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今日の人168.萩野二彦さん [2017年07月09日(Sun)]
 今日の人は 若年性認知症ケア専門職で、マーケティングセミナーや認知症セミナーの講師等も手がけていらっしゃる萩野二彦さんです。
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にこやかに皿洗いをされている萩野さん

 萩野さんは、富山市で生まれ育ちました。小さい時は体が弱くてとても暗い子どもでした。体が弱いのであまり外では遊ばず、家の中でばかり遊んでいました。月光仮面が大好きで、家の中ではふろしきをマント代わりにして、おもちゃの刀を持ってこたつから飛び降りたりしていたものです。当時のこたつはまだ練炭炬燵でこたつに頭を突っ込んで寝てしまい、中毒で死にそうになったこともありました。小児結核も患い、とにかく生きているのがやっとな感じだったのです。
お父さんは婦中町の開業医、お母さんは富山の繁華街桜木町でスナックのママをしていました。しかし父の都合で萩野さんは母方で育てられます。お母さんも家にいない時間が多く、萩野さんは主におばあちゃんに育てられました。おばあちゃんはとってもお掃除好きだったので知らぬ間に大事にしているおもちゃを悪気なく捨ててしまうような人でした。しかしお母さんは羽振りがよく、おもちゃを惜しみなく買ってくれたので、ブリキの飛行機や白バイのおもちゃでよく遊んでいたのを覚えています。
 
 小学校中学年になって、自転車に乗り始めてからは少しずつ体力がついて元気になり、外遊びも出来るようになりました。それで缶蹴りや鬼ごっこやメンコをしたりお寺の砂場で遊んだりしました。小学校高学年の時の夢はパイロットや白バイ隊員でした。男子にとっては間違いなくあこがれの職業ですね。

 小学校の高学年から太り始めた萩野さんは中学校に入ってのっけから柔道部に誘われて入らされてしまいます。これがイヤでイヤで仕方がありませんでした。はやく辞めたい、そればかり思っていました。
授業中はいろいろなことを妄想するのが好きでした。例えば、中学校の四角いプールを見て、流れるプールや波のプールがあればいいのになぁといろいろ想像を膨らませていました。今は当たり前にそんなプールがありますが、当時はまだそんなプールはなかったのです。ですから、太閤山ランドのプールが出来た時はびっくりしました。世の中には自分と同じようなことを考えている人がいて、空想したことを実現しちゃう人がいるんだ!これはすごいことだぞ!って。そこに気付けたことはとても大きかった。

 中学の卒業間近のある日、合唱部の先生に「そこの2人お喋りしてるから立っていなさい!」と注意され、廊下にバケツを持って立たされました。その時一緒に立たされた子はそれまでは友だちではなかったのですが、「俺ら何も話してないよな」「そうだよな、ひどいよな」と話が盛り上がり、それがきっかけ親友になるのですから、人生における大事なきっかけとは面白いものだなぁとつくづく思います。

 高校に入っても柔道部に誘われたのですが、断って自動車クラブに入りました。しかし、部室が集中している場所が他の部の子が隠れて吸っていたタバコの火の不始末で全焼するという事件が起こります。自動車クラブの部室も全焼したため、萩野さんは帰宅部になります。それからはもっぱらあの一緒に廊下に立たされた彼とつるむようになりました。彼と高校は違ったのですがのですが、ほとんど毎日のように一緒に過ごしていました。彼はとても気さくで社交的な性格だったので、萩野さんだけでなく、いろんな子が集まってきました。内気だった萩野さんもそこで一気に友だちが増えた感じでした。実は、その子のお父さんと萩野さんのお父さんは昔友だち同士でした。「君はあいつの息子か?」と聞かれ、それから萩野さんのことを可愛がってくれるようになりました。私生児で生まれた萩野さんにはお父さんの記憶はほとんどありません。もし、おやじが家にいたらこんな感じなんだろうなと思い、なんだかそれがとても嬉しかった。そんなおやじさんとの交流も含めて、そこで過ごす時間は萩野さんにとってとても大切な時間でした。

 そして、高校卒業後は専修大学の商学部へ。アパートは下北沢のすぐ近くだったので、下北沢が遊び場になって、東京生活を楽しめるようになっていました。下北沢には小劇場がたくさんあって、演劇にはまった萩野さん。なにしろ安いし、役者の息遣いが間近に感じられる小劇場の雰囲気が大好きでした。

高校の時に空き家に集っていたメンバーとは高校卒業後も交流が続き、メンバーの兄貴分たちが行った富山初の野外コンサートイベント「ヤングフェスティバル」の初開催を手伝います。やがてそれを引継ぎ県内でいろいろなイベントをやっていくことになりました。引継ぎの時は引継ぎ式をして杯を交わすなどしました。何だかその時代の風潮を感じます。富山でアマチュアバンドコンサートを企画したり、ビートルズのフィルムコンサートを企画したりしました。萩野さんはイベントが当たってかなり羽振りのよい大学生だったので、しょっちゅう富山と東京を行ったり来たり出来たのです。
ビートルズのフィルムコンサートの時は、東京赤坂の東芝EMIに「ビートルズのフィルムを貸してください!」と直談判。担当者はあきれ果てていましたが、「もうポスターも印刷しちゃったんです」と粘ると、なんと一週間後に貸してくれたのです!そんなわけで当時の萩野さんは学生起業家、プロモーターの走り、といった感じでした。

 大学を卒業後は富山に戻って地元企業に就職したのですが、社長が夜な夜な飲みに行く時に運転手をさせられてずっと待たされていることに虚しさを感じて辞めました。その頃は就職難の時代だったのですが、ちょうど富山に西武百貨店がオープンして、応募し採用になり、最初は茶碗売り場を担当させられました。花形の洋服売り場とちがって、茶碗売り場は人気がなかったのですが、ここで辞めると仕事がないと思って我慢しました。その後は、外商、企画統括、旅行サロン、ブライダル、セゾンカード友の会と様々な部署に配属になり、その都度結果を残してきました。セゾンカード友の会の担当の時には富山で初めてのテレビショッピングをやりました。それまで、テレビショッピングに慣れていなかった富山の人は、その放送を見て商品の注文ではなく、「あの姉ちゃん、どこの人け?うちの嫁にしたい」と商品を紹介している女性を紹介してほしいという電話が多いくらいでした。

 しかし、西武百貨店の看板をしょっているけれど、果たして俺自身の実力はどうなんだ?肩書きを外した時の俺は何をもっているんだ?そういう思いが強くなってきたころにヘッドハンテイングされ14年間勤めた西武を辞めたのです。

 その仕事は自己啓発プログラムを販売するフルコミッションの仕事でした。萩野さんはメキメキ実力を発揮してすぐに月間アワードを取るようになります。どんどん収入が増えて「よ~し」と思った矢先に実父が亡くなります。ほとんど会ったこともない実父で、まともに顔を見たのは亡くなった時が初めてでした。しかし、常に認めてほしいと思っていた存在がいなくなったことで、心にポッカリと穴が空きます。そうして、動けなくなってしまったのです。

 萩野さんはサラリーマン時代はいつかは独立したいと思っていました。フランチャイズビジネスにも興味があり日ごろからよく東京へ出かけて研究をしていました。この時に心に引っかかっていた現像プリントの仕事で起業しようと思い立ちます。自己啓発プログラムの販売で貯めた貯金が1000万程ありました。それを元手に、富山市に30分現像仕上げの店をオープンさせました。15坪のそのお店は売り上げがどんどん上がり年商が1億円になります。すっかり天狗になってしまった萩野さん。これを全国展開しようと思い、フランチャイズシステムを学ぶセミナーに通い始めます。このセミナーには今思えばすごい人たちがたくさん参加していました。私が聞いただけでも、今や全国にチェーンを持つ会社のそうそうたる方々です。そんな多くの仲間との出会いの中からビジネスのヒントをいただきます。

 順調だった事業でしたが、デジカメが登場し、あっという間にフィルムを駆逐していきました。見る間に お店の売り上げが落ちていきました。踏ん切りをつけなくてはいけないのはわかっているのに、なかなかつけられない。やはり、自分で最初に出したお店には強い愛着があったのです。そしてとうとう、萩野さんは夜逃げせざるを得ない状況にまで追い込まれてしまったのです。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、松本にいる知人から仕事を手伝ってくれないかと声がかかりました。ビジネスノウハウを教えるというもので、営業をかけるとすぐに売れ出して、本社を東京に移して大手ショッピングセンターにも次々に出店するまでになります。萩野さんは知的財産のこともいろいろと勉強しマネジメントの講師も引き受けたりしていました。

 2008年には萩野さんの事務所も東京に移し、創業パーティも盛大に開催し、いよいよこれからという時に、奥さんに悪性リンパ腫が見つかります。それまで、萩野さんは事務的なことは富山にいる奥さんに託し、自身は全国を飛び回る生活だったので、その機能がストップしてしまいました。そして2010年の奥さんが亡くなり、心が空っぽ状態になってしまいます。そんな状態ではとても東京での仕事など続けることはできませんでした。富山に帰ってきたからもやることがなく、また何もやる気が出ず、半日以上ファストフード店でボーっと座っていることもありました。そんな時に出会ったのが能登さんでした。(能登さんのことはこちらのブログでお読みください→)
 こうして能登さんとの出会いから、今まで全く縁のなかったNPO業界に関わっていくことになりました。ここで、今までの価値観がガラリと変わるのを感じました。

 その後、高岡大和で開かれている北日本新聞のカルチャーセンターでビジネス講座やマーケティング講座を担当したり、富山を映画で盛り上げていこうとしていた氷見の大石さん(その後、富山が映画撮影のメッカになったのはこの大石さんの功績が大きいのですが、そのお話はまた別の機会に(*^-^*))に賛同して、一緒に活動したりしました。下北沢でよく演劇を見ていたのがこの時に役に立ちました。なんと萩野さん、富山で撮影された映画にちょこちょこ出演されているそうなので、今度ぜひ探してみたいと思います。

 そうした日々の中、2015年に「認知症対応型通所介護デイサービス木の実」と出会います。今まで全くやったことのなかった福祉の世界に携わることになった萩野さん。でも、この世界は驚きの連続でした。これまでレストランや物販、サービス店などの店舗運営について全国で2千件以上に携わっていて施設マネジメントで出来ないことは無いと自負していたのに、それらのスキルではまったく通用しない。認知症の人の介護は大変で働く人もどんどん辞めていく。
 自分が今までやってきた世界とは全然ちがう。大きな介護施設であれば成り立っていく、そんな感じであった。しかし職員は安い給料で働いていて生活が成り立たない、この先もそんな現状ではとても福祉の世界は未来が無い。この現状をなんとか打破して、現場のスタッフも入所者も家族も、ちゃんとやっていけるようにするにはどうしたらいいか、今、萩野さんは常にそれを考えています。そう、そのことをビジネス的に考えているのです。萩野さんがこの世界にイノベーションを起こしてくれそうでとっても楽しみです。

萩野さんは今、カルチャーセンターの講座や町内会の講座でも、認知症患者の家族のための講座を開いています。交通ルールを知らないと事故が起こるのと同じで、認知症のことを知らずに認知症の人に接していると大変なことになってしまいます。この先認知症の人が爆発的に増えていくことを考えると、家族向けの講座の普及は急務です。そういうわけで、萩野さんの頭の中は今、半分が認知症のことを占めているのです。じゃあ、あとの半分は何かって?
それは…うふふ♡ きっとお気づきの方も多いかと思いますが、今、萩野さんは恋をしています。その人を見ていると全然飽きないそうですよ。60代の恋、ステキですね。

 そんな萩野さんが今楽しいことは、もちろん彼女といるときもそうですが、重い認知症の人とコミュニケーションが取れた時だそうです。萩野さんはコーチングやNLP等の心理学の勉強なども一通り学んでいるのですが、認知症の人には、それは全く通用しない。認知症の人は、コントロールの効かないガンダムの中に自分がいるようなものなのです。自分の思いを外にうまく出すことができない。なるほど爆発してしまうことも道理なのですが、そんな中にあっても、そのコントロールの効かないモビルスーツの中にいる自分を受容できた人たちと会話が通じることがある。その嬉しさといったら!

 もちろん話が通じないことが多いから、イラっとすることだらけです。それはそうです。でも、認知症ケアってマーケティングの極致なんです。だって、本人が望むことしか受け入れてくれなくて、すぐに反応がわかるのですから。そう、萩野さんは極めてビジネス的に状況を見つつ、かつその状況を楽しんでいらっしゃるように見えます。そして、木の実にはようやくコアなスタッフがそろってきたので、きっとこれからの展開がとても面白くなるとワクワクしていらっしゃるのでした。

 認知症は全人口の1割の生活が脅かされている差し迫った問題です。この先ボディブローのようにじわじわとこの問題が効いてくるのは間違いありません。家族崩壊、そして地域崩壊していく様子が目に見えるようだと萩野さん。誰もそれを直視せず、またそこに投資されているお金を吸い取ろうとしている輩が今うじゃうじゃいます。それをなんとしても変えていきたい。それが自分の使命だと萩野さんは思っていらっしゃるようでした。

 人生にはいいことも悪いこともいろいろあるけれど、でもそれら全てが、今ある自分を形作っているのだということをとっても実感できるインタビューでした。今つらいことがあったとしても、それはあなたの人生の彩になる。萩野さんの優しい笑顔がそれを物語っています。