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今日の人157.成田 裕さん [2016年03月19日(Sat)]
 今日の人は自然体験を通して子どもたちと青少年への「心の教育」を行っているNPO法人ガイア自然学校代表の成田裕さんです。
http://gaia-natureschool.com/
12325924_1005284859546475_1327906702_o.jpg
 
成田さんは昭和45年に京都で生まれ育ちました。伏見区で周りに自然も多く、そんな中で遊ぶのが大好きでした。幼稚園の時になりたかったのはゴジラか警察官でした。
小学校も寺の境内にあって、山も近くにあったので、虫捕りをしたりしていました。ツタでターザンごっこをして遊んでいた時に、ツタをつかんでいた手がつるっと滑ってバシャーンと川に落ちてしまったので、バシャーンというあだ名をつけられていた時もありました。体が小さくて弱かったので、強くなりたいと思い、小学校3年生から近所の道場で柔道を習い始めます。刑務所の看守さんがやっている道場で、ここで成田さんは高校まで柔道を続けました。

 中学時代は水泳部に入りましたが、あまり外で出かけることはせず、家と学校の往復のみという感じでした。家にずっといてひたすらファミコンをやっていたので、今引きこもってゲームをしている人の気持ちも理解できます。しかし、中3からは勉強はしっかりがんばって、進学校の洛南高校に進みました。男子校で色恋めいたことは全くありませんでしたが、友だちがキャンプのボランティアに行って彼女が出来たことから、自分も彼女ができればいいなという考えでキャンプのボランティアに参加。それが成田さんの人生を大きく変えることになったのです。

 そのキャンプは主に大学生のボランティアが障がいを持った子をキャンプに連れていくというものだったのですが、その大学生がみんなとてもいきいきとしている様子を見て、自分もこういう人になりたいと強く思いました。その思いがあまりにも強すぎて、キャンプ場を持っていることを基準にして大学を選びました。そうして推薦で京都産業大学の経済学部に入り、4年間はそれこそキャンプ漬けでした。あまり人付きあいが得意ではなかった成田さんでしたが、人とコミュニケーションが取れるようになり、人として大きく成長させてくれたのがキャンプでした。その活動を通して彼女もできました。(その後その彼女と結婚し、3人の男の子にも恵まれました。)

 大学のキャンプ場は丹後にあったのですが、マネージメントも大学生自身がやっていました。一度担当が決まると、4年間通してそのネクター(担当者のことをネクターと呼びます)を責任を持ってやるのですが、人気が偏るのが海の安全管理のネクターでした。成田さんはいろいろ話し合った末、料理担当になりました。4年間、そうやって料理を担当したことが、今もすごく役立っています。料理の流れを組み立てるのは楽しいし、30人分とかの大量の料理はとても得意です。逆に少人数の料理が苦手なのでした。

 そして就職もやはりキャンプと縁が切れないところをと考えて、キャンプ場を所有している進学塾に就職します。1年目は営業担当でしたが、2年目から夏に能登島でのキャンプ担当になりました。なにしろひと夏で1200人もの子どもたちが能登島にキャンプにやってきます。それで、夏の間はずっと能登島に張り付いていたのでした。そして夏だけではなく、普段から体験活動をやり始めます。こうして3年で塾の中で自然体験の部門で別会社を立ち上げろと言われた成田さん。自然体験・理科実験・英会話を柱にしたNPO法人を立ち上げたのでした。当初、キャンプも塾の人がやっていたのですが、やりたくない感が満載だったので、子どもたちもあまり乗ってきませんでした。これではいけないと、成田さんは、大学の時のやり方で、大学生でチームを作らせました。これが功を奏して、大学生も子どもたちもイキイキとし始めました。そして、能登島を年中使える施設にしろと言われ、能登島移住を決意します。ちょうど長男が1年生になるタイミングで、奥様も反対されなかったので、家族で能登島に移住してきたのでした。周囲の畑は手付かずだったので、これを何とかしようと畑も開墾し始めました。チェンソー、ユンボ、トラクターと格闘していましたが、やってみてわかったのは、自分は自然体験は好きだし得意だけど、農業は得意ではないということでした。実はその頃、ちょうど妹さん夫婦が就農するために農業研修に通い、農業出来る土地を探していたので、これはちょうどいいと、畑はそっくり妹さん夫婦にお願いすることにしたのです。

 しかしキャンプを1年中回すというのももちろん大変なことでした。その頃、成田さんはなぜか極度の体調不良に陥っていました。いったいどうしたというのだろう、そう思って病院に行ったところC型肝炎になっていることが発覚。こうしてインターフェロンによる治療が始まったのですが、それがとてもきつかった。動けないわけではないけれど、体が常にだる重いので、はたから見るとなまけているように見られてしまいます。入院も生まれて初めて経験し、その時初めて「死」というものを意識したのです。今だって、好きなことを仕事にしていると言えばそうかもしれない。でも、心から自分がやりたいことをやっているだろうか?今死ぬとしたら、このままで俺は満足だと言えるのか?そんなことを考えるうち、独立して自分が本当にやりたいことをやろう!そう思うようになりました。

 こうしてガイア自然学校を10年前に作り、その翌年の2007年にNPO法人にしました。最初は事務所もなく、金沢のインキュベーション施設エムザに入居しました。そこでの様々な出会いは今につながっています。そこは2年で卒業しなくてはいけなかったので、その後は金沢市内の一軒家を借り、そこを事務所にしました。キャンプを引っ張る大学生も徐々に増え、大学生と子どもがともに成長するという成田さんが思い描く形にだんだん近づいていきました。そしてそこで佛子園の方と出会ったのです。お子さんが成田さんのキャンプに参加されたことがきっかけの出会いでした。

 そして社会福祉法人佛子園Share金沢を展開する時に成田さんにも声がかかりました。そう、キャンプがきっかけで知り合いになった佛子園の方からの声かけでした。そうして、今、時の場所となっているShare金沢にガイア自然学校が入居したのです。シェア金沢は本当にすばらしい街なのですが、ご紹介しているとそれだけで何ページあっても足りないので、ぜひホームページをご覧ください。http://share-kanazawa.com/

 こうしてガイア自然学校ではこの4月から学童保育にも本格的に力を入れ始めます。もちろん、ガイアらしく、自然体験のできる学童を特徴にします。今も大学生がたくさん在籍しているガイアですが、どうしてそんなに大学生が集まるのか成田さんにお聞きすると、まずは研修をしっかりしていることを挙げられました。そして、他の団体では、ボランティアをお手伝いと位置づけているところが多いのですが、ガイアではお手伝いではなく一緒に作っていく仲間として大学生と日々つき合っているのです。そんな風に認められているからこそ大学生ボランティアもやりがいを感じて関わり続けるのでしょう。
 ちなみにガイア自然学校ではキャンプネームがあるのですが、成田さんはピッカラと呼ばれているそうです。もちろん学生たちにも。なぜピッカラなのかは…成田さんのお写真を見ながら想像してみてくださいね。

 先日は学生たちとパラオにワールドキャンプに行ってきました。
ガイアらしく、全くのノープランで飛行機と宿だけ予約して、現地で聞き込み調査をしつつ、日々の予定を決めていました。そういうキャンプがたまらなく楽しくてワクワクする時間です。これからはどんどん海外にも出かけていきたい、そう思っています。

 そんな成田さんの夢は、日本中、いや世界中にガイア自然学校が広がること。実はガイア自然学校は富山にもあります。キャンプに興味のある方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。http://gaia-ns.com/toyama/001_how/gaia001_how.htm


 「Life is adventure!」という言葉がぴったりでいくつになっても少年のようにキラキラした思いを忘れない、そんな成田さんなのでした。
今日の人111.赤坂剛史さん [2014年02月18日(Tue)]
 今日の人は、サハラ砂漠や南極マラソンを走破した極地マラソンの達人でもあり、2014年秋に石川県白山市の白山麓で開催する衣食住に関わるものは全て背負う日本初の7日間約250キロのロングトレイルレース、白山ジオトレイルを開催される赤坂剛史さんです。2013-12-27 09.42.22.jpg
赤坂ご夫妻


赤坂さんは神奈川生まれ神奈川育ち。小さい時はシャイで引っ込み思案、どこかに出かけるとお母さんの後ろに隠れているようなそんな子どもでした。プラモデルを作るのも好きでした。でも、外でも遊ぶし野球やサッカーもやっていました。
 高学年になると、ファミコンがはやるようになり、ご多分に漏れず、赤坂さんもよくやっていました。今はとても想像できないのですが、その頃の赤坂さんは太っていたそうです。小6の頃、なりたかったのは特派員でした。世界中を飛び回りたい、そんな想いを抱いていました。

 中学になると、ソフトテニス部に入部。特に悩みもなく、勉強も大好きでした。特に好きだったのは数学と物理です。共学の学校だったのですが、理系なので男ばかりの世界に。ハリウッドの映画が好きで、宇宙やロケット、飛行機に憧れました。そして、最先端に触れたいと選んだ進路は東海大学の航空宇宙学科でした。空を飛ぶものが好きだったので、パラグライダーサークルに入りました。パラグライダーのインストラクターのアルバイトも始めて、長野に毎週末通いました。平日は勉強、週末は長野でパラグライダー、そんな学生生活でした。その頃、パラグライダーの事故が多かったこともあって、卒業研究はパラグライダーの事故を減らす研究をしました。そのまま研究を続け、大学院に行き、パラグライダーの雑誌に毎月記事も掲載しましたし、行きたかった大学の先生との交流も生まれ、とても充実した学生生活を送りました。

 社会人になって大学時代の友だちから「マラソンやらない?」と声をかけられ、河口湖のフルマラソンに初挑戦します。走り終わった後は、二度とやるものかと思ったのですが、みんなすぐに次の大会の話をしだして、じゃあ俺も、という流れになって3ヶ月後にはまた次のフルマラソンを走っていました。走るだけではなくて、マラソン仲間との交流も楽しかったのも大きかった。
 こうして、旅行も兼ねて全国のマラソンを走るようになっていきました。

 学生時代にはバックパッカーもやっていて、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、アジアといろいろなところをまわりました。その中で印象に残ったのはインドとネパールでした。

 社会人になってからは休みには会社のコートでテニスをやり、休みの日には走り、とにかく体を動かすのが大好き。

 100キロマラソンにも挑戦することになり、トライアスロンも始めます。北海道の100キロマラソンに毎年参加していたのですが、たまたま最初に泊まった宿がマラソンマニアが泊まる宿でした。そこに集まる人の話を聞いていると、200キロ走ると言う人や100キロを2日連続走るという人がいて、100キロって普通なんだなぁと思うようになるのですから、人間の感覚って面白いものです。

 2005年頃からは自己啓発セミナーにも行くようになりました。ある時、ジェームス・スキナーのセミナーの中で、サハラマラソンの話を聞きます。全ての荷物を背負って、7日間で245キロを走る、そんなマラソンに心惹かれついにサハラマラソンに挑戦したのです。砂漠を走るマラソンですからそれは過酷です。しかし、フルマラソンから100キロマラソン、そしてサハラマラソンと過酷になればなるほど、変態が集まってきて、みんなキラキラしているのでした。
 「定年後に好きなことをやればいい、そのために今は我慢して働くんだ」そんなサラリーマンにはなりたくなかった、と赤坂さん。逆にサラリーマンをやりながら、何かをやれる人はかっこいい!そう思いました。

 こうして、2009年にはチリ・アタカマ砂漠マラソン(7日間250キロ)を走り、2010年6月には中国・ゴビ砂漠マラソン(7日間250キロ)、そして2010年11月には日本人で3人目となる南極マラソン(4日間250キロ)も走破したのでした。
 
 その間、赤坂さんはマラソンだけではなく、ミュージカルにも挑戦します。100人が100日でミュージカルを作るというコモンビート・ミュージカルプログラム。そこで知り合って、意気投合したのが、奥さまの友紀さんなのでした。

 さて、限界のマラソンに挑戦していた赤坂さんにとって、南極マラソンを走るのはひとつの夢でした。その夢を達成してしまうと夢が終わってしまうような気がして、それが怖かった。
 その頃、赤坂さんは金沢工業大学から声がかかって、金沢へやってきていました。

2011年3月、東日本大震災が起こります。
その頃はまだ東京にいた奥さんの友紀さんは会社から石巻に入っていたのですが、それを軌道に乗せると、次に赤坂さんと2人で石巻で陸の孤島になっていた石巻市北上町十三浜大指(おおざし)に入ります。そこでの支援活動については、奥さまの友紀さんの回でまた書きますが、そこで赤坂さんはいろいろなものを失いながらも避難してブルーシートの中でなお夢を語っている大指の人たちに逆に励まされます。南極マラソンを走って夢を失っていた自分、石巻に支援に来たつもりで、逆に支援されていた自分。自分がこれからやっていきたいことは何だろう。

こうして赤坂さんは新たな夢を抱けるようになりました。そして白山ジオトレイルを開催するという夢をドリプラ金沢でプレゼンします。それが2012年のことでした。翌年の2013年には白山で3日間100キロのジオトレイルを開催し、17名が参加。そして今年はなんと7日間250キロのジオトレイルレースを霊峰白山山麓で開催するのです!
そんな白山ジオトレイルについてはぜひ、こちらをご覧ください。
http://www.hakusangeotrail.com/

赤坂さんはこの白山ジオトレイルにぜひ外国の方もたくさん参加してほしいと考えています。いろんなちがいを超えて自分の限界に挑む、そこで見えてくるものはまさに私たちの望むダイバーシティの形かもしれません。

 赤坂剛史さん、いくつになっても自分の限界に挑戦していくかっこいい極地ランナーであり続けるでした。



次項有赤坂さんのブログはこちら
マラソンファン必見!砂漠マラソンや南極マラソンから学ぶランニングライフ
そして、今、白山ジオトレイルのボランティアスタッフを絶賛募集中!
一緒に感動を味わいたい方はぜひ!
白山ジオトレイルボランティアスタッフ募集
今日の人109.北島洋一さん [2014年01月07日(Tue)]
 今日の人は北陸でドリプラと言えばこの方、2013年のドリンピックで金沢ドリプラを金賞に導いた北島洋一さんです。
仕事は何をしている人なのというと、こちら⇒http://www.kitajima-sr.jp/
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 北島さんは金沢生まれ、金沢育ち。3歳年上のお姉さんがいて兼業農家の両親の元、すくすくと育ちました。昔は子どもがとても多かったので、近所の子どもたちと神社の床下に潜り込んで遊んだり、外で鬼ごっこをしたりして遊んでいました。もちろん、お手伝いもします。田んぼの時期は稲架掛けを手伝ったり、いちご、スイカ、たけのこの収穫、犬の散歩も担当でした。
 そして、子どもの頃からとても賢い子でした。小学生の頃の夢は学者。資源回収に出してあった数学の本を拾って読みふけっているような子どもだったのです。学者の他になりなかったのは漫画家。よく四コマ漫画を描いていました。

勉強はできるけど、生徒会活動などには関わらず、中学から高校まではずっとバトミントン部。同学年に15クラス、600人もいるマンモス校で常に成績は上位でした。ラジオ世代の北島さん。深夜放送を聴きながら勉強するのが日課でした。オールナイトニッポン、パックインミュージック、いろいろなラジオに耳を傾けながら勉強する時間が好きでした。私も聴いていたなぁ。中島みゆきのオールナイトニッポン。

 でも、中学や高校の頃は特段夢はありませんでした。ただ、試験でいい点数を取るのが楽しくて、勉強はおもしろかった。特に中2の時に、大変難しいテストでみんな50点も取れないような中、唯一北島さんだけが99点を取った時に、いつも厳しい先生が北島さんのテストを貼り出して、「すごいな!」とホメてくれたのが勉強をがんばるきっかけになったのでした。塾に行って勉強をするというタイプではなく、ずっとラジオを友にして家で勉強していました。受験期になると帰ってからちょっとだけ仮眠を取り、夜9時から朝5時ごろまで集中して勉強していました。こうして勉強を頑張った北島さん。

 某有名国立大学では理学部数学科で学びました。卒業後は研究職には進まず、大阪の不動産会社に就職します。
 大阪で3年、住宅売買の部門で活躍し、その後金沢に戻り、建設会社に転職して、不動産部門で営業の仕事をしました。そこは支店開設2年目で不夜城のように仕事を行う会社でした。

 仕事に明け暮れていたある日、アルバイトの女子事務員が聞いてきました。
「彼女はいるの?」
「いないよ」
「じゃあ友達を紹介してあげる」
 そうやって紹介してくれた子にビビっときた北島さん。それが奥様です。

 結婚してからはより仕事に集中できるようになり、営業課長に抜擢されて、朝7時から夜12時まで働く毎日。部下は全員年上という中、全国の優秀課長にも選ばれました。激務の毎日でしたが、少し余裕が出来てきて、何か勉強したいと思い(根っから勉強好きでいらっしゃいます)ファイナンシャルプランナーの資格を取得しました。(宅建はもう取得済みでした。)そんな時に、縁があって生命保険会社に転職。そこは北島さんの旺盛な知識欲を満たしてくれる仕事で楽しかったのですが、 まわりの期待と自分の期待に反して、たいした成績もあがらないので、 自分に向いていないのかなーと思いつつ、 上司の勧めで社労士の勉強をしていたら2回目のチャレンジで合格してしまいました。

 世の中に役立てそうな資格を取った以上はいずれ独立しよう、そう思っていました。その時、たまたま10年来の友人が独立するにあたり、 オフィスの一部を使っていいから、と言われ、渡りに舟とばかりに、保険会社を退職して独立開業。それが2000年10月のことです。何ができるかわからないけど、なんとかなる!そういう思いでした。

 それまでに築いてきた人脈からのご紹介で顧問契約を少しずついただく中、県や金沢市からも就職支援のセミナー講師の声がかかるようになりました。
セミナー講師をやっていくうちに、キャリアアップの仕事のおもしろさに目覚めます。会社の人事制度づくりも始めました。

 こんな風にずっと順風満帆に見える北島さんの歩みですが、ご自分の中にはずっとモヤモヤ感がありました。自分には、これをやりたい、どうしてもやり遂げたい、という燃えるような気持で何かをしたことがなかったのです。実際、会社員時代から、「おまえはもっとできるだろう。本気でやってみろよ」と何度か言われました。

 それに、ずっと恩師、師匠と呼べる人がいなかった。上司や先生に恵まれ、素晴らしい人と巡り合いはしてきたけど、自分の中途半端さから、自ら縁を切ってきたのでした。
苦しい、つらいことがあったら、自分のできる範囲のことはやりましたが、上手な言い訳を見つけて、それを本気で乗り越えることなく、避け、逃げてきたと感じていました。
このままでいいのか、ずっとやりきった感がないままの人生を送っていていいのか…

 そんな時に初めて福島正伸さんに出会ったのです。2007年5月、たまたま上京していた時に、福島正伸さんの第一回超人気コンサルタント養成講座が開催されていたので受講しました。はじめは斜に構えて講義を聞いていました。でも、講義が進むうちにすっかり福島先生のお話に魅了されてしまいます。講義が終わる頃には完全にやられた、と思いました。

 その後の北島さんの姿勢はずっと一貫しています。
「僕はこの人が大好きだ。だからこの人を喜ばせたい。この人の笑顔が見たい」

 これが北島さんのパワーの源になっていると言ってもいいでしょう。2011年から金沢でずっとドリプラを開催しているのも、ドリームメンターとしてドリプラ世界大会や各地のドリプラに関わり続けるのも全てはそこが根源になっているのです。

 究極のコンサルタント養成講座を受けた年の2007年末に、初めてのドリームプラン・プレゼンテーションが開催されました。その舞台を見て、金沢でも絶対にドリプラをやろう!と決意しました。

 2008年にドリプラ世界大会でドリームメンターをしたのが、北島さんの支援者としてのターニングポイントになりました。その年、北島さんが支援していたプレゼンターの一人がプレゼンがギリギリまでできなかった。前日支援会で写真を撮り、夕方4時から5~6人で作り始めて、早朝4時になんとかプレゼンデータが仕上がります。
ですからそのプレゼンターが予選の舞台に立った時は、もうそれだけで泣けて泣けて仕方がなかった。でも、そのプレゼンターは、本選に進むことはできませんでした。彼は本選後の懇親会で、本選に行けなかったことが悔しいと言った。けれど、前日までプレゼンができなかったのに、自分はドリームメンターとして何もできなかったではないか。それで思ったのです。メンターは、支援者は、一緒に悔しがって泣いてちゃいけない。ただ、尽くすという姿勢に徹するだけだと。そうしなきゃいけないと。

 自分がやったことを「ふ~ん」と軽くあしらわれようが、感謝されなかろうが、とにかく自分ができることを探してやってみる。
「自分ができることなら、やってみようと思います」は面白く無い。
「自分ができないことをやってみたい!!」でなきゃ。

 もちろん、それは自分との戦いだし、苦しい。仮にメンターが支援に行かなくても「今日は都合が悪いから行けません」と言えばそれで済むけれど、やると決めたんならやれよ、という自分の声が聴こえるのです。こうして、北島さんは徹底的に「尽くす」という支援者であり続けているのです。

 そして、2011年6月に初めての北陸開催となるドリプラ金沢も開催しました。次の年からドリプラ金沢は毎年2回開催しています。そして北島さんはそのうち1回は必ず福島正伸先生をゲストとして招きます。
 ドリプラはやはりドリプラ生みの親の福島正伸さんがいてこそ、という当初の思い、それを忠実に守り続ける北島さんなのでした。それになんと言っても、福島先生のコメントはプレゼンターをとことんやる気にさせます。究極のメンター、それが福島正伸さんであり、その究極のメンターの姿を1年に1度金沢でたくさんの人に見てもらいたい、感じてもらいたい、そして福島先生ご自身が笑顔になってもらいたい、それが北島さんの想いなのでしょう。

 北島さんの夢は、これから変わっていく世界をみんなで一緒に見ること、みんなが夢を語る社会を、みんなと一緒に見たい。そのためにずっとやり続けるのが自分の使命だと力強くおっしゃいました。

 そんな北島さんの今の楽しみは京都旅行に行って、京大在学中のお嬢様に会うこと。お嬢様は三十三間堂の通し矢にも参加されるまさに文武両道の才媛。2014年の三十三間堂の通し矢で、袴姿の凛々しいお嬢様のお姿に目を細めていらっしゃる北島さんの様子が目に浮かびます。

 北島さんの愛称は“親分”。これからも北陸のドリプラチームの親分として、たくさんの夢と笑顔を紡ぎだしていってくださることでしょう。
今日の人33.坂本茂樹さん パート.2 [2012年03月04日(Sun)]
(パート.1から続きます)

 このようにしてしげっちゃんは、何か子どもたちのためになることを猛烈にしたくてうずうずするのですが、奥さんは安定したサラリーマンを望み、脱サラには反対。
仲良かった夫婦は喧嘩をするようになります。

それでも彼はあきらめませんでした。
「そうだ、おにぎり屋がいい!」
彼の夢はどんどん膨らんでいったのです。
彼の憧れている料理で、出来そうだったのがおにぎりでした。
料理は義母が作っていたのですが、義父が唯一作ってくれたのが塩おにぎり。でもそのおにぎりは本当にうまかった。
心が荒れている子どもたちに心のこもったおにぎりを食べさせたい。どうしてもおにぎり屋をやりたい。しかし、そのことで奥さんとの間に決定的に溝ができました。
色々努力をしましたが溝は埋まらず奥さんとは離婚。でも、おにぎり屋をやりたいとの強い思いは変わりませんでした。

「ミルキークイーンの水加減は難しい。それならばコシヒカリとブレンドすればいいのではないか?
美味しい米と美味しい米をブレンドすれば、さらに美味しい米が生まれるのでは?」
それを思いつき、独学で配合比率を勉強します。

購入先も探していました。
ネット運営していた「金沢の美味しいものマップ」の常連さんから和多農産(わだのうさん)を紹介していただき、アポなしで訪問。
「私はおにぎり屋をやる予定の者です。それも、コシヒカリとミルキークイーンのブレンド米で」
と話を切り出し、配合比率を伝えると、なんと和多さんが考えている比率と全く同じだったのです!
まさにその通りだ、自分たちの意見と同じだ、と意気投合。しげっちゃんがこのブレンド米を使っておにぎり屋を始めることを許可してくれました。
(その数年後、和多農産は「第35回 日本農業賞 大賞」や「第45回 農林水産祭 天皇杯」を受賞し、個人では「黄綬褒章」を受章します)

 美味しいおにぎり屋を求めて全国を旅もしました。
美味しいと評判を聞くと、北海道から沖縄まで行きました。でも、なかなか納得できるおにぎりに出会えません。
そんなとき、別れた奥さんから連絡が来たのです。
「東京で凄く美味しいおにぎり屋を見つけた」
その店「ぼんご」でおにぎりを一口食べた瞬間、「こんな凄いおにぎりを初めて食べた。負けた」と感じ、彼はご主人を「お師匠」と呼ぶようになったのです。
別れた奥さんのまさかの協力もあり、色んな御縁が重なり合って、おにぎり屋「ちょいむす」が誕生しました。
天候や湿度によって水加減を一合単位で変えたり、お客さんの汗の量やテイクアウトでの食べる時間によって塩加減を変えたりして、
「心のこもった美味しい食べ物」を意識しました。
こんなうまいおにぎりを食べたのは初めてだ!という声も聞かれるようになりました。
今でも「幻のおにぎり」と検索すると、彼のおにぎりについて語ってくれているブログが見つかるのです。

しかし、資金繰りに苦しみ、開業して1年半で店を閉めることになります。
諦めたわけではありません。
2年後にショッピングセンターができるから、そこにお店を出してとの話がきていたので、赤字が膨らんでいる店を一旦閉め、そちらに店を移そうと思っていたのです。
しかし、店を閉めた直後、ショッピングセンター候補地だった市が、市町村合併により別の市と一緒になり、ショッピングセンター建設の案は立ち消えになってしまいます。
涙をのむ思いではありましたが、おにぎり屋の再開を断念し、再びコンピューター関連の会社で働き始めました。

 その会社で働き始めてびっくりしたしげっちゃん。うつ病の社員があまりにも多い!うつ病とまでいかなくても、予備軍と言える人はたくさんいました。これはなんとかしなければ!だけど自分だって自分のことが好きではないのです。
悩んでいたしげっちゃんは心理学を学び、てんつくマン中村文昭さんの話に心を打たれていきます。
そんな時に出会ったのが、福井の小学校の先生、岩堀美雪さんによるパーソナルポートフォリオでした。パーソナルポートフォリオ略してパソリオに参加することで、「自分大好き人間」に変わっていくことを実感し、ボランティアで友達に教室を行ったり会社の内定者に対してやり始めます。
パソリオは、受講した人には大好評だったものの、経営陣からは「あいつはおかしなことをやっている」とボコボコにされます。
経営陣は、うつ病になった人を立ち直らせることを考えてはおらず、うつ病で休職したらやめさせればいい、そう考えていました。
上司や本社の人とやりあっても、味方は若い人のみ。
リーマンショックも重なり、ますます社員は使い捨て状態となり、彼自身も係長から主任、さらには平社員にまで降格されます。
このことがきっかけとなり、このままこの会社にとどまるより、たとえ収入が減ってもパソリオを広める道を選ぼう。しげっちゃんは決断します。

しかし、何よりその決断をさせてくれたのは息子さんでした。一人息子はしげっちゃんが離婚した直後の小学5年生の夏休みから5年間に及ぶ間、ずっと引きこもりを続けていました。
自分のことが大っ嫌いな頃のしげっちゃんは、怒鳴ってばかりいました。
「さびしいのは分かる。だけど、親としてここまでしてやっているのに、学校に行かないなんて、息子のほうが悪い!」
そう思っていたのです。

でもパソリオを始めて、自分のことが大好きになったことで、息子に対して文句を言うことなど何ひとつないのだとの思いになります。
「一番辛いのは息子なんだ」と気付いたからです。

すると、今までどんなに恫喝しても部屋から出てこなかった息子が引きこもりをやめ、しげっちゃんに心のうちを話し始めるようになりました。
「ああ、子どもに言ってわからせることなど何一つないのだ。ただ、行動を見せるだけでよいのだ。」

 このことが脱サラしてほんわか寺子屋を開く一番大きな原動力になりました。目の前で悩んでいた人が、パソリオによってどんどん自分が好きになって笑顔に変わっていく様子を見られることが、今のしげっちゃんにとって何よりの喜びです。

 今の子どもたちは、無気力無感動だと言われるが、それはちがう。子どもたちの周りに熱い大人がいないからなのだ。子どもたちのために大人を輝かせたい、そのために自分はほんわか寺子屋をやり続けるのだ、としげっちゃん。

 大人だって子どもと同じように心の中に無邪気なものを持っている。それを心の奥底の箱に入れて、ふたを閉めたことさえ忘れている人もいる。ふたを開けようとすることに抵抗する人も少なくない。でも、そんな人たちに言いたい。子どもたちが大人になった時に輝けるのは、目の前にいるあなたが輝いているからなんだよ。あなたが心からの笑顔で笑ってくれないと、子どもたちも本当の笑顔にはなれないんだよ。

 子どもの笑顔が何よりも好きなしげっちゃん。これからも、ほんわか寺子屋でたくさんの笑顔を生み出していってくださいね。
 そしていつか、しげっちゃんのにぎった幻のおにぎりが食べられる日が来ることを、心から願っています。

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パソリオはこんな感じで作ります♪

今日の人33.坂本茂樹さん パート.1 [2012年03月01日(Thu)]
今日の人は、しげっちゃんこと坂本茂樹さんです。
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しげっちゃんは金沢でほんわか寺子屋を主宰されています。

 「ほんわか寺子屋って何?」という方。
自分のことが大嫌いな人でも、自分のことが大好きになれる!ところなのですが、ひと言ではとても言い表せないので、しげっちゃんのホームページをぜひご覧ください。

 しげっちゃんは昭和38年、高度経済成長期のど真ん中に生まれました。
実父は小学生の時から働いていた苦労人で、実母は18歳の時に嫁いできてやはり大変な苦労をしました。
母の仕事も忙しかったため、しげっちゃんは実母の実家に預けられて育ちます。それが坂本家でした。
坂本家の兄夫婦には子どもがなく、「ぜひ養子に欲しい」と言われます。
両親にとって初めての子供であるので、2年間断り続けていたのですが、しげっちゃんが4歳のとき、自らが「ぼく、坂本家に行きたい」と言ったため、養子縁組が決まりました。
実父はかなりショックを受けたそうです。

 こうして5歳の時に、坂本家に養子に入ったしげっちゃん。
近所の子どもたちから「坂本んちのもらわれっ子」と言われることになり、
幼心に「生みの親にも育ての親にもとにかく迷惑をかけてはいけない」と思い、
ずっといい子を演じ続けます。

そんな糸がプツッと切れたのが高校生の時でした。
いい子を演じるのが嫌になったうえに父親との確執も出来、家族の関係は最悪。
外に出たくてたまらなかったので、大学は地元ではなく富山県を選びます。
念願の一人暮らしを始めたものの、心は荒れたままでした。

3回生になった頃パチンコにはまり、大学にも行かなくなりました。自分のことをますます嫌いになったそうです。でも、自分ではどうしようもありませんでした。
その後好きな人が現れ、今度は恋に夢中になります。その人が奥さんになるわけですが、彼女は大学だけはどうしても卒業してくれ、と言い、リミットぎりぎりの8年で卒業しました。4年も留年したものの、時はまだバブルのまっただ中。就職口はちゃんとありました。大手のIT企業に入社し、結婚。しかし、激務で体を壊し、相変わらず自分のことは嫌いなままでした。

 ある時、石川県の農業システムについて担当し、担当者からミルキークィーンというお米を紹介されます。
「この米はとってもうまい。でも水加減が難しいんです。
市場が求めるのは、美味しい米より、扱いやすい米なので、この米は古米をおいしくする添加米として使っています。」
と言われビックリします。

 …それは、なにかおかしい。本当に美味しい米が美味しいまま売れないなんて!
そんな世の中の不条理を感じ始めたしげっちゃん。

そんな時代に起こったのが酒鬼薔薇(さかきばら)事件でした。
その後高速バスジャック事件も起こり、少年による凶悪犯罪が続発。
だけどまだその頃は「嫌な世の中になったなぁ」と他人事のように思ってました。

当時の夢は「お父さん、お母さんが心やわらげる木のおもちゃ屋さん」だったそうです。
それを近所の小学生に話したところ、
「僕も遊んでみたい」と言われたのです。
「大人向けにしようと思っていたんだよ。 子供たちはゲームがあるからね」と言うと、
「俺たちはゲームしか知らないんだよ。 他に遊ぶ選択肢が無いからやっているんだ。
だけど、木のおもちゃで遊ぶことが出来るのならやってみたい」
と言われ、はっとしたのです。
「凶悪な犯罪を犯す少年たちは、大人が生み出したモンスターなのではないか?」
そんなことを漠然と考えたのです。

「子供たちが元々凶悪だったわけではない。 凶悪にならざるを得ない環境だったのではないか? ほかに選択肢が無かったのでは?」
彼はその原因の一つが「食べ物」と考えます。
しげっちゃん自身、反発し、ぐれかかったことはあったけど、とことん落ちなかったのは心のこもったものを食べてきたからに違いない。

人を傷つけたり殺すような悪いことをする人って、お店で美味しいものを食べることがあっても、母親の愛情のこもった美味しい料理を食べていないのではないか?

ここから
「心のこもった美味しい食べる子供に、悪いことをする子はいない」
という信念を持ちました。

(パート.2に続きます猫
今日の人19.今村義秀さん [2011年12月13日(Tue)]
 今日の人は頭脳明晰、いつも本質を突いたことをズバッとしてくださる今村義秀さんです。

今村さんは会計畑の方。高校を卒業してすぐに税理士事務所に入った今村さんは、毎日 新聞5紙と月刊誌40〜50冊を熟読する日々。税理士事務所の所長さんが中卒で苦労を重ねてこられたこともあって、学歴をカバーするには生きた情報を活用しろ、という方針だったので、仕事中に勉強していてもむしろ奨励してくれるような職場の雰囲気だったのも幸いして、どんどん知識を吸収していきました。ちょうど橋本内閣の時で、金融ビックバンがおこり、金沢にもメリルリンチが入ってきた頃でした。若造の今村さんが、社長さんたちと膝をつきあわせて付き合う立場をもらいました。しかも毎日半端ない量の情報を仕入れ、的確にアドバイスをしていた今村さんですから、その頭脳明晰さで社長さんたちに一目置かれる存在になっていきました。みなさん苦労してきた社長さんたちですから、単なる学歴より、本当にできる人を見抜く力がお強いのですね。しかし、今村さんは徐々に頭でっかちになっていく自分に、心のどこかで、焦りを覚えるようになりました。こんなんじゃない!えらそうにやっているけれど、自分は実質的なことはちっともわかっていないんじゃないのか?そう感じている自分がいました。
知識や情報は使い方を誤ると自分自身を殺してしまう。人間、できあがってくると、かたくなになってくる。
 そんなある日、実家でお兄さん夫婦と赤ちゃんが一緒にいるのを見て、「ああ、赤ん坊はいいなぁ、どんな色にも染まっていなくて」と思った時、はっとしました。そうだ、自分も外国にいけば赤ん坊になれるのではないか?何もわからない中に身を置けば、きっと自分が素直になって、傲慢な自分がリセットできる!そう思ったのです。
 自分を洗濯いたしたく候、と決意した今村さん、カナダのエドモントンにワーキングホリデーで行ったのが24歳の時でした。最初ホームステイは3か月だけの予定だったのですが、そこのご主人にすっかり気に入られ、ずっとここにいろと言われて、1年間ずっとそちらでホームステイをしていたそうです。帰るときには養子にするからずっとここにいてくれとまで言われた今村さんなのでした。エドモントンでは、当時世界一大きなショッピングモールだったウエストエドモントンモールの中に入っているバーでバーテンダーアシスタントなどをして過ごしました。
毎日がとてもスリリングで楽しかったと今村さん。今もずっと付き合っている親友もできました。1年間カナダで過ごし、最後の一か月はアメリカの西海岸から東海岸までバックパッカーで回った今村さん。
 日本に戻った後、今度は公認会計士事務所で働くようになりました。そこは、仕事のクオリティがとても高く、会計、税務、ビジネスについてとことん教え込まれました。そして目に入ってきたものを通して、その先を見通せる力を養えるようになりました。やがて、会計事務所もやめ、クライアントの会社で企業コンサルタントを始めた今村さんでしたが、時間の経過とともに、私はその人を見てすべてがわかるという風に、また傲慢になっていった自分に気付きます。
そんな時に出会ったのが福島正伸先生のメンタリング・マネジメントでした。その講座を受けて、今村さんは衝撃を受けました。同じコンサルをしていくにしても、こんなにも違うものなのか!普通、福島先生の講演を聴くと、元気になる人が多いのですが、今村さんは真逆でした。自分のことを完全に自己否定してしまい、仕事も一か月以内に辞め、ひきこもり状態になってしまいました。何もかも受け入れられない状態が一年以上続きました。
 でもさすがにこのままではいけないと思い、職業訓練校に通うようになります。そこで感じたのは、みんな顔が暗すぎる、ということ。職業訓練校では勉強や技術だけ教えるけど、それでいいのか?もっとメンタルの部分をなんとかしないと!みんなにスイッチを入れたいと思った今村さんは、みんなを笑わせることに心を砕き、今まで培った知識を活用して、クラスメートととことん話しました。そうすることで、クラスで一番暗い顔をしていた人が激変し、とても明るくなって一番に就職を決めていったのです。今村さんは思いました。やはり、福島先生のメンタリング・マネジメントはすごい!
そうして今村さんは自分も職業訓練をする側に回って、暗い顔をしている人たちを救いたいと思うようになりました。それで今は職業訓練校で学生たちを相手に職業訓練の授業を受け持っています。これからビジネスを始めたいけど、どうやっていったらいいかわからない、という人の相談にも乗っています。それはボランティアでやっていらっしゃるそうですが、夢を抱いている人は応援したくなる、という今村さん。
そんな風に歩いてきた今村さんでしたが、全く農薬を使わずにリンゴを育てることに成功した奇跡のリンゴの木村秋則さんのことを知り、自分の五感を使って自給自足できる生活こそ真に豊かな暮らしではないかと思うようになりました。
それがたまたま今年の4月に知人から農業をやらないか?と言われた今村さん。頼まれごとは試されごとと思い、職業訓練校の講師をしながら、無農薬栽培の農業に取り組むようになりました。
 生きている土に触れる生活がいかに豊かかを実感した今村さんは、来年の2月からは農業だけに専念しようと思っています。
 そんな今村さんの夢は、耕作放棄地を昔のような田畑に戻し、それによって村おこしをしていくことです。この先、農業従事者が激減していく現実を考えると、実は一刻の猶予もならない問題だと私も思います。そうしないと、日本は生きていくことができなくなってしまう。
 今村さんは石川県輪島市の耕作放棄地の開墾に汗水流して取り組んでいらっしゃいます。
きっと何年かしたらたくさんの笑顔が集う素敵な田畑になっていることでしょう。
私も心から応援しています!
今日の人17.山崎ジョー吉さん [2011年12月08日(Thu)]
 今日の人は金沢アイ・オー・データ機器事業戦略部コンシューマ戦略課課長、NPO百万石ワールドカフェ副代表理事、iPhone developer ciub Ishikawa副会長と多方面でご活躍の山崎ジョー吉さんです。

ジョー吉さんは会社の社員研修がいつも座学で終わってしまい、効果が長続きしないことから、継続的な取り組みとして、2010年の4月から社内で毎週水曜日の朝に「朝活」を始めました。ネーミングを決める際に、「朝活」、「朝勉」など幾つかの案があったのですが、何かで目にした「朝カフェ」という言葉がオシャレだったのでこの名前に決定。そして、具体的な中身を決めるべく「朝カフェ」というキーワードで検索をしていたら、ヒットしたのがツイッターで見つけた「ワールドカフェ」というツイート。
「ワールドカフェ」って何?世界の喫茶店??そのツイートの主である、坂本由美子さんにコンタクトをとったのがジョー吉さんがワールドカフェに出会ったきっかけでした。ワールドカフェとは、一つのテーマについて参加者が自由に意見を出し合い、相手の意見を聞き、対話を繰り返すことで相互理解を深める「場」とその「手法」です。

「これ!」と思ったことは、すぐに取り入れるのがジョー吉さんのフットワークの軽さ!社内での「ワールドカフェ」の開催を支援し、さらに、朝カフェもずっと継続していく中で、会社の雰囲気は着実に変化してきていると実感しています。

そんなジョー吉さんが8年程前からずっと続けているのがリズミックボクシング。いわゆるボクササイズなのですが、単なるフィットネスというよりは、脳の脂肪をとるフィットネスだと、ジョー吉さん。
体の脂肪は落とせても、年齢と共についてしまった脳の脂肪はそう簡単には取れない。しかし、毎年、新たに開発されるコンテンツに取り組むことで、脳の活性化をすることができる。頭では理解できてもそのとおりに動けない自分をまずは受け止め、年齢や上限関係といったプライドを捨て、若い人に教わり、反復練習をすることで体の動きを脳に記憶していく。体を動かしていくことで、考えもポジティブになり、日々のもやもやも吹き飛ぶ、つまり、脳の脂肪も取れていくのだそうです。とってもポジティブなジョー吉さんの考え方はリズミックボクシングで養われたのかもしれませんね。
■リズミックボクシングについての記事 http://d.hatena.ne.jp/waiiwaii/20110911/1315755668
そして、ラフターヨガにも取り組んでいらっしゃるジョー吉さん。ラフターヨガとは、ただ笑うだけのヨガです。ポーズの合間に呼吸法がありますが、基本は笑っていれば〇。ラフターヨガの自己紹介はとってもユニーク。自己紹介の際に、敢えて笑われるようにする。人前で話をする際に緊張するのは、失敗して笑われるのでは?との恐怖心から来るもの。でも、笑われることに一旦慣れてしまうと、人前で話すことが快感になるそうです。
こんな風に人生を心から楽しんでいらっしゃるジョー吉さん、多くの日本の会社に残っている「残業しないやつは社員じゃない」という風潮はおかしいと思っています。ワークワークワークでライフがない。今の社会構造を考えると、この先10年たつと、親の介護などで残業したくてもできない時代がやってくる。そんな時にワークしかない人は、困惑してしまうでしょう。そのためにも、今のうちからアフター5、いえアフター4を利用した地域作りを考えていこうと思っています。その一つがワールドカフェでもあるのです。
ジョー吉さんの直近の夢は「ワールドカフェはリアルなSNS」という内容で本を書くこと。地域作り、リアルなSNS、これからのキーワードをたくさん散りばめた生き方をしていらっしゃる、いつもポジティブで楽しいジョー吉さんなのでした笑顔




 
今日の人16.坂本由美子さん [2011年12月06日(Tue)]
 今日の人は、銀座コーチングスクール金沢校講師、NPO法人百万石ワールドカフェ代表理事の坂本由美子さんです。

 坂本さんはとってもエレガントな女性で、都会的な雰囲気キラキラ
 でも、そんなエレガントな坂本さんには実はとってもつらい体験がありました。
 坂本さんはコーチングに出会う前は、いつも不平不満ばかり言っているいけてない自分だったとおっしゃいます。輪っかの欠けているところばかり見て、あれがない、これがないといっている自分だった、と。家と職場の往復のそんな生活に嫌気がさしていたものの、だからと言ってなにかを始めることはしませんでした。
 そんなある日、坂本さんに衝撃が走る出来事が起こりました。
 親友だった人を自殺でなくしてしまったのです。その日、坂本さんはその人から電話をもらっていました。でも、他の人と話していて、その電話には出られませんでした。その後に知った、友の自殺・・・あの時、電話に出ていられたら!・・・その人は坂本さんにも遺書を残していました。「ぼくの分まで生きてください」その言葉の意味についてずっと考えていました。なぜ彼は私にこの言葉を残したの・・・?
 しかもそれだけではなく、あの日、彼の着信に出られなかった時に坂本さんと一緒にいた女の子までもが自ら命を絶ってしまったのです。「なぜ?どうして?」混乱しました。
 でも、二人には共通した部分がありました。それは、二人とも、一人で孤独を抱えてしまっていたことです。一人で抱えて悩んで悩んで自分を追い詰めていった。もっと話を聞いてあげられたら、彼は、彼女は死ななくてしんだのかもしれない!
 坂本さんは話の聞き方を勉強したくて、コーチングの勉強を始めました。「コーチ」(COACH)とは馬車を意味し、馬車が人を目的地に運ぶところから、転じて「コーチングを受ける人(クライアント)を目標達成に導く人」を指すようになりました。コーチングでは、モチベーションを重視し、人が自ら学習し育つような環境を作り出し、個人をのばし、自ら問題を解決していけるようになることを目的としています。コーチングを勉強し、コーチの資格をとった坂本さんは、いかに対話が重要かということを痛切に感じるようになりました。そして、対話を広めたい!そう思いました。議論ではなくて、対話です。議論とちがって対話は、受け入れる必要はないのです。受け止めさえすればいいのです。そして、コーチングだったら基本は1対1なので、なかなか対話を広げていくことは難しいけれど、ワールドカフェなら、もっとたくさんの人に対話の魅力を伝えることができる!そう感じて、今も月に一度、百万石ワールドカフェを開催している坂本さん。他にも脳トレカフェ、婚活カフェなど、ワールドカフェはさまざまに広がりを見せ、仲間と一緒にNPO法人も設立しました。これからも対話を広めるためにさまざさに活動していきたいと思っている坂本さん。
 そんな坂本さんの夢は、この社会をよりよくコミュニケーションのとれる社会にすることです。そんな世の中になれば、自ら命を絶つような悲しい出来事は減るに違いありません。
 来年1月には北陸初開催となるコミュニケーションフォーラム北陸を控え、大忙しの坂本さんですが、そんな坂本さんの息抜きはカヌー。家にはなんと3艇のカヌーが!
もう一つ、1年に10回以上ディズニーランドに行くくらいのパーク好きです。でも、アトラクションに乗るのが好きなわけではなく、パークという日常生活とは離れた空間の中で考える時間がとても好きなのです。イマジネーションがとても湧く場所ですし、何より、娘さんとゆっくり話せる時間だから大好きと、坂本さん。
娘さんもとっても素敵なお嬢さんで、「ママの心のマジックはなに?」等、鋭い質問をなげかけてくれるので、いくら話していてもあきないとおっしゃいます。
 これからも、その魅力的な笑顔で、北陸にコミュニケーション作りの輪を広げていってくださいねクローバー