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今日の人163.武内孝憲さん [2017年01月15日(Sun)]
 今日の人は、1848年創業の呉服専門店牛島屋の専務取締役であり、ハレの日を演出している株式会社ハミングバード代表取締役社長であり、中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営を手掛ける武内孝憲さんです。
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 武内さんは由緒ある牛島屋の家に生まれ、物心ついた時から牛島屋のある中央通り商店街はいつもそこにある場所でした。

 家は商売で忙しかったので、母方の実家に預けられることも多く、よく絵本を読んでもらっていたし、朗読劇のカセットテープを流しながら寝かしつけられてもいました。そのおかげか、小さい頃から本を読むのは大好きだったし、勝手にストーリーを考えて空想したり、朗読を聞いたりすることが今も好きです。

幼稚園の頃はまだモジモジしている男の子でした。小学校に入ってサッカーを始めると、目立ちたがり屋の面がムクムクと顔を出し、積極的に声を出し自分の意見を言う子に変わっていきました。富山大学附属小学校に通っていたのですが、先生にも恵まれ人間性を尊重し向き合ってもらえたことや、ずっと学級委員や指揮者の任に当たらせてもらえたことで、責任感も培われたとのこと。

街中が通学路だったので、乗り継ぎの時間は中央通り商店街でお店に寄るのが日常でした。その頃、おじいさまは近所の骨董品屋や家具屋に井戸端会議をしに出入りしていらしたので、そこに寄っておやつをいただくのが日課でした。その時代の中央通りといえば、総曲輪と並んで富山でいちばん華やかな商店街でしたから、私たちにとって総曲輪や中央通りに遊びに行くのは、特別な日で前の日からワクワクしたものです。みんなにとって特別なそんな場所が武内さんにとっては日常の場所なのでした。

中学校も富山大学附属中学へ。サッカー部に入って活躍します。部活帰りに寄るのも、やっぱり中央通り商店街。本屋のバックヤードも武内さんの居場所になっていて、そこで本を読むのも大好きな時間でした。焼き鳥屋で焼き鳥を2、3本買って部活後のお腹を満たしていたものです。(部活帰りにお肉屋さんのコロッケを食べるというのはよく聞きますが、中学生で焼き鳥は初めて聞きました!)
この頃は、学校の先生になりたいと考えていました。生徒に囲まれて、ひとつのコミュニティを作り上げていくそんな仕事がとても魅力的だと思ったのです。附属中学校には教育実習生もたくさん来ていたので、彼らの姿も刺激になりました。もっとも、実習生をからかっていたのも事実ですが・・・。

高校は富山県内屈指の進学校、富山中部高校へ。ここでも迷うことなくサッカー部でした。高校時代も遊びの場は中央通りでした。この頃はDCブランド全盛期だったのですが、DCブランドのお店やレコード店がいつも行く場所でした。街中で映画を見て、喫茶店でお茶をして、そんなデートも日常の中にありました。でも、その頃友だちから「進路決めるの、悩まなくてもいいからいいよね」と言われるのがイヤでした。他のチャンスを最初から消去されている気がして、釈然としなかったのです。

中学校でも高校でも応援団長や団長だった武内さん。応援団長や団長と言えば、運動会の花形です。さぞかし、充実した時間だったにちがいありません。けれど、サッカー部の最後の大会では、序盤に骨折して不完全燃焼に終わります。そのまま終わるのがイヤで、他の3年生は夏には引退するにも関わらず、卒業ギリギリまでサッカーをやっていた武内さん。その年は志望校に合格は叶わず一浪することにして、予備校に進みました。横浜にある予備校の寮に住み、志を同じくする友人たちと合宿状態だった1年間。この1年の経験はとても貴重でした。

大学は法学部を目指します。人と関わる仕事がしたかったし、先生と呼ばれる仕事がしたいという思いは昔から変わっていませんでした。しかし、一浪後に進んだ大学は、武内さんの志望校ではありませんでした。本当に行きたいところに行けない、そんな挫折感でいっぱいでした。ですから斜に構えて大学に通っていました。ただ、単位は大学3年までに全部取ってしまうことを自分に課していたので、大学をサボったりするようなことはありませんでした。そうして3年までに全ての単位を取り終えたのでした。
サッカーサークルの友だちに薦められて、自由が丘にあったスポーツバーでバイトもしていました。そこは、Jリーグの前身になる社会人チームの人たちがたくさん来ていて、そんな人たちと会話できることがとても楽しかった。

そんな武内さん、実は大学3年の2月に学生結婚をします。その頃の武内さんは、もう家業を継ごうという決意が固まっていました。いろいろな仕事があるけれど、家業を継げるということを「これは自分にとってのチャンスに変えるべきだ」、そんな思いが固まっていたのです。それで何で結婚かというと、創業1848年の牛島屋は歴史ある商家らしく、年回りの相性をとても大切にしていたのです。そこで、ふたりにとってこの年がふさわしいということになって、当時付き合っていた彼女(実は幼なじみで、昔は姉弟みたいな感じでした。しかし、浪人時代に距離を取ったことで、お互いの居心地のよさを感じていました。そうして、付き合って1年半たっていました)と式を挙げたのです。

大学を卒業したら、大阪に修行に行くことが決まっていた武内さんは、大学4年の1年間は広告代理店の営業として働きました。単位は全部取っていたので、正社員として1年働いたのです。奥さんは、着物の勉強をしなければならなかったので、着物の専門学校に通いながらの2人の生活のスタートでした。そして1年後、武内さんの卒業を待って、2人そろって大阪へ引っ越しました。大阪では、営業を通していろいろな人と関わる楽しさも知ることができました。

こうして大阪で何年か修業を積み、牛島屋が創業150年を迎える1年前に、富山へ戻ったのです。そして富山に帰る年に長男も生まれました。
大阪で経験も実績も積んできた武内さんは、張り切って仕事に取組み始めました。けれど、これまでとは全然勝手がちがいました。確かに、大阪と富山では仕事の環境も全然ちがうのですが、こんなにまで勝手がちがうとは…。しかし、もちろんちがうからと言って、手をこまねいているわけにはいきません。

牛島屋は創業150年を迎えた後、大泉に大きなビルを建てました。しかし、起工式の前日、幼い頃から一番の理解者であった祖父が亡くなります。おじいさんが商店街の世話をずっとしていたのを見てきた武内さんは、そうすることを当たり前と感じていました。ですから、早速商店街の活動をスタートさせました。中央通りでパリ祭なるイベントを開催しました。屋台、大道芸、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、街も活気にあふれました。その頃、バブルはもう終わっていたのですが、まだ商店街にも活気がある時代だったのです。しかし、徐々に商店街から人の波が消え、シャッターを閉めるお店も多くなってしまいました。駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに買い物にいく流れが商店街にも否応なく影を落としました。けれど、なんとかまた街の中心の商店街に活気を取り戻したい。そのためには、まず商店街が力を合わせなければ。そう思った武内さんは、笑店街ネットワークなるものも立ち上げて、それまでほとんど交流のなかった商店街の横のつながりを生み出しました。そこで情報交換も生まれ仲間作りの起点になりました。笑店街ネットワークは6年間続けてその役割を果たしたと考え、今は休止しています。

牛島屋の仕事に加え、まちづくりの活動を中心的に担ってきた武内さんは、こうして商店街にとってなくてはならない存在になっていきました。

そして、昨年2016年9月からは新たな取り組みとしてまちなか活用プロジェクト「マチノス」をオープンさせました。マチノスは中央通り商店街の牛島屋の2~4階をシェアスペースとして貸し出し、すでに様々なプロジェクトが動き始めています。一例をあげると、Liveとお茶会やワインの会、いろんな講座に、単発のワークショップ等々、素敵なイベントが満載。もちろんそれだけではなく、まちの成り立ちや歴史、伝統を見直し、まちなか本来の賑わいを取り戻しながら、市民の交流や学びの場を提供するプロジェクトというのが「マチノス」のコンセプト。

武内さんはおっしゃいます。これまで通りの商店街をやっていては、商店街に未来はない。商店街の価値観を変えていく時が来ている。人のコミュニティの在り方として、もっとできることがあるはずだ。そして、少しずつだけど、化学反応が起き始めていると。

そして、自分なりのコミュニティを生み出していくことは、商売以前に自分のライフワークとしてとらえるようになったのです。ハミングバードという会社をやり始めて、武内さんはたくさんの作り手、可能性を持った人たちとつながりを持つことができました。そういう人たちとのプロモーションを通じて広がりを生み出せることを実感したのです。一人一人で個別に何かをやっているより、うんと可能性が生まれる。コミュニティが生まれる。そして、可能性を導き出して、知らない人同士をつなげることができるコネクターとしての自分を武内さんはとても嬉しく感じるのでした。

そんな風にいつも忙しくしている武内さんのリラックスできる場は、やっぱり大好きな本屋なのでした。でも、それだけではなく、人に会っている時間も実はとてもリラックスできる時間です。武内さんは人に興味があって、誰かの話を聴いている時間もとても好きなのです。人に会うことが趣味と言ってもいいかもしれません。それが仕事に生かされる部分もあります。もちろん、最初から仕事に生かそうと思いながら話しているわけではありません。ひたすらその人に興味があるからです。だからこそみんな胸襟を開いて武内さんと話してくれるのでしょうね。一人でいるのはちっとも苦じゃないけれど、一人でいると結果的に動いてしまう武内さんなのでした。

これからの世の中はAIにとって代わられる部分もたくさんあるでしょう。でも、そんな世の中だからこそ、人の力が必要なことは何なのか、そしてこれからどんな世の中になっていくのか、変わっていくことにすごく興味があります。とにかく知的好奇心が旺盛で、いくつになっても少年のようにやりたい!知りたい!がたくさんあるのでした。

そんな武内さん、実は今もサッカーチームにも3つ入っていて、富山市サッカー協会の理事もやっています。こんなに忙しいのにどこにそんな暇があるんだろうと思うのですが、とにかく体を動かすのが好き、いろいろ運営するのが好きでいらっしゃるのです。

最後に武内さんの夢を聞きました。それは、着物や伝統産業をどうやって今のライフスタイルに織り込んでいくかという道を作っていくことです。どんなに生活が変わろうと、やはり着物は日本人にとってなくてはならないもの。今まで培ってきた文化的な深さを伝えていきたい。自分が動くことでこれまでも、そしてこれからも新しい形が見えてくると武内さんは確信しています。着物文化、日本の伝統文化が根付く場作りを新しい形でやっていきたい。そして場作りは、武内さんのやっている、ハミングバードにも、マチノスにもすべてに通じることなのです。

人懐っこくてとても素敵な笑顔の武内さん、きっとこれからもたくさんの人をつなげて新たな商店街を創りだしていかれることでしょう。

みなさんも次の休日は、商店街に足を運んでみませんか?きっとそこでは懐かしい、けれど新しい、そんな発見がいくつもできると思うから。