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今日の人43. 杉森道也さん [2012年06月24日(Sun)]
 今日の人は、富山大学医学部医学科統合神経科学助教、医学薬学研究部助教の杉森道也さんです。
sugimorisan.jpg
杉谷ドリプラ2012で学生さんたちのメンターとして、全面的に学生を支えた先生といった方が、わかりやすいかもしれません。
(杉谷ドリプラ2012って何?という方、こちらをご覧ください⇒http://www.drepla.com/magazine/articles/000439.shtml  )

 杉森さんは一見、えらい先生には全く見えません。どう見ても大学院生といった感じなのです。ですから、初対面の学生にはたいてい驚かれる、知っている学生にもすれ違った後に気付かれるとか。

 3人兄弟の末っ子として育った杉森さん。医師を志したのは、高校生の時、ハンドボール部の活動中にボールが目に当たって失明しかけた経験があったからでした。そこから医療の世界に入ります。当時の富山医科薬科大学に入学、卒業してしばらく病院で勤めた後は、東京大学大学院医学系研究科博士課程で学び、アメリカでも4年間学ぶなど、本当に華やかなキャリアをお持ちなのでした。
 
 杉森さんは脳外科の当直の時に、しばしば患者さんひとりひとりとじっくり時間をかけて向き合います。例えば頭が痛いといってやってくる患者さんとの対話も、カルテに一字一句を書き込んでいきます。休日に頭痛を訴えてくる患者さんの多くは、自分の心に隠している部分を持っています。自分の心に向き合ってもらい、「私つらいんです」という言葉を得るまでにも数時間を要することもあります。つらいと思っている人は、とにかく休ませることが大切と杉森さん。いつも張りつめて緊張している人の話を数時間聞いたり、特に頭痛薬を用いなくても点滴で5時間休ませると、うちに帰る頃には頭痛が消えているというケースも少なくありません。
 
 杉森さんは東日本大震災の時に、医療支援で気仙沼に入りました。震災の直後は、みなアドレナリンが出続けて、一見笑顔で元気なのです。でも、そういうエネルギーは一か月もすると切れてしまう。震災でベースが相当落ちている人々にとって、一度落ちた心の力はなかなか回復していかないのです。実際、診療中に二人の看護師が倒れてしまいます。みんなギリギリの所で踏ん張っている。頑張り続けて壊れかけている人ばかりでした。その状態を放っておくと、頑張りきれなくなった時に総倒れになってしまうのは、目に見えていました。
 杉森さんは、同時に派遣された研修医の奥村麻衣子Okumura Emily Maiko先生と、残された2日間合計12時間かけて、その病院で働くすべての看護師・事務員・技師の話を聞きました。皆、心の中がボロボロの状態でした。不安が取り去られないと破たんしてしまう!
 杉森さんは気仙沼の医療支援セントラルミーティングで訴えます。その提案は東京の本部で取り上げられることになりましたが、でも、心が壊れかけているのは、医療支援者に限ったことではありませんでした。市役所の職員も、土建屋さんもみんな、ギリギリのところで戦っていたのです。杉森さんは、このときに医療支援セントラル、気仙沼災害対策本部の両方に行ってレポートしました。医療の現場で感情がこみ上げて来て話をできなくなったのは後にも先にもこの2回のレポートの時だけでした。
 
 家を失い、家族を失い、瓦礫の後始末、ランダムに亡くなっている人の仕事の手伝い、そして自分の仕事、さらに復興プロジェクト…。
 こういう人たちを救うためには、例えば富山県が気仙沼市を丸抱えすればいい、と杉森さんは考えます。
 いろんな業種に携わる住人をこちらから一ヵ月、三か月単位で派遣し、逆に気仙沼からは、同じ期間で富山に人を受け入れるのです。そうして、常に人の交流を起こし、それを末端に行きわたらせる。目的は2つ。まず震災後のつらい時期を過ごしてこられた被災者の方達の話を富山においていってもらい、また被災していない地域で働いてもらう事で瓦礫などの情景から離れてもらう事を通して、彼らのつらさをすこし抜いてあげること。また被災地に派遣された富山の人は、被災していない分、集中して復興プロジェクトに取り組める事、また彼らの置かれた状況を共有し、「被災地に生活している人たちを見守っています」というメッセージを発信する事。それは、防災意識の低い富山県民の意識に変化をもたらすこともできるでしょう。この丸抱えプロジェクトを、杉森さんは本気で考えていました。

 杉森さんが常に利他を本願においていることは、学生たちへの支援の姿勢を見ていると本当によくわかります。
 富山大学を夢の持てるキャンパスにしたい、関わっている人が夢を持てるようにしたい。学生たちにとって、医療者としての、医師としての基礎はここで作られるのです。「富山大学医学部で勉強しました!」と堂々と言ってほしい、今後自分のブランドを形成して行く礎を築く、そんな場所であってほしい。けれど、現実は、富山大学の医学部にしか入れなかった、と思っている学生がとても多いのです。
 
 それを変えたい!
 杉谷ドリプラ2012を作っていく過程で、たくさんの学生たちが日々刻々と成長していくのを間近で見て、こんなに嬉しいことはなかった、と杉森さん。

 学生が自己肯定感を高めて、自分ブランドを持てば、たとえ世界中のどこへ行ったって、活躍できると信じています。そしてそれぞれが世界一のブランドを築いて行けるとも信じています。
 そういう意味でもドリプラは試金石。学生たちが自らの力を伸び伸び発揮できるように、どうイノベーションを起こしていくか、そしてどのように学生のイノベーションを寛容に育んでいくか、実はこれからが大事なのだと。

 杉森さんは、おっしゃいます。
 全ての人間はちがうのです。人にはすべて偏りがあります。
才能の偏り、時間の偏り、お金の偏り、感情の偏り、場所の偏り…
全て偏っている。そしてすなわちそれは、その人自身の特徴でもあるのです。
しかし、偏っているものは壊れやすくもあります。それを特長として見られるかは、寛容があるかないかで変わってきます。
 できないことにこそ、ひとを特徴づける何かがあり、多様性の重要な要素になります。
だれもがひとりで、すべてを完璧にこなせないわけですから、全ての人間が能力に障害を抱えているという極端な見方をすることができます。また一方で、未だできていないことにこそ、人の能力の可塑性(かそせい)が包含されていて、未来のリスクが分散されています。ならば、多くのひとの能力を引き出しながら、多様性を維持しながら、社会のリスクを分散させようとするために、私たちの弱点をそれぞれが認め合い、社会全体としての可塑性(変わりうる能力、今できていないこと)を維持しながら、それぞれが得意なことを特長(できないことに特徴づけられた、裏付けられた、非常に特異な能力)として活かす方策をそれぞれが考え・実践していくことが大切だと思います。と…。

 多様なものの集団では、自然な現象として、徐々に最適化が起こってきます。最適な論理を構築して、最適な結果を望むようになります。そして自己組織化が起こります。
 しかし、様々な事実の中で、いつか対応できない事実がやってくることがあります。その時、その事実を受け入れられるか否かでその組織・社会が変わってくると言えます。
 事実を受容した場合は、組織の論理を変えられる可能性があります。それがイノベーションです。
 事実を受け容れなかった場合は、大事なものが無視されるわけですから、いつか破たんが起こるのです。
 受容するためには、いままで構築して来た自己の論理を否定できる力が必要です。そして、新たな論理を生み出す力、是と出来るものを生み出す力が必要です。
 過度に最適化されず、また最適化後にもそれを否定し新たな論理を構築できるという変化できる状態(可塑性)を保ちえるのは、すなわち、組織や社会が大きいリスクを避けることになるのです。

…杉森さんと話していると、なんだか私はいつも適当なことしか考えていないなぁと反省させられます。
自分と深く向き合うという行為は、きっと孤独な作業です。その孤独な作業を淡々と続け、そしてその作業から紡ぎ出されたものを、学生たちに惜しみなく与えている杉森さん。ですから、杉森さんの研究室には、杉森さんを慕ってやってくる学生が後を絶ちません。
 
富山大学医学部、こんな素敵な先生がいらっしゃる大学ですもの。杉森さんが望まれるように、学生たちが富山大学医学部出身ということにアイデンティティが見いだせる場所になると私は信じています。
 
最後にひと言。杉森さん、いつもいつも誰かのために一生懸命で、いつもご自分の身を削っていらっしゃいますので、たまには自分のこともいたわってくださいね。杉森さんが道半ばで倒れたら、元も子もありませんもの。
 杉谷キャンパスが伝説のキャンパスになっていく道のりが、富山にダイバーシティが広まっていく道のりと重なっていくよう、私もがんばります。
今日の人42.鈴木暁子さん [2012年06月18日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティ研究所研究主幹の鈴木暁子さんです。
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鈴木さんは愛知県碧南市生まれ。18歳まで碧南で過ごします。ご両親が共働きだったため、3人姉妹の長女だった鈴木さんは晩御飯の支度をしていた、とってもしっかり者のお姉ちゃんでした。

 お父さんが漫画が好きで、手塚治虫や石ノ森章太郎など、「トキワ荘」の住人の漫画を全巻所有していて、鈴木さんは手塚治虫の漫画を読むのが大好きでした。小学生にはかなり難しいと思われるようなブッダなども大好きだったそうですから、子どもの頃からかなりの思索家だったのでしょうね。
 
 中学では吹奏楽部、高校では弓道部に所属。高校は憧れの電車通学で、ファーストフードのお店自体を目にすることが目新しく、帰りにミスタードーナツで話し込んだりするのが楽しかったそうです。一方で、当時、NHKの「海外ウィークリー」という海外のニューストピックを紹介する番組が好きで、なにかしら、わくわく感を感じて、実際に行ってみたいと思うようになりました。

 高校時代には両親に頼みこみ、成人式の着物と引き換えに、1ヶ月ほどアメリカサンディエゴへホームスティに行きました。ホストファミリーの父親が海兵隊に属しており、戦争に出かける様子などを見て、頭で理解していた世界情勢を肌で実感することができたそうです。
 
 大学は、なんとなく「国際」にかかわる勉強したかったので、その分野を深く学べる静岡県立大学の国際関係学部へ入学。そこは一学年で200人という、とてもアットホームな大学でした。フランスの哲学者サルトル、メルロ・ポンティ、「宋家三姉妹」など中国現代史の登場人物と親交を持つそんな先生方の講義は秀逸でした。鈴木さんはここで、本だけでは学ぶことのできない生の学問を学ぶ楽しさを実感します。

 在学中の長期休暇にはバックパッカーで東南アジアを歩きました。ある時は一人で、ある時は友達と、またある時は妹と…。友人に、タイ北部のチェンマイにあるNGOを紹介してもらって、少数民族の女性の就労支援や農業支援をしている現場にいったりもしました。手に職をつけるためにミシンの使い方を教えたり、タイ語の教室を開いたり、焼畑農業のきつい傾斜の畑に登ったり。何もできない自分の無力さを痛感しましたが、一方でそれぞれの文化の豊かさや生き抜くエネルギーに圧倒されました。

 そして、「足で歩いて、自分の目や五感で感じ、現地から学び、行動する」ことに魅力を感じ、「フィールドワーク」を基本とする文化人類学を専攻することになります。

 国内でもアジアの女性を守るNGO活動に取り組みます。大学には、「活動する研究者」が多かったので、先生たちや先輩と一緒に、学園祭で焼きバナナを販売して、その収益をフィリピンやタイから来ている女性が通う教会に寄付したり、その頃から行動力は抜群だったのですね。

 でも、それだけではなく、ことばを通じた表現活動に魅力を感じ、演劇サークルの立ち上げにも、参加しました。野田秀樹や鴻上尚史など小劇場の演劇の世界観に「はまり」、議論をしていたのを覚えています。その時のメンバーとは、今でも仕事で繋がっています。

 そして大学院では憧れの京都で学ぶことに。更に深く国際的な事柄について関わっていくことになりました。

 大学院を出た後は、京都市国際交流協会で働きはじめます。そこでニュースレターの作成に携わっていたのですが、その時の取材で多文化共生センター田村太郎さんに出会います。そして、田村さんから「多文化共生センターきょうと」の立ち上げに加わらないかと誘われ、交流協会の仕事を続けながらも、参加することにしました。やがて本格的に多文化共生センターきょうとの方に足場を移し、事務局長として、大活躍するようになります。

 その後、結婚、出産で、しばらくは子育ての方に重きをおいていましたが、再び何かをしたいとうずうずしていたときに、田村さんから誘われ、2007年にダイバーシティ研究所の立ち上げに参加し、その後は調査研究事業に関わります。
 
 そのひとつがCSR(企業の社会的責任)について調査するCSR調査です。
CSRとは「責任ある行動がビジネスの持続的な成功をもたらすとの観点から、企業が事業活動やステークホルダーとの交流の中に、自主的に社会や環境への配慮を組み込むこと」(欧州委員会)
 
 多文化共生センターきょうとで医療通訳のシステムづくりの立ち上げにかかわった時に、これからの社会課題の解決には企業の力も不可欠だと感じていたこともあって、企業活動の環境や社会への影響をデータで可視化するCSR調査はやりがいがありました。

 実際、CSRの調査に関わってみて、自身が「井の中の蛙」であったといいます。NPOの事務局長として一人前になったつもりでいたけれど、企業や財団など、今までとは違う相手と、仕事を作るプロセスを共にして、成果を出すことの厳しさを知り、とんでもなかった!と思い知りました。企業は動き出したら早い。スピード感ややり抜く覚悟にはっとさせられたのでした。
 
 さらに、鈴木さんは2008年から、笹川平和財団「人口変動の新潮流への対処」事業でも、3年に渡り、多文化共生の地域モデルづくりにチャレンジしました。この調査チーム「なんとなくこれは必要なんじゃないか」という現場感覚の裏付けを論理的に積み上げていく作業であり、同年代の研究者との闊達な議論は刺激的でした。 また、アジアの国々の研究者やキーパーソンとの交流もあり、特にアジアの女性研究者の方々の、男性と対等に渡り合う「強さ」や「アグレッシブな生き方」には、勇気をもらいました。「慎み」とか「遠慮」などという「日本的美徳」とは対極の姿に、これぐらいパワフルじゃなくちゃねー、割り切らなくちゃねー、と、肩の力が抜けました。緊張感があり充実感のある仕事でした、と鈴木さん。

 調査のような職人系の仕事も得意で、フィールドワークも得意、そして全体像を俯瞰することも忘れない。きっと田村さんも、鈴木さんだからこそ安心して仕事が任せられるのだろうな、というのがとてもよくわかる、まさにデキル女性なのでした。

 そんな鈴木さん、今いちばんホッとできる時間は息子さんと過ごす時間。野球少年の小学校3年生の息子さんの試合を見に行くのも楽しい時間です。
 映画を見るのも好きです。ちょっと時間ができると、一人で見に行ってしまうんだとか。そして、何かに没頭しなれけばならない時は、美味しいものを食べに行って気分転換をはかっています。
 
 最後に聞きました。鈴木さんにとってダイバーシティとは…?
ダイバーシティとは、わかりあうプロセス。そして、終わりのない旅。
その旅を楽しんでいるかどうかが自分の健康のバロメーターだと、優しい笑顔を見せてくださいました。
 
 年を取ったら、京都とタイと静岡で1年の3分の1ずつを過ごしたいと思っている鈴木さん、きっと終わりのない旅は続くと思いますが、とかく長女は人に甘えるのが苦手です。たまには、鎧を外して、らく〜な時間も過ごして、日本のダイバーシティのために、これからも末永くご活躍くださいね。そして、ぜひ富山にも美味しいものを食べに来てください。ダイバーシティとやまのみんなでお待ちしております!
 
今日の人41.ファリアス ビルマル デ ソウザさん [2012年06月14日(Thu)]
 今日の人は、高岡市戸出で富山県産牛乳を100%使用したチーズ
とやまチーズを手作りで生産販売されているファリアス ビルマル デ ソウザさんです。何を隠そう、とやまチーズはブラジルチーズなのです。
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 ビルさんがブラジルの首都ブラジリアから来日したのは19年前、1993年のことでした。ブラジルでは銀行員だったビルさん。日本で働かないかと声をかけられ、日本に来て、一番最初に派遣されたのは、材木業の仕事でした。その後は、食品会社、下水管工事、溶接など、いろいろな仕事を経験します。最初日本語は全然できなかったので言葉では苦労しましたが、それ以外にはそんなにつらいと感じることはありませんでした。むしろ、ビルさんには、富山の自然の美しさ、街の美しさ、人々の生き方、全てが新鮮でした。
 
 ビルさんはブラジルでチーズ作りを勉強したことがあり、日本でも最初は家族のために作っていたそうです。しかし、次第にこのチーズが評判を呼び、ぜひ売ってくれと声がかかるようになります。
 ビルさんはブラジルチーズの美味しさをみんなに伝えたい、そう思うようになりました。しかし、チーズを製造販売するためには食品衛生法の営業許可証が必要になります。
高岡市の保健所の担当の方も最初は「前例がない」と渋っていましたが、ビルさんの熱意に、反対に応援してくれるようになりました。
  
 そしてとうとう、チーズ作りでは高岡市で第一号の食品衛生法営業許可証を取得したのです。保健所の人が一生懸命になってくれたのが本当にうれしかったとビルさん。
写真 12-05-23 15 21 45.jpg
  
 2003年からビルさんのチーズ販売はスタートしました。
 それから、100%手作りでチーズ作りに専念する日々が続きました。
 ビルさんのチーズは評判を呼び、順調に売れ行きを伸ばしていました。
 
 しかし、リーマンショックが起き、状況は一変します。チーズが売れなくなりました。そこで、日本語の得意な友人の木口エルメス実さんが力を貸し、スーパー等での販売に力を入れるようになりました。今は県内ではフレッシュ佐竹道の駅高岡富山市そよかぜ農産物直売所、リカーショップことぶきや等でとやまチーズを販売しています。他にもネット販売も行っています。

 今もまだ順調とは言えませんが、ビルさんは決して下を向いたりはしません。とにかくチーズ作りが大好き!とおっしゃるビルさん。ビルさんの作ったチーズで笑顔になる人が一人でも増えてほしいと、今日も丹精込めてチーズを作っています。

 モーモーちゃん号での移動販売も開始しました。県内外の物産展などでも販売していますし、先日はブラジル大使館前でも販売してきました。
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 そして、土日に東京青山の国連大学前で開かれるファーマーズマーケットにも毎回出店することになりました。金曜日に作ったフレッシュなチーズを土曜日には東京でのファーマーズマーケットに並べる。ほとんど寝ずに毎週東京に行くことになるので、それは本当に大変な作業だと思うのですが、ビルさんは食べる人に少しでも新鮮なものを食べてほしいので、それは少しも苦痛じゃないと、とってもキュートな笑顔でおっしゃるのです。
 
 実は、私も来週の月曜に県外へ行くためのお土産にビルさんのチーズを買いたいと思って「今日買いたいのですが」と言ったところ、「明日新しいのを作るから、そっちを持っていってね」とおっしゃるのです。今、残っているものを少しでもさばきたい、ではなく、少しでもいいものをみんなに食べさせてあげたい、そんな想いがひしひしと伝わってきて、胸が熱くなりました。
  
 ビルさんのチーズはどれも美味しいのですが、特にフレッシュチーズを焼きチーズにすると絶品です!
 まだ召し上がったことのない方はぜひ、やってみてください。油を引かずに、ホットプレートやフライパンでこんがりと両面焼いて出来上がり。ただし、火加減はご注意を。きっと食べたことのない食感に病みつきになること間違いなしです。
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 19年前に来日したばかりの時は、お金を稼いだらブラジルに戻るつもりでいました。でも、富山に住み、富山が大好きになりました。もう、ここを離れるつもりはありません。こんなに自然豊かで素敵な街はない。確かに首都圏から少し遠いのはネックかもしれないけど、それに代えられない豊かさが富山にはある。だから富山の若者には、富山に残って富山で夢を叶えてほしいと思っています。
  
 そんなビルさん自身の夢は、とやまチーズの大きな工場を作って、富山の産業として育てること。そうすれば、富山の酪農家も元気にすることができる。富山の若者や外国籍の若者にも働く場を提供することができる。そして、チーズ作りも広めて、後継者も育てていきたい。自分は富山の人の支えで、とやまチーズを作ることができたから、富山に少しでも貢献していきたい、それがビルさんの夢です。

 本当に熱くて愛情に溢れたビルさん。
「富山の人はもっと富山に誇りを持って!こんなに素敵なところはないよ!」
 ビルさんの言葉、富山のたくさんの若者に、とやまチーズの美味しさと共に届けたいと思いました。

 これからもビルさんは手作りでチーズを作り続けます。
みなさんどこかでモーモーちゃん号を見かけたらビルさんに声をかけてくださいね。とってもフレンドリーなビルさん。きっとすぐに仲良くなれますよ。
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今日の人40.渡辺 エミリア ヤエさん [2012年06月11日(Mon)]
 今日の人は、先日の渡辺マルセロさんのお母さん、渡辺 エミリア ヤエさんです。
エミリアさんは、岐阜県多文化共生推進員としても活躍されています。

 エミリアさんが家族で来日したのは1992年。それまでエミリアさんはブラジルのCitibankで働いていました。勤めていた支店の支配人になってくれと頼まれている最中でのことでした。Citibank側はエミリアさんに、メイドを雇えばその給料も100%出すから、と言われるほどの好条件を提示されましたが、家族が日本に行くのに、自分ひとりだけ残るわけにはいかないと来日したのです。実はご主人も、もともとはIHI石川島播磨重工業のブラジルのエンジニアでした。大学院まで卒業してIHIに就職した技術者だったのです。それが不況のあおりで潰れてしまい、活路を見出すために、来日を決意したのです。
 IHIの技術者と、Citibankの副支配人。そんな二人が日本に来て就いた仕事は、工場での単純作業の工員でした。
 私はこういう話を聞くと、いつも思うのです。海外の頭脳を日本で埋もれさすのはもったいない。こういう人々の才能を活かすことが、日本社会にとって、どれだけメリットがあるかしれないのに…。
 
 ご本人たちも、きっとそのギャップにさぞかし苦しまれたことだろうと聞いてみました。
「もちろんギャップはあったけれど、自分たちで選んで日本に来たんだから、そういう不満は持たないことに決めたの。それに年をとるとなんでもすぐに忘れちゃうからね。嫌なことは全部忘れたわ」と陽気に笑うエミリアさん。肝の据わり方が半端ではありません。

 それはマルセロさんたちの子育ての時もそうでした。日系の子どもたちは途中でドロップアウトしていくことが多々ある中で、マルセロさんは国立大学まで卒業しています。その根底にはお母さんの子育てが深く関わっているようです。
 日本に来て、2,3年経った時、ご主人はブラジルに帰ると言いました。でも、マルセロさんたち子どもは日本に残りたいと言います。残って日本で勉強したいと。
 そこでエミリアさん、子どもたちのために日本に残る道を選びました。ご主人はお一人でブラジルに戻っていきました。

 「自分たちが勉強したいと言ったから、日本に残った。だから、とことん勉強しなさい。勉強したいなら、どんなことをしてでも本を買ってあげるから。」
 
ご主人がブラジルに帰ってしまったので、一人で子どもたちを養わなければなりませんでした。
でも、子どもたちには、「あなたたちは勉強するために残ったのだから、もし働くならブラジルに帰れ」と言いました。
「14〜5歳で働いてしまうと、自分の財産を作れない。自分の中に積み立てたものはお金では買えない。だから、しっかり勉強しなさい。もし、いじめられたら、お母さんが絶対守ってやるから。いくら不良でも言いにいくから」

「でも、不安になったりしませんでしたか?」
との私の問いには、「悪いことを考えて自分の大切な時間をつぶしたくないから、あさってまでのことだけ考えるの。そうしたらなんとかなるものよ。」

 このとても強くて温かい母の愛に包まれていたからこそ、マルセロさんは何事も途中で投げ出すことなくがんばれたのでしょう。機会を与えたお母さん、それにしっかり応える息子。ホントにステキな親子です。

 そんなエミリアさんを慕ってマルセロさんの友達もしょっちゅう家に遊びに来ます。マルセロさんがいなくても、エミリアさんに会い来るのです。マルセロさんの友達が彼女を紹介したいと言って彼女を連れてくることもあるそうです。

 エミリアさんは岐阜県の医療通訳者の第一号でもありました。2000年から2008年まで続けた医療通訳の仕事の現場では、本当にいつも死と隣合わせの現実をつぶさに見て、普通に呼吸ができることの素晴らしさ、ご飯を食べられることの有難さ、普段当たり前だと思っていることが、実はいかに特別なことであるかを感じる毎日でした。
 
 それだけに、医療通訳の仕事の重みも十分に感じました。普段日本語ができるからと言って、医療用語は全く別次元の言葉です。医療通訳者には勉強が欠かせない。そうしないと、誤訳が死に通じることだってあるからです。そこを軽んじて、ちょっと日本語が出来る人を通訳にしているところを見ると非常に危惧を感じるとエミリアさんはおっしゃっていました。エミリアさん自身、医療通訳者だった時は、毎日が勉強の連続だったそうです。「あんなに真剣に勉強した時はなかったわ」と懐かしそうに微笑まれました。

 今は多文化共生推進員として、忙しい毎日を過ごすエミリアさん。小学校で毎日子どもたちと給食を食べるのがとっても楽しい時間です。英会話も習って、自分をブラッシュアップすることを忘れないエミリアさん。ホントにイキイキしていらっしゃいます。

 実は、NPO法人ブラジル友の会には、もう一人、とってもすてきな後藤佳美さんもいらっしゃいます。彼女は「ワールドカフェみのかも」の代表も務めていらっしゃるので、ワールドカフェつながりでも交流できるといいなぁと思っています。
後藤さんにはまた後日、たっぷりお話を伺おうと思っているので、その日をお楽しみに。

富山から車で2時間余りの美濃加茂市。
笑顔のステキな渡辺エミリアさん、マルセロさん親子、そしてマルセロさんと息がぴったりの後藤さん、そんな素敵なみなさんに会うととっても元気が出ますよ。

多文化共生都市、美濃加茂市は魅力がいっぱいです。
ぜひ一度訪ねてみてくださいね。

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右がエミリアさん、左が後藤さん
笑顔が素敵なお二人です
今日の人39.渡辺マルセロさん [2012年06月10日(Sun)]
 今日は、NPO法人ブラジル友の会の渡辺マルセロさんをご紹介します。
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 マルセロさんは1992年13歳の時に、ブラジルから岐阜県美濃加茂市にやってきました。当時全く日本語はわかりませんでした。13歳でしたが、小学6年生のクラスに入って勉強が始まりました。今とちがって、来日している日系人も少なかったので、先生方も試行錯誤の連続でした。
 
 その年の夏休み、マルセロさんは寿司屋でアルバイトをしていました。来る日も来る日も冷凍エビの殻をむくアルバイトです。凍った殻が手に突き刺さり、ホントにしんどいアルバイトだったとマルセロさん。そうして苦労して手にいれたバイト代を、なんと落としてしまいました!マルセロさんは学校から公衆電話で警察に電話します。学校にパトカーがやってきたので、みんな大騒ぎ!でも、絶対なくなったと思った財布がなんと出てきたのです。中のお金も盗まれていませんでした。「日本はなんていい国なんだ!」この時の感激は今も忘れていません。
 
 そうして中学校に進んだマルセロさん。1年の時に担任だった渡辺栄二先生との出会いは、マルセロさんにとってはなくてはならないものでした。渡辺先生は、グループになった時に、そのグループでマルセロさんが浮かないように、ちゃんと授業についていけるように、生徒達自身で支える仕組みを作ったのです。マルセロさんのノートも、隣の子がいつもチェックしてくれ、クラスの子みんながマルセロさんに力を貸してくれる、あったかい雰囲気ができていきました。それは、渡辺先生の姿勢が徹底していたからにちがいありません。
 
 でも、勉強のことはそこまで真剣に考えていなかったマルセロさん、中学3年の時に友だちに誘われていった、塾のクラス分けテストでFランクを取ってしまいます。そこで初めて自分が勉強ができないことを知った、とマルセロさん。その後は必死に勉強し、私立高校の特別コースに入学します。そこは、毎日朝晩テストがあり、授業の予習をしていない場合は即正座させられるという、超スパルタ式のコースでした。部活という言葉は禁句で部活動をするなんてありえなかったそうです!毎日夜中の3時4時まで勉強する日々。みんなフラフラで鼻血を出して倒れる生徒がいるのも日常茶飯事。勉強している時は、なんでこんな高校に来てしまったんだろう、と思っていましたが、気が付いたら、学力がものすごく上がっていました。
 
 こうしてマルセロさんは地元の岐阜大学教育学部だけを受験して、見事合格!でも、あまりにも締め付けが厳しかった高校から解放されて、一気に自由になってしまったら、いったい自分は何をしたらいいのかわからなくなってしまいました。3年生の時には一年半休学して、ビリヤード場に住み込みながらのアルバイトをします。24時間ビリヤード場にいる生活。ビリヤード場でバイトしながら、ビリヤードにのめり込む日々。そう、マルセロさんは一度はまると、とことんまでやらないと気が済まないたちなのでした。そうして過ごすこと1年あまり、ふっと勉強したくなり、その後は二度とビリヤードに手を出さなくなりました。
  
 こうして大学に復学し、戻ってからは積極的に勉強。教育実習にも行きましたが、自分は教師という職は向いていないなと感じ、ちょうど市役所が外国人相談員を募集していたこともあって、外国人相談員兼通訳として働きはじめました。現場に行くと、自分の時と何ら状況が変わっていないことに愕然とします。中学で学校をやめていく外国籍の子どもたちが本当にたくさんたからです。
 
 そんな時にNPO法人ブラジル友の会に出会います。その時の代表、エジウソンさんは課題に対する意識が本当に高い人で、データをとって何が必要かを的確に示すことのできる人でした。
 そうして、NPO活動に関わりながら外国人相談員をやる日々を2年過ごした後、そのまま市役所で公務員をやってほしいと言われますが、その頃のマルセロさんは、日本企業でバリバリ働きたいと思うようになっていました。
 
 そんな時、病院の総合職として仕事をしないかと声がかかり、そちらで働くことに決めます。病院の仕事は全てにおいて、慣れないことばかり。仕事についていけず、落ち込むこともありました。
 
 そんな中、自分にとって何か目標があったらいいと思い、行政書士の勉強を始めました。1年目は落ちてしまったのですが、それで俄然火が付きました。そう、ビリヤードの件でわかるように、マルセロさんは、はまるとのめりこむタイプ。真剣に勉強に打ち込み、2年目に行政書士の試験に見事合格します。病院には「来年の6月いっぱいで辞めます!」と宣言。それが2008年のことでした。そしてその言葉通り2009年6月に病院を退職したのです。
 
 マルセロさんは病院の中にいて、気付いていませんでした。リーマンショックの余波がいかに大きいものであったのかを…
 
 2009年6月30日に病院を退職。
 ブラジルに一度帰国しようと思っていたところでしたが、エジウソンさんから、自立支援センターをやるから手伝ってくれ、と言われます。半日だけでもいいから…と。
そういわれて自立支援センターに行ったのが仕事を辞めた翌日の7月1日。
その日は自立支援センターの開講式の日で、何をやるのか自分自身も知らないまま取材陣に囲まれていました。
 手伝うどころか、先頭に立って自立支援センターの仕事をやることになったマルセロさん。
 
 その後は目の回るような忙しさ。リーマンショックに伴って職を失った人からの相談がひっきりなしに来て、世の中はこんなにも大変なことになっていたのかと、その時ようやく気が付いたのでした。
 
 マルセロさんご自身の行政書士の事務所は、その年の9月に開きましたが、ほとんど自立支援センターの仕事に追われている毎日でした。
 
 それから、3年。本当にさまざまな事例にぶつかり、さまざまなことに関わってきたマルセロさん。みのかもサンバ丼を考案し、自らシェフになって売り出していたりもしました。とにかくがむしゃらに動き続けた日々でした。

 そうした日々を経て、今はいくつもの事例に取り組むよりも、全体の仕組み作りを優先してやっていきたいと考えています。
 
 そのための第一歩が、「Mixed Roots x ユース x ネット ★ こんぺいとう」マルセロさんが代表を務める団体です。ここでマルセロさんがやりたいと思っていることは、外国にルーツを持つ子どもたちが活躍していける社会にするための仕組み作りをしていくこと。
 今はそういう子どもたちが社会に出た時に、親と同じように工場勤務をするとか派遣会社で働くなどの道しか知らず、高校や大学を出てもどうせ派遣や工場勤務でしょ?と思っている若者も少なくないと言います。そこを変えたい。そのために、こんぺいとうでは、まず、日系人の若者に企業でインターンシップをしてもらい、いろいろな職業を知る機会にしたいと思っています。それは、企業側にも、日系人にはこんな人材がいたんだ、ということを発見してもらういい機会になる。

 また、来年は岐阜県からブラジルに移民が始まって100年。岐阜に由来があり、海外で活躍した100人を取材することも計画しています。
将来への希望をもちにくい日系人の若者たちに、先人の活躍を知ることで、夢や希望を持ってもらいたい、マルセロさんたちはそう考えています。
そう話すマルセロさん自身、子どもたちにとって、いちばんのロールモデルになる存在ですよね。

 もともとポルトガルのお菓子だった「こんぺいとう」はルイス・フロイスが信長に献上して日本に伝わったものです。海外にルーツがあり、やがて日本文化になったこんぺいとうのように、日系人の若者が日本社会に溶け込めるようにという願いを込めてつけられた団体名です。マルセロさんたちの願いがきっと叶って、外国にルーツを持つ子どもたちが夢を持てるそんな日本になる!いや、そういう人々が夢を持って活躍していける日本にしていかなければ、これからの日本の発展はない、と私も思っています。

 とにかく、はまるととことんまでやらないと気が済まないマルセロさん。
今はNPO活動が趣味かなぁ、と素敵な笑顔で答えてくれました。
奥さんに「家族にもボランティアしてよ」と言われるのが、ちょっと痛いけど、でも二人のお子さんのいいパパでもあるマルセロさん。
これからも、岐阜のそして日本の多文化共生のために、ずっとご活躍くださいね。私もずっと応援します!