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今日の人89.鈴木秀一さん パート.2 [2013年04月10日(Wed)]
パート.1から続きます。

ドリプラに関わるのはやめたいと言った秀さんに福島正伸さんは、ご飯でも食べながら話そうとおっしゃいました。

「秀一くんは何がやりたいの?」

「会社の環境を変えたいと思っています。」

「会社だけでいいの?」

「いえ、世の中で働いている人みんなが輝いていられるようにしたいです。」
 
すると福島さんは満面の笑みでおっしゃったのです。
「うちの会社に来たら、それができるよ。」
 2008年の秋のことでした。

 考えてみたら、今まで自分は野球をやったり、バンドを組んだり、スキーで選手を目指したり、
仕事でコンピューターを扱い始め、コンピューターの世界で活躍しよう!と夢を持ちました。
でも、やっぱり続けることは出来ませんでした。
結果的に、いつも諦める人生になってしまいました。
諦めた理由は、どれもこれも自分が何かの壁を感じた時でした。
それは、怪我だったり、環境だったり、お金だったり、きっかけは色々あります。
壁が原因で夢をあきらめてきた自分…。そんな自分が夢を持つ人を応援するようになった。そしてそれが、自分にとってかけがえのない大切なものとなっていたことに気づきます。

 こうして秀さんは、長年勤めた会社を辞め、アントレプレナーセンターへと転職したのでした。

 ですから、秀さんは2007年にドリプラが始まった年からずっとドリプラ世界大会に関わり続けています。私もプレゼンターの一人でしたから分かるのですが、舞台袖にいらっしゃるだけでとても安心できる、そんな存在感を持った人、それが秀さんです。

 そして、秀さんのアントレプレナーセンターでの仕事は、法人向けの感動ムービー作りをその法人と一緒にやっていく、というものでした。会社勤めが長く、会社の内側をよく知っている秀さんには適任でした。

 感動ムービーを作っていく途中、様々なことが出来湧くのですが、それを一緒に乗り越えて行く過程、それがまさに感動なのでした。そして秀さんはいくつものその現場に立ち会ってきたのです。

 やがていろいろな企業で、ニーズが生まれ、たくさんの感動ムービーが生まれました。ヤマト運輸様、ヤクルト様、ドコモ様…みなさんがご存知の企業名がズラリと並びます。
 これはとてもやりがいのある仕事でした。そしてもちろん、ドリプラも。

 2012年の7月、福島さんと秀さんは、新幹線で一緒に座っていました。
 福島さんが言います。
「秀一くん、もう自分のやりたいことに向かっていった方がいい」
 最初、ピンと来ませんでした。

「アントレを卒業してさ」

「…ああ、そういうことなんだ!」

 こうして2012年の8月に、アントレプレナーセンターを退職し
日本メンタリング・マネジメント協会」を設立されたのでした。
 今は、飛び出して下がっている最中だと秀さん。どこが底なのかな、とワクワクしているそうです。底にはトランポリンがあって、あとは上に上がるしかないのだから。

 でも、毎日誰かと会ったり打ち合わせがあったり、秀さんの仕事を応援したいと言って来てくれる人がいたり、自分の足で立ち始めたのを感じています。そして、これから一緒に仕事を作っていく仲間との時間は何にも代えがたく、とても大切でとても楽しい時間なのです。

 秀さんは、自分が涙する時って、どんな時かを考えてみました。
するといつも仲間との関係の中で自分が涙していると気づいたのです。
それは、悪い時だけでなく、良い時も一緒です。
・大きな仕事を、みんなで協力しあって、無事に達成できたとき
・子どもの運動会で、一生懸命に走って仲間にバトンを繋ぐリレー
・スポーツ観戦に行って、応援団を中心にファンと一緒に応援できてる時
 そうした瞬間と言うのは、自分の夢が実現したと言うよりも仲間との一体感を感じられた時に得られるものだと気づきました。
僕は仲間との一体感をもっとも得たいのだな、
それが一番大切にしたい場なのだと感じられるようになりました。

 それは、意識では覚えていなくても、心は覚えていたようです。
 つまり、仲間と分かち合いが出来た時に喜び、
仲間と分かち合いが壊れた時に悲しむんだな、と気づきました。
そう気づいたことで、ずっと閉じていた心の蓋を開けることができたんです。

 そうは言っても、仲間を犠牲にしたり、独りよがりな行動をついついしてしまうことだってあります。でも、そんな時は後ですごく気持ちが悪くなります。

 それよりも、同じ志を持って、同じ情熱をもって、同じ体験を共有する、
気持ちを共有できる、そんな仲間がいることが最高に幸せなのだと思っています。
それに気づいた時、今までやって来たことが一気に繋がってきました!
「人を応援する」ことに喜びを感じるのは、自分の中にある一番の価値観なんだという事。
ずっと気づいていませんでしたが、人を支援する活動を通して、秀さん自身の中にずっと培ってきました。

 だから自分は、人を応援することを仕事にしたんだ!と改めて気づきました。
秀さんの夢は、夢を叶えられる支援者をたくさん創ることです。
起業家を支援する人だけでなく、会社の中にも、家庭の中にも、支援者を増やしていきたいのです。
そんな支援者が増えれば、もっともっと世の中は良くなるにちがいありません。

 そして、働いている人みんなが誇りを持って働けるようにしたい!
どんな仕事もその人が誇りを持てば、それは世界一の仕事なのだ!そう信じています。

 そして、故郷北海道に恩返しをしたいという夢も持っています。世界でいちばん食事が美味しい国、それは日本だと秀さんは思っています。そして、その日本の中でも食材に特に恵まれているのは、北海道だと。
 日本の農業を外国に流通させるとしたら、その役割を担うのは北海道だ。北海道には輸送チャネルがある。北海道産のブランドの流通が外国との間で作ることができれば、それは北海道だけにとどまらず、日本全体にとって役立つことなのだ!それが秀さんの思いです。

 クラーク博士は「少年よ、大志を抱け!」と言った。確かに大志を抱いている人はいるけれど、実際に行動できていない人が多いのではないか?

 秀さんは、「北海道ってすごいんだよ」と言えるのはボクだと思っています。

 これまで秀さんはお子さんに、「人の夢を実現するお手伝いをするのがパパの仕事だよ」と言ってきました。黒子ほど楽しい仕事はない、そう思って来ました。
 
 でも起業した今はこう言っています。
「これからはパパが持っている夢を実現していこうと思っているよ」

 そして、子ども達に仕事に興味を持って欲しい。子どもたちが夢中になれるものを見つけてあげたい、感動体験を増やしてあげたい、そう思っているとても子煩悩なお父さんです。
 
 どうぞこれからは、お子さんと、そして秀さんご自身の感動プロデューサーにもなって、更にたくさんの感動を紡ぎだしていってくださいね。
 
そして、「俺、この仕事めちゃくちゃ好きだ!」日本中をそんな大人であふれさせてくださいね。
 ええ、秀さんならできますとも!

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たくさんのステキな顔を持つ秀さんです♪
今日の人89.鈴木秀一さん パート.1 [2013年04月09日(Tue)]
 今日の人は日本メンタリング・マネジメント協会代表鈴木秀一さんです。鈴木さんはアントレプレナーセンターで感動のムービー作りに取り組んできた感動プロデューサー!
 鈴木さんは秀さんと呼ばれているので、ここでも秀さんと書かせていただきます。
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 秀さんが生まれたのは、北海道の札幌です。小さい時からいつもやんちゃだった秀さん、お兄さんの後ろにくっついて外遊びをするのが大好きでした。歩いて30分近くかかったけど林の中や河原に行って遊んだり、近所中を舞台にして鬼ごっこしたりして遊んでいました。ガキ大将ではなかったのですが、ガキ大将の後ろから相手に攻撃するタイプだったそうです。それはスネ夫タイプってこと?

 そんなやんちゃな少年は、小学校4年生から少年野球を始めました。ポジションはピッチャー。大好きなチームはヤクルトでした。プロ野球チップスのカードを集めるのも好きだったなぁ、と秀さん。それ、私も集めてました!なかなか好きな選手が出てこなかったけど。
 
野球と同じく夢中になっていたのはゲイラカイトです。私たち世代にはとってもお馴染みの凧なのですが、みなさんご存じでしょうか。
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 小学校のグラウンドでゲイラカイトを空たかく上げて、落ちたゲイラカイトを自転車で探しに行くのが日課になっていました。
 
 読書では江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズが好きでした。小学校の担任の先生が勧めてくれた本は読まずにもっぱら推理小説を読んでいた秀さん。それと、ベッドで横になってドカベンやジャンプを読んでいたので、目が悪くなってしまい、小学6年からはメガネ。今、秀さんはメガネがとってもお似合い。白縁のメガネが似合う人No.1ではないでしょうか。

 そんな秀さん、小学校6年生の時に肩を壊してしまいます。夏の大会で肩が痛くなったのですが、放っておけば治るだろうと思って、そのままにしておくと、1ヶ月後には痛くなくなりました。そして秋の大会でも投げたのです。すると、大会の最中に夏の大会以上の痛みが襲ってきました。かろうじて、その大会は投げ抜きましたが、その後50球以上投げることができなくなってしまいました。それで子ども心に思ったのです。
「ああ、僕はもう野球は無理なんだ」
 
 でも、それを誰にも言いませんでした。それに、今は少年野球でも肩のケアはとても大事にされていますが、まだそういう時代ではありませんでした。お父さんに「お前、中学に行っても野球やるんだろ?」と聞かれましたが、「もう、いいや。勉強するよ」と答えた秀さん。

実は肩を壊した以外にも、野球をやめた原因はありました。でも、秀さんはそのことにずっと蓋をして生きてきました。

そのことについて、秀さん自信が綴ってくれた文があります。
「僕の小学校の時の夢は、プロ野球選手になることでした。
もう30年以上前になりますが、当時は毎晩プロ野球がTVで放映されていて、
そりゃ憧れの選手をたくさん見ることが出来たので、野球にのめり込んでいく訳です。
王貞治、掛布雅之、バース、桑田真澄、清原和弘、野茂英雄。
今でもこの名前を思い出すだけで、当時の映像が浮かんできます。
僕は当時、スワローズファンでした。何故かと言うと、甲子園で大活躍した
荒木大輔ってピッチャーが入ったからです。
ずっと彼の投球フォームを真似て投げていました。
荒木選手の活躍を見ていたら、プロ野球選手になりたいだけでなく、
やっぱりピッチャーになりたいと思ったんです。

そして、少年野球チームに所属していた時の話です。
僕はチームのキャプテンを務めていました。しかもピッチャーで4番でした。
チームの練習は、毎朝4時半から。
夕方は学校が終わったら自宅の壁に向かって投げる練習をしていました。
終わるのは母親に「もうご飯だから、おうちに入りなさい!」と言われる時なので
夏場は7時をとっくに過ぎてました。
もうプロ野球選手になりたい!ピッチャーで活躍したい!
って強い思いが自分を動かしていたと思います。

ある時、チームの練習で紅白戦をすることになりました。
監督の指示で、僕ともう一人のピッチャーを中心に
チームを作ろうとなり、他のみんなは好きな方を選べと言ったのです。
僕は彼との勝負が出来る事をとても興奮していてやる気満々でした!
これで勝って、どっちが本当のエースなのか勝負だ!って。

でも、結果は試合をする前に決まっちゃっていました。
チームメンバーのほとんどは、彼の方を選んだのです。
紅白戦だけど、僕の方には他に仲間は誰もいない・・・。
当時12歳の自分には、その理由がよく分かりませんでした。
でも涙がずっとこぼれていたのをよく覚えています。
結果的に同情してくれたメンバーが、
「可哀そうだから、秀ちゃんの方に行くよ」と言ってくれて、
紅白戦のチームが出来ました。

試合の結果は、実は今はよく覚えていません。
あれからずっと今まで蓋をして生きてきたと思います。
思い出したのは、何と今年のお正月です。(笑) もうビックリです。
友人と小さい頃の話をしていた時に、30年以上を経て思い出したんです。」

 キャプテンでエースで4番だったのに、チームメイトが自分の方についてくれなかった…。そして肩まで壊してしまった。
 その時の小学6年の少年の気持ちはいかばかりだったでしょう。

 中学生になった秀さんはバスケ部に入りましたが、おもしろくなくて、一ヶ月で辞めてしまいます。しばらくうだうだしたりもしましたが、そのうち生徒会で活動したり、生徒会絡みで放送部に出入りしたりするようになりました。
 
 教室の中でグループワークをしている時、なぜかいつも秀さんが盛り上げないと物事が進んでいかないグループでした。たまに手を抜くと、物事が一向に動かず、これは俺にやれって言っているんだな、と思うようになりました。この頃から、場が動かない時は中心になって引っ張っていったのです。

 中学生は恋愛を学ぶ時期だ!と秀さんは言います。今もとてもカッコイイのでさぞかしモテたと思いますが、詳細は秀さんにお聞きくださいね。きっといろいろ教えてくださると思います。

秀さんにはとても優秀なお兄さんがいて、お兄さんと比べられるのが小さい時から嫌でした。お父さんから、「進学校に行けないなら手に職をつけろ。」と言われたこともあって、工業高校の電気科に進みます。電気科は真面目な子が多かったのですが、土木科、建築科はかなり荒れていて、狙われたのが電気科でした。なんと授業中に花火が飛んできたこともあったそうです。スクール☆ウォーズを地で行っていたのですね。

 秀さんは、そんな風に荒れることはなかったけれど、自分のエネルギーをどこにぶつけたらいいのか、いつも悶々としていました。電気科の勉強は好きでしたが、それでその悶々とした気持ちが晴れるわけではありませんでした。2年の後半から放送部に在籍し、放送部の部屋でバンドの練習をしたりしていました。バンド仲間はBOYを聞いて「俺らもこのバンドで食ってんだ」といきがっていました。秀さんもなんとなく、そのノリに合わせていました。

 秀さんはお兄さんがビートルズ好きだったこともあって、洋楽が好きでした。
ジャーニー、ポリス、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース…。
邦楽では小学生の頃からオフコースが大好きで、今も小田和正のファンです。

 放送部だった秀さんは卒業式に尾崎豊の「卒業」を流します。先生にはこっぴどく怒られましたが、生徒たちからは大拍手でした。
「あと何度 自分自身 卒業すれば
 本当の自分に たどり着けるだろう」
 秀さんは、どんな想いで卒業をかけたのでしょう。そして、今は、本当の自分にたどりつけましたか?

 こうして高校卒業後、レジスターのメーカーで働き始めました。
札幌で採用の予定でしたが、1年目は静岡県三島市で、2年目は東京での勤務でした。
ちょうど、スーパーやコンビニでレジを中心にしたシステムを事務所のコンピューターで管理し始めた時代でした。コンピューターを使って、実社会の商品が動き始めたのです。スーパーは土日関係なしだし、コンビニも急速に成長している時だったので、夜中の2時3時に呼び出されることもしょっちゅうでした。デート中に仕事が入って、スーパーの駐車場で3時間彼女を待たせることもざらでした。それを我慢できる人じゃないと、秀さん達の業界の人の彼女にはなれなかったのです。

 3年目、札幌に戻ってからは仕事以外にスキーにものめり込むようになりました。
秀さんは常にお兄さんへのコンプレックスがありました。
「お前はダメだ。兄貴はいいのに」
そう言われてきたので、何かお兄さんに勝てることをどうしても作りたかったのです。それで、スキーインストラクターの資格を持つおじさんに習って、スキーに没頭するようになっていったのでした。
スキー場でポケベルが鳴って、仕事場に駆けつけたこともありました。

 秀さんが23歳の時、パソコンでDOS/Vと言うのが日本に上陸します。互換性があるパソコン!今では当たり前ですが、当時は衝撃的でした。価格もものすごく高かったけれど、秀さんは思い切ってそれを買うことにしました。モニターも合わせると40万ほどかかりましたが、それでもどうしても欲しかった。
こうして、秀さんの生活は仕事とスキー以外にも、パソコンという柱が出来ました。これらが情熱3本柱でした。

 パソコンの世界はその後どんどん変わって行きました。パソコン通信、ホームページ、そしてインターネット、チャット…。アメリカの人と徹夜でチャットしてたこともあります。それが楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 その頃から、自分の得ている情報やノウハウと、会社とのギャップを感じるようになります。このまま、この仕事を続けていていいのか…?
秀さんは上司に言います。
「東京に転勤させてください。さもなくば、会社を辞めさせてください。」
 秀さんはこうして東京に転勤することになりました。27歳の時でした。

 東京に出てきてすぐに人生を変える一冊に出会います。それは村上龍の「希望の国のエクソダス」でした。(2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった―。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編)
 
 秀さんはこの本がきっかけで初めて経済に興味を持つようになりました。そして通信制の大学で経済を学び始めます。
 
 経済の知識も身につけた秀さんは、いくつかの異動を経て、やがて経営企画の仕事に携わるようになりました。しかし、それまでやったことのない仕事で当然わからないことが多かったので、いろいろな本を読んで勉強しました。その中に大前研一さんの本が何冊かあったのです。それらを読んでe-Learningも始めた秀さん。その流れの中で通い始めたのがアタッカーズ・ビジネススクールでした。

 このアタッカーズ・ビジネススクールの講師のお一人が、福島正伸さんでした。秀さんはスクールのスタッフに勧められて福島さんのアントレプレナーシップ講座を受講します。第2期の受講生でしたが、このまま終わるのはつまらないのでOB会を始めました。

 そのOB会も単なる飲み会になるのは面白くなかったので、講座の最終プレゼンでもやった自分の夢を5分で語る会をずっと続けようよ、ということになりました。第1期生、第3期生、みんなを巻き込んで、福島さんも来てくれる時は来てくださいと声をかけて、その夢を語る会は毎回30〜50人の人が来てくれました。
2回、3回と回を重ねるごとに、みんなのってきてくれて、中学生がその夢を聞きに来てくれることもありました。こうして、2006年後半から2007年後半にかけて、その夢を語る会は続いたのです。

 2007年、夢を語る会の4回目をやる直前に、福島さんの秘書を通じて、「ドリームプラン・プレゼンテーションをやるので手伝ってくれませんか」と打診されます。
ドリプラ、もちろんこのブログの読者なら、もうすっかりお馴染みのこの言葉ですが、これが記念すべきドリプラ世界大会のスタートの年でした。ドリプラのイベントを12月にやりたいと思っている。そして発表者はそれなりにいるので、運営スタッフを募集したい!
そこで夢を語る会を運営していた秀さんたちに白羽の矢が立ったのです。

これが、秀さんがドリプラに関わるようになった最初でした。

 こうしてビジネスのセンスをどんどん磨いていった秀さんは、社内では社長のスピーチ原稿を書くまでになっていき、ポジションもどんどん上がって行きました。そして経営企画室は、会社の中でちょっと目立ちすぎたため、紆余曲折を得て解散という結果に・・・。

 そして経営企画室での仕事を持ちながら営業推進部に移ったのが、2008年のことでした。経営企画室での仕事を持ちながらの営業推進部の仕事は当然忙しく、これはもっと仕事に時間を取らなきゃダメだと思いました。そして福島さんに言ったのです。
「ドリプラに関わるのは辞めたいのですが…」


パート.2に続きます。
 
今日の人88.河合由紀さん [2013年04月01日(Mon)]
 今日の人は、株式会社コーチ&パートナーズ代表取締役の河合由紀さんです。
由紀さんはドリプラ世界大会の主要スタッフとしても大活躍。芯がピシっと通ってとても頼りになる由紀さんですが、外見はとってもキュートでかわいい女性です。
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 由紀さんは昭和46年にロスで生まれ、2歳までアメリカで過ごします。家族はみんな英語がペラペラ。日本に帰国しても外国人が家に遊びに来ることもあったのですが、由紀さんはなぜか英語アレルギーで、その度に熱を出していました。
 
 由紀さんは外ではとても活発に遊ぶ子でしたが、家では泣き虫でした。2歳年上のお姉さんとよくケンカもしましたが、おばあちゃん子だった由紀さんは、何かにつけておばあちゃまの部屋に逃げ込んでいました。そんな由紀さんをおばあちゃまも「ゆきちゃん、ゆきちゃん」といつも可愛がってくれました。
 
 進路ではお姉さんと同じ小学受験を選びます。小学校から大学まではずっと女子校だった由紀さん。小学校の時は負けず嫌いで外では正義感ぶって仕切りたがる性格でした。ですから、女の子にもてました。バレンタインデーにはチョコももらいました。今とちがって、友チョコなんて送らなかった時代です。そんなモテモテの由紀さんでしたが、学校ではピンクレディも踊っていました。その頃はピンクレディが全盛期で、小学生の女の子はたいてい振り付けをマネしていたものです。
 
 そんな由紀さんでしたが、掛け算九九が大嫌いで、できなくていつも居残りをさせられたので、未だに掛け算九九は嫌いです。

 小学校の時、大好きなおばあちゃまが病気になりました。
 家には、おばあちゃまのお世話をするお手伝いさんが来ていました。由紀さんはそんなお手伝いさんの姿に憧れて、大きくなったらいろんなお世話ができるお嫁さん・お母さんになりたい、そう思いました。それは中学でも高校でも変わりませんでした。

 小学校の時から演劇やバスケをしていた由紀さんですが、中学では硬式テニス部に入ります。しかし、部活にそれほど燃えていたわけではなく、むしろ燃えていたのは合唱コンクールや球技大会でした。みんなが1つになってやることが好きだったのです。もちろん、思春期の女の子同士ですから、いざこざが起きて胸を痛めることも当然多かったのですが、だからこそ余計にみんなでひとつになれるそんな瞬間はたまらなくワクワクしました。

 女子校でしたから、男子校とのお付き合いもなかったわけではありません。当時流行っていた文通をしていた時もあります。メールで即時にやり取りができる今と比べると隔世の感がありますが、手紙がいつ来るか待っているドキドキ感はメールよりははるかに大きかったように思います。

 大学に入った年の学園祭の前々日、由紀さんは交通事故に遭います。公衆電話待ちをしていた時に、路駐をしていたトラックがいきなりバックを始め、由紀さんは背後からトラックにはねられてしまいました。幸い、1週間の入院で済みましたが、その時両親がものすごく心配する様子を見て、親を心配させてはいけない、と初めて痛感しました。由紀さんの家は大学生になっても門限が10時という家庭だったのですが、それも娘を思えばこそ、とその時は納得したものでした。しかし、やはり元気になると、「いちいちうるさいなぁ。早く自由になりたいなぁ。早く結婚したいなぁ。」と思ってしまうのでした。

 由紀さんは大学で人格心理学や社会心理学を専門に勉強しました。その勉強は大変おもしろく、卒論で「兄弟の構成と性格形成」について書いている時も夢中で書いていました。それだけ好きな勉強だったので、臨床心理士になろうかとも思いましたが、臨床心理士になるには修士を出ていることが必須なのでやめました。

 実は由紀さんは19歳の時に宅建主任者の資格を取得していました。お父さんにその資格を取ったらお小遣いをやるからと言われて、取っておいたのです。ですから、就職活動の時は、宅建があるし不動産会社かな、と漠然と考えました。由紀さんは極度な人見知りで、とても緊張するタイプだったそうです。(今はどこをどう見てもそういうふうには見えませんが…)そういえば、小学校受験の時にはお父さんに5時に起こされて、ベランダに立たされて「由紀は恥ずかしがりません」って言わされていたのでした。
 
 そんなことを思い出しながらの就職面接。でも、由紀さんは大手テレビ局のアナウンサー採用試験で役員面接までいったというのですから、やっぱり“もってる”人なのです。
が、しかし、キー局のアナウンサー採用とはいかず、地方局を受けませんかとも言われましたが、大手不動産会社の採用試験日と重なっていたため断念。ただ、時はバブルが弾け、急激な就職氷河期に入っていました。その不動産会社に落ちてしまい、もう就職はやめようかと思ったりもしました。
 しかし、そんな時に旅行会社の2次募集を受け、そこで見事採用になった由紀さん。その会社は、海外専門の旅行会社でした。

 由紀さんはハワイの担当になります。最初は予約管理や現地との調整。次は商品企画になり、パンフを作ったりオプショナルツアーを組み立てたりと多忙な日々。ハワイに出張に行っても遊ぶ時間はありませんでした。でも、この時に頑張ることを覚えたと由紀さん。
仕事を通して全く知らなかったことを知れるようになることの楽しさも知りました。こうしてハワイの担当を7年やり、そろそろハワイはもういいかな、と思った時にマーケティング部の商品戦略室に異動になったのです。そこは新規事業立ち上げの部署でした。二人だけの部署。インターネットで全ての旅行を売るシステムを構築するという任務が与えられました。異動はしたかったけど、こういうことをやりたかったわけじゃない。そう嘆く由紀さんでしたが、「できない人にその仕事は来ない」そう言われ、泣きながらがんばりました。でも、この時仕事で悩んだことがコーチングを学ぶことにつながっていったのですから、やはり人間万事塞翁が馬ですよね。
 
 上司は「旅行屋なんて遊びを知らなかったらできないぞ」という人でしたから、水上スキー、キャンプ、などいろいろ行きました。でも普段の仕事の日は、普通の時間に帰って来られる日はまずないので、学生時代の友だちとは全然会えませんでした。遅くに仕事が終わると先輩に連れられて、DEEPな飲み屋に行っていた30歳の頃の由紀さんでした。
 
 大学の時まで10時だった門限は、社会人になってからはなくなっていました。門限なしで自由になったはずでしたが、ちっとも自由になった気がしない。私ばっかりなんでこんなに大変なんだろう。こんなにこき使われるの、やってられない。そんな被害者意識が大きくなっていた頃、コーチングっていうものがあるよ、と教えられました。2001年のことです。こうして、コーチングを学びはじめた由紀さん。人が行動したくなるコミュニケーションスタイルに魅せられて、コーチの道を歩き始めます。

2003年からは会社で勤めながら、パーソナルコーチも始めました。2004年には経済産業省後援の独立・起業家支援プロジェクト「起ちあがれニッポンDREAMGATE」登録アドバイザーとしてユーザーからの無料相談やセミナー・勉強会の講師としての活動も始めました。会社の仕事も好きだったのですが、コーチングでやっていこう!と決意して、2005年にコーチ&パートナーズを設立しました。
 
 由紀さんは始め自分のように悩んでいる女子OLを元気にしたい、と思っていました。でもOLを元気にするためには、まず経営者がみんな元気にならないと、と思うように。こうして、経営者の方へのコーチングをメインにやっていくようになりました。
 
 2007年、由紀さんも関わっているJカレッジのセミナーで福島正伸さんが講演されます。そこで福島さんの講演を聴き感動のあまり号泣した由紀さん。そして福島正伸さんの「究極のコンサルタント養成講座」第1期に参加します。そこで、夢のプラン作りを手伝ってくれないかと言われました。その夢のプランというのが、ドリームプラン・プレゼンテーションでした。こうして由紀さんは、第1回のドリームプラン・プレゼンテーション2007世界大会の運営に参画。以来ずっとドリプラ世界大会に関わり続けていらっしゃいます。
 
 ずっとドリプラに携わっている由紀さんにドリプラのおもしろさとは何かと聞いてみました。すると、プレゼンターがどんどんかっこよくなっていくところだと答えてくれました。プレゼンを作っていく課程で、どんどん自信をつけていく様子に惚れ惚れするそうです。一方でスタッフやメンターの中で意見やスピード感が合わないという悩みを抱えている時もありました。でも、それはいいんだ、みんなメンター同士なんだから、と去年ようやく納得できたといいます。

 由紀さんは2009年、38歳の時に結婚しました。大学を出てすぐにでも結婚して専業主婦になりたかったのに、全然ちがう人生になっちゃった。でも、今のこの人生、気に入っています。
 
 今、楽しいことは料理。いつもできるとは限らないけど、出来る日はとても楽しい。そして、飲んでいる時も楽しい。弱いけれど(本当?)飲んでいる時間はとても好きです。 そして、覚悟を持った人の力強い言葉を聞く時間も至福の時です。
 
 そんな由紀さん自身の夢は、自分とかかわった人がみんな幸せになってほしいということ。自分の幸せとは何かをわかっている人が増えてほしい。幸せって、実はもうあなたの中にあるんだよ。それを伝えていけるコーチでありたい、そう思っています。

 これからもドリームプラン・プレゼンテーションの頼れる姉貴として、そして経営者・起業家をヤル気にさせるコーチとして、由紀ちゃん自身が輝き続けていってくださいね。
私も由紀ちゃんのように、誰かをヤル気にさせられる存在になれるよう、これからもがんばっていきます。
今度、一緒にピンクレディ踊ろうね♪