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今日の人54.マット・ダグラス(Matt Douglas)さん [2012年08月29日(Wed)]
 今日の人は、CLAIR(クレア)財団法人自治体国際化協会の多文化共生部多文化共生課兼協力支援部経済交流課のマット・ダグラスさんです。
写真 12-07-11 15 14 15.jpg
 
マットさんはオーストラリア、ニューサウスウェールズ州スワンシーの出身。7人兄弟の末っ子で家族からはベイビーと呼ばれて育ちました。そんなベイビーは、小さい頃からとにかく外で遊ぶのが大好きでした。食事までに戻らなくて、呼ばれても聞こえないふりをして遊び続けていました。家族でキャンプに行くのも大好きで、山登りをしたり、川で砂金を集めたりして遊びました。オーストラリアにはゴールドラッシュの名残で、まだ金が混じっている川もあるそうです。

こんな風にアウトドアが大好きなベイビーでしたが、小学校に入ると勉強も大好きになります。
 そして、小学校の3年生の時に衝撃的な出会いがありました。担任の先生が病気で数日学校を休んだ時、代わりに来てくれた先生が日本語ができる人でした。その先生は授業の時に、ひらがなを教えてくれたのです。初めて目にしたアルファベット以外の文字に衝撃を受けたマット少年!「こんな文字があるんだ!勉強したい!!」
そう強く思ってしまった小学校3年生の男の子は親に頼んで、日本語の家庭教師をつけてもらいました。こうして、マットさんと日本語の長い付き合いが始まったのです。

初めて日本に来たのは15歳の時。日本語のスピーチ大会で優勝し、2週間の日本への旅がプレゼントされたのでした。スピーチ大会の審査基準は「ラム肉は柔らかくておいしいです」をなめらかに言える人、だったらしい。(真偽の程は定かではありませんが…。でも確かに、やわらかいの発音はなかなか難しいですね。)
こうして高校2年の時に2回来日したマットさんは、超名門校オーストラリア国立大学に入学した後ももちろん日本語を専攻。しかし、ここで日本語だけではなく、生物学も専攻してしまうところが、さすがです!
オーストラリア国立大学には、なんと歌舞伎部があります!そこでマットさんは、女形を演じていました。三島由紀夫の歌舞伎「鰯売恋曳網」では蛍火を演じるなど、我々よりはるかに歌舞伎への造詣が深いマットさん。今、お勤めのクレアは国立劇場が近いので、時々見に行っていますよ、とニッコリ笑顔になられました。

大学の時に交換留学生として、東北大学にも1年間在籍しました。そして、卒業後は日系企業で一年働いた後、JETプログラムで来日し、高知県で4年間勤務しました。今でも日本の中で一番帰属感のある場所は高知です。四国山脈で隔てられた高知は、日本国内ではなく太平洋に目が向いている特異な土地柄です。「自由は土佐の山間より」という言葉があるように自由民権運動はまさに土佐から。オープンで誰でも受け入れてくれる県民性、ひろめ広場へ行くと、すぐに友だちができる、そんな高知が大好きなマットさん。
JETのみんなで土佐弁による外国人ミュージカルを行ったり、「ちょびっとJAPAN映像祭」と称して、テーマを変えて3分以内で高知を伝える映像を作ったりと、本当に楽しい時間でした。

 高知で町役場、そして県庁での仕事に携わり、その後 国の機関であるクレアで働きはじめて、8月でちょうど3年になります。町、県、国、それぞれの仕事を経験できたことは、それぞれの立場を知る上でもとてもいい勉強になりました。
クレアでは東日本大震災での多言語支援センターの仕事をしたり、国際交流協会の職員対象の研修会の企画立案をしたり、外国人の心のケアの研修を行うなど、自分に得るものが大きかった。
また海外の地方自治体等の職員を日本の地方自治体に受け入れる際、財政面や受入実務面での支援を行う「自治体職員協力交流事業」(Local Government Officials Training Program in Japan)も担当しました。世界8カ国から自治体職員を招集してJIAM(全国市町村国際文化研修所)で5~6月にかけて泊まりこみの研修もあるのですが、その期間は彼らとずっと泊まりこみだったマットさん。2ヶ月近く一緒にいて、すっかり仲良くなったので、彼らが帰国したら、韓国、中国、ベトナム、インドネシア等、世界各国を回りたいなぁと思っています。

そんなマットさんの夢のひとつは、日本の100名山を制覇すること!
今77山まで登ったので、あと23山を制覇したい!ととっても楽しそうに話すマットさん。ベイビーのアウトドア好きは大人になっても変わらないようです。
もう一つの夢は、大学の先生になること。日本かアメリカの大学で日本語と日本文化を教えたいと思っています。日本語教育の世界でマットさんが大活躍してくれたら、一介の日本語教師としてこんなにうれしいことはありません。

防災にしろ、何にしろ、日本人が外国人を支援するという一方的な構造は絶対によくない、社会の構成員として、相互支援しあえる関係、そして、草の根レベルで支え合える関係がいい。でも、そうしていくためには、やはり国のリーダーシップがないと難しいと言うマットさん。
でも、日本は差別が浅い国だと思うので、ダイバーシティ的な考えがみんなに伝われば、結構はやく変わるんじゃないかなと、とっても素敵な笑顔で言ってくれました。
その言葉、私たちには大きな力になります。
これからも、その深い洞察力とみんなを惹きつける笑顔で、末永くぜひ日本でご活躍くださいね!
今日の人53.東 真盛さん [2012年08月22日(Wed)]
 今日の人は社会福祉法人めひの野園障害者支援施設うさか寮施設長の東 真盛さんです。
写真 12-08-17 14 59 53.jpg
東さんには4月2日に行った世界自閉症啓発デー五箇山菅沼合掌造り集落ブルーライトアップの時にワークショップもしていただきました。
 
 東さんが生まれたのはその五箇山。小学校の同級生は7人しかいませんでしたが、自然豊かな環境で、釣りをしたり、秘密基地作りをしたり、雪の日には“しみしみばんばん”(朝、雪が凍って固くなった状態)の上を歩いたり、とても元気な子ども時代を過ごしました。
 中学に入ると、今度は一学年18人。部活を選ぼうにも男子はバレー部しかありませんでした。しかも熱血先生だったので、けっこうしごかれました。高校は軟式野球部で、割りとほのぼのとした部活だったなぁと東さん。
 
 小さい頃から機械をいじるのが好きだったので、パソコンも初期の頃から触っていました。では理系かと思いきや、さにあらず。文系に進んで大学では心理学を専攻します。ものが溢れている時代だから、これからは心理学だ!と思ったのでした。ゼミでは行動療法について学び、サークルはボランティアサークルに入り、子どもたちとふれあっていました。指人形が大好きな子どもと指人形を介して人間関係を作っていき、最終的には指人形がなくても話せるようになるなど、とても感動した体験も多かったのですが、言葉のない話さない子に無理に言葉を教えようとして失敗したこともありました。

 就職は大学時代の経験を活かして自閉症の施設も考えたのですが、富山には福祉施設が身近になく、民間企業に入社しました。時はバブル。営業経験を経た後、新人類と呼ばれた学生たちの採用にあたる人事の仕事を担当しました。
 しかし、人事の仕事の時に、バセドウ病を患い、手術で声が出なくなってしまいます。リクルーターとして、声が出ないのは致命的でした。自分の思いが伝わらないつらさ。訓練してなんとか声は出せるようになりましたが、長時間しゃべると、酸欠状態になります。
仕事にやりがいもあったのですが、とても続けられる状態ではありませんでした。

 そんな時、富山にも自閉症の施設があると知ったのです。
しかし、施設の自閉症の人たちを見てショックを受けました。不適応行動が非常に多いのです。子どもたちと接していた時とのギャップの大きさにとまどい、彼らの行動にいかに対処していくかに心を砕きました。そうしていくうちに自閉症の人たちに“はまり”ました。彼らは本当に純粋で、心にとても正直です。嘘はつけないのです。自閉症の人たちのことは接しないと絶対にわかりません。一見理解できないと思う行動の裏には必ず原因があります。自閉症の人に、人を欺こうとして行動している人は誰一人いない、東さんには強い確信があります。それだけ彼らはピュアな心の人たちなのです。そんな彼らに自分の思いが伝わった時の喜びは、なにものにも代えがたい。
そしてまた彼らは大きな痛みも抱えています。彼らの痛みを痛切に感じる経験が、東さんを突き動かすエネルギーになっているのです。その人を見て、いかに発想していくか、それは必ずしも福祉の世界に特化しているわけではありません。そして、発達障がいの人が住みやすい社会は、すなわち誰にとっても住みやすい社会と言えます。そういう社会にしていきたい!東さんはそう考えています。

 でも、それは決して奇想天外な取り組みとしてではなく、身の丈にあった自分の仕事のテリトリーでできる範囲の取り組みをしてきたし、これからもそうしていきたい。よりリアルなプランで、よりリアルな成果を上げていきたい。
 その一歩一歩の積み重ねが、きっと発達障がいの人にとって住みやすい社会の実現につながると言えるでしょう。そして、それはまさに、ダイバーシティの考える社会の在り方なのです。よりスタンダードの広がった社会、障がい者も、外国人も、高齢者も、それぞれに強みを活かせる社会を私たちも目指しています。

 でも、そのためには、当事者だけでなく、周りの人々の意識改革が何より大切です。社会的な少数者がいくら力を発揮しようとしても、地域の側がダイバーシティの視点を持っていないと、また排除されてしまう。お互いに影響を及ぼしながら、調和のとれている地域社会を目指していかなければ!そして東さんは、富山で先頭を切って、その改革をされている頼れる先輩なのです。

 年をとったら、故郷五箇山で障がい者相手の観光業をやりたいなぁとおっしゃる東さん。
庭でいちごを栽培して、みんなでいちご狩り。いちごだけのメニューの喫茶店で、そこでは普段気の休まる暇のない障がい者の親も、とってもリフレッシュできる。みんなが気軽に集まれて、そしてお互いをフォローしあえる場、そんなストロベリーハウスを開きたいなぁ…。
 自閉症の人たちには、子どもの騒ぎ声や大きな音がとても苦手な人が多い。一般の観光地ではそういう人達が心からくつろぐことはできません。彼らが心からくつろいで楽しめるサービスを提供する施設が作れたら…。そのサービスは決して彼らだけのためのものではなく、健常者にとってもスペシャルなサービスになるにちがいない。そういうことをいろいろ考える時間がとても楽しい時間だと、素敵な笑顔でおっしゃいました。

 東さんはこれからも地域を変えるアプローチで、自閉症の人たち、発達障がいの人々が、もっと住みよい富山になるように動いていかれることでしょう。長期的な視野を持ちながら、スモールステップで積み上げていくことの重要性を教えてくださる東さん。
私も東さんの歩みに歩を重ねられるようがんばっていこうと思った、あったかいインタビューでした
今日の人52.土井佳彦さん パート.2 [2012年08月16日(Thu)]
パート.1から続きます。 

 2006年3月。土井さんはその後の人生になくてはならなくなるある人に出会います。所属するボランティア団体の研修会に来られていた講師、それが田村太郎さんでした。今まで日本語教育の道で来たけど、田村さんとの出会いから「多文化共生」というものを知り、「自分がやりたかったのはこれかもしれない」と思いはじめました。

 2007年の12月には東海地域で今後の多文化共生を考える懇談会が開かれました。翌2月から正式に中間支援組織を起ち上げる準備委員会に携わるようになりました。週に二回くらい集まって、時には合宿のように話し合う日々はとても楽しかったそうです。

 しかし2008年4月から、名古屋大学留学生センターのスタッフとして、地域日本語学習支援を始めます。準備委員会には勉強がてら参加していましたが、ひょんなことから代表を任されることになってしまいました。いえ、でもまだ本当には覚悟していなかったのかもしれません。この時はまだ、本業は日本語教育だったからです。

 2008年10月、仲間とともに多文化共生リソースセンター東海を起ち上げた土井さん。まずは、多文化共生に関する全6回の連続セミナーを開催しました。翌年、多文化共生リソースセンター東海をNPO法人にします。それまで、広域で取り組んでいるところがなかったことから、委託事業も増えました。最初は名古屋大学留学生センターの仕事もフルタイムでやっていた土井さんでしたが、3年目には週4日に、4年目には週3日にし、そして今年からは、大学職員を辞めてリソースセンターメインでいくと、覚悟を決めました。

 そう覚悟したのは去年の経験が大きかった・・・。
 
 去年の3月13日。そう、あの東日本大震災から2日後。土井さん達はJIAM全国市町村国際文化研修所にいました。田村太郎さんの呼びかけで、NPO法人多文化共生マネージャー全国協議会(NPOタブマネ)の有志のメンバーが集まったのでした。地震発生直後、NPOタブマネは、外国人被災者らの支援に取り組むべく、JIAMの協力を得て、同研修所内に「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」を設置しました。

「今この時に被災外国人の支援をやらずして、今後も多文化共生に取り組めるか?難しいことだけど、日頃から取り組んでいる俺達だからこそできるんだ。」
田村さんの強烈な言葉でした。

 その後、田村さんが東京で支援活動に当たることになり、多言語支援センターのセンター長になった土井さん。ただただ必死でした。51日間、JIAMに泊まり込んで多言語支援センターを動かし続けました。土井さん達の奮闘記録は、「東北地方太平洋沖地震多言語支援センター」活動報告書(←リンク https://blog.canpan.info/tabumane/archive/59 )をぜひお読みください。

 この51日間は、確実に土井さんの中で人生のターニングポイントになりました。
いつも、「田村さんだったら、どうするんだろう」そう考えていました。多文化共生に携わっている人にとっては、それだけ「田村太郎」という人は大きい存在なのです。
「田村さん、すみません。田村さんだったら、もっとできることがあったろうに…」

 でも、土井さんはせいいっぱいやったのです。他の多文化共生マネージャー達と一緒にそれこそ死力を尽くした51日間だったといっても過言ではないでしょう。そして、田村さんが復興庁の上席政策調査官の仕事で忙しくなった今、多文化共生を引っ張っていくのは、土井さんたち、若い人達に世代交代もしていかなくてはいけない。それは、確かにとても重荷には違いありません。でも、土井さんは言います。
「追いつこうとしても、どんどん先に進んで離れていってしまう人がいてくれるのはとてもありがたい」のだと・・・。

 土井さんは思います。第一世代は田村さんのようなカリスマであっていい、いやカリスマじゃないとここまで多文化共生は広まらなかったと思う。けれど、自分たち第二世代は「あの人がいるからあの団体がある」というのじゃダメ。そういうカリスマ的な人がいなくても、みんなで多文化共生に取り組み、広めていけるようにしたいと思っています。

 今まで多文化共生に関するたくさんの事例を見てきて、「事例はもういい。大事だけど、それを取り上げて紹介するだけじゃダメだ」と思っている土井さん。これからは特定の地域での事例を、地域を超えて共通の制度や当たり前のものに変えていきたい。多言語支援センターに携わって、災害時に多言語で情報入手や相談ができる状態をすべての地域にとって当たり前のことにしていきたいと思った。地域の日本語教育にしても、災害時対応にしてもそう。とにかく、それらがスタンダードになる仕組み作りをしていきたい、と土井さん。
その情熱があれば、きっと大丈夫。あなたならできる!と信じています。そのための仲間は、私も含め(これはあんまり頼りにならんけど)たくさんたくさんいますもの!

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日本語教育国際研究大会名古屋2012の土曜つながる広場で開催される「多文化映画祭」のプログラムです。
18日はみなさんぜひ名古屋へ!
もちろん私も行きます(^^)
今日の人52.土井佳彦さん パート.1 [2012年08月14日(Tue)]
 今日の人は、NPO法人「多文化共生リソースセンター東海」代表理事の土井佳彦さんです。
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多文化リソースセンター東海は、多文化共生社会づくりに役立つリソースの収集・整理・発信を通じて、東海地域の社会発展に貢献することを目的に2008年に設立されました。多文化共生理解促進事業をはじめ、外国人住民の社会参画促進事業、多文化共生関連の研修企画・運営及び講師派遣事業など、多文化共生社会に向けた活動に幅広く取り組んでいらっしゃいます。

 土井さんは広島生まれ、18歳まで広島で過ごしました。広島といえば、広島東洋カープ。でも、土井さんはカープのファンクラブに入りながらも、実は巨人ファンで、巨人戦の時だけ、球場に足を運んでいたのでした。特に好きだった選手は緒方耕一選手と川相昌弘選手。緒方選手、かっこよかったですよね〜。

ご自身も小学校の時はソフトボール、中学では野球をやっていました。高校では新しいスポーツにチャレンジしようとバスケットボール部に入ります。
バスケット自体はとても楽しかったのですが、顧問の先生とそりが合わず高2の春に辞めてしまい、人生初めての「帰宅部」生活が始まります。

 その頃、土井さんのクラスに広島大学の学生が実習生として国語を教えにきていました。彼の授業はいつも半分は脱線して、自分がバックパッカーで周った世界一人旅の話でした。でも、土井さんはその話が大好きでした。アラスカ空港のうどん屋さんの話、タイで船頭にナイフを突きつけられて大河を泳いで逃げた話・・・。いつか自分もそんな旅がしてみたいと思いました。そして、その先生が貸してくれた沢木耕太郎の「深夜特急」新潮文庫版の全6巻。面白くてワクワクしながら読みました。「世界遺産」という番組も大好きで、日本では常識だと思っていることが、世界では常識ではない、そのことにすごく心惹かれるものを感じました。

 そしてついに、土井少年は一人旅を決意します。今いる場所から一番離れたところに行こう!夏休みに入ってまもなく、時刻表も読めなかった土井少年は、青春18きっぷを握りしめて、なんのあてもないまま西行きの電車に乗ったのでした。そして、なんとか鹿児島まで辿り着き、そこからフェリーに乗って25時間、沖縄本島につきました。思っていたより「都会」だった沖縄に違和感を覚えた土井少年は、フェリーを乗り継ぐこと13時間、石垣島に辿りついたのでした。そこで拠点となる民宿を確保し、あちこちと島巡りをはじめました。
 石垣島、西表島、由布島、竹富島を回り、たくさんの地元民や旅行客、バックパッカーのお兄さん・お姉さんたちと語り合った10日間は、それからの土井さんの生き方に大きな影響を与えたそうです。旅行から帰った土井さんは、初めて大学進学のことについても考え始めました。「これから僕がやっていくことはなんだろう。僕は知らない世界をもっと知りたい。僕は外国に行こう。外国に行くにはどうしたらいいか…」

 その頃、ちょうど、「ドク」というドラマをやっていました。私はその時もう日本語教師でしたので、よく覚えているのですが、香取慎吾が日本語学校で学ぶ外国人学生役、安田成美が日本語教師役のドラマでした。土井さんはドクを見て日本語教師という職業を知り、「日本語教師になったら世界各国を転々としながら生活できるんじゃないか」と思って夢の実現に向けて歩き始めます。こうして、大学で日本語教育を学ぶことに決めたのでした。

 大学生になり、いろいろなアルバイトも経験しましたが、就職活動はしなかった土井さん。しかし、まるでそんな土井さんを待っていたかのように、ひょこんと留学生別科に講師の空きができます。「まぁ、とりあえず申し込んでみるか」と軽いノリで申しこんで、その後土井さんはオーストラリアへ語学留学に行っている友人のもとへ遊びに行きます。そこで大学の日本語教育の授業を見せてもらいました。そして、小学校2年生の子どもたちの日本語の授業を見て、とても感動します。「ああ、子どもたちがいきいきと勉強している時って、こんなにいい表情をしているんだ!やっぱり日本語教育って素敵だ!」そう感じて日本に戻ってきたのは、実に大学の卒業式の2日前のことでした。そして、その時、ちょうど家のポストに大学からの採用通知が届いていたのでした。

 こうして留学生別科で読解と聴解の授業を受け持つことになったものの、教授法が全く身についておらず、ろくに教えられないことに気付きます。これではいけないと、先輩教師に紹介してもらった地域の日本語ボランティア教室に通うことになりました。ボランティア教室とは言っても、ここで教えている人はほとんどがプロの先生で、教授スタイルも日本語学校と同じような形式だったので、ここなら「ちゃんとした教え方」が身につくと思ったのです。
 
 ある時、ALTの学習者に授業をしていると、「これは何と言いますか?」と「黒板消し」のことを指します。ALTだから教室で子どもたちに授業をする時に、毎日使っているだろうに、「黒板消し」を知らないなんて!・・・でも、確かにそんな単語は、日本語の教科書には出てきません。ああ、そうだな。必要な語彙は人によって違うんだ。一見当たり前だけど、すごく大事なことに、その時土井さんは気付いたのでした。

 日本語教育の世界で食べていくためには、学士では心もとない、修士だけはとっておけ、と周囲から強く薦められたこともあって、土井さんは大学院に通うことにします。当時、考え方に興味を持っていた細川英雄先生のいらっしゃる早稲田に行こうか、教育ファシリテーションのコースがある南山に行くかで迷いましたが、授業見学をして感銘を受けた南山を選びました。この選択も、のちの土井さんの進む方向を決めた選択だったといえるでしょう。

 大学院の学費を稼ぐため、半年間、トヨタ自動車で期間工として働いた土井さん。その間、ボランティアで地域の農家にお嫁に来た外国人女性に日本語を教えていました。奥さんたちは、日本語が上手になりたいと市販の教科書を持って教室に来ますが、実際には「今日は暑いで、はよ帰ろうや」など、その地域の方言を使っていました。でも、それを直す必要があるのか?彼女たちに必要なのは、まさにこの地域の日本語なのであって、教科書通りの日本語ではない。そういう生活日本語について考えさせられました。

 その後、縁があって豊田市の保見団地の日本語教室に参加するようになります。保見団地は、住民の半数近くが外国人住民という外国人集住団地です。そこで、日本語教育というよりは、外国人が地域住民と交流しながら生活に必要な日本語を身につけていく現場を目にします。ボランティアが教科書にそって日本語を教えている、というのではなく、みんなでおしゃべりしながらわからないことを聞きあっているイメージ。でも、みんな日本語を覚えていくのです。コミュニケーションしながら日本語を習得していく、きっと自分がやりたかったのは、こういうことなんだ。土井さんは大学院に通いながら、保見団地にも毎週通うようになりました。

パート.2に続きます。

次項有お知らせ
今週末(8月17日~20日)日本語教育国際研究大会2012が名古屋で開催されます。
その中の「土曜つながる広場」では土井さんたちが企画した「多文化映画祭」を開催。
「だれもが暮らしやすい社会の実現」「多様な人々がたがいにつながりを持って生きていける社会」は,みんなの願い。
でも,どうしたらそんな社会になるのでしょうか? 「移民」「難民」「ろう者」の生活から現在の日本社会の「多様性」を映し出した3作品には,そのヒントがいっぱい。
全作品入場無料,上映後に監督のトークショーもあります。
みなさん、18日はぜひ名古屋大学東山キャンパスへ!
http://www.nkg.or.jp/icjle2012/events2.html

今日の人51.及川信之さん [2012年08月08日(Wed)]
 今日の人は、東京三立学院副校長兼教務主任の及川信之さんです。及川先生は日本語教育振興協会の主任教員研修実行委員長も務めていらっしゃいます。
写真 12-07-10 20 01 12.jpg
 
 及川先生は1964年、東京オリンピックの年に札幌で生まれ、18歳まで札幌で育ちました。子どもの頃は、今と真逆の性格で、自分に全く自信がなく、コンプレックスの塊でした。5歳くらいの時に、いつも一歩引いている自分を自覚していたそうです。
 それが変わったのは小学校4年生の時でした。その時まで及川少年は自転車に乗れませんでした。それまではお下がりの自転車しか持っていなかったし、下手くそと言われるのが嫌で、あえて乗ろうとはしなかったのですが、新品の自転車を買ってもらい、必死に練習したのです。きっと自分に中にも、自分を変えたいという思いがあったのかもしれない。そして自転車に乗れるようになった時、「僕もやればできるんだ!」という自信が生まれました。そして、とび箱で3段多く飛べるようになったり、走るのが速くなったりしたことも自信につながり、友達の数がうんと増えました。
 この時、及川少年は思ったのです。自分が変われば環境は変えられるんだ。いろんなことに受け身でいちゃいけないんだ、と。
  
 こうして、積極的になっていった及川先生。中学生の時には、教育雑誌の読者のページで「みんなでつながりませんか」と呼びかけて、毎月全国の100人から手紙をもらって、その手紙を元に新聞を作っていました。みんなが書いてくれたひと言を新聞に載せ、それをまたみんなに送るのです。この時思いました。「誰かが何かを始めないと、新しいことは生まれない。僕は何かを生み出していける人間になろう」
 
 高校の時は生徒会の文化委員長として活躍します。イベントが好きで、いいね、と感じたことはやろう、という主義でした。やろうとして頓挫するのは仕方がないけれど、やらないうちにあきらめるのは面白くない。何か欲しいけれど、それがない時は、外から買ってくるんじゃなくて、まず組み合わせを考えて自分たちで作り出そう。全てのアイディアは組み合わせの妙から生まれると思っています。自分ができることを工夫して価値を生むことに喜びを感じる及川先生。
 ですから、先生の作られる教材はいつも創意工夫にあふれています。常に何かの価値を生み出していきたい!それは及川先生にとって、一生をかけた課題です。

 大学時代には、新宿のスナックでのアルバイトも経験しました。ここで、いろいろな人の話しを傾聴することの大切さを学びました。こんな話、自分には関係ないや、ではなく、全てのことが自分に関係があるんだと感じました。こちらの受け止め方次第で、どんな話にも興味が持てるし、こちらが真剣に聞けば聞くほど、真剣に話してくれました。60代の会社の重役の人たちが、こんな若造相手に想いを吐露してくれる、ああ、聴くって大事なんだなぁと、身を持って実感したのでした。
 
 大学を卒業した及川先生は、大阪で半年営業の仕事をやりました。しかし、自分でいいと思ったものでないと売れない性格だったので、営業の仕事は半年で辞め、その後、塾や予備校の講師の仕事を始めます。大阪で2年半過ごしましたが、及川先生は関西弁に染まりませんでした。なんちゃって関西弁を使いたくなかったのです。しかし、関西弁を使わなくても、よそ者扱いをされず、関西の懐の深さを感じました。異文化を排除するのではなく、相手の良さを認めて、自分のアイデンティティも守ることの大切さを学んだのでした。マイノリティをどう受け止めるか、及川先生がその素地を伝えてもらったところは新宿のスナックであり、大阪だったのでした。
 
 この時の経験から、そして、日本語教師をしてきた経験から、外国の人が日本に入ってきた時に、自国の文化、アイデンティティを守りながら、その土地の文化をしなやかに吸収して、かつ自分の文化も上手に伝えていくこと、それが大事だと及川先生は考えています。

 さて、大阪で予備校の講師をしていた及川先生が日本語教育に出会ったのは、30歳を過ぎてからでした。留学生は純粋に学びたい人たちにちがいない、と勘違い?した及川先生は、養成講座を受け、日本語教師としてスタートします。創意工夫して新しいものを作り出していくことが大好きだった及川先生に日本語教育の現場はぴったりでした。そして、自分が大阪でしなやかに受け止めてもらえたように、自分も外国の人たちをしなやかにうけとめていこう、そう思って日々留学生と接しています。留学生には多様な人がいます。その学生の多様性を受け入れていく力、これは日本語教師にとっては欠くべからざる要素です。
 
 今、多くの若い日本語教師を指導する立場にある及川先生が伝えたいことは、何もないところから作り出す力を大切にしてほしい、ということです。例えば、教材が何もない砂漠でも日本語を教えられる、そんな教師になってほしい。何かがなければできません、という教師にはなってほしくない。
 及川先生は留学生に何かを考えさせる時間を授業の中でたくさん取り入れています。教師はQ&Aではなく、Q&Hでいこう。Hはヒントです。答えを与えてしまうのではなく、ヒントを与えて、答えを出すのはあくまでも学習者であって欲しい、そう思っています。
 
 こんなふうに日本語教育に情熱たっぷりの及川先生、プライベートではいろいろな分野の第一線で活躍している人たちを見るのが大好きです。演劇、スポーツ、音楽、共通して、何かを極めた人のすごさを感じます。生で見るのはもちろんその凄さをいちばん感じられて好きですが、画面を通してでも、そのエネルギーを感じることができます。何かを突破した人は美しい。その美しさは人の心の奥底に響きます。その美しさを感じるのが大好きなのだ、と及川先生。ロンドンオリンピックで生まれる数々のトップアスリートのドラマにきっと寝不足の毎日を送られていることでしょう!
 
 そして及川先生は、日本語教育の世界で自分がトップアスリートでいたい、そう思っています。しかし、それと同時に、次の世代をきちんと育てていきたい、それもとても大切にしています。日本語教育振興協会の主任教員研修実行委員長として、全国の日本語教師を指導する立場の及川先生。日本語教師のネットワーク作りにも力を注いでいらっしゃいます。

 これからもその日本語教育にかける情熱で、たくさんの若い日本語教師を育てていってくださいね。私も日本語教育に関わる一人として、そしてダイバーシティを広めていく一人として、地域と日本語教師をつないでいきたい、そう思っています。

次項有
アクラス日本語教育研究所で、「『これからの日本語学校』について考えてみませんか」と題した日本語サロンが開催されます。及川先生が講師なので、お近くの方はぜひいらしてくださいね!
http://www.acras.jp/?p=502

8月は日本語教育関係の大会が盛りだくさんです。

8月10日、11日 日本語教育振興協会 日本語学校教育研究大会

8月17日~19日 日本語教育学会主催 2012日本語教育国際研究大会 名古屋2012
この学会では17日の特別企画イベントで「みんなのまちづくり-震災のあと行ってきたこと、これから行っていくこと」が行われますし、18日は多文化映画祭も行われて、日本語教育と多文化共生をつなぐ学会にもなりそうです。

8月31日 文化庁日本語教育大会
こちらも特別講演とパネルディスカッションのファシリテーターは田村太郎さん!今年の夏は今まで近そうで遠かった日本語教育の分野と多文化共生の分野をつなぐ企画が盛りだくさんです!
今日の人50.宮田 隼さん パート.2 [2012年08月03日(Fri)]
パート.1から続きます

 やがて大学を卒業した隼ちゃんは、大手学習塾でサラリーマン生活も経験しました。その時、何冊もハウツー本なるものを読んでみましたが、こんなものは意味がないと思い、自分の感覚でやっていました。一ヶ月で営業トップになり、二ヶ月で教室長になりました。そして瞬く間にエリアマネージャーになりました。朝8時から深夜2時まで働く日々。…あの塾には悩みに親身に対応してくれる先生がいるらしい。評判が広がり、学習塾にはいろいろな悩みを抱えた子が来るようになってきました。不登校や発達障害の子が次から次へと入りたいとやってくるようになりました。しかし、ケアに時間がかかる彼らを受け入れることに会社は消極的でした。会社と直談判しましたが、ダメでした。ストレスから十二指腸潰瘍になってしまった隼ちゃん。でも、頑張っていました。

 引きこもりの相談も受けていた隼ちゃんのところに、ある日、一本の電話が鳴りました。「うちの子、引きこもって長いんです。一度お話聞いていただけませんか?」お母さんからでした。その子のうちに行って、ドア越しの面談。いろんな話をしました。彼からの反応はほとんどなかったけれど、お母さんは、「こんなに長く話した人はいなかったんですよ。たいていこの子が嫌がって『帰って』って言うから。」と言いました。そういう子どもたちと接することに自信があった隼ちゃんは、少し得意になっていました。そして最後にこう声をかけました。
「まぁ、無理なくさ。出てこれそうだったら、いつでも出ておいでよ。」
…その数日後、彼が自殺したと知りました。

“自分が殺した”隼ちゃんは猛烈に自責の念に駆られました。
『彼はさびしかったんじゃないだろうか。もしかしたら、「この人ならわかってくれる」そう期待させたんじゃないだろうか。それに対して、「出てこれそうだったら、いつでも出ておいでよ」なんて…。
僕は彼自身を見ていただろうか?引きこもりとしてしか見ていなかったんじゃないか?それが寂しかったんじゃないか?』

…生きている限り、絶対に一人じゃないんだ!そうみんなに伝えたい!そして、自分がそう思い続けることで、彼とともに生きていこう!隼ちゃんは決意しました。
どんな人であろうとその人のありのままを受け止める。その人を否定せずに、ただそこにいるだけでいいんだよ。そう伝えたい。どんな人でもありのままの自分でいられる場所を作りたい!そう、ひとのまを作りたい!
…こうして隼ちゃんは、その想いを叶えるべく、奥さんの故郷である富山にやってきたのでした。

 2009年5月に富山に来て、まずは寺子屋みやたという学習塾を開きました。不登校の子どもたちも、発達障害のある子どもたちも、どんな子どもでも自由に集える、しばりのないそんな学習塾です。そして、誰もが集えるコミュニティハウスの構想はずっと温めていました。構想を温めながら、隼ちゃんは、高岡での人間関係を徐々に築いていきました。頼まれごとは断らない、そうしているうちに行政の人もいろいろ話を持ってきてくれるようになりました。マーケティングは一切しない隼ちゃん。人とのつながりだけでここまで来たし、これからもそうしていこうと思っています

 元島くんも富山にやってきました。ついに二人はコミュニティハウスひとのまをオープンすることになったのです。
 
 2011年7月13日。隼ちゃんのひいおばあちゃんが亡くなりました。
「ばあちゃん、ばあちゃんがいてくれたから、寂しくてもここまで来れたよ。
 次は僕がいろんな“寂しい”をなくすことにしたんだ。
 ばあちゃん、ありがとう。」
 
 そして、その4日後の7月17日、ひとのまはオープンしました。

 たった1年で、ひとのまは地域になくてはならない場所になりました。不登校やひきこもりの子どもたち、発達障害の人、お年寄り、地域のみんな、遠くからふらっと来る人達、誰もが気軽に寄れる場所、それがひとのまです。そして、みんなが自由にイベントを企画することでいろんなグループも誕生しています。

 隼ちゃんには、“何かがないと幸せになれない”という感覚はありません。
“何もなくても幸せになれる!”という感覚はあります。

 昔は自分はできる、周りはバカだ!と思うことがありました。でも、最近は誰かより自分がすごいと思うことがなくなりました。俺目線でしか見れなかったけど、今は相手目線で見れるようになりました。裕福な家で育ったとしても、つらさはあるんだな。自分はつらさを見ないようにやってきたけど、最近周りのことも見えるようになってきたから、周りのつらさも見えるようになってきました。でも、つらいことがあっても、笑えないことはないんだよ。どんな環境にいたって、笑うことができるんだよ、ということを伝えていきたい。そう、小学3年生の自分にお坊さんが笑うことの大切さを教えてくれたように。
 だから、隼ちゃんは、今日も笑っているのです。たとえ「脳天気だよね」と言われても。

 でも、そんな隼ちゃんにも、いえ、そんな隼ちゃんだからこそ、どーんと落ち込むこともあります。昔はそんな自分をコントロールしようとしてきました。でも、今はコントロールしなくたっていい、いや、できっこないんだから、と思っています。俺は俺だ。このままでいい。そんな隼ちゃんを誰よりも理解して受け止めてくれるのが奥さん。隼ちゃんは、とにかく奥さんのことが大好き!こんなに好きな人はいないと満面の笑みで言ってくれるのでした。

 愛妻家で、いつも笑顔で、誰からも愛される隼ちゃん、今は全国にひとのまを作る構想を持っています。“あなたは決して一人じゃない。あなたのそばにはきっと誰かいる。バカを言って笑い合えるって楽しいんだよ。何も言わなくても、同じ空間に誰かがいるっていうだけでもすごい幸せなんだよ。”それをみんなに伝えたい。そう伝えるだけで、そう感じてもらうだけでたくさんの人が笑顔になれる。だからこれからも出会う人に、ありのままでいいんだよ、と伝えていきたい。

 きっと、5年後、10年後には全国のあちこちからひとのまの便りが聞かれるようになることでしょう。
いつか全国ひとのまサミットっていうのもいいかもね。
その時はぜひ、ダイバーシティとやまも参加させてください(^_-)-☆

 宮田隼、その笑顔で、子どもからお年寄りまで、たくさんの人に笑顔を伝染させてくれる、心優しき九州男児なのでした。

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ドリプラでプレゼンした隼ちゃん
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ダイバーシティとやま設立フォーラムでは司会をしてくれました
今日の人50.宮田 隼さん パート.1 [2012年08月01日(Wed)]
 富山のみなさん、おまたせいたしました。50人目の今日の人は、いよいよ彼が登場します。そう、「コミュニティハウスひとのま」代表の
宮田 隼さんです。
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 コミュニティハウスひとのまは、誰もが気軽に利用できる場所。お茶をするのにふらっと立ち寄るのもよし、一日ずっといるのもよし、面白いことを企画するのもよし、仕事したり勉強したり昼寝したりもできる、そんな一軒家です。宮田さんは寺子屋みやたという学習塾も経営していますし、各種委員も多数兼任して大変忙しい毎日を送っています。
 宮田さんは私と同じ姓で紛らわしいので、親しみを込めて、隼ちゃんと呼ばせていただきます。
 
 隼ちゃんはとってもしっかりした考えと行動力を持っていますが、実はまだ20代。いつも笑顔で元気で人を笑わせることが得意な隼ちゃんは、時々「あなたは何も悩みがないのね」と言われるのですが、隼ちゃんがいつも笑っているのには、実は深いわけがあるのです。
 
 そのわけをお話する前に、隼ちゃんの生い立ちを見ていきましょう。
 隼ちゃんの命はお父さんとお母さんが高校3年生の時に宿りました。両親とも高校生なので、当然周囲は「そんな子どもはおろしなさい」と産むことに猛反対。特にひいおばあちゃんは大変な反対ぶりでした。
 でも、両親は産むことを選びました。そして九州から駆け落ちして誰も頼る人のいない愛知県に。でも、身寄りもなく、資格もなく、おまけに子持ちの18歳の若者を雇ってくれるところはなく、お父さんは両肩にドラゴンの刺青を入れる道へ…。
 若い両親は離婚と結婚を繰り返します。その度に転校。お母さんも昼夜問わず働きに出ていたので、御飯を食べるときはいつもひとりぼっち。寂しかった。でも寂しいと言えなかった…。
 運動会も、みんなは豪華なお弁当を家族で食べているのに、隼ちゃんは菓子パン一個でした。「別に豪華なお弁当がなくてもいい。一回でもいい。僕が走るところを見に来てよ、お母さん。」幼い隼ちゃんの心は、張り裂けんばかりでした。遠足も、コンビニ弁当しか持っていったことがありません。でも、弱音は吐かなかった。いえ、吐ける場所がなかった、と言った方が正確かもしれません。

 お母さんは隼ちゃんを連れて九州に帰ります。
「この子はかわいそうな子だね…」小さい時からそんな声をずっと聞いてきて、同情されたくない!という気持ちが幼心にありました。でも、その一方でその言葉を聞くたびに胸がチクチク痛みました。僕は何のために生まれてきたのかな…。
 でも、そんな隼ちゃんをいつも褒めてくれる人がいました。そう、隼ちゃんの出産に大反対だったあのひいおばあちゃんでした。ひいばあちゃんは言いました。
「隼ちゃんは優しい子。何も文句を言わないで人のことを考えることは誰にもできんとよ。ばあちゃんはいつまでも味方でおるけんね。」
親戚が集まる席でも、ひいばあちゃんは「隼ちゃんは特別!」と特別扱いしてくれました。
「僕は生きていてもいいんだ。僕にも味方がいるんだ。」初めて認められた気がしました。

 でも、「同情されたくない!」という思いはずっとありました。そんな隼ちゃんは、他の同級生に比べればどことなく大人びていました。小学校低学年といえば、おもちゃで遊ぶのが楽しい年頃ですが、隼ちゃんはそんな同級生を、おもちゃでしか盛り上がれないのはバカバカしいと冷めた目で見ていました。そしてみんなに同情されないためにも、とにかく笑わせようとしていました。幼い隼ちゃんは周囲を笑わせることで自分を保っていたのかもしれません。

 そんな隼ちゃんに大きな出会いがありました。小学校3年生の時に出会ったお坊さんでした。そのお坊さんは、サラリーマンをしていた時に自殺未遂をし、片足も失っている波瀾万丈な生き方をしてきた人でした。お坊さんは笑いとばして言いました。
「いつも笑っていればいい。死ぬ気になればなんでもできるもんさ」
 隼ちゃんは、ハッとしました。俺は、いつも相手を笑わせることばかり考えてきたけれど、自分が笑っていることが大切なのだと。
 このお坊さんとの出会いが隼ちゃんがいつも笑顔でいることの原点なのかもしれません。
 こうして隼ちゃんは、親子で母子寮に入っていじめられそうになった時も、笑い飛ばしてみんなを笑わせ、すぐにみんなの人気者になりました。

 隼ちゃんのお父さんとお母さんは別れては、また一緒になり、を繰り返し、隼ちゃんの下には妹が一人と弟が二人。弟の一人が知的障害だったこともあり、大学は日本福祉大学を選びました。奨学金をもらいそれで学費をまかなって、バイトしたお金は家族へ仕送りしていました。仕送り額は毎月10万円。大学生ですが、仕送りしてもらっていたのではなく、仕送りしていたのです!

 この時、学生寮で出会ったのが、今一緒にひとのまを共同経営している元島しょうくんでした。寮で二人はいつもお酒を飲みながら、自分たちの夢について語っていました。いつか誰でも気軽に集えて何をしていてもいいっていう場所をつくりたいよな、それが二人がよく話していたことでした。
 
 さて、この時、同じ福祉大学に通っていたのが、富山県出身の隼ちゃんの奥さんになる人と、元島くんの奥さんになる人でした。
 隼ちゃんと、隼ちゃんの奥さんはとにかく仲良しでした。最初はマブダチといった感じでした。しかし、ある時、隼ちゃんの友だちが彼女に告白すると言ったとき、モヤッとしました。そのとき気づいたのです。
「ああ、俺はこの子が好きなんだ」



…パート.2に続きます。お楽しみに♪