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今日の人85.岡本八大さん パート.2 [2013年01月30日(Wed)]
パート.1から続きます。

ニュージーランドへ行って、3年経って日本へ帰ってきました。その頃ネットが普及し始め、会社へのクレームが目につくようになりました。それがたまらずお父さんに「会社を辞めたいのです」と申し出ます。するとお父さんは「お前が辞めるなら、俺も辞める」とおっしゃいました。当時の八大さんにはその言葉があまり響きませんでした。「とにかく辞めます」そう言いました。けれど、会社の重役の人たちから一緒にやっていこうと説得されます。特に、子どもの頃に釣りを教えてくれていた方からの「一緒にがんばりましょう!」が効きました。

こうして八大さんは会社をやめることなく、帰国後にまず東京の小売店で働かせてもらいました。自分なりに「こういうお店をやりたい」という思いが強く、休みなくずっと働きました。そうです、今度はお店にハマったのです。けれども、お店は赤字続きでした。当時はなぜだ?と思っていましたが、今ならその理由がわかります。それは、お客さんのところを見ていなかったから、その一言に尽きると。

お店にハマって仕事を頑張りすぎた八大さんは、とうとう倒れてしまいます。
体調が戻ってからは、社長について全国をまわるようになりました。そして、広告、商品開発と多様な分野に携わりました。
しかし、その頃、会社の業績がどんどん悪くなってきていました。最初は売り上げを戦略的に落としていたのですが、途中回復させようと思っても回復しなくなりました。2006年には毎月大きな赤字を出すようになりました。まだ借金までは出していませんでしたが、「このままではいけない!」そう思っていた時に紹介されたのが、アタッカーズ・ビジネススクールでした。

丸八ホールディングスの名刺を持たずにアタッカーズ・ビジネススクールで受講を始めた八大さん。特に黒川伊保子さんの「感性マーケティング講座」に大きな影響を受けました。脳科学に基づいた男性脳と女性脳のちがいを理解していくことで、女性スタッフとも驚くほどスムーズにうまくコミュニケーションが取れるようになりました。

 アタッカーズ・ビジネススクールには福島正伸さんも講師としていらしていました。福島先生の講座も薦められましたが、1年間受講していませんでした。しかし、3分間のDVDを見て、絶対聴きに行こう!と心に決め、福島先生の講座を受講しました。福島先生のメンタリング・マネジメント講座を受けてからは、何事にも怒る必要などないんだ、ということが腑に落ちました。他人のせいにすることは何もない。全て自分なのだと。

 こうして新しい社長と二人で全国行脚を始めました。そして今まで見えていなかったものにもたくさん気づきました。幹部の中にも、丸八真綿で働いていることを家族に言えなかった社員がいることを知った時はショックでした。でも、自分は絶対これを変えていこう。自分は丸八真綿のお客様もそして社員も笑顔にしたい、そう強く思いました。

 そんな中、青森を回っている時に、社員の子どもの作文を読む機会がありました。そこにはこう書いてありました。
「僕は大きくなったら丸八真綿に入ってお父さんと同じ仕事がしたいです。」
 心が震えました。「よし、やろう!この会社を親も子も夢が持てて、みんなが笑顔になれる会社にするんだ。」

 2009年、創業者のお父さんが認知症になります。八大さんはなるべくそばにいてお父さんのお世話をしました。子どもの頃、ほとんど側にいなかったあまりに偉大な父。でも、こうやって、最後にお世話をしたことで父と子の時間の隙間を埋めていったのかもしれません。お父さんの名前は八二、八二から八大へと八の継承を受けたこと、本当に大切にしています。そして「八の継承」は、人生の目的でもあります。八大さんの息子さんは八仁と名をつけました。論語が好きな八大さん、どうしても仁という漢字を付けたかったのです。
八二から八大へ、そして八仁へ、自分が父から受け取ったものを息子にも受け取ってもらいたい、「継承」ということをとても大切に思っています。

 丸八ホールディングスは昨年2012年に創業50周年を迎えました。さらなる50年へ向けて、八大さんには夢があります。それは、ネットで「丸八真綿」と検索したら、お客さんからの感動の声であふれている、そんな会社にすること。
 
 睡眠が必要でない人など、この世にはいません。誰にとっても睡眠はとても大切なもの。それなのに、睡眠の質が軽視されすぎている。睡眠の質が良くなることの社会的意義はとても大きい。だから、子どものうちから睡眠の大切さを伝えていきたい。八大さんは、子どもたちの授業に睡眠の授業を取り入れていくべきだと思っています。ですから、睡眠のセミナーもあちこちで引き受けています。そうして、もっと輝ける未来を作っていきたいのです。

 丸八ホールディングスが創業100周年を迎える時に、八大さんは92歳、それまで元気で睡眠の大切さを伝え続けるためにも、まずは自分の健康に留意することも忘れてはいません。もちろん、質のいい睡眠のための寝具はバッチリです!

 そして、八大さんは自分に人生のとても大切なことを教えてくださった、人生の師である福島正伸さんに恩返しがしたい、そう思っています。ですから、福島先生が手がけていらっしゃるドリームプラン・プレゼンテーションのプレゼンターの応援をずっとしていこう、そう決めています。

 そして、子どもが夢を持ち続けて欲しい、そう思っています。ですから自分自身も夢を持ち続けるのだと。奥さんとお子さんと一緒に家にいる時間は怖いくらいに幸せだとおっしゃる八大さん。こんな一途な旦那さま、なかなかお目にかかることはできませんね。

 これからも大きな愛でたくさんの人を包み込んで、みんなが幸せになれる会社を、そして社会を目指していってくださいね。
 半世紀後、創業100周年を迎える日を心から楽しみにしています。(私も生きているつもりなので)

IMG_7607.JPG

笑顔の素適な八大さんと、ドリプラ富山2013実行委員長の
飯野道子さんと一緒に
今日の人85.岡本八大さん パート.1 [2013年01月29日(Tue)]
 今日の人は株式会社丸八ホールディングス取締役副会長、NPO法人日本睡眠環境研究機構理事、睡眠環境診断士、睡眠指導士、日本プレゼンテーション協会認定プロ講師と幅広い肩書きをお持ちの岡本八大さんです。肩書きだけ見ると、ちょっと近寄りがたい感じですが、実際お会いすると、とっても腰が低くて話しやすい素適な紳士です。
写真 13-01-15 16 08 13.jpg
写真向かって左が八大さん 
右は森本耕司さん

 八大さんは第二次ベビーブームの1971年に生まれました。お姉さんが3人いて、一番上のお姉さんとは12歳ちがい、待望の男の子だったので、それはそれは可愛がられて育ちました。

 小さい時は人見知りで仲の良い子とだけ話せるような感じでした。好きだったのはローラースケートや釣り(といっても釣具を見ているのが好き)やNゲージでした。Nゲージというのは鉄道模型のことです。そう、八大さんは鉄ちゃんだったのです。時刻表の見方も教えてもらって、時刻表を見ているのも大好きで、時刻表を見ながら日本一周の旅を自分で作成したりしました。
 ただ、お父さんは仕事に忙しく、遊んでくれるのは専ら会社のお付きの人でした。

 生まれは浜松ですが、すぐに神奈川へ移り、小学校4年の時に今度は東京へ引越します。神奈川にいる時は、小田急ロマンスカーが好きだった八大さん。東京に行って単色の山手線や総武線を見るとちょっと不思議な感じがしました。今でも一番好きな電車はロマンスカーだとおっしゃる八大さん。

 そんな電車好きの八大さんですから、子どもの頃の夢は電車の運転士になることでした。でも、バスの運転手にはなりたいとは思いませんでした。バスは道に迷うかもしれないから嫌だ。電車はまっすぐ進むからいい、そう思っていたのです。

 小学校5年の時、いじめられていた時がありました。嫌われたくないと思って言うことを聞いているうちにいじめがどんどんエスカレートしていったのです。それでほんのしばらくでしたが不登校になった時期がありました。そのグループと離れたことでイジメはなくなりましたが、とてもつらかったのを覚えています。

 中学校に入るとお姉さんの影響で軟式テニス部に入りました。でも、1年間ボールに触らせてもらえなかったからおもしろくなくて辞めました。学習塾に通いだしてからは一日中ずっと勉強していました。何かにのめり込むと熱中するタイプで、ほとんど100点を取っていました。その頃になると、電車の運転士ではなく、パイロットになりたいと思うようになっていました。しかし、目が悪くなってしまったので諦めざるを得ませんでした。
 その頃、ビデオの編集にもはまっていました。当時はまだビデオテープの時代ですから、CMを抜くためにテープを切り貼りしたりして、うまくいった時は「やったぁ」という気分でした。

 高校では入学後初めてのテストで満点を取り、それで満足してしまったのか、その後はちっとも勉強しなくなりました。
部活は硬式テニス部に。ここでは同期と仲良くなれて、3年間辞めることなく部活を続けました。でも、見るのが好きだったのは野球です。中日ファンでした。落合選手が活躍していた頃です。その頃、ファミコン(ファミリーコンピューター:当時爆発的に人気のあったゲーム機器です)も流行っていましたが、八大さんのファミリースタジアムの腕は全国レベルだったようです。(かなりやりこんでいましたね!)
 ただ、高校の時は特になりたいものがなかった、夢がなかった、と八大さん。

 大学は経済学部に入りました。本当は史学部に行きたかったのですが、先に受けた経済学部に受かってしまったので、史学部を受験しませんでした!(なんと!)
 大学生活はほとんど出歩くことはなかったので、とてもつまらないものでした。
一日の生活は近所のコンビニに歩いて行ってスポーツ新聞を買うこと。
なぜスポーツ新聞かというと、競馬にはまっていたからです。平日はスポーツ新聞を買って熱心に研究し、週末に競馬場に行くという、まるで競馬好きなおじさんのような大学時代でした。

 でも、そんな八大さんにも就職活動というものがやってきました。就職指導で◯を一つ書くにしても適当に書いてはいけないと言われ、こんなことして何の役に立つんだろうという疑問が湧いていた時、それまでずっと放任主義だったお父さんから言われます。
「就職活動なんてしなくていいんだ。うちの会社に入って、ニュージーランドへ行ってこい」(丸八は毛皮製品の世界最大手、ニュージーランド「G.Lボーロン社」を買収していたので、そこで修行してこい、というのがお父様の想いだったようです)

 こうして大学卒業後にニュージーランドに渡った八大さん。でも、就労経験もなく、英語もわからない、おまけに仕事は3Kのとてもきつい仕事でした。でも、きつかったがゆえに、小さい時からどちらかというとおぼっちゃま育ちだった八大さんにとって、この3年間の経験は得がたい貴重な時間になりました。

 現地にいる間に語学学校にも通ったのですが、そこで、最愛の奥様と出会うことになったのです。また、学校にはとてもオープンマインドな人が多かった。大学の時はそれが嫌で部屋に閉じこもっていたけれど、異国の地でそんなことを言ってはいられません。八大さんも徐々にオープンマインドで話せるようになっていきました。

 2年目になると、1年後輩が入ってきます。後輩ではあるのですが、日本で1年仕事を経験してから来ているので、とても勉強になりました。こうして、誰とでも心をひらいて話せるようになっていきました。人見知り、人嫌いを克服していったのです。

 それでも、もちろんつらい時もありました。帰りたいなぁと迷っている時にお父さんに電話しました。そして、お父さんの声を聴くと、「ああ、やはりがんばろう」と思えるのでした。

 また八大さんは結婚願望がとても強かったので、早く結婚したいと思っていました。結婚すればきっと安定する、そう思っていました。結婚が決まった時、お父さんから言われました。「好きで結婚するなら、何があっても決して自分から離婚するって言っちゃいけない」今もその言葉をしっかり胸に抱いている八大さんなのです。



パート.2に続きます。