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今日の人58.堀 永乃さん [2012年09月27日(Thu)]
 今日の人は、一般社団法人グローバル人財サポート浜松代表理事の堀 永乃(ほりひさの)さんです。
写真 12-08-18 14 29 47.jpg
 グローバル人財サポート浜松は、グローバル化が進む地域社会に貢献する人材の育成と活動の支援を行うこと、及び浜松市における共生社会の構築に寄与することを目的としています。そして在住外国人の社会的自立と高度人財化のために日本語教育や資格取得のための学習・就労サポートや企業内研修を行い、地域の多文化共生づくりのために担う手である人材の育成に努めています。
 
 堀さんはとにかくパワフル。そのパワフルさとアニマル柄が好きな所から着いた呼び名はライオン姫。命名者は多文化共生マネージャーのボスと言えばおなじみのあの方…
 
 一見、どこで雑魚寝しようが平気そうに見える堀さんですが、実は潔癖症。幼稚園の椅子に座れない。お砂場遊びなんてとんでもない。毎日、机の上にホコリがたまっていないかチェックする、という保母さん泣かせの園児でした。
 そして、小さい頃は身体も弱く、小学1年の2学期から小学2年の1学期末まで溶連菌感染症で、ずっと入院生活を送っていました。まだ院内学級のない時代です。学校に戻った最初の日に、いきなり九九のテストを受けることになった堀さん。「3バツ3って、いったい何?」そう。ずっと入院していた少女には「×(かける)」の概念がありませんでした。答えの欄全てに「わかりません」と書いて提出した堀さん。それを見た担任の伊藤さとみ先生は強いショックを受けました。「ああ、配慮が足りなかった。」と気づいてくれたのです。こうして担任の先生と友達たちとの夏休みの猛特訓が始まりました。でも、この「わからない」経験が、いま堀さんが外国人支援をするルーツになったといえるでしょう。

 退院したとはいえ、体調はそんなによくなく休みがちでした。堀さんは幼い頃お菓子はお母さんの手作り、服は全部オーダーメイドが当たり前の生活でした。既成品って何?という感覚だったので、その態度が鼻についたのでしょう。よくいじめられました。特に5年生の1年間はひどかった。そんな娘にお母さんは言いました。「人間の心には白い心と黒い心があるの。今、あなたをいじめている子は、黒い心が勝っているけれど、その子にも白い心はあるの。だから、あなたはその子のことを絶対にうらんじゃいけないのよ。」いじめっ子のリーダーの女の子は、母子家庭でとても寂しい思いをしていたようです。その妬みから堀さんをいじめてしまっていたのです。その後、その彼女とは互いの家を行き来するほど仲良くなりました。彼女にもちゃんと白い心があったのです。

 中高一貫校の名門女子学園に入学後堀さんは、いまの堀さんの原点を作り上げる様々な経験をしました。持ち前の本領を見事に発揮し、いきいきとした学園生活を過ごすようになりました。旅行会社と組んで学生ツアー旅行を企画したり、学年縦割り大運動会を企画したり、その頃から企画力は抜群だったようです。
 
 但し、遊んでばかりいると怒られるので、勉強もしっかりやりました。特に高2、高3の時の乾初江先生が負けん気を引き出してくれました。学年トップになったとしても「たかが83点、えらそうに言うな!」そう言われたので、あと17点をどうやってあげられるだろう、そういう風に考えるようになりました。戦略的に考える癖がついたのは、この先生のおかげだったのかもしれません。

 こうして東京の女子大に進学した堀さんは、大学でメルティング・ポットやサラダボウルという考えに触れて衝撃を受けました。一番興味を持ちだしたのが、ジェンダーについて、そして違いについてでした。

 20歳には、ニュージーランドに短期留学します。しかし英語ができると思って留学したのに、全く話せないし、聞き取れず、テストで30点をとってしまい、泣きながら帰ってきました。すると、ホストファミリーのママは、「すばらしいじゃない、あと70点じゃない」とにっこり。そうか、こんな風に考えればいいのね!…本当のママといい、ホストファミリーのママといい、堀さんの周りには素敵な言葉をくれる素敵な人たちがたくさんいらっしゃるのです。異文化も体験し、交流の楽しさも学びました。

 大学時代アルバイトもいろいろ経験します。赤坂の料亭、塾の先生、本屋…。どれもあまり長続きはしませんでしたが、塾の先生のバイトでは教え方がうまく、特に出来の悪い子に人気がありました。

 一番長く続いたのは羽田空港のチェックインカウンターでのバイトでした。いろんな事件もありました。手荷物検査のX線に恐竜らしき物体が写り、開けてみたらイグアナが入っていたり、芸能人が来た時はダミーで走らされたり、しかし、ここで堀さんはチームワークの大切さを肌で学ぶことができたのでした。そしてこの時、自分も世界に羽ばたく仕事がしたい、と日本語教育の勉強を始めました。    

 大学卒業後はイギリスで半年間日本語を教えました。そこは、日本語だけではなく、いろいろな言語を教える語学学校だったのですが、そこで堀さんは英国人スタッフに向けて日本語を教えていました。ある日「これ、それ、あれ」を教えていると、あっという間に理解してしまい、3分で授業が終わってしまいました。その時に言われます。「もっと楽しく授業することを考えなよ。」ここで堀さんは、楽しく勉強することの大切さに気づきます。


 こうして日本に戻ってきた堀さん。企業勤務の傍ら企業内日本語教室や地域のボランティア教室で日本語を教えていました。その時、ブラジル人の交通事故がとても多いこと、また彼らは日本語がわからないため不利な状況に立たされることが多いことを知り、彼らが日本語を知らないと自分の権利を守れないことを実感します。そんなとき、浜松国際交流協会から日本語コーディネーター就任の依頼を受けます。これまで見てきた外国人の状況を私が変えたる!そう決意して、浜松国際交流協会に入りました。

 当時OPIも勉強していた堀さんは、どうやったら「使える日本語」を教えられるのだろうと考えました。ふと目にした2006年に浜松市の外国人就労生活実態調査の結果で、日本語を習いたいと思いつつも日本語を勉強していない人が8割近くもいたということがわかって愕然とします。それまでの日本語教室が、ニーズに合っていないことの裏返しだと思った堀さん。「場面で使える日本語会話」を目指して、スーパーに実際に行って買い物をするなどのサバイバルジャパニーズを実践しました。
 
 企業内日本語教室を立ち上げたいと企業に日参し、やっとの思いで開講した日本語教室でも、「堀さん、こんなことをやっていて何が得られるの?」と。そんな痛烈な言葉をくれた人は、その後の堀さんに大きな力を与えてくれることになったヤマハ発動機の石岡修部長(当時)でした。そして、その言葉で堀さんは発奮します。それからというもの消防士、警察官、企業の人、お店の人…いろんな人を巻き込んだ日本語教室を展開していくようになりました。すると、評判が評判を呼び、企業内日本語教室は外国人労働者のみならず日本人従業員との人間関係構築の場となっていきました。

 大事なのは、出口デザイン。何のための日本語教育かという視点を決して忘れてはならない。人間関係が作られる日本語教育をしていかなければならない。それは堀さんが常に抱いている想いです。

 その想いを形にしていくためには、自らが社会起業家になろうと決意し、グローバル人財サポート浜松を設立しました。そして、堀さんの取り組みは次々と成果を上げています。
 
 地域に暮らす外国人にこそ、ずっと日本で活躍していけるための資格を、という視点で日本語の勉強と同時に介護ヘルパー2級の資格が取れる仕組みを作ったり、大学生と一緒に地域作りに取り組んだり、次世代を育成することをとても大切にしています。
堀さんたちの取り組みについて、詳しくはHPをご覧ください。
http://www.globaljinzai.or.jp/company/

 今彼女が考えているのは、日本語教育の社会起業家を作って行かなければ、ということ。グローバル化の進む中、地域でも多文化共生社会の構築への努力が続けられていますが、その課題解決に日本語教育が大きく関わっているとの思いで、社会の取り組みとして地域課題の解決を目指す人材を育成しよう!というのが堀さんの思いです。そこでCRIATIVA(クリアチバ)という団体を立ち上げます。

 いよいよその地域日本語教育「起業家」育成講座が、9月29日から開講します。
講師陣も素敵な方ばかり。
お申込み、お問い合せはこちらへどうぞ
http://criativa.blog.fc2.com/blog-entry-18.html

 自分は常に声をあげ続けて、みんなが求める最高の社会にしていきたい!きっぱりと言い切るところが実に凛々しくまさにライオン姫!その生き方に惚れる女子がいっぱいいそうです。
でも、堀さんは、実はとてもデリケートな乙女の部分を持ちあわせています。たまにはライオンじゃなくて、姫に戻る時間も大切にしてくださいね。

 多文化共生社会の実現のために、声なき人の声を拾うために、これからも走り続ける
堀 永乃さん。浜松を、そして地域社会の日本語教育を引っ張る、素敵女子なのでした。
今日の人57.沼田 聡さん パート.2 [2012年09月24日(Mon)]
パート.1から続きます

 日本建築家協会の全国学生卒業設計コンクールで全国1位となる金賞を受賞したぬまっち。
受賞作品は山葵園と建築空間を融合させるというものでした。子どもの頃に行った安曇野の山葵園の記憶…わさび園の中にいた時の自分は、本当にリラックスして気持ちがよかった。そして、実はわざびはハーブの一種だということを知り、ハーブにものすごく興味を持つようになりました。ハーブには人を元気にさせる力がある!そうして、ハーブについても研究を始めたぬまっちでしたが、知れば知るほどハーブの魅力にとりつかれていきました。長く病気を患ったこともあって、胃腸があまり丈夫ではないぬまっちですが、ハーブティーを飲むことで、胃腸の調子がすごくよくなったし、ハーブによってストレスがたまらなくなりました。…あの時、親父がハーブのことを知っていたら、逝かずに済んだのかもしれない…そんなことを漠然と考えていました。

 ぬまっちは大学院を修了したあと、新潟でそのまま働き始めました。カフェや、美容院、医院、住宅の設計もしましたし、庭のデザイン画を描いたりもしていました。こうして10年間を新潟で過ごしたぬまっち。新潟にいたときは、よく富山にも遊びに来ていたそうです。渓流釣りに来たり、吉宗のカレーうどんを食べにわざわざ高岡まで来ていたというのですから、富山県民としては、嬉しいですね。(吉宗というのは、富山で有名なうどん屋です。ここのカレーうどんは絶品。ぜひ富山に来られた際はお召し上がりください)

 ハーブを取り入れた庭づくりを本格的にやっていきたい!そう考えたぬまっちは、10年を区切りに新潟を後にし、故郷茨城県神栖市に戻ってきました。2010年9月のことでした。
自宅の庭にもモデル・ガーデンを設計して、ハーブが育ってきていた矢先、あの東日本大地震の津波…。海水に浸かった庭。しかし、ぬまっちは塩を抜く作業も人工的なものではなく、塩生植物を利用しました。塩生植物は塩を吸ってくれる植物。こうして半年ほどで庭を蘇らせたのでした。

 それからは、震災で被害を受けた公園の設計の仕事も多く引き受けるようになりました。そして震災で心に傷を負った人々の姿を見るにつけ、ますます癒し効果のあるハーブを取り入れたハーブ・ガーデンを作っていきたいとの思いが強くなっていきました。
 でも、具体的にどうやっていけばいいのだろう…。そんな時に、大きな大きな出会いがありました。

 2011年7月、水戸で登山家栗城史多さんの講演があると聞き、何気なく講演会場にいったぬまっち。でもそれは栗城さん単独の講演会ではありませんでした。ドリームプラン・プレゼンテーションを始められた福島正伸さんの講演会とそして実際に3名のプレゼンも一緒に体験できるというイベントだったのです。
 ~夢に挑戦し続ける大人たちに、子どもは心を奪われる~
 雷で打たれたような感覚になったぬまっち。

「これだ!!」そう思いました。そして、その日のうちに茨城ドリプラの実行委員長に言いました。
「俺、プレゼンターをします!」

 こうして11月に行われたいばらきドリプラでプレゼンをしたぬまっち。
プレゼンを作っていく過程で、次第に自分のやりたいことが明確になっていきました。
自分は自然療法を集約した滞在型のハーブガーデンを作りたい。そこは親子でガーデニングをしながら、絆を確かめられたり、人生の終焉を穏やかに迎えられたりできる場所。

 そして、次はドリプラ世界大会で、更に自分の夢を広げていこうと決意します。
「訪れるだけで元気になれる奇跡のハーブガーデン」を絶対作る。
 お父さんのような、うつで苦しんでいる人が滞在できるハーブガーデンができれば、きっとそこで救われる人が出てくるにちがいない。そして、ハーブガーデンを全国の廃村に広げたい…。その土地に合ったハーブを使い、その土地に根ざしたハーブガーデンが増えれば、過疎地での雇用にもなる。地元で働きたい若者が働ける場所作りにもなる。

 ぬまっちの夢は広がります。そして今から、プレゼンを作りこんでいく過程で、さらにどんなドラマが待っているのか、私もワクワクしています。

 今は自宅でお母さんと2人暮らしのぬまっち。お母さんは息子が滞在型のハーブガーデンを作ったときのために、密かにハーブ料理をいろいろと勉強しています。そして、ぬまっちもとっても親孝行で、お母さんのために休日にはパスタを作ったり、得意なラテアートで喜ばせてあげています。

 ぬまっちの設計した素敵なハーブガーデン、その中でぬまっちのお母さんのおいしいハーブ料理をいただき、ぬまっちが描いてくれたラテアートを楽しむ…その日が来るのを今からとっても楽しみにしています。そして、富山の限界集落にも、ぬまっちの設計したハーブガーデンができ、そこが外国人や障害者が地元の人と一緒に働ける場になればどんなに素敵かなぁと、ぬまっちの夢に自分の夢をかけ合わせて、更にワクワクしている私なのでした。

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ぬまっちの設計したハーブガーデン

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室内で楽しむこともできます
今日の人57.沼田 聡さん パート.1 [2012年09月23日(Sun)]
 今日の人は、ドリームプラン・プレゼンテーション2012世界大会プレゼンターの沼田 聡さんです。
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ハーブを取り入れた庭を設計したり、震災で被害に遭った公園を新しく設計したりするのが沼田さんのお仕事です。みんなにぬまっちと呼ばれている沼田さん。私も親しみを込めて、ぬまっちと呼ぶことにします。
 
 ぬまっちが生まれたのは茨城県神栖市。元気だった少年の生活が一変したのは9歳の時でした。盲腸炎を我慢しすぎて破裂。それがお腹の中で飛び散って化膿してしまい、腸閉塞や腹膜炎を起こし、しょっちゅう入院する生活になりました。その後6年間、年間1~2回は2~3ヶ月の入院をする生活。しかも、入院している間は点滴で栄養補給をし、鼻からはお腹の膿を抜く管を入れている状態でした。

 そんなぬまっちでしたが、元気な時は外にいるのが大好き。特に自然の中にいる時間が何よりも好きでした。釣りも大好きで、お父さんによく渓流釣りに連れて行ってもらいました。ぬまっちには2歳年上のお兄さん、4歳年下の妹さんがいるのですが、渓流釣りはお父さんと2人で行く事が多かった。そうやって自然の中でお父さんと過ごした時の記憶は、ぬまっちの中でとても大切なものになりました。
 
自然の中で過ごすこと以外に好きだったのが、絵を描くことです。ガンダムやドラゴンボールのキャラクターを描くのも得意で、友だちがとても喜んでくれたので何枚も描いてはそれをあげたりしていました。そして、アニメのキャラクターに限らず、絵を描いている時間はそれに没頭して、あっという間に過ぎていくのでした。

ぬまっちのお父さんは、釣りに連れて行ってくれたり、家族でキャンプをしたり、とても優しい人でしたが、厳しい人でもありました。ぬまっちに一流の高校、一流の大学に入ってもらいたい、我が子を思えばこその行動だったと今はわかりますが、反抗期のぬまっちにはそれがとてもうざったく感じました。結局、父の薦める高校には行かず、自分が行きたいと思った自由な校風の高校に進学しました。自分の意志を貫いた息子を実はすごく応援してくれていたことを、ぬまっちは後にお父さんの友だちから聞くことになりますが、その時はまだそれを知りませんでした。

こうして片道2時間かかる高校に通い始めたぬまっち。お兄さんの影響もあって入院中にB’zが大好きになり、高校ではギターをやり、友だちとバンドを組んだりもしていました。授業をサボって友だちとマックや海でずっとしゃべっていたのもとても楽しかった。
でも、高校に入っても自然の中で過ごすことと、絵を描くことは相変わらず大好きでした。そして、自分は自然の中で、自然を使った仕事をしたい、と漠然と考えるようになりました。

3年生になり、進路を考える時に、「自然の中でデザインを学ぶ」と書かれた大学のパンフレットを見て、目が釘付けになりました。この大学に行きたい!ではなく、「俺はここに行く!」と決めてしまったのです。他にもいくつかの大学に合格していたのですが、それらには目もくれず、ぬまっちは新潟にある長岡造形大学へと進学しました。

あんなに一目惚れして入った大学なのに、最初の2年間は成績が伸びず悶々と過ごします。自分の感覚をどうやったら形にできるのか?思い悩む日々でした。
3年生になった時、ぬまっちは思いました。「自分はデザインで何かしたい。でもこのままではいけない。2年生の時に、一番最低の評価をされた先生に話しを聞いてこよう!」  
そしてこの決意が、ぬまっちを新たなステージへと導いてくれることになったのです。

ぬまっちは先生といろいろなことを話しました。そして子どもの頃、自然の中で過ごしていた思い出をいきいきと語るぬまっちに先生は言いました。「子どもの頃のことをデザインしてみたら?」はっとしました。デザインの雑誌を買って、それを参考にしながら描いていた時は義務感のような感じで描いていました。でも、自然の中で過ごした思い出を辿りながらのデザインは筆が止まりませんでした。描きたくて描きたくてたまらず、夢中で筆をとり続けました。自然の中に出かけていくとデザインのアイディアが次から次へと湧いてきます。こうしてみるみるぬまっちの成績は上がっていきました。

しかし、そんな時、衝撃の出来事がありました。父の死…。お父さんはうつ病を患って、自ら命を絶ってしまったのです。あの父が、なぜ?…ぬまっちは大きなショックを受け、大学をやめようかと考えました。何も気づかなかった自分がはがゆかった…。
けれど、先生と友だちが必死で引き止めてくれました。今、ここでデザインをやめてどうする?こんな時だからこそ、せいいっぱいやってほしい…

‥ぬまっちは踏みとどまりました。そうして、ますますデザインに没頭していきました。特にデザインと自然を組み合わせた絵をひたすら描き続けました。お父さんと自然の中で過ごした原体験…もしかしたら、自然を描くことで、無意識にお父さんとの絆を確かめていたのかもしれません。

 そしてぬまっちは、学部では飽きたらず、更に大学院へ行って学び続けました。いろんな展覧会で受賞、さらに日本建築家協会の全国学生卒業設計コンクールでは、なんと全国1位になりました。
http://www.jia.or.jp/event/aword/gakusei/2005/main.htm


パート.2に続きます。


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ぬまっちの描いたイラストの一枚

今日の人56.高木和彦さん [2012年09月12日(Wed)]
 今日の人は、NPO多文化共生マネージャー全国協議会副代表の高木和彦さんです。
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高木さんは多文化共生マネージャーの間では、セニョールと呼ばれています。ぱっと見クールでとっても冷静沈着な高木さんですが、その秘めた情熱は素晴らしく熱い素敵なセニョールです。
 
 高木さんが生まれたのは、岐阜県の関ヶ原町。関ヶ原の戦いであまりにも有名ですが、東軍と西軍がぶつかったように西の文化と東の文化がぶつかる町でもあります。有名なのはお雑煮。関ヶ原町を堺に丸餅と角餅にわかれます。で、関ヶ原町はどちらか、これが東の角餅。でも味付けは西日本風のすまし。多文化共生の素地は生まれた町に既にあったのかもしれませんね。
 
 高木さんは子どもの頃は空気が全く読めない、いわゆるKYな子どもでした。小学校にお母さんが呼び出されることもしばしば。しかし、本人は何を怒られたのか、全く記憶にないのだとか。大物になる気配たっぷりの小学生時代だったようです。
 中学校でようやく空気が読めるようになって勝手な行動はしなくなったという高木さん。中学高校時代はテニス部に所属します。どちらかと言えばポッチャリ体型だった高木さんは、高校2年の時にダイエットを敢行します。炭水化物抜きダイエットで、一気に22kgの減量に成功。しかも、それ以来一度もリバウンドしていないというから、驚きです。今はとってもスリムで、太っていたという面影は全くないセニョールです。
 
 文系だけど、物理と数学が大好きだったという高木さん。大学は経済学部に進学。そして卒業後は滋賀県庁に就職し、以来ずっと滋賀に住んでいます。
 県庁職員は2~3年でちがう部署に異動することが多いのですが、高木さんはなんと12年も国際課にいらっしゃいます。滋賀の多文化共生といえば即、高木さん!という声が挙がるくらい、ご活躍でいらっしゃるのです。
 
 姉妹都市であるブラジルのリオグランデ・ド・スル州に2001年9月~2003年1月までの1年半派遣された経験が高木さんがセニョールと呼ばれる所以にもなっています。そして、移民国家ブラジルで人種差別されないことを肌で感じた高木さんは、帰国後、日本で在住外国人支援に本腰を入れていかなければ、との思いを強くしました。
 
 そんな時に受けた多文化共生マネージャー研修。そこで田村太郎さんの話を聞いたことで、高木さんの考え方は大きく変わりました。多文化共生は外国人のためではなかった、他ならぬ自分たちの地域のための多文化共生だったのだ。その道を取らなければ、地域社会は生き残っていけないのだ。この視点を得たことは本当に大きかった。それは私たち多文化共生マネージャーが共通して持つ強い思いだとも言えるでしょう。 

 滋賀医科大学と一緒に、ブラジル人家庭300軒の調査で、彼らの生の声を聞いたことも、高木さんに新たな視点をもたらしてくれました。
 それは、「在住外国人」なんていう人はいない、ということです。在住外国人なんて一括りにできるわけがないではないか。彼ら一人ひとりが、この地域で今日も生活している人なのだ!調査を通してそれを実感し、彼らが滋賀に住んでくれているなら、いかによりよい滋賀にしていくか、そういうことに心を砕ける行政マンでありたいと思っています。
 そして、市役所や国際交流協会がうまく動けるように、中間支援組織的な役割を担っていける県でありたい、そのためにも、部下育てはとても大事だとおっしゃる高木さん。
「ただ、自分としては多文化共生だけでなく『ダイバーシティ』に取り組んでいきたいのだけどね」とおっしゃいます。それは、私たちとしてはなんとも嬉しいお言葉!

 そんな高木さんの趣味はなんとバス釣りです。なにしろ琵琶湖は目と鼻の先ですから、平日は朝4時に起きて、釣竿を持って家から自転車で5分の琵琶湖へ行って釣り糸を垂らし、仕事が早く終われば再び釣り糸を垂らす、というほどお好きなんだとか。
 さらに、今の仕事をしていなかったら、エンジニアになりたかったとおっしゃるように、大変機械にも強く、富山に来られた時に私のAQUA(Hybrid Car)に乗られたときも、エンジンのことをとっても詳しく説明してくれるのです。私にはさっぱりな世界なのですが、そういう話をされている時ときたら、まるで少年のようにワクワク感いっぱいで話されるので、こちらも伝染して嬉しくなっちゃう位なのでした。

 いつかまたブラジルに住んでみたいなぁと思っている高木さん。ブラジルの懐の深さに魅了されてやまないのです。ただ、高木さんが再びブラジルに渡るまでには、もう少し時間がかかりそうです。なぜなら、まだまだ日本でたくさんの出番が待っていますもの。
 NPOタブマネの副代表としても全国で研修等があり、なかなか休む暇がないセニョールなのでした。

 どうぞこれからも、その少年のようなワクワク感で、滋賀県のそして全国の多文化共生を更に加速させていってくださいね。そしてダイバーシティな地域社会を共に作っていく仲間として、これからもよろしくお願いします。
今日の人55.諏訪淳美さん [2012年09月06日(Thu)]
 今日の人は、財団法人CLAIR(クレア)自治体国際化協会多文化共生部多文化共生課の
諏訪淳美さんです。
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諏訪さんは、多文化共生マネージャーの同期、とっても笑顔の可愛い癒し系の女性です。

 諏訪さんは東京生まれの東京育ち。幼稚園の頃は、種から野菜を育てるのが大好きな菜園少女でした。いろんな野菜や果物を育てて楽しんでいたそうです。(そういえばうちの子たちも、ばばばあちゃんの「すいかのたね」っていう絵本を読んで、すいかの種を庭に植えていました。ホントに芽が出てつるが伸びて親の私もワクワクしたのを覚えています。)
 小学生からガールスカウトに所属していたので、アウトドアが大好きになり、お父さまの影響を受けてオートバイの免許も取ってしまうほど、以前はアウトドア派でした。
 
 中学校では陸上部で活躍。短距離が得意で、リレーやハードルの選手でした。高校では水泳部に所属し、平泳ぎでエースでした。
 そんな風にスポーツが得意だったので、体育の先生になるのもいいなぁと思っていましたが、中学の友だちが「フライトアテンダントになりたい!」と言っていたのを聞いて、それもいいなと思います。「流されやすかったんです~」と諏訪さん。でも、フライトアテンダントみたいな花形職業、流されてすぐなれるものではありませんもの。ちゃんと努力した賜物だと思います。

 短大を卒業したあと、フライトアテンダントの世界へ。4年間勤めて、国際線へという話もありましたが、もっと視野を広げたいと思いを抑えきれず、仕事を辞めてアメリカに渡ります。インターンシップで現地の小学生たちに日本語や日本文化を教えるというプログラムに参加しました。そこで出会った先生に日本人補習校に行ってみてはと進められ、最初は手伝いのつもりで通っていましたが、やがて小学3年生の担任を任されます。

 アメリカで生活したのはメキシコ近くの都市。バイリンガルになれない(つまり英語を話せない)子どもたちが学校での勉強についていけない現状、補習校では日本人の子どもたちが自分の居場所を見つけられず悩んでいる姿を見て、「何とかしたい」と思うようになりました。このことが、諏訪さんが多文化共生の世界に関わるきっかけになったのかもしれません。

 帰国後は、教育についてきちんと学びたいと思い、大学に入り直し、教職を取りました。そして、昼は仕事、夜は学校という生活を4年間送りました。
 大学には現役の学生から会社社長まで色々な方がいてまさに多文化。たくさんの刺激を受けました。

 大学3年生の時にかながわ国際交流財団で職員募集があり、職員に採用されます。そして、かながわ国際交流財団での仕事が8年目になった昨年、今働いているクレア自治体国際化協会に出向することになりました。多文化共生課に配属された今年は、多文化共生の分野で様々な事業に取り組んでいますが、答えがないのが悩みです。
 そこで多文化共生マネージャーの研修を受けることにした諏訪さん。全国で多文化共生に取り組む仲間と出会い、ここでも刺激を受けました。どこかで言い訳している自分を感じて、もっと殻をやぶって突き進まなきゃ!と思っています。 
「新たな自分に出会いたい!」とってもキラキラした目でそう話してくれました。
  
 もし時間があったら、長い旅行に行きたい!と諏訪さん。昔、グアテマラやコスタリカを一ヶ月かけてまわったことがあるので、またバックパッカーをやってみたいな、と思っています。
諏訪さんは、見た目は守ってあげたくなるタイプなのですが、実はとっても行動的でしっかりしているのです。

 音楽も好きで、小さい頃に習っていたピアノをもう一度習いたいと思っています。いろんなことに好奇心旺盛な諏訪さん。その好奇心で、どんどん新たなことにチャレンジして、ますますキラキラした女性になってくださいね。

 そして読者のみなさん、クレアのホームページで、多文化共生の取り組みについても、ぜひご覧ください。

クレア多文化共生⇒http://www.clair.or.jp/j/multiculture/index.html
多文化共生ポータルサイト⇒http://www.clair.or.jp/tabunka/portal/