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今日の人66.上林達矢さん パート.1 [2012年10月23日(Tue)]
今日の人は、ドリプラ世界大会2012プレゼンター、株式会社わくわくアップ代表取締役
上林達矢さんです。
写真 12-10-14 10 55 24.jpg

上林さん、通称かんちゅわんは大阪生まれの兵庫育ち。小学生の頃から、お調子者でクラスのムードメーカーでした。キャプテン翼に憧れ、4年生の時からサッカーを始めます。でも、レギュラーはもらえず、ずっと12番。それでキャプテン翼でも同じ背番号の選手に共感を覚えていた少年時代でした。

かんちゅわんが今までの人生の中で一番楽しかったのが小学校2年の時です。幼稚園の時の仲良し3人グループが同じ教室になったこと、そして、産休要員で来ていた嶋先生という20代の若い男の先生が本当に伸び伸びさせてくれたのがめっちゃ楽しかったのです。
だから、いつの時代に戻りたいかと聞かれると、迷わず小2だと答えるとかんちゅわん。

 母方が音楽一家だったこともあり、小学校1年から6年まではバイオリンも習っていました。いや、正確には習わされていた、と言った方がいいでしょう。とにかく練習が嫌でよく泣きながらレッスンしていたのを覚えています。しかし、この6年間の練習は決して無駄にはなりませんでした。なぜなら中学2年の時から始めたバンド活動で、バイオリンの経験が役に立ったにちがいないからです。バンドではハードロックをやり、学園祭で歌ったりしていました。最初はサッカーもやっていたのですが、だんだん視力が悪くなり、メガネをかけないとボールが見えづらくなってきたので、中2でやめてしまったのでした。
 
 しかし、高校に入ると再びサッカーをはじめ、かつバンドに打ち込んでいました。友だちとライブハウスでライブをやるなどして、バンドで食べていきたいなぁという夢をいだきました。
 しかし、それをお母さんに言ったところ、「アホなこと言いなさんな」で一蹴されました。
その言葉でかんちゅわんは、現実的じゃないんだなぁと、あっさり夢をあきらめてしまったのでした。
 
 お母さんの口癖は他にも「思いつきでものを言いなさんな」「しようもないことしなさんな」「夢みたいなこと言いなさんな」がありました。なんだか夢を見てはいけないんだ、というのがインプットされていったかんちゅわん。
 
やがて大学に入り、いろいろなバイトを始めます。小さい頃はよくお父さんにスキーに連れていってもらっていたのもあって、冬はスキー場でのアルバイトをしていました。そんなこともあって、スキーのインストラクターをやろうかと思っていた所、お母さんとゼミの先生から、「もっと現実的なことをやりなさい」とまたしても言われてしまいます。
「なんか働きたくねーな。」…そう思ってしまいました。バイトには精を出していましたが、就職活動はろくにせず、申し訳程度で受けた企業は面接で不採用。

 そんな時、ずっとバイトをしていたサカイ引越センターが大卒採用2年目で求人を出しているのを知り、応募したところ採用されます。
かんちゅわんの担当は営業、サカイ引越センターが進出したばかりの東京調布支店に配属になりました。最初の頃は、バリバリの大阪弁で営業するのが東京の人には珍しかったようで、営業成績はとてもよかったのですが、半年くらいたつと、ぱったり営業が取れなくなってしまいます。営業成績が下がると、現場にやられるのですが、営業の人間は現場でいじめられやすく、かんちゅわんも最初のうちはいちばんしんどい所をやらされていました。しかし、明るく素直な性格だからでしょう。徐々に現場の人から可愛がられるようになります。ただ、現場の仕事は想像以上にきつく、身体がガタガタになってきて、1年で辞めることになりました。引越しの時は思いがけず、現場のみんなが手伝いに来てくれて、嬉しかったなぁとかんちゅわん。

 ただ、仕事を辞めたことは親には知らせず、学生の頃バイトしていたスキー場で再びバイトしていました。けれど、なぜかそこにお母さんからの手紙が来ます。いくら文句を言っても母親が息子を心配しないわけはない(私も2人の息子の母なのでよくわかります)きっとお母さんはかんちゅわんのことが心配で仕方がなかったのでしょう。手紙はバイトしてるならこっちに帰ってきて家の仕事を手伝ったらどうか、という内容でした。

かんちゅわんの家はおじいさんの代から続く印刷会社でした。中でも製版を請け負っていましたが、印刷業界はデジタル化が進んで淘汰の時代に入っていました。かんちゅわんのお父さんとおじさんは投資の少ないデザインの仕事にシフトしてデザイン業を主にやっていました。かんちゅわんはそんな時に会社に入ったのでした。

 かんちゅわんのお父さんは何も言わない人でした。かんちゅわんは自分で仕事を探すしかありません。なんでもやるなんでも屋をしていました。しかし、5年目くらいでおじさんが独立して出ていくと、営業を担当せざるを得なくなりました。それにしたって、なんの引き継ぎもなく、誰も教えてくれません。困ったかんちゅわんは、名刺を作って、飛び込み営業に駆け回りました。大きいビルに飛び込んで一番上の階から順番に回るのです。一日に50~60件回って、夕方会社に帰って電話やFAXが来るのを待つ日々でした。しかしちっとも仕事には結びつきませんでした。

 飛び込み営業に回っても社長さんにまではなかなか辿りつけないと思ったかんちゅわんは異業種交流会に積極的に顔を出すようになりました。そこではダイレクトに社長に会えます。いろいろな業種の社長さんにかわいがってもらいましたが、その頃のかんちゅわんには、社長さんがお金にしか見えていませんでした。

そんな時、これいいですよ、と本を貸してくれる人がいました。彼は「こんな勉強会ありますよ」とか「こんな相談会ありますよ」と、役に立つ情報を惜しみなく提供してくれるのです。なんでこんなに人のために尽くせるんや、すごいなぁと感じました。
そして、彼に勧められた勉強会で「聞く」ことを大切にするインタビュー・トレーニングを受け、勉強しながら異業種交流会でもらった数々の名刺のアイディアを取り入れた斬新な名刺を作ってそれを配っていると、「上林さんと同じ名刺を作って欲しい」という依頼が増えていきました。「そうか、名刺は商売になるんや!」そう確信したかんちゅわんは、名刺を作ってほしいという人に90分インタビューして、それを名刺に落としこむというやり方を確立しました。そうして名刺を作っていくうちに、それを体系化してセミナーをしたら?と言われます。もともと目立つのが好きで人前に立つのが好きだったかんちゅわん。

  セミナー講師になる勉強、パーソナル・ブランディングの勉強も始めました。そんな時に車の中で聞いたのが中村文昭さんの講演のCDでした。それを聞いたかんちゅわんは感動で車から降りられなくなりました。ちょうどその頃、業績不振が続き、自分を信じてやっていこうと思いつつもとてもしんどいと思っていたのです。そんな時にガツンとパンチを入れられた感じでした。文昭さんの言っていること、例えば「返事は0.2秒」「なんでもやってみる。やってないこと、わからないこと、やらずにいれば今までと一緒。首を縦に振ることで運が変わる!」等など、自分にとって必要なことばかりでした。これはみんなにも聞かせたい、そう思ってたくさんコピーしてみんなに「めちゃめちゃいいから」と言って配りました。

 そんな時、そのCDを聞いたほめ達さんこと西村貴好さんが文昭さんを呼んで講演会を開こうと提案してきたのです。こうして、中村文昭さんの講演会をほめ達さんと一緒に開催したのが2007年のことでした。その後は、前向きな中小企業の社長や飲食店の経営者と大阪でいちばん熱い忘年会を開催してめちゃくちゃ盛り上がるなど、イベントも数多く主催するようになっていきました。

パート.2に続きます。