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今日の人76.山口敦子さん [2012年11月29日(Thu)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターでフィットネスインストラクターの山口敦子さんです。
athuko.JPG
ダンス、ヨガ、ピラティス、なんでもやるのですが、絶対外せないのはスイミングのコーチ。新しいコーチが入ると必ず山口コーチのレッスンを通過しなければならないという名物コーチになっていますが、子どもたちへのレッスンはとにかく大好きで、どれだけ数を重ねても飽きるということはありません!
 
 敦子さんは京都生まれ。とても明るい性格の女の子でした。主教科は苦手でしたが、副教科は大の得意。絵を描くのも大好きでしたし、運動も大得意!特に水泳はスイミングスクールの選手コースでいつも活躍していました。
 
 外では本当に明るく、活発な敦子さんでしたが、実は壮絶な想いを抱きながら過ごした少女時代でもありました。ご両親は敦子さんが小1の時に離婚。それと同時に6歳年上の兄は、中学に入ると家に引きこもるようになりました。そして、やり場のない怒りを全て敦子さんにぶつけるようになったのです。敦子さんは言舌に尽くしがたい壮絶なDVをまだ少女の心と身体に受けました。毎日生きるか死ぬかの紙一重の所にいる感覚。家に帰るのが怖くて苦痛で嫌でいやでたまりませんでした。耐えられずそれをお母さんに言ってお母さんがお兄さんに注意すると、お母さんがいない時にDVが2倍にも3倍にもなるので、とても言えませんでした。お母さんは大好きだけど、甘えられない!出口の見えない地獄にいる感じでした。

 そんな敦子さんの楽しみは頭の中であたたかい家庭を妄想することでした。あんな家ならよかったなぁ…とアットホームな家族を思い描くのです。そうやって妄想しないと現実のあまりの過酷さに心がもちませんでした。ですから、学校で「夢」を書け、と言われても出て来ませんでした。今を生きるのにせいいっぱいの小学生に将来を思い描くことなど不可能だった…ただただ、今をなんとか生きていくこと、それだけしかなかった。
 
 こうして暗黒の闇の中をはいずるような時間を延々と過ごし高校2年になった敦子さんは家を出ることを決意します。ばれたらどうなるかわからない。このまま我慢して生きていくという選択肢もあったけれど、もう限界はとっくに超えていました。家を出て万が一何かがあった時に私のこの体験を誰も知らないのは口惜しい、そう思って家を出ようと思っていること、そしてその理由を全て友達や先生に打ち明けました。そこに到って、初めて事実を知った先生に助言してもらい児童相談所に連絡を取り、児童相談所は、離婚したお父さんに連絡。そしてなんとか無事にお父さんと暮らし始めることになったのです。

 父との暮らしはまさに地獄から天国にいったようなものでした。あの恐怖はもうない、それがどんなに嬉しかったか。
 電車通学になった敦子さんは電車の中で疲れた大人ばかりいることに愕然とします。この人たちはどうしてこんな悲しい目をしているの?私よりしんどい思いをしているの?こんな大人になりたくない!そう思いました。そして、私の命はもらった命、何があっても一生懸命生き抜いてきたんだから、私は楽しく元気に生きていこう!そして人を元気を伝えられる人間になろう!そう決意しました。

 小さい時から体育や美術が大好きだった敦子さんは美術大学に入ります。そして水泳もずっと続けていました。お父さんの家の近くのフィットネスクラブのプールで泳いでいたのですが、陸の運動にもチャレンジしてみようかな、とふと思ってエアロビクスのクラスを受講します。そしてものすごく感動しました。
 インストラクターとお客さんのエネルギーのぶつかり合いがそこにはありました。「人に元気を伝えるって、これやー!」美術は間接的に人を元気にできる。でも、エアロビクスはダイレクトに元気を伝えそれをお互いに共有できる。そして、レッスンもひとつの作品。そう思うと、いてもたってもいられませんでした。
 
 こうして敦子さんは大学在学中からエアロビクスのインストラクターとしても活躍していくことになります。会社で会社員をやるという道は一切選択肢にありませんでしたから、就職活動とは無縁でした。フリーランスのインストラクターをすれば、隙間時間に好きな制作活動もできる。そう思ってもいましたが、実際は仕事がとても忙しく、ひたすらがむしゃらに仕事をしました。そして年間1500本ものレッスンもこなしました。そうした中でも、ダンス、ヨガ、ピラティスと次々に資格も取っていきました。自分の人生、好きなことをして生き尽くそう!そう思ったからです。
 大会にも出るようになり、度々入賞すると雑誌にも取り上げられ、イベントにもよく呼んでもらえるようになりました。そして、インストラクターの養成を任せられるまでになったのです。

 こうして忙しい毎日を過ごしていた時に、母が精神を患って入院していると聞かされます。幻覚があり、ものも食べられない状態でミイラのように痩せこけていると聞き、一層会うのがつらいと思いました。高校2年で家を飛び出して以来会っていない母。「裏切り者」と言われたらどうしよう。お兄ちゃんに会ってしまったらどうしよう。行った時にお母さんとわからなかったらどうしよう…。
 
 いろんな不安が胸をよぎりました。でも、意を決して会いに行きました。15年ぶりに会う母。この15年の間、私は本当にいろいろな経験をしてきた。でもお母さんにとっての15年はどんな時間だったのか。病棟に入って、看護婦さんが「娘さんですよ」と言ったその瞬間、お母さんの焦点がバシッと合いました。そしてひと言。

「きれいになったね」

 その言葉を聞いたとたん、敦子さんの目から涙が溢れてとまらなくなりました。5時間ずっと涙が止まらなかった…。敦子さんの前でのお母さんは精神を病んだ人ではありませんでした。
「今、どこに住んでんの?」「仕事がんばらなあかんで」
15年の時を隔てて親子の絆を感じました。ああ、私は愛されていたんだな、脳はそれを覚えていて、涙が止まらないんだな。私はいったい何をしていたんだろう。
 そうして、お母さんの意識があるうちに、自分の姿をお母さんの目に写しておきたいと感じ、病院に通うようになりました。看護師さんとのやり取りの中で言われました。「お母さんと性格とても似てらっしゃるんですね。それに、他の人とは話さないけど、娘さんとはお話されますね。」
 
 …一人でつらい思いをしてきた、そう思ってた。でも、生まれてきた、それだけで愛じゃないのか。私の中の半分はお母さんじゃないのか。
…こうして4ヶ月の間に、15年分の時間を取り戻した敦子さん。お母さんがなくなったときに、お兄さんにも会いました。憎くてたまらなかった兄。でも会うと憎しみ以上にせつなさを感じました。そして思いました。「お兄ちゃんを変えたい!」と。お母さんが病気になったのは私とお兄ちゃんとの絆を取り戻したかったからじゃないのかな…と。

 敦子さんにとって親子の絆がテーマになった出来事でした。そして、得意なダンスを生かしながら、親子の対話を通して子どもを元気にしたい!そう思うようになりました。何か心に問題を抱えている子どもたちを元気にしたい!
 企画書を提出したりしましたが、実現しません。どうしたら、この想いが届くんだろう、そう思っていた時に出会ったのがドリプラでした。これだ!と思いました。こうして、ウーマンドリプラに出場し、更に一歩進んで、その熱い想いを今回世界大会でぶつけます。

 敦子さんのプレゼンタイトルは「親子で創るレインボーダンス ~こども達のココロをクリエイトする共育プログラム~」
レインボーダンスで繋がりが弱くなった親子の心に虹の架け橋をかける日もすぐそこまで来ています。親と子が一緒に何かできるって本当に素適なこと。それを伝えていくあっちゃんを心から応援しています!

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親子の笑顔のために、あっちゃんは今日も全力です!