの写真と山内さんの音楽で時間旅行を楽しみます。実際に行くことができなくても、時間旅行という音楽療法を受けることで生きる気力が湧いてくるのです。そして山内さんのピアノの音色は、看護疲れのたまった家族も癒します。

 これから山内さんはどんな音色を奏でていくのでしょう。これからの日本はとんでもない高齢社会に突入していきます。お年寄りが希望を持って生きていける日本にしないといけない!それは私も強く感じています。きっと彼のメロディで生きる希望を持つお年寄りとその家族がたくさん増えるにちがいありません。ベッドにずっと寝たきりのおじいちゃんやおばあちゃんにもう一度笑顔になってほしいなぁと思っている人がいたら、ぜひ山内さんに声をかけてみてください。きっと素敵なメロディでそこにいる人みんなを笑顔にしてくれることでしょう。
今日の人98.下伏大輔さん [2013年07月21日(Sun)]
 今日の人はドリプラ富山2013プレゼンター、コーチングのコーチとして活躍中の下伏大輔さんです。
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 下伏さんは3人兄弟の長男として、横浜で生まれました。小さい頃、とても人懐っこい大輔くんは団地内にあった工場に遊びに行って、いつもそこでお菓子をもらっていました。「大輔くんは才能があるから、劇団ひまわりに行ったらいいね」そんな風に言われていた幼少期でした。

 富山に引っ越してきたのは幼稚園の時。外で遊んだり、家で弟たちと一緒に戦隊ものの人形で遊んだりしていました。
 小学校に入ると、勉強がおもしろくなくて、宿題を忘れて先生に怒られる日々。遅刻もしょっちゅうしていました。
 下伏さんの家は当時二世帯住宅でした。おじいちゃんは孫が騒いでいるのが気に入らず、その文句をお母さんに言っていました。そういうことが積み重なってか、お母さんとおじいさんは折り合いが悪くなり、とうとう二世帯住宅を出て、別に住むことになりました。

 引越しと同時に下伏さんは転校します。その時、これまでの自分のイメージを変えたくて、わざと優等生っぽくふるまいました。しかし、それは全く素の自分ではありません。それでも、これをやめたら、またみんなにバカにされる、そう思うと演じるのをやめられませんでした。次第にクラスメートと話すのが億劫になっていきました。
 
 転校してから、少年野球もやっていました。野球をやっている時だけは楽しかった。でも、4年生の1月に体調が悪くて休んだのをきっかけに学校に行ったり行かなかったりして、2月からはとうとう全く行けなくなってしまいました。

 お母さんは息子が学校に行けなくなったことで、ものすごく悩みます。一体どうしたらこの子は学校へ行ってくれるのか…。不登校に関するいろいろな本を読み、時には頼れる親戚に電話して泣いていました。

 それを聞いていた下伏さんはお母さんを悲しませていることが苦しくてたまりませんでした。でも、学校にはどうしても行けなかった。
「自分なんかいない方がよかったんじゃないか…。お母さんをこんなに苦しませて…。
 でも、どうしても行けない。行けない…」

 そんな状態ですから、常に不安はありました。自分は将来ホームレスをするしか道がないんじゃないか。そんな考えが頭をよぎり、弟に八つ当たりをして、すごいケンカをしたりもしました。

 5,6年生の時は完全に不登校でした。でも野球だけは続けていました。
 お母さんはこの頃、学校だけが全てじゃない、という境地に至ります。そして、言いました。
「不登校でもいいから、あなたらしく生きなさい。学校に行かなくても、できることをやりなさい。」

 ありがたかった。救われた気がしました。

 中学校は付近の小学校3校から生徒たちが集まってくる学校でした。
環境が変われば学校に行けるかもしれない。そう思って1ヶ月ほどは通いました。
部活は野球部に。
でも、やっぱり行けなくなってしまいます。

 野球部の顧問の先生は野球をしたいなら部活だけでも来い、と言ってくれる先生でした。
それで部活の時間だけ行っていたのです。小学校からの野球仲間たちは、下伏さんが不登校だからという理由で特別視したりせず、普通につきあってくれました。それが何より嬉しかった。

 2年生の冬、仲良しの友だちが言いました。
「部室行くのも、教室行くのも変わらないだろ?」
このまま卒業しても、高校を出なきゃ社会に出られない。とりあえず高校に行かなきゃ。そういう思いがありました。

 その後も学校にはあまり行きませんでしたが、野球の推薦で私立高校に合格しました。
お母さんは誰よりも喜んでくれました。

 こうして入った高校でしたが、授業は苦痛で仕方がありませんでした。
教室に入って、このわけのわからない時間を一日最低5時間×3年間繰り返すなんて、絶対に無理だ!そう思いました。
 野球は楽しかったけれど、中学校とちがって、学校に行っていないのに続けるわけにもいきませんでした。
 こうして、1週間で高校に行かなくなった下伏さん。最初は休学届を出していましたが、これは意味がない、と思って退学します。

 野球をやめてしまったので、することがありませんでした。TVゲームもしましたが、時間は一日90分と決められていました。そういうことはちゃんと守る下伏さんだったのでした。
それで、空いた時間に本も読むようになりました。ある時、人付き合いが苦手な人の心理学という本に出会います。自分と同じような人がいるんだ!もしかしたら自分も変われる可能性があるのかもしれない。ちょっとずつそういう本を読み始めるようになりました。

 それでも自分にはコミュニケーション能力がない、ヤバイなヤバイなという思いは常にありました。

 行かなくなって1年たった頃、同級生にばったり出会いました。彼は、定時制に通っているんだ、と言いました。定時制だと制服もない。いろんな人が元々いるから窮屈じゃない。そう聞かされました。

 その頃、美容師の資格を取ろうという気持ちが芽生えていた下伏さんは、定時制に通って高校卒業資格を得よう。そして美容専門学校に行こう、そう考えたのです。

 かくして定時制高校に入学。友だちが言ったように、そこにはいろんな人がいました。いろんな人がいるから、自分も浮かない。気分がすごく楽でした。

 昼間は飲食店で働きながら学校に通っていました。定時制は不思議なところです。先生と生徒に上下関係のようなものはない感覚でした。みんなちゃんと働きながら学校に通っているわけですから。

 この学校で下伏さんは思いました。社会の底辺に落ちたとしても、みんなちゃんと楽しそうにやっている。そしてそこから這い上がって成功している人だっているじゃないか。

 定時制ほどおもしろい高校はない、今でもそう思っていると下伏さん。もし、今から高校に入れと言われてももう一度定時制を選びたい、そう思っています。

 さて、4年生になった時、真剣に将来について考え始めました。最初は生きていくために美容師になろうと思った。でも、生きていくのは別に美容師じゃなくても出来るということがわかった。おしゃれでモテそうだから美容師を選ぶのか、いや、それはちがうよな。
あれ?別に美容師じゃなくてもいいんじゃないか?

 次に思ったのはスポーツトレーナーでした。自分は野球が好きだし、運動なら得意だし、いいんじゃないかな。
でも、ある人に聞かれます。「スポーツトレーナーになって何をしたいの?」
何をしたいって聞かれても、なって終わり、くらいにしか思っていなかった。なって何をしたいかなんて、出てこない…。
 ああ、美容師もスポーツトレーナーもなんとなくかっこいいから憧れてみただけで、別に自分が心からしたいことじゃないんだ。その時、そう思えたのでした。

 今、自分がアルバイトしている飲食店。バイトをしながら目の前でお客さんが喜んでくれるのがとっても嬉しい。そして、お店もとても気合いが入っている店でかっこいいと思っていました。それなら、いっそここで働けばいいんじゃないか…こうして高校卒業後、下伏さんはバイトしていた飲食店でそのまま働き始めたのでした。

 働くうちに飲食店での仕事がどんどんおもしろくなってきました。こうして全然種類のちがう3店舗で働き始めるようになりました。オープン直後のお店、2,3年たったお店、5年目のお店、それぞれにいろんな課題もあるし、オーナーの考え方でガラッとお店の雰囲気が変わってしまう。
 
 もっとサービスを極めてみたい!サービスで下伏さんの頭に思い浮かんだのは、そうリッツ・カールトンでした。思い切ってリッツ・カールトンの採用試験を受けます。
リッツ・カールトンは学歴で採用を決めたりしないことを知っていたので、自信を持って採用試験に臨みました。そして見事合格。
 こうしてリッツ・カールトンで働き始めた下伏さん。

 日本一のサービスとはこういうことを言うのか。やはりすごいな、と思いました。と同時に自分の今までの方向性は間違っていなかったことも感じました。

 1年でリッツ・カールトンをやめた下伏さんは、20歳の時にアメリカを旅します。
そこで出会った人に「日本のいいところを教えてくれ」と言われ、あれ、わからんな、と思いました。自分は日本のことを何も知らないじゃないか。

 こうして、日本に戻ってからバイクで日本一周の旅に出ます。
といっても1ヶ月半で半周したところで、バイクが故障したのでその先を断念。
それでも、いかに自分が知らない世界がたくさんあるか、ということがわかった旅になりました。

 富山に戻ってからはレストランの調理とブライダルのイベントの仕事を掛け持ちして働くようになりました。料理を作るのも面白かったし、ブライダルの仕事も楽しかった。

 それまではいつかは自分の店を持って最高のサービスを提供しようと考えていましたが、その頃からお店を出したいという思いがなくなっていきました。
何人ものオーナーの生活を見てきたことで、もし自分もオーナーになったら、結婚しても自分の子どもの顔もまともに見られないくらい忙しくなると思ったからです。仕事としては好きだけど、生き方としては難しい…そう思いました。

 この頃、ブライダルのチームリーダーを任されるようになっていましたが、思いがうまく伝わらず、チームワークは最悪でした。なんでうまくいかないんだろう。うまくいくためにはどうしたらいいんだろう。元々自分はコミュニケーションが苦手なんだ…

 いろいろな本を読みあさりました。そんな時にコーチングの本に出会います。これってすごくないか?
そう思ってチームのメンバーにコーチングのやり方で接したところ、劇的にうまくいくようになりました。コーチングってすげえ。コーチングはどんな人でもキラキラ輝かせることができる魔法を持ってる、そう思いました。でも、決して魔法なんかじゃなくて、もともと人は誰でも輝くところを持っている。それが出せなくて苦しんでいるのだ。じゃあ、それを出す手助けができるものがあれば、こんなにすばらしいことはないんじゃないか。

 こうしてコーチングの魅力にはまりはじめた頃に、てんつくマンの映画に出会って心打たれます。そしててんつくマンを富山に呼ぶイベントを向早苗さんと一緒に開催しました。
 そんな時にたまたま、1年に2~3ヶ月海外を放浪しているという人に出会います。その人の生き方がめちゃめちゃおもしろいと思った下伏さん。

 途上国のスラムに学校を建てるなどの活動をしているてんつくマンと、その海外放浪女性に触発され、仕事をやめて東南アジアに渡ります。
タイのバンコクに渡り、その後はカンボジア、ベトナム、ラオスに。てんつくマンの作ったスラムの学校や孤児院で日本語を教えるボランティアをしました。

 カンボジアに渡った時は、初めてご先祖様に感謝の思いが湧きました。全く政治が機能していない国。政治家は自分の利益のことしか考えておらず、いつまでたっても国が発展して行かない。ボランティアの手がずっと必要な国。そう思うと、戦争で焼け野原になりながら、日本を見事に再建してきたおじいちゃんやおばあちゃんたちはなんてすごいんだろう。外に出て初めて日本という国のありがたさを痛感しました。
 でも、そんな全然発展していない国でしたが、子どもたちの目はものすごく輝いていました。生きる力が満ち溢れているのです。

 これはどうしたことだろう。あれだけ恵まれている日本の子どもは、あんな目をしていない。日本はどうして生きづらいんだろう…そういうことを思うようになりました。

 そう思いつつも日本に戻った後は元の職場の結婚式場から声がかかって、またそこで働き始めるように。そうして2年近く忙しく働いていたものの、だんだん何のために働いているかわからなくなってきました。

 そんな時、ある人から「1年後の今日死ぬとしたら、あなたは何をしますか」と質問されます。自分は残された時間で何がしたいだろう。「世界をまわりたい」と答えていました。「今やらないで、いつやるの」
そうか、今やるしかないか…

 こうして、下伏さんはヨーロッパへ旅に出ます。
2ヶ月で14カ国を周りました。言葉で苦労して、電車のチケットを買えないこともしばしばありましたが、ヨーロッパは街並み、文化が素晴らしく、素敵だなぁと感じることが多々ありました。

 特に印象的だったのはデンマークのコペンハーゲンです。デンマークは幸福度がとても高い国です。人々は本当に楽しそう。運河沿いではピクニックシートを広げた人々が楽しそうに食べたり飲んだりしながら歓談しています。今日は何か特別な日?と聞くと、毎日だよ!との返事。
 デンマークは福祉がしっかりしているので、みんな将来への不安がなく、日々の生活がとても充実しているのです。それでいて、脳天気というわけではなく、人生を考える習慣が子どもの時からあり、何かあれば家族会議で自分の意見をしっかり延べます。子どもでも自分の考え、意見をしっかり持っているのです。

 でもイタリアではみんなとってもいいかげん。サッカーの試合のある日は無断欠勤する人が続出!

 しかし、そういういろいろな生き方を見たことで下伏さんは思いました。
世界には本当に多様な生き方がある。いろんな生き方をしたっていいんだ。◯◯らしくということに縛られなくてもいいんだ。

 帰国後、東京であったコーチングスクールの説明会をいくつか聞いてから富山に帰ろうと思っていた下伏さん。けれど、その中のひとつ、チームフローの話を聞いたときに衝撃が走りました。
 そこでコーチングを受けた時に、「自分がどうしていいかわからないコーチに誰が話を聞きたい?」と言われたのです。
 ちゃんと本格的にコーチングを学ぼう。
 そう思って、富山に帰らず東京にとどまりました。そして平日はアルバイト、週末はコーチングスクールで勉強という日々を1年半続けました。

 そんな時、スポーツを通して子どもを育てるという会社を見つけました。その会社の理念に共感し、採用試験を受けましたが、面接で落ちてしまいます。ショックでした。
 いろいろな経験を積んできた。コーチングもしっかり勉強した。この経験が子どもたちには絶対役立つって思ってる。でも、不採用…

 その後も仕事は見つからず、富山に戻ることに。…なんだか負け犬みたいでいやでした。
そんな時、またしても結婚式場から働かないかとのお誘いが。こうして同じ結婚式場に3回目の就職をします。

 半年の間は仕事に終われ、コーチングもできない毎日でした。
しかしある日、チームフローの富山出身東京在住のコーチに富山でもやりたいから手伝ってほしいと持ちかけられました。こうして月1回くらいでワークショップを開催し始めました。

 昨年の11月には自分の不登校の経験を生かして子育て中のお母さん向けにワークショップを開催しました。これはとても好評でした。

 実は、このワークショップを作るに当たって、下伏さんは自分のお母さんにいろいろ話を聞きました。話をしながら二人で泣きました。思えば小4で不登校になった時からお母さんにはどれだけたくさんの心配をかけただろう。どれだけ陰で泣かせたことだろう。
僕は自分のことにせいいっぱいでお母さんにすまないと思っていても、それを伝えることができなかった…。
 
 胸がいっぱいになりました。そして30歳で初めてお母さんに言えました。
「お母さん、産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう」

 お母さんは涙で光る目で笑いながら言いました。
「あんたは一生子どもだから、私の子育ても一生終わらないけどね」

 コーチングで独り立ちしよう。本気でコーチにチャレンジしよう!
こう決心した下伏さんは、結婚式場をやめ、今は昼間はレストランで働きながら、コーチ力を磨く毎日です。

 下伏さんの夢はコーチング・コミュニケーション!
自分はまともに生きられないと思っていた。でも、誰にでも必ず輝く部分はあるんだよ。その輝く部分を見つけるお手伝いをコーチングでやりたい。一人でも輝く人が増えて、その人がまた周囲の人を輝かせていけば、きっと日本は元気になる。
そう信じています。

 そして、特に元気にしたいのはコミュニケーションの最小単位である親子。
外でどんなに心が折れても、家がホッと出来る場所であれば子どもは絶対大丈夫。
お母さんを輝かせたい。そうすれば親子で輝くことができる。
 そう考えるとワクワクしてくる下伏さんなのでした。

 個性を受け入れ、ちがうものを排除しない。とってもダイバーシティな考えの持ち主である下伏さん、7月28日のドリプラでは、どんな夢をプレゼンしてくれるでしょうか。

 今、悩んでいるたくさんのお母さん、子どもたち、そんな人たちの悩みは切実です。
彼らの悩みは生半可な覚悟では聴けない。たくさん悩んでたくさんの経験をしてきた下伏さんだからこそ、引き出せる力があると思います。

 富山の親子がみーんな輝いている。そんな素敵な未来を私たちも一緒に創っていけたら幸せです。
今日の人96.野澤拓哉さん [2013年07月16日(Tue)]
 今日の人は株式会社ティージー情報ネットワークとアスリート雇用契約を結び、富山県WBC=富山県車椅子バスケットボールクラブでキャプテンとして活躍している野澤拓哉さんです。
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 拓哉くんは今、2016年のリオデジャネイロパラリンピックの代表候補、且つパラリンピックで金メダルをとる夢を持って、懸命に練習に励む日々です。

 拓哉くんは、1985年生まれでまだ28歳になったばかり。小さい頃は外で走り回るのが好きな男の子でした。

 その出来事は、拓哉くんが6歳、年長の夏休みに突然やってきました。
午前中、近くのお店にファミコンのソフトを買いにお兄さんと出かけ、午後からもお兄さんと一緒に近所の三兄弟の家に遊びに行きました。小さい頃、私もやった記憶がありますが、一人が逆さ吊りのような格好をして、一人がその逆さ吊りの子を持ってぐるぐる回る遊びをしていました。拓哉くんにはそれがとても楽しそうにみえました。
「僕にもやって」
そうして拓哉くんが逆さ吊りになって、腰の辺りを持ってもらいながら回してもらっていた時のことです。

「ブチッ」背中の方で鈍い音がしました。
何の音…?やがて拓哉くんを激痛が襲います。
そこの家のお兄さんが心配して、湿布を持ってきてくれてそれを貼りましたが痛みはますますひどくなるばかりでした。

 最初は放っておけば治ると一緒に遊びに来ていた実のお兄さんは言っていましたが、やがて拓哉くんの悶絶ぶりに事の大きさに気づき、その家の方が電話でご両親に連絡してくれました。
そして拓哉くんを迎えに来て急いで車を走らせて総合病院へ。でも、救急車で来ていない拓哉くんは待合室で待たされます。その間にも急患の患者さんが運び込まれていきました。

 時々意識が遠くなりそうな痛みに堪えていましたが、ふと気がつくと先ほどまでの激痛がなくなっていました。診察室に入ったころには、触られても感覚がありませんでした。感覚がすっかり麻痺してしまっていたのです。
そしてそのまま入院生活が始まりました。

突然動かなくなった下半身。届けられた千羽鶴。でも、6歳の拓哉くんは「なんで動けなくなったの?」と暴れることは一度もありませんでした。これは自分がやって、とお願いしてやってもらったからなんだ。むしろこうなってしまったことで相手が傷ついていないか、そちらの方が気がかりでした。今まで外を飛び回って遊んでいた、それが出来なくなったのに、相手をそこまで思いやれるなんて、なんという6歳でしょうか。

 それに拓哉くんはあきらめていませんでした。僕の足はいつかまた動くようになる。そう信じていました。ご両親も希望を捨てず、金沢大学付属病院に転院して治療とリハビリを続けました。

 やがて小学校に入学する時が来ました。拓哉くんは養護学校にも見学にいきましたが、そこは寮での生活で自宅に帰れるのは一日だけでした。それに、友だちと一緒の学校がいい、そう強く思いました。

 拓哉くんの想いに両親が動いてくれました。この子に普通の小学校で友だちと一緒に過ごさせてやりたい。そして教育委員会と学校はこの想いを受け入れてくれました。拓哉くんのためにバリアフリーになるように学校施設を変えてくれたのです。
こうして拓哉くんは友だちと一緒に小学校生活を送ることになりました。

 友だちにはずっと聞かれ続けました。「足はいつ治るの?」
その度に拓哉くんは答えました。「いつか治るよ。」

 でも、心の中ではうすうす気づいていました。僕の足はもうずっと動かないんじゃないか…。

そ して小4の時にはっきりそれがわかった時、拓哉くんは友だちに言いました。
「今までずっと治るって言っていたけど、僕の足は治らないんだ。ずっと車椅子のままなんだ。」友だちにあやまりたかった。そして知ってもらいたかった。

 どんなにか苦しかったかと思いますが、拓哉くんはもう全てを受け入れていました。苦しいとか悲しいとかではなかった、と…。

 そんな拓哉くんに、素敵な出会いがありました。5年生の時の担任の先生は、チェアスキーのボランティアをしている人でした。
「今度一緒にイオックス(富山県南砺市のスキー場)に行かないか?」
 こうしてチェアスキーを始めた拓哉くん。もともと身体を動かすのが好きだったから、すっかりチェアスキーにのめり込んでいきました。
 小学校6年生の時、20歳の自分へ宛てた手紙を書きました。そこに拓哉くんはこう書いたのです。
「チェアスキーでパラリンピック出場おめでとう!」と。

 その6年の時に始めたもうひとつのスポーツが車椅子バスケットボールだったのです。
 大谷小学校から大谷中学校に進み、中学校ではバスケ部に入部します。そして、車椅子バスケットボールクラブ、富山WBCに入部したのもこの年でした。
 
 石動高校に進んでからも、バスケ部に入部。1,2年の頃は、コートの外で練習していることも多くありました。やはりスタンディングの選手と交錯すると高校生にもなるとかなり危ないのです。それでも、3年生になるとある程度好きなようにやらせてもらっていました。

 その高校3年生の時に、日本国内の3人の推薦枠に入り、アメリカイリノイ大学であったエリートキャンプに参加する機会がありました。そこでは、世界一流の選手やイリノイ大の選手のサポートを受けながら練習に次ぐ練習の日々を送るのです。
 
 朝起きて、メチャメチャハードなトレーニングを午前中にこなし、午後は普通のトレーニング、そして夜は試合、そんな毎日が続くのです。最後までもたない選手が続出し、吐いてしまう選手もいるほど、過酷なトレーニングでした。今までやっていた練習はちっともきつくなかったんだ。一流の選手になるためにはここまでのことをしなくちゃダメなんだ。それを身をもって体験できた貴重なキャンプになりました。
 
 この時一緒にキャンプに参加した3人のうち、一人はアテネの時に選手に選ばれました。もう一人は北京の時に選ばれました。自分だけ、まだパラリンピックに行っていない。その時のキャンプに自費で同行してくれたヘッドコーチは言います。
「お前たち3人とも揃っていないと意味がないんだ」
 
 必要とされているなら、なにがなんでもがんばらないといけない。だから、拓哉くんは次のリオデジャネイロパラリンピックでは絶対に代表選手になってみせる、と思っています。

 時間を高校3年生に戻します。富山WBCに所属しながら高校のバスケ部で頑張っていた拓哉くんは、千葉にある淑徳大学社会学部社会福祉学科に進学します。初めての一人暮らしに挑戦。そして当時車椅子バスケでは全国2位のチーム千葉ホークスに入団します。自分が入団したことで、なんとしても千葉ホークスを日本一に導きたい!そして実際に拓哉くんが大学在学中に千葉ホークスは3連覇を成し遂げたのでした。

 世界選手権にも一度出ましたが、決勝でアメリカに敗れ、とても悔しい思いをしました。いつも考えているのはバスケのことばかり。彼女がいてもこの調子でしたから、彼女はバスケにヤキモチを焼かない人じゃないと務まりそうにありませんね。

 そのまま千葉に残ることも考えましたが、拓哉くんは富山に戻って就職して働きながらバスケを続ける道を選びました。でも、富山では千葉にいた時のような練習環境はありませんでした。朝練習をして、昼は12時から夜9時まで勤務する日々。しかし、勤務中はそこにいるだけのような感覚になりました。自分は会社に貢献できていない。そう思うと心苦しく、またこのままの環境にいては代表の道がなくなる、そう思って千葉に戻ることを決意します。ただ、所属は富山のチームのままでした。富山のチームの一員としてもっともっと強くなりたい、富山のチームを強くしたい。そう思ったからです。

 JALのエンジン整備センターの在庫管理分野で働きながらのバスケ生活が始まりました。富山のチームに所属したままの拓哉くんは、大会は愛知でということが多く、仕事、練習、遠征、大会の毎日は思った以上にハードでした。そうした日々を3年過ごす中である気持ちがどうしても抑えられなくなってきました。
 
 僕が目指しているものは何だ?僕はどうしてもパラリンピックに出たくてこうしてバスケをしているんじゃないのか?もっと練習に専念したい!

 そんな時に出会ったのが今の会社、株式会社ティージー情報ネットワークでした。拓哉くんは障がい者アスリート雇用という形で雇用され、今はバスケに専念できる環境にいます。そして今は富山でトレーニング中心の毎日を送っています。

 しかし、昨年の2月、またもや悪夢が拓哉くんを襲いました。
チェアスキーで大きな事故!頭を3回程強打した記憶はありますが、少し記憶はなく、意識不明の時間帯もありました
 通り過ぎる夫婦にレスキュー隊を呼んでもらい、助けられました。
車椅子バスケットボールももうできないんじゃないのか。日常生活もろくにできないんじゃないのか…

 でも、拓哉くんは懸命にリハビリを続け、驚異的な回復力で回復しました。
今も後遺症はあります。でも、うまく付き合いながら生きていくしかないのです。だから、コンディションについても真剣に考える日々です
 「だって、僕は何があろうとも車椅子バスケットボールでパラリンピックに出るんだから!」
そんな拓哉くんの強い決意が伝わってきます。

6月13日から16日にかけて、パラリンピック代表候補の代表合宿が開催されました。これを受けて、まずは11月の世界選手権のメンバーが選出されます。

 拓哉くんは絶対に選ばれるつもりでいます。「3人揃っていないと意味がないんだ」と言ってくれたヘッドコーチの気持ちに応えるためにも絶対に。

 こんなバスケ漬けの毎日を送っている拓哉くんですが、それでもやっぱり楽しいのは車椅子バスケのことを考えている時間。
 富山から宮崎徹也選手と一緒に絶対にパラリンピックの代表になる!
 
 夢は、パラリンピックで日本代表キャプテンになり金メダルを獲得すること。
そして今所属している富山県WBCのクラブ世界一!

 車椅子バスケのことを活かしてスタンディングバスケの子どもたちにも教えてみたいと思っています。今の子どもたちのメニューを見ていると、改善すべき点はホントにたくさんあります。スキル面でもメンタル面でも教えたいことがたくさんある!こういうメニューを組めばいいのにな…とにかくバスケのことを語る拓哉くんは熱い!
 こんなに純粋に車椅子バスケに打ち込み、熱く語れる拓哉くんはメチャメチャカッコイイのです。

 そして自分の歩いてきた道のりについて、語る機会も増えてきました。
今年の10月26日には母校の大谷中学校30周年記念のトークライブに出演することも決まっています。

 拓哉くんの所属する車椅子バスケットボールチーム「富山県WBC」では現在マネージャーとトレーナーも募集してます。
 富山から世界につながる夢を応援できるチャンスですよ。
 興味がある方はこちらまで⇒http://www.toyama-wbc.com/

 車椅子バスケットボールの真の楽しさを伝え、人間の可能性を追及するNPO法人Jキャンプのホームページもご覧になってみてくださいね⇒http://jcamp.jp/index.html

 私も拓哉くんの夢、ずっと応援します。富山からみんなでリオデジャネイロへの応援隊を結成しなくっちゃ!
今日の人95.山村宙史さん [2013年07月04日(Thu)]
 今日の人は、株式会社ブックマークス代表取締役、今注目の勉強カフェを都内と横浜で6店舗展開されている山村宙史さんです。
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 山村さんは北海道、函館山の麓で生まれ育ちました。ずっと学級委員でいい子、ドラえもんでいう出来杉君みたいな子ども時代でした。
 リトルリーグで野球もやっていました。好きなチームは西武。山村さんが生まれたのは1979年ですから、子ども時代は西武の全盛期と重なるわけですね。
 海も近かったので、カニ取りなどして遊ぶのも好きでした。でも、その頃流行っていたファミコンやマンガやアニメは興味がありませんでした。
 国語の音読が好きで、将来はアナウンサーになりたいと思っていた少年時代。

 中学に入ると、市内に引越します。お父さんの商売がうまくいって、ご自身で設計された素敵なお家を建てられたのでした。それまでの友だちとは離れ離れになってしまいましたが、その頃12歳離れた妹が生まれ、妹の子守が生活の中心になった感じでした。さぞかし可愛がられたんだろうなぁというのがよくわかります。

 山村さんに反抗期というものはありませんでした。親のレールに特に反発を覚えず名門の函館ラ・サール高校に進学します。
 函館ラ・サール高校は男子校です。多感な高校時代に女の子がいないのは問題でした。オタクな人が多く、学園祭になっても近くの女子校からちっとも遊びに来ない。しかも6~7割は寮生なのです。寮生にはプライバシーがほとんどなく、自習室で勉強を課されるような毎日を送らなければならないのですが、山村さんは自宅生でした。徹底した進学校ですから、勉強しない子は学校の本流から外れてしまいます。そんなわけで山村さんは自宅生仲間とつるんで遊んでいました。

 東京に出て、一人暮らしをしたい、もうこんなオタクな雰囲気の中にいたくない!そう思って都内の私立大学に進学します。
 大学ではテニスサークルに入ってはっちゃけて遊んでいました。1,2年生の間はそんな感じで遊んでばかりいました。
 
 しかし、3年生になった20歳の時、自分はどんな生き方がしたいんだろう、と考えるようになりました。今まで大人の敷いたレールの上を疑いも持たずに歩いてきた。でも、自分は本当は何をしたいんだろう。
 このままズルズルいくのがまずい!初めて自分の人生について真剣に考え始めました。
 山村さんはF1が好きで特に好きなチームはフェラーリでした。自分をおもいっきり変えるために外に行こう。そう思って選んだ先がイタリアでした。
 
 ラジオの語学講座でイタリア語を少し勉強し、飛行機のチケットだけ持ってイタリアへ飛びます。
 着いたその日にどこに泊まろうかとウロウロしていると、フレンドリーなイタリア人のことですから、親切にいろいろ教えてくれました。どこに行ってもそんな感じで受け入れてくれるのです。
 
 ただ、スーツケースはイタリアに行って2日目に盗まれてしまいます。
 でも、かえってそれがよかったのかもしれません。いろんなことが吹っ切れた気がしました。その後はホントに気ままにいろいろな所をまわりました。
 
 イタリア人は食事に2時間も3時間も時間をかける。それがひどく人間らしいなと感じました。経済的な豊かさは日本の方が上だけど、彼らの方が人生を謳歌しているのは間違いなさそうでした。人間的に豊かな生き方って素晴らしい!山村さんはすっかりイタリアのファンになってしまいました。
 
 そうして、20歳で3週間イタリア旅行をしたのを皮切りに、21歳、22歳と3年連続でイタリアを旅しました。
 山村さんが特に気に入ったのがバールです。田舎の町にも一軒のバールは必ずあって、朝起きると、みなバールに行ってコーヒーを一杯飲んで出かけるのです。昼はドルチェとコーヒーで、夜はサッカーやF1の観戦という具合にイタリアの人々の生活はバールがないと成り立たないのでした。
 小さくて質素だけれど、みんなが集まってワイワイできるこんなコミュニティはいいな、山村さんはバールに憧れました。
 
 こうしてすっかりイタリアの虜になった山村さんは、イタリアに関わる仕事がしたい、そう思うようになりました。こうして就職したのが、サイゼリヤでした。その時の担当者はいつかこの店をイタリアにも出店させたいという熱い思いを語っていました。山村さんはその話にも惹かれ、サイゼリヤに就職します。時間に対する意識が日本とは対極にあるイタリア。そのイタリアに関われたら素敵だな、そう思っていました。その時の山村さんのキーワードは「イタリア人の生き方」だったのです。
 
 サイゼリヤの理念はイタリアの身体にいい食材を安く提供すること。山村さんはサイゼリヤで5年半働きました。3年目からは店長も任され、やりがいもあったし、仕事も楽しかった。結婚もして、充実していました。
 
 ただ、27,8歳になって、自分の少し先を考えるようになりました。果たしてこの仕事をこの先10年、20年続けられるだろうか…この業界でキャリアを積むか、転職するか…外の世界も見てみたい、という葛藤もありました。他の業界で自分の力を試してみたい。30前の今じゃないと難しいかもしれない。こうして、山村さんは2007年に為替の会社に転職しました。コンサルの卵を育てるという上場直後の会社でした。今までとは全く違う為替の仕事。為替は国力が現れます。日本のイニシアチブが失われている、そう感じました。為替の世界に身をおいたことで、サラリーマンでいることのリスクを考えるようになりました。

 若い今のうちだったらリスクをとってもリカバリーできる。じゃあ、サラリーマン以外で自分にできることは何?
今村さんは自分の棚卸しをしました。ただ、起業しようにも自分には特技や資格がありません…。
 
 そんな時に大好きなイタリアのことが頭に浮かびました。イタリアのバールのようなコミュニティになりうる居場所が日本にあったらどうだろう。世界を股にかけたビジネスマンに自分はなれないけれど、その居場所でそうなりたい人をお手伝いできないか。頑張りたい人の背中を後ろから押し上げることができれば。
 
 では、今実際にどんな場所に意識の高い人が集まっているだろう?そう考えたら、そういう人たちが集まる場所がないことに気が付きました。
 
 家ではいろいろな誘惑があって集中できない。

 図書館は使い勝手が悪い。

 カフェに長居するのは気がひけるし、店側の気持ちもよく分かる。
 
 勉強したい人はたくさんいるのに、場所がない!有料の勉強場所もなにか違う。
そうじゃない勉強の仕方があってもいいはずだ。リラックスしながら勉強出来る場所が…。

 そうだ、ないんだったら僕が作ろう!
 
 土台は何もなかったけれど、スイッチが入ると猪突猛進型でした。根拠のない自信があった。ただ勉強だけする場所じゃない。交流もできるそんな場所があったら絶対にいい。考えるだけでワクワクしました。
 
 けれども現実は厳しかった。リーマン・ショックがちょうど過ぎたばかりで融資は断られ続けました。でも最終的には全額融資をしてくれるところに巡りあい、山を超えたと思いました。しかし、それは甘かったのです。
 
 お店を作ったのはいいけれど、知ってもらいたくても知ってもらえない。オープンして半年の間、会員数はわずか一桁でした。毎月のように大赤字。子どもも生まれたのに、このままだと一家で路頭に迷ってしまう。
 
 どうしたらいいだろう?いろいろなことを考えました。
 そしてまず、ネーミングを変更することにしました。
それまでは「会員制書斎空間ブックマークス」という名前をつけていました。しかし、これではわかりにくい。メイドカフェやネコカフェが流行っていましたから、名前にカフェをつけようと思いました。
 そこで次につけた名前が「プログレスカフェ」です。これはいける、と思いました。しかし、プログレスって何?と聞かれてしまいます。そうか、プログレスでもわかりにくいか…

 じゃあ、純粋にひと言で言ったら、なんて言えばいいんだろう…。その時ふっと浮かんだのが「勉強」でした。
 「勉強カフェ」シンプルで覚えやすくてわかりやすい!こうして、ネーミングを「勉強カフェ」に変更したのでした。
 
 次にしたことはブログを書き続けることでした。毎日ちょっとずつでもいい、地道にブログを書くことで少しでも勉強カフェのことを知ってもらおう、そう思いました。
 
 そして3番目はプレスリリースです。FAXで一社一社にリリース文を送っていきましたが、最初はナシのつぶて。全く連絡がありませんでしたが、リリース文の書き方を工夫していくうちに、読売新聞から取材させてくれと連絡が入ります。こうして、写真入りで朝刊に載りました。一度取材が入ると不思議なもので、NHK、日テレといいスパイラルで取材が入るようになりました。
 こうして毎月30人ずつ新規に入会してくれるようになったのです。あきらめずに地道に続けたことが花開いた瞬間でした。
 来月の家賃が払えなかったらもうおしまいだ、というまさに土壇場からの起死回生でした。

 そして勉強カフェは順調に成長を続け、今や都内に5店舗、横浜関内でも1店舗を構え会員数は1500人を超えるまでになりました。
 
 もちろん、山村さんの想いはここで終わりません。
 今、力を入れているのはパッケージ・ライセンス制度です。直営でもない、フランチャイズでもない、それぞれの地域で勉強カフェをやりたい人の想いを大切にしながら、今まで山村さんが積み重ねてきたトータルなものを提供したい。そうすることによって全国に学びを通じて幸せになる大人が増えるにちがいない。そうして全国の勉強カフェのチーム全体で成長して行きたい。そんな想いがとても強いのです。
 そして今、全国からパッケージ・ライセンス制度について問い合わせをもらっている山村さん。外に出向いて話を聞く時間がとてもワクワクだとおっしゃいます。
 
 勉強カフェのチーム憲章がこれまたとても素敵なのでご紹介します。

一、チームの目的は、「学びを通じて幸せになる大人を増やす」ことです。
一、チームメンバーを仲間として尊重し、お互いに貢献します
一、地域に根付いた、世代を越えた学びのプラットフォームを目指します
一、多様性を受け止め、変化を恐れず、柔軟な発想を大事にします

 ダイバーシティの考え方ともバッチリ合っていてすごくうれしくなっちゃう憲章ですよね。
 
 そんな山村さん、家では4歳と1歳の姉妹のお父さんでもあります。家族と過ごす時間ももちろんとても大切にしています。

 いろんな場所の勉強カフェの橋渡し役になるのが夢だとおっしゃる山村さん。
 でも、実はもうひとつ夢があります。
 それは、イタリアのバールのような小さなお店を自分の好きなものに囲まれてやりたいという夢です。地域の人たちが集い、いつものコーヒー、いつもの笑顔、そんな素敵があふれた幸せなバールを作りたい。
 
 全国各地の勉強カフェに集い、山村さんの素敵なバールに美味しいコーヒーを飲みに行く、そんな日が来ることを楽しみにしています。