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今日の人186.米田昌功さん [2019年06月11日(Tue)]
 今日の人はご自身が画家でもあり、「アートNPO障害者アート支援工房ココペリ(COCOPELLI)」代表の米田昌功さんです。NPOの委託事業として富山障害者芸術活動普及支援センターばーと◎とやまBe=ART◎Toyamaとしての活動もされていて、障害のあるなしに関係なく、誰もが芸術文化、表現活動に自然に取り組むことができる環境作りを目指していらっしゃいます。
アートNPO障害者アート支援工房「ココペリ(COCOPELLI)」
https://npococopelli.jimdo.com/
富山障害者芸術活動普及支援センターばーと◎とやまBe=ART◎Toyama
https://bearttoyam.jimdofree.com/
IMG_3364 (2).jpg

 米田さんは1965年富山市稲荷元町で生まれました。家は自動車修理工場で、工場には小さい子がワクワクする消防車やパトカーなども修理に入っていました。そんな工場が子どもの頃の米田さんの遊び場でした。米田さんは子どもの頃から絵を描いたりものを作ったりするのが大好きでした。工場には廃品や針金など、素材がいっぱい転がっていて、それらを組み合わせていつも何か作っていました。
 そしていつも絵を描いていたので、そんなに好きなら習わせたらいいんじゃないかと近所の絵画教室に絵を習いに行くようになりました。けれど、米田さんは何か言われて自分の絵を直すのがすごくイヤでした。そうして、定期展覧会に絵を出しなさいと言われた時にどうしても絵を飾る気になれず出品を拒みました。自宅で描いたり作ったりしている方が集中できたし、気まずさも手伝って、すぐに足が向かなくなりました。でもやっぱり絵を描くのは大好きで、自分で好きなように描いていたのでした。

 当時の自動車修理工場は、廃車になった車を置いておく場所が必要で、そこは米田さんにとって絶好の秘密基地の場所になりました。当時の子どもたちは秘密基地を作って遊ぶのが大好きで、米田さんもいろいろな所に秘密基地を作っていました。廃屋だと思って、友だちと一緒に一日かけてレイアウトしていたら、実は廃屋ではなくて、こっぴどく叱られたこともあります。

 小学校に卓球クラブが出来て、通ったこともありましたが、落ち着きがなくて他の子どもの練習の邪魔になると言われやめさせられてしまいます。自分の都合にしろそうじゃないにしろ、習い事は続かなかった子ども時代でした。
でも、絵を描くことは絶対に辞めなかった米田さん。その頃からずっと大人になっても絵に関わっていたいという気持ちがありました。自分の作った作品にはとても愛着があったので、もし、その作品が誰かに壊されたりしようものならさあ大変。相手が不良だろうとなんだろうと臆せずかかっていきました。当時米田さんが通っていた中学校は窓ガラスがいつも割られているような学校で不良から呼び出されたことも何度もありましたが、不思議と殴られたことはありませんでした。米田さん自身も不良だからといった理由で人を遠ざけることはありませんでした。当時から人をものさしのようなものではかることが嫌いだったのです。そのせいか、米田さんの周りには優等生から不良までいろいろな人がいたのでした。

 神話や伝説も好きで、小学校の図書室では、ギリシャ神話や古事記をいつも胸を躍らせながら読んでいました。 また、家の近くに大映の大看板があって、新しい映画が始まるたびに書き換えられるのです。線路の向こうにその怪獣映画の大看板があって、それを見たいがために線路をわたって電車をとめてしまったこともありました。そのためか、小学生高学年の時は友だちと映画ばかり見ていて、朝から晩まで映画館にいました。当時は入れ替え制ではなかったので、一度映画館に入るとずっといられたのです。ちょうどスピルバーグやルーカスの映画も出だしたころで、映画の作り方にもすごく興味がありました。お小遣いは全部映画に使っていたので、親に「そんなに映画ばかり見ているならもうお小遣いをやらん」と言われたくらいです。映画の看板を見るのも大好きでした。
劇場と言われる映画館がなくなるのに伴って、映画の大看板もなくなってしまいましたが、米田さんは今も映画は大好きです。家に映画のDVDも何百本も持っているのでした。
 
 中学校の担任の先生は不良にも一目置かれている先生で担当教科は美術でした。その先生に出会えたことも米田さんには大きかった。その先生は米田さんの才能を見出して「米田は美大に行けばいい」と言ってくれていました。もっとも、美大に行けばいい、のあとには「美大に行けば、毎日ただで女の裸が見られるぞ」というセリフも続いたのですが。

 中学生になり、やはり米田さんは家で絵を描いたり工作をしたりしていましたが、部活動はテニス部でした。テニスが得意だったお兄さんの影響もありました。高校でもそのままテニス部に入りましたが、バンドも組んでライブハウスを借りてコンサートもやっていました。米田さんたちのバンドはイーグルスやビリージョエル、サザンの曲をコピーすることが多かったそうです。米田さんはボーカル担当で、コンサートの時は企画もやり、ポスターも描いたりしました。そういう裏方的な作業も好きだったのです。漠然と美大に行って将来は美術の仕事をしたいと思っていたこともあり、美術教師の助言で2年の途中から美術部に入部しましたが、テニス部もバンドも忙しかったし、県外の画塾にも通い始めたので、籍だけ置いて、家で絵を描き展覧会に出品していました。米田さんはその頃から絵は一人で描くものと言う強い気持ちがあり、自由に描くのにわざわざ決められた場所に集まって作品を作るということに当時は必然性を感じなかったのです。なので、平日はテニス部、技術力アップの画塾は土日を使って取り組んでいました。高校の卒業式に美術部の後輩から「はじめまして、米田先輩」と花束をもらったエピソードが象徴的です。
実は、高校の後輩にあの日本が誇る映画監督の細田守さんがいました。細田さんは当時から高校生らしからぬすごい絵を描いていたそうです。

 

 金沢美大の日本画専攻に進んだ米田さんでしたが、卒業後の作家としての生き方を意識した時に様々な葛藤が生じ、卒業間近には下宿で描くことも多かったそうです。それは美大の現実、アートの可能性と限界、表現者が抱く希望と呪いによる仕方のない選択でした。決して決められた場所で製作するのが嫌だったわけではなかったのですが、アートに関しては正直でありたいと思ってしまった以上息苦しく感じる場所では描けなかったのです。

 子どもの頃から神話好きだったこともあって、大学時代も今も、美術館だけでなく神社やお寺巡りをよくしています。当時はアルバイトでお金を貯めては東京で展覧会を見たり、九州へ原始時代や古墳時代の壁画を見に行ったり、北海道にアイヌ文化を調べに行ったりしていました。小さい神社から大きな神社までとにかく訪れた地域の神社はほぼ見て歩いていました。米田さんの日本の神話や神社に関する知識はとても深くて、まるで文化人類学者のように話題が溢れてくるのです。ほんとびっくりぽんです。
 大学時代は葛藤もありましたが、現在に至る要因となる出来事がいくつかありました。
 ある時、肢体不自由の奥さんと視覚障害のご主人のご夫妻から知り合いのために日本画で絵を描いてほしいと頼まれたのです。それは金沢に住んでいた病院の先生の実家を描いてほしいというものでした。その先生はある事情があって、金沢を出なくてはいけなくなった先生で、浅野川沿いのその家は昭和30年の板で囲ったぼろぼろの家でした。壊される前にお世話になった先生のご自宅の絵をぜひ描いてほしいと美大生の米田さんは頼まれたのです。絵が完成してそれを渡した時、そのお医者さんの姪御さんが「ああ、住んでいた頃のにおいがする」とおっしゃったそうです。そのひと言がすごく嬉しくて、その人の人生の転機に、その人の人生のその後を支える絵が描けることが大きな喜びだと実感したのです。そうして、ずっと美術にかかわることをしていこうと米田さんは心に決めたのでした。

 大学3年生の時には、食品会社から生命に関わる絵を描いてほしいと依頼が来ました。米田さんはケルト神話の世界樹をヒントに木〜宇宙〜光をテーマにして作品を完成させました。締め切りを過ぎてからその作品を持って行ったのですが、社長は大層気に入ってくれて、今もその作品はその会社に飾ってあります。その時の社長は、今、知的障害の人を雇ってそば屋を営んでいるとのことで、そういう意味でもご縁があるなぁと感じるのでした。

 また、東京での画廊巡りの途中で不思議な出会いをした名古屋の日本画家さんは身体に生まれながらの障害をもちながらもプロとして活躍をしてきた人でした。麻痺を麻痺ともせず独特の表現をされる方で、その方との出会いも転機になりました。美術はテクニックや知識だけじゃないということを、その方を通じて強烈に感じたのです。その先生宅で行われる講演会などのお手伝いなども行うようになる中で、本人と友人の作家、画廊など、様々な人の生き方に触れ、作家として生きることの意味や難しさなどを教えてもらったそうです。
そんなふうに米田さんが転機に出会う人は、一般的に言う五体満足じゃない人が多いのでした。

 大学を卒業したら、名古屋か東京に行って、先生について絵を描くべきという思いをもっていたので、就職はせずアルバイトや美大の非常勤助手の仕事などで生活をして制作に打ち込んでいました。知り合いになった美術関係者に身の振り方を相談すると、ある人には「実家に戻って、父母が生活のために働く姿を見ながら絵を描くことができるか?絵を描いて生きることを、あなた自身はどう捉えているのか?父母の隣で描いてこそ本物でしょ?」と問われ、ある人には「米田くんの作品は上を目指すものではなく、自分のルーツにつながるものを掘り下げてこそ価値のある物になる絵だと思う。地元の歴史や伝説などを肌で学ぶ場所にいるべき。絵を描くために中央に行くことに大きな意味はない。と言われました。しかし地方で無所属の日本画家が活動するなどあまり例のない時代でした。
 そんな時に、当時は全く考えてなかった教員の仕事につながる出来事がありました。金沢に住んでいた米田さんに富山県教育委員会から、講師をしないかという話が来ます。病気の先生の代わりに10月から12月の3か月だけ、非常勤講師として高校で働きました。しかし、美術部の子たちに、「私たちの中・高で学んできた美術の概念を壊されました。どうしたらいいんですか?」と言われて、やっぱり自分は教員には向いていない、と思いましたが、次に働き始めた養護学校で、生徒の個性的な表現や教師の独創性が試される美術指導のあり方を経験し、 この仕事なら自分の美術活動を続けることと矛盾しないと感じたのです。こうして、教員試験を受け養護学校、後には特別支援学校の教員をしながら、自身の制作活動をやっていくという意識にシフトしたのでした。
 
 支援学校では一人一人の特性に合わせて教材を作っていました。米田さんは25年間、教員生活を送りましたが、最初の11年は肢体不自由の人たちの美術に関わりました。彼らの作品は米田さんの感覚を解きほぐしていってくれました。
次の14年は美術的に独創性の高い世界をもつ知的障害、自閉症の方の美術に関わりました。
ここでは県内の支援学校で初めて美術部を作り、あえて校外でグループ展を開き、出品対象が障害者ではない公募展に意識して応募すると言った活動を始めました。
 その間、自分の作品も作り続けていました。といってもなかなかハードな毎日ではありました。公募展での大賞受賞やより多くの出会いにより、学生時代に影響を受けた美術集団のグループ展に毎年出品するようになりました。個展なども県内外で活発に行う中、美術館での企画展にも呼ばれるようになりました。毎日夜10時、11時までは教員としての持ち帰りの仕事をやり、就寝した後、1時とか3時とかに起きて、朝の5時までは自分の作品制作の時間でした。朝の5時から少し寝て、また朝から教員の仕事に出かける、そんな生活をずっと続けました。身体のメンテナンスは寝ること、時間がもったいなくて、シャワーだけで過ごさなければならない時期もありました。
 その一方で、立山曼荼羅の研究もやっていました。前述のように文化人類学者と言ってもいいほど博学な米田さんは、立山信仰に関しては、「立山縁起絵巻」も出版されているほどです。没頭すると、とことん突き詰めていくタイプなのです。そういうこともあって、在外研修制度を利用して、ネパールに1年間留学して曼荼羅・伝統美術を学びに行ったこともあります。ネパールのパタンという仏教徒が多く住む古都で、一番古い歴史をもつネワール民族の先生から学びました。通訳に入ってくれる人を探すのも大変で、異文化の中で暮らす苦労をたくさん味わった1年間でした。そんな中ネパールでアートによるNGO活動を通して心を豊かにするという活動をしている日本人に出会います。外国でアート支援をやっている人がいる、環境が整った日本でできないはずがない、そう思った米田さんは帰国後、特別支援学校の卒業生のための絵画グループを作ったのです。2006年のことでした。集まった彼らの作品は完全に福祉の枠など超えている。自称作家と言っている人たちの作品より、よほど素晴らしい。こんな世界があることをもっと多くの人に知ってもらわなければ。いいものを描いている人が、まっとうな評価をされるようにならなければならない、とあらためて思ったのです。それは地域文化のバロメーターでもあるのです。富山を文化という尺度で見たときに、障害を持った人を外した尺度であったとしたら、それは本当の豊かさではない。多様性、豊かさが如実に現れるのが文化の世界に他ならないのです。

 でも、そうやって展覧会などの活動を展開していくと予想以上に日本のあちこちにそんなグループがたくさんあることがわかってました。そんな中でも滋賀県の取り組みは特にすごかった。当時の滋賀県の福祉関係者との付き合いも始まり、アール・ブリュットに関する会議への出席や、フォーラムでの登壇、作品調査委員などを担当することになり、年に何度かは滋賀県に行き本場の空気に触れながら、障害者の創作活動支援について学んでいきました。偶然ですが、米田さんが所属する美術集団の創設メンバーの中に滋賀でのアート支援に大きく関わり福祉の世界を変えてきた人がいたのにも縁を感じたのです。様々な支援の現場に触れる中で、障害者施設「やまなみ工房」は今までの障害者施設の常識を覆す取り組みをしていて、米田さんは大きな刺激を受けました。やまなみ工房についてはこちら⇒http://a-yamanami.jp/
 

 米田さんはネパールで大変有名な占い師に、あなたは47歳で劇的に人生が変わると言われたそうですが、美術を中心とした生活に移行することは、その何年も前から考えていたことでした。様々な条件や環境が眼に見える形で整い始めたことで決断。50歳の時に教員を辞めて、障害者芸術活動支援センターの設立準備と、従来のアートNPO運営、作家活動に集中していくことにしました。2017年のことです。
 既に障害者アートの支援活動は10年を超え、アールブリュットに関する県外からの依頼も増え、連携することも多くなっていました。

平成30年夏には国と県の支援によって富山県障害者芸術活動支援センターばーと◎とやまが設立しました。「ばーと」はBe=ARTです。Beは存在や生。ARTは表現。存在や生そのものがアートであり、障害のあるなしに関わらず誰もがアートにかかわる、そんな思いが込められています。
アールブリュットというのは、フランス語のART BRUTから来ています。
BRUTというのはワインの樽の栓を抜いて一滴目。つまり生まれたままの飾りがない状態を言います。自分の心の声に従った飾りのない作品がアールブリュット。技術や知識を意識せずに、ありのままに勝手に手が動くといった感じで描かれる作品は今までの美術史の体系に入っていません。今までのアートの領域にはないそんな作品の数々が、アートが本来もっている表現の多様性や人間の可能性を再認識させてくれると、今、大注目を集めているのです。
障害者の方々が、見られること飾られることを意識せずに、ただ無心に作っているものが、視点を変えることで強烈なアートになります。例えば、床に落ちている髪の毛を拾い集めて、それを星座の形にしている人がいます。私たちの持つ概念をぶっ壊して新しいものが生み出されている、今、障害者アートはアート改革の中心にあると言ってもいいのでしょう。
そしてその新たな発見を生み出すアートは、コミュニティ全体の価値観を変化させる力を持っています。まさに福祉の現場がドラスチックに動いている、そんな時代にあるのです。

 米田さんご自身が作家として描きたいものは、その時その時に目の前に現れたものであり、この世界の在り様を記憶にとどめたいと思っているのです。そのテーマには、やはりご自身がずっと取り組んでいる、神話や、立山曼荼羅が多く出てきます。
 立山曼荼羅の世界は、実はダイバーシティそのものなのだと米田さんが教えてくださいました。立山曼荼羅は地獄も極楽も、過去、未来、現実、架空の世界、それら全てが同じステージで描かれており、多層的で境界の見えない世界感をもっているのだと。どこを切り取ってもそこだけで作品になってしなうほど画面の中に濃厚な情報が入っていて、鬼や建物は、別の世界や情報をのぞき込む窓のような役割をもっているのです。言ってみれば、曼荼羅全体がウィンドウで、描かれた事物はアイコン。パソコン画面のような構造です。この考え方はネパールの曼荼羅とは全く違うのです。日本人の多様性が立山曼荼羅には入っているのです。どこが上か下かではない。地獄と極楽が同じ場所にあっても違和感を感じない、多様な世界を重層的に感得することができる、それが日本の多様性のすばらしさなのではないかと米田さんは思ったいます。そして、立山の奥深い文化は縄文までさかのぼることができるそうです。なんだかとてもワクワクするお話ですよね。

 米田さんご自身の個展も折々に開催されているそうですし、今年は富山県水墨画美術館20周年の展覧会にも米田さんの作品が並びます。またアートNPO工房ココペリでは6月15日から7月2日まで、射水市大島絵本館において、射水市在住のアール・ブリュット作家 末永征士さんの個展を開催します。
 皆さん、米田さんご自身の、また数々のアール・ブリュットアート作家のアートの世界にぜひ触れてみてください。私も楽しみにしています。