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今日の人85.岡本八大さん パート.2 [2013年01月30日(Wed)]
パート.1から続きます。

ニュージーランドへ行って、3年経って日本へ帰ってきました。その頃ネットが普及し始め、会社へのクレームが目につくようになりました。それがたまらずお父さんに「会社を辞めたいのです」と申し出ます。するとお父さんは「お前が辞めるなら、俺も辞める」とおっしゃいました。当時の八大さんにはその言葉があまり響きませんでした。「とにかく辞めます」そう言いました。けれど、会社の重役の人たちから一緒にやっていこうと説得されます。特に、子どもの頃に釣りを教えてくれていた方からの「一緒にがんばりましょう!」が効きました。

こうして八大さんは会社をやめることなく、帰国後にまず東京の小売店で働かせてもらいました。自分なりに「こういうお店をやりたい」という思いが強く、休みなくずっと働きました。そうです、今度はお店にハマったのです。けれども、お店は赤字続きでした。当時はなぜだ?と思っていましたが、今ならその理由がわかります。それは、お客さんのところを見ていなかったから、その一言に尽きると。

お店にハマって仕事を頑張りすぎた八大さんは、とうとう倒れてしまいます。
体調が戻ってからは、社長について全国をまわるようになりました。そして、広告、商品開発と多様な分野に携わりました。
しかし、その頃、会社の業績がどんどん悪くなってきていました。最初は売り上げを戦略的に落としていたのですが、途中回復させようと思っても回復しなくなりました。2006年には毎月大きな赤字を出すようになりました。まだ借金までは出していませんでしたが、「このままではいけない!」そう思っていた時に紹介されたのが、アタッカーズ・ビジネススクールでした。

丸八ホールディングスの名刺を持たずにアタッカーズ・ビジネススクールで受講を始めた八大さん。特に黒川伊保子さんの「感性マーケティング講座」に大きな影響を受けました。脳科学に基づいた男性脳と女性脳のちがいを理解していくことで、女性スタッフとも驚くほどスムーズにうまくコミュニケーションが取れるようになりました。

 アタッカーズ・ビジネススクールには福島正伸さんも講師としていらしていました。福島先生の講座も薦められましたが、1年間受講していませんでした。しかし、3分間のDVDを見て、絶対聴きに行こう!と心に決め、福島先生の講座を受講しました。福島先生のメンタリング・マネジメント講座を受けてからは、何事にも怒る必要などないんだ、ということが腑に落ちました。他人のせいにすることは何もない。全て自分なのだと。

 こうして新しい社長と二人で全国行脚を始めました。そして今まで見えていなかったものにもたくさん気づきました。幹部の中にも、丸八真綿で働いていることを家族に言えなかった社員がいることを知った時はショックでした。でも、自分は絶対これを変えていこう。自分は丸八真綿のお客様もそして社員も笑顔にしたい、そう強く思いました。

 そんな中、青森を回っている時に、社員の子どもの作文を読む機会がありました。そこにはこう書いてありました。
「僕は大きくなったら丸八真綿に入ってお父さんと同じ仕事がしたいです。」
 心が震えました。「よし、やろう!この会社を親も子も夢が持てて、みんなが笑顔になれる会社にするんだ。」

 2009年、創業者のお父さんが認知症になります。八大さんはなるべくそばにいてお父さんのお世話をしました。子どもの頃、ほとんど側にいなかったあまりに偉大な父。でも、こうやって、最後にお世話をしたことで父と子の時間の隙間を埋めていったのかもしれません。お父さんの名前は八二、八二から八大へと八の継承を受けたこと、本当に大切にしています。そして「八の継承」は、人生の目的でもあります。八大さんの息子さんは八仁と名をつけました。論語が好きな八大さん、どうしても仁という漢字を付けたかったのです。
八二から八大へ、そして八仁へ、自分が父から受け取ったものを息子にも受け取ってもらいたい、「継承」ということをとても大切に思っています。

 丸八ホールディングスは昨年2012年に創業50周年を迎えました。さらなる50年へ向けて、八大さんには夢があります。それは、ネットで「丸八真綿」と検索したら、お客さんからの感動の声であふれている、そんな会社にすること。
 
 睡眠が必要でない人など、この世にはいません。誰にとっても睡眠はとても大切なもの。それなのに、睡眠の質が軽視されすぎている。睡眠の質が良くなることの社会的意義はとても大きい。だから、子どものうちから睡眠の大切さを伝えていきたい。八大さんは、子どもたちの授業に睡眠の授業を取り入れていくべきだと思っています。ですから、睡眠のセミナーもあちこちで引き受けています。そうして、もっと輝ける未来を作っていきたいのです。

 丸八ホールディングスが創業100周年を迎える時に、八大さんは92歳、それまで元気で睡眠の大切さを伝え続けるためにも、まずは自分の健康に留意することも忘れてはいません。もちろん、質のいい睡眠のための寝具はバッチリです!

 そして、八大さんは自分に人生のとても大切なことを教えてくださった、人生の師である福島正伸さんに恩返しがしたい、そう思っています。ですから、福島先生が手がけていらっしゃるドリームプラン・プレゼンテーションのプレゼンターの応援をずっとしていこう、そう決めています。

 そして、子どもが夢を持ち続けて欲しい、そう思っています。ですから自分自身も夢を持ち続けるのだと。奥さんとお子さんと一緒に家にいる時間は怖いくらいに幸せだとおっしゃる八大さん。こんな一途な旦那さま、なかなかお目にかかることはできませんね。

 これからも大きな愛でたくさんの人を包み込んで、みんなが幸せになれる会社を、そして社会を目指していってくださいね。
 半世紀後、創業100周年を迎える日を心から楽しみにしています。(私も生きているつもりなので)

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笑顔の素適な八大さんと、ドリプラ富山2013実行委員長の
飯野道子さんと一緒に
今日の人85.岡本八大さん パート.1 [2013年01月29日(Tue)]
 今日の人は株式会社丸八ホールディングス取締役副会長、NPO法人日本睡眠環境研究機構理事、睡眠環境診断士、睡眠指導士、日本プレゼンテーション協会認定プロ講師と幅広い肩書きをお持ちの岡本八大さんです。肩書きだけ見ると、ちょっと近寄りがたい感じですが、実際お会いすると、とっても腰が低くて話しやすい素適な紳士です。
写真 13-01-15 16 08 13.jpg
写真向かって左が八大さん 
右は森本耕司さん

 八大さんは第二次ベビーブームの1971年に生まれました。お姉さんが3人いて、一番上のお姉さんとは12歳ちがい、待望の男の子だったので、それはそれは可愛がられて育ちました。

 小さい時は人見知りで仲の良い子とだけ話せるような感じでした。好きだったのはローラースケートや釣り(といっても釣具を見ているのが好き)やNゲージでした。Nゲージというのは鉄道模型のことです。そう、八大さんは鉄ちゃんだったのです。時刻表の見方も教えてもらって、時刻表を見ているのも大好きで、時刻表を見ながら日本一周の旅を自分で作成したりしました。
 ただ、お父さんは仕事に忙しく、遊んでくれるのは専ら会社のお付きの人でした。

 生まれは浜松ですが、すぐに神奈川へ移り、小学校4年の時に今度は東京へ引越します。神奈川にいる時は、小田急ロマンスカーが好きだった八大さん。東京に行って単色の山手線や総武線を見るとちょっと不思議な感じがしました。今でも一番好きな電車はロマンスカーだとおっしゃる八大さん。

 そんな電車好きの八大さんですから、子どもの頃の夢は電車の運転士になることでした。でも、バスの運転手にはなりたいとは思いませんでした。バスは道に迷うかもしれないから嫌だ。電車はまっすぐ進むからいい、そう思っていたのです。

 小学校5年の時、いじめられていた時がありました。嫌われたくないと思って言うことを聞いているうちにいじめがどんどんエスカレートしていったのです。それでほんのしばらくでしたが不登校になった時期がありました。そのグループと離れたことでイジメはなくなりましたが、とてもつらかったのを覚えています。

 中学校に入るとお姉さんの影響で軟式テニス部に入りました。でも、1年間ボールに触らせてもらえなかったからおもしろくなくて辞めました。学習塾に通いだしてからは一日中ずっと勉強していました。何かにのめり込むと熱中するタイプで、ほとんど100点を取っていました。その頃になると、電車の運転士ではなく、パイロットになりたいと思うようになっていました。しかし、目が悪くなってしまったので諦めざるを得ませんでした。
 その頃、ビデオの編集にもはまっていました。当時はまだビデオテープの時代ですから、CMを抜くためにテープを切り貼りしたりして、うまくいった時は「やったぁ」という気分でした。

 高校では入学後初めてのテストで満点を取り、それで満足してしまったのか、その後はちっとも勉強しなくなりました。
部活は硬式テニス部に。ここでは同期と仲良くなれて、3年間辞めることなく部活を続けました。でも、見るのが好きだったのは野球です。中日ファンでした。落合選手が活躍していた頃です。その頃、ファミコン(ファミリーコンピューター:当時爆発的に人気のあったゲーム機器です)も流行っていましたが、八大さんのファミリースタジアムの腕は全国レベルだったようです。(かなりやりこんでいましたね!)
 ただ、高校の時は特になりたいものがなかった、夢がなかった、と八大さん。

 大学は経済学部に入りました。本当は史学部に行きたかったのですが、先に受けた経済学部に受かってしまったので、史学部を受験しませんでした!(なんと!)
 大学生活はほとんど出歩くことはなかったので、とてもつまらないものでした。
一日の生活は近所のコンビニに歩いて行ってスポーツ新聞を買うこと。
なぜスポーツ新聞かというと、競馬にはまっていたからです。平日はスポーツ新聞を買って熱心に研究し、週末に競馬場に行くという、まるで競馬好きなおじさんのような大学時代でした。

 でも、そんな八大さんにも就職活動というものがやってきました。就職指導で◯を一つ書くにしても適当に書いてはいけないと言われ、こんなことして何の役に立つんだろうという疑問が湧いていた時、それまでずっと放任主義だったお父さんから言われます。
「就職活動なんてしなくていいんだ。うちの会社に入って、ニュージーランドへ行ってこい」(丸八は毛皮製品の世界最大手、ニュージーランド「G.Lボーロン社」を買収していたので、そこで修行してこい、というのがお父様の想いだったようです)

 こうして大学卒業後にニュージーランドに渡った八大さん。でも、就労経験もなく、英語もわからない、おまけに仕事は3Kのとてもきつい仕事でした。でも、きつかったがゆえに、小さい時からどちらかというとおぼっちゃま育ちだった八大さんにとって、この3年間の経験は得がたい貴重な時間になりました。

 現地にいる間に語学学校にも通ったのですが、そこで、最愛の奥様と出会うことになったのです。また、学校にはとてもオープンマインドな人が多かった。大学の時はそれが嫌で部屋に閉じこもっていたけれど、異国の地でそんなことを言ってはいられません。八大さんも徐々にオープンマインドで話せるようになっていきました。

 2年目になると、1年後輩が入ってきます。後輩ではあるのですが、日本で1年仕事を経験してから来ているので、とても勉強になりました。こうして、誰とでも心をひらいて話せるようになっていきました。人見知り、人嫌いを克服していったのです。

 それでも、もちろんつらい時もありました。帰りたいなぁと迷っている時にお父さんに電話しました。そして、お父さんの声を聴くと、「ああ、やはりがんばろう」と思えるのでした。

 また八大さんは結婚願望がとても強かったので、早く結婚したいと思っていました。結婚すればきっと安定する、そう思っていました。結婚が決まった時、お父さんから言われました。「好きで結婚するなら、何があっても決して自分から離婚するって言っちゃいけない」今もその言葉をしっかり胸に抱いている八大さんなのです。



パート.2に続きます。
今日の人84.大太浩次さん パート.2 [2013年01月24日(Thu)]
パート.1から続きます。

 車にはねられて空中を飛びながら「俺は彼女もできずに死んでいくのか~」と考えていた大太さん。もちろん、生きているのですが、ケガをして新人戦を棒に振ってしまい、病院のベッドで一人の時間、「俺は、大学にはいってからずっとアメフトばかりだった。そもそも、俺がアメフトを始めたのは純粋にアメフトが好きだったからではない。このままアメフトを続けていていいのか」と考えていました。

 そして、退院した後、アメフト部をやめ同志社大学でしたが、元々好きだったサッカー同好会に入ったのです。彼女も出来て大学生活がとても楽しい時期でした。スキー場で泊まりこみのバイトもしていました。まだバブルの頃です。大太さんは思いました。
「東京に行きたい。上を目指したい。いい会社に入りたい」
今の学生さんには信じられない話でしょうけど、その頃は会社訪問に行くと、交通費がもらえるのは当たり前、内定日には一流ホテルに拘束されたりしました。
 そして大太さんはその当時の人気企業だった山一證券に内定をもらいました。

 しかし、親にそのことを告げるとこっぴどく怒られました。
「株屋をやらせるために大学にやったんじゃない!」

 予想外の反論に動揺する大太さん。めったに怒らない親が言うのには何か意味があるのだろうと、内定は断りました。そして就職が決まらないまま時間が流れます。

 そんなある日、学校推薦でIBMの就職が内定していた同級生が大学院に行くことを大太さんにだけ相談してきました。当然、その内定枠がポンと空いたので、それをいいことに、そこにそのまま滑り込んだ大太さん。もっとも、同じ学部から入った他の2人は一桁の成績順位で優秀だったので、技術職での採用だったのに対して、大太さんは理系だったのもかかわらず成績が悪かったので、営業職での採用でした。

 しかし、働き始めて思いました。自分には営業が向いている!誰かに会うたびにいろんな発見がある。もちろん、文句を言われることだってあるけれど、それを乗り越えていくことで、損得じゃない所で人間関係ができていく。

 社会人3年目、1993年の年末のことです。
仕事もそこそこ順調に行って大過なく過ごした1年の終わり、大太さんは鳥取の米子に帰省していました。年末年始と言えば、同窓会のシーズンです。大太さんも高校のサッカー部のメンバーと飲みに行きました。

 ひさしぶりのメンバーで、飲み会は大盛り上がり。でも、その後、大太さんの記憶があるのが1月3日。病院のベッドの上でした。
 
 大晦日の夜に妹に「今から友達と帰るから。」と電話した後、大太さんは帰ってきませんでした。大太さんには全く記憶がありませんが、元日の朝、ジョギングしている青年が、電話ボックスの中で倒れている大太さんを発見して、救急車で搬送されたのです!
 足の骨にヒビも入っていたので、事故の可能性もあるのですが、まったく思い出せませんでした。

 でも、雪が降る鳥取であの季節に雪が降らなかったこと、倒れていたのが路上ではなく少しは寒さをしのげる電話ボックスの中だったこと、元旦からジョギングする青年が居て大太さんを発見してくれたこと、いろんな奇跡が重なって大太さんは生かされたのです。死んでいてもおかしくない状況で生かされたことで、ガラッと人生観が変わり、自分が生きている意味を考えるようになりました。こうやって生きていることは決して当たり前のことではない。日々いろんな見えない奇跡が重なって生かされているのだ、と。
 
 ただ、この事件には後日談がひとつあります。この後、体の半分が温度を感じにくくなっていることに気がつき、検査入院した大太さん。二十歳のナースにテイモウされるという初体験をしたのでした。

 営業の仕事の中で、ものすごく厳しいお客さんに出会ったこともありました。最初に怒らせてしまって、その後何度も何度も会いに行っても全く会ってもらえませんでした。それでも、週に2回くらい顔を出しているうちに、次第に話すようになってくれて、一緒に飲みに行ったりするようになりました。そしてわかったのです。そのお客さんは怖い役割を演じているんだなと。

 2年後、その方が退職される際の送別会に大太さんは呼ばれます。その時、忘れられないひと言を言われました。
「君と一緒に仕事ができて幸せだったよ」
涙があふれました。厳しい中だったからこそ生まれた絆は余計に固いのだ、そう感じました。

 大太さんの営業活動の3分の1は病院担当営業でした。病院に営業に行って感じたことは、ドクター、ナースの志の高さです。でも、常に死に接しているドクターならではのどうしようもない悲しみに接する時もしばしばでした。大やけどを負った女の子を必死で治療して命を救ったにもかかわらず、退院になった日に鏡を見てショックを受け、その日のうちにその子が自殺してしまった…そんなやりきれない話を聞くこともありました。それでも、目の前に助けられる命があるから助ける、というドクターやナースたち。命を預かる彼らの仕事ぶりに接し、そんな話を聞く度に、働くって何なんだろうな、と考えました。

 そんな大太さんに働くことの意義を教えてくれたのが、ドリプラだったのかもしれません。
 
 2009年、福島正伸さんをIBMに呼んで企業内ドリプラをやることになりました。その時の福島さんの講演で自立型相互支援に触れたのです。自立型はよくわかる、でも相互支援はわからない、そう思いました。そんな時に受けたメンタリングセッションでのグループワークで大太さんは2009年のドリプラ世界大会プレゼンターの齋藤直人さんの夢を支援することになりました。夢大学への想いを熱く語る齋藤さん。そして、ドリプラの予選会場でほぼ号泣している自分。…カルチャーショックを受けました。こんなに伝わるプレゼンがあったのか…!

 そしてそれ以降、ドリプラに携わるようになっていきました。自立型でないと相互支援は成り立たない、それを実感するようになっていきました。依存型だとそれは相互支援ではなく、支援されるだけ、支援するだけの一方通行になってしまうからです。
 
 そんな大太さんの姿を見ていた会社の社員たちも、自らの夢を語るようになりました。それは何よりも嬉しいことだったし、自分がいいと思ったことをやり続けていくことの意義を感じています。

 そんな大太さんに今年一つの転機が訪れました。それは名古屋への転勤です。
今まで東京で仲間たちと自立型相互支援の会社作りに向けて歩いてきた。それを今度は名古屋でできるチャンスが来た!そう思っています。ドリプラの感覚、自立型相互支援という感覚をたくさんの人に伝えていきたい、

 そして、自立型相互支援の社会を自分の会社の中で作って行きたい、それが大太さんの夢です。
 大太さんは自分の会社が大好きです。会社の仲間、お客さん、そんな大好きな人たちのために自分の身体が動く限り動いていきたい!もちろん、それはドリプラで携わった仲間に対しても…。
 
 大太さんはドリプラ2012世界大会の本選の時もスタッフとして忙しく動いていらっしゃいました。そんな大太さん、プレゼン会場の外で私と会った時にいきなりポロポロと涙を流されるのです。「妙ちゃんのプレゼンを見ると、泣いてボロボロになっちゃうから絶対見ないと思っていたのに、お客さんを会場に案内した時に、ちょうどプレゼンの最中で、そのワンシーンを見たらもうダメだったよ。今、妙ちゃんに会ったらまたそれを思い出して…」そんな風に涙を流してくれる本当にあったかい大太さんの姿に、私まで泣いてしまって、40代の男女が別れ話でもないのに、一緒に泣いているんですから、傍から見ると本当に不思議な光景ですよね。
 でも、そんな場面に一緒にいられたことがとっても幸せでした。本当に感謝です。

 どこまでも相手を信じきる大太さん、茶目っ気たっぷりの少年のようなワクワク感とそして大きな愛で、これからもたくさんの人に自立型相互支援の素晴らしさを伝えていってくださいね。

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ドリプラ2012世界大会の日、早朝4時から東京ドームシティホールに椅子を設営するためにラーメンで栄養補給する大太さん。こうしたスタッフのみなさんの影働きがあるからこそ成り立つ大舞台なのです。
今日の人84.大太浩次さん パート.1 [2013年01月21日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティな企業IBMにお勤めの大太浩次さんです。
 大太さんはドリームプラン・プレゼンテーション世界大会に3年間スタッフとして参加されています。

 大太さんは鳥取県生まれ。大学に入学するまでの18年間は鳥取で暮らしていました。
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小さい時からずっと優等生で、クラスでは学級委員長をやりつつ、クラスの盛り上げ役として活躍していました。とっても目立ちたがりやでもあったのです。
 
 小学校3年生から、少年サッカーも始めます。最初は野球をやろうと思っていたのですが、野球は月謝が必要で、サッカーは必要ありませんでした。その理由で、サッカーの方を選んだ大太さん。
 でも、サッカーを始めると、たちまちサッカーに夢中になっていきました。ドイツのベッケンバウアーの下敷きを持っていて、こんな人になりたいなぁと憧れていました。
サッカー友だちと一緒に魚釣りに行ったり、雪合戦をしたりして遊ぶのもとても楽しかった。
スーパーカーも好きでした。フェラーリ、カウンタック…懐かしいですね。

 もの作りが好きで、廃材をもらって釘を打ってみたり。壊れた時計を分解して仕組みを調べたり、プラモデルを作ったり、そんな風に手を動かしている時間がとても楽しい少年時代でした。

 家はかなり躾に厳しくて、マンガはドカベン位しか許してもらえなかったし、テレビは「8時だよ全員集合」さえ見せてもらえなかったのでした。(大太さん、でも富山ではその当時TBS系列局がなかったから、元々見られなかったんです!)

 中学の時は学校が荒れていました。まさにスクール☆ウォーズ世代。大太さんは特定の集団にボコボコにされて、とてもつらい時期もありました。でも、学校を休もうという気にはなりませんでした。

 そして、中学の頃通い始めた塾の影響で、大太さん勉強がとても楽しくなりました。
 その塾は先生が車椅子の方の個人塾でした。めっちゃ厳しかったのですが、8時から9時くらいから開始だったので、部活が終わったあとに行けました。そして、レベル分けをしていない塾で、分かる子が分からない子に教える、そんな塾だったのです。人に教えてあげるというのは、自分がそのことをわかっていないと無理ですよね。ですから、大太さんは知らず知らずのうちに、教えることで自分自身がとても成長していたのです。そして、それが、自分が頑張れば、誰かを教えられる、という自信に繋がっていったのでした。

 サッカー部の中学最後の大会。3年生の中で3人が選手に選ばれませんでした。みな悔しくて泣いていました。大太さんもその一人でした。

 でも、そこから気持ちを切り替えて受験勉強に打ち込むようになりました。
両親の期待を背負っていたので進学校に行って、いい大学に行かなくちゃ!そう思っていました。お父さんがプラスチックの成形工場をやっていたこともあり、大太さんも理系を目指しました。それにコンピューターには早いうちから興味がありました。中学1年の時に、クラスから一人だけ選ばれて一日だけ高等専門学校に勉強に行った時があったのですが、そこでの体験から、コンピューターに触れたい!と強く思うようになったのです。

 高校は文武両道の学校だったので、とても充実していました。サッカー部ではやはり補欠だったけど、高1と高3の時に全国大会も経験しました。高いレベルの中で練習できるのが楽しくて、3年間サッカー漬けといってもいい日々でした。

 といってもサッカーだけしていたわけではなく、バンドでギターも弾いていました。高校2年生の時は、学園祭のライブでチェッカーズやチューブをやりました。でも、恋愛には興味がなく、そこに時間を費やすくらいならサッカーやバンドをやっていたい派でした。

 そんな高校時代の大太さんは、宇宙関係の仕事がしたいと思っていました。宇宙に行ってみたい、宇宙で暮らしてみたい!それが夢でした。
 そう思って入ったのは立命館大学理工学部情報工学科。

 しかし、大学に入った瞬間に高校時代までの反動もあったのか「大学生活をエンジョイしたい!」と思うようになった大太さん。テニスサークルに入って、彼女を作って…と思って、申し込みの場所に行くともう既にテニスサークルはいっぱいでした。
 すると、両脇から屈強な男子2名に挟まれます。それはアメリカンフットボール部の先輩学生でした。「一回試しに練習に来てみたら?」と言われて行ってみると、ワンレンボディコンのお姉さん達がいました。先輩が横でささやきます。「あの子は彼の彼女で、そっちの子はあいつの彼女だよ」
 チアガールもたくさんいました。
 
…ここに入れば、俺も彼女が出来る!そんなよこしまな気持ちでアメフト部に入った大太さん。4~5月はお客様期間でとても楽しかったのですが、6月に入ると一気に厳しくなりました。授業よりも練習を優先させられる日々。日々耐えるのに必死でした。一番大変な夏の合宿にも耐えたのですが、冬の新人戦の始まる1週間前に、家の近所で警察に追いかけられている車にはねられてしまいます。はねられて空中を飛びながら「俺は彼女もできずに死んでいくのか~」と考えていました。


パート.2に続きます。
今日の人83.薄井修司さん パート.2 [2013年01月02日(Wed)]
パート.1から続きます。

 こうして、隔週で行っていたサークルの集会をいかに楽しくやるかがおやじさんの課題になりました。ですから、意見の合わない副会長とは集会の3日前からはいつも壮絶なバトルでした。でも、そのおかげでテーマに対してありとあらゆる意見を出し、参加するみんなも参加意識がうんと強くなっていきました。そして、ひとりひとりに電話もかけていきました。

 おやじさんが会長を引き継いだ時のメンバーは10何人でした。でも、次の会長に引き継いだ時は、50何人ものサークルになっていたのです。おやじさんの真剣さ、そして楽しみを追求する姿勢、キャンプの運営の仕方、そういうもの全てをたくさんの後輩たちが慕って来たからにほかなりません。経験はなくともサークルの事を考える必死さは誰にも負けない。いつのまにかおやじさん中心のサークルとなっていきました。

 ある時、子どもたちを引率中に、子どもたちの列に単車が突っ込んでくるという事故がありました。子どもたちを一列に並ばせて、前後に学生リーダーがついていての事故。にもかかわらず、新聞にたたかれました。僕達学生は責任能力がないと思われている。こんなことじゃいけない。おやじさんは神戸のフェリーセンターがお盆の一週間大変な人手不足になることを知り、サークルのみんなでバイトすることを提案します。サークルのみんなのことはバッチリ把握していたのでシフト表もおやじさんが作りました。先方は困っていたからホンマに助かると大喜びで、また来シーズンも頼むと言われました。おやじさんは、そのバイト代をサークルに1割残して保険をかけようと持ちかけました。これで、学生だから責任能力がないなんて言わせない。仕方がないと思うか、何かしなくちゃいけないと思うか、思い入れが大切だとおやじさんは言います。

 おやじさんは大学では歴史専攻でした。最初は教師になろうと思っていましたが、サークル活動でずっと教育委員会とやりとりしているうちに、キャンプを通じて子どもの成長を願う情熱だけではやっていけない。思いが強い分、現実の組織や教師の置かれている環境を見て、教師になるのはやめようと思いました。キャンプで子どもたちがガラっと変わる場面をたくさん見てきた。そのキャンプをボランティアでやって、子どもたちの教育に関わっていけばいい。そう思ったのです。

 このサークルでおやじさんは大切な大切な奥さまと出会うことになるのですが、奥さまとの素適なお話は、今度おやじさんに直接お伺いするのがよさそうです。
とにかく、おやじさんの会社が危機に瀕した時も、凛としておやじさんを支え続けた本当に素敵な奥様なのです。

 実はおやじさんは大学生の時に、1年留年し、1年休学しています。沖縄久米島でアルバイトしていた時に毒サンゴに刺され、足を切らなければいけないとまで言われました。なんとかそれは免れたものの、半年は自宅療養を止む無くされました。ですから就職活動に際しては、2年間のハンディがあったのです。そんなおやじさんを待って、奥さんはご両親から進められるお見合いを断って、ふたりは結婚しました。

 子どもの頃から「人は働くのが当たり前」、「何事も一生懸命やることが大切であること」、「働けることを感謝する事」、「貧しくても人として恥じない生き方をすること」を両親と下町の市場の人達から教わった事はおやじさんにとって血となり肉となりました。それらが自然に身についていたことでアルバイトでもいつも認められた事は、おやじさんの中でそれらが人生においてとても大切なことという確信に変わりました。さらにサークルでの会長の経験はおやじさんにとって人生の大きな分岐点になりました。職業を選ぶ事、リーダーとしてチームを率いる経験、生涯のパートナーとの出会いの全てがこのサークルの御蔭でした。

 その後、おやじさんがどんな会社に入り、そしてどうやって会社を立ちあげて今に至るのかはこちらのサイトにたっぷり書いてあるので、どうぞワクワクでご覧下さいね。
情熱人サイト
http://www.jonetsu.jp/019p_top.html

 そこには、おやじさんの会社が神戸六甲アイランドの世界最大のウォータースライダーAOIAをたった3人の社員で500人のアルバイトを統率し、見事に運営させたエピソード等も載っています。まだ携帯電話のなかった時代、どうやって500人ものアルバイトを統率できたのか…実はこれについては、先日行ったダイバーシティサポーター養成講座でもお話いただいたのですが、ヒントは、おやじさんの大学時代のサークル活動にあります、とだけお伝えしておきますね。(他にもエピソードがたくさんですので、どうぞご覧になってくださいね!)

 今、おやじさんはとても幸せだとおっしゃいます。阪神大震災の時に、生き残った自分。そして今、思う存分仕事させてもらえる自分。
いろいろなことが出来湧いても、その都度一生懸命、その都度楽しく、そしてその都度幸せを思う、その連続なのだと…
 自分の足で自分の道を歩いてこられたおやじさんだからこそ、その一言がとてもズシンと響く、そんな素適なインタビューになりました。

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ダイバーシティ・サポーター養成講座で熱く語ってくださったおやじさん
今日の人83.薄井修司さん パート.1 [2013年01月01日(Tue)]
 今日の人は、株式会社ウエルネスサプライ代表取締役社長で、真おやじ塾塾長の薄井修司さんです。
薄井さんはみんなから“おやじ”と呼ばれているので、おやじさんと書かせていただきます。
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 おやじさんは兵庫県西宮生まれの西宮育ち。
下町の市場で生まれました。昔の市場は映画「三丁目の夕日」のよう、一つの大きな家族のようで、貧しくてもたくさんの愛情を受けてそだちました。

 お父さんは機械職人。お母さんは元々は網元の娘さんだったのですが、お父さんが職人で貧乏だったので、お母さんが駄菓子屋を開いて生計を立てていました。お父さんは子どもをよくどついたり蹴ったりしていたので、正直好きではありませんでした。お母さんは、貧しい中お父さんに隠れてお父さんの田舎に、いつもお菓子を送ったりしていました。母は誇り高き人でした。どんなに貧乏でも嘘をついたり人として恥ずかしいことをしてはいけない。上に向かってつばを吐くようなものやから、と常に諭してくれました。

 子どもの頃、クラスで前から2番目に小さかったおやじさん。正義感が人一倍強く、いじめられていた女の子を助けに行っては自分がやられて帰ってくる、そんな子どもでした。運動神経は抜群で、木登りやジグザクドリブルはクラスでおやじさんに勝てる子はいなかったし、リレーの選手としても活躍していました。

 それに勉強でも積極的でクラスでも必ず1番目に手を挙げるタイプでした。(今も同じですね!)ある時、クラスの友だちから私学の説明会に行かないかと誘われます。関西学院大学附属中学、そこは中学なのに、キャンプ場がある。それを見て猛烈に行きたいと思いました。お母さんに、「どうしても行きたいねん」と話しました。関学だから、当然難しい中学です。それに、もし行けたとしても、私学なのでたくさんのお金がかかります。でも、お母さんはお金がかかるからダメだとは一言も言わなかったのです。おやじさんは無邪気に私学に行きたいといったけど、今考えると本当に申し訳なかったと言います。

 11月になって進学塾の門を叩いたおやじさん。しかし、ことごとく断られました。
「今から受験勉強を始めたってまず受かるわけがない!」
担任の先生も言いました。
「落ちたら傷つくからやめておきなさい。」

 そんな中、おやじさんが当時通っていたいわゆる進学塾ではない復習をメインにした塾の先生だけは、「分かった。特訓しましょう!」と言ってくれたのです。こうして、残り2~3ヶ月の期間をとにかくがむしゃらに勉強したおやじさん。そう、おやじさんには何事も一生懸命にやる精神が染み付いていました。

 その結果、おやじさんは関学の中等部に合格したのです!
こうして入った中等部。最初は卓球部に入りました。高校から剣道部に代わりました。なにしろ、当時は森田健作の「俺は男だ」が流行っていましたから、剣道がとてもかっこよく見えました。

 家は相変わらず忙しく、家族でどこかに出かけるということはありませんでした。幼稚園の時から、お店を閉めてからでないとご飯にはなりませんでした。市場の子どもは店を手伝うのが当たり前でした。手伝っていると必ず市場のみんながほめてくれました。おやじさんは小さい時、重くて持てなかったシャッターの棒を入れられるようになり(昔のシャッターは組み立て式でした)
「修坊、えらいねぇ」と近所のおばちゃんにほめられました。子ども心にほめられるのが嬉しくて一生懸命手伝いました。それが自然にしみついていたんです。

 高等部になってからは、バイトも始めました。なにしろ普通の人より一生懸命仕事をするのが身についているおやじさんですから、いつもほめられました。まずやっていたのはお弁当作りのバイトです。おやじさんの住まいは西宮。西宮と言えば甲子園が有名ですが、巨人・阪神戦の時は徹夜でお弁当作りをしました。それでまた一層がんばったおやじさん。アルバイトの手配士を任されます。
 
 ガソリンスタンドで働いていた時はパンク修理、オイル交換、なんでも器用にこなしました。すっかり信頼されたおやじさんはバイトにもかかわらず、店舗の閉めの業務をやらされるくらいに信頼されていました。

 大学に入って、大好きなキャンプサークルに入ったおやじさん。
新執行部の改選の時に、おやじさんは次の会長をやってくれと言われます。しかし、これに猛烈に反発した人がいました。それまでずっとあらゆる行事に皆出席していた人でした。
「なんであいつなんですか?」その時の会長に食い下がりましたが、当時の会長は譲りませんでした。そして、おやじさんは会長職を受けたのです。

 そこから、おやじさんの人生がかわりました。メンバーはおやじさんよりもキャンプ経験が長く、ボーイスカウト・ガールスカウト出身者も多く、まとめるのは大変でした。おやじさんの会長就任に猛反対した副会長は規律に厳しく、集会にこないやつはダメ、活動に対する姿勢はこうでないとダメ等の考えがありましたが、おやじさんはちがいました。

 楽しくなければ続かない!志が正しくても、暗いと人は集まらない!
声を掛けてでも一人でも多くの仲間に参加してほしい!


パート.2に続きます。