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今日の人82.仲山進也さん パート.2 [2012年12月26日(Wed)]
パート.1から続きます。
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 正義感が強くて、検事になろうと思っていた仲山さん。でも、ある出来事がきっかけになって、検事になるのはやっぱりよそうと思いました。どんな出来事がきっかけで…?

 ある日実家に泥棒が入りました。警察が来た時、お母さんに尋ねたそうです。
「子どもさんは?」
お母さんは答えます。
「うちはみんな大学で道外だから、ここにはいません」
すると、警察官はこう言ったのです。
「なんだ。じゃあ、無理だな」

 つまり、まずは子どもを疑っていた!
 その時、仲山さんは思いました。警察と検事は同じような立ち位置だろう。だとすると、検事って、まず人を疑う仕事なんだな。…それで一気に検事という仕事への憧れが失せてしまったのです。それに、そもそも受験勉強というものが嫌いだった仲山さん。大学も推薦で入ったので、司法試験をそこまで根性入れて受けたくなかったし、検事が嫌だからといって弁護士に、という気持ちもさらさらありませんでした。

 もう一つ、仲山さんにとって大きなきっかけになった出来事があります。
 仲山さん、それまでソフトボール大会しかなかった大学のゼミの委員会で、ミニサッカー大会を企画。予算がないから勝手にやってくれと冷たく言われましたが、めげずにやりました!最初はグラウンドもない、と言われますが、ハンドボール用のグラウンドが当日場所取りをすれば使えることが判明。早起きして場所取りをし、手作りのビニールテープによるゴールネットを作り(見事にバリっと破けたけれど)なんと13チームものエントリーがあって、ミニサッカー大会は大いに盛り上がりました。

 最後は突然の大雨で決勝戦が流れてしまったけれど、解散するときにゼミの人がやって来て一言、「(ミニサッカー大会を)やってくれてありがとう。めちゃめちゃ楽しかったよ。ホントにありがとう。また絶対やってよね」と言って、手を差し伸べて握手を求めてくれました。
それがめちゃめちゃ嬉しかった仲山さん。人に楽しんでもらえて、ありがとうと言ってもらうことって、こんなに嬉しいものなんだ!

 その感動が仲山さんの進路を変える大きな要因になったそうです。司法試験に受かっても、人に楽しんでもらってありがとうと言ってもらえることは少なそう。それもあって、司法試験を受けるのはやめて、就職活動することにしました。
 
 そして大手電機メーカーに就職した仲山さん。でも、どうしても、何かを自分でやっているという実感が持ちにくかった。大きな会社の大きなプロジェクトの一部だから、いたしかたないのかもしれない。でも、ワクワクしない。
 
 そんな時にかつての仲間に誘われたのが、当時社員10人くらいのインターネットのべんちゃーな会社、そう、今の楽天の前身の「エム・ディー・エム」という会社でした。そして、インターネットのことをまともに知らないまま、三木谷さんと雑談して、入社することになった仲山さん。
 その後の楽天の成長ぶりは推して知るべし。
 
 仲山さんは、楽天の初代ECコンサルタント9人の1人となり、2000年に「楽天大学」を設立するなど、楽天市場出店者37,000社の成長パートナーとして活動中。Eコマースのマーケティングのみならず、楽天が20名から数千名の組織に成長するまでの経験をもとに、人とチームの成長法則を体系化。2008年に創業した仲山考材株式会社では、メーリングリスト型の戦略脳・企画脳トレーニングプログラム「私塾主宰者養成考座(通称:私塾ゼミ)」を主宰、志と伝道スキルを併せ持つ「私塾士型ファシリテーター」の育成に注力していらっしゃいます。

 そんな仲山さんにとっての褒め言葉は「変わっているね」と言われること。「普通だね」は絶対言われたくない言葉です。例えば、自分が講座をやった時のアンケートで、
「とても満足  満足  普通   やや不満  とても不満」
という項目があったとしたら、不満と書かれるより、満足と書かれる方が嫌だとおっしゃいます。みんな大人だから、まぁ普通と思っていたら、きっと満足に◯をつけるだろう。そして、不満だったら、その理由を書いてくれるけど、満足だとそれを書くこともない。響いてない感じが伝わってくるから、多少落ち込むそうです。そんな風に凹んだときの立ち直り方は、「まぁ、いーか」と思うこと。このアウトプットで響かないならしょうがない。響いた人にフォーカスできればいいかな、と思うことにしています。
 それに楽天の日々はかなり激しい日々なので、いちいち落ち込んではいられないと仲山さん。

 とにかく0から1を生み出していく仕事がワクワクしてたまらなく好きな、考える人なのです。
 
 そんな仲山さんが今、注目しているのは岐阜県!
岐阜県は今、とっても熱くてイケてるのです。何がイケてるかって、県庁がベンチャーを育成していて、ネットショップのトレーニングをやっていたり、高校生とネットショップがコラボして、ベーグルを開発し、ネットで3日間で7000個売り上げたりしている。
 
 行政の人は、すぐに地元の県産品を…と考えるけど、それじゃ絶対うまくいかない。岐阜発のベーグルだってレディ−スファッションだっていいわけで、大事なのはみんなで試行錯誤すること。みんなが思いを持ってワクワクしながら試行錯誤すると、みんながうまく行き始める!
 
 ちょっと、いつも地元の名産品をPRすることばかり考えているそこの行政の人、聞きました?これってホントに大事なことですよね。

 こんな風にいつもワクワクする仕事をしている仲山さんが気をつけていることがあります。それは、ワクワクしすぎてどっぷり症候群に陥らないようにすること。
 仲山さんは、ヴィッセル神戸のネットショップも任されていたのですが、ある年のヤマザキナビスコ杯の時にJリーグからポスターが何十枚か配られました。さあ、どうしようかな、これ、と思っていた時に、「ネットショップでプレゼントに出すのはどうですかね」という案が出て、そうすることに。すると、申し込み欄のコメントの熱いこと熱いこと!!

 サッカーに囲まれた環境の自分たちには気づかないけれど、外の人から見るとそれはとびきりキラキラの価値があるのだ!
 だから、俯瞰する目も忘れずにいる仲山さんなのでした。

 でも、やっぱり仲山さんは、基本ワクワクな人なので、仕事と仕事でないものの区別がありません。なんでも楽しい。そして、そんな仲山さん最近楽しんでいることのひとつは、自宅にあるレモンの木を育てること。これは、三重県の苗木屋さんが楽天でレモン部として販売したレモンの木。仲山さんはレモン部1期生。レモン部の規則は、月に一回レモンの写真を撮ってUPすること。そうすると、店長が部活の顧問としてコメントをくれるのです。同じレモンの苗が三重から全国へ旅立ち、そしてそれぞれに成長していく。そんなレモン部の部員向けのメルマガもとても味があります。ある時のメルマガには「結果と成果」について書いてありました。植物が実をつけることが結果。食べてみておいしくなかろうとそれは結果。それに対して、成果は、結果の中に作り手の思いが出た時に成果となる。
…そんな話を聞くと、私もレモン部に入部したくなるなぁ。
 
 仲山さんの志は世の中を元気にすること!そして、子どもが憧れる大人を増やすこと!イチローに憧れるみたいに、自分のお父さんやお母さん、近所のおじちゃんやおばちゃんに憧れる子どもたちを増やしたい。そのためには大人がキラキラしていないと!
 私もそんなキラキラした大人を増やしたいなぁと心から思います。まずは私もキラキラしていなきゃ。
 
 仲山進也さん、これからもたくさんのワクワクを生み出してくれるであろう、ステキな方でした。きっと、仲山さんの息子さんは、「お父さんみたいな大人になりたい!」そう思ってるにちがいありませんね。

仲山さんの最新刊ほこちらからどうぞ!
『今いるメンバーで「大金星」を挙げるチームの法則──『ジャイアントキリング』の流儀』
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今日の人82.仲山進也さん パート.1 [2012年12月25日(Tue)]
 今日の人は、楽天株式会社 楽天大学学長、仲山考材株式会社 代表取締役の仲山進也さんです。
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仲山さんは『楽天大学学長が教える「ビジネス頭」の磨き方』や『今いるメンバーで「大金星」を挙げるチームの法則』といった大人気のビジネス書の著者でもいらっしゃいます。

 仲山さんは北海道旭川生まれ。小さい時からずっと優等生でした。でも、真面目一辺倒というわけではありません。小学生の時からサッカーが大好きで、友だちと一緒に暗くなるまでサッカーをしているという日々。仲山さんは1973年生まれなので、ちょうどキャプテン翼に影響されたサッカー少年がたくさん出始めた頃でした。でも、まだまだ野球が主流の時代。仲山さんたちはグラウンドの隅っこでサッカーをしていたにもかかわらず、少年野球チームのコーチに、グラウンドから首根っこをつかまれて追いやられたことがあり、それがすっかりトラウマになってしまって、未だに野球にはアレルギーがあるそうです。

 放課後にサッカーする時は、途中から徐々に帰り出す子がいて、最後に残る子は少ししかいない、ということありました。そんな時、いかにみんなが最後まで残って楽しめるか、新たなルールを考えるのが好きでした。そのルールが面白くてたくさんの子どもが残ってくれると「よっしゃー!」と思いました。そして、みんなが飽きないようにちょっとずつルールを変えていくのです。そんなふうに昔から、考えを巡らせるのが好きだった仲山さん。

 冬場はサッカーゴルフをして遊んでいました。サッカーゴルフ?そう、雪に穴を掘って、その穴の中へボールを蹴りこむ遊びです。雪国ならではのサッカー遊びですね。

 そんな風に創意工夫をしてきた仲山さんだから、今の子どもたちは大人に指示されすぎているな、と感じます。もっと自分で楽しめるように工夫しなきゃ!これはそうさせている大人に問題がありそうです。

 仲山さんは3人兄弟の長男。1歳年下の弟もサッカー好きで、弟の友だちもサッカー仲間でした。お父さんはおじいちゃんの時からの会社を経営していたので、長男である自分は当然跡を継ぐものと思っていました。しかし、小学校の文集に書いた将来の夢は「サラリーマン」!
 なんでも、お父さんが自分のことを「サラリーマン」と表現していたので、「跡継ぎ=サラリーマン」と思っていた進也少年だったのでした。

 中学も高校もサッカー部に在籍し、サッカーに明け暮れた日々でした。授業をまじめに受け、部活でサッカーをして寄り道もせずに家に帰る、とってもマジメな生徒だったのです。(ご本人曰く、「寄り道しなかったのは、家が近すぎたからです(笑)」いや〜、私なんて、片道6kmを自転車通学していましたが、寄り道スポットはなかったです!←どんだけ田舎自慢)

 そんな少年は子どもの頃におもしろいルール作りをした経験から、世の中のルールについて勉強しよう、と思うようになりました。それで、大学では法学を勉強しようと決めました。子どもの頃から正義感がとても強かった仲山さんは自分がなるのは検事だ!そう思って、慶應義塾大学法学部法律学科に進学を決めます。そして、大学でもやっぱりとっても真面目に授業を受けていた仲山さん。取っていた授業の9割以上ちゃんと出席していたといいますから、本当に真面目な学生さんだったようです。

 でも、マジメな堅物、というわけではありません。仲山さんは国立競技場で売り子のバイトをしていました。ちょうどJリーグが開幕し、サッカー人気に火がつきはじめた頃でした。仲山さんは売り子の観察をします。売れる売り子と売れない売り子のちがいは何か?一番売れているのは、試合を1mmも見ずにひたすら売り歩いている人。しかし、仲山さんはそんなタイプの売り子にはなりたくありませんでした。何しろサッカーが大好きですから、試合中はなるべく試合を見たいのです!あ、ご本人の名誉のために言っておくと、歩合制ですから、単にサボっていらしたわけではありません(笑)

 仲山さんは試合前と休憩時間に主に売って、試合中は試合観戦をしていることが多かったのですが、ずっと売り歩いている人に引けをとらないくらい、いやそれ以上に売り上げを上げるようになりました。
それはなぜか?
 お客さんとサッカーについての雑談をしているうちに、玄人好みのお客さんと話が合って、「お兄ちゃんまたこっちに売りに来てや、おにいちゃん以外からは買わないからさ。」などと言われるようになっていきました。ちょっと離れた場所からビール10本!などと言われたら、ビールの注ぎ方のお手本をお客さんに見せて、お客さん自らに注いでもらい、自分は動かなくても商品が売れるという仲山マジック。ビールを注ぐのは案外難しいので、みなさんゲームのように楽しんでくださったそうです。

 その時の経験が今の仕事にも生きています。例えば、楽天に出店している店長さん達に講座をする時によく言うのは、毎日チラシを配るようなやり方は、競技場を大声で売り歩いているのと同じ。それではお客さんとの距離が縮まらない。それなら、メルマガに雑談を書いた方が、お客さんとの距離が縮まる。でも、それに固執するのもよくない。それこそ方法は100万通りある。いかに自分が負荷を感じずに多くの価値を見いだせるか。自分が勝負をかける強みはどこなのか、知っておくことが大切。でもそれは、ダイバーシティ的な視野がないとなかなか気づくことができないこと。


パート.2に続きます。
今日の人81.岩堀美雪さん  [2012年12月05日(Wed)]
 今日の人は、ドリプラ2012世界大会プレゼンターで、福井県鯖江市 立待小学校教師岩堀美雪さんです。
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 美雪さんは兼業農家の長女として生まれました。祖父がとにかく田んぼ第一の人で、母が逆子になっていた美雪さんを帝王切開で産むことを許してくれませんでした。手術をすると農作業に戻るのが遅れる。子どもはまた生めばいい、そういう考えの人だったのです。逆子で生まれた美雪さんは仮死状態で生まれました。産声を上げない娘に母は必死で頼みます。「この子を助けてください!」
もうダメかと思われたその時、大きな産声が響きました。

 こうしてこの世に生を受けた美雪さん。とにかく田んぼが大事だという家だったので、美雪さんも幼稚園の時から田んぼの手伝いをしていました。みんなが遊んでいるのに、自分には専用の田んぼ靴があるのが恨めしかった。

 そんな祖父だったので、テスト期間などお構いなしでした。肥料を運び過ぎて足から腰が冷えきって左足がずっとしびれていても、農作業やめるわけにはいかなかったのです。それでも母の姿を見ていると文句はとても言えなかった。美雪さんのお母さんは看護師をしながら田んぼと家の仕事もしていて、ずっと働き通しの人でした。お母さんが休んでいるのを美雪さんは見たことがありません。そしてそんなに働き詰めでもお母さんはお給料を全部おじいさんに渡していて、ほんのわずかの生活費しかもらっていませんでした。

 お父さんは夏場は土建業の現場で働き、冬は失業保険をもらっていましたが、お母さんが爪に火を点す用にして貯めたわずかな貯金を通帳ごと全部持って行ってしまうような人でした。それでもお母さんは決して愚痴をこぼすことなくいつも明るい笑顔で接してくれました。そんなお母さんの涙を美雪さんはたった一度だけ見たことがあります。突然お母さんの部屋に入った時に、パッと涙をふいてニコッと笑ってくれた母。なけなしの貯金を持っていかれてしまい、美雪さんの中学校の制服を買うことができなかったのです。自分が貧乏をするのはどれだけでも我慢できる。でも娘に惨めな思いをさせるのは忍びない。

 結局母方の実家の祖母が見るに見かねて制服を買ってくれて、美雪さんは中学校に進みます。その頃、アタックNo.1等のバレーのアニメがすごく流行っていて、なんと女子70人のうちの30人はバレー部に入部。美雪さんもその中の一人でした。1年の夏に3年生が引退すると、美雪さんは1年生の中でたった1人だけレギュラーに選ばれます。友だちから、何であんただけ?と言われてそれがとてもつらかった。それでも厳しい特訓に耐え、3年生では名実ともにエースアタッカーになりました。
 
 そこまで鍛えられたので、高校もバレー部に入ったのかと思いきや、その頃流行っていたエースをねらえに触発されて、テニス部に入ります。そして、高校1年の夏休みの宿題で「二十四の瞳」の感想文を書いた時に、私も大石先生のような先生になりたい!そう強く思いました。でも、日中はどうしても田んぼ仕事に時間を取られてしまいます。美雪さんは夜遅くまで勉強を続け、福井大学教育学部に合格。国立大学なので、元々授業料は安いのですが、それでもやはり親に金銭的負担をかけたくない!そう思って1回目の授業料だけ払ってもらって、残りは授業料免除制度を利用したり、奨学金制度を利用して一切負担をかけませんでした。もちろん、生活費もかかりますから、ありとあらゆるバイトもやりました。ふとん運び、世論調査、車屋さんでの旗振りガール、店頭販売、変わったところでは県警本部でのネクタイ売りなんていうのもありました。

 その頃美雪さんは自分のことが嫌いでした。背が高いのも嫌い。大きな指も嫌い。そんな美雪さんに転機が訪れたのは大学2年。美雪さんに「付き合ってください!」という人が現れたのです。こんな私を好きになってくれる人がいるなんて!美雪さんは彼を離してなるものかと思いました。ですから100%自分を殺しておどおどしていました。そういう態度で接していたのですから、当然といえば当然なのですが、彼に振られてしまいます。
 
 心に大きな大きな傷ができました。私が悪いんだ。悲しすぎてもう私なんか生きている価値がないとまで思いました。美雪さんは本当に一途な性格なのです。福井の自殺の名所“東尋坊”まで車を走らせましたが、両親の顔が思い浮かび海に身を投げることはできませんでした。何日も何日も泣いて、泣きつかれてヘトヘトになった時にふと、自分の手の平を見ました。すると、手の平の中に自分がいました。小さくて今にも消えそうなありのままの私。ちゃんとこの子の側にいてあげよう。手が大きくても足が大きくても、それは愛しい私。そう思った時から、ちょっとずつちょっとずつ自分のことが好きになっていきました。するとどうでしょう。就職前は165cmだった身長がなんと大人になってから伸び始め、とうとう169cm、足は24.5から25.5になったのです。それまでいかに自分を殺していたか、ということでしょう。
 
 そして迎えた教員採用試験。1年目はダメでした。でも仲良しの友だちと一緒に勉強して、2年目に見事合格。先生になれたことが嬉しくて嬉しくて美雪さんはお母さんに言います。
「こんな大好きなことをしていてお給料をもらってもいいのかな」

 思い込んだら一途な美雪さん。教育にも情熱を注ぎ込みます。水泳の授業で4年生は25m、5年生は50m、6年生は100m目標というのがあるのですが、美雪先生のクラスは全員それをクリア。というのも全員泳げるようになるまでひたすら練習をしたからです。逆上がりも全員できるようになるまでやりましたし、県名や百人一首を覚えることもやりました。
県の陸上大会の持久走でも優勝が4,5回。全くコーチ歴などない、美雪さんでしたが、圧倒的な指導力から“炎の岩堀”と呼ばれていました。

 岩堀先生の信念は“子どもには無限の可能性がある。どの子にも必ずいいところがある”ということ。

 当時美雪さんのクラスにいたAくんは勉強は苦手でしたが、友だちが給食をこぼしたりすると、嫌がる顔ひとつ見せず、一緒にふいてあげたりと、とにかく友だち思いの子どもでした。美雪さんは放課後いつもAくんと一緒に勉強してあげました。美雪さんは1,2,3,4,年と続けてAくんを受け持っていて放課後教室はいつも続いていました。
 
 しかし、Aくんたちが4年生の10月の美雪さんは2人目の子を切迫流産しかかります。前置胎盤で大出血をして、もうダメかと思われましたが、まだ心音が聴こえました。ですから、そこから美雪さんはとにかく安静に寝ているのが仕事になりました。点滴しかうけつけず、その栄養もお腹の子に取られるので、髪は抜け、ガリガリに痩せました。ベッドの上で2ヶ月間考えつづけました。私には何が足りなかったのだろう。そうして思ったのです。私には感謝が足りなかった。普通に動けることがどれだけありがたいことだったか。
 
 そして、なんとか無事に出産し、また学校に戻った時はAくんたちは6年生になっていました。教室に行くとみんな元気がありません。彼らは言いました。「先生、僕らは先生と一緒に勉強していた時のぼくらじゃないんです。輝いていた僕らじゃない。」
  Aくんも5年生の時は一回も放課後個別指導をしてもらっていなかった。そして、あんなに優しかった彼が、家庭内暴力までふるったというのです。お母さんはボロボロ泣きました。Aくんは僕は何をやってもダメなんや!と自己否定の塊になっていました。「何いってんの!そんなことがあるはずない!」美雪さんはまた毎日放課後教室をやるようになりました。そしてクラスの子達にも、「先生ね、このクラスは世界一のクラスを目指すから!みんなできるよ!」そうしてクラスの目標に立てたことはことごとくやり遂げていったのです。
 七夕集会のあった時のことでした。教頭先生が美雪さんに言います。「岩堀先生、短冊を見たの?短冊にはね、中学校に行っても岩堀先生に担任をしてほしい!と書いてあったんだよ」子どもたちは中学校に行くと岩堀先生に受け持ってもらえないのはわかっていました。それでもそう書かずにはいられなかった。それほどまでに岩堀先生は大好きな先生だったのです。こんな素適な先生に受け持ってもらえた子どもたちはどんなにか幸せだろうなぁと私も思います。
 
 そして卒業式の日、クラスの子どもたちから素適な素適なプレゼントが手渡されました。それは画用紙で作られた「世界一証書」でした。
「岩堀先生、あなたは世界一のクラスを立派に作り上げました。よってここに表彰します」
みんな涙がとまりませんでした。子どもたちも美雪さんも…。
 そして世界一証書は、美雪さんにとって何より大切な宝物になりました。

 Aくんは中学生になっても遊びに来てくれましたが、やがて美雪さんはちがう小学校に赴任します。Aくんも中卒後働き始めたという噂は聞きましたが、その後どうしているかはわからずにいました。
 
 ある日、学校に青年団の代表が挨拶にきました。「◯◯青年団です。体育館使わせてください!」とてもハキハキした元気な声でした。ふっと顔を上げると、懐かしい顔がそこにはありました。Aくんでした。Aくんは青年団の団長もつとめていました。そして、会社でもみんなに支えてもらっていることもわかりました。Aくんと一緒に外に出た時、うすくらい街灯の下で、Aくんの車がピカピカに光っていました。ああ、これでもうこの子は大丈夫だな。そう思うと、泣けて泣けて仕方ありませんでした。

 そしていよいよ美雪さんがポートフォリオに出会う日がやってきます。2000年、小学校の授業に「総合」が導入されます。総合でポートフォリオができないかと思って読んでいた一冊の本の中の一文に目を奪われた美雪さん。そこにはこう書いてありました。「ポートフォリオは世界にたった一人しかいない自分を大切にすることにつながる」と。「これだ!」身体の中を稲妻が入ったような感覚でした。

 こうして独自にやり方を考えながら「自分大好き宝物ファイル」のポートフォリオの活動を12年続けています。その活動の中で、本当に子どもたちはキラキラ輝き出すようになりました。そして子どもだけでなく、家族にも変化をもたらしました。
 
「あんたには良い所がひとつもないね」と言っていたお母さんが「宝物ファイル」でお友達からわが子の良い所がいっぱい書いてあるのを読んで、自分はこの子の何を見ていたんだろうとはっとします。そして、家族会議を開いてみんなでその子の良い所を書いていきました。そして一番最後に「最後に大輝がお母さんの子どもであったことがいちばんのいいところです。」そう綴ってありました。

 仕事がうまくいかなくなって会社をたたもうかと思っていたお父さんが、娘からの手紙でたったひと言「お父さんのいいところはいつも仕事をがんばっている所」と書いてあるのを見て号泣し、その後見事に会社を立て直したこともありました。

 数えきれないほどのドラマを産んできた宝物ファイル。そして、このノウハウは絶対に広めていかなければならないと感じた美雪さんはポートフォリオについての本を自費出版することに決めました。そして「心がぐん!と育つパーソナルポートフォリオ」という本を出版(現在この本はプレミアがついている位の人気商品です)しかし、案の定本はなかなか売れませんでした。

 2004年7月、福井を未曾有の豪雨が襲い、多くの被害が出ました。美雪さんの小学校も泥で覆われました。同じ時、県立病院の緩和ケア病棟に入院していた親友が息を引き取りました。大学も一緒、教員採用試験の勉強も一緒にした親友でした。なくなる一週間前にお見舞いに言った美雪さんをどうしても送っていくと彼女が言ったとき、満面の笑顔で「美雪バイバーイ」と言ってくれました。それが今生の別れになりました。
 
 …こんなにもいっぺんに悲しいことが起こるのか…泥除けの作業をしながら美雪さんは考えていました。今まで受け持ってきた子どもたちの顔が次から次へと浮かんできました。
「あの子は先に天に召された。でも、私はまだ残されている。私は一生かけてでもやり抜こう!」そう決意しました。
 
 そして、埼玉のとある図書館においてあった美雪さんの本がNHKのディレクターの目にとまり、美雪さんの活動はNHK北陸スペシャルという30分番組で放送されたのです。しかも2005年、2006年の2年に渡って。

 こうして美雪さんの活動は徐々に広まり、今は土日はほとんど講演会や研修会の講師を頼まれて各地に出かけています。

 美雪さんはなんと作詞も手がけていて、自らが歌う歌のCDも出しています。本当はミネハハさん(CMソングの女王で、グリコやクロネコヤマトの宅急便♪は全部ミネハハさんの声です)という有名な歌手にその歌を歌ってもらっていたのですが、美雪さんの歌声を聞いたある会社の所長さんが「あなたが歌いなさい」と言って下さったのでした。そしてミネハハさんもお呼びしたコンサートでは、普段なかなか満席にならない福井県立音楽堂を満席にするという奇跡も起こしました。

 自分が大好きになって自己肯定感が高まれば、世の中は絶対に平和になる!美雪さんはその強い信念で今日も突き進んでいます。
 そして、さらに学ぼうと50歳にして大学院を受験し、今2年生で現役の大学院生です。また、今年1月には感銘を受けた心理学書の著者に会いにフランスまで飛んで意見交換をしてきた美雪さん。まさしく行動と信念のかっこいい女性なのです。
 同じ北陸人として、同じ女性として、これからも美雪さんのことをずっと応援しています!

今日の人80.三田村美恵さん [2012年12月04日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターで福井で、有機農業・自然農法の農業を営む美の里ファーム代表、三田村美恵さんです。
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 美恵さんが生まれたのは福井県越前町。とにかく水と自然に恵まれたところです。沢ガニを捕ったり、山を飛び回ったり、弟が二人いるのですが、とにかく姉御肌でした。
 
 農業をやっている父方のおじいちゃん、居酒屋を営んでいる母方のおばあちゃん、とにかくこの二人が大好きでした。おじいちゃんの田んぼの手伝いやおばあちゃんのお店の手伝いを小さい時からやっていました。ホントに可愛いチーママでした。
 
 そんな二人が亡くなると、心にぽっかり空いた穴を埋めるように、スポーツ一色になります。美恵さんの住んでいる町はグランドホッケーが盛んな町です。次第にホッケーにのめり込んでいった美恵さん。将来は絶対にホッケーで日本代表になる!そう心に決めていました。もう一つ、空手も大好きでした。ホッケーの練習、そして空手で道場通い。それが毎日の日課でした。
 
 ですから、中学校ではもちろんホッケー部、高校もスポーツ推薦でホッケー部のある高校へ。しかし、担当の先生がとても苦手なタイプで裏切られてしまったと感じたこと、先輩たちからかわいがり、いわゆるいじめを受けたこと、そういうことが重なって2年生の冬休み頃からうつ病になってしまいます。「美恵ちゃん、いったいどうしたの?」と人から指摘されるくらい人相が変わり果てていました。それに加えて、アキレス腱を痛めてしまったこともあって、美恵さんはホッケー部を退部。美術部に転部して、3年生の時は美術部部長を勤めていました。
 
 その頃お母さんから紹介されたのが、運命の出会いとなる壽畑(すばた)さんでした。壽畑さんは不良の子の更生カウンセラーもしている人で、とても懐の深い人でした。お母さんは悩む美恵さんを立ち直らせようと考え、壽畑さんを紹介してくれたのでした。
 
 その出会いによって、少しずつ心を回復させていった美恵さん。
 ホッケーの日本代表になるという夢は潰えました。では何をしたいかと考えた時に浮かんだのは看護師でした。大好きだったおじいちゃんは美恵さんと一緒に寝ている時に、心臓発作でなくなりました。もしあの時、心臓マッサージの方法を知っていたら、おじいちゃんは死なずにすんだかもしれない…。おばあちゃんも働き者すぎて、癌を発見するのが手遅れになって死んでいきました。最後の様子を見ていた美恵さん。その2人の死が忘れられなくて、私に何か出来たなら…という思いと“女性としての自立”から、私看護士になろう!そう思ったのです。
 こうして看護学校の学生になった美恵さん。1年の時は、がんばって勉強していました。

 でも、2年になった頃から、家の中であらゆる問題が噴出してきたのです。父はもともと家のことに無頓着な人で、パチンコ依存症でした。家に全くお金を入れず、保険を解約してそのお金までパチンコにつぎ込む有り様。でも何も言わない母。
 
 美恵さんは看護学校の学費も全部自分でやりくりしていました。なんでうちのお父さんはこんなに不甲斐無いんだ!無性に腹が立って「父親ならしゃきっとしてよ!」と言うと逆切れされて娘に暴力です。
 父だけではありません。2つ違いの上の弟が美人局で捕まり、少年院に送られたのです。それでも父は全く会いに行こうともしません。少年院に面会に行ったのも美恵さんでした。
 父に何か言うとその度に暴力です。でも、その頃はまだ家庭内のことに警察は不介入ということが多かったので、警察に言っても喧嘩両成敗と言われるだけでした。
 
 学費を稼ぐのに夜のバイトも始めました。学費だけではありません。家計の負担は全て美恵さんにのしかかってきたのです。アルバイトを5つ掛け持ちして家には寝に帰るだけ。
 最初はなんとか学校にも行っていましたが、続くはずはありませんでした。そしてとうとう看護学校を中退してしまったのです。
 
 やがて、少年院に行っていた上の弟が帰ってきました。「長男やし、しっかりしれま!」と言うと、彼もまたやり場のない怒りを全て美恵さんにぶつけました。「みんなお姉ちゃんが悪いんだ!」そう言ってコンクリートの土間で馬乗りになって殴られ、脳震盪を起こして、救急車で運ばれたこともありました。
 もうどうしようもない。とうとう美恵さんは第三者に入ってもらって、父に対して被害届を出しました。裁判所で「もう一緒に暮さん方がいい。バラバラに暮らせ」と言われたことでなんとか示談になり、父は家を出て行きました。
 
 そんな中でも、下の弟が自動車整備士の学校に通いたいと言ったとき、お姉ちゃんがなんとかしてやる、と言って学費と生活費の一切の面倒を見た美恵さん。
19歳~23歳までの本当に過酷な毎日でした。それでも貯金を600万貯めた美恵さん。
 下の弟の就職も決まったので、じいちゃんが残した田畑で農業に専念することを決意しました。600万は車とトラクターを買うとあっという間になくなりましたが…

 23歳、慣行栽培を始めましたが、うまくいきません。そこで24歳からは有機栽培に切り替えました。高校の時に立ち直らせてくれた壽畑さんが自然栽培をやられていて、彼に全面的にお世話になったのです。壽畑さんは今、美恵さんにとっては頼れるお父さん。何でも相談できるなくてはならない人です。

 そして、自然栽培に切り替えると、農薬等の費用もかからなくなり、大幅な農業経営の改善になりました。いろいろ勉強するうちに、断固有機栽培、自然栽培しかない、そう思うようになりました。
 2年間、ほとんど良い米はできなかったけれど、それ以外やらない、と決意していたのでぶれませんでした。

 美恵さんがそう決意したのには理由があります。
飼っていた犬が、散布された除草剤で中毒になり、1週間血ヘドと血便が止まらなかったことから、除草剤の恐ろしさが身に沁みてわかったのです。
散布した人のうちに美恵さんは乗り込んでいきました。

 もう一つ大きかったのは、散布された場所が学校の側だったことです。もともと子どもが大好きな美恵さん。看護師を目指していた時も小児科か産婦人科に行きたいと思っていました。でも、家庭が荒れて、美恵さんが全ての家計をまかなうために必死でバイトをしていた時に、中絶してしまったことがありました。子どもが好きなのに、中絶してしまったという心の葛藤。ですから、よその子でも子どもがなにかで傷つくようなことは絶対に嫌なのです。散布された草を手で触って、その手を口に入れたりしたらどうなるの?

 こうして、美恵さんの訴えもあり、その時の周辺地域の環境農業への動きの後押しもあり、除草剤使用への意識が変わってきました。そして徐々に環境型農業が広がりはじめました。少しずつ少しずつ、変わってきている、そう感じています。

 そんな美恵さん、ドリプラでは農武士プロジェクトの夢をプレゼン。全国の農業に生きる者達が結束して農武士となり、日本の農業を変えていく、大きなプロジェクトです。
 耕作放棄地だった場所に、たくさんの人が集って、みんなが楽しそうにしているところを想像すると、本当にワクワクします。

 今、日本の農業は大きな危機に直面しています。農業従事者の高齢化、決定的な後継者不足、このままでは国の根幹が危うい。今こそ、若い担い手が立ち上がるべきです。そして、美恵さんたち農武士がその役割を担ってくれると期待しています。

 美恵さんはドリプラのみんなからはガチャピンと呼ばれています。
ガチャピンだったらシンガリ(後駆)になってでも、きっとこの夢を追いかけ続けるでしょう。熱い百姓が集まればきっとできる!私もそう信じています。
今日の人79.志水哲也さん [2012年12月02日(Sun)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、株式会社タービン・インタラクティブ代表取締役の志水哲也さんです。
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 とってもクールでかっこいい志水さんがどうして熱いドリプラのプレゼンターになろうかと思ったのでしょう。

 志水さんは名古屋生まれの名古屋育ち。親の期待通りに育っていった優等生でした。昔から優しくてカッコ良かったので、女の子にモテモテ。
 中学の時は当時まだ大変珍しかったコンピュータを既に持っていましたし、高校に入るとコンピュータとシンセサイザーをつないで自ら曲を作っていました。人のやっていないことをやるのが大好きだったのです。しかし、コンピュータで曲を書いているということが当時はなかなか理解してもらえませんでした。それほど走りの頃でした。
 
 高校の学園祭の時には映画を作って発表したのですが、監督・原作・脚本・演出・メイクそして音楽を一手に引き受けるマルチな才能を発揮。ものを作ることの楽しさを心から実感したのはこの時だったかもしれません。そして志水さんの作った作品は学園祭で見事大賞を受賞。こういう経験からクリエイティブなことをやりたい、と思うようになりました。
 
 ただ、高校を卒業したらほぼ100%の生徒が大学に進学する進学校にあって、志水さんの中にはこのまま何も考えずに大学へ進んでいいのか?という疑問が抑えきれずに湧いてきたのです。そして高校3年生の進路指導の時に担当の先生に言います。「このまますんなり大学に行くのはやめようと思います。僕はしばらく自分探しをしたいんです。」すると先生は眉一つ動かさずに「それはいいな」と言ってくれたのです。先生がわかってくれたので、次は親の説得に当たりました。なにしろ小さい時から親の思う通りの道を歩いてきた息子です。その息子が大学に行かないなんて言ったら…。しかし、そこで志水さんは共感と感動の説得をします。「僕はこれまで何でも器用にやれて、大した苦悩もないまま思春期を迎え時を過ごしてきました。それはお父さん、お母さんのおかげです。ですが、このままやはり何の苦労もないままぬくぬくと大人になるのは僕にとってよくないことだと思っています。ですから、新聞配達をして苦労をしたいのです」こうして、新聞配達のバイトをし始めた志水さん。でも、それ以外はほとんど引きこもりのような生活でした。家庭教師のバイトをすると、評判を呼んで子どもたちが集まってきましたが、それでも心は晴れません。自分はいったい何をしたいのかわからない。何でもできるような気がするけれど、何も出来ない。こうして悶々とした思いを抱いたまま、1年たって仕方なく大学に行きました。  

 みんなが晴れやかな顔をしている早稲田大学の入学式でひとり最悪に落ち込んだ顔でそこにいた志水さん。普通、入学式といえばサークルの勧誘で声をかけられまくるのですが、誰にも声をかけられなかったというから、いかに暗い顔をしていたかということでしょう。
 
 けれど、大学生活の中で志水さんは次第に元来持つ輝きを取り戻します。そしてそれは、悩みを経た上での輝きであるゆえ、前よりより強くなりました。
 こうして音楽サークルでプロモーションビデオを作ったり、演劇サークルで音響係をしたり、映画研究会で活躍するようになります。早稲田は演劇関係でもたくさんの人を世に輩出している大学ですから、志水さんの仲間の中には、今も演劇界で活躍している人もたくさんいらっしゃいます。こうした人とのつながりの中で、人の役に立ちたいという想いだけではなく、みんなが求める所を出せば人に喜ばれるのだ、と感じるようになりました。
 
 ゲームメーカーからゲーム音楽を作ってくれないかという声もかかりましたが、志水さんは名古屋に戻って広告代理店で働き始めます。仕事で面白いものを作るとほめられる。それが楽しくて、死ぬほど働きました。仕事が大好きで仕事で心が救われたのです。
1994年、インターネットが始まり、広告代理店もネットの世界に足を踏み入れることになりました。そして志水さんはネットの担当を1年目からやらされます。今では当たり前のことですが、当時はファイルを開いた時に、それが地球の裏側でも一緒に見られるなんてものすごい革新的なことでした。頭の中がすごいスピードで進んでいくのを感じ、インターネットってなんて面白いんだ、と思いました。そしてお客さんにネットのことをひたすら話しました。ホームページを持ちましょう!インターネットでこういうことができるようになるんですよ!説明しながら自分が一番ワクワクしていました。インターネットの初期に、まっさらなところからいろいろ作り出していけたことは自分にとって大きな財産になった、そう思っています。
 
 こうして、いろいろなことを地道に取り組んで5年たちました。当時はネットのクリエイティブな会社がありませんでした。これを担うのが自分ではないのか?そう決意した志水さんは1999年4月2日に会社を設立。がむしゃらに働きました。働いて働いて、誰よりも働きましたが、社員がついてきてくれず辞めていってしまいました。なんでこんなにバラバラなんだ?なんでみんな俺のことをわかってくれないんだ?またしても葛藤が始まりました。
 
 そんな時に出会ったのが福島正伸さんでした。「経営者が変わらないと、会社は変わらない。」はっとしました。今までの自分はクールでどこかかっこつけていました。でも、それじゃあだめなのだ。まず自分が変わろう!
 
 こうして志水さんは社員の誕生日にはサプライズの誕生日パーティをやったり、社員のためにムービーを作ったりするようになりました。元来持っていた演出家の本領を発揮して、社員が喜ぶことを第一に考えたのです。そうするうちに社内の雰囲気が劇的に変わっていきました。志水さんの会社には、なんとステージがあります。そして仕事をする時は常に心地よい音楽が流れています。こうして、志水さんの会社は35名のスタッフがいつも気持ちよく仕事できる環境にあふれているのです。
 
 そして志水さんはここまで培ってきたweb制作全般のノウハウを過疎の市町村で活かせないかと考えています。ITの仕事で過疎の問題を解決したい!そう思ってドリプラでは宮古島を舞台に感動のクリエイティブライフを送ろうというプレゼンをします。
 
 てっちゃんの事業で過疎の問題が少しでも解決できたら、地方都市にとってこれほど嬉しいことはありません。富山にも過疎で苦しんでいる市町村はたくさんあります。てっちゃんの事業が富山でも広がる日を心から楽しみにしていますね!
今日の人78.大石ゆい子さん [2012年12月01日(Sat)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、福島から夢の国「おひさま村」を創ろうとの思いでドリプラ出場を決意された大石ゆい子さんです。
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 大石さん、生まれて間もないころから幼稚園前までは奥会津の昭和村にいましたが、その後は高校まで相馬市に住んでいます。
ご両親と弟さん、そしておばあちゃまと一緒に暮らしていました。お父さんは無医村のお医者様として、みんなに尊敬されている方でした。
 
 大石さんは手芸が大好きな少女でした。ひとつできると、また作りたくなる。ですから小さい頃の夢は、手芸屋さんか本屋さんでした。本当はお父さんのような医者になった方がいいのかなと思ったこともありましたが父は望みませんでした。医者は不規則だし、往診だってある。女の人にはきつすぎます、というのがお父さんの思いだったのです。大概のことはやらせてくれる父でしたが、これだけはOkが出ませんでした。女性には生理や出産がある。今はお金をとることが自立することのように思っているけれど本当の自立とはそういうことだけではないんだよいつか将来理解してくれる時が来ると思う。それが父の思いでした。
「お父さんはお母さんがいないとやっていけないように」、今は分からないだろうけれど将来きっとわかると思っているよ。お互いに尊敬し合って生きること。それこそがお互いの自立だと僕は思っているよ。」

 そういうお父さんでしたから、勉強しろとは一切言いませんでした。「受験の為に100点取る勉強なら70点でいいからあとの30点分はスポーツをやるとか本を読むとか自分の好きなことをした方がいいと思いますよ。学校に行ってる時はだれでも勉強しますが学校を出てからが大事です。そして“ふつう”に生きてください」そういつも言われていました。
こうして天真爛漫に育った大石さん。中学校の時は放送部や、バスケ部のマネージャー、高校では図書部長として、活躍しました。
 育った環境が環境ですから、競争心というものがちっともなかった大石さん。友だちに「ゆい子が勉強すると俺の点数が下がるからしないで」と言われれば、その通りに勉強しないというなんともおっとりとした性格でした。

 大石さんが高校生の頃、お母さんが陶芸をやり始めます。窯場まで作り、本格的にやり始め、それに大石さんも触発されて陶芸が大好きになります。いつもどちらがご飯の支度をするかでもめるくらい、二人共陶芸に夢中でした。
 陶芸の道に進みたいとも思いましたが、東京家政学院大学に進むことになりました。管理栄養士をとるか、学芸員をとるかになったのですが、大石さんは、学芸員になるほうを選びました。
就職先はもちろん美術館を選びました。今とちがって、当時は自宅通勤じゃないと女の子は採用しないという時代。困り果てた大石さんに救いの手が差し伸べられます。うちから通ってもいいよ、と言ってくださる方が現れたのです。

 こうして、いちばん行きたかった出光美術館で働き始めることになった大石さん。いちばん幸せな時だったわ、と懐かしそうに回顧されました。
 しかし、当時は働き始めて3,4年経ったら、後輩に道を譲るのが一般的でした。大石さんも円満退職をし、その後は大阪で花博のアルゼンチンブースの責任者をしたりしました。

 実は大石さん、日本マテ茶協会の理事もしていて、その関係で花博にアルゼンチンが出店することになり責任者をすることになったのです。マテ茶協会では、関西支部を立ち上げようという動きがあり、大石さんを中心に伊丹に支部を作る予定で準備に取り掛かっていました。たまたま福島に帰っていた大石さん。伊丹に戻る日おばあさんのお墓参りに行った帰り道、突然雪になり、ノーマルタイヤで行ったので飛行機に間に合わず、伊丹に帰るのを翌日に延期したのです。…そして、その翌日、阪神淡路大震災があったのです。伊丹の部屋は、当然のことながらめちゃめちゃになっていました。支部を作るという話も頓挫し、大石さんはそのまま実家に残ることになったのです。

 こうして、福島に帰った大石さんは、以前から言われていた方とお見合いし、結婚。でも、彼の酒乱がひどく、大石さんは友だちに顔つきがすっかり変わったと言われるくらいになってしまったのです。友だちの尽力もあって離婚しましたが、実家に帰ってもしばらくは恐怖で声が出なかったり、身体がずっと震えていたりしました。

 このままじゃ駄目だと思って、少し元気になったときに、ちょっとずつ地域づくりに参加し始めました。
 人間にとって大切な食のことを考えるうちに、無農薬自然農法で育てたものを食べることが何よりの予防医学になると考え、医療、農業、環境が一体になった地域づくりをやっていこう、そう思ってやり始めた矢先でした。
 そう、あの東日本大震災が起きたのです。この世の終わりとでも言うような光景が自分の周りに広がりました。家は大規模半壊し、大石さんがやっていたお店も半分は海水をかぶってしまい全壊しました。

 もう手のうちようがないではないか。あきらめの心境にも何度もなりました。でも、その時に思い出したのです。
 大石さんが勤めていた出光には創業者のことばとして「人間尊重」「互譲互助」や「大家族主義」「和をもって尊しとなす」といった日本人の持つ良さについて深く触れたものがあります。
その時は、深く考えずにそれらの言葉を聴いていた大石さん。しかし、この未曾有の大震災が、その言葉を鮮明に思い出させたのです。

 宮城で開かれたNPOの代表と話し合う会議に出席したとき、私達福島県人はこれから先放射能と付き合っていかなければならないことを思い知りました、大石さんは飯館村に住んでいる友だちが言ったひと言が胸に深く突き刺さりました。
「私たちの人間としての尊厳はどうなるんですか?」
飯館村は戻ろうという人と、戻らない人に二分されている。村から出ろ出ろと言うけど、放射線量の低い所だってある。むろん、危ないかもしれない。でもわかっていても割り切れない部分がある。命にかえてでもそこを守りたい。それは子を思う母の思いと同じなのです。
 私たちは彼女たちが冷静に見られるまでよりそってあげるしかないんだ。まさしく、人間の尊厳にかかわることであり、互譲互助の精神が今こそ大切なのだと思うと、涙があふれてとまりませんでした。

 そしてそこが、大石さんのドリプラへの出発点でもあるのです。
食を通して予防医学をやっていこうと思っていた。でも、この震災でわかった。私が目指すべきは「みんなで分かち合える世の中を作ること」

 今日も福島で頑張っている人々がいる。その人たちと痛みも喜びも分かち合いたい。
そのために大石さんはドリプラで語ります。ゆい子さんの夢、福島の夢、東北の夢。
でも、それはもう、みんなの夢になりました。東北のこと、ゆい子さんのこと、私たち北陸の仲間も、もちろん日本全国の仲間もずっとずっと応援し続けます。