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今日の人32.久保大憲さん パート.2 [2012年02月17日(Fri)]
(パート.1から続きます)

…じゃあ自分はどんな生き方をしていくんだ?と悩みました。悩んだ末、あの人に任せれば大丈夫と自信を持って言ってもらえる起業家になろうと決意したのです。
 まず取り組んだのはNPOに計画書のアドバイスをする仕事でした。大学を出てから働いていた5年間、土木コンサルとしてたくさんの企画書や助成金の申請書を書く仕事をしてきたのも役に立ちました。しかし、NPOに携わっていくうちに思いました。事業を行っていくときには必ずリスクが伴う。決断と行動が必要になる場面も多い。でも、企業と決定的にちがうのはNPOはその覚悟が足りないところがすごく多いということでした。
 しかし、NPOは行政の行き届かない部分を補う大事な仕事をしています。もっとNPOの覚悟を引き出して、活動を軌道に乗せていくにはどうしたらいいのか、出した答えは、NPOの中間支援組織を作る、ということでした。助成金をもらって活動しているNPOは続かないという方もいますが、久保さんの考えはちがいます。行政が行き届かないことをNPOがしているのだから、活動資金のないNPOの支援することで、そのNPOに力をつけさせていくべきだと考えています。そうして作った中間支援組織が日本ボランティア活動推進機構でした。
 そうした中で起こった東日本大震災。久保さんはこれだけ被害の大きい震災だから、きっと富山に避難してくる人もいるはずだと考え、即動きました。まず、県議に県営住宅の受け入れ態勢について問い合わせます。そこで、さっそく県営住宅は受け入れOKということになりました。それが3月15日でした。しかし、中はどうなっているのか、というと家電製品などがあるわけではありませんでした。これではいけない、すぐに住めるようにしよう、そうして協力をよびかけたところ、30人位の人がすぐに集まりました。すぐにやらなきゃだめじゃないか、という声も上がりました。3月18日、家電の運搬をスタートさせました。それから1、2週間は運搬に次ぐ運搬で一日が終始しました。それでも、周囲からあれが足りないんじゃないのか、なぜできていないんだ?という声があがります。周りからはアイディアだけは出てきましたが、誰が動くのか、という視点が抜け落ちていました。では、やってくれますか?というと、いや平日は仕事があるから無理だetc…そういう返事しかかえってこないことが多くありました。寝る暇もないほどの忙しい想いをする中で、そういう言葉に多く接し、ボランティアの限界を感じた時期でもありました。でも、そんな中一緒に動いてくれる人たちもいた。それが、とやま311ネットの主力メンバーになりました。     
 久保さんは積極的にメディアにも働きかけます。他の団体からとやま311ネットはメディアに出すぎだ、とやっかみを言われもしましたが、メディアに数多く取り上げられることで、行政も動いてくれるようになりました。5月末までは、運搬で忙しい毎日でしたが、5月末にはようやく落ち着き、6月になってとやま311ネットの事務所を構えることができました。その後も、とやま311ネットでとやま東日本盆踊り大会を企画したり、「ようこそ富山へツアー」を企画したりと行事も目白押しでした。「ようこそ富山へツアー」を企画したのにはわけがあります。ただ避難しに来ただけではなく、富山のいいところを知って帰ってもらいたい。富山の人とも交流してほしい、そういう想いで「ようこそ富山へツアー」を企画したのでした。
 とやま311ネットの活動について学校から講演依頼が来るようにもなりました。そんな時、久保さんが一番最初に子ども達に言うのは、「自分がされて嬉しいことを相手にすること、自分がされて嫌なことは相手にしないこと」ということです。当たり前だと思われるかもしれませんが、これが出来ていない大人は意外に多い。実際、福島から避難してこられた方の家にも何人もの人が押しかけた時がありました。行った本人は話し相手になってあげた、いいことをしてあげたつもりになっているのかもしれませんが、入れかわり立ちかわり、知らない人がやってこられる方の立場になればたまったものではありません。それでなくても見知らぬ土地にやってきたばかりで疲れているのに、来る人来る人に「どこから来たんですか?」「震災の時どうでしたか?」と聞かれ、同じことを答えなければいけないのがどんなに大変か、相手の身になってちょっと考えてみればわかることなのに、それができない人がいかに多いか。
 ダイバーシティ研究所の代表であり、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト」の代表幹事、内閣官房東日本大震災復興対策本部ボランティア班企画官でもある田村太郎さん(このブログにも登場)もおっしゃっていましたが、震災当初に調子のいいことを言う人はごまんといる。でも、1年後、2年後、その先まで見据えてどう関わっていくか、それが大事だと。被災者が自立していける支援をしなければならないと。そういう意味でも、久保さんは被災者の立場に立ってずっと支援を続けている芯の通った人なのです。
 久保さんは言います。相手の立場に立って考えているつもりでも、自分がされて嬉しいことが相手が必ず嬉しいことだとは限らない。そういう経験の積み重ね、その蓄積があって初めて本当のボランティアが出来るのだと。
 そんな久保さんのこれからの夢はもっともっと富山市をよくしていくことです。ただ若者に夢を持って!というだけではなく、行政も夢を持つべきだと思っています。成長をあきらめて、打つべき策も打たず、人口は減っていくけれどみなさん頑張って、というのはあまりに無責任ではないか。そういう想いで富山市青年元気塾では「富山の人口を倍増しよう」という計画を発表するなど、さまざまな活動をしている久保さん。そんなさまざまな活動の中で、「これはやりきった!」と実感できた時が最高にワクワクする時間です。
 これからも富山の青年リーダーとして、富山市をそして富山県を動かしていってください!私たちダイバーシティとやまもずっと応援していきます!


(写真はとやま東日本盆踊り大会の様子)
今日の人32.久保大憲さん パート.1 [2012年02月16日(Thu)]
 今日の人はとやま311ネットの代表としてこの一年、東奔西走していた久保大憲さんです。
 とやま311ネットは県内のNPOや企業、各種団体・個人が集まり富山県内に避難されて来た方の生活支援をするために発足した会です。具体的な活動としては、富山県民の方から寄付頂いた生活用品・生活家電を避難者の方に無償で提供する活動や、富山県内で行われている支援活動の情報一元化による避難者の方への情報提供、避難者同士の交流の場の提供などを行っています。
 久保さんは富山市生まれの富山市育ち。小さい頃は、ジャイアンタイプの子どもでした。いわゆるガキ大将!そして、小・中学校時代はバレーボールの選手としても活躍していました。
 でも、高校受験の時から調子が狂います。受験と名のつくものはことごとく失敗しました。高校に滑るのも、大学に滑るのも、自分の人生設計の中にはありませんでした。富山県は県立高校を第一志望にして受験に失敗した生徒が私立に行くケースが多いのですが、久保さんの行った私立高校の特別進学コースは「学問優先」と「大学受験での2度目の失敗は許されないというプレッシャー」から原則部活は禁止という暗黙の了解があったので、高校では好きなバレーボールをすることもできませんでした。にもかかわらず、大学受験に失敗しました。
予備校に入った日のことも鮮明に覚えています。その日はちょうど、大学の入学式でもありました。たまたま予備校の入校式から帰った時、お昼のニュースで大学の入学式で同級生がスーツを着て代表で宣誓文を読み上げている姿を見て、なんだかとてもみじめな気分になりました。ああ、この1年はずっと埋まることのない1年なんだなと感じたのです。    
 でも、とにかくがんばるしかない、そう思って浪人時代を過ごし、建築家になろうと思って、名古屋工業大学の建築コースを受けますが、合格通知に書かれていたのは土木コース。名工大に受かって親は大喜びでしたが、久保さんは内心またここでも自分の想いが通らなかったと落胆しました。
 それでも、大学では自分でバレーボールサークルを立ち上げるなど、それなりに楽しい学生生活を過ごしました。でも、なによりよかったのは塾の講師をしたことでした。色黒で声も大きい久保さんでしたが、実は人前で話すのは苦手でした。その苦手意識を克服したくて、塾の講師のアルバイトをしていたのですが、このバイトで人との接し方がずいぶん鍛えられたと感じています。一人一人に合わせた会話の選び方、また教室全体の空気を作る訓練を積むことができたのでした。
 大学の成績はほとんどぎりぎりの可ばかりでしたが、就職活動にはとても自信がありました。面接のときに、「僕が会社を見て選びます」という生意気なことを言っていました。それでも、おもしろい奴だと思ってもらえたのか、受けた会社は全て受かりました。その中から、金沢の企業を選び、就職。そこで5年間土木のコンサルをして過ごしました。でも、5年たっても自分は一番下っ端。久保さんは後輩、部下が欲しかった。早く課長になって、部下と自分の想いを共有して仕事をしていくというのが会社内の夢でしたが、このままでは10年たっても無理なんじゃないか、そう思って会社を辞めました。
 仕事を辞めたあと、ポリテクセンターに半年通い、職業訓練を受けました。同じ職業訓練を受けていた人に保育士さんがいました。保育士は給料が安く、サービス残業も当たり前、行事が多いので、家に持ち帰って作るものも多い。本当は子どもが大好きだから保育士としてやっていきたいけど、経済的、体力的に厳しくてやめていく保育士がたくさんいるという話しを聞いて、これはなんとかしなくちゃいけないと思いました。
 ちょうどその時、富山市が保育所の民営化事業者を募集していました。よし、今自分がすべきことはこれだ!そう考えてまずはとやま起業未来塾に入って起業の勉強から始めたのでした。未来塾にいる間にも、たくさんの保育所の経営者に会いました。何人もの人に会って思ったのは、保育所の経営者は、保育の内容に力を入れていても、保育士の待遇に心を配っていないということ。自分が保育園から学童保育、そして学習塾までをつないで、保育園から中学卒業までの子どもたちを預かる仕組みを作ろう!学習塾のノウハウは学生時代に名古屋の大手の学習塾で講師をしていたから持っている。学習塾で得た利益で、保育園の保育士に高い給料を払える仕組み作りをして、保育士の働く環境を変えていこう。そのビジネスプランをひっさげて、保育士や園長先生になってくれる人を探す旅に出ました。
 しかし、最初はどこでも門前払い。でも、粘り強くたくさんの人に熱意を伝えるうちに一人、二人と賛同してくれる人が増えました。そして、人員を確保し、保育所民営化事業に応募。
…しかし結果は落選でした。次まで待っていてくれると言ってくれた人もいましたが、次に確実に受かる自信はなかった。このまま何年もみんなを引っ張っていくのは無理だと思ったのです。無念でした。

(パート.2に続きます。乞う、ご期待ウインク
今日の人31.池田将人さん [2012年02月09日(Thu)]
 今日の人は、株式会社フロー代表取締社長 池田将人さんです。
地域資源・メイドインジャパンをWEBを通じて日本・世界へ販売し、医療支援へと繋げる「流れ・FLOW」を創り日本を世界へ発信する 。そういう意図で会社の名前をフローにしました。
 フローでは【HappyMOSS 〜苔と始めるグリーン生活〜】という通販サイトで苔の販売に力を注いでいます。屋上緑化、庭園緑化、室内緑化など、さまざまなシーンで苔は活用できて、節電の夏の「緑化パワー」として、メディアでも数多く取り上げられています。
 WEBを通じての販売はわかるけど、それを医療支援に繋げるってどういうこと?私もそう思いました。なぜ池田さんの名刺に医療支援と書いてあるのか、それが気になったのです。
 池田さんが小学校2年生の時です。その頃、家のお風呂はガス釜タイプのお風呂でした。ある程度温まったら、自分でガスのスイッチを切らないと、お風呂のお湯は沸騰してしまいます。そのスイッチは風呂釜の奥についていました。そしてそのスイッチを切るのは池田さんの役目になっていました。まだ体の軽かった池田さんは、いつも風呂ふたの上に乗って、そのスイッチを切っていました。ある日、いつものようにお風呂をわかしていました。いつもだったら時間を決めてスイッチを切りにいっていたのですが、その日はたまたまドラゴンボールの放送に夢中になっていて、ずいぶん時間が経過していました。ドラゴンボールが終わり「やべえ!」と思って慌ててスイッチを切りに風呂場へ行って風呂ふたに飛び乗りました。その時です。風呂ふたが外れました。一瞬何が起こったのかわかりませんでした。小学2年生の少年は、まさに五右衛門風呂のように煮えたぎる湯船の中に落ちてしまったのです。救急車に乗せられたところまでは記憶がありますが、その後の記憶はありません。次に気がついた時はもう、3,4日経った後でした。全身包帯で覆われてベッドの上に横たわっている自分がいました。命に危険があると言われる全身の3分の1以上に大やけどを負い、親は「覚悟しておくように」と医者から言われていました。包帯を変えるときも傷口に包帯がへばりついて絶叫するような痛さでした。ケロイド状になった火傷のあとには耐えがたい痛さと痒さが襲ってきます。4か月入院して、退院はできましたが、火傷の跡が気になって、短パンをはけなくなりました。
 しかし、悲劇はそれだけではありませんでした。全身麻酔によって手術を受けたときの輸血によって、C型肝炎に感染していたのです。C型肝炎は放っておくと肝硬変や肝細胞がんになってしまう可能性がある…自分の人生はめちゃめちゃになってしまった。そう思って落ち込みました。その頃、C型肝炎の特効薬としてインターフェロンが出始めていましたが、まだ保険適用外の高価な薬でした。いつかこの薬で治療をしよう、そう心に決めてC型肝炎のキャリアのまま過ごしました。
 高校卒業後は歯科専門学校で学生生活を送り、歯科技工士となって5年間働きました。その頃、ようやくインターフェロンも保険が使えるようになっていました。今こそ治療を受けよう、そう思いました。それでも、薬の副作用等考えると、働きながら投薬を受けるのは無理だと考え、治療に専念するために歯科技工士の仕事をやめました。池田さんは、この治療に備えて働いている5年間ずっと貯金をしてきました。貯金をして覚悟をして治療を始めたものの、働かずに治療に専念する生活は思った以上にお金がどんどん出ていってしまいました。正直焦りました。果たして自分はちゃんと治るのか?薬の副作用による熱や吐き気、そして倦怠感は、相当強く、鬱状態…。友達から飲みに誘われても、こんな状態のやつがいたら場がしらけるにちがいない、と思って断り続けました。それにお金もありませんでしたから、とても飲みに出るような心境ではなかったのです。
 ただ、時間はありました。池田さんは家と図書館を往復し、むさぼるようにいろいろな本を読みました。人は必ず死ぬ、じゃあどうして僕はこの世に生を受けたのか、自分の生きている意味はなんなのか、それをずっと考え続けました。そうして、或る所に思いが到ります。人は必ずなにかをなすために生まれてくるにちがいない。だとしたら火傷で苦しみ、そしてC型肝炎でも苦しんでいる自分の役割は、同じように苦しんでいる人たちの力になれるということではないのか。そういう人たちの力になるために自分は生を受けたのではないのか。「医療支援」そのキーワードが頭に浮かんできました。「僕は医療支援をライフワークにする!」具体的なアイデアは何もありませんでした。でも、その情熱がふつふつと湧き上がってきたのです。
 池田さんは思いました。ボランティアをして目の前にいる人を助けるのも、もちろん尊い活動だ。でも、それだと目の前にいる人しか助けられない。僕は、もっとたくさんの人を助けられる仕組みを作りたい。でも、そのためにはやはり資金が必要だ。だから、資金が出せるようにまずは儲けを出せる会社を作ろう!そして、その利益を医療支援に使う仕組みを作ろう。そう決意してからはひたすら勉強に打ち込みました。まずは経営について深く学びました。そして地域経済からグローバル経済まで幅広い分野についても学び、富山の地域経済を発展させ、なおかつそれを世界に売り込んでいくツールはインターネットビジネスしかないとの思いに到ります。私は国際理解教育に携わるようになった十数年前からTIE(とやま国際理解教育研究会)のキャッチコピーの「Think globally,act locally」(地球規模で考え地域で行動しよう)を座右の銘にしてきました。池田さんの想いもまさに「Think globally,act locally」なのではないかと思っています。
 こうして2010年に「ハッピーモス」のブランド名で苔の販売事業を行う株式会社フローを設立したのです。具体的にどんな医療支援を行っていくのか、それはまだまだ手さぐりですが、医療を提供する側への支援と、受ける側の支援をつなぐ仕組みつくりから携わっていくつもりです。夢は大きく広がりますが、夢を夢だけで終わらせるつもりは毛頭ありません。ですから池田さんは「本気の夢を宣言する会」も主催しています。そしてそれを叶えるために朝型の生活習慣を身につけるための「朝カフェ〜朝から人生を変える挑戦者たち〜」も主催しています。
 まったくもって自分に妥協がない若者です。明治維新を支えた志士のような清々しさを感じるのは、自身の体験が彼を大きな人間に変えたからなのかもしれません。
 そしてそんな池田さんの夢はもうひとつあります。それは宇宙から地球を見ること。宇宙空間にはどんな世界が待っているのか、そこから地球を見ると、自分がいつも思う「自分は何のために生きているのか?」それがもっとクリアになるのかもしれない。そう思います。いつかそんな日を迎えるためにも今はせいいっぱい働きたい。
喜働で医療支援の仕組みを作り、いつか宇宙へ行く。それは池田将人なら、きっとできるでしょう。それだけの覚悟で日々生きている素敵な若者なのですから。
 また一人、富山に応援したい人が増えました笑い