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今日の人104.伊藤 勝さん [2013年08月21日(Wed)]
 今日の人は群馬で奇跡の眼科と呼ばれている「いとう眼科」の事務長、そして11月23日に初開催される日本人の生き方を問うサムライドリプラ実行委員長として、日夜東奔西走されている伊藤 勝さんです。伊藤さんはみなさんからえむさんと呼ばれ親しまれています。
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 えむさんは小さい頃から人気者で、みんなに可愛がられて育った次男坊でした。幼稚園の年中から剣道を始め、それは高校1年まで続きました。
 中学の時は剣道部で抜きん出て強く、また勉強も出来る方だったので、文武両道を地で行っていました。彼女もいてルンルンの中学校時代。ビー・バップ・ハイスクールに憧れ、モテることばかり考えていました。でも、タバコを吸ったりするようなことはなく、明るく挫折ない道を歩いてきた思春期だったのです。

 お母さんはえむさんをエリートサラリーマンにさせたいと思っていました。それで、えむさんもエリートになりたい。いい会社に入っていい生活をしたい!そんな風に思っていました。

 お父さんは銀行員でした。といっても、近所のおじいちゃんおばあちゃんを担当している銀行員でしたから、外でお客さんに会うといつもペコペコ頭を下げていました。えむさんはそれを見るのがものすごくイヤでした。親父、カッコ悪いよなぁ。そう思っていました。こんな親父には絶対になりたくない、理想の父親とは真逆の父親像だったのです。今、思うとそう思っていた自分がホントに情けなくなりますが、当時はそう思っていました。
 
 今でこそ読書家のえむさんですが、当時は漫画しか読まない少年でした。ジャンプの発売日の月曜になると、いつもお父さんはジャンプを買ってくれて、肉まんと一緒にえむさんの枕元に置いておいてくれました。ホントに優しいお父さん。それなのに、そんなお父さんを尊敬できない勝少年なのでした。

 剣道で神童と呼ばれた中学時代から一転、高校は剣道部も強く、今までのようにチヤホヤされることはなくなりました。なんだか今までずっと日の当たる場所を歩いてきたのに、明るい道から突然、凡庸な道に落とされたようなそんな気分になりました。

 もう剣道はいい、それより勉強をちゃんとやろう、そう思ったえむさんは部活を辞めました。と言ってもそのまま勉強に突っ走ったかと言えばそうではなく、バンドでギターを弾いて学園祭ではじけていました。当時流行っていたBOØWYを真似たりしました。それはやっぱり女の子にモテたいという思いがあったからです。
 
 しかし、徐々に自分が自分勝手だということに気づきます。俺は本当の友だちがいないんじゃないか?女の子の取り合いとかそういうのばっかりだ。俺はなんて自己中心的なんだろう。

 大学進学に際しては東京六大学に行きたいという思いがありました。少しでも就職に有利、そういう思いもありました。やはりお母さんの願いがえむさんに入り込んでいたのでしょうか。こうして法政大学の経済学部に入学します。しかし、サークルには入りませんでした。
 
 大学1年の時に出会ったのが奥さまになる女性です。その後、えむさんはずっと彼女と一緒でした。友だちにもっと合コンとか出たらどう?と誘われましたが全くそういう気分にならなかった。波長の合う彼女とずっと一緒にいることは、えむさんにとってごく自然なことだったのです。高校時代までは女の子にモテることばかり考えていたえむさんのこの変わり様。きっと彼女と会うことがえむさんにとっての必然だったのでしょう。

 サークルに入らなかったえむさんが一生懸命に取り組んだのはアルバイトでした。お金のためというよりは、親分かたぎの社長の生き方に影響を受けたからでした。体育会のようなノリのバイト先でしたが、親分肌でいつもどっしり構えている社長の姿勢に学ぶところがたくさんありましたし、厳しい中にもえむさん達をとても可愛がってくれました。えむさんはこのビジネスホテルで4年間ずっとバイトをやり続けたのでした。

 しかし、大学生活自体にはあまり意義を見出せませんでした。何もがんばることをしていない自分。いったい何のためにここにいるのだろう。意味のない時間を過ごしているように思えました。

 就職活動をしても何か虚しさがありました。都銀などを受けて受かったとしてもきっと一生地方まわりの運命だ。それならば、地元に帰って、地元の安定した企業を受けよう、とう思いました。
 こうして就職したのは地元群馬の農業関連の総合商社でした。エリートとは言えないけれど、安定企業だし、落ち着いたよな、そう思いました。

 実はこの時、群馬に彼女もついてきたのでした。大学時代は空虚だったとえむさんはおっしゃるけれど、その大学時代に生涯の伴侶を得たのですから、決して空虚だとは言えないですよね。

 就職した頃は自分は最悪なサラリーマンだったとえむさんはおっしゃいます。
視野がとても狭く、チヤホヤされて育ったから自分はできると思い込んでいるという最悪なヤツでした。同僚と飲みに言って会社の愚痴を言うのは日常茶飯事。総務部では若くてもみんなに頭を下げられましたので、ますます調子にノリました。
時間内に仕事を終えられないヤツは使いもんにならん。そう思っていました。だから自分は6時きっかりに帰ります。仕事に楽しみはない。なんだか週末のために仕事をしているようで、虚しさばかりが胸に広がりました。自分は何のために働いているのだろう…

 このままでは俺はダメだ、何か勉強したい。そう思って始めたのが、社会保険労務士の資格を取る勉強でした。元々、やり始めるとハマりやすいえむさん。全ての遊びをやめ、飲み会の誘いも断り、ひたすら受験勉強に取り組みました。当時、えむさんのお嬢さんはまだ1歳だったのですが、そのお嬢さんと遊ぶこともほとんどなく、家族の娯楽はえむさんの受験勉強の合間に公園で一緒に奥さんの作ってくれたお弁当を食べるくらい。それでも、一切文句を言わない奥さまはなんと素晴らしい方でしょうか。

 そこまで全てをかけてチャレンジした試験でしたが、最初の年は合格できませんでした。2ヶ月間、何も手がつかずに過ごしましたが、やはりチャレンジすることをあきらめきれず、もう一年頑張ることにしました。こうして2年目に社会保険労務士の試験に合格。

 ちょうどその頃、眼科医のお兄さんに開業するから手伝ってくれないかと声をかけられました。その時えむさんは会社では600人を束ねる部署にいましたが、考えた末お兄さんと一緒に歩いていく道を選択。
 
 こうしてえむさんは会社を辞め、他の眼科で4ヶ月修行した後、お兄さんの眼科で働き始めます。平成17年4月のことでした。

 しかし、どうしようもない男が組織を作っても、所詮どうしようもない組織しかできない、それを実感することとなりました。
 
 その頃、えむさんには感謝とか貢献といった概念がなかったとおっしゃいます。とにかく業績を伸ばさなければ!そのためにいいスタッフを集めよう!対外的にはほめられていましたが、実はスタッフ間の人間関係はよくありませんでした。押し付けでなんとか見栄えのいい形は作った。でもそこに中身は伴っていなかったのです。

 そんなえむさんを変えたのは3つの出会いでした。まずは人との出会い。朝必ず自分からスタッフのところへ行って握手をしているという歯医者さんとの出会いがありました。医者がスタッフに感謝して毎朝握手までしている。衝撃的でした。こんな人がいるのか!次に本との出会い。本屋でたまたま手に取った「仕事が嫌になった人へ」という本。
それまで仕事は生活のためにやるものだと思っていたえむさんに、「仕事が楽しい」という考えは強烈でした。
3つ目はDVDとの出会い。それは居酒屋てっぺんの朝礼のDVDでした。(居酒屋てっぺんの朝礼についてはこちらをどうぞ⇒ )そこに写っている人たち一人一人の顔が輝いていました。自分もスタッフも輝くにはこれだ!そう思いました。

 これらの出会いを経て、えむさんは今までの仕事への取り組み方を180度変えました。すると仕事が楽しくて仕方がなくなったのです。しかし、えむさんがその取り組みをやればやるほど、そのやり方に反発するスタッフとの対立は深くなりました。やがて12人いたスタッフの内9人が辞めてしまうという事態が起こりました。

 その頃、既にいとう眼科は1日に160名の患者が来る病院になっていました。今まで12人のスタッフでやっていたものを3人で回さなければならない。お兄さんである院長の苦悩は深く、わずか2日で体重が5s落ちました。
 辞めた9人のうち、2人は戻って来てくれましたが、それでもまだ5人。
 これでは患者さんに迷惑が及ぶことになってしまう。

 えむさんは一旦病院を閉めようという大胆な提案をします。そうして残ってくれたスタッフ5人と一緒にできることをとことん考えました。今までの制服も辞め、ユニクロに行って、かっこよさげな服を選び、それをユニフォームにしました。
 理念は「仕事を通じて社会に貢献したい」
その想いに共感してくれた人のみを採用していきました。

 こうして、その後2年の間にいとう眼科は「奇跡の眼科」と呼ばれるようになるまでになったのです。その2年間はチーム作りをみんなでワクワクしながら取り組めましたし、もっと本質的なものがあるんじゃないかとの思いでドリプラにも取り組みました。

 えむさんは3つのドリプラの実行委員長を同時にやられたそうです。ドリプラの実行委員長というのは、ひとつでも大変なはずなのに、それを3つ同時にだなんて、まさに変態です。(ここでいう変態はいい意味です。常人離れしていて、すごい人という意味です)
 こうして9月に群馬ドリプラ、10月に眼科ドリプラ、11月に大阪歯科ドリプラという3つのドリプラの実行委員長をやり遂げたえむさん。
 
 ドリプラに取り組むというのは、自分のお金、労力、時間を手放すことだと思っています。そしてそれはボディブローのようにジワジワと効いてくるのです。もちろんいい意味で。実行委員長が何かに固執していては形だけのドリプラにしかならない。いい意味でも悪い意味でも実行委員長の姿勢が出てしまう場、それがドリプラだとえむさんは言います。
 こうして、いとう眼科はどうしたって「いいチームですね」と言われるチームに育っていきました。
 
 その頃のえむさんのキーワードは「輝き」です。
 どういうものが輝き?どういう状態が幸せ?どうやったら成長?
常に自分に問い続けていました。時にそれらの問いはえむさんを苦しめることがありました。僕はスタッフが大好きだ。これは真実だ。では幸せってなんだろう?いいものを着て、美味しいものを食べることが幸せ?スタッフにそういう想いをさせてあげるのが幸せ?いや、そうではないはずだ。

 しかし、そういう曖昧だったことを全て明らかにしてくれるものに出会いました。えむさんにとってそれは仏教でした。仏教の教えは途方もなく深く、到底ここで語れるものではありません。
 ただ言えることは、仏教の深い教えに出会ってから、えむさんのキーワードは「真」になったということです。そして、奇跡は必然なのだと悟ります。自分は生きていると思っていたがそうではなかった、自分は生かしてもらっているのだ、と初めて気づいたのです。そこで自分の中にブレない軸が出来ました。迷いがなくなったのですから、あとはやるしかないのです。
 
 今まで、先人たちが長い年月をかけて培ってきた精神、それを自分たちは次の世代に残せるのか。今までは自分のためとまわりのためという想いでなんでもやってきたけれど、これからは私心なく「未来の子どもたちのために」その思いで生きていきたい、そのために自分がやれることはひたすらやるのだと決めています。

11月23日に開催するサムライドリプラも愚直にまっすぐに
「未来の子どもたちのために」
それのみがテーマなのです。
 
 このままの日本で、子どもたちは幸せなのでしょうか。どうしたら子どもたちのために誇れる未来を創っていけるのでしょうか。
 そのことを真剣に考えたい人はぜひ足を運んでみてください。

 詳しくはこちらをどうぞ⇒http://mana378.wix.com/samurai

 えむさんは日々ブログでもご自身の想いを発信していらっしゃいます。そちらもぜひお読みください⇒http://ameblo.jp/em-u/

 爽やかな笑顔の中に強い決意を持ったステキなサムライ、そんなえむさんのお話を伺っていると、私も自分の使命を果たしていこうと強く思えるのでした。
今日の人103.篠田 法正さん [2013年08月05日(Mon)]
 今日の人は、一般社団法人 最幸経営研究所代表理事、株式会社LBC代表取締役、工学博士、中小企業診断士、ファイナンシャルプランナーAFP、生涯学習開発財団認定シニアスキルリーダー、経産省後援ドリームゲートアドバイザー(起業支援)…と、たくさんの肩書をお持ちの篠田 法正さんです。
写真 13-07-01 13 11 55.jpg

 法正さんは1962年に名古屋で生まれました。子どもの頃はスポーツが苦手で、野球をしている時は「ボールがきても触るな!」と言われていました。打順は10番、二人目のライト、のび太みたいな感じでしょうか。
今はとってもスリムな法正さんですが、当時はポチャポチャだったそうです。運動ができない、という疎外感があったので、親に言ってグローブを買ってもらったりして、なんとかみんなの仲間でいようと思っていました。

 でも、勉強はとてもよくできました。読書も大好き、将棋もよくやっていました。頭脳派少年だったんですね。
 
4年生の時に家族でグアム旅行に行った時に、コックピットを見せてもらいました。(当時は安定飛行の時は希望すればコックピットを見せてもらうことができたのです。今は不可能ですけど)
「うわぁ、パイロットってカッコいいな!」それで当時の夢はパイロットでした。

 法正さんのお父さんは葉巻を吸ってボルボに乗っているお酒大好きな人でした。
何か国語も話せてしょっちゅう豪華客船の旅をしているというような羽振りのいい人でした。
 しかし、だからと言って家が大金持ちだったわけではありません。お父さんがそういう人でしたから、お母さんはヤクルトレディをしながら苦労して生計を立てていました。

 小学校高学年の時に、森田健作の「俺は男だ」というドラマに影響を受け、中学では剣道部に入りました。しかし、続かず、以後は囲碁将棋部へ。この頃、パイロットになるには身長も視力も運動能力も及ばないことを知り、パイロットになりたいという夢はあきらめました。

中学生にありがちな反抗期も特になく、本当にいい子で育ちました。でも、お父さんがたまに家にいると、緊張しました。好きだけど、怖い存在、それがお父さんだったのですね。

 高校進学のとき、家の近くに新設校ができます。そこへは中学校でも成績がいい子が送り込まれました。法正さんも送り込まれました。自分にとっては、プールがないというのが最大の魅力でした。しかし、文武両道を謳った学校だったの、何か運動部に入れということになり、選んだのは弓道部。この選択は大正解でした。法正さんは結局大学時代までずっと弓道部で活動することになります。

 さて、そんな風に運動部には入ったものの、もちろん、勉強はしっかりやっていました。特に好きだったのは物理でした。物理がわかると世の中の現象のからくりがわかる。なんで電車で通り過ぎる踏切の音が変わるのか、どの角度でボールで投げればいいか、そういうことが全部物理でわかるのです。と言われても、物理がワクワクする科目だなんて、物理が全科目の中で一番苦手な私には到底理解できない感覚ですが…

 大学受験の時は電子工学が楽しそうだと思って、名古屋大学の工学部を受けました。ところが、合格発表の時、自分の番号がありませんでした。がっかりしている所に、名大から電話が。第三希望に書いていた農学部に繰り上げ合格ですが、どうしますか?という内容だったのです。本人は迷ったのですが、高校の先生に取り囲まれて「入れ入れ」の大合唱。それはそうですよね。先生方にしたら新設校の第一期生なので、少しでも進学率をあげたいでしょうから。

 こうして名古屋大学農学部に入学した法正さん。弓道部に所属し、朝から道場に通う日々でした。アルバイトもいろいろやりました。家庭教師や塾の講師をやり、自分は教えることが好きなのだということに気が付きました。
 アトラクションショーではショッカーの戦闘員もやりました。ここで、ステージに立つ楽しさも知りました。あの頃の仮面ライダーの人気たるや今の比ではありませんから、ショッカーをやっていると子どもたちからたくさんのヤジがとんできそうですが、いつもの自分とちがう自分になれてすごくワクワクしました。

 もちろん、勉強の方もしっかりやりました。特に、研究室に入ってからは実験に没頭しました。法正さんが入ったのは、プラスチックの合成を研究している研究室です。重合反応の実験をやるのですが、いろんなつなぎ方でいろんなものが作れる。それが楽しくて、学部だけでは飽きたらず、大学院に入って実験を重ねました。

 そして教授の推薦もあって三井化学に入社が内定します。あと半年で入社する時に、そこの研究チームが溶ける樹脂で手術の糸を作るのに成功します。絶対ここで研究したい!法正さんの願いが叶い、すんなり研究担当になります。
 溶けてなくなる手術用の糸の開発、他にも20ミクロンの粒のなかに制癌剤を入れて、注射で一ヶ月に一回打てばずっと効果が続く前立腺がん用の徐放性制癌剤の開発、国内でそれができるのは法正さんのいる研究室だけでした。海外からも引き合いが来て、一流ホテルで接待を受けることもしばしばありました。
 世界で初めてトウモロコシの樹脂をプラスチックにすることに成功したのも法正さん
です。これによって捨てても分解できるプラスチックができるようになったのですから、本当にすごい開発です。

 こんな風にいくつも世の中に役立つヒット商品を生み出した法正さんですから、仕事は楽しくて仕方がありませんでした。

 プライベートの方も、同じ大学の同じサークルだった彼女と就職1年目に結婚。一男一女に恵まれ、仕事も家庭生活も充実していました。

 しかし会社はより規模を大きくするために合併。今までと違って管理のとても厳しい会社になりました。嫌だなぁと思っていた時に上司にアメリカへの留学を薦められ、渡りに舟とばかりに留学します。
 
 2年間の留学生活は大変充実していました。周りはノーベル賞クラスの研究者ばかりだったし、研究の合間にはキレイな景色や芸術鑑賞で心も潤せる、後から振り返るとまるで竜宮城で過ごしたかのように楽しい日々でした。

 2年の留学生活が終わって日本に帰ってきたら、本当に浦島太郎のような気持ちになりました。昔のようにユニークな研究はできなくなっていて、選択と集中の中で、短期的な収益の上がる研究、大量生産の樹脂に関する研究が主流となりました。自分がおもしろくないことを部下にやらせなければならないのも苦痛でした。
 研究者を、研究成果を挙げていかに名声を得るかに重点を置く人と、新しいものを生み出して喜ぶエンターティナータイプに分けるとすると、法正さんは明らかに後者でした。
 
仕事はおもしろくない。そうは言っても家族を養っていかなければならない。なんだかお金のために働いているようでイヤでした。もうやめてもいいかなと薄々思い始めていた時に、いろいろなセミナーを受け始めるようになりました。外の世界との接点を持ち始めた法正さん。いろいろセミナーを受けながら、資格取得の勉強も始めました。半年で750時間の勉強をこなし、中小企業診断士の資格も取りました。

 こうして法正さんは、研究職で入った時から数えると20年という歳月を過ごした会社を割合軽い気持ちで辞めました。

 コンサルタントとしてやっていこうと起業した法正さんでしたが、最初は集客で悩みました。しかし、セミナーをしかけ、ダイレクトメール等で地道に集客していくうちに顧客がつくようになってきました。けれども、一生懸命にやっていると疲れるのです。思えば研究職の時は、朝から晩までやっていても疲れなかった。けれども、好きだからやるではなく、できるからやるという仕事は疲労感がどっと出るのです。

 そんな時に出会ったのが福祉正伸さんの究極のコンサルタント養成講座でした。福島先生の話を聴いているうちに自分は何のために働いているのだろう?自分は何者だろう?と思い始めた法正さん。 
 
もう一つ大きな出会いがありました。それは東洋運命学でした。人にはそれぞれその人が生まれ持った潜在能力がある。神様はちゃんと個性のちがう人を創って天命を与えている。自分の能力がわかると天命がわかる。

 玉ネギの皮を剥ぐように一枚一枚剥いで行くと、最後にコアなあきらめない思いが残ります。それは恥ずかしいし、人には言いたくない。でも、みんなそれが炎のように燃えているものなのです。それを価値に変えることが自分のやりたいことなんじゃないか、みんなの夢を応援することが僕のやりたいことなんじゃないか、そう気づいたのです。

 誰にだってマイナスの思いはあります。悔しい、悲しい、ちくしょう!そんな思いを価値を届けるエネルギーに変えられたらいいな。みんなが自分の中に持っていて気付いていない炎を価値に変える方法を教えてあげられたらいいな。

 こうして法正さんは、自分の能力を生かして仕事したい人を応援することに特化したコンサルタントになりました。

時間をかけてセッションしていくと、必ず「あ、私これがやりたかったんだ!」と気づく瞬間があります。本当に自分のやりたいことを追求したら人はイキイキ輝きます。まさに人生がガラッとかわる瞬間に立ち会えることができる。ホントに手伝いたいことができる。
この喜びはちょっと言葉では表せません。
 
 今、法正さんの所には特に一生懸命に宣伝しなくても、口コミでお客さんが来るようになりました。個別セッションはワクワクする時間です。まさにこの仕事こそ、我が天命。そう胸を張って言えます。

 法正さんがやっていることに【自分軸確立ワークショップ】というものもあります。これは10時から18時までじっくり取り組むのですが、これをやるとだいたい16時半くらいに自分のやりたいことが明確になってきます。そして1週間後くらいに「私が本当にやりたいことが見つかりました!」とメールが来ることが多いのです。

その後は奇跡の連続が起こります。でも、本当はそれは奇跡でも何でもないのです。誰でも、自分軸がしっかりして、これだというものができると無駄なことをしなくなります。そうすることでレーザービームのように自分のパワーが何千倍にもなって全てが思い通りに進むようになるのです。それを奇跡のように感じるだけなのです。

 そして法正さんは専門家の機能集団をまた新たに結成しました。それが一般社団法人最幸経営研究所です。こちらは会社をよくしたい!という理想の会社作りを中心に据えています。そこで取り入れているのが社内ドリプラです!これが今、実に楽しい。社内ドリプラに取り組んでいくうちに社内がどんどん変わっていく様子がよくわかるからです。

「最幸経営」とは、理念に共感したメンバーが、目標をもち、夢を語り、愛と感謝で社会に価値と感感動を提供する経営のことを言います。
さらには、様々な課題や困難に対して、一人ひとりが持てる能力・個性を生かし、自立型姿勢と相互支援で乗り越え、常に学び、成長し、創造し続けることにより、関わる全ての人が幸せになる経営のことを言います。

こういう会社が日本全国に増えれば、日本はまさに最幸の国になりますね!

法正さんの自分軸確立ワークショップを受けてみたい方はこちらのページをご覧になってください。きっと素敵な自分に出会えることでしょう。⇒http://www.lbclabo.com/article/14528365.html

そして社内ドリプラを実施されたい方はこちらへどうぞ⇒http://saikoken.or.jp/lp/offer001/

いつも朝出かける時は奥さまにハグをしてから出かけるとおっしゃる素敵な旦那さまでもある法正さん、これからもますます世の中をツルツルに、いやキラキラにしていってくださいね!
今日の人94.阿部美樹雄さん [2013年06月18日(Tue)]
 今日の人は、社会福祉法人みずき福祉会町田福祉園ゼネラル・マネージャーの阿部美樹雄さんです。
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 阿部さんはゼネラル・マネージャーなのでGMと呼ばれる福祉の世界でも異色な存在で、障がい者福祉の世界の先駆者でもあります。
 そして目前に迫った知的・発達障がい者福祉サポーターズ・ドリームプラン・プレゼンテーション2013の実行委員長でもいらっしゃいます。
 
 阿部さんが生まれたのは秋田市。ご両親とも先生をされていました。母方のお祖父さんは馬車好きで街なかに馬車を走らせていた位に羽振りがいい人でした。ですからお母さんはどこに行くのも馬車という、大変なお嬢様だったのです。
 阿部さんにはお姉さんがいるのですが、お姉さんも優秀な方で、秋田大に進んで教員になられました。さぁ、そうなると阿部一族で唯一の男の子美樹雄少年に期待が寄せられます。しかし、本人はそれを非常にプレッシャーに感じていました。運動も苦手で身体も弱い。それがますます自信のなさに拍車をかけていました。ご両親とも先生なので、同級生が父母の教え子ということも少なくありませんでした。美樹雄少年は他愛のないことでも、自分がいじめられているように感じることが多く、ずっとつらい日々でした。夢がない、さりとて不良にもなれない、そんな青春時代を送っていたのです。
 そんな心を救ってくれたのが釣りだったのかもしれません。海がすぐ近くだったので、ゴカイを掘ってそれを餌に釣りをするのが何より好きでした。海で釣りをしている時は、嫌なことも忘れることができたのです。

 こうして内向的な少年は高校時代まで秋田で過ごし、高校卒業後は東京の大学へ進学しました。はやく親元から離れたかった。自分の中では上京するのは合法的な家出だったのです。
でも、親と離れても20歳前後はとても苦しかった。自分がこんな風に内向きになったのは育ちのせいだ、母のせいだ!全部自分以外のもののせいにして苦しんでいました。それはなかなか出口の見えない光のない世界のようにも感じました。

 そんな阿部さんの転機になったのは、病院の精神科の病棟でアルバイトをしたことでした。当時は精神科と言えば、窓には鉄格子がつけられ、まるっきり隔離された別世界のようでした。看護婦も精神科で働くことを嫌がり、慢性的に人手不足でした。その病棟で泊まりのアルバイトを始めたのです。それまで内向的でいつも何かあると母や育ちのせいにしてきた自分だった。でも、この場所ではちがった。心が動くのです。この病棟の中にいる精神を患っている人々と接していると、何かしら言いようのない感動があるのです。
もがき苦しんでいた自分を救ってくれたのが、精神科の病棟でのアルバイトだった。そして、そこへ導いてくれたのは、実は阿部さんのお姉さんでした。お姉さんは21歳という若さで帰らぬ人になってしまいます。その時お姉さんが付き合っていた人が臨床心理士で、阿部さんにその精神科の病棟でのアルバイトを紹介してくれた人だったのですから、人生とはどこに転機が待っているかわからないものですね。

 阿部さんは最初経済学科でした。その頃は銀行員や商社マンが花形の時代です。でも、そういう仕事にはちっとも心が動かなかった。阿部さんが心動かされたのは、そう、精神科の病棟に入らざるを得なかった人々なのですから。
 こうして阿部さんは心理学科に入り直します。そして臨床心理学を学ぶのに没頭しました。それはあたかも癒しを求めるかのようでした。
 特に強く影響を受けたのは来談者中心療法を創設したアメリカの臨床心理学者カール・ロジャーズでした。カウンセリングの研究手法として現在では当然の物となっている面接内容の記録・逐語化や、心理相談の対象者を患者(patient)ではなくクライエント(来談者:client)と称したのも彼が最初です。ロジャーズの考えはこうです。
「人間には有機体として自己実現する力が自然に備わっていて、有機体としての成長と可能性の実現を行うのは、人間そのものの性質であり、本能である。カウンセリングの使命は、この成長と可能性の実現を促す環境をつくることにある。
自分自身を受容したとき、人間には変化と成長が起こる。カウンセラーは、クライエントを無条件に受容し、尊重することによってクライエントが自分自身を受容し、尊重することを促すのである。」
まるでメンタリング・マネジメントのようなこの考え方。“セラピーは在り方なのだ”それが強く心に響き、ロジャーズは心理学を学ぶ阿部さんにとって人生の神様とも思える臨床心理学者なのでした。

 こうして心理学科で学んだ阿部さんでしたが、当時心理系の就職先は限られたものでした。心理系の公務員になろうと思ったら1,2人の募集に何百人もの応募者が殺到する狭き門です。
福祉の世界にも心理職があることを知った阿部さんは千葉県の公的な施設の採用試験に合格します。でも、最初は福祉の現場をとても乱暴だと感じました。阿部さんがずっとアルバイトをしていた精神科の病院で勤めていた人たちはみんなソフトで人当たりのいい人たちだったので、その差に驚いたのです。
 しかし、福祉の現場の人たちはみんな福祉に限りない情熱を燃やしていました。最初はわからなかったけれど、だんだんこの人たちがステキに思えてきました。1年たつと現場の彼らの言うことがわかってきました。3年もしたら自分自身が情熱を持った乱暴者になっていました。
 現場に入って業界内でいいと思える人にたくさん出会う中で、理想の入所施設のイメージが明確になってきました。どうやったら作れるか、試行錯誤しますが、なかなかOKをもらえませんでした。福祉は法律よりも先に存在している。福祉が法律を追いかけているようではダメだ。それが阿部さんの思いです。ですから、常に法律の前を走ってきたのです。
 
 こうした想いを積み重ねて作ったのが「八王子平和の家」でした。阿部さんがこだわったのは、今までのような施設ではなく、家の集合体を作りたい、ということでした。まず厚労省は通りました。でも、東京都はダメだというのです。フェンスを高くしろ等いろいろな注文を出してきました。それでも基本設計は変えませんでした。各ユニットに玄関があること、みんなで食事が出来る場があること、職員が食事を作ること、家であるユニットを出て、外に仕事に行く仕組み。いろいろな新しい試みを取り入れました。

 倫理綱領も全国に先駆けて取り入れます。本人からも徹底的に聞き取りをしました。その頃は人権問題がようやく取り上げられ始めた頃でした。ですから、阿部さんは講師としてシンポジウムに呼ばれたりしました。
 けれども、そのシンポジウムの場で無性に腹が立ちました。他のシンポジストたちは、今の福祉の現場がいかにダメかということばかりを話していました。その事に対して怒りがこみ上げてきたのです。ここに聞きに来ている人たちは、今の現状をなんとかしたいという思いでそのヒントを得るために来ているのだ、それなのにダメだダメだと連呼されて士気が上がるわけがないではないか。

 阿部さんは現場の人でしたから、現場の重要性、そして現場に関わる職員の想いの大切さを十分わかっていました。だからこそ、現場の職員にも支持されていたのです。
 こうした中で「知的障害者の人権と施設職員の在り方」という本を書き上げました。やがて人権の人と呼ばれるようになった阿部さん。かつての虚弱な少年の面影はもう全くありませんでした。ひたすら突っ走っていました。
 
 少しでも現場を良くしようと事例集も出しましたが、それはやがて発禁処分にあいます。こんなにたくさん事例があるのに都は動かないのか、その声を恐れてのことだったのでしょうか。けれど、さまざまな困難に遭いながらも阿部さんはめげませんでした。自分の信じる道を行く、それが正しいと信じて疑わなかったから。

 しかし、立ち直れないくらいショックなこともありました。それは離婚でした。阿部さんにはお子さんが3人いらっしゃるのですが、シングルファーザーになったのです。眠れぬ夜が続きました。自分は業界の成功者だ!そんな高慢な心もありました。毎晩のように深酒をし、別れた元妻への恨みで悶々とした日々を送っていたのです。
 
 そうした中で出会ったのがNLP (Neuro Linguistic Programming神経言語プログラミング)であり、メンタリング・マネジメントであったのです。
 
 この出会いが阿部さんを変えました。味方も多いけれど敵もたくさんいた阿部さんは敵という存在などいない人へと変わったのです。自分はゆるゆるフニャフニャでいいのだ。全て任せきる。ただし、GMゼネラル・マネージャーとして、クレーマーには真摯に対応する。どんなクレームが来ても呼吸を合わせてじっくり話を聞くことで、逆に信頼を強くしてもらえることが多くなりました。
 自分の軸が出来たことで、自分自身が落ち着いていられるようになったのです。もちろん、揺らいでとらわれることもあるけれど、そういう時は意識して変えることができるようになりました。
 
 こうして人をますます惹きつけるGMとなった阿部さんは、その活躍の幅をますます広げていかれました。昔だったら出入り禁止にされていたであろうお役所関係から声がかかることもうんと増えましたし、人事院でキャリア官僚を相手に講師もしています。大学でも教えていますし、全国からも引っ張りだこ。本の執筆もあり、お忙しくて自分の時間などないのではないかと思いきや、趣味の釣りに出かけることも忘れていません。なんと今年の目標は30s級のマグロを3本あげることだとおっしゃいますので、とっても本格的なのです。
 
 どうして阿部さんがこんなに輝いていらっしゃるのかというと、自分自身を大切に生きようと決められたからです。もちろん、歳とともに体力は落ちてきたけれど、自分自身の人生がすごくクリアになってきて、すごくおもしろくなってきたのです。そしてまだまだ伸びしろがあると思ってワクワクしているのです。

 そんな阿部さんは、今年念願だった障がい者福祉のドリームプラン・プレゼンテーションを開催されます。それが、6月22日に開催される知的・発達障がい者福祉サポーターズ・ドリームプラン・プレゼンテーションなのです。
 
 プレゼンターの方は今、寝る間も惜しんでプレゼンを作っていらっしゃいますが、それを支えるスタッフの方々が本当に一生懸命動いてくれる、それが何より嬉しいと阿部さん。ネガティブなことを言う人は誰もおらず、みんなが誰かのために頑張っている姿、そんな相互支援がドリプラの過程で作られていく。ああ、自分のやりたかったことがここに凝縮されているな、と感じるのです。
 人の可能性を感じて今、ワクワクがとまらないと阿部さん。
 そんなサポーターズドリプラの詳細はこちらです。実行委員長阿部さんの熱い想いも綴られていますのでぜひご覧ください⇒http://www.machidafukushien.com/machida_fukushi/

 日本の福祉発祥の地、滝乃川学園で行われるサポドリ、障がい者福祉の未来がここにギュッと凝縮されています。

 こうして怒涛の日々を歩いてこられた阿部さんですが、なにがここまで阿部さんを突き動かしてきたのかと思い質問してみました。
「それはね、自閉症の人、知的障がい、発達障がいの人が大好きだから」と阿部さん。彼らの一生懸命さ、生きづらさの中で必死に自分の在り方を探している姿、決して嘘をついたりできない彼らの心の純粋さを見ていると、平気で嘘をつけるいわゆる普通の人の方がよっぽど障がいがあるんじゃないのかと私も思います。
 
 みんなうまくいくんだよ。みんなが“ふつうの人”と呼んでいる人たちの関係とも何もかわらない。でも、彼らはいつも「ありがとう」を言われることがすごく少ない環境にいるんだ。だから僕は自閉の人になんでも頼むんだ。そしてありったけの「ありがとう」を言う。それが彼らの心にはとっても新鮮に入っていく…。
 どちらかが支援するだけの一方的な立場ではないのです。福祉の現場もまさに相互支援の現場なのです。阿部さんのお話にはそんな愛が溢れていました。
阿部さんの想いの詰まったブログはこちら⇒http://www.machidafukushien.com/column/

 そんな阿部GMの福祉への熱き想いを乗せたサポドリです。そして阿部さんと同じように熱いハートで福祉への夢を語るプレゼンターとそれを支えるスタッフの人たち。サポドリは日本の福祉の世界で語りつがれるイベントになっていくことでしょう。そして、阿部さんの夢もこれからもずっと続いていくでしょう。
 私もまだまだやれることがいっぱいあるな、立ち止まっていられないな、そんなことを感じさせてくれた素敵なインタビューになりました。
今日の人92.張本哲也さん [2013年05月30日(Thu)]
 今日の人は、有限会社新栄商事部長、ドリプラ千葉初代実行委員長、ドリプラ2012世界大会では感動大賞を受賞したぬまっちこと沼田聡さんのパートナーだった張本哲也さんです。
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 張本さん、愛称てっちゃんは1972年に千葉の市川で生まれました。3人兄弟の長男でしたが、小さい時は恥ずかしがり屋で、幼稚園の運動会でかけっこがあると、ゴールではなくお父さんやお母さんがいる観客席に走っていくような子でした。
 
家では1人遊びをするのが好きでした。当時大好きだったミニカーを50~60台並べて、ちょっとずつ進ませるのです。並べる順番もちゃんと決まっていたそうですから、そうとうこだわりがあったのですね。

 お父さんはダンプの運転手をしていました。しかし、オイルショックで仕事がなくなり、お母さんは家計を助けるために食べ物屋さんを始めます。そのお店に行って1人で遊んだり、家で1人で遊ぶ…それが幼稚園時代のてっちゃんの毎日でした。

 小学校に入ると鬼ごっこや缶蹴りなどをして外遊びもするようになりましたが、ガンダムなどのプラモデルを作るのも好きでした。集中してコツコツやることが大好きだったのです。図書室で本を借りて読むのも大好き。どちらかと言えば内向的だったてっちゃん。理科や算数が好きで、絵を描くのも得意。この頃美術クラブで部長を務めてしました。

 中学に入ると卓球部に入ったてっちゃんはまたもや部長に任命されます。しかし、技術的にはてっちゃんより上手だった子がそれに反発して、ランニングをしている時に勝手にコースを変えたりしました。そっちに付いていく部員もいて、部が割れたようになるのが嫌でした。内向的だった少年が外に意識を向けるには、相当な勇気がいったはずです。しかし、てっちゃんを部長に任命した先生はてっちゃんの中にある粘り強さや人間的な優しさをきっと見抜いていたのでしょう。

 中3の時、お母さんが子宮頸がんで入院しました。病室に行く度に弱々しくなっていくお母さん。本当に心配でした。
でも手術は成功し、元気になったお母さんを見て、てっちゃんは思いました。
「医者って尊い仕事だな。自分も大人になったら医者になって元気になる人を増やしたい」
そして、その中でも獣医か歯科医になりたい、そう思うようになりました。

 努力家のてっちゃんはコツコツ勉強し、成績は常にトップクラスでした。高校での模擬試験も、獣医学部や歯学部の合格ラインにいました。
「自分はこのまま大学に進んで獣医か歯科医になろう!」そう思って頑張っていた時に、待ったがかかります。

 てっちゃんのお父さんは、てっちゃんが小学校1年の時に、パチンコ屋を開いていました。ダンプカーの運転手だった時に、ダンプカーやショベルカーを置いておくために買っておいた土地の前にちょうど駅が建てられ、こんな場所を駐車場にしておくのはもったいないと思ったからでした。
 しかし、パチンコ屋をやっていくというのは、本当に大変な苦労があり、それこそお父さんは血を吐くような思いでなんとか商売を続けてきたのです。
 
 家族会議が開かれ、てっちゃんはお父さんに言われました。
「歯医者や獣医になるのはやめて、自分の店を継いでほしい」と…。

 親にそう言われてノーと言えるてっちゃんではありませんでした。
てっちゃんは医者になる夢を封印し、文転して経済学部を目指しました。
 しかし、それまでずっと理系の勉強ばかりしてきたので、一浪して、経済学部経営学科に入学したのです。

 大学ではゴルフ部に入り、キャディのバイトもしました。このバイトは楽しかった。
でも、授業もまじめに出て、単位はひとつも落とさなかったあたりは、さすがにコツコツ努力家タイプのてっちゃんです。
ただ、パチンコ屋を継ぐと決めていたので、就職活動は一切しませんでした。

 大学卒業後は実家とはちがうパチンコ屋さんで2年半修行をしました。パチンコをしたこともなかったてっちゃんは、お客さんに何か聞かれてもわからないことが多く、バカにされてしまうことがよくありました。上司も厳しく、怒られてしまうこともしょっちゅう。

 休憩時間や就業後はビルの屋上で寝転んで空を見上げながら考えました。
「お父さんはどうしてこんな仕事を始めたんだろう。僕は医者を目指していて、受かりそうだったのに、どうしてここにいるんだろう…」

 精神的につらい日々でした。このまま蒸発してどこかに行ってしまいたい、そう思ったことも一度や二度ではありませんでした。事実、大卒で就職した人はてっちゃん以外みんな辞めていきました。それだけキツイ仕事だったのです。
 てっちゃんを辞めさせなかったもの、それは「親に迷惑をかけられない」その一心に他なりません。

 こうしてつらい修行の日々を乗り越え、てっちゃんはお父さんに言われました。
「戻って来い」

 戻るとすぐに部長としての日々が始まりました。
お父さんの会社はお父さんが一代で築いた会社です。それ故、我流が多くて、会社としての仕組みができていませんでした。てっちゃんは仕組みを作っていこう、会社を大きくしようと努力して、少しずつ状況を変えていきました。

 それでも、いろいろな問題が起きます。信頼していた人に裏切られたりして、悩みました。何であんなことをするんだろう。常に相手にベクトルを向けていました。
仕事がちっとも楽しくなかった。数字を伸ばすことしか考えていなかった。

 そんな時に、大嶋啓介さんの「会社を変える日本一の朝礼セミナー」に参加する機会がありました。居酒屋てっぺんの朝礼に参加してお店に入って感じました。スタッフがみんなイキイキと輝いているのです。はっとしました。
 自分は数字を伸ばすことばかり考えていた。でもそれじゃあ、ダメだ。スタッフが輝ける職場にしないとダメなんだ。

 こうしてスタッフと一緒に朝礼に参加したりして、お店のスタッフが輝くにはどうしたらいいのかを考えるようになりました。

 でも、一緒に出会った人たちは変わっていくのに、自分はちっとも変わっていかないと焦ります。自分にはリーダーシップがないんだ。子どもの頃から人を引っ張っていくのが苦手だった。こんな自分はどうやって変わればいいんだろう。

 そんな時に、大嶋啓介さんの師匠、福島正伸さんの講座に出たのです。
そこで、いろいろなタイプのリーダーに出会いました。その中には全然引っ張らないリーダーもいました。でも、その人はひたすら愛を注ぎ続けてスタッフを輝かせていました。
ああ、無理に引っ張らなくてもいいんだな。そう思った時、肩の力がふっと抜けたように感じました。

 パチンコ屋の仕事は、なかなか“ありがとう”を言ってもらえない仕事です。どうしたらスタッフがこの仕事に誇りを持って働けるようになるだろう。てっちゃんはいろいろ考えて、スタッフと街の掃除をしようと考え、それを実践するようになりました。
そして、会社の感動ムービーを作成しました。このムービーを作ったことによって、スタッフとの絆がぐっと縮まりました。

 しかし、それに反比例して、お父さんとは意見が合わなくなっていきました。お父さんには自分が会社を作ったという自負があります。チームワークよりもリーダーシップだ、というタイプのお父さんとてっちゃんには隔たりが出来てしまい、てっちゃんはお父さんとあまり話さなくなってしまいました。

 そんな時、お父さんが不慮の事故で突然亡くなってしまったのです。

 屋上に上って泣いて泣いて泣いて…いくら泣いても涙が止まりませんでした。
『なんでお父さん、なんで…』

 てっちゃんはお葬式の時に、改めてお父さんの偉大さを知りました。お父さんはてっちゃんの知らない所で、いろんな人のお世話をしていました。本当にたくさんの人がお葬式に来てくださって、てっちゃんに言うのです。「お父さんにとてもお世話になったから、何かあったら言ってね」
 そんなたくさんの声を聞いて、てっちゃんは決意しました。
「お父さんの作った会社で仲間を日本一幸せにしたい、いや、幸せにしよう!」
お通夜には地域の人もたくさん来てくれた。だから地域にも恩返しをしていきたい。

 こうしててっちゃんは、お父さんが亡くなった翌年に、千葉で初開催のドリプラの実行委員長になったのです。自分が生まれ育った千葉を、お父さんが愛した地元を元気にしたい、そう心から思ったのです。

 始めは仲間もほとんどいませんでした。
てっちゃんは、「夢」という検索ワードでひっかかった会社に片っ端からメールを送りました。そして会ってくれる人には一人一人会いに行きました。
 こうして、てっちゃんの姿勢に心を打たれた人がたくさん集まり、最終的にドリプラ千葉のスタッフは100人にも膨れ上がったのです。
 そして震災を挟んで2回、ドリプラ千葉で実行委員長をやり遂げたてっちゃんなのでした。

 今、てっちゃんが楽しいことは、会社で働いているスタッフが幸せになってくれることです。
 そして会社を日本一幸せな会社にすることがてっちゃんの夢です。
 ぱちんこ情熱リーグで優勝することも夢の1つです。

 そんなてっちゃんですから、仕事時間は半端なく帰宅時間はいつも朝の4時頃。平均睡眠時間は3時間という激務の毎日です。それでも、疲れたと感じることはあまりなく、充実した毎日を送っています。仕事に関しては常に本気。本気というのは命をかけることだと思っています。たとえ命が尽きても会社をよくしたい!てっちゃんはそんな熱い心の持ち主です。

 でも、てっちゃんは8歳と4歳のお嬢さんのお父さんでもあります。普段あまり遊んであげられないので、行事に関しては100%参加している優しいパパなのです。

 誰に対しても優しく、大きな愛で包み込んでくれるてっちゃん。そんなてっちゃんにはたくさんの仲間がいます。てっちゃんが無償の愛で接してくれるので、てっちゃんのためなら何でもしたい、という人がたくさんいるのでしょうね。
 
 パチンコの仕事に誇りを持って、命がけで仕事をしているてっちゃん。心はどこまでも優しく、行動はどこまでも熱い、本当にステキな人なのでした。

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ぬまっち沼田 聡さんと一緒に
今日の人90.猪瀬祥希さん パート.2 [2013年05月14日(Tue)]
パート.1から続きます。

 ゲーム開発部門から外され、1人で新規事業を立ち上げる1人部門になったいのっちさん。でも、いのっちさんは新たな仕組みを作り出していくのが本当に得意でした。そして5年後には年間10億円近い売り上げを出すようになっていたのです。
 
 やがて、いのっちさんの上に外部から来た役員がつきました。2人の間は、売り上げが上がるにつれて溝が深くなっていきました。この役員との対立が元で、いのっちさんはパニック障害を発症します。
朝、電車に乗る時に手に汗をかく。会社についてエレベーターに乗ろうとするけれど、エレベーターのボタンが押せない…。

 いのっちさんは社長に言います。
「会社に行けなくなりました」
 いのっちさんは部長職から外されました。そして2週間会社を休みました。
 
いろいろなことを考えました。父の暴力、それによるトラウマ…。社長との出会い、ゲーム開発。仕事をしながらの高校、大学生活。次々に生まれたヒット商品。部下を追い込んだ自分。上司との対立、パニック障害になった自分…。自分はどう生きていくべきなのか…。

 その後は子会社に行って、またチーム1人でした。そこでも、新規事業の立ちあげはやはりうまくいって、また成功を収めます。
 いのっちさんはここで確信します。ああ、自分はやはり新しいものを作っていく過程が好きなのだ。

 実はパニック障がいを起こす前から、いのっちさんはお父さんに対してのトラウマを消したいと思い、カウンセリングに通ったり、自ら産業カウンセラーやコーチングのコーチの資格をとったりしていました。チームビルディングやファシリテータ−の勉強もやりました。なにしろ、凝りはじめたらとことんやらなければ気が済まない性格です。そうして、たくさん学びましたが、自分の夢は何かと問われると、ずっと答えられずにいました。

 いのっちさんが子会社に行って3年経った時、いのっちさんを取り立ててくれた創業者である社長が亡くなりました。
次の社長は、彼が高校生の時にいのっちさんがパソコンを教えてあげていた、創業者の息子でした。

 いのっちさんは本社に呼び戻されます。
 しかし、その頃社内ではいろいろな問題が起こっていました。詳しい経緯はここでは省きますが、いろいろあって、会社は合併します。

 いのっちさんは新会社で執行役員でしたが、合併に伴い降格しました。
 このままずっとこの状態なのか…そう思った時に、起業という言葉が浮かびました。でも、社内で新規事業を立ち上げるのは慣れていたけど、起業ってどうやってやるんだ?

 こうしていのっちさんは福島正伸さんの起業家スクールに通うことにしたのでした。実は福島さんに出会うことになったきっかけは、ひすいこたろうさんでした。ひすいさんの名言セラピーのイベントなどを企画していく中で、福島正伸さんの存在を知ったいのっちさんは福島さんのスーパーアントレプレナー養成講座を受講します。

「起業家は、どうしても実現したい自分の夢を持っているものです。あなたの夢は何ですか?」
でも、自分を掘り下げれば掘り下げるほど、自分が何をしたいんだろう、それがわからなくなりました。
『こんな苦しい状況におかれても今の会社をよくしたいと思っている自分がいる。いや、でもここにいても…。いったい自分は何がしたいのだ。自分の夢はなんなのだ…』

 そんないのっちさんに福島さんから、人の夢を応援することを提案されます。

 はっとしました。自分は人が何かしたいということを手伝うのはすごく楽しい。
誰かを応援して、その人が幸せになってくれるのはとってもワクワクするのです。
そういえば、昔からサプライズの仕込みをするのは楽しくて大好きでした。

 ゲームを開発している時も、1人で残って徹夜して作って「え?もうできてる!」と驚かれる瞬間は超ワクワクしました。 サプライズを仕掛けて、びっくりした後の笑顔を見るのがたまらなく好きだといういのっちさん。
 コーチングのセッションの後に、「あ!」と何か気づいた顔をしてくれるのを見るのも同じように大好きです。
誰かの夢を応援するのが今の自分の夢なのだ…そう思ったいのっちさんは決意しました。
起業しよう!そしてみんなの夢を応援しよう!

 こうしていのっちさんは2013年5月、新会社を設立しました。
会社名は「パーソナルハピネス株式会社」なんだか社名を見るだけで、幸せが溢れてくる感じです。

 30年勤めた会社を辞める時は不安だらけでしたが、今は自分のやりたいことを思い切りやるぞ!というワクワク感でいっぱいです。

 新会社においてまずやろうと思っていることは、ゲーム会社専門のコンサルタントです。やはり30年間お世話になったゲーム業界に恩返ししたい、その思いが強いのです。そして、経営コンサルというよりは、自分のリソースを使って開発チームをよくしていきたいと考えています。いのっちさんは、コーチング、カウンセリング、プロジェクトマネージメントという3つを組み合わせて、超ワクワクチームを作ろう!そう思っているのです。

 もちろん、今はチーム一人です。でも、いつも一人から素晴らしいものを作り出して来られたいのっちさんだもの。きっと一人、また一人と仲間が増えて、すばらしいチームが構築されていくことは疑いの余地がないでしょう。

 もちろん、写真の腕を生かすことも忘れてはいません。プレゼンをワンストップで作ることも手がけていこうと思っています。
 コーチングやカウンセリングによってストーリーを描き、それに合った写真を撮り、動画を編集する。そういう一連の作業がやれるのもいのっちさんの強みです。その強みを生かしたプレゼン作りを手がけていきたい、そう思っています。
 
 今はこれから始まる新生活に向けてワクワクが止まらないいのっちさんなのでした。

 凝り性のいのっちさんは釣りや自転車の趣味も半端ではありません。自転車は部品から組み立てるほどです。釣りのために一級船舶の資格も取りましたし、テニス、ゴルフ、スキーの腕も半端無いのです。ドラムを叩いたり、サンバチームに所属して浅草サンバフェスティバルに出たり、とにかく興味の幅は広く、しかもやり始めると趣味という領域で終わらないのがいのっちさんのすごい所。

 でも、やっぱりいちばんワクワクするのは、誰かの笑顔を見たり、誰かが夢を実現に近づけるお手伝いをすること。
 ゲームをずっと作ってきた技術者としては物事を楽しくしたいという思いはもちろんあるけれど、今は、物事よりも世の中を楽しくしたいという想いの方が強い。だからモノではなく、人に焦点を当てた会社を立ちあげられたのですね。

 これからもとびきりのサプライズでみんなをあっと驚かせるであろういのっちさん、どうぞそのステキな笑顔でたくさんの夢を応援してあげてくださいね。
そしていのっちさんの新たな船出を、たくさんの仲間がこれからもずっと応援し続けることでしょう。私もその末席に加えていただければ幸いです。

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いつも笑顔のいのっちさん

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サプライズ好きのいのっちさんが送ってくださった写真集
今日の人90.猪瀬祥希さん パート.1 [2013年05月13日(Mon)]
 今日の人は、30年勤務されたゲーム会社を退職されて「パーソナルハピネス株式会社」という会社を立ち上げられたばかりの猪瀬祥希さんです。猪瀬さんはドリプラ2012世界大会ではカメラマンとしても大活躍!サプライズ好きな猪瀬さんは、私たちプレゼンターのために写真集を作って、2012年のクリスマスに届けてくださいました。そういう心憎い演出が得意なとっても素適な方なのです。
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 猪瀬さん、通称いのっちさんは昭和41年に東京墨田区で生まれました。小さい頃は病弱ですぐに熱を出していました。幼稚園の時は男の子と遊ぶより、女の子と遊ぶことの方が多かったそうです。
 
 お父さんは7人兄弟の長男で、祖父母と父の兄弟も一緒に狭い平屋で10人で暮らしていました。そのお父さんはすぐに手が出る人で、幼い頃いのっちさんは事あるごとに殴られていました。周りに大人がいっぱいいるのに、みんなお父さんが怖くて誰も助けてくれない。お母さんは家事全般を任されて10人家族のまかない状態でかまってくれない。その日いかに殴られないようにするか、そのことばかりを考えていました。

「ぼくはなんで生まれてきたんだろう」
まだ少年のいのっちさんがそう思わずにはいられないほど、暴力は身も心も蝕んだのです。

 いのっちさんは小学校5年生までプールに入れないくらい病弱だったのですが、野球好きだったお父さんに半ば強制的に野球をやらされていました。
 
 いのっちさんが心ときめいたのは、そんな野球ではなく、ものを作ることでした。小さい時からプラモデル作りが大好きで、小4でハンダゴテに出会ってからは、家中の家電製品を分解し始めました。これはどういう構造になっているんだろう。そうやってモノの構造を調べることが面白くて仕方ありませんでした。テレビって何で映るの?テレビを分解して感電したこともあります。
 
 こうして部品を組み合わせれば何か作れることを体得していった少年は自転車で30分かけて、秋葉原に電気部品を買いに通うようになりました。
 ある日、そのお店に「マイコン」なるものが置いてありました。

「これは何?」と問う小学校5年生のいのっちさん。
「ゲームが作れるんだよ」とお店の人に言われた時、ドキドキしました。ゲームが作れる?
まだまだマイコンを触れる人などいない時代です。お店の人はいのっちさんに展示品を触らせてくれました。こうして、お店に通って日曜毎にゲームソフト作りをするようになります。
 
 いのっちさんは小6の時には、お店で大人相手にプログラム講座を開くまでになっていました。わからないことは徹底的に調べて自分で答えを見つける。そうやって仕組みを知るのがたまらなく好きでした。

 中学生になると体もずいぶん強くなってきました。
 中1の時は、卓球部に入り、中2では美術部、3年はサッカー部と学年ごとに部活が変わりましたが、なんでものめり込む性格のいのっちさんは、始めたことは、とことんやってしまうのでサッカー部では部長として活躍するまでになりました。その頃ちょうど流行っていたのが3年B組金八先生。いのっちさんもその時代の影響を受け、ちょっぴりヤンキーっぽかったようです。
 
 実は中学校に入ってから、コンピューターのプログラミングには興味をなくしていたのですが、中3の時、大松くんという普段は全くしゃべらない人が声をかけてきました。
大松くんは「パソコン」と一言だけ発しました。そうして、大松くんの家に行ってみたところ、なんと大松くんの家には当時大変珍しかったパソコンがありました。
 学校では話さないけれど、自分の家ではよく話す大松くん。
 いのっちさんはこうして大松くんの家でパソコンに触れる中で、ゲーム作りを思い出しました。

 高校はサッカーの推薦で進学しました。(1年しかサッカーをやっていないのに、そのサッカー推薦で高校に行っちゃうなんて、すご過ぎます!)
 しかし、当時の体育系の高校は、体罰が当たり前の時代でした。いのっちさんにとって、体罰は父親を連想させるものでした。学校でも体罰、家でも体罰。もう、限界はとっくに超えていました。家にも学校にも居場所がありませんでした。
 
 そうして、高校を半年で中退し、家も飛び出してひとり暮らしを始めました。もちろん親の援助を受けているはずもなく、なんとかして働かないと食べていけません。
 ゲームが好きだったので、「ゲームセンターの店員になろう!」…そう考えて、ゲーセンのバイトの面接に行きました。それでも、高校中退のいのっちさんを雇ってくれるところはなかなかなく、4件目くらいにようやく採用してくれるところが見つかったのです。
 そしてここで採用になったことが、いのっちさんの人生を大きく変えることになったのです。

 採用になった後、いのっちさんがゲームを作れることを知った店長が、一度社長に会ってくれと言います。その頃はまだまだゲーム開発者が珍しかった時代です。社長に会ったいのっちさんは、その才能を高く見込まれて開発部に抜擢されました。そして次々に新しゲームを開発して会社の売上をどんどん伸ばしていったのです。

 やがて現場のトップになったいのっちさん。ある日社長に言われます。「今からうちの会社は一部上場する。一部上場企業になれば、大卒の新卒を採用するようになる。今からでも遅くない。大学へ行け。」
 こうして、仕事をしながら通信制の高校で学び、大学にも進学したのでした。

 いのっちさんはその後もどんどん新しいゲームを開発して、大きな結果を出し続けました。「会社の中で自分よりできる人間はいない!」そう思っていました。完璧に指示命令型の人間だった、といのっちさん。誰もいのっちさんに文句は言えませんでした。
「なんで出来ないんだ!」そうやって部下を追い込み、会社を去ってしまう部下は、一人や二人ではありませんでした。

 ある日、社長から呼ばれます。
「猪瀬とは仕事をしたくないとみんな言ってるぞ」
 こうして、ゲーム開発部門から外されてしまったのです。
でも、ゲーム開発部門から外されるというのは、いのっちさんにとっては自分を否定されたと同じ事でした。

『こんなに会社に尽くしてきたのになぜ…』
やりきれない思いでした。でも、自分が悪いとは思わなかった、いえ思いたくなかったのです。


パート.2に続きます。
 
今日の人89.鈴木秀一さん パート.2 [2013年04月10日(Wed)]
パート.1から続きます。

ドリプラに関わるのはやめたいと言った秀さんに福島正伸さんは、ご飯でも食べながら話そうとおっしゃいました。

「秀一くんは何がやりたいの?」

「会社の環境を変えたいと思っています。」

「会社だけでいいの?」

「いえ、世の中で働いている人みんなが輝いていられるようにしたいです。」
 
すると福島さんは満面の笑みでおっしゃったのです。
「うちの会社に来たら、それができるよ。」
 2008年の秋のことでした。

 考えてみたら、今まで自分は野球をやったり、バンドを組んだり、スキーで選手を目指したり、
仕事でコンピューターを扱い始め、コンピューターの世界で活躍しよう!と夢を持ちました。
でも、やっぱり続けることは出来ませんでした。
結果的に、いつも諦める人生になってしまいました。
諦めた理由は、どれもこれも自分が何かの壁を感じた時でした。
それは、怪我だったり、環境だったり、お金だったり、きっかけは色々あります。
壁が原因で夢をあきらめてきた自分…。そんな自分が夢を持つ人を応援するようになった。そしてそれが、自分にとってかけがえのない大切なものとなっていたことに気づきます。

 こうして秀さんは、長年勤めた会社を辞め、アントレプレナーセンターへと転職したのでした。

 ですから、秀さんは2007年にドリプラが始まった年からずっとドリプラ世界大会に関わり続けています。私もプレゼンターの一人でしたから分かるのですが、舞台袖にいらっしゃるだけでとても安心できる、そんな存在感を持った人、それが秀さんです。

 そして、秀さんのアントレプレナーセンターでの仕事は、法人向けの感動ムービー作りをその法人と一緒にやっていく、というものでした。会社勤めが長く、会社の内側をよく知っている秀さんには適任でした。

 感動ムービーを作っていく途中、様々なことが出来湧くのですが、それを一緒に乗り越えて行く過程、それがまさに感動なのでした。そして秀さんはいくつものその現場に立ち会ってきたのです。

 やがていろいろな企業で、ニーズが生まれ、たくさんの感動ムービーが生まれました。ヤマト運輸様、ヤクルト様、ドコモ様…みなさんがご存知の企業名がズラリと並びます。
 これはとてもやりがいのある仕事でした。そしてもちろん、ドリプラも。

 2012年の7月、福島さんと秀さんは、新幹線で一緒に座っていました。
 福島さんが言います。
「秀一くん、もう自分のやりたいことに向かっていった方がいい」
 最初、ピンと来ませんでした。

「アントレを卒業してさ」

「…ああ、そういうことなんだ!」

 こうして2012年の8月に、アントレプレナーセンターを退職し
日本メンタリング・マネジメント協会」を設立されたのでした。
 今は、飛び出して下がっている最中だと秀さん。どこが底なのかな、とワクワクしているそうです。底にはトランポリンがあって、あとは上に上がるしかないのだから。

 でも、毎日誰かと会ったり打ち合わせがあったり、秀さんの仕事を応援したいと言って来てくれる人がいたり、自分の足で立ち始めたのを感じています。そして、これから一緒に仕事を作っていく仲間との時間は何にも代えがたく、とても大切でとても楽しい時間なのです。

 秀さんは、自分が涙する時って、どんな時かを考えてみました。
するといつも仲間との関係の中で自分が涙していると気づいたのです。
それは、悪い時だけでなく、良い時も一緒です。
・大きな仕事を、みんなで協力しあって、無事に達成できたとき
・子どもの運動会で、一生懸命に走って仲間にバトンを繋ぐリレー
・スポーツ観戦に行って、応援団を中心にファンと一緒に応援できてる時
 そうした瞬間と言うのは、自分の夢が実現したと言うよりも仲間との一体感を感じられた時に得られるものだと気づきました。
僕は仲間との一体感をもっとも得たいのだな、
それが一番大切にしたい場なのだと感じられるようになりました。

 それは、意識では覚えていなくても、心は覚えていたようです。
 つまり、仲間と分かち合いが出来た時に喜び、
仲間と分かち合いが壊れた時に悲しむんだな、と気づきました。
そう気づいたことで、ずっと閉じていた心の蓋を開けることができたんです。

 そうは言っても、仲間を犠牲にしたり、独りよがりな行動をついついしてしまうことだってあります。でも、そんな時は後ですごく気持ちが悪くなります。

 それよりも、同じ志を持って、同じ情熱をもって、同じ体験を共有する、
気持ちを共有できる、そんな仲間がいることが最高に幸せなのだと思っています。
それに気づいた時、今までやって来たことが一気に繋がってきました!
「人を応援する」ことに喜びを感じるのは、自分の中にある一番の価値観なんだという事。
ずっと気づいていませんでしたが、人を支援する活動を通して、秀さん自身の中にずっと培ってきました。

 だから自分は、人を応援することを仕事にしたんだ!と改めて気づきました。
秀さんの夢は、夢を叶えられる支援者をたくさん創ることです。
起業家を支援する人だけでなく、会社の中にも、家庭の中にも、支援者を増やしていきたいのです。
そんな支援者が増えれば、もっともっと世の中は良くなるにちがいありません。

 そして、働いている人みんなが誇りを持って働けるようにしたい!
どんな仕事もその人が誇りを持てば、それは世界一の仕事なのだ!そう信じています。

 そして、故郷北海道に恩返しをしたいという夢も持っています。世界でいちばん食事が美味しい国、それは日本だと秀さんは思っています。そして、その日本の中でも食材に特に恵まれているのは、北海道だと。
 日本の農業を外国に流通させるとしたら、その役割を担うのは北海道だ。北海道には輸送チャネルがある。北海道産のブランドの流通が外国との間で作ることができれば、それは北海道だけにとどまらず、日本全体にとって役立つことなのだ!それが秀さんの思いです。

 クラーク博士は「少年よ、大志を抱け!」と言った。確かに大志を抱いている人はいるけれど、実際に行動できていない人が多いのではないか?

 秀さんは、「北海道ってすごいんだよ」と言えるのはボクだと思っています。

 これまで秀さんはお子さんに、「人の夢を実現するお手伝いをするのがパパの仕事だよ」と言ってきました。黒子ほど楽しい仕事はない、そう思って来ました。
 
 でも起業した今はこう言っています。
「これからはパパが持っている夢を実現していこうと思っているよ」

 そして、子ども達に仕事に興味を持って欲しい。子どもたちが夢中になれるものを見つけてあげたい、感動体験を増やしてあげたい、そう思っているとても子煩悩なお父さんです。
 
 どうぞこれからは、お子さんと、そして秀さんご自身の感動プロデューサーにもなって、更にたくさんの感動を紡ぎだしていってくださいね。
 
そして、「俺、この仕事めちゃくちゃ好きだ!」日本中をそんな大人であふれさせてくださいね。
 ええ、秀さんならできますとも!

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たくさんのステキな顔を持つ秀さんです♪
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 今日の人は日本メンタリング・マネジメント協会代表鈴木秀一さんです。鈴木さんはアントレプレナーセンターで感動のムービー作りに取り組んできた感動プロデューサー!
 鈴木さんは秀さんと呼ばれているので、ここでも秀さんと書かせていただきます。
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 秀さんが生まれたのは、北海道の札幌です。小さい時からいつもやんちゃだった秀さん、お兄さんの後ろにくっついて外遊びをするのが大好きでした。歩いて30分近くかかったけど林の中や河原に行って遊んだり、近所中を舞台にして鬼ごっこしたりして遊んでいました。ガキ大将ではなかったのですが、ガキ大将の後ろから相手に攻撃するタイプだったそうです。それはスネ夫タイプってこと?

 そんなやんちゃな少年は、小学校4年生から少年野球を始めました。ポジションはピッチャー。大好きなチームはヤクルトでした。プロ野球チップスのカードを集めるのも好きだったなぁ、と秀さん。それ、私も集めてました!なかなか好きな選手が出てこなかったけど。
 
野球と同じく夢中になっていたのはゲイラカイトです。私たち世代にはとってもお馴染みの凧なのですが、みなさんご存じでしょうか。
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 小学校のグラウンドでゲイラカイトを空たかく上げて、落ちたゲイラカイトを自転車で探しに行くのが日課になっていました。
 
 読書では江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズが好きでした。小学校の担任の先生が勧めてくれた本は読まずにもっぱら推理小説を読んでいた秀さん。それと、ベッドで横になってドカベンやジャンプを読んでいたので、目が悪くなってしまい、小学6年からはメガネ。今、秀さんはメガネがとってもお似合い。白縁のメガネが似合う人No.1ではないでしょうか。

 そんな秀さん、小学校6年生の時に肩を壊してしまいます。夏の大会で肩が痛くなったのですが、放っておけば治るだろうと思って、そのままにしておくと、1ヶ月後には痛くなくなりました。そして秋の大会でも投げたのです。すると、大会の最中に夏の大会以上の痛みが襲ってきました。かろうじて、その大会は投げ抜きましたが、その後50球以上投げることができなくなってしまいました。それで子ども心に思ったのです。
「ああ、僕はもう野球は無理なんだ」
 
 でも、それを誰にも言いませんでした。それに、今は少年野球でも肩のケアはとても大事にされていますが、まだそういう時代ではありませんでした。お父さんに「お前、中学に行っても野球やるんだろ?」と聞かれましたが、「もう、いいや。勉強するよ」と答えた秀さん。

実は肩を壊した以外にも、野球をやめた原因はありました。でも、秀さんはそのことにずっと蓋をして生きてきました。

そのことについて、秀さん自信が綴ってくれた文があります。
「僕の小学校の時の夢は、プロ野球選手になることでした。
もう30年以上前になりますが、当時は毎晩プロ野球がTVで放映されていて、
そりゃ憧れの選手をたくさん見ることが出来たので、野球にのめり込んでいく訳です。
王貞治、掛布雅之、バース、桑田真澄、清原和弘、野茂英雄。
今でもこの名前を思い出すだけで、当時の映像が浮かんできます。
僕は当時、スワローズファンでした。何故かと言うと、甲子園で大活躍した
荒木大輔ってピッチャーが入ったからです。
ずっと彼の投球フォームを真似て投げていました。
荒木選手の活躍を見ていたら、プロ野球選手になりたいだけでなく、
やっぱりピッチャーになりたいと思ったんです。

そして、少年野球チームに所属していた時の話です。
僕はチームのキャプテンを務めていました。しかもピッチャーで4番でした。
チームの練習は、毎朝4時半から。
夕方は学校が終わったら自宅の壁に向かって投げる練習をしていました。
終わるのは母親に「もうご飯だから、おうちに入りなさい!」と言われる時なので
夏場は7時をとっくに過ぎてました。
もうプロ野球選手になりたい!ピッチャーで活躍したい!
って強い思いが自分を動かしていたと思います。

ある時、チームの練習で紅白戦をすることになりました。
監督の指示で、僕ともう一人のピッチャーを中心に
チームを作ろうとなり、他のみんなは好きな方を選べと言ったのです。
僕は彼との勝負が出来る事をとても興奮していてやる気満々でした!
これで勝って、どっちが本当のエースなのか勝負だ!って。

でも、結果は試合をする前に決まっちゃっていました。
チームメンバーのほとんどは、彼の方を選んだのです。
紅白戦だけど、僕の方には他に仲間は誰もいない・・・。
当時12歳の自分には、その理由がよく分かりませんでした。
でも涙がずっとこぼれていたのをよく覚えています。
結果的に同情してくれたメンバーが、
「可哀そうだから、秀ちゃんの方に行くよ」と言ってくれて、
紅白戦のチームが出来ました。

試合の結果は、実は今はよく覚えていません。
あれからずっと今まで蓋をして生きてきたと思います。
思い出したのは、何と今年のお正月です。(笑) もうビックリです。
友人と小さい頃の話をしていた時に、30年以上を経て思い出したんです。」

 キャプテンでエースで4番だったのに、チームメイトが自分の方についてくれなかった…。そして肩まで壊してしまった。
 その時の小学6年の少年の気持ちはいかばかりだったでしょう。

 中学生になった秀さんはバスケ部に入りましたが、おもしろくなくて、一ヶ月で辞めてしまいます。しばらくうだうだしたりもしましたが、そのうち生徒会で活動したり、生徒会絡みで放送部に出入りしたりするようになりました。
 
 教室の中でグループワークをしている時、なぜかいつも秀さんが盛り上げないと物事が進んでいかないグループでした。たまに手を抜くと、物事が一向に動かず、これは俺にやれって言っているんだな、と思うようになりました。この頃から、場が動かない時は中心になって引っ張っていったのです。

 中学生は恋愛を学ぶ時期だ!と秀さんは言います。今もとてもカッコイイのでさぞかしモテたと思いますが、詳細は秀さんにお聞きくださいね。きっといろいろ教えてくださると思います。

秀さんにはとても優秀なお兄さんがいて、お兄さんと比べられるのが小さい時から嫌でした。お父さんから、「進学校に行けないなら手に職をつけろ。」と言われたこともあって、工業高校の電気科に進みます。電気科は真面目な子が多かったのですが、土木科、建築科はかなり荒れていて、狙われたのが電気科でした。なんと授業中に花火が飛んできたこともあったそうです。スクール☆ウォーズを地で行っていたのですね。

 秀さんは、そんな風に荒れることはなかったけれど、自分のエネルギーをどこにぶつけたらいいのか、いつも悶々としていました。電気科の勉強は好きでしたが、それでその悶々とした気持ちが晴れるわけではありませんでした。2年の後半から放送部に在籍し、放送部の部屋でバンドの練習をしたりしていました。バンド仲間はBOYを聞いて「俺らもこのバンドで食ってんだ」といきがっていました。秀さんもなんとなく、そのノリに合わせていました。

 秀さんはお兄さんがビートルズ好きだったこともあって、洋楽が好きでした。
ジャーニー、ポリス、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース…。
邦楽では小学生の頃からオフコースが大好きで、今も小田和正のファンです。

 放送部だった秀さんは卒業式に尾崎豊の「卒業」を流します。先生にはこっぴどく怒られましたが、生徒たちからは大拍手でした。
「あと何度 自分自身 卒業すれば
 本当の自分に たどり着けるだろう」
 秀さんは、どんな想いで卒業をかけたのでしょう。そして、今は、本当の自分にたどりつけましたか?

 こうして高校卒業後、レジスターのメーカーで働き始めました。
札幌で採用の予定でしたが、1年目は静岡県三島市で、2年目は東京での勤務でした。
ちょうど、スーパーやコンビニでレジを中心にしたシステムを事務所のコンピューターで管理し始めた時代でした。コンピューターを使って、実社会の商品が動き始めたのです。スーパーは土日関係なしだし、コンビニも急速に成長している時だったので、夜中の2時3時に呼び出されることもしょっちゅうでした。デート中に仕事が入って、スーパーの駐車場で3時間彼女を待たせることもざらでした。それを我慢できる人じゃないと、秀さん達の業界の人の彼女にはなれなかったのです。

 3年目、札幌に戻ってからは仕事以外にスキーにものめり込むようになりました。
秀さんは常にお兄さんへのコンプレックスがありました。
「お前はダメだ。兄貴はいいのに」
そう言われてきたので、何かお兄さんに勝てることをどうしても作りたかったのです。それで、スキーインストラクターの資格を持つおじさんに習って、スキーに没頭するようになっていったのでした。
スキー場でポケベルが鳴って、仕事場に駆けつけたこともありました。

 秀さんが23歳の時、パソコンでDOS/Vと言うのが日本に上陸します。互換性があるパソコン!今では当たり前ですが、当時は衝撃的でした。価格もものすごく高かったけれど、秀さんは思い切ってそれを買うことにしました。モニターも合わせると40万ほどかかりましたが、それでもどうしても欲しかった。
こうして、秀さんの生活は仕事とスキー以外にも、パソコンという柱が出来ました。これらが情熱3本柱でした。

 パソコンの世界はその後どんどん変わって行きました。パソコン通信、ホームページ、そしてインターネット、チャット…。アメリカの人と徹夜でチャットしてたこともあります。それが楽しくて楽しくて仕方がなかった。

 その頃から、自分の得ている情報やノウハウと、会社とのギャップを感じるようになります。このまま、この仕事を続けていていいのか…?
秀さんは上司に言います。
「東京に転勤させてください。さもなくば、会社を辞めさせてください。」
 秀さんはこうして東京に転勤することになりました。27歳の時でした。

 東京に出てきてすぐに人生を変える一冊に出会います。それは村上龍の「希望の国のエクソダス」でした。(2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった―。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編)
 
 秀さんはこの本がきっかけで初めて経済に興味を持つようになりました。そして通信制の大学で経済を学び始めます。
 
 経済の知識も身につけた秀さんは、いくつかの異動を経て、やがて経営企画の仕事に携わるようになりました。しかし、それまでやったことのない仕事で当然わからないことが多かったので、いろいろな本を読んで勉強しました。その中に大前研一さんの本が何冊かあったのです。それらを読んでe-Learningも始めた秀さん。その流れの中で通い始めたのがアタッカーズ・ビジネススクールでした。

 このアタッカーズ・ビジネススクールの講師のお一人が、福島正伸さんでした。秀さんはスクールのスタッフに勧められて福島さんのアントレプレナーシップ講座を受講します。第2期の受講生でしたが、このまま終わるのはつまらないのでOB会を始めました。

 そのOB会も単なる飲み会になるのは面白くなかったので、講座の最終プレゼンでもやった自分の夢を5分で語る会をずっと続けようよ、ということになりました。第1期生、第3期生、みんなを巻き込んで、福島さんも来てくれる時は来てくださいと声をかけて、その夢を語る会は毎回30〜50人の人が来てくれました。
2回、3回と回を重ねるごとに、みんなのってきてくれて、中学生がその夢を聞きに来てくれることもありました。こうして、2006年後半から2007年後半にかけて、その夢を語る会は続いたのです。

 2007年、夢を語る会の4回目をやる直前に、福島さんの秘書を通じて、「ドリームプラン・プレゼンテーションをやるので手伝ってくれませんか」と打診されます。
ドリプラ、もちろんこのブログの読者なら、もうすっかりお馴染みのこの言葉ですが、これが記念すべきドリプラ世界大会のスタートの年でした。ドリプラのイベントを12月にやりたいと思っている。そして発表者はそれなりにいるので、運営スタッフを募集したい!
そこで夢を語る会を運営していた秀さんたちに白羽の矢が立ったのです。

これが、秀さんがドリプラに関わるようになった最初でした。

 こうしてビジネスのセンスをどんどん磨いていった秀さんは、社内では社長のスピーチ原稿を書くまでになっていき、ポジションもどんどん上がって行きました。そして経営企画室は、会社の中でちょっと目立ちすぎたため、紆余曲折を得て解散という結果に・・・。

 そして経営企画室での仕事を持ちながら営業推進部に移ったのが、2008年のことでした。経営企画室での仕事を持ちながらの営業推進部の仕事は当然忙しく、これはもっと仕事に時間を取らなきゃダメだと思いました。そして福島さんに言ったのです。
「ドリプラに関わるのは辞めたいのですが…」


パート.2に続きます。
 
今日の人88.河合由紀さん [2013年04月01日(Mon)]
 今日の人は、株式会社コーチ&パートナーズ代表取締役の河合由紀さんです。
由紀さんはドリプラ世界大会の主要スタッフとしても大活躍。芯がピシっと通ってとても頼りになる由紀さんですが、外見はとってもキュートでかわいい女性です。
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 由紀さんは昭和46年にロスで生まれ、2歳までアメリカで過ごします。家族はみんな英語がペラペラ。日本に帰国しても外国人が家に遊びに来ることもあったのですが、由紀さんはなぜか英語アレルギーで、その度に熱を出していました。
 
 由紀さんは外ではとても活発に遊ぶ子でしたが、家では泣き虫でした。2歳年上のお姉さんとよくケンカもしましたが、おばあちゃん子だった由紀さんは、何かにつけておばあちゃまの部屋に逃げ込んでいました。そんな由紀さんをおばあちゃまも「ゆきちゃん、ゆきちゃん」といつも可愛がってくれました。
 
 進路ではお姉さんと同じ小学受験を選びます。小学校から大学まではずっと女子校だった由紀さん。小学校の時は負けず嫌いで外では正義感ぶって仕切りたがる性格でした。ですから、女の子にもてました。バレンタインデーにはチョコももらいました。今とちがって、友チョコなんて送らなかった時代です。そんなモテモテの由紀さんでしたが、学校ではピンクレディも踊っていました。その頃はピンクレディが全盛期で、小学生の女の子はたいてい振り付けをマネしていたものです。
 
 そんな由紀さんでしたが、掛け算九九が大嫌いで、できなくていつも居残りをさせられたので、未だに掛け算九九は嫌いです。

 小学校の時、大好きなおばあちゃまが病気になりました。
 家には、おばあちゃまのお世話をするお手伝いさんが来ていました。由紀さんはそんなお手伝いさんの姿に憧れて、大きくなったらいろんなお世話ができるお嫁さん・お母さんになりたい、そう思いました。それは中学でも高校でも変わりませんでした。

 小学校の時から演劇やバスケをしていた由紀さんですが、中学では硬式テニス部に入ります。しかし、部活にそれほど燃えていたわけではなく、むしろ燃えていたのは合唱コンクールや球技大会でした。みんなが1つになってやることが好きだったのです。もちろん、思春期の女の子同士ですから、いざこざが起きて胸を痛めることも当然多かったのですが、だからこそ余計にみんなでひとつになれるそんな瞬間はたまらなくワクワクしました。

 女子校でしたから、男子校とのお付き合いもなかったわけではありません。当時流行っていた文通をしていた時もあります。メールで即時にやり取りができる今と比べると隔世の感がありますが、手紙がいつ来るか待っているドキドキ感はメールよりははるかに大きかったように思います。

 大学に入った年の学園祭の前々日、由紀さんは交通事故に遭います。公衆電話待ちをしていた時に、路駐をしていたトラックがいきなりバックを始め、由紀さんは背後からトラックにはねられてしまいました。幸い、1週間の入院で済みましたが、その時両親がものすごく心配する様子を見て、親を心配させてはいけない、と初めて痛感しました。由紀さんの家は大学生になっても門限が10時という家庭だったのですが、それも娘を思えばこそ、とその時は納得したものでした。しかし、やはり元気になると、「いちいちうるさいなぁ。早く自由になりたいなぁ。早く結婚したいなぁ。」と思ってしまうのでした。

 由紀さんは大学で人格心理学や社会心理学を専門に勉強しました。その勉強は大変おもしろく、卒論で「兄弟の構成と性格形成」について書いている時も夢中で書いていました。それだけ好きな勉強だったので、臨床心理士になろうかとも思いましたが、臨床心理士になるには修士を出ていることが必須なのでやめました。

 実は由紀さんは19歳の時に宅建主任者の資格を取得していました。お父さんにその資格を取ったらお小遣いをやるからと言われて、取っておいたのです。ですから、就職活動の時は、宅建があるし不動産会社かな、と漠然と考えました。由紀さんは極度な人見知りで、とても緊張するタイプだったそうです。(今はどこをどう見てもそういうふうには見えませんが…)そういえば、小学校受験の時にはお父さんに5時に起こされて、ベランダに立たされて「由紀は恥ずかしがりません」って言わされていたのでした。
 
 そんなことを思い出しながらの就職面接。でも、由紀さんは大手テレビ局のアナウンサー採用試験で役員面接までいったというのですから、やっぱり“もってる”人なのです。
が、しかし、キー局のアナウンサー採用とはいかず、地方局を受けませんかとも言われましたが、大手不動産会社の採用試験日と重なっていたため断念。ただ、時はバブルが弾け、急激な就職氷河期に入っていました。その不動産会社に落ちてしまい、もう就職はやめようかと思ったりもしました。
 しかし、そんな時に旅行会社の2次募集を受け、そこで見事採用になった由紀さん。その会社は、海外専門の旅行会社でした。

 由紀さんはハワイの担当になります。最初は予約管理や現地との調整。次は商品企画になり、パンフを作ったりオプショナルツアーを組み立てたりと多忙な日々。ハワイに出張に行っても遊ぶ時間はありませんでした。でも、この時に頑張ることを覚えたと由紀さん。
仕事を通して全く知らなかったことを知れるようになることの楽しさも知りました。こうしてハワイの担当を7年やり、そろそろハワイはもういいかな、と思った時にマーケティング部の商品戦略室に異動になったのです。そこは新規事業立ち上げの部署でした。二人だけの部署。インターネットで全ての旅行を売るシステムを構築するという任務が与えられました。異動はしたかったけど、こういうことをやりたかったわけじゃない。そう嘆く由紀さんでしたが、「できない人にその仕事は来ない」そう言われ、泣きながらがんばりました。でも、この時仕事で悩んだことがコーチングを学ぶことにつながっていったのですから、やはり人間万事塞翁が馬ですよね。
 
 上司は「旅行屋なんて遊びを知らなかったらできないぞ」という人でしたから、水上スキー、キャンプ、などいろいろ行きました。でも普段の仕事の日は、普通の時間に帰って来られる日はまずないので、学生時代の友だちとは全然会えませんでした。遅くに仕事が終わると先輩に連れられて、DEEPな飲み屋に行っていた30歳の頃の由紀さんでした。
 
 大学の時まで10時だった門限は、社会人になってからはなくなっていました。門限なしで自由になったはずでしたが、ちっとも自由になった気がしない。私ばっかりなんでこんなに大変なんだろう。こんなにこき使われるの、やってられない。そんな被害者意識が大きくなっていた頃、コーチングっていうものがあるよ、と教えられました。2001年のことです。こうして、コーチングを学びはじめた由紀さん。人が行動したくなるコミュニケーションスタイルに魅せられて、コーチの道を歩き始めます。

2003年からは会社で勤めながら、パーソナルコーチも始めました。2004年には経済産業省後援の独立・起業家支援プロジェクト「起ちあがれニッポンDREAMGATE」登録アドバイザーとしてユーザーからの無料相談やセミナー・勉強会の講師としての活動も始めました。会社の仕事も好きだったのですが、コーチングでやっていこう!と決意して、2005年にコーチ&パートナーズを設立しました。
 
 由紀さんは始め自分のように悩んでいる女子OLを元気にしたい、と思っていました。でもOLを元気にするためには、まず経営者がみんな元気にならないと、と思うように。こうして、経営者の方へのコーチングをメインにやっていくようになりました。
 
 2007年、由紀さんも関わっているJカレッジのセミナーで福島正伸さんが講演されます。そこで福島さんの講演を聴き感動のあまり号泣した由紀さん。そして福島正伸さんの「究極のコンサルタント養成講座」第1期に参加します。そこで、夢のプラン作りを手伝ってくれないかと言われました。その夢のプランというのが、ドリームプラン・プレゼンテーションでした。こうして由紀さんは、第1回のドリームプラン・プレゼンテーション2007世界大会の運営に参画。以来ずっとドリプラ世界大会に関わり続けていらっしゃいます。
 
 ずっとドリプラに携わっている由紀さんにドリプラのおもしろさとは何かと聞いてみました。すると、プレゼンターがどんどんかっこよくなっていくところだと答えてくれました。プレゼンを作っていく課程で、どんどん自信をつけていく様子に惚れ惚れするそうです。一方でスタッフやメンターの中で意見やスピード感が合わないという悩みを抱えている時もありました。でも、それはいいんだ、みんなメンター同士なんだから、と去年ようやく納得できたといいます。

 由紀さんは2009年、38歳の時に結婚しました。大学を出てすぐにでも結婚して専業主婦になりたかったのに、全然ちがう人生になっちゃった。でも、今のこの人生、気に入っています。
 
 今、楽しいことは料理。いつもできるとは限らないけど、出来る日はとても楽しい。そして、飲んでいる時も楽しい。弱いけれど(本当?)飲んでいる時間はとても好きです。 そして、覚悟を持った人の力強い言葉を聞く時間も至福の時です。
 
 そんな由紀さん自身の夢は、自分とかかわった人がみんな幸せになってほしいということ。自分の幸せとは何かをわかっている人が増えてほしい。幸せって、実はもうあなたの中にあるんだよ。それを伝えていけるコーチでありたい、そう思っています。

 これからもドリームプラン・プレゼンテーションの頼れる姉貴として、そして経営者・起業家をヤル気にさせるコーチとして、由紀ちゃん自身が輝き続けていってくださいね。
私も由紀ちゃんのように、誰かをヤル気にさせられる存在になれるよう、これからもがんばっていきます。
今度、一緒にピンクレディ踊ろうね♪
 
今日の人84.大太浩次さん パート.2 [2013年01月24日(Thu)]
パート.1から続きます。

 車にはねられて空中を飛びながら「俺は彼女もできずに死んでいくのか~」と考えていた大太さん。もちろん、生きているのですが、ケガをして新人戦を棒に振ってしまい、病院のベッドで一人の時間、「俺は、大学にはいってからずっとアメフトばかりだった。そもそも、俺がアメフトを始めたのは純粋にアメフトが好きだったからではない。このままアメフトを続けていていいのか」と考えていました。

 そして、退院した後、アメフト部をやめ同志社大学でしたが、元々好きだったサッカー同好会に入ったのです。彼女も出来て大学生活がとても楽しい時期でした。スキー場で泊まりこみのバイトもしていました。まだバブルの頃です。大太さんは思いました。
「東京に行きたい。上を目指したい。いい会社に入りたい」
今の学生さんには信じられない話でしょうけど、その頃は会社訪問に行くと、交通費がもらえるのは当たり前、内定日には一流ホテルに拘束されたりしました。
 そして大太さんはその当時の人気企業だった山一證券に内定をもらいました。

 しかし、親にそのことを告げるとこっぴどく怒られました。
「株屋をやらせるために大学にやったんじゃない!」

 予想外の反論に動揺する大太さん。めったに怒らない親が言うのには何か意味があるのだろうと、内定は断りました。そして就職が決まらないまま時間が流れます。

 そんなある日、学校推薦でIBMの就職が内定していた同級生が大学院に行くことを大太さんにだけ相談してきました。当然、その内定枠がポンと空いたので、それをいいことに、そこにそのまま滑り込んだ大太さん。もっとも、同じ学部から入った他の2人は一桁の成績順位で優秀だったので、技術職での採用だったのに対して、大太さんは理系だったのもかかわらず成績が悪かったので、営業職での採用でした。

 しかし、働き始めて思いました。自分には営業が向いている!誰かに会うたびにいろんな発見がある。もちろん、文句を言われることだってあるけれど、それを乗り越えていくことで、損得じゃない所で人間関係ができていく。

 社会人3年目、1993年の年末のことです。
仕事もそこそこ順調に行って大過なく過ごした1年の終わり、大太さんは鳥取の米子に帰省していました。年末年始と言えば、同窓会のシーズンです。大太さんも高校のサッカー部のメンバーと飲みに行きました。

 ひさしぶりのメンバーで、飲み会は大盛り上がり。でも、その後、大太さんの記憶があるのが1月3日。病院のベッドの上でした。
 
 大晦日の夜に妹に「今から友達と帰るから。」と電話した後、大太さんは帰ってきませんでした。大太さんには全く記憶がありませんが、元日の朝、ジョギングしている青年が、電話ボックスの中で倒れている大太さんを発見して、救急車で搬送されたのです!
 足の骨にヒビも入っていたので、事故の可能性もあるのですが、まったく思い出せませんでした。

 でも、雪が降る鳥取であの季節に雪が降らなかったこと、倒れていたのが路上ではなく少しは寒さをしのげる電話ボックスの中だったこと、元旦からジョギングする青年が居て大太さんを発見してくれたこと、いろんな奇跡が重なって大太さんは生かされたのです。死んでいてもおかしくない状況で生かされたことで、ガラッと人生観が変わり、自分が生きている意味を考えるようになりました。こうやって生きていることは決して当たり前のことではない。日々いろんな見えない奇跡が重なって生かされているのだ、と。
 
 ただ、この事件には後日談がひとつあります。この後、体の半分が温度を感じにくくなっていることに気がつき、検査入院した大太さん。二十歳のナースにテイモウされるという初体験をしたのでした。

 営業の仕事の中で、ものすごく厳しいお客さんに出会ったこともありました。最初に怒らせてしまって、その後何度も何度も会いに行っても全く会ってもらえませんでした。それでも、週に2回くらい顔を出しているうちに、次第に話すようになってくれて、一緒に飲みに行ったりするようになりました。そしてわかったのです。そのお客さんは怖い役割を演じているんだなと。

 2年後、その方が退職される際の送別会に大太さんは呼ばれます。その時、忘れられないひと言を言われました。
「君と一緒に仕事ができて幸せだったよ」
涙があふれました。厳しい中だったからこそ生まれた絆は余計に固いのだ、そう感じました。

 大太さんの営業活動の3分の1は病院担当営業でした。病院に営業に行って感じたことは、ドクター、ナースの志の高さです。でも、常に死に接しているドクターならではのどうしようもない悲しみに接する時もしばしばでした。大やけどを負った女の子を必死で治療して命を救ったにもかかわらず、退院になった日に鏡を見てショックを受け、その日のうちにその子が自殺してしまった…そんなやりきれない話を聞くこともありました。それでも、目の前に助けられる命があるから助ける、というドクターやナースたち。命を預かる彼らの仕事ぶりに接し、そんな話を聞く度に、働くって何なんだろうな、と考えました。

 そんな大太さんに働くことの意義を教えてくれたのが、ドリプラだったのかもしれません。
 
 2009年、福島正伸さんをIBMに呼んで企業内ドリプラをやることになりました。その時の福島さんの講演で自立型相互支援に触れたのです。自立型はよくわかる、でも相互支援はわからない、そう思いました。そんな時に受けたメンタリングセッションでのグループワークで大太さんは2009年のドリプラ世界大会プレゼンターの齋藤直人さんの夢を支援することになりました。夢大学への想いを熱く語る齋藤さん。そして、ドリプラの予選会場でほぼ号泣している自分。…カルチャーショックを受けました。こんなに伝わるプレゼンがあったのか…!

 そしてそれ以降、ドリプラに携わるようになっていきました。自立型でないと相互支援は成り立たない、それを実感するようになっていきました。依存型だとそれは相互支援ではなく、支援されるだけ、支援するだけの一方通行になってしまうからです。
 
 そんな大太さんの姿を見ていた会社の社員たちも、自らの夢を語るようになりました。それは何よりも嬉しいことだったし、自分がいいと思ったことをやり続けていくことの意義を感じています。

 そんな大太さんに今年一つの転機が訪れました。それは名古屋への転勤です。
今まで東京で仲間たちと自立型相互支援の会社作りに向けて歩いてきた。それを今度は名古屋でできるチャンスが来た!そう思っています。ドリプラの感覚、自立型相互支援という感覚をたくさんの人に伝えていきたい、

 そして、自立型相互支援の社会を自分の会社の中で作って行きたい、それが大太さんの夢です。
 大太さんは自分の会社が大好きです。会社の仲間、お客さん、そんな大好きな人たちのために自分の身体が動く限り動いていきたい!もちろん、それはドリプラで携わった仲間に対しても…。
 
 大太さんはドリプラ2012世界大会の本選の時もスタッフとして忙しく動いていらっしゃいました。そんな大太さん、プレゼン会場の外で私と会った時にいきなりポロポロと涙を流されるのです。「妙ちゃんのプレゼンを見ると、泣いてボロボロになっちゃうから絶対見ないと思っていたのに、お客さんを会場に案内した時に、ちょうどプレゼンの最中で、そのワンシーンを見たらもうダメだったよ。今、妙ちゃんに会ったらまたそれを思い出して…」そんな風に涙を流してくれる本当にあったかい大太さんの姿に、私まで泣いてしまって、40代の男女が別れ話でもないのに、一緒に泣いているんですから、傍から見ると本当に不思議な光景ですよね。
 でも、そんな場面に一緒にいられたことがとっても幸せでした。本当に感謝です。

 どこまでも相手を信じきる大太さん、茶目っ気たっぷりの少年のようなワクワク感とそして大きな愛で、これからもたくさんの人に自立型相互支援の素晴らしさを伝えていってくださいね。

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ドリプラ2012世界大会の日、早朝4時から東京ドームシティホールに椅子を設営するためにラーメンで栄養補給する大太さん。こうしたスタッフのみなさんの影働きがあるからこそ成り立つ大舞台なのです。
今日の人84.大太浩次さん パート.1 [2013年01月21日(Mon)]
 今日の人は、ダイバーシティな企業IBMにお勤めの大太浩次さんです。
 大太さんはドリームプラン・プレゼンテーション世界大会に3年間スタッフとして参加されています。

 大太さんは鳥取県生まれ。大学に入学するまでの18年間は鳥取で暮らしていました。
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小さい時からずっと優等生で、クラスでは学級委員長をやりつつ、クラスの盛り上げ役として活躍していました。とっても目立ちたがりやでもあったのです。
 
 小学校3年生から、少年サッカーも始めます。最初は野球をやろうと思っていたのですが、野球は月謝が必要で、サッカーは必要ありませんでした。その理由で、サッカーの方を選んだ大太さん。
 でも、サッカーを始めると、たちまちサッカーに夢中になっていきました。ドイツのベッケンバウアーの下敷きを持っていて、こんな人になりたいなぁと憧れていました。
サッカー友だちと一緒に魚釣りに行ったり、雪合戦をしたりして遊ぶのもとても楽しかった。
スーパーカーも好きでした。フェラーリ、カウンタック…懐かしいですね。

 もの作りが好きで、廃材をもらって釘を打ってみたり。壊れた時計を分解して仕組みを調べたり、プラモデルを作ったり、そんな風に手を動かしている時間がとても楽しい少年時代でした。

 家はかなり躾に厳しくて、マンガはドカベン位しか許してもらえなかったし、テレビは「8時だよ全員集合」さえ見せてもらえなかったのでした。(大太さん、でも富山ではその当時TBS系列局がなかったから、元々見られなかったんです!)

 中学の時は学校が荒れていました。まさにスクール☆ウォーズ世代。大太さんは特定の集団にボコボコにされて、とてもつらい時期もありました。でも、学校を休もうという気にはなりませんでした。

 そして、中学の頃通い始めた塾の影響で、大太さん勉強がとても楽しくなりました。
 その塾は先生が車椅子の方の個人塾でした。めっちゃ厳しかったのですが、8時から9時くらいから開始だったので、部活が終わったあとに行けました。そして、レベル分けをしていない塾で、分かる子が分からない子に教える、そんな塾だったのです。人に教えてあげるというのは、自分がそのことをわかっていないと無理ですよね。ですから、大太さんは知らず知らずのうちに、教えることで自分自身がとても成長していたのです。そして、それが、自分が頑張れば、誰かを教えられる、という自信に繋がっていったのでした。

 サッカー部の中学最後の大会。3年生の中で3人が選手に選ばれませんでした。みな悔しくて泣いていました。大太さんもその一人でした。

 でも、そこから気持ちを切り替えて受験勉強に打ち込むようになりました。
両親の期待を背負っていたので進学校に行って、いい大学に行かなくちゃ!そう思っていました。お父さんがプラスチックの成形工場をやっていたこともあり、大太さんも理系を目指しました。それにコンピューターには早いうちから興味がありました。中学1年の時に、クラスから一人だけ選ばれて一日だけ高等専門学校に勉強に行った時があったのですが、そこでの体験から、コンピューターに触れたい!と強く思うようになったのです。

 高校は文武両道の学校だったので、とても充実していました。サッカー部ではやはり補欠だったけど、高1と高3の時に全国大会も経験しました。高いレベルの中で練習できるのが楽しくて、3年間サッカー漬けといってもいい日々でした。

 といってもサッカーだけしていたわけではなく、バンドでギターも弾いていました。高校2年生の時は、学園祭のライブでチェッカーズやチューブをやりました。でも、恋愛には興味がなく、そこに時間を費やすくらいならサッカーやバンドをやっていたい派でした。

 そんな高校時代の大太さんは、宇宙関係の仕事がしたいと思っていました。宇宙に行ってみたい、宇宙で暮らしてみたい!それが夢でした。
 そう思って入ったのは立命館大学理工学部情報工学科。

 しかし、大学に入った瞬間に高校時代までの反動もあったのか「大学生活をエンジョイしたい!」と思うようになった大太さん。テニスサークルに入って、彼女を作って…と思って、申し込みの場所に行くともう既にテニスサークルはいっぱいでした。
 すると、両脇から屈強な男子2名に挟まれます。それはアメリカンフットボール部の先輩学生でした。「一回試しに練習に来てみたら?」と言われて行ってみると、ワンレンボディコンのお姉さん達がいました。先輩が横でささやきます。「あの子は彼の彼女で、そっちの子はあいつの彼女だよ」
 チアガールもたくさんいました。
 
…ここに入れば、俺も彼女が出来る!そんなよこしまな気持ちでアメフト部に入った大太さん。4~5月はお客様期間でとても楽しかったのですが、6月に入ると一気に厳しくなりました。授業よりも練習を優先させられる日々。日々耐えるのに必死でした。一番大変な夏の合宿にも耐えたのですが、冬の新人戦の始まる1週間前に、家の近所で警察に追いかけられている車にはねられてしまいます。はねられて空中を飛びながら「俺は彼女もできずに死んでいくのか~」と考えていました。


パート.2に続きます。
今日の人81.岩堀美雪さん  [2012年12月05日(Wed)]
 今日の人は、ドリプラ2012世界大会プレゼンターで、福井県鯖江市 立待小学校教師岩堀美雪さんです。
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 美雪さんは兼業農家の長女として生まれました。祖父がとにかく田んぼ第一の人で、母が逆子になっていた美雪さんを帝王切開で産むことを許してくれませんでした。手術をすると農作業に戻るのが遅れる。子どもはまた生めばいい、そういう考えの人だったのです。逆子で生まれた美雪さんは仮死状態で生まれました。産声を上げない娘に母は必死で頼みます。「この子を助けてください!」
もうダメかと思われたその時、大きな産声が響きました。

 こうしてこの世に生を受けた美雪さん。とにかく田んぼが大事だという家だったので、美雪さんも幼稚園の時から田んぼの手伝いをしていました。みんなが遊んでいるのに、自分には専用の田んぼ靴があるのが恨めしかった。

 そんな祖父だったので、テスト期間などお構いなしでした。肥料を運び過ぎて足から腰が冷えきって左足がずっとしびれていても、農作業やめるわけにはいかなかったのです。それでも母の姿を見ていると文句はとても言えなかった。美雪さんのお母さんは看護師をしながら田んぼと家の仕事もしていて、ずっと働き通しの人でした。お母さんが休んでいるのを美雪さんは見たことがありません。そしてそんなに働き詰めでもお母さんはお給料を全部おじいさんに渡していて、ほんのわずかの生活費しかもらっていませんでした。

 お父さんは夏場は土建業の現場で働き、冬は失業保険をもらっていましたが、お母さんが爪に火を点す用にして貯めたわずかな貯金を通帳ごと全部持って行ってしまうような人でした。それでもお母さんは決して愚痴をこぼすことなくいつも明るい笑顔で接してくれました。そんなお母さんの涙を美雪さんはたった一度だけ見たことがあります。突然お母さんの部屋に入った時に、パッと涙をふいてニコッと笑ってくれた母。なけなしの貯金を持っていかれてしまい、美雪さんの中学校の制服を買うことができなかったのです。自分が貧乏をするのはどれだけでも我慢できる。でも娘に惨めな思いをさせるのは忍びない。

 結局母方の実家の祖母が見るに見かねて制服を買ってくれて、美雪さんは中学校に進みます。その頃、アタックNo.1等のバレーのアニメがすごく流行っていて、なんと女子70人のうちの30人はバレー部に入部。美雪さんもその中の一人でした。1年の夏に3年生が引退すると、美雪さんは1年生の中でたった1人だけレギュラーに選ばれます。友だちから、何であんただけ?と言われてそれがとてもつらかった。それでも厳しい特訓に耐え、3年生では名実ともにエースアタッカーになりました。
 
 そこまで鍛えられたので、高校もバレー部に入ったのかと思いきや、その頃流行っていたエースをねらえに触発されて、テニス部に入ります。そして、高校1年の夏休みの宿題で「二十四の瞳」の感想文を書いた時に、私も大石先生のような先生になりたい!そう強く思いました。でも、日中はどうしても田んぼ仕事に時間を取られてしまいます。美雪さんは夜遅くまで勉強を続け、福井大学教育学部に合格。国立大学なので、元々授業料は安いのですが、それでもやはり親に金銭的負担をかけたくない!そう思って1回目の授業料だけ払ってもらって、残りは授業料免除制度を利用したり、奨学金制度を利用して一切負担をかけませんでした。もちろん、生活費もかかりますから、ありとあらゆるバイトもやりました。ふとん運び、世論調査、車屋さんでの旗振りガール、店頭販売、変わったところでは県警本部でのネクタイ売りなんていうのもありました。

 その頃美雪さんは自分のことが嫌いでした。背が高いのも嫌い。大きな指も嫌い。そんな美雪さんに転機が訪れたのは大学2年。美雪さんに「付き合ってください!」という人が現れたのです。こんな私を好きになってくれる人がいるなんて!美雪さんは彼を離してなるものかと思いました。ですから100%自分を殺しておどおどしていました。そういう態度で接していたのですから、当然といえば当然なのですが、彼に振られてしまいます。
 
 心に大きな大きな傷ができました。私が悪いんだ。悲しすぎてもう私なんか生きている価値がないとまで思いました。美雪さんは本当に一途な性格なのです。福井の自殺の名所“東尋坊”まで車を走らせましたが、両親の顔が思い浮かび海に身を投げることはできませんでした。何日も何日も泣いて、泣きつかれてヘトヘトになった時にふと、自分の手の平を見ました。すると、手の平の中に自分がいました。小さくて今にも消えそうなありのままの私。ちゃんとこの子の側にいてあげよう。手が大きくても足が大きくても、それは愛しい私。そう思った時から、ちょっとずつちょっとずつ自分のことが好きになっていきました。するとどうでしょう。就職前は165cmだった身長がなんと大人になってから伸び始め、とうとう169cm、足は24.5から25.5になったのです。それまでいかに自分を殺していたか、ということでしょう。
 
 そして迎えた教員採用試験。1年目はダメでした。でも仲良しの友だちと一緒に勉強して、2年目に見事合格。先生になれたことが嬉しくて嬉しくて美雪さんはお母さんに言います。
「こんな大好きなことをしていてお給料をもらってもいいのかな」

 思い込んだら一途な美雪さん。教育にも情熱を注ぎ込みます。水泳の授業で4年生は25m、5年生は50m、6年生は100m目標というのがあるのですが、美雪先生のクラスは全員それをクリア。というのも全員泳げるようになるまでひたすら練習をしたからです。逆上がりも全員できるようになるまでやりましたし、県名や百人一首を覚えることもやりました。
県の陸上大会の持久走でも優勝が4,5回。全くコーチ歴などない、美雪さんでしたが、圧倒的な指導力から“炎の岩堀”と呼ばれていました。

 岩堀先生の信念は“子どもには無限の可能性がある。どの子にも必ずいいところがある”ということ。

 当時美雪さんのクラスにいたAくんは勉強は苦手でしたが、友だちが給食をこぼしたりすると、嫌がる顔ひとつ見せず、一緒にふいてあげたりと、とにかく友だち思いの子どもでした。美雪さんは放課後いつもAくんと一緒に勉強してあげました。美雪さんは1,2,3,4,年と続けてAくんを受け持っていて放課後教室はいつも続いていました。
 
 しかし、Aくんたちが4年生の10月の美雪さんは2人目の子を切迫流産しかかります。前置胎盤で大出血をして、もうダメかと思われましたが、まだ心音が聴こえました。ですから、そこから美雪さんはとにかく安静に寝ているのが仕事になりました。点滴しかうけつけず、その栄養もお腹の子に取られるので、髪は抜け、ガリガリに痩せました。ベッドの上で2ヶ月間考えつづけました。私には何が足りなかったのだろう。そうして思ったのです。私には感謝が足りなかった。普通に動けることがどれだけありがたいことだったか。
 
 そして、なんとか無事に出産し、また学校に戻った時はAくんたちは6年生になっていました。教室に行くとみんな元気がありません。彼らは言いました。「先生、僕らは先生と一緒に勉強していた時のぼくらじゃないんです。輝いていた僕らじゃない。」
  Aくんも5年生の時は一回も放課後個別指導をしてもらっていなかった。そして、あんなに優しかった彼が、家庭内暴力までふるったというのです。お母さんはボロボロ泣きました。Aくんは僕は何をやってもダメなんや!と自己否定の塊になっていました。「何いってんの!そんなことがあるはずない!」美雪さんはまた毎日放課後教室をやるようになりました。そしてクラスの子達にも、「先生ね、このクラスは世界一のクラスを目指すから!みんなできるよ!」そうしてクラスの目標に立てたことはことごとくやり遂げていったのです。
 七夕集会のあった時のことでした。教頭先生が美雪さんに言います。「岩堀先生、短冊を見たの?短冊にはね、中学校に行っても岩堀先生に担任をしてほしい!と書いてあったんだよ」子どもたちは中学校に行くと岩堀先生に受け持ってもらえないのはわかっていました。それでもそう書かずにはいられなかった。それほどまでに岩堀先生は大好きな先生だったのです。こんな素適な先生に受け持ってもらえた子どもたちはどんなにか幸せだろうなぁと私も思います。
 
 そして卒業式の日、クラスの子どもたちから素適な素適なプレゼントが手渡されました。それは画用紙で作られた「世界一証書」でした。
「岩堀先生、あなたは世界一のクラスを立派に作り上げました。よってここに表彰します」
みんな涙がとまりませんでした。子どもたちも美雪さんも…。
 そして世界一証書は、美雪さんにとって何より大切な宝物になりました。

 Aくんは中学生になっても遊びに来てくれましたが、やがて美雪さんはちがう小学校に赴任します。Aくんも中卒後働き始めたという噂は聞きましたが、その後どうしているかはわからずにいました。
 
 ある日、学校に青年団の代表が挨拶にきました。「◯◯青年団です。体育館使わせてください!」とてもハキハキした元気な声でした。ふっと顔を上げると、懐かしい顔がそこにはありました。Aくんでした。Aくんは青年団の団長もつとめていました。そして、会社でもみんなに支えてもらっていることもわかりました。Aくんと一緒に外に出た時、うすくらい街灯の下で、Aくんの車がピカピカに光っていました。ああ、これでもうこの子は大丈夫だな。そう思うと、泣けて泣けて仕方ありませんでした。

 そしていよいよ美雪さんがポートフォリオに出会う日がやってきます。2000年、小学校の授業に「総合」が導入されます。総合でポートフォリオができないかと思って読んでいた一冊の本の中の一文に目を奪われた美雪さん。そこにはこう書いてありました。「ポートフォリオは世界にたった一人しかいない自分を大切にすることにつながる」と。「これだ!」身体の中を稲妻が入ったような感覚でした。

 こうして独自にやり方を考えながら「自分大好き宝物ファイル」のポートフォリオの活動を12年続けています。その活動の中で、本当に子どもたちはキラキラ輝き出すようになりました。そして子どもだけでなく、家族にも変化をもたらしました。
 
「あんたには良い所がひとつもないね」と言っていたお母さんが「宝物ファイル」でお友達からわが子の良い所がいっぱい書いてあるのを読んで、自分はこの子の何を見ていたんだろうとはっとします。そして、家族会議を開いてみんなでその子の良い所を書いていきました。そして一番最後に「最後に大輝がお母さんの子どもであったことがいちばんのいいところです。」そう綴ってありました。

 仕事がうまくいかなくなって会社をたたもうかと思っていたお父さんが、娘からの手紙でたったひと言「お父さんのいいところはいつも仕事をがんばっている所」と書いてあるのを見て号泣し、その後見事に会社を立て直したこともありました。

 数えきれないほどのドラマを産んできた宝物ファイル。そして、このノウハウは絶対に広めていかなければならないと感じた美雪さんはポートフォリオについての本を自費出版することに決めました。そして「心がぐん!と育つパーソナルポートフォリオ」という本を出版(現在この本はプレミアがついている位の人気商品です)しかし、案の定本はなかなか売れませんでした。

 2004年7月、福井を未曾有の豪雨が襲い、多くの被害が出ました。美雪さんの小学校も泥で覆われました。同じ時、県立病院の緩和ケア病棟に入院していた親友が息を引き取りました。大学も一緒、教員採用試験の勉強も一緒にした親友でした。なくなる一週間前にお見舞いに言った美雪さんをどうしても送っていくと彼女が言ったとき、満面の笑顔で「美雪バイバーイ」と言ってくれました。それが今生の別れになりました。
 
 …こんなにもいっぺんに悲しいことが起こるのか…泥除けの作業をしながら美雪さんは考えていました。今まで受け持ってきた子どもたちの顔が次から次へと浮かんできました。
「あの子は先に天に召された。でも、私はまだ残されている。私は一生かけてでもやり抜こう!」そう決意しました。
 
 そして、埼玉のとある図書館においてあった美雪さんの本がNHKのディレクターの目にとまり、美雪さんの活動はNHK北陸スペシャルという30分番組で放送されたのです。しかも2005年、2006年の2年に渡って。

 こうして美雪さんの活動は徐々に広まり、今は土日はほとんど講演会や研修会の講師を頼まれて各地に出かけています。

 美雪さんはなんと作詞も手がけていて、自らが歌う歌のCDも出しています。本当はミネハハさん(CMソングの女王で、グリコやクロネコヤマトの宅急便♪は全部ミネハハさんの声です)という有名な歌手にその歌を歌ってもらっていたのですが、美雪さんの歌声を聞いたある会社の所長さんが「あなたが歌いなさい」と言って下さったのでした。そしてミネハハさんもお呼びしたコンサートでは、普段なかなか満席にならない福井県立音楽堂を満席にするという奇跡も起こしました。

 自分が大好きになって自己肯定感が高まれば、世の中は絶対に平和になる!美雪さんはその強い信念で今日も突き進んでいます。
 そして、さらに学ぼうと50歳にして大学院を受験し、今2年生で現役の大学院生です。また、今年1月には感銘を受けた心理学書の著者に会いにフランスまで飛んで意見交換をしてきた美雪さん。まさしく行動と信念のかっこいい女性なのです。
 同じ北陸人として、同じ女性として、これからも美雪さんのことをずっと応援しています!

今日の人80.三田村美恵さん [2012年12月04日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターで福井で、有機農業・自然農法の農業を営む美の里ファーム代表、三田村美恵さんです。
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 美恵さんが生まれたのは福井県越前町。とにかく水と自然に恵まれたところです。沢ガニを捕ったり、山を飛び回ったり、弟が二人いるのですが、とにかく姉御肌でした。
 
 農業をやっている父方のおじいちゃん、居酒屋を営んでいる母方のおばあちゃん、とにかくこの二人が大好きでした。おじいちゃんの田んぼの手伝いやおばあちゃんのお店の手伝いを小さい時からやっていました。ホントに可愛いチーママでした。
 
 そんな二人が亡くなると、心にぽっかり空いた穴を埋めるように、スポーツ一色になります。美恵さんの住んでいる町はグランドホッケーが盛んな町です。次第にホッケーにのめり込んでいった美恵さん。将来は絶対にホッケーで日本代表になる!そう心に決めていました。もう一つ、空手も大好きでした。ホッケーの練習、そして空手で道場通い。それが毎日の日課でした。
 
 ですから、中学校ではもちろんホッケー部、高校もスポーツ推薦でホッケー部のある高校へ。しかし、担当の先生がとても苦手なタイプで裏切られてしまったと感じたこと、先輩たちからかわいがり、いわゆるいじめを受けたこと、そういうことが重なって2年生の冬休み頃からうつ病になってしまいます。「美恵ちゃん、いったいどうしたの?」と人から指摘されるくらい人相が変わり果てていました。それに加えて、アキレス腱を痛めてしまったこともあって、美恵さんはホッケー部を退部。美術部に転部して、3年生の時は美術部部長を勤めていました。
 
 その頃お母さんから紹介されたのが、運命の出会いとなる壽畑(すばた)さんでした。壽畑さんは不良の子の更生カウンセラーもしている人で、とても懐の深い人でした。お母さんは悩む美恵さんを立ち直らせようと考え、壽畑さんを紹介してくれたのでした。
 
 その出会いによって、少しずつ心を回復させていった美恵さん。
 ホッケーの日本代表になるという夢は潰えました。では何をしたいかと考えた時に浮かんだのは看護師でした。大好きだったおじいちゃんは美恵さんと一緒に寝ている時に、心臓発作でなくなりました。もしあの時、心臓マッサージの方法を知っていたら、おじいちゃんは死なずにすんだかもしれない…。おばあちゃんも働き者すぎて、癌を発見するのが手遅れになって死んでいきました。最後の様子を見ていた美恵さん。その2人の死が忘れられなくて、私に何か出来たなら…という思いと“女性としての自立”から、私看護士になろう!そう思ったのです。
 こうして看護学校の学生になった美恵さん。1年の時は、がんばって勉強していました。

 でも、2年になった頃から、家の中であらゆる問題が噴出してきたのです。父はもともと家のことに無頓着な人で、パチンコ依存症でした。家に全くお金を入れず、保険を解約してそのお金までパチンコにつぎ込む有り様。でも何も言わない母。
 
 美恵さんは看護学校の学費も全部自分でやりくりしていました。なんでうちのお父さんはこんなに不甲斐無いんだ!無性に腹が立って「父親ならしゃきっとしてよ!」と言うと逆切れされて娘に暴力です。
 父だけではありません。2つ違いの上の弟が美人局で捕まり、少年院に送られたのです。それでも父は全く会いに行こうともしません。少年院に面会に行ったのも美恵さんでした。
 父に何か言うとその度に暴力です。でも、その頃はまだ家庭内のことに警察は不介入ということが多かったので、警察に言っても喧嘩両成敗と言われるだけでした。
 
 学費を稼ぐのに夜のバイトも始めました。学費だけではありません。家計の負担は全て美恵さんにのしかかってきたのです。アルバイトを5つ掛け持ちして家には寝に帰るだけ。
 最初はなんとか学校にも行っていましたが、続くはずはありませんでした。そしてとうとう看護学校を中退してしまったのです。
 
 やがて、少年院に行っていた上の弟が帰ってきました。「長男やし、しっかりしれま!」と言うと、彼もまたやり場のない怒りを全て美恵さんにぶつけました。「みんなお姉ちゃんが悪いんだ!」そう言ってコンクリートの土間で馬乗りになって殴られ、脳震盪を起こして、救急車で運ばれたこともありました。
 もうどうしようもない。とうとう美恵さんは第三者に入ってもらって、父に対して被害届を出しました。裁判所で「もう一緒に暮さん方がいい。バラバラに暮らせ」と言われたことでなんとか示談になり、父は家を出て行きました。
 
 そんな中でも、下の弟が自動車整備士の学校に通いたいと言ったとき、お姉ちゃんがなんとかしてやる、と言って学費と生活費の一切の面倒を見た美恵さん。
19歳~23歳までの本当に過酷な毎日でした。それでも貯金を600万貯めた美恵さん。
 下の弟の就職も決まったので、じいちゃんが残した田畑で農業に専念することを決意しました。600万は車とトラクターを買うとあっという間になくなりましたが…

 23歳、慣行栽培を始めましたが、うまくいきません。そこで24歳からは有機栽培に切り替えました。高校の時に立ち直らせてくれた壽畑さんが自然栽培をやられていて、彼に全面的にお世話になったのです。壽畑さんは今、美恵さんにとっては頼れるお父さん。何でも相談できるなくてはならない人です。

 そして、自然栽培に切り替えると、農薬等の費用もかからなくなり、大幅な農業経営の改善になりました。いろいろ勉強するうちに、断固有機栽培、自然栽培しかない、そう思うようになりました。
 2年間、ほとんど良い米はできなかったけれど、それ以外やらない、と決意していたのでぶれませんでした。

 美恵さんがそう決意したのには理由があります。
飼っていた犬が、散布された除草剤で中毒になり、1週間血ヘドと血便が止まらなかったことから、除草剤の恐ろしさが身に沁みてわかったのです。
散布した人のうちに美恵さんは乗り込んでいきました。

 もう一つ大きかったのは、散布された場所が学校の側だったことです。もともと子どもが大好きな美恵さん。看護師を目指していた時も小児科か産婦人科に行きたいと思っていました。でも、家庭が荒れて、美恵さんが全ての家計をまかなうために必死でバイトをしていた時に、中絶してしまったことがありました。子どもが好きなのに、中絶してしまったという心の葛藤。ですから、よその子でも子どもがなにかで傷つくようなことは絶対に嫌なのです。散布された草を手で触って、その手を口に入れたりしたらどうなるの?

 こうして、美恵さんの訴えもあり、その時の周辺地域の環境農業への動きの後押しもあり、除草剤使用への意識が変わってきました。そして徐々に環境型農業が広がりはじめました。少しずつ少しずつ、変わってきている、そう感じています。

 そんな美恵さん、ドリプラでは農武士プロジェクトの夢をプレゼン。全国の農業に生きる者達が結束して農武士となり、日本の農業を変えていく、大きなプロジェクトです。
 耕作放棄地だった場所に、たくさんの人が集って、みんなが楽しそうにしているところを想像すると、本当にワクワクします。

 今、日本の農業は大きな危機に直面しています。農業従事者の高齢化、決定的な後継者不足、このままでは国の根幹が危うい。今こそ、若い担い手が立ち上がるべきです。そして、美恵さんたち農武士がその役割を担ってくれると期待しています。

 美恵さんはドリプラのみんなからはガチャピンと呼ばれています。
ガチャピンだったらシンガリ(後駆)になってでも、きっとこの夢を追いかけ続けるでしょう。熱い百姓が集まればきっとできる!私もそう信じています。
今日の人79.志水哲也さん [2012年12月02日(Sun)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、株式会社タービン・インタラクティブ代表取締役の志水哲也さんです。
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 とってもクールでかっこいい志水さんがどうして熱いドリプラのプレゼンターになろうかと思ったのでしょう。

 志水さんは名古屋生まれの名古屋育ち。親の期待通りに育っていった優等生でした。昔から優しくてカッコ良かったので、女の子にモテモテ。
 中学の時は当時まだ大変珍しかったコンピュータを既に持っていましたし、高校に入るとコンピュータとシンセサイザーをつないで自ら曲を作っていました。人のやっていないことをやるのが大好きだったのです。しかし、コンピュータで曲を書いているということが当時はなかなか理解してもらえませんでした。それほど走りの頃でした。
 
 高校の学園祭の時には映画を作って発表したのですが、監督・原作・脚本・演出・メイクそして音楽を一手に引き受けるマルチな才能を発揮。ものを作ることの楽しさを心から実感したのはこの時だったかもしれません。そして志水さんの作った作品は学園祭で見事大賞を受賞。こういう経験からクリエイティブなことをやりたい、と思うようになりました。
 
 ただ、高校を卒業したらほぼ100%の生徒が大学に進学する進学校にあって、志水さんの中にはこのまま何も考えずに大学へ進んでいいのか?という疑問が抑えきれずに湧いてきたのです。そして高校3年生の進路指導の時に担当の先生に言います。「このまますんなり大学に行くのはやめようと思います。僕はしばらく自分探しをしたいんです。」すると先生は眉一つ動かさずに「それはいいな」と言ってくれたのです。先生がわかってくれたので、次は親の説得に当たりました。なにしろ小さい時から親の思う通りの道を歩いてきた息子です。その息子が大学に行かないなんて言ったら…。しかし、そこで志水さんは共感と感動の説得をします。「僕はこれまで何でも器用にやれて、大した苦悩もないまま思春期を迎え時を過ごしてきました。それはお父さん、お母さんのおかげです。ですが、このままやはり何の苦労もないままぬくぬくと大人になるのは僕にとってよくないことだと思っています。ですから、新聞配達をして苦労をしたいのです」こうして、新聞配達のバイトをし始めた志水さん。でも、それ以外はほとんど引きこもりのような生活でした。家庭教師のバイトをすると、評判を呼んで子どもたちが集まってきましたが、それでも心は晴れません。自分はいったい何をしたいのかわからない。何でもできるような気がするけれど、何も出来ない。こうして悶々とした思いを抱いたまま、1年たって仕方なく大学に行きました。  

 みんなが晴れやかな顔をしている早稲田大学の入学式でひとり最悪に落ち込んだ顔でそこにいた志水さん。普通、入学式といえばサークルの勧誘で声をかけられまくるのですが、誰にも声をかけられなかったというから、いかに暗い顔をしていたかということでしょう。
 
 けれど、大学生活の中で志水さんは次第に元来持つ輝きを取り戻します。そしてそれは、悩みを経た上での輝きであるゆえ、前よりより強くなりました。
 こうして音楽サークルでプロモーションビデオを作ったり、演劇サークルで音響係をしたり、映画研究会で活躍するようになります。早稲田は演劇関係でもたくさんの人を世に輩出している大学ですから、志水さんの仲間の中には、今も演劇界で活躍している人もたくさんいらっしゃいます。こうした人とのつながりの中で、人の役に立ちたいという想いだけではなく、みんなが求める所を出せば人に喜ばれるのだ、と感じるようになりました。
 
 ゲームメーカーからゲーム音楽を作ってくれないかという声もかかりましたが、志水さんは名古屋に戻って広告代理店で働き始めます。仕事で面白いものを作るとほめられる。それが楽しくて、死ぬほど働きました。仕事が大好きで仕事で心が救われたのです。
1994年、インターネットが始まり、広告代理店もネットの世界に足を踏み入れることになりました。そして志水さんはネットの担当を1年目からやらされます。今では当たり前のことですが、当時はファイルを開いた時に、それが地球の裏側でも一緒に見られるなんてものすごい革新的なことでした。頭の中がすごいスピードで進んでいくのを感じ、インターネットってなんて面白いんだ、と思いました。そしてお客さんにネットのことをひたすら話しました。ホームページを持ちましょう!インターネットでこういうことができるようになるんですよ!説明しながら自分が一番ワクワクしていました。インターネットの初期に、まっさらなところからいろいろ作り出していけたことは自分にとって大きな財産になった、そう思っています。
 
 こうして、いろいろなことを地道に取り組んで5年たちました。当時はネットのクリエイティブな会社がありませんでした。これを担うのが自分ではないのか?そう決意した志水さんは1999年4月2日に会社を設立。がむしゃらに働きました。働いて働いて、誰よりも働きましたが、社員がついてきてくれず辞めていってしまいました。なんでこんなにバラバラなんだ?なんでみんな俺のことをわかってくれないんだ?またしても葛藤が始まりました。
 
 そんな時に出会ったのが福島正伸さんでした。「経営者が変わらないと、会社は変わらない。」はっとしました。今までの自分はクールでどこかかっこつけていました。でも、それじゃあだめなのだ。まず自分が変わろう!
 
 こうして志水さんは社員の誕生日にはサプライズの誕生日パーティをやったり、社員のためにムービーを作ったりするようになりました。元来持っていた演出家の本領を発揮して、社員が喜ぶことを第一に考えたのです。そうするうちに社内の雰囲気が劇的に変わっていきました。志水さんの会社には、なんとステージがあります。そして仕事をする時は常に心地よい音楽が流れています。こうして、志水さんの会社は35名のスタッフがいつも気持ちよく仕事できる環境にあふれているのです。
 
 そして志水さんはここまで培ってきたweb制作全般のノウハウを過疎の市町村で活かせないかと考えています。ITの仕事で過疎の問題を解決したい!そう思ってドリプラでは宮古島を舞台に感動のクリエイティブライフを送ろうというプレゼンをします。
 
 てっちゃんの事業で過疎の問題が少しでも解決できたら、地方都市にとってこれほど嬉しいことはありません。富山にも過疎で苦しんでいる市町村はたくさんあります。てっちゃんの事業が富山でも広がる日を心から楽しみにしていますね!
今日の人78.大石ゆい子さん [2012年12月01日(Sat)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、福島から夢の国「おひさま村」を創ろうとの思いでドリプラ出場を決意された大石ゆい子さんです。
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 大石さん、生まれて間もないころから幼稚園前までは奥会津の昭和村にいましたが、その後は高校まで相馬市に住んでいます。
ご両親と弟さん、そしておばあちゃまと一緒に暮らしていました。お父さんは無医村のお医者様として、みんなに尊敬されている方でした。
 
 大石さんは手芸が大好きな少女でした。ひとつできると、また作りたくなる。ですから小さい頃の夢は、手芸屋さんか本屋さんでした。本当はお父さんのような医者になった方がいいのかなと思ったこともありましたが父は望みませんでした。医者は不規則だし、往診だってある。女の人にはきつすぎます、というのがお父さんの思いだったのです。大概のことはやらせてくれる父でしたが、これだけはOkが出ませんでした。女性には生理や出産がある。今はお金をとることが自立することのように思っているけれど本当の自立とはそういうことだけではないんだよいつか将来理解してくれる時が来ると思う。それが父の思いでした。
「お父さんはお母さんがいないとやっていけないように」、今は分からないだろうけれど将来きっとわかると思っているよ。お互いに尊敬し合って生きること。それこそがお互いの自立だと僕は思っているよ。」

 そういうお父さんでしたから、勉強しろとは一切言いませんでした。「受験の為に100点取る勉強なら70点でいいからあとの30点分はスポーツをやるとか本を読むとか自分の好きなことをした方がいいと思いますよ。学校に行ってる時はだれでも勉強しますが学校を出てからが大事です。そして“ふつう”に生きてください」そういつも言われていました。
こうして天真爛漫に育った大石さん。中学校の時は放送部や、バスケ部のマネージャー、高校では図書部長として、活躍しました。
 育った環境が環境ですから、競争心というものがちっともなかった大石さん。友だちに「ゆい子が勉強すると俺の点数が下がるからしないで」と言われれば、その通りに勉強しないというなんともおっとりとした性格でした。

 大石さんが高校生の頃、お母さんが陶芸をやり始めます。窯場まで作り、本格的にやり始め、それに大石さんも触発されて陶芸が大好きになります。いつもどちらがご飯の支度をするかでもめるくらい、二人共陶芸に夢中でした。
 陶芸の道に進みたいとも思いましたが、東京家政学院大学に進むことになりました。管理栄養士をとるか、学芸員をとるかになったのですが、大石さんは、学芸員になるほうを選びました。
就職先はもちろん美術館を選びました。今とちがって、当時は自宅通勤じゃないと女の子は採用しないという時代。困り果てた大石さんに救いの手が差し伸べられます。うちから通ってもいいよ、と言ってくださる方が現れたのです。

 こうして、いちばん行きたかった出光美術館で働き始めることになった大石さん。いちばん幸せな時だったわ、と懐かしそうに回顧されました。
 しかし、当時は働き始めて3,4年経ったら、後輩に道を譲るのが一般的でした。大石さんも円満退職をし、その後は大阪で花博のアルゼンチンブースの責任者をしたりしました。

 実は大石さん、日本マテ茶協会の理事もしていて、その関係で花博にアルゼンチンが出店することになり責任者をすることになったのです。マテ茶協会では、関西支部を立ち上げようという動きがあり、大石さんを中心に伊丹に支部を作る予定で準備に取り掛かっていました。たまたま福島に帰っていた大石さん。伊丹に戻る日おばあさんのお墓参りに行った帰り道、突然雪になり、ノーマルタイヤで行ったので飛行機に間に合わず、伊丹に帰るのを翌日に延期したのです。…そして、その翌日、阪神淡路大震災があったのです。伊丹の部屋は、当然のことながらめちゃめちゃになっていました。支部を作るという話も頓挫し、大石さんはそのまま実家に残ることになったのです。

 こうして、福島に帰った大石さんは、以前から言われていた方とお見合いし、結婚。でも、彼の酒乱がひどく、大石さんは友だちに顔つきがすっかり変わったと言われるくらいになってしまったのです。友だちの尽力もあって離婚しましたが、実家に帰ってもしばらくは恐怖で声が出なかったり、身体がずっと震えていたりしました。

 このままじゃ駄目だと思って、少し元気になったときに、ちょっとずつ地域づくりに参加し始めました。
 人間にとって大切な食のことを考えるうちに、無農薬自然農法で育てたものを食べることが何よりの予防医学になると考え、医療、農業、環境が一体になった地域づくりをやっていこう、そう思ってやり始めた矢先でした。
 そう、あの東日本大震災が起きたのです。この世の終わりとでも言うような光景が自分の周りに広がりました。家は大規模半壊し、大石さんがやっていたお店も半分は海水をかぶってしまい全壊しました。

 もう手のうちようがないではないか。あきらめの心境にも何度もなりました。でも、その時に思い出したのです。
 大石さんが勤めていた出光には創業者のことばとして「人間尊重」「互譲互助」や「大家族主義」「和をもって尊しとなす」といった日本人の持つ良さについて深く触れたものがあります。
その時は、深く考えずにそれらの言葉を聴いていた大石さん。しかし、この未曾有の大震災が、その言葉を鮮明に思い出させたのです。

 宮城で開かれたNPOの代表と話し合う会議に出席したとき、私達福島県人はこれから先放射能と付き合っていかなければならないことを思い知りました、大石さんは飯館村に住んでいる友だちが言ったひと言が胸に深く突き刺さりました。
「私たちの人間としての尊厳はどうなるんですか?」
飯館村は戻ろうという人と、戻らない人に二分されている。村から出ろ出ろと言うけど、放射線量の低い所だってある。むろん、危ないかもしれない。でもわかっていても割り切れない部分がある。命にかえてでもそこを守りたい。それは子を思う母の思いと同じなのです。
 私たちは彼女たちが冷静に見られるまでよりそってあげるしかないんだ。まさしく、人間の尊厳にかかわることであり、互譲互助の精神が今こそ大切なのだと思うと、涙があふれてとまりませんでした。

 そしてそこが、大石さんのドリプラへの出発点でもあるのです。
食を通して予防医学をやっていこうと思っていた。でも、この震災でわかった。私が目指すべきは「みんなで分かち合える世の中を作ること」

 今日も福島で頑張っている人々がいる。その人たちと痛みも喜びも分かち合いたい。
そのために大石さんはドリプラで語ります。ゆい子さんの夢、福島の夢、東北の夢。
でも、それはもう、みんなの夢になりました。東北のこと、ゆい子さんのこと、私たち北陸の仲間も、もちろん日本全国の仲間もずっとずっと応援し続けます。

 
今日の人77.綿貫里美さん [2012年11月30日(Fri)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターであり、オーストラリア、パロネラパークの現地ガイドとして活躍中の綿貫里美さんです。
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 里美さんは群馬生まれの群馬育ち。小さい時はとっても泣き虫で、なかなかお母さんから離れられない子でした。小学校時代はピアノやソロバンを習っていたので、その先生になるのが夢でした。でも、その頃とっても好きだったのは遺跡の本を読むことでした。エジプトのピラミッドの本をワクワクしながら読みました。いったいどうやって人がこんな遺跡を作ったんだろう?考えれば考えるほどワクワクしました。
 
 小学校4年生まではとても活発だった里美さん。でも、5年生になって男の子を意識するようになると、とたんに静かになりました。まだまだあどけない周りの女の子から見ると、随分大人びた印象でした。
 いつも学級代表に選ばれて目立ってしまうのもとても嫌でした。運動神経が抜群で長距離走でもぶっちぎりで一位だったのですが、そのことで陰口を叩かれるのが嫌で、5,6年生の時は、故意にペースを落として、わざと負けていたのです。

 中学校でも陸上部に入り、市ではいつも入賞していました。その為県合宿にも参加する位の実力!目立つのは嫌いでしたが、その一方とにかく負けず嫌いだったので、記録のために食事制限までするくらいでした。競技中、興味本位で写真を撮りに来る人もいて、写真を撮られたりするのがすごく嫌でした。その事で先輩から目をつけられるのも嫌でした。とにかく先輩から目をつけられないように、目立たないよう目立たないよう振る舞っていました。ですから、学校はつまんないなーと感じる中学生時代だったのです。

 高校時代も特に夢もなく、とても地味に過ごしました。このままいくと人生つまんないな、と感じていました。
 でも、世界史だけはすごく好きでした。資料集や図鑑を見ているとワクワクして時間がすぐに過ぎました。「やっぱり私は遺跡の勉強がしたい、それが一番心が踊ることだもの。」
ピラミッドの研究者、吉村作治さんに師事したい!そう思って吉村さんの大学(W大)を受けますが、ダメでした。とても浪人まではさせてもらえそうになかったので、興味のない短大に入りました。そうしてヤル気がないまま学生時代を過ごします。彼氏と遊ぶか、友だちと遊ぶか、そうやって遊んでばかりで、就職活動さえろくにしませんでした。
 
 でも担当教官から、一社だけ就職試験を受けてくれと言われ応募だけはしておきました。面接試験の通知が届いていたのですが、ちょうどクリスマスで浮かれていて封さえ開けませんでした。年が明けて、単位がギリギリでなんとか卒業できることになった頃、先の会社から6次募集をしているから受けませんか、という案内が届きます。そこは地元の大きな電気系の会社。卒業後のことは何も決まっていなかったので、とりあえず受けておこうかと思って受けたところ、10人の中の2人に残ってなんと合格。
 
 最初配属された部署では作業服を着なければならず、それがとても嫌でした。次に配属された部署では作業服を着る必要はありませんでしたが、他の女子社員150人と同じ仕事はしたくなかった里美さんは図面を描く勉強を始めます。そこで負けず嫌いの性格に火がつき、真剣にCADの勉強を始めました。そしてCADの技術を身につけた里美さん、図面を描く仕事をはまってやっていました。

 しかし、入社から7年以上の時が過ぎ、おもしろいけど何か満たされない、そう感じていました。里美さんが心から満たされるのは、タイ、ベトナムといったアシアのいろいろな遺跡を訪ね歩いている時だけでした。カンボジアのアンコールワットでは1日中ここで遺跡を見ていたい、心からそう思いました。そこで韓国の男の子に声をかけられた時に、「あさって」という英単語が出てこず、自分の英語力のなさが悔しくて、帰国してから英語の語学サークルに通い始めます。その時に初めて「ワーキングホリデー」という制度があることを知りました。ずっと座り仕事で腰痛がひどくなっていたこともあって、仕事を辞めてワーホリに行く事を決意します。

 群馬は海がないので、行くんだったら海のあるところ、と考えオーストラリアを選びました。でも最初は楽しいことよりつらいことばかりでした。英語を話す機会が思っていたより少なかったし、仮に話したとしてもあまり通じなくてコミュニケーションできないことが情けなかった。「私、会社を辞めてきたのに、何をやってるんだろう…」

 そんな時に遊びに出かけたパロネラパーク、里美さんにとっては運命の出会いでした。
パロネラパークはホゼ・パロネラという人がスペインからの移民でオーストラリアに26歳のときに渡り、自分が稼いだお金を元に42歳から作り始めて、幾度の困難を乗り越えて完成させたお城です。まさに夢で作られたお城、里美さんはそう感じました。
 ホゼは何年も何十年もあきらめなかった。私はたかだか1年もたたずに何でこんなに落ち込んでいるんだろう。人間ってこんなに可能性があるんだ!私も自分を信じてオーストラリアでやってみよう!
 世界各地には様々な遺跡があるけれど、どんな人がどんな思いで作ったかに一番焦点を当てているのはこのお城だけです。里美さんは必死にオーナー夫妻に頼みました。私をここで働かせてほしい!と…。
 
 オーナー夫妻は里美さんの熱意にほだされました。そして初めての日本人スタッフとして里美さんを受け入れました。オーナー夫妻も、ホゼの想いに賛同してくれる人を探していたのです。そしてまさしくその想いに共感した里美さんを雇ったのでした。
 こうしてパロネラパークは里美さんの尽力もあって、ケアンズで3番目に有名な場所になりました。今では日本人スタッフも4人に増えています。里美さんはどうやってホゼが夢を叶えていったかをガイドしながら、いつも鳥肌が立つといいます。そして最後に必ず聞きます。「あなたの夢は何ですか?」

 そして震災後に始めたのがドリームレタープロジェクトでした。詳しくはホームページhttp://www.paronellapark.com.au/japan/kids-activity-letter.htmlを見ていただきたいのですが、これは、里美さんが日本の小学校を回って、パロネラパークの夢のストーリーを語り、子どもたちが自分の夢の手紙を書いてそれをパロネラパークに送り、そこに夢の刻印を押されて日本に戻ってくるというものです。「夢をあきらめなければ、お城だって作ることができるんだよ、だからみんなの夢だって絶対叶うんだよ」それを日本の子どもたちに伝えたい。そして、それが里美さん自身のドリームプランです。

 自分を殺して感動をすることをあまりせずに過ごした小学校高学年から大学までの時間、心からワクワクできなかった。でも、今はちがいます。夢に向かって、いつも感動しながら毎日をせいいっぱい生きている。そのことがたまらなくワクワクなのです。

 オーストラリアのパロネラパーク、夏は満天の星と1000匹以上のホタルが迎えてくれる地上の楽園、どこからでも滝から流れ落ちる水の音が聴こえ、熱帯の蝶が飛び交うそんな夢の場所を、そしてホゼの夢の道程を、一人でも多くの人に知ってもらいたい、そしてあなた自身が夢を追いかけてほしい!里美さん、ドリプラの舞台で自らの夢を最高の笑顔でプレゼンしてくれるにちがいありません。
 パロネラパーク、またひとつ、行きたい場所が増えました。
今日の人76.山口敦子さん [2012年11月29日(Thu)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターでフィットネスインストラクターの山口敦子さんです。
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ダンス、ヨガ、ピラティス、なんでもやるのですが、絶対外せないのはスイミングのコーチ。新しいコーチが入ると必ず山口コーチのレッスンを通過しなければならないという名物コーチになっていますが、子どもたちへのレッスンはとにかく大好きで、どれだけ数を重ねても飽きるということはありません!
 
 敦子さんは京都生まれ。とても明るい性格の女の子でした。主教科は苦手でしたが、副教科は大の得意。絵を描くのも大好きでしたし、運動も大得意!特に水泳はスイミングスクールの選手コースでいつも活躍していました。
 
 外では本当に明るく、活発な敦子さんでしたが、実は壮絶な想いを抱きながら過ごした少女時代でもありました。ご両親は敦子さんが小1の時に離婚。それと同時に6歳年上の兄は、中学に入ると家に引きこもるようになりました。そして、やり場のない怒りを全て敦子さんにぶつけるようになったのです。敦子さんは言舌に尽くしがたい壮絶なDVをまだ少女の心と身体に受けました。毎日生きるか死ぬかの紙一重の所にいる感覚。家に帰るのが怖くて苦痛で嫌でいやでたまりませんでした。耐えられずそれをお母さんに言ってお母さんがお兄さんに注意すると、お母さんがいない時にDVが2倍にも3倍にもなるので、とても言えませんでした。お母さんは大好きだけど、甘えられない!出口の見えない地獄にいる感じでした。

 そんな敦子さんの楽しみは頭の中であたたかい家庭を妄想することでした。あんな家ならよかったなぁ…とアットホームな家族を思い描くのです。そうやって妄想しないと現実のあまりの過酷さに心がもちませんでした。ですから、学校で「夢」を書け、と言われても出て来ませんでした。今を生きるのにせいいっぱいの小学生に将来を思い描くことなど不可能だった…ただただ、今をなんとか生きていくこと、それだけしかなかった。
 
 こうして暗黒の闇の中をはいずるような時間を延々と過ごし高校2年になった敦子さんは家を出ることを決意します。ばれたらどうなるかわからない。このまま我慢して生きていくという選択肢もあったけれど、もう限界はとっくに超えていました。家を出て万が一何かがあった時に私のこの体験を誰も知らないのは口惜しい、そう思って家を出ようと思っていること、そしてその理由を全て友達や先生に打ち明けました。そこに到って、初めて事実を知った先生に助言してもらい児童相談所に連絡を取り、児童相談所は、離婚したお父さんに連絡。そしてなんとか無事にお父さんと暮らし始めることになったのです。

 父との暮らしはまさに地獄から天国にいったようなものでした。あの恐怖はもうない、それがどんなに嬉しかったか。
 電車通学になった敦子さんは電車の中で疲れた大人ばかりいることに愕然とします。この人たちはどうしてこんな悲しい目をしているの?私よりしんどい思いをしているの?こんな大人になりたくない!そう思いました。そして、私の命はもらった命、何があっても一生懸命生き抜いてきたんだから、私は楽しく元気に生きていこう!そして人を元気を伝えられる人間になろう!そう決意しました。

 小さい時から体育や美術が大好きだった敦子さんは美術大学に入ります。そして水泳もずっと続けていました。お父さんの家の近くのフィットネスクラブのプールで泳いでいたのですが、陸の運動にもチャレンジしてみようかな、とふと思ってエアロビクスのクラスを受講します。そしてものすごく感動しました。
 インストラクターとお客さんのエネルギーのぶつかり合いがそこにはありました。「人に元気を伝えるって、これやー!」美術は間接的に人を元気にできる。でも、エアロビクスはダイレクトに元気を伝えそれをお互いに共有できる。そして、レッスンもひとつの作品。そう思うと、いてもたってもいられませんでした。
 
 こうして敦子さんは大学在学中からエアロビクスのインストラクターとしても活躍していくことになります。会社で会社員をやるという道は一切選択肢にありませんでしたから、就職活動とは無縁でした。フリーランスのインストラクターをすれば、隙間時間に好きな制作活動もできる。そう思ってもいましたが、実際は仕事がとても忙しく、ひたすらがむしゃらに仕事をしました。そして年間1500本ものレッスンもこなしました。そうした中でも、ダンス、ヨガ、ピラティスと次々に資格も取っていきました。自分の人生、好きなことをして生き尽くそう!そう思ったからです。
 大会にも出るようになり、度々入賞すると雑誌にも取り上げられ、イベントにもよく呼んでもらえるようになりました。そして、インストラクターの養成を任せられるまでになったのです。

 こうして忙しい毎日を過ごしていた時に、母が精神を患って入院していると聞かされます。幻覚があり、ものも食べられない状態でミイラのように痩せこけていると聞き、一層会うのがつらいと思いました。高校2年で家を飛び出して以来会っていない母。「裏切り者」と言われたらどうしよう。お兄ちゃんに会ってしまったらどうしよう。行った時にお母さんとわからなかったらどうしよう…。
 
 いろんな不安が胸をよぎりました。でも、意を決して会いに行きました。15年ぶりに会う母。この15年の間、私は本当にいろいろな経験をしてきた。でもお母さんにとっての15年はどんな時間だったのか。病棟に入って、看護婦さんが「娘さんですよ」と言ったその瞬間、お母さんの焦点がバシッと合いました。そしてひと言。

「きれいになったね」

 その言葉を聞いたとたん、敦子さんの目から涙が溢れてとまらなくなりました。5時間ずっと涙が止まらなかった…。敦子さんの前でのお母さんは精神を病んだ人ではありませんでした。
「今、どこに住んでんの?」「仕事がんばらなあかんで」
15年の時を隔てて親子の絆を感じました。ああ、私は愛されていたんだな、脳はそれを覚えていて、涙が止まらないんだな。私はいったい何をしていたんだろう。
 そうして、お母さんの意識があるうちに、自分の姿をお母さんの目に写しておきたいと感じ、病院に通うようになりました。看護師さんとのやり取りの中で言われました。「お母さんと性格とても似てらっしゃるんですね。それに、他の人とは話さないけど、娘さんとはお話されますね。」
 
 …一人でつらい思いをしてきた、そう思ってた。でも、生まれてきた、それだけで愛じゃないのか。私の中の半分はお母さんじゃないのか。
…こうして4ヶ月の間に、15年分の時間を取り戻した敦子さん。お母さんがなくなったときに、お兄さんにも会いました。憎くてたまらなかった兄。でも会うと憎しみ以上にせつなさを感じました。そして思いました。「お兄ちゃんを変えたい!」と。お母さんが病気になったのは私とお兄ちゃんとの絆を取り戻したかったからじゃないのかな…と。

 敦子さんにとって親子の絆がテーマになった出来事でした。そして、得意なダンスを生かしながら、親子の対話を通して子どもを元気にしたい!そう思うようになりました。何か心に問題を抱えている子どもたちを元気にしたい!
 企画書を提出したりしましたが、実現しません。どうしたら、この想いが届くんだろう、そう思っていた時に出会ったのがドリプラでした。これだ!と思いました。こうして、ウーマンドリプラに出場し、更に一歩進んで、その熱い想いを今回世界大会でぶつけます。

 敦子さんのプレゼンタイトルは「親子で創るレインボーダンス ~こども達のココロをクリエイトする共育プログラム~」
レインボーダンスで繋がりが弱くなった親子の心に虹の架け橋をかける日もすぐそこまで来ています。親と子が一緒に何かできるって本当に素適なこと。それを伝えていくあっちゃんを心から応援しています!

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親子の笑顔のために、あっちゃんは今日も全力です!
今日の人75.相田恵子さん [2012年11月23日(Fri)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンター、そして北里大学病院の現役ナース、相田恵子さんです。
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向かって右が恵子さん
 
 恵子さんが生まれたのは栃木県佐野市。外で遊ぶのが大好きな子ども時代でした。当時流行っていたローラースケートで滑ったり、秘密基地づくりをしたり、友だちとテントを張って天体観測をしたりして遊ぶのが好きでした。天の川がすごくキレイだったのを覚えています。
 恵子さんの小学校は全校児童が106人の小さな学校で、クラス替えもなく、3,5,6年生の時は同じ担任の先生が担任でした。すごくいい先生で、自宅に子ども達を呼んでみんなで飛行機作りをしたり、学校外に遠足にいったりしていました。どちらかと言えば消極的だった恵子さんでしたが、何かに真剣に取り組む姿勢をご存知で「自由研究をやってみたら?」と薦めてくれたのもその先生でした。その子に合った舞台を用意してくれる、とても素適な先生!もちろん卒業式は号泣です。恵子さんは、こんな先生になりたい!というあこがれを持っていたので、小学校時代の夢は小学校の先生でした。

 中学校ではボールを使わずにできるスポーツを、と思って剣道部を選びました。でも相変わらず消極的で前に進もうという気持ちが弱かったので、いつもボロ負けだったと恵子さん。でも、部活の仲間はとてもいい仲間で、今も栃木に帰ると会っています。そして、そんな中学時代の夢もやっぱり先生でした。
 
 高校は家からすごく遠かったので、とても部活はムリだと思って諦めました。でも、女子校でクラス全員でレクリエーションの時のダンスを考えたりして、とても楽しかった。
 進路について考え始めた高2の春。「私は学校の先生になりたいって言ってたけど、私は40人の生徒の前で毎日ちゃんとできるのか?だいたいこの消極的な性格ではとても教育実習ができそうにない…」そう感じて教職は断念します。でも、やはり人と接する仕事がいい、そう思っていた頃、祖父が入退院を繰り返します。そこで1対1で人に接する看護師さんを見て、これだ、と思いました。恵子さんは早く自立して家から出たい、という思いもとても強くありました。早く周りから認められる仕事がしたい、そう思っていました。
 それには訳がありました。親に障がいがあって、人からバカにされていたので、周囲からバカにされたくない、という思いが人一倍強くあったのです。恵子さんのお母さんは知的障がいでした。そして、お父さんは話すのがとても苦手な人でした。そして二人はいつも夫婦ゲンカをしていました。家族でご飯を食べにいったり旅行に行ったりすることもなく、幸せそうな家庭にコンプレックスを抱いていた子ども時代でした。「早くこんな家を出て自立するんだ!」
 
 こうして群馬大学医学部看護学科に合格した恵子さんは待望の一人暮らしをすることになります。大学生活はとても充実していました。合気道部に入ったのですが、先輩たちが本当にステキで、いつも後輩たちを喜ばせるにはどうしたらいいかを考えているような人たちでした。そして恵子さんたちも自分が先輩になった時に、同じように後輩に接しました。こうして素適な仲間たちのおかげで、恵子さんの消極的な性格はだんだん積極的な性格へと変わっていったのです。自分の意志もちゃんと伝えられるようになりました。
 
 でも、両親への思いはなかなか変えられなかった恵子さん。就職先を決める時にも実家に帰るという選択肢はありませんでした。そして、大学のある群馬よりももっと情報があるところがいい、そう思っていろいろ調べ、いちばんいいと思った北里大学病院に就職したのです。
 
がむしゃらに、でも楽しく働き、気がつくともう12年目になっていたという恵子さん。看護師をしていてよかったことは数え切れないくらいありますが、恵子さんのことを全面的に信じて、いつも名前を呼んでくれたり、退院の時に手紙を書いてくれたりすると、本当に嬉しいのです。「病気になってよかったことは相田さんに会えたことです。不安な時にそばにいてくれてありがとう」という手紙をもらった時は本当に嬉しかった。その子は退院した今もいろいろ相談してくれてずっとつながりがあります。
 
 充実した看護師生活ではありました。でも、3年前にドリプラを初めて見に行ってすごく感動します。そして今年6月に歴代のプレゼンターによるドリプラカンファレンスを見て、さらに衝撃を受けます。もともと行く予定はなかったのですが、たまたま予定が空いて、突然見に行ったドリプラカンファレンスでした。偶然が私をここに呼んでくれた。いや、これは偶然ではなかったのかもしれない…。
 そしてその時「夢はなんですか?」と聞かれ、「ナースドリプラをすることです!」と語っていた恵子さん。みんなが「いいね!」と言ってくれたことで、そこからその夢について真剣に考えるようになっていきました。
 
 看護師は日々の激務に追われ余裕を失っていることが多い。それは常々感じていることでした。恵子さんは、お料理好きが高じて月に一回自宅でお料理教室を開催しています。職場ではちっともいい笑顔を見せないナースの子がお料理教室では生き生きした笑顔でいるのを見て、この笑顔が職場で活かせないか…。
 
 笑顔の大切さは、自分が患者の家族として他病院の看護師と接したことでより強くなりました。ずっと疎遠にしていた家族でしたが、母が病気になったことで、母に付き添って病院に行く機会も増えました。そこで看護師の笑顔がどれだけ患者を安心させてくれるか、それが患者の立場としてよくわかりました。いえ、今までだってわかっていたつもりでした。でも、ようやくそのことを実感できたのです。
 患者さんに接する医療関係者、特に看護師は笑顔でいることが本当に大切、それが患者さんそして病院で働く全ての人を元気にするんだ!
 だから恵子さんの夢は看護師さんを笑顔にすること。そのための場作りをすること。
それを実現させるためにドリプラに挑戦しました。

そして、今、家族の在り方も再構築中です。ずっとこの家族がコンプレックスだった。できれば親を隠していたかった。でも、この家族があったから、笑顔を大切にしたいと思える私がいる…。
 今は休みの日にはできるだけ実家に帰って、ご両親のお世話をしている恵子さん。そして、ドリプラ世界大会の日は、両親を東京ドームシティホールに連れて来て親孝行したいと思っています。「うちの親は身体が強くないので、前日に連れてくるつもりです。」とさらりといえるのですから、ご両親への気配りが自然にあふれている恵子さんなのです。恵子さんの価値観をわかってくれない妹さんにもドリプラのチケットを送ろうと思っています。大丈夫。恵子さんの願い、いつかきっと妹さんにも届きます!だって、お姉ちゃんがいつも生き生きした笑顔でいたら、妹さんに影響を与えないわけはないもの。

 笑顔があふれるあったかい病院、病院内にはオープンキッチンのスペースもあって、患者さんもお料理ができてそれをお医者様や看護師さんと一緒に食べてすっごく笑顔になってる。もちろん、恵子さんのお料理教室もそこで開催!笑顔が笑顔を生んであったかいオーラにあふれている…そんな絵が、恵子さんの話を聴いていて、私の頭の中に浮かんできました。
 みんなの笑顔のために、恵子さんはこれからもずっと夢に向って歩き続けるでしょう。
 大丈夫だよ。だーこちゃんの笑顔はみんなを元気にしてくれるから。



 
 
 
今日の人74.佐藤陽子さん パート.2 [2012年11月21日(Wed)]
パート.1から続きます。

 経営者になるためにはどうしたらいいんだろう。
 さっぱりわからなかったので、まずはIT企業に就職しましたが、肌に合わずその後証券会社に総合職として入りました。収益に対してガツガツ向かっていく人たちを見て、ビジネスの世界とはこういうものなのか、と感じました。
 
 そして社会人になってみて初めて、周りに女性が少ないことに気づきました。特に総合職になると、未婚の20代か、独身の40代かという感じで30代がすっぽり抜け落ちているのです。これはどういうことなんだろうと思いました。
 
 総合職の女性もいたものの、仕事一筋の人、結婚しても全く子どもを産む気配がない人、結婚して子どももいるけれど、責任のある仕事はしていない人、そして積極的に人生の選択をしてこなかった人(酔うと人生を嘆いてみたり。。)、と、大変失礼ではあるけれど、どなたも「積極的になりたいとは思えない」か「とてもなれないよ。。」というタイプの女性でした。 
 
 もっと自分の価値観に近い働く女性の幸せ像ってないのかなぁ、そう思っていた時でした。E-womenささきかをりさん主催の国際女性ビジネス会議に出席した陽子さんはとても素敵な女性と出会います。4人も子どもがいながら商社に勤め、仕事が本当に楽しいの!と言っている女性です。この女性に出会ったことで、陽子さんは女性が一生働くファーストステップは、その人自身の意識改革だな、と思うようになりました。
 
 今まで何かに熱中して生きてきた私だったけど、社会人になってから、心から熱中することがありませんでした。そのことで自分らしく生きていない、なぜだか悲しい、何をやってもむなしいと思い、2~3年前からは家に帰ってはと泣くという日が続きました。
 
 バレエに熱中していた自分、国際協力に熱中していた自分。
 じゃあ、今の自分は何にはまれるのだろう…

 そんな時、総務省への出向を命じられた陽子さん。自分は、経営者になりたくて金融業界に入ったのに、なんで総務省に。。この経験が経営者になった時にどう生きるんだろうか?と最初は不満に思っていた陽子さんでしたが、時間的に余裕ができたことで新しいことにチャレンジをするゆとりが生まれました。

 そして鶴岡秀子さんの「人生をシフトさせる8日間」というセミナーに出たことでドリプラに出会い、ドリプラ2011世界大会の予選を見て、何かにチャレンジしていく決意をしました。
 中学校から大学までずっと女子校の環境で来た、そしてアジアやアフリカでの女性も見てきた。就職してからは、社会で活躍しているのは圧倒的に男性だという現実を今まさに見ている。総務省に出向して、国会中継のメモ取りをする機会も増えたけど、女性議員は圧倒的に少ない。果たしてこの国に女性の首相が誕生する日は来るのだろうか?そういう現状を見て、陽子さんは思ったのです。
 
 「私は日本の女性が輝ける社会を作りたい!」
 こうして、「人生をシフトさせる8日間」の最終プレゼンで「育児や介護をしながら働く女性を応援したい」というプレゼンをします。そして、男性にそんな女性を応援してほしい、という内容を盛り込みました。
 すると、プレゼンを見た人から「感動した!」「妻の夢を応援しようと思った!」等、たくさんの応援をもらったのです。
 その応援を得て、ドリプラ世界大会へとエントリーした陽子さん。
 今、生まれたばかりの自分の夢と真剣に対峙しています。
 普通の女性がライフイベントを迎えたとしても働け続けることが出来る世の中にしていくにはどうしたらいいか、自分らしく社会とかかわっていくにはどうしたらいいか、女性が自己実現していくにはどうしたらいいか、

 これらは本当にこれからの社会にとって必要不可欠な課題です。「これからずっと女性を応援していくんだ!」その気持ちは絶対にあきらめたくない、と力強くいってくれた陽子さん。
 大丈夫、ズボッとハマった時にものすごい力を発揮するのが陽子さんです。きっと今回もズボッとはまって、日本の女性を「ワーキングミューズ」の夢でキラキラ輝かせていくにちがいありません。
 つい先日もIMFが緊急レポート「Can Women Save Japan?」で日本を救えるのが女性だと強く訴えていました。陽子ちゃん、出番ですよ!

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今日の人74.佐藤陽子さん パート.1 [2012年11月20日(Tue)]
 今日の人はドリプラ2012世界大会プレゼンターの佐藤陽子さんです。佐藤さんは証券会社から総務省に出向中、海外経験も豊富なバリバリのキャリアウーマンです。
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 陽子さんはお父さんの仕事の関係で3歳半までギリシャで、その後2年間はロンドンで暮らしました。そのため、帰ってきて日本の小学校に入った時、最初はとても自己主張が強かったのです。海外では「I can do it.」が当たり前。そんな中で育ってきていきなり「おとなしくしろ」と言われてもそれは無理というもの。教室で遊んでいた時、先生に「そんなに遊びたいなら外に出なさい」と言われたのを真に受けて、本当に校庭に出ちゃったら、なんとそこには2歳年上のお兄さんもいた!ということもありました。
 
 しかし、帰国子女にありがちなイジメを受けるということはなかった陽子さん。
ロンドンで始めたクラッシックバレエを日本に帰ってからもずっと続けていました。やがてバレエにハマり込んでいきました。中学生の時はそれまで週に2回だったレッスンを4回に増やしました。2回は地元のバレエ教室に通い、あとの2回はプロのバレエ団の下にあるバレエ学校に通うという本格的なものでした。しかも、中学生ながら自分でバレエ学校を調べてアポを取り、そしてバレエ学校に入ったというのですから、子どもの頃からかなりの行動派!
 
 中学、高校と女子校で過ごし、バレエも98%は女子の世界でしたから、周りは女の子というのが当たり前の感覚でした。共学に憧れる…というのは全然なかったそうです。
 
 陽子さんが大学の進路を選ぶ時に大きなきっかけとなった出来事がありました。
 あれはお父さんがタイに単身赴任をしていて家族でタイに遊びに行った時。リゾート地パタヤに向かう途中に渋滞でひっかかった時のことです。ちょうど自分と同じ年頃の女の子が、花を売りにきました。ガラス1枚隔てて、車の中に何不自由なく座ってリゾート地に行こうとしている自分と、今日のパンにも困って花を売っている少女。なぜこんなにもちがう人生なのか?あまりにショックでその日は寝られませんでした。
 
 高校生になってもバレエは続けていましたが、自分はバレエの道で食べていくことはないな、と思い始めました。そんな時、お母さんが世の中にはこんな風に人の役に立つ仕事があるのよ、と国連職員の仕事を紹介してくれました。タイのあの子のことが不意に頭をよぎりました。思い立ったら行動せずにはいられないのが佐藤陽子!偶然新聞で見つけた国境なき医師団の事務局に電話して「私は高校生ですが、何かボランティアできることはありませんか?」と尋ねます。そして高校の時から国境なき医師団でボランティアを始めた陽子さん。大学生になったら私は途上国に行くんだ!そう心に決めていました。そして大学では国際関係学科へと進み、「国境なき医師団」の下部組織である「国境なき学生」に入り浸っていました。そうしてアジアのストリート・チルドレンを救いたいとカンボジア・ベトナム・フィリピンで1ヶ月ずつボランティアをしました。
 
 陽子さんは、アジアでボランティアはどういうものかがわかったから、今度は他のところへも行きたい、そして成果を上げたい、と大学を1年休学して、13ヶ月のプログラムに参加します。それはノルウェーで研修を受けたあとにアフリカに行ってインターンをするというプログラムでした。
 アフリカを選んだのは、AIDSや難民問題で成果を上げたいと思ったからです。まずノルウェーで4ヶ月研修。その後ジンバブエに行く予定がビザがなかなか降りず、南アフリカで2ヶ月足止めされます。南アフリカはレイプ率が高く、いつも緊張の中で過ごしました。家の前で人が撃たれたこともあります。2ヶ月後にようやくビザが降りてジンバブエへ。
 
 ジンバブエでの陽子ちゃんのミッションはAIDS問題で成果を上げること。50人の現地の人を雇って、その人がそれぞれ2000人ずつの人にAIDSの知識を伝える、つまり10万人にAIDSの知識を普及するのですが、陽子ちゃんはその50人のリーダーをまとめるのが仕事でした。
 ジンバブエは南アフリカとちがってピリピリとした緊張感はありませんでしたが、概念のちがいにびっくりすることも度々でした。普通は牛9頭で結婚できるけど、陽子だったら牛12頭をやる、と言われてびっくり。日本は結婚するのに牛はいらないのよ、というと、じゃあただで結婚できるのか?と。お互いの合意でするのよ、と言うと不思議な顔をされました。
 ジンバブエはスーパーインフレがちょうど始まったころでした。買い物に行くのに、リュックに紙幣をいっぱい詰めていく日々。しかし、ジンバブエ人がカード決済している姿もよく見かけたそうです。日本での報道と現地の実情はずいぶんちがっているのだなぁとこういう話を聞くと改めて感じます。
 
 実はその頃の陽子さんは、女性を雇うことに積極的ではありませんでした。パフォーマンスが低い女性たちの穴を埋めなれければならず、採用担当の時はなるべく女性を雇いたくないと思っていました。でも、ある特定の女性グループはものすごいパフォーマンスを見せていました。そのグループはシングルマザーのグループでした。
 
 でも、パフォーマンスの低い人にしても50人の雇用した人たちは、プロジェクトの期間でずいぶん変わっていきました。この50人は最貧層の人たちでした。その人たちにセルフリライアンスのチャンスを与えたことが、このプロジェクトで一番意義があったことだと感じました。しかし、そうはいっても援助の手がある限り、なかなか現地の人の意識は変わっていかない。そういうことを感じて、なにかちがう、キャリアとして国際協力の世界は関わり方を考えなきゃいけないなと思うようになりました。
 
 じゃあ、自分は何をすればいいんだろう、援助ではなく、対等のビジネスパートナーとして活動したい、そう思ったとき、社会起業家になろうと思いました。人を雇用して人にチャンスを与えられる経営者になりたい。じゃあ、経営者になるためにはどうしたらいいんだろう…


パート.2に続きます。
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