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今日の人167.米村美樹子さん [2017年06月19日(Mon)]
 今日の人は、中国人の研修プログラムのデザインや翻訳、手帳術コーチとして願いが叶う手帳術講座等を開催されていらっしゃる米村美樹子さんです。19243765_1376214452465199_264156772_o.jpg
2012年の反日デモの直後の国慶節に天安門広場にて
見知らぬ中国人のおじさんがシャッター切ってくれた一枚


 米村さんは高岡市で生まれ育ちました。小さい頃はショートヘアで、よく男の子に間違われていたそうです。本当はロングヘアに憧れていたのですが、お母さんがショートが好きで、ずっとショートにされていたのでした。でも、その反動からか小学校中学年になってからはロングにして、いつもツインテールにしていました。

 近所の子と外遊びもしましたが、お絵かきが大好きでした。変わったところでは納戸に入るのも好きでした。昔の箪笥やおもちゃ箱がしまってある納戸に入ると妙に落ち着いたのです。

 小学生の頃はキャンディキャンディやベルサイユのばらが好きでした。キャンディキャンディではアンソニー、ベルサイユのばらではオスカルが好き、という王道路線でした。作品の歴史的背景を調べるのも大好きでした。この場所と場所、国と国はどうつながるんだろう、そんなことを考えるとワクワクして家にあった地理の本をいつまでも読んでいるような少女でした。
 
 低学年の頃はバレーボールの選手になりたいと思っていました。その頃アタックNo.1が流行っていたこともあって、ドッジボールが怖かったくせにバレーボールの選手になりたいと思っていたのでした。みんながキャーキャー言っていたアイドルには全く興味がなく、小学生の頃からラジオで中島みゆきやユーミン、オフコースを聴いていました。

 中学校では剣道部に入部。女らしくないことをしたいと思って剣道部を選んだのですが、その年はなぜか女子部員がすごく多い年でした。そして小学校の時から地理や歴史の本を夢中で読んでいた米村さんは、中学校でも歴史が飛び抜けて好きでした。米村さんの歴史のノートの取り方があまりに素晴らしくて、高校の時など歴史の先生に「お前のノートの取り方を見せてくれ」と言われていたほどです。歴史全般が得意だったのですが、中でも中国史は異常に頭に入りました。三国志や史記が好きで、大学時代は文献を翻訳していたため漢和辞典をひくのが速いという変わった特技の持ち主になりました。
 高校時代はバスケ部のマネージャーをしていたのですが、高校野球が好きで甲子園まで見に行ったりもしていました。

 大学は中国史を学びたくて、京都女子大へ。古美術研究会に入ってお寺や庭をたくさん見てまわりました。高台寺で特別拝観のガイドをさせてもらったときには、CMのロケで訪れた女優の黒木瞳さんを間近で見たのが思い出です。

 大学時代は羽目を外すこともなく、大学とデザイン事務所のバイトに行き、アパートに戻ってニュースステーションを見て寝る、というなんともまじめな生活でした。

 大学を卒業後しばらくして、NHK富山の契約アナウンサーとして採用されます。当時ローカルの契約では2年で辞めなければならないという暗黙の了解がありました。2年で辞めた後は東京でフリーのアナウンサーになりました。フリーのアナウンサーにとってオーディションは日常茶飯事です。それは大学入試のようにボーダーラインが決まっているわけではなく、誰が採用されるかは神のみぞ知るといった感じです。この時期の経験が、米村さんに努力しても報われないことがあるということを教えてくれたのでした。そんな時に大切になってくるのは、どうやって自分の心と折り合いをつけるか、ということです。みんなプロですから、プライドがある分、余計に嫉妬が芽生えやすい世界でした。そんな中で鍛えられたので、きっとずいぶんとタフになったはずです。

 その後、NHKの国際放送局に採用になった米村さん。ナレーションもいろいろ担当したので、「あなたの番組聞いていたよ!あれ、あなただったんですね」と後に言われたこともありました。国際放送局は人間関係はとてもいい所でしたが、9.11テロ直後、特別編成で番組が突如休みになり、お給料がもらえなくなるということもありました。なにしろ番組が放送されて初めてお給料がもらえるので、番組が放送休止になると、その分のお給料ありません。このままだと生活できないと訴えたことがありました。おかげですぐにその状況は改善されました。
国際放送局の仕事を始めてから6年後、米村さんの担当していた番組が終わることになりました。米村さんは仕事を辞めて前々から興味があった中国に留学しようと決断。しかし、その年はSARSが大流行した年でもあり、ご両親は米村さんが留学することに大反対でした。中国に移ってからも反日デモや悪い報道がたくさんあったので、お母さんはワイドショーで悪いニュースを見るたびに電話をかけてきました。母が娘を心配する気持ちはもっともですが、その後たびたび日本人のメディアリテラシーについて考えさせられました。日本人は概してメディアの情報を取捨選択する力が高くなく、報道されたことがすべてと思い込んでしまいがちです。報道は本当だったとしても、それは全体のうちの一部にすぎないことが往々にしてあります。作り手のバイアスがかかる場合もある。鵜呑みにするのは決してよいことではない。中国にいると、それを身を持って感じるのでした。
 
  中国に留学した当初、中国語検定3級は持っていてもちっとも話せない現実に愕然としました。留学先の大学での中国語の授業は、教師の技量がまちまちな上、教え方が確立されていないために必要に感じられない授業もありました。むしろ大学教授の奥さんと相互学習がどんどん中国語の会話を上達させました。しかし、最初のうちはなかなか北京に馴染めませんでした。その頃は大学の周辺にはほとんど洗練された所がなかったのも理由の一つです。留学して3か月経過した頃「3日でいいから東京に帰って青山のカフェでお洒落な友だちとお茶したい!」と思ったこともありました。

 2005年は反日デモを間近で目撃して、少なからずショックを受けます。デモ隊が大学の正門前を通過していくときに、学内からどんどん学生が合流していく様子がマンションの窓から見えました。日本はそれまで中国に対して支援してきていたけれど、デモに参加している人たちはそれも理解していないこともショックでした。

 上海と比べて北京は日本人が圧倒的に少ない一方、日本人が手を付けていないビジネスの領域がたくさんありました。米村さんはそれまでのアナウンサー時代の経験を活かして、プレゼンのスキルを上げるセミナーを管理職向けに開催しました。そこから次の仕事につながって、中国人にビジネスマナーをや日本式の仕事の進め方を教える仕事が少しずつ増えていきました。

中国に住む時間が長くなるにつれ、次第に中国人への理解も深くなってきます。中国人ってこんな考え方をするんだ!という発見も面白かった。馴染めなかった北京での暮らしから少しずつ「苦」の部分がなくなっていきました。特に2007年の年末から3か月帰国した際は考えに変化が生まれました。北京にいる間「何で私はここにいるんだろう?」と嘆きたくなることがままあったけれど、北京という町はこれはこれでいいのだ。この時期そう考えられるようになっていました。そしてやはり日本にいて痛切に感じたのは、日本人は中国人のことを理解していない、いや理解しようとしていないということでした。メディアを介した中国人の情報は信じるけれど、自分の目で中国や中国人を見ていない。メディアの情報は全体から見た一部でしかないことが理解できなければ、結局発想が堂々巡りになるだけではないだろうか。自分で見て、感じて、考える必要性を痛感しました。

それをより強く感じる出来事が起こりました。2012年の反日デモでした。デモの数日前は、親しい中国人から日本人だとばれると危ないから一人でタクシーに乗るなと心配されるほど緊張感があった、それは確かです。そして北京の日本大使館前でデモが発生した際、周囲が厳戒態勢だったのも事実でした。しかし、自宅周辺も仕事場周辺も、北京のほとんどはいつも通りの穏やかさでした。デモの喧噪は一切聞こえませんでした。この事実が伝えられないのは理由があります。日本のメディアは大手と言えと、中国を担当する記者の数は各社せいぜい3,4人。多くて5,6人。限られた数で日本の25倍の面積の中国全土をカバーするので、目立つ大きな現場ばかり取材することになります。結果、私たちが日本で目にするのは必然的に刺激的な部分ばかりにならざるを得ないというわけです。米村さんはこのとき日本のテレビ局の電話取材を受けました。デモ隊がいるのは日本大使館周辺だけで北京は概ね平穏であること、事態を悲しんだり、米村さんに対し謝罪してくれた中国人がいたことを紹介しました。しかし、中には無神経な日本の新聞社もありました。メールやメッセンジャーでの情況確認も取らずいきなり日本語で携帯電話にかけてきたのです。中国語にも英語にも反応できない人物が、です。仮に偶然過激な考えの人がそばにいる恐れがある場所で日本語を話したとしたら、自らの安全は保障できません。電話をかけてきた新聞記者は相手がどんな状況にいるかを考える視点がすっぽりと抜け落ちていたのでしょう。取材をするときに大切なのは、取材相手の生命に少しでも危険が及ぶ可能性は排除しなければならないということです。良くも悪くも、日本人は平和だなと感じた出来事でした。

2013年、北京の生活環境は厳しくなっていました。急速なインフレで、家賃も生活費もどんどん上がっていきました。空がいつも真っ白で防塵マスクは必需品になり、朝窓の外を見るたびに気持ちが落ち込みました。その環境にいることのリスクを考えて、日本に戻ることに決めたのです。

そうして、2013年の5月、富山に帰ってきました。これからは中国と日本を近付ける、そんな役割を担おう!そう思いました。

ある時、自分の手帳の付け方が実用的なことに気が付きます。そこで手帳術のセミナーを高岡、続けて東京で開催したところ、すごく評判がよかった。きっちりせずに怠けながらできるのですが自己肯定感がすごく上がっていくのです。興味がある方はぜひ、米村さんの手帳術セミナーを受講してみてくださいね。目からウロコなこと間違いなしです。
手帳術セミナーは今後中国語バージョンも作って、中国でも展開していこうと考えています。あまり手帳を取る習慣のない中国の人にはきっと画期的でしょう。

米村さんは安定した場所にずっといると何もしなくなるので、自分に不安になるそうです。自然に他人がやっていない所を探して手を出したくなる習性があると素敵な笑顔で教えてくださいました。敢えて苦労する道を選んでいくフロンティアスピリッツに溢れていて、今どきの軟弱な草食男子にちょっとお説教をお願いしたくなりました。

そんな米村さんが今楽しいことは、飛行機でも列車でも乗り物に乗ってどこかに行くことです。移動そのものが好き!と嬉しそう。はじめての場所に行って、歩いて、その土地の地形を把握するのも好きです。街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」がお好きなわけですね。

他の場所から遊びに来てくれた友だちといろいろな話をすることもとても楽しい。そして、愛猫といる時は、いちばんほっとできる時間です。

夢は大きく、東アジアの平和です。お互いにいがみ合っていても何の解決にもなりません。米村さんのような方が中国と日本を近付ける活動を続けてくださることが、メディアの一方通行の知識しか持たない人の意識を変化させてくれるのだと思います。

「人は食べ物がおいしいところにいたらそこそこ幸せ」と ここでもかっこいい姉貴っぷりの米村さん!海外生活が長かった米村さんの言葉だからとても説得力があります。この後どんなふうに道を切り拓いていかれるのか、とっても楽しみにしています。
今日の人166.毛利勝彦さん [2017年06月10日(Sat)]
 今日の人は、設計事務所を経営され、また建築士としていろいろな設計に携わりつつ、今はアパートの大家さんとしてそこに住んでいるベトナム人留学生たちに日本の親父さんのような存在で接している毛利勝彦さんです。
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アパートで学生と歓談?している毛利さんビール


毛利さんは昭和27年に3月25日に富山市で生まれました。
小さい頃は泣き虫で、お母さんが仕事で家にいないと泣きべそをかいていたものです。
でも、その頃の日本は子どもがたくさんいた時代で、近所の子どもたちとメンコをしたり、お宮さんの周りを走り回ったり、かくれんぼしたり、いろんなことをして外で遊んでいました。
 小学校に入ってから、中学校までは滑川で過ごします。将来やりたいと思うことは特になかったので、勉強は全くしませんでした。中学2年からは町内の子に引きずられるように、不良グループに。昼から学校をサボって富山の街中へ繰り出し、映画を見たり、大和デパートの屋上で動物を見たり(当時大和の屋上は子どもの遊園地と小さな動物園があったのです)遊んでばかりいました。学校の先生にはこっぴどく叱られましたが、親が呼びつけられるといったことはなく、また毛利さんも親、特にお母さんには心配をかけたくなかったので、警察沙汰になるようなことはしませんでした。お父さんは塗装屋さんだったのですが、道楽者でしたからお母さんはいつも苦労をしていました。だからお母さんを悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのです。その一心から、不良になりすぎることはなかったのでした。

 高校は富山工業高校の工芸科に進みます。高校に入ると、それまでの不良仲間は散り散りになり、特に遊ぶこともなくなった毛利さんは勉強一筋に転じます。そうして1年生の2学期からはずっとトップの成績だったので、卒業時には優良賞を受賞したほどでした。もっとも、自分からそういうことをアピールするタイプではなく、またずっと硬派で通していたので、好きな女の子の家で一緒に勉強していても、結局何も言えないままでした。話し方が滑川弁でそれがコンプレックスになって告白できなかったのかもしれません。

 ロマンスは生まれなかったけれど成績優秀だった毛利さんは、高校卒業後に東京の大手百貨店大丸の室笑内装工部にすんなり就職が決まります。そうして、皇居の内装だったり、船や飛行機の内装だったり、大きな仕事をいくつも任されるまでに腕を上げたのです。女優の今陽子さんのマンションの内装を頼まれたりもしました。東京での仕事はとても楽しかったのですが,毛利さんは長男でご両親が心配なこともあって、4,5年してから富山に帰ってきました。

 富山に帰ってきた毛利さんは、高校で同じ美術部だった後輩と結婚。毛利さんは昔から油絵で抽象画を描くのが好きだったので、市展や県展にもよく作品を出していたのです。60代になって少し時間が出来たのでえ、そろそろ描き始めようかとも思っていましたが、最近はベトナム人学生たちと一緒に釣りに出かけたり、飲んだりしていて、逆に忙しくなってしまったと毛利さん。でも、若い彼らと一緒に過ごせるのはとても楽しいとチャーミングな笑顔でおっしゃいます。こうした小さな、でもとても濃い交流の積み重ねこそ、多文化共生にとって一番大事なことだと毛利さんと留学生を見ていて感じます。留学生にとっても、毛利さんのような素敵な大家さんに出会えたことで、富山が大好きになったにちがいないはずだから。

さて、話を戻します。富山に帰ってきてすぐに入った会社で、毛利さんは大きな洋風建築の設計を頼まれます。当時珍しい素晴らしい洋風建築の建物で、あまりに贅沢な造りだったので、新聞で叩かれるほどでした。
 ヨーロッパ風の建築が好きだった毛利さんはヨーロッパに何度も行きました。そうして、ヨーロッパに行った時に頭に残ったものを描くのが得意でした。

 当時はまだ図面をコンピューターで書ける時代ではなかったので、手書きで図面を書いていました。1分の1の設計図を手書きで書ける人は富山には毛利さんしかいなかったので、本当に貴重な存在でした。まだ会社員の一般的な初任給が6万ほどの時代に、設計料だけで2日で10万もらう程の稼ぎぶりでした。飲みにいくことも多かったし、スキーやゴルフもたっぷりやりました。夜遅くまで仕事をし、その後飲みに行って朝の3,4時まで飲んで、また朝から仕事をするという毎日を送っても元気でした。仕事も遊びも全力投球、それが毛利さんのやり方なのでした。
 実は毛利さんは、お父さんが道楽者でお母さんが苦労したこともあって、お父さんと一緒に飲みに行ったことがありませんでした。しかし、歳を重ねた今は、あんなに反発しないで、親父と飲みに行けばよかったなぁと思うのでした。

 40代で独立して、夢家工房(ゆめやこうぼう)建築設計事務所を設立した毛利さん。独立する前は、主に店舗の設計が多かったのですが、独立してからは住宅の設計も数多く手がけました。経営も順調だったのですが、独立後10年程経ったある日、屋根の上から落下し、頭を強く打ち付けるという事故が起こります。あたりは血の海になりました。脳挫傷でクモ膜下出血を起こし、そのまま逝ってしまってもおかしくない状況でしたが、奇跡的に一命を取りとめました。1か月入院し、体にしびれもあまり残らなかったのは幸いでしたが、仕事に戻ってから愕然とします。今まではどんなにたくさんの仕事が重なっていても、同時並行でたくさんの仕事をこなせていました。10くらい仕事があっても平気だったのに、2つくらい仕事が重なっただけで、もう頭が働かなくなるのです。自分が情けなくて、どん底に落ちた気分でした。大好きだったお酒も飲まなくなりました。そんな状態が3、4年続いたでしょうか。少しずつ仕事もできるようになってきて、またお酒も飲めるようになってきました。

 そんな頃に、毛利さんが大家をしているアパートにベトナム人の留学生たちが入居してきたのです。不慣れな異国の地でさぞかし不自由な思いをしているだろうと彼らの世話をあれこれ焼いているうちに、一緒にお酒も飲むようになりました。なにしろベトナムの留学生たちはみんなで集まってワイワイ飲むのが大好きです。元来、そういう楽しい場所が大好きな毛利さんはベトナムの学生たちと飲むのがすっかり日課になりました。居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲む酒と違って、彼らと飲む酒はすごく楽しいのです。今の彼らの姿は、エネルギーにあふれた高度成長期の頃の日本人の姿に重なる部分があるのかもしれませんね。
そして、毛利さんのアパートでの外国人学生たちと近所の方々との付き合い方もとっても自然なのです。いつも学生たちのことを気にかけていろいろ相談にも乗ってあげている近所のおじさんは、学生たちからおじさんおじさんと慕われていますし、いつも畑で採れた野菜を持ってきてくれるおばさんもいます。国際交流とか多文化共生って声高に言わなくても、こんな風にごく自然に日本人と外国人がご近所付き合いできる関係ってとてもステキです。

 60代後半になった毛利さん、昔のように仕事も遊びにも全力投球というわけにはいきませんが、マイペースでやっていけたらいいと思っています。時間のある時は、映画を見たり、留学生を連れて釣りに行ったり飲みにいったり、とても有意義に時間を使っていらっしゃいます。
まとまった時間が出来たら、またヨーロッパもゆっくり旅行したいし、学生たちに案内してもらってベトナムを旅行するのも楽しみにしていることのひとつです。  

工業高校の美術部の仲間との美術展にも今年は久しぶりに出展しようと思っています。時代を重ねた今、毛利さんはキャンバスにどんな世界を描くのでしょうか。
留学生たちと一緒に毛利さんの美術展を見に行くのを楽しみにしていますね。
今日の人165.成瀬 裕さん [2017年04月21日(Fri)]
 今日の人は、(株)リアルセキュリティ代表取締役で、今年「○○○のしごと塾ネットワーク」を立ち上げられた成瀬裕さんです。
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 成瀬さんは昭和42年に氷見で生まれ、氷見で育ちました。小さい時から落ち着きがないやんちゃな子で、外でカエルや虫を捕ったり、川で泳いだりして過ごしていました。川で泳いでいた時に、取水口に吸い込まれそうになって死にかけたこともありました。その時は同級生の手を必死で引っ張って、なんとか助かった裕少年でした。
 ただ、外遊びは好きなのですが、病弱だったので、小学校4年生の時から、剣道を始めました。お父さんの上司にあたる人が剣道を教えていて、そこで習い始めたのです。先生がおっかなくて、イヤなんだけど練習に行く。でも、イヤなんだけど好き。そんな感じでずっと剣道は続けました。そして、落ち着きのなかった裕少年は、剣道を始めたことでだんだん落ち着けるようになってきたのです。ただ、勉強はずっと嫌いでした。小6の時に、おばあちゃんに「将来はどうするの?」と聞かれた時に、「僕には剣道しかないんだ!」と答えていました。それくらい剣道一筋の少年時代だったのです。将来は警察官や消防士のようなかっこいい制服を着られる職業にあこがれました。

 当然、中学校に入っても剣道部に入った成瀬さん。勉強はしないけど、剣道の本だけは読んでいました。人生の基礎は全部剣道から学んだと言っても過言ではありません。相手を敬うこと、礼儀、忍耐力、全て剣道が教えてくれました。お父さんは厳格な人で、成瀬さんは反抗期なんて考えも及ばなかったくらいですが、お父さんも成瀬さんの剣道のことは認めてくれていました。きっとそれで成瀬さんも自己肯定感が満たされていたのだと思います。そのお父さんは、5人兄弟で妹を3人嫁に出したような苦労人でした。そんなお父さんの姿を見て育ったので、成瀬さん自身も早い時から仕事をしようと決めていました。
 
 高校まで剣道一筋だった成瀬さんは、高校卒業後、剣道の先生に誘われた警備会社へと就職します。まず最初に配属されたのは、ショッピングセンターの常駐勤務でした。夜間警備の時に、マネキンの手があたって、思いっきりビビったこともありました。ホームセンターで侵入警報が鳴り、駆け付けたところ、店内からガサガサと音がして、緊張が走りましたが、懐中電灯で照らすとカブトムシだった、なんてこともありました。成瀬さんは見かけによらず、ホラーが大嫌いなのですが、警備会社にいると、いろいろな怪奇現象話には事欠かないのでした。その話はいつかじっくりお聞きすることにしましょう。

その後あらゆる警備を経験、26歳になったとき、富山県警備業協会の委嘱講師、富山県公安委員会の委嘱講師になったのです。それまで勉強が大嫌いだった成瀬さんですが、この時は本当に真剣に勉強しました。なにしろ警備会社は民間の警察、つまり警察が勉強する内容は頭に入れなければなりません。法律用語だってわからないといけないのですから、その勉強量たるや、相当なものだったことでしょう。
 こうして27歳の時には全国警備業協会の特別講習講師になり、28歳で全国警備業協会特別講習講師技術研究専門部会の専門員になったのです。この技研の専門員は警備業業界の宝と呼ばれています。警備業の講師の中でも雲の上の存在、そんな立場に自分が立つなど、考えだにしなかったことでした。
 
 しかし、いざ技研活動を始めると、会社内で男のひがみ、妬み、嫉みを感じることに。いつか認めてもらえるだろうと必死で頑張っていましたが、出張も増え、なかなか職場内の理解は得られないまま時間が流れていきました。
 平成8年には、全国都市緑化フェア高岡おとぎの森会場警備隊隊長の任も受け、技研の活動を半年休止しました。半年も技研活動を休むと、技研研修会に行ったときに仲間に追いつけなくて愕然としました。技研をやめて職場の仕事に専念するしかないかと思い始めた矢先、技研の3本の指に入ると言われる先生から紹介を受け転職を決意します。30歳の時でした。しかし、いずれ独立しようと思っていた成瀬さんは「独立する夢があるから、3年契約でお願いします」と約束し、埼玉の警備会社に転職しました。

 しかし、その後会社は不況のあおりを受け、100名あまりの警備員の給与を下げることになり、3年を待たずに退職。氷見に帰って独立しようと決意し、32歳で創業。しかし、事務所は実家の廊下、スタッフは自分一人というとても厳しい状況でのスタートでした。経営が上手くいかず、生活費を稼ぐため公衆トイレの清掃もやりました。当然技研活動も休止せざるを得ませんでしたが、時折入る技研の同志からの励ましが、何よりの心の拠り所なのでした。

 創業して3年たち、なんとか仕事が軌道に乗った成瀬さんは、33歳で氷見商工会議所青年部に入会。地元でも多くの仲間が出来ました。しかし、そんな時に、技研委嘱解除の封書が届き、間に合わなかったかと愕然としました。落ち込んでいる成瀬さんのところに、以前いろいろ励ましてくれた技研の元常務から手紙が届きました。そこには「我々は誰のために何をするのか、人の喜びあることをやることのやりがい。自分を試すこと、それが一番大事。そのためには魂を磨きなさい」そう書かれてありました。それを読んで、心が震えた成瀬さん。以後、その言葉は人生の道標となったのでした。

その後、40歳のとき会社は不況のあおりをうけて合併します。つらい決断でしたが、やむを得ませんでした。そして、その翌年には、富山県商工会議所青年部連合会第31代会長に就任し、会員1000名のトップに立ったのです。その年のスローガンは「物語創造~ストーリーがあれば人は集まる~」でした。

 会社の方は合併8年で経営方針が食い違い、合併を解消。
こうして成瀬さんは株式会社リアルセキュリティを正式に立ち上げたのでした。そして、全国警備業協会にも返り咲き、全国各地で経営者研修会を担当しました。そこで、一番の問題になったのは、人材確保と人材の定着でした。これは警備会社だけの問題ではなく、社会問題だ、と感じた成瀬さんは、何か自分にできることはないかと模索を始めます。警備と講師の仕事は両輪だから、今までの経験を活かして、求職者の仕事に対する不安や困惑を取り除き、希望を大きく膨らませるような教育をやるのが僕の使命なんじゃないか、そう感じ始めたのです。「最後は覚悟!」そう思った成瀬さん「五十にして天命を知る」ということわざがあったな、の自分の集大成として警備のしごと塾を開こう!そう決意しました。いやいや、警備だけでなく、いろいろなプロの人たちがいるのだから、その人たちが集う○○○のしごと塾ネットワークにすればもっと面白いではないか。そうして、どんどん夢は膨らみ、とうとう成瀬さんは氷見ドリプラで自分の夢をプレゼンしたのです。
成瀬さんのプレゼンはこちら→https://www.youtube.com/watch?v=eGEWwjnGolg
 
 そうして夢を語ったことでどんどん仲間が集まり、今やしごと塾の仲間は16企業。
警備のしごと塾の他にも、健康、板金、建設、看板、デザイン、接客、エステ、大工…といろいろなしごと塾が集っています。皆さんもぜひ一度、○○○のしごと塾ネットワークのホームページをご覧になってみてください。
○○○のしごと塾ネットワーク

 今も夢に向かっていきいきと走り続ける成瀬さんが楽しいことは、しごと塾の仲間と月1回集まってあれやこれやと話し合っていること(もちろんその後はとっても大事な飲み会ですが)、そして今年から小学校に入学したお子さんの成長を見守ること。

 このまましごと塾を充実させていき、いつかしごと塾の記念講演もやりたいと考えています。そして、大好きだった剣道を再開して、小学生に教えたいというのも夢です。
 人の成長に関わるのは本当に楽しい、と50歳の成瀬さん。その目は今でも少年のように茶目っ気たっぷりで、キラキラしていました。
今日の人163.武内孝憲さん [2017年01月15日(Sun)]
 今日の人は、1848年創業の呉服専門店牛島屋の専務取締役であり、ハレの日を演出している株式会社ハミングバード代表取締役社長であり、中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営を手掛ける武内孝憲さんです。
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 武内さんは由緒ある牛島屋の家に生まれ、物心ついた時から牛島屋のある中央通り商店街はいつもそこにある場所でした。

 家は商売で忙しかったので、母方の実家に預けられることも多く、よく絵本を読んでもらっていたし、朗読劇のカセットテープを流しながら寝かしつけられてもいました。そのおかげか、小さい頃から本を読むのは大好きだったし、勝手にストーリーを考えて空想したり、朗読を聞いたりすることが今も好きです。

幼稚園の頃はまだモジモジしている男の子でした。小学校に入ってサッカーを始めると、目立ちたがり屋の面がムクムクと顔を出し、積極的に声を出し自分の意見を言う子に変わっていきました。富山大学附属小学校に通っていたのですが、先生にも恵まれ人間性を尊重し向き合ってもらえたことや、ずっと学級委員や指揮者の任に当たらせてもらえたことで、責任感も培われたとのこと。

街中が通学路だったので、乗り継ぎの時間は中央通り商店街でお店に寄るのが日常でした。その頃、おじいさまは近所の骨董品屋や家具屋に井戸端会議をしに出入りしていらしたので、そこに寄っておやつをいただくのが日課でした。その時代の中央通りといえば、総曲輪と並んで富山でいちばん華やかな商店街でしたから、私たちにとって総曲輪や中央通りに遊びに行くのは、特別な日で前の日からワクワクしたものです。みんなにとって特別なそんな場所が武内さんにとっては日常の場所なのでした。

中学校も富山大学附属中学へ。サッカー部に入って活躍します。部活帰りに寄るのも、やっぱり中央通り商店街。本屋のバックヤードも武内さんの居場所になっていて、そこで本を読むのも大好きな時間でした。焼き鳥屋で焼き鳥を2、3本買って部活後のお腹を満たしていたものです。(部活帰りにお肉屋さんのコロッケを食べるというのはよく聞きますが、中学生で焼き鳥は初めて聞きました!)
この頃は、学校の先生になりたいと考えていました。生徒に囲まれて、ひとつのコミュニティを作り上げていくそんな仕事がとても魅力的だと思ったのです。附属中学校には教育実習生もたくさん来ていたので、彼らの姿も刺激になりました。もっとも、実習生をからかっていたのも事実ですが・・・。

高校は富山県内屈指の進学校、富山中部高校へ。ここでも迷うことなくサッカー部でした。高校時代も遊びの場は中央通りでした。この頃はDCブランド全盛期だったのですが、DCブランドのお店やレコード店がいつも行く場所でした。街中で映画を見て、喫茶店でお茶をして、そんなデートも日常の中にありました。でも、その頃友だちから「進路決めるの、悩まなくてもいいからいいよね」と言われるのがイヤでした。他のチャンスを最初から消去されている気がして、釈然としなかったのです。

中学校でも高校でも応援団長や団長だった武内さん。応援団長や団長と言えば、運動会の花形です。さぞかし、充実した時間だったにちがいありません。けれど、サッカー部の最後の大会では、序盤に骨折して不完全燃焼に終わります。そのまま終わるのがイヤで、他の3年生は夏には引退するにも関わらず、卒業ギリギリまでサッカーをやっていた武内さん。その年は志望校に合格は叶わず一浪することにして、予備校に進みました。横浜にある予備校の寮に住み、志を同じくする友人たちと合宿状態だった1年間。この1年の経験はとても貴重でした。

大学は法学部を目指します。人と関わる仕事がしたかったし、先生と呼ばれる仕事がしたいという思いは昔から変わっていませんでした。しかし、一浪後に進んだ大学は、武内さんの志望校ではありませんでした。本当に行きたいところに行けない、そんな挫折感でいっぱいでした。ですから斜に構えて大学に通っていました。ただ、単位は大学3年までに全部取ってしまうことを自分に課していたので、大学をサボったりするようなことはありませんでした。そうして3年までに全ての単位を取り終えたのでした。
サッカーサークルの友だちに薦められて、自由が丘にあったスポーツバーでバイトもしていました。そこは、Jリーグの前身になる社会人チームの人たちがたくさん来ていて、そんな人たちと会話できることがとても楽しかった。

そんな武内さん、実は大学3年の2月に学生結婚をします。その頃の武内さんは、もう家業を継ごうという決意が固まっていました。いろいろな仕事があるけれど、家業を継げるということを「これは自分にとってのチャンスに変えるべきだ」、そんな思いが固まっていたのです。それで何で結婚かというと、創業1848年の牛島屋は歴史ある商家らしく、年回りの相性をとても大切にしていたのです。そこで、ふたりにとってこの年がふさわしいということになって、当時付き合っていた彼女(実は幼なじみで、昔は姉弟みたいな感じでした。しかし、浪人時代に距離を取ったことで、お互いの居心地のよさを感じていました。そうして、付き合って1年半たっていました)と式を挙げたのです。

大学を卒業したら、大阪に修行に行くことが決まっていた武内さんは、大学4年の1年間は広告代理店の営業として働きました。単位は全部取っていたので、正社員として1年働いたのです。奥さんは、着物の勉強をしなければならなかったので、着物の専門学校に通いながらの2人の生活のスタートでした。そして1年後、武内さんの卒業を待って、2人そろって大阪へ引っ越しました。大阪では、営業を通していろいろな人と関わる楽しさも知ることができました。

こうして大阪で何年か修業を積み、牛島屋が創業150年を迎える1年前に、富山へ戻ったのです。そして富山に帰る年に長男も生まれました。
大阪で経験も実績も積んできた武内さんは、張り切って仕事に取組み始めました。けれど、これまでとは全然勝手がちがいました。確かに、大阪と富山では仕事の環境も全然ちがうのですが、こんなにまで勝手がちがうとは…。しかし、もちろんちがうからと言って、手をこまねいているわけにはいきません。

牛島屋は創業150年を迎えた後、大泉に大きなビルを建てました。しかし、起工式の前日、幼い頃から一番の理解者であった祖父が亡くなります。おじいさんが商店街の世話をずっとしていたのを見てきた武内さんは、そうすることを当たり前と感じていました。ですから、早速商店街の活動をスタートさせました。中央通りでパリ祭なるイベントを開催しました。屋台、大道芸、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、街も活気にあふれました。その頃、バブルはもう終わっていたのですが、まだ商店街にも活気がある時代だったのです。しかし、徐々に商店街から人の波が消え、シャッターを閉めるお店も多くなってしまいました。駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに買い物にいく流れが商店街にも否応なく影を落としました。けれど、なんとかまた街の中心の商店街に活気を取り戻したい。そのためには、まず商店街が力を合わせなければ。そう思った武内さんは、笑店街ネットワークなるものも立ち上げて、それまでほとんど交流のなかった商店街の横のつながりを生み出しました。そこで情報交換も生まれ仲間作りの起点になりました。笑店街ネットワークは6年間続けてその役割を果たしたと考え、今は休止しています。

牛島屋の仕事に加え、まちづくりの活動を中心的に担ってきた武内さんは、こうして商店街にとってなくてはならない存在になっていきました。

そして、昨年2016年9月からは新たな取り組みとしてまちなか活用プロジェクト「マチノス」をオープンさせました。マチノスは中央通り商店街の牛島屋の2~4階をシェアスペースとして貸し出し、すでに様々なプロジェクトが動き始めています。一例をあげると、Liveとお茶会やワインの会、いろんな講座に、単発のワークショップ等々、素敵なイベントが満載。もちろんそれだけではなく、まちの成り立ちや歴史、伝統を見直し、まちなか本来の賑わいを取り戻しながら、市民の交流や学びの場を提供するプロジェクトというのが「マチノス」のコンセプト。

武内さんはおっしゃいます。これまで通りの商店街をやっていては、商店街に未来はない。商店街の価値観を変えていく時が来ている。人のコミュニティの在り方として、もっとできることがあるはずだ。そして、少しずつだけど、化学反応が起き始めていると。

そして、自分なりのコミュニティを生み出していくことは、商売以前に自分のライフワークとしてとらえるようになったのです。ハミングバードという会社をやり始めて、武内さんはたくさんの作り手、可能性を持った人たちとつながりを持つことができました。そういう人たちとのプロモーションを通じて広がりを生み出せることを実感したのです。一人一人で個別に何かをやっているより、うんと可能性が生まれる。コミュニティが生まれる。そして、可能性を導き出して、知らない人同士をつなげることができるコネクターとしての自分を武内さんはとても嬉しく感じるのでした。

そんな風にいつも忙しくしている武内さんのリラックスできる場は、やっぱり大好きな本屋なのでした。でも、それだけではなく、人に会っている時間も実はとてもリラックスできる時間です。武内さんは人に興味があって、誰かの話を聴いている時間もとても好きなのです。人に会うことが趣味と言ってもいいかもしれません。それが仕事に生かされる部分もあります。もちろん、最初から仕事に生かそうと思いながら話しているわけではありません。ひたすらその人に興味があるからです。だからこそみんな胸襟を開いて武内さんと話してくれるのでしょうね。一人でいるのはちっとも苦じゃないけれど、一人でいると結果的に動いてしまう武内さんなのでした。

これからの世の中はAIにとって代わられる部分もたくさんあるでしょう。でも、そんな世の中だからこそ、人の力が必要なことは何なのか、そしてこれからどんな世の中になっていくのか、変わっていくことにすごく興味があります。とにかく知的好奇心が旺盛で、いくつになっても少年のようにやりたい!知りたい!がたくさんあるのでした。

そんな武内さん、実は今もサッカーチームにも3つ入っていて、富山市サッカー協会の理事もやっています。こんなに忙しいのにどこにそんな暇があるんだろうと思うのですが、とにかく体を動かすのが好き、いろいろ運営するのが好きでいらっしゃるのです。

最後に武内さんの夢を聞きました。それは、着物や伝統産業をどうやって今のライフスタイルに織り込んでいくかという道を作っていくことです。どんなに生活が変わろうと、やはり着物は日本人にとってなくてはならないもの。今まで培ってきた文化的な深さを伝えていきたい。自分が動くことでこれまでも、そしてこれからも新しい形が見えてくると武内さんは確信しています。着物文化、日本の伝統文化が根付く場作りを新しい形でやっていきたい。そして場作りは、武内さんのやっている、ハミングバードにも、マチノスにもすべてに通じることなのです。

人懐っこくてとても素敵な笑顔の武内さん、きっとこれからもたくさんの人をつなげて新たな商店街を創りだしていかれることでしょう。

みなさんも次の休日は、商店街に足を運んでみませんか?きっとそこでは懐かしい、けれど新しい、そんな発見がいくつもできると思うから。
 

今日の人162.長崎悦子さん [2016年12月10日(Sat)]
 今日の人は会計に困ってる個人事業主や中小企業向けの会計セミナーを開催したり、うつ病・発達障害当事者おしゃべり会を定期的に開催している長崎悦子さんです。
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『糸あわせ(しあわせ)』というホームページも開設していらっしゃるので、ぜひお読みください。
http://nagasakietsuko.com/
 
 長崎さん、愛称えっちゃんは富山県のいちばん東に位置する朝日町で生まれ育ちました。
家は自営業だったので、小さい時からいつもお客さんが出入りしていましたが、どう挨拶していいかわからなくていつも黙って何もしゃべらない子でした。年子のお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんの後をついて歩くか、それ以外の時は1人でぼーっとしている時間が多くありました。絵本は好きでいつも読んでいました。

 小さい時からえっちゃんには不思議な感覚がありました。みんなは遊んでいるけれど、自分だけ透明な丸い入れ物に入っていて、そこはみんなとは遮断された世界。そこにいるとえっちゃんは落ち着くのでした。だから、みんなと交わらなくても殊更寂しいという思いを抱くことはありませんでした。むしろ一人が落ち着いて好きだった。
 実はえっちゃんのお父さんはお酒に酔うとひどく暴力をふるう人でした。それは幼いえっちゃんにも容赦なく向けられました。だから、えっちゃんは暴力のある毎日が日常だったのです。その透明なバリアは、そんな怖い思いからもえっちゃんを救ってくれていて、いつの間にか、その怖いという思いすらも覆い隠してしまったのかもしれません。

 保育園の頃は、周りはみんな夢中でピンクレディを踊っていましたが、中には入りませんでした。小学校に入って、みんなに遊ぼうと誘われても、その輪に入ろうとはしなかったえっちゃん。担任の先生に「なぜ中に入らないの?なぜ一緒に遊ばないの?」と理不尽にお説教されていました。当時は(いや、学校では今もその傾向が強いですね)「みんなちがってみんないい」ではなく、「みんな同じでみんないい」と思われていたので、先生も何の疑いもなく、「みんな一緒に遊びなさい」と言っていたのでしょうが、それがえっちゃんには苦痛でなりませんでした。遠足に行っても誰かと一緒にご飯を食べることはなく、いつも一人で食べていました。バスも一緒に座る人がいなかったので一人で座っていると、先生が隣に座ってきて『いやだなぁ。一人にしておいてくれたらいいのに』と思っていたものです。

 また、えっちゃんには『宿題はしていくべきもの』という意識がなかったので、していかないことが多くありました。夏休みの宿題も自由研究は好きでやるけれど、日記を書くのは嫌い。でも、学校の決まりに反抗している気持ちはなく、単にそんな決まりを守るのは苦手だったのです。しかし、そんなことを許してくれるような雰囲気は当時は全くありませんでした。その上、2年生の時に担任になった先生は、超熱血な人で、給食が食べられなかったり、逆上がりができなかったり、絵を描くことができなかったりすると、ことごとく居残りをさせたのです。給食が食べられなくて、1人掃除の時間まで食べさせられていたこともしょっちゅうでした。えっちゃんは五感が鋭くて、特に食感が敏感なので、給食を残さず食べろというのは本当に苦痛でした。肉は噛んでも噛んでも飲み込めなくて、ゴムのようにしか感じられなかった。その先生は結局2,5,6年の担任だったので、えっちゃんはずっと熱血指導に苦しむことになります。えっちゃんは家で怒られることに慣れ過ぎていたせいか、怒られても平気な顔をしていました。これが先生にはとても反抗的だと映ったようです。それでますます怒られるの繰り返し。この時のことがトラウマになっているせいか今も熱血を全面に出してこられると、うっとなってしまうのです。

 そんなえっちゃんが大好きだったのは算数でした。図形は嫌いだったけど、とにかく数字が大好き。そろばんもならっていたので、計算も得意でした。それで、この頃は将来は数学の先生になりたいと思っていたのです。

 中学校に入ると、いろいろな小学校から生徒が来ることもあって、以前より人とおしゃべりするようになりました。部活はソフトテニス部に入ります。しばらくは大丈夫でしたが、そのうちテニス部で仲間外れされるようになりました。えっちゃんは何でもストレートに言ってしまうタイプ。それが他の部員にはカチンと来たようで、仲間外れにされてしまったのです。もちろんイヤだったけど、部活は休んでも学校は休みませんでした。その頃、学校はイヤでも行かなくてはいけないという思いがありました。それで休もうという思いには至らなかったのです。中学校でも忘れ物をよくするし、先生には怒られてばかりで職員室で正座させられたこともありました。それでもやっぱり怒られることに耐性がついているえっちゃんは平気な顔をするので、先生はますます怒ってしまうのでした。怒られているこの子が透明なバリアで必死で自分を守っているのにも気づかずに。

 中学生の頃は漫画を読むのが大好きでした。家にはたくさん漫画の本があって、貸本屋のようにみんな借りに来ていました。お兄ちゃんもいたので、少年漫画もありました。でも、アニメは見なかった。漫画はいろいろ想像できるけど、アニメでは想像できない。えっちゃんは自分の頭の中で想像できるものが好きだったのです。

 この頃、えっちゃんはお母さんから「こんな仕事があるんだよ」と税理士を薦められます。自分でも数字が好きだったし、家は自営だけどお金がないから税理士を頼めない。じゃあ私が税理士になればいい、そう思って将来税理士になると決めたのです。

 こうして泊高校の商業科に進学します。商業科の科目はどれも本当に楽しかった。簿記なんて面白くてたまりませんでした。特に勉強しなくても商業科の科目では常にいい成績を取っていました。

 高校では最初ソフトテニス部に入っていたのですが、途中でやめて先生に誘われた科学同好会へ転部します。ここはメンバーが楽しかった。何より、試合の勝ち負けでピリピリしなくていいのがいちばんありがたかった。えっちゃんは体育の授業が小学生の時から大っ嫌いでした。自分が原因で負けてしまうことが多く、勝ち負けがつくのはとってもイヤでした。だから今でも勝負事は嫌いです。

 税理士になりたかったえっちゃんは税理士コースのある専門学校を目指していましたが、成績がよかったため進路指導で大学に行けと言われます。英語がきらいだから大学に行くのは嫌だ、私は本当に税理士になりたいんだ、そう突っぱねてなんとか思いはわかってもらえました。

 こうして大原簿記専門学校に入学。2か月で日商簿記の1級に受かったえっちゃんは、本校舎とは離れたプレハブの教室でマンツーマンで勉強するという環境になります。何か月かは1人で税理士コースの勉強を、1年の後半からは2人になり、2年生からクラスが4人にはなりましたが、少人数教育に変わりはなく、在学中に税理士を取れというプレッシャーを感じながらの学生生活を送りました。サークル活動などもなく、本当につまらない学生生活でしたが、唯一よかったのは大嫌いな体育がないということでした。
 こうして在学中に税理士試験の科目のうち3科目に合格して卒業しました。

 卒業後は会計事務所に就職しましたが、ここは本当にパワハラがひどい所でした。
「ただいま戻りました」と言うところを「ただいま」と言ってしまっただけで2時間もお説教されたり、ちょっとしたことでもすぐに怒鳴られたりしました。先輩からは、「何をしても怒鳴られるから」と言われましたが、とても耐えられたものじゃないと7か月で辞めました。
 次にスーパーの事務として働きました。悪気はないけど言いたいことを言ってしまうえっちゃんは上司とうまくいきません。仕事はできるので、新しく入った子の教育係をさせられるくらいでしたが、上司との関係が悪化して辞めてしまったのでした。
 その次も別のスーパーで働きました。ここは学生時代にバイトしていたスーパーでした。なにしろレジのスピードが半端なかったえっちゃんは最初にレジを担当しますが、その後、青果部門の担当に。すると、また人間関係が悪化し、手も痛めてまた辞めることに。

 その後、就職したのはまた会計事務所でした。普通4~5年たたないとお客さんをつけてもらえないのですが、一番若くて資格もあるえっちゃんは入ってすぐに制服が支給され、お客さんもつきました。そして所長さんにすごく可愛がられたので、他の女性社員から妬まれてしまいます。お客さんともストレートにぶつかるので、だんだんお客さんとやり取りするのが苦痛になってしまいました。こうしてまた人間関係が悪化。だんだん苦しくなって、パソコンで鬱病のチェックすると「あなたは鬱です」とパソコンに診断されます。けれど、苦しい中でも仕事は続けました。体もおかしくなっていきました。「長崎さんだけ所長の態度がちがう。長崎さんは怒られないでしょ」と言われ、飲み会に行くのも苦痛でした。もう精神的にも限界の状態で体の具合も悪く、仕事を辞めて卵巣嚢腫の手術をしたのです。

 その後もいくつか仕事をしましたが、何をしても被害妄想がひどくなっていきました。いつも悪口を言われている感覚が続き、まわりと一切かかわらない、しゃべらなくなりました。そして全く動けなくなってしまいました。内科に行っても脳の検査をしても異常なし。とうとう鬱と診断されたのです。仕事に出てこいと言われても、行けるわけもありませんでした。全部が怖かった。その時に行っていた会社は、最後の挨拶もせずに終わりました。

 その後はひたすら家の中で過ごしました。もう自分なんか消えてなくなりたい。どうやったら楽に死ねるかを自殺サイトで探してばかりいました。
 けれど、1年たたないうちに文房具屋で働き始めます。えっちゃんは文房具に詳しく、店長とも仲良くやれましたが、どうしても他の女の人と仲良くなれないのです。とにかく女性の団体が一番苦手なえっちゃん。それは今も変わっていません。その文房具屋は一日無断欠勤をした後に辞めてしまいました。すると医者から、「なんで働けないの?」と言われたのです。そう言われるのが苦痛で、医者にも行かなくなりました。しばらくは薬がなくてもOKでした。
 
 その後、一人暮らしをしようと実家から引っ越しして富山の会計事務所で働き始めました。しかし、やはり症状がひどくなって、富山市の医者に行き始めます。最初はよかったのですが、次第に先生と合わなくなっていきます。「周りで何か起きたとき、自分の思い通りにいかないと納得しない」と書かれたえっちゃん。「仕事を休みなさい」との診断書を会社に見せると「会社をやめてくれ」と言われ、この仕事も辞めたのでした。

 こうしてアパートを引き払い、数か月で朝日町の実家に戻ります。その後もいろいろな仕事をしました。経理の仕事をした時は、夢ばかり語って現実を見ない上司にぞっとしたし、また会計事務所で働いた時は、入ってすぐに100人規模のセミナーをその事務所で一番のお局様と一緒に担当させられておかしくなりました。嫌いなカラオケでも無理やり歌わされるような体育会系のノリにもついていけなくて、立ち直れないくらいにダメージを受けました。この時にいちばん死にたいと思い、会計ももう一生できない、そう思っていました。

 その後はしばらく仕事をしていません。やがて、学生時代のアルバイトでお世話になった方が店長をしているスーパーで働き始めました。店長は、鬱病でもWelcomeだよと言ってくれました。チーフも鬱病の本を読んで勉強してくれていました。きっとそのスーパーがなかったら、今も元気にしていないと思うのです。けれど、5時間のパートからフルタイムのパートへと変わった時に、やらなくてはいけないことが増えすぎてパンクしてしまったのでした。

 間をあけずに、今度は黒部の事業所に事務として入りました。この時に、初めて自分が発達障害だということがわかりました。
 それが分かった時、最初はものすごく混乱しました。そうして、次の段階では、何でも発達障害のせいにしている自分がイヤになりました。ただ、そこも吹っ切れると、検査してよかったと思えるようになったのです。

 自分は国語の能力はないと思っていたけれど、言葉を使う理解能力があると言われて、そうだったんだと初めて思いました。実際に、えっちゃんの書く文章はとても読みやすくて、スッと入ってきます。発達障害者支援センターありそでは、自分は努力できないと思っていたけれど、めちゃめちゃ努力していると言われました。できることとできないことがわかったし、頭の回転が速くてパンクするタイプだということもわかりました。こんな風に自分の得手不得手がわかったことはとてもよかったと思いました。

 黒部の事業所でしばらく働いていたえっちゃんは、そこの所長とケンカして「やめてください」と言われてしまいます。この先どうしたらいいんだろうと思って、発達障害者支援センターありそに相談に行くと、ありそと職安の人が本気で怒って動いてくれました。その後は、職業訓練でホームページ制作の技術も身につけました。その後、コンサル会社で働いた後に、障害者枠で仕事をしたりもしました。けれど、事務やシール貼りやパソコン業務などの仕事をしていたら皆の視線が突き刺さるように思いました。なんでこんな雑用ばかりしなくちゃいけないんだろう。障害者枠で働く自分がみじめに思えてなりませんでした。女の人たちが裏で固まっているのも相変わらず苦手でした。その後子宮筋腫で体調がおかしくなり、手術。何か月も家にいる状態が続きました。

 ようやく回復できたのは昨年の12月です。会計で困っている人を手伝う仕事をフリーランスで始めました。確定申告のお手伝いなど、お客さんに合わせるのがとても楽しいと思いました。そうして、会計セミナーも開催するようになっていきました。えっちゃんのお手製のテキストは会計の素人が読んでもとてもわかりやすいと評判です。教え方もとてもうまいのです。得意な会計のことで誰かの役に立てるのは、とてもやりがいのあることでした。
それまでは人と話すことは苦手でした。特に慣れない人と話すのはとても緊張があったのです。でも、会計セミナーを通して、いろいろな人と普通に話せることが増えていきました。そして人と話すことがあまり苦痛ではなくなり、むしろ楽しいと思える時間も増えてきました。

 今はもう一つ楽しいことがあります。それは税理士試験の試験勉強です。今、えっちゃんは再び税理士になろうと挑戦しているのです。努力家の彼女のことだからきっと残りの試験も通るに違いありません。

 また【うつ病・発達障害の当事者おしゃべり会】を月に一回開催するようにもなりました。
告知文に彼女の思いがよく現れているので、ここに掲載します。

「ゆる〜く、うつ病・発達障害の当事者
おしゃべり会をやります。
 
適当にくつろげる居場所です。
 
みんなどうしているんだろう。知りたい。
何でも話せる場所が欲しい。
家に居ずらいから居場所が欲しい。
そんなカンジで気軽に使ってください。
 
しゃべりたくなかったら、
しゃべらなくても大丈夫。
だやかったら寝ていても大丈夫。
  
自分が居やすいように居てください。
 
本当に不安でたまらない時、
人がいるってわかるだけでも、
心が落ち着き、安心していられます。
 
聞いてもらうだけでも、
楽になるコトもあります。
 
気が向いたら、ふら〜っと立ち寄ってください。
途中参加、途中退出も大歓迎です。
事前申し込みは、不要です。」

自分が苦しかったとき、どうしようもなかった時、きっとこんな場があればよかった、
えっちゃんはそんな風に思っているのかな、そう感じます。

  税理士試験に受かって、晴れて税理士になったら、えっちゃんは一軒家を借りたいと思っています。それはこだわりの一軒家で、2階は税理士事務所、1階は当事者会などが開ける集いの場にします。そして、その集いの間は、必ず畳の部屋にします。今も当事者会は畳の部屋でやっています。畳の上だと好きな時に寝転がれるし、なんだかあったかい。
 
  そんな糸あわせ(しあわせ)な一軒家が出来たら、きっと遊びに行かせてね。

  小さい時、えっちゃんを包んでいた透明な丸い入れ物は、もうなくなったでしょうか。いえ、きっとそのバリアがある時もあるけれど、今、えっちゃんはそのバリアから外へと歩きだしています。私も一緒に歩いていけたらいいなと思います。そこはきっと、ダイバーシティが広がる場所だから。
 
今日の人159.久保あきさん [2016年07月14日(Thu)]
 今日の人は東洋学専門スクールHappyLecture Lively(易経勉強会・気学塾・名付け・家相・引越し・ビジネス鑑定)主宰の久保あきさんです。
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 あきさんは昭和53年に富山市で生まれ、3歳まで富山で過ごしました。
幼稚園からは東京に。その幼稚園の給食のカレーライスが大好きでした。(正確にはそのカレーライスの上にのせられていたゆで卵のスライスが大好きだったのですが)
 その幼稚園は、いろいろなことが習える幼稚園で、あきさんは日本舞踊とピアノを習っていました。けれど、小さい頃は引っ込み思案で発表会の時にトライアングルで前に出た時に、自分がどこで弾くのかわからなくなって、そのまま引っ込んでしまう、そんな子でした。でも、幼稚園の先生は大好きで、将来は幼稚園の先生になりたいなぁと思っていたのです。

小学校に入っても、その先生の家に遊びに行くくらい、その先生のことは大好きでした。電車遊びやレンジャーごっこをして遊ぶのが好きという、男の子っぽい一面もありました。もっとも、レンジャーごっこでは、ピンクレンジャーを取り合っていたのですが…。あきさんには弟がいるのですが、弟に髪の毛を引っ張られても怒りもしない温厚な姉でした。しかし、勉強はさっぱりわからず大嫌いでした。わからなくても「わからないから教えて」が言えませんでした。わからないとお母さんに怒られ、怒られるからますます教えてと言えなくなる。そんな繰り返しでした。その頃、お母さんとお父さんは折り合いが悪く、お父さんは2週間に1回くらいしか家に帰ってきませんでした。ですから余計にお母さんのイライラがあきさんに向かってしまったのです。

 やがて、両親は離婚。あきさんと弟さんはお母さんの実家のある富山に戻ってきました。小学校では東京からの転校生というだけで目立ちます。しかも、東京の小学校では大丈夫だったヘアバンドも富山では禁止されていました。ですから、何かと窮屈な思いをしていたのでした。そんなあきさんの救いになったのが、吹奏楽でした。あきさんの小学校のブラスバンドの顧問の先生が、たまたまクラス担任の先生でした。その先生に薦められて、あきさんはブラスバンドに入ったのです。こうしてホルンを吹き始めました。全国大会に行くような小学校で、あきさんは4年生からはレギュラーとして活躍しました。

 しかし、クラスではなかなかなじめませんでした。そこで、5年のクラス替えを機に、今までの標準語ではなく、富山弁で話すことにしました。くだけた感じを出したことで友だちもできました。そうやって出来た友だちが4〜5人で家に遊びに来ました。でも、その時、あきさんの家は散らかっていました。お母さんはあきさんや弟さんを養うために水商売をしていました。夜中遅くに帰ってきて、朝あきさんたちが学校に行くときはいつも寝ていました。それで、家の中は常に散らかっているような状況だったのです。そんな家を見て、遊びに来た子たちは「もう遊びに行けん」と言いました。そこからまた友だちができにくくなりました。体育で2人組を作る時も、なぜか自分だけが余って1人になってしまいます。そんな時でも自分からはなかなか声をかけることができず、つらかった。そんなあきさんを救ってくれたのは、やはり吹奏楽だったのです。なにしろお盆とお正月以外は休みがありませんでした。ですから、練習をしている時は、あまり余計なことを考えずにすんだのです。

 お母さんとおじいさんおばあさんとのケンカもひどいものでした。朝、学校に行くときはお母さんはまだ寝ていたので、朝ごはんはありませんでした。給食であまったパンをもらってきて、校門で食べていました。栄養状態が悪かったせいもあるのでしょうか、100mを走るのに20秒もかかっていました。勉強も出来ず、運動も出来ない。クラスの子からも避けられている。暗くて重い心を子ども時代のあきさんは抱いていたのです。

 あきさんの家の前にはお寺がありました。あきさんはそこの子と仲良くなりました。その子はお寺の子なのですが、ぐれていました。そういう子といると、なぜかホッとしました。
お父さんは1〜2か月に1回会いに来て、一緒にご飯を食べたり、キャンプに行ったりもしました。お父さんにもらったお年玉で、弟さんとお揃いのラジカセを買って重い思いをして持って帰ってきたことを懐かしく思い出します。弟さんとの時間が、あきさんには心穏やかに過ごせる時間でした。

 横浜の友だちとはずっと仲良くしていました。一緒に豊島園に行ったり、友だち家の別荘がある越後湯沢にスキーに行ったりもしました。保母さんになりたいという思いはずっとありましたが、お父さんのお姉さんがやっていたグラフィックデザイナーにもあこがれました。

 しかし、とにかく勉強が嫌いでした。音読させられる時も、漢字が読めません。覚えたり、応用したりすることが苦手でした。あきさんが高学年になった頃は祖父母は埼玉の伯父さんの所に引っ越しました。それで、夜、家には大人がいないので、宿題をしなくても、誰も叱ったりはしなかったのです。

 ただ、さすがにあきさんにもお母さんにも焦燥感があったのでしょう。5,6年の時には家庭教師に来てもらっていました。この時の先生がとてもいい先生で、ニベアのいい匂いがする大学生でした。しかし、2人目の家庭教師が不真面目な大学生で、夏休みにパタっと来なくなってしまったのです。人によってこんなにも対応がちがうということを、小学生のあきさんは学んだのでした。

 ブラスバンドは相変わらず強くて、盛岡や静岡へも行っていました。練習でもとても達成感がありました。でも、パートリーダーの友だちを超えられない、というのが常にありました。けれど、ブラスバンドに支えられたと言ってもいい小学校時代でした。

 中学校でも吹奏楽部に入ります。この時、打楽器を選んだことで一気に芽が出ました。そして、あきさんは上の学年の男子にとにかくモテました。あきさんの姿を見たいがために打楽器パートの前に男子が群がりました。そんなわけで、同学年の女子から反発を買います。その頃、向かいのお寺のうちの子と夜遊びにも出かけるようになっていました。
勉強は相変わらず苦手で、後ろから2番をキープしていました。受験できる高校がなく、吹奏楽の推薦で、マーチングで有名な龍谷富山高校(当時は女子高)の音楽コースへ。

 春休みにはすぐに部活が始まりました。マーチングの強い部だったので、2年生の時にはフランスに2週間遠征したほどでした。しかし、この頃、家ではお母さんの彼氏がDVであきさんたちにも暴力をふるったので、家にはほとんど帰りませんでした。あきさんは、年上の彼の家で泊まっていました。おしゃれにももちろん興味があったので、いろいろな服やファッショングッズも買っていました。実入りのいいコンパニオンのアルバイトをしたりもしました。心の空洞を埋めるために、楽しいことに向かっている気がしました。弟も高1の時にはすでにDJを目指すなど、2人してぐれている感じでした。けれど、お互いに悩みを悩みとしてとらえていなかったのです。夜中に遊びに出ているのですから、危険なこともよくありました。でも、お母さんはあまり怒らない人でした。

 高校卒業後は渋谷にある美容学校に入ろうと受験しましたが、落ちてしまいます。それで働きながら美容師になる道を歩こうと美容院に就職しましたが、わずか3日で仕事を辞めました。そこは2年位働いてようやくシャンプーを任されるような美容院だったので、とてもじゃないけど無理だと思いました。それからは美容院を転々としましたが、どこも長続きはしませんでした。そうして高岡の歓楽街 桐木町で夜のバイトを始めます。それが19歳の時でした。
 その後は、アパレル関係で昼に働きながら、夜は富山市の歓楽街 桜木町に勤めていました。生来の美貌に加えて、話術も巧みなあきさんは、あっという間にお店のナンバー1に上り詰めました。お店にはVIPルームもあって、それこそ富山の政財界の重鎮が集っていました。あきさんはそこで、稼ぎ方、男の選び方、人生の機微、いろいろなものを学んだと言っても過言ではないでしょう。
ある時、あきさんはあるブティックのオーナーから、うちで働かないかと誘われます。こうしてそのブティックで働き始めたのですが、ブティックのオーナーがバーを出した時に、そのお店をあきさんに任されたのです。そのバーで出会ったのが旦那さまでした。旦那様も相当にモテる人でした。モテる男とモテる女が出会って結婚しようというのですから、そりゃあもういろいろあるわけです。

その頃、あきさんは気学に出会っていました。初めて「これは本物だ!」と思えるものに出会えた喜びは大きく、すっかり気学にはまっていきました。気学に叶うものはない、そう感じたあきさんは気学を猛勉強しました。それまで勉強に全く興味が持てなかったのを取り返すように、ひたすら学びました。ビジネス、政治の世界にも気学はなくてはならないものだということが、学べば学ぶほどわかりました。

そしてあきさんが、彼の名前を鑑定したところ、今までお付き合いした誰よりも鑑定結果が良かったことも手伝って、結婚へ踏み切りました。旦那さんは結婚するなら、お店を辞めてというので、お店は辞めました。しかし、実はその時まだ旦那さんはたくさんいた彼女たちとちゃんとは別れていなかったのです。

結婚当初は旦那さんの実家で同居していたあきさん。けれど、日常会話ひとつとっても受け入れられていない感じがして、子どもが生まれて2歳の時に、別居に踏み切ります。そのころ、旦那さんは自分でやっていた店を辞めて夜勤の工場で働き始めるようになっていました。けれど、帰ってきてすぐにパソコンのスイッチをつけてゲームをし始めるのにゲンナリしました。彼女たちと別れられないことも原因になり、旦那さんとも離れて住むことにしたのです。

1年離れて生活し、別れるか、それとも自分が我慢するか…と思っていたところ、旦那さんが泣いて謝ってきました。別居している間、新たに正社員として務めることになり、また一緒に住むようになったのです。
会社勤めになったことで、生活が規則正しくなり、一緒に住めたことが嬉しく感じました。けれど、次第に『家にいるなら手伝ってよ、いろいろやってよ』という求め心が強くなっていきました。そうして、また事あるごとにぶつかって、破局寸前という感じにもなりましたが、その時に心理学の手法を使うようにしました。そうすると、いろいろなことが不思議とうまくまわるようになりました。気学の先生に言われたことを、疑いの心を持たずに「ただやる」ということも徹底しました。そうすることで、心のモヤモヤがなくなり、あきさんが笑顔でいることで、旦那さんも大変穏やかになりました。旦那さんとずっと一緒にいるということを決めたあきさん。一緒に生きようと決めると、何かあっても解決できる方法が先に思い浮かぶようになりました。そして今では3人の子どもたちと旦那さんと一緒に幸せに暮らしています。

あきさんが今いちばんやりたいと思っていることは、たくさん来てくれるお客さん一人一人の思いにちゃんと応えられるようにしたいということです。そのために情報発信していきたいし、自分自身もずっと勉強していきたい。人はいくつからでも変わることができる、それを見事に実践して見せてくれているあきさんなのでした。

そして、今、楽しいと思うのは、ご飯が美味しく出来た時。仕事に没頭しすぎると、ついついご飯のことも忘れてしまうのですが、ご飯がある家庭というのは、愛情に包まれていて幸せだと思うのです。だから、タスクを明日に回してでも、ご飯は作るようにしています。

 あきさんは子どもの頃の自分のような家庭環境にいる子どもたちに声かけできる環境を作りたい。そして、いつからでも人は変われるんだよ、ということを伝えたいと思ってもいます。それは小さい頃に悩んでいた自分自身に一番伝えたいことなのかもしれません。そして、DVなどの負の連鎖を親になる時に断ち切りたい。そのために家庭訪問型で子どもと遊んだり、ご飯を作りにいったりする活動もスタートさせたい、そう思っています。

 気学の方も法人を作って、目の前の人に必要なものをすぐに提供できるようにしていきたいと思っています。とにかくやりたいことが目白押しですが、ひとつひとつ確実に歩みを進めているあきさんなのでした。
 今、いろいろ悩んでいる人がいたら、一度あきさんの話を聴きにいってみてください。きっと新たな扉が開くにちがいありません。
今日の人158.齋藤秀峰さん [2016年06月21日(Tue)]
 今日の人は、I CAN コーチング ミッションコーチであり、一般財団法人ブランド・マネージャー認定協会 認定シニアトレーナーなど、様々にご活躍中の齋藤秀峰さんです。
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 昭和38年生まれの秀さんは富山市で生まれ育ちました。秀さんのお父さんは戦争で満州から戻った後に箪笥職人の修行をしていた人で、その時にお母さんと知り合います。お母さんは家具屋の娘さんでお嬢様でした。けれど、お父さんは事情があって箪笥職人を辞めてサラリーマンになり、家族で社宅に住んでいました。その社宅が、秀さんが2歳の時に、もらい火で全焼。お父さんはサラリーマンを辞め、職人になろうとトタン屋で働きその後独立します。独立直後はお金がなく、一家はベニヤ板一枚で仕切られているような家に住み始めたので、近所からは貧乏人扱いをされていました。秀さんはそんなに惨めな思いをした記憶もないのですが、当時幼稚園でお絵かきがあった時に、画用紙の右上の3センチ角にしか絵を描かなかったそうです。そんなに小さくしか絵を描かないことを心配した幼稚園の先生がお母さんを呼び出しました。しかし、お母さんはそういうことを全く意に介さず、それをギャハハと笑って「うちの子ったらね」と周り中に伝えるような人でした。そういう所がお父さんとは合わなかったのか、2人は顔を合わせるたびにケンカをしていました。

 子どもの頃、秀さんは野球が大好きでした。いつも何人かで集まっては三角ベースをしていました。田んぼや空き地が野球をする場所でした。家の夕食時間は18時で、時間厳守だったので、いつもその時間までは外で遊び、18時には家族そろって晩御飯を食べるのでした。家では家族に加えて、職人さんが2〜3人いつも一緒に食事をしていました。職人さんがいる時はさすがに食事中の夫婦ケンカもなかったので、比較的穏やかな時間が流れていたのでした。

 そうしているうちにお父さんの仕事もうまくまわり始め、小学3年の時にはちゃんとした家を建てました。今度はクーラーもついていました。しかし、幼い時から我慢してきた習慣はなかなか抜けないものです。秀さんは少年野球のクラブチームに入りたかったのですが、親にユニフォームや用具を買ってくれと言うことができませんでした。それでクラブチームに入ることはあきらめたのでした。人に何かを頼むというのは、今でも苦手な秀さんです。

 その頃、父の現場であまったものを使って、自分でものを作るのも好きでした。お金をかけずに遊ぶのがうまい子でした。でも、そんな時に、2歳年上のお姉さんがエレクトーンを買ってもらったのです。お姉さんは未熟児で生まれたので、いつも両親からチヤホヤされているように秀さんは感じました。自分はクラブチームに入りたいと言えないのに…。悔しくて、お姉さんとはことあるごとにケンカばかりしていました。

 そんな我慢ばかりしていた秀さんが変わったのは中1の時でした。中学校では野球部に入りたいけど、クラブチームの子は強いし…という思いもあってか、バトミントン部に入りました。でも、おもしろくなくて、半年で退部。その後興味を持ったのは、音楽でした。オーディオを買ってもらい、ユーミンや井上陽水にはまりました。ギターも買ってもらい、バンドを組んで曲を作っていました。マイクも買ってもらってレコーディングもしていました。服にも興味が出て、自分で服を買ったりもするようになりました。今まで我慢していた分を取り返すように、この頃は何でも買ってもらっていたのでした。ギターを始めたのは、音楽が好きということもありましたが、ずばりモテるためでもありました。秀さんは初恋が幼稚園の時、という結構なおませさんなのです。

 こうしてみんなが受験勉強で忙しい時も、曲を作ったり詩を書いたりしていました。そしてあまり勉強もすることなく高校受験。進学したのは富山南高校。それまでは大学進学について考えたこともなかったので、志望調査票に書き込むことができなかった秀さん。それでも、いつも学年上位の成績だったそうです。そんな秀さんは、周りが受験勉強一色になっているのに、高3の10月まではバンド活動を続け、いろんなコンテストにも出場していました。伊藤俊博さんとも同じコンテストにも出たりしていました。

 数学が得意だったので理系を選択。心理学関係か音楽関係に進みたかった秀さんですが、音楽関係に関連があると思い芝浦工業大学の通信工学科を選びます。1,2年の時は大宮に住みました。秀さんが大学2年の時に、新幹線の大宮駅ができ、街がどんどん変わっていくさまを間のあたりにしたのでした。3年からは芝浦へ。田町の駅で降りると三田地区には慶應大生がいます。歩いていてもパッと見でどちらの大学生かわかったとのこと。通信工学科は140人いて女の子が2人だけという、男ばっかりの学科なのでした。秀さんたちは体力維持同好会というソフトボールサークルを作り、その同好会はなんと学内のソフトボール大会で優勝。名前とそぐわない実力派のサークルでした。
 また今や全国区となった二郎系のラーメンの元祖、「ラーメン二郎」は田町にあり、週に2〜3回通うほどはまった秀さん。あの味を超えるラーメンにはまだ出会えていないとのことです。ボウリングにも週に1度は行っていました。大学生活を満喫していました。

 こうして4年生になって就職活動の時期を迎えたわけですが、この時は売り手市場でした。大手企業にもすんなり入れるような時代だったのです。東京で就職する選択肢もありましたし、あまり人の目を気にせずに過ごすことのできる東京は、秀さんにとってはとても過ごしやすい場所でした。でも、秀さんは富山に戻ることを選びました。心の中に長男だから富山にもどらなくてはいけないという思いを抱えていたのかもしれません。しかし、就職を決めながらも、自分はサラリーマンには向いていないなと感じている部分がありました。それでも何をすればいいかわからなかったので、とりあえずサラリーマンになろうと思ったのです。こうして、富山村田製作所に就職しました。

 まず配属になったのは製造ラインを改良する技術分野でした。2年目になると、大きなテーマをたくさん任されるようになります。
 ある会議の席で、秀さんが報告していた時のことです。「この改善は無理だと思います」と言いました。すると、黒字の神様と言われていた部長が「技術屋が無理だと言うのは無限にある可能性を全部やってから言うもんだ。」とおっしゃったのです。それを聞いてはっとしました。そこからの秀さんは仕事を取り組む姿勢を学んでいったのです。

 製造技術から商品設計、そして商品開発へと。13年の間に秀さんが村田製作所で歩いた道です。就職2年目には社内のバトミントン部で一緒になった女性と結婚しました。
特許もたくさん取りました。常に考える癖がつき、寝て起きた時にひらめいてそれが特許に繋がったこともありました。あきらめずにやってみる。それがすっかり秀さんの中に定着したのです。

 しかし、34歳になった時、ふと、「自分はなぜ会社にいるのだろう?」と思ってしまった秀さん。もともと会社にずっといるつもりはなかったのですから、13年の会社勤めは長すぎるほどでした。それでも、会社員時代は秀さんにとって貴重な時間となったことも間違いないでしょう。

 次に秀さんは立山町でローソンの店舗経営者になりました。田舎にコンビニが出来て、近所の人はびっくり。でもとても喜ばれました。しかし、フランチャイズはアイディアを出しても誰も評価してくれない。秀さんは、ローソンの仕事から離れ、次に始めたのはDTPの仕事でした。車のグラフィックは誰もやりたがらないので、それをやりましたが、これは大はずれ。店舗をたたみ、自宅横の工房に移り、インターネットで集客をせざるを得ない状況。でも、いろいろな方法を取り入れてやっていくうちにどんどん売り上げが伸びるようになりました。

 こうしてマーケティングをし、ウェブの制作に取り組むようになっていった秀さん。当時はまだ富山では少なかったSEO中心のウェブマーケティングと制作を始めました。
 ホームページを作っていく中で思ったのは、ブランドを構築することの大切さ。ブランドを構築することで与えられる価値の大きさは本当に計り知れません。2008年からは、自社でウェディング小物のブランドを立ち上げて実践も開始。そして、基礎からブランドを学びたいと思っていた2010年、秀さんの家は2度目の火事に遭います。今回の火事は秀さんが外で飲んでいる時に起きました。連絡が携帯電話に何度も入っていたのですが、秀さんは電話に出ませんでした。帰ると家は焼け、お父さんが逃げ遅れて救急車で病院に運ばれていました。他の人は「重体ならもうダメだ」と言っていましたが、秀さんだけは、『この親父がくたばるわけがない』と思っていました。そうして秀さんの思った通り、お父さんは奇跡的に危険な状態を乗り越えて、1週間もすると病院を抜け出してこっそりお酒を買いにいっていたほどでした。そんなお父さんは今もお元気でいらっしゃいます。

 そして、ブランド・マネージャー認定協会でブランドについて学び、そこでたくさんの人たちと出会います。この出会いも秀さんにとって大きなものでした。2011年にはブランドトレーナーの資格も得ます。そして同年9月から、コーチングも学び始めたのでした。この年の年末から、秀さんは積極的に外に出るようになっていきました。倫理法人会に参加したり、ドリームプランプレゼンテーションの支援会に参加したり、人にたくさん会うようになりました。人と会ってみないと、課題が見えてこない。秀さんはたくさんの人と出会うことで、自分の中の課題にもぶつかっていきました。いろいろな思いがまだ混沌とあったのです。2012年の夏からはアチーブメントでも学びはじめました。

 いろいろな学びの中で、52歳まではそれ以降の準備期間、そんな風に感じることが多くありました。実際にコズミックダイアリーでは52歳で一度周期が終わり、52歳の誕生日から新たな周期が始まるとのこと。
 そして迎えた52歳。これからの自分は、成長したいと思っている人、夢を追いかけている人を支える、そんなコーチとして生きていきたい、そう強く思いました。秀さんの新たな旅立ちのテーマはズバリ「人」です。本気の人を支援する形を作っていきたい。オリジナルで作っていきたい。今までいろいろなことを身につけてきたのは、全てここに至るための準備期間に過ぎなかったのだ、そんな風に感じています。

 秀さんの夢は独立起業したい人を応援すること。困っている人、つぶれそうな人を見ると放っておけないのです。これまでは、どうやったらうまくいくか、やり方を教えていたけれど、それではダメだと気付きました。クライアント自身が自分たちで考えて自力でつかんでいけるように支えていきたい。やり方を教えた方が改善は早いけれど、5年後10年後を考えたら、自力でできるようにしていくことがすごく大切です。そんな風なクライアントが各都道府県に少なくとも1人ずついて、何か月かかけて各都道府県を泊まり歩きたい、今はそんな日が来るのを楽しみにしています。

 ですから、秀さんが今、楽しいことは、ズバリ仕事!楽しくない仕事はやらない!と決めています。だから仕事が楽しくないわけがないのです。もう一つはお孫さんと遊ぶこと。秀さん、まだまだお若いのですが、もうおじいちゃまなんです。この時ばかりはお孫さんにデレデレになっちゃうんでしょうね。

 山に登ることもとても楽しい時間です。山のきれいな景色を見るのが好きなので、雨が降ってまで登ることはしたくありません。雨が降ったら登らない。晴れたら登る。そんな登山が好きです。

 世界の山にも行ってみたいと思っています。麓の湖にポツンときれいな山小屋があるそんな景色が大好きです。
 いつかそんな山小屋を秀さん自身が持ってみたい。ボーっとしていたら誰かがフラッと山小屋に遊びに来て、いろいろしゃべって帰っていく。最初暗い顔をしていた人も帰る頃には笑顔で帰っていく。そんな素敵な山小屋が誕生する日も、そう遠くはなさそうです。そんな日が来たら、私も秀さんの山小屋にぜひ遊びに行かせてくださいね。
今日の人156.荒井里江さん [2016年01月27日(Wed)]
 今日の人は、フジ創ホーム代表取締役、高岡まちっこプロジェクトの仕掛け人でもある荒井里江さんです。
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 里江さんは1974年井波町で生まれ育ちました。2人姉妹の長女で外遊びの好きなおてんばな女の子でした。といっても学校では人前で話すようなタイプではありませんでした。でも、5年生の時にチェッカーズが好きになり、その歌を歌っている時に友だちから「うまいね」と褒められたことで自信がついて、人前で話すことも苦にならなくなっていきました。男の子に告白されたりしたのも自信につながりました。その頃になりたかったのは、アイドルや女優です。お父さんが「お前社長になれ」と言ったことがあって、深く考えずに社長も夢のひとつにしていました。

 中学1年の時はソフトテニス部に入ったのですが、中2で高岡に引っ越して志貴野中学校に転校してからは演劇部に入りました。演じるのがとても楽しくて、この頃もまだ女優になりたいという気持ちを持っていました。社長が夢というのはすっかり忘れていました。
志貴野中学校はマンモス校で当時1学年に12クラスもあったのですが、中3の時の友だちがすごく仲がよく、仲良し4人組でいつも職員室に入り浸って先生にいろいろ質問していたのをとても懐かしく思い出します。先生もイヤな顔ひとつせずに夜遅くまで付き合ってくれました。

進学したのは小杉高校です。高校では放送部に入りました。2年生の時、朗読部門のコンクールで暗記をして本を持たずに出場したところ「それは朗読ではない」と言われ失格に。とても悔しかったのですが、3年の時はしっかり朗読して、入選したのでした。
部活の時は発声練習と称して高校近くのカラオケボックスに行っていたこともよくありました。それもとても楽しい思い出です。

卒業後は京都の亀岡にあった短大に進学します。経営学部でしたが、友だちや彼氏と遊ぶのに忙しく単位が足りなくなる羽目に。しかし、就職が決まっていたのでゼミの先生が単位が取れるように働きかけてくれて無事に卒業できたのでした。

こうして就職したのが、プロミスの高岡支社でした。けれど、半年で三重に転勤しろと言われ、その時に高岡の人と付き合っていた里江さんは三重行きを断り、わずか半年で会社を辞めてしまったのです。しかし、その頃は就職難の時代でした。なかなか次の仕事が見つかりません。アルバイトをして過ごしていたのですが、友だちが工場でプログラムの仕事をしていて会社に誘ってくれました。こうして放電加工機をプログラムして機械を動かす仕事を始めたのです。

しかし、23歳の時に胸がずっと苦しく感じてそのうちチクチクし出す症状に襲われます。病院に行っても、痛み止めを注射しても治りません。最後に大学病院に行った時に、胸腺が腫れていると言われました。赤ちゃんがしゃっくりを流すためについている場所があり、大人になるにしたがって小さくなるはずなのに、里江さんは逆に大きくなってしまっていたのです。幸い手術をして症状は治まったのでした。

その後、友だちと一緒に遊びにいった中のお1人と付き合いだして25歳で結婚。1月に両親に結婚したいと言った時はまだ早いのではないかと言われましたが、1月末に同居していたおばあちゃんがあと何か月かだと言われ、急いだ方がいいと、4月に結婚。孫の花嫁姿を見届けたおばあちゃんは5月に浄土に往かれたのでした。

それまでは宗教的なことに全く興味がありませんでした。せっかく京都で短大生活を送ったのに、神社仏閣に行ったことも全然ありませんでした。けれど、小さい頃からおばあちゃんがお経をあげて仏壇に手を合わせている時は一緒に手を合わせていました。そして、おばあちゃんが亡くなってからは、毎日仏壇に参るようになっていました。そのうちお経ってどんな意味があるんだろうと思うようになりました。そうしてお経についての本を読んで、お経というのは人生の説教が書いてあるというのを初めて知ったのです。
26歳で出産した里江さんは、25歳から26歳の1年の間に生と死の両方を経験して、生と死について初めて真剣にいろいろ考えたのでした。そうして人生の意味についても考えるようになりました。

里江さんは結婚した時に、モデルハウス代わりに家を建てました。お父さんはその頃もう住宅会社を経営していて、その時売り出していたローコスト住宅を建てたのでした。しかし、子どもが裸足で床の上を歩いているのを見て、冷たそうだと思いました。けれど、小さい子はやはり裸足で歩きたがります。こうして次第に住宅に興味を持つようになっていきました。

出産前まで三協アルミでCADの仕事をしていた里江さんは、育休が明けたあと、会社に戻ろうと思っていました。でもお父さんの会社で経理をしていたお母さんから会社に入ってと言われ、お父さんの会社に入り、経理を手伝うようになりました。しかし、その頃はまだ経理だけだったので、主婦業が中心のような日々でした。

しかし、2人目の子を出産した後、本格的に仕事に取り組むようになっていきました。新潟の夢ハウスに加盟して、そこのモデルハウスを見たときに、なんて気持ちのいい空間なんだと感動したのです。そうして、家の造り、間取り、営業、なんでも教えてもらいながら住宅業界の裏の話もたくさん聞かせてもらいました。でも、一般の人々にとって住宅のことは複雑で本当にわかりにくい。とっても大きな買い物なのに、みんな詳しいことを全然知らない。里江さんはお客さんにできるだけわかりやすく伝えていきたいと思いました。ですから、たくさん勉強しました。

下の子は生後半年で幼稚園に通い始めました。そうやって受けいれてもらったことで里江さんは安心して働くことが出来ました。子どもたちの世話を担ってくれているお母さんにとってもすごく負担が軽くなりました。(里江さんは婿取りだったので実のご両親と同居しています。)年少になった頃はもうボス的存在になっていて、年少から幼稚園に入ってきて登園時においおい泣いている子に「お前ら泣いてもお母さん戻ってこんぞ」と言って面倒をみてあげるような自立心旺盛な子になってくれたのでした。

お父さんは経理、現場、設計、なんでも自由にやらせてくれました。でも本当に危ない時はビシッと言ってくれるのでした。そうやって、いろいろな場に出してくれたおかげで、たくさんのつながりも出来ました。社長さんたちは里江さんにいろいろなことを教えてくれました。里江さんは人の話を聞いて、そこから学ぶのがとても得意でした。人から盗める力というのはとても大切です。もちろんそうやってたくさんの人に教えられて育ててもらえたので、自分も誰かに何か聞かれた時は出し惜しみすることはしません。

そうやってお父さんと一緒に住み心地のいい家を模索してきましたが、35歳の時にドイツに視察したことで家づくりに対する意識がまた大きく変わりました。暑くても冷房がいらない、寒くても暖房がいらない、そんな家を見て、「私もこんな家づくりをしたい!」と強く思うようになりました。そして、400〜500年前の家が残っていて、街にうまく調和している。街の中にはトラムが走っていて、車が排除されている。トラムを走らせる時も高くても再生可能エネルギーを使っていました。ああ、高岡もこんな町にしなくちゃいけないな。気付いた私がやらなくては!これがまちづくりの出発点にもなっています。

 そして里江さんは36歳の時に、会社の注文部門を引き継いで独立。そこから株式会社フジ創ホーム代表取締役として活躍する日々を送っています。住むことで健康になれる、そんな住まい、ドイツで大きな衝撃を受けた時のような、低燃費で住みやすくて健康に良い家を富山で建てたい。お客様にとって大きな買い物なのだから、とことんわかりやすく説明して、心から満足してもらえる家をつくりたい!
社員からは「社長は前しか見ていない」といつも言われますが(もちろんいい意味で)、乗り越えられない壁はないと思っている里江さんなのでした。

 そして、まちづくりにも本格的に動き始めました。まず突破口になればと思って、高岡まちっこプロジェクトを立ち上げました。中心市街地の空き家を活用し、若者の「まちなか居住」を促進するためのまちっこプロジェクトは、富山大学芸術文化学部の学生をはじめ、若手クリエーターの「まちなか」居住を推進することで、高岡のまちが抱えている様々な問題を解決してしまおう!というイカしたプロジェクトです。
そこから生まれたのが、空き家を活用したギャラリーカフェ「メリースマイルカフェ」であり、今実際に大学生が住みまちなかの盛り上げにも一役も二役も買っている「ほんまちの家」でした。
今では、まちっこサポーターになる人が続出。ワークショップをしてたくさんの人の意見を取り入れることで、その町に住んでいる人たちが率先して考えるようになるいい循環が生まれています。そして、大学、企業、行政、そしてもちろんそこに住む町の人、そんないろいろな人が協働してこのプロジェクトに取り組んでいます。

 社長をしてお子さんもいて、更にたくさんのプロジェクトに関わっている里江さんですが、忙しいと思ったことは一度もないと笑顔できっぱり!やっていることは全部、自分のやりたいこと。やらなくちゃ!ではなく、あれもしたい、これもしたい!ああ〜楽しすぎる!な毎日なのです。
 もちろん、いろいろなことを言う人はいます。でも、ねたみやひがみ、そんなマイナスのエネルギーに振り回されないことが大切。なにしろ人生は一回きりなのです。楽しまずに生きるなんてもったいない。自分が正しいと思う道を行けばいい。そして、里江さんは言います。「本当に私は人に恵まれているんです。だからいつも感謝しています。感謝の気持ちで神社にお参りに伺うと、ああ、神様に守られているなって思うんです。」と。ホントにその言葉通りにあたたかなエネルギーに包まれていらっしゃる里江さんなのでした。

 未来の子どもたちが笑って過ごせる高岡にしていきたい。だからとにかくやる。やれば道は拓ける。
 そんな言葉にこちらがたくさんあたたかい気持ちとパワーをいただけた、今回のインタビューでした。
今日の人155.三谷朋子さん [2015年12月24日(Thu)]
今日の人は、和楽グループ ブライダル事業部着付技術担当チーフ三谷朋子さんです。
三谷さんは全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権白無垢花嫁部門(2015年11月24日開催)にて見事準優勝された まさに時の方です。
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三谷さんは1963年富山市で2人姉妹の妹として生まれました。小さい時は、2歳違いのお姉さんや友達と一緒に、外でドッジボールやゴム跳びをしたり、家の中でリカちゃん人形の着せ替えをして遊んだりしていました。また、家が自転車屋で自転車を入れる大きな段ボールがあったので、それで段ボールハウスを作って遊んでいたりもしました。
商売をしている親を見て育ったので、小学生の頃は将来はサービス業がいいなぁと漠然と考えていました。

中学に入るとバレーボール部に所属。もっとも、そこまでまじめな部員ではなかったので、時々さぼってもいました。巨人がとっても好きな女の子で、ジャイアンツの試合が来ると球場まで足を運んだり、泊まっている旅館まで選手を見に行ったりしていました。時に好きだったのは河埜や土井といった渋めの選手でした。

反抗期も少しはありましたが、特別将来こうなりたいというものもなかったので、高校は事務科に進みます。友だちの家や喫茶店でおしゃべりをするのが楽しい高校時代でした。英文タイプ部に入ったのですが、みんなやっているからやろうかなぁという程度でした。漫画は好きで、当時流行っていた「はいからさんが通る」や「エースを狙え!」を真剣に読んでいたものです。

高校を出ると短大の情報処理学科に進みました。その頃はコンピューターが出始めたばかりの時代で、今では考えられないくらいの大きなコンピューターを使っていました。短大の時はテニス部に入ってテニスに打ち込み、バイトもしていたので、とても充実していた学生時代だったのです。

短大卒業後は事務職のOLとして働き始めました。OL時代に友だちと茶道を習い始め、着物を着る機会が増えました。それで着付けも習い始めたところ、着付けの方が好きになり、着付けをずっと習い続けました。そしてとうとう着付けの師範の免状も取り着付けを教えるまでになりました。

短大卒業後もテニスは好きでずっと続けていたのですが、テニスで出会った人と結婚。結婚後も一年はOLを続けていたのですが、その後はOLを辞めて着付けの先生だけでのんびりと過ごすことにしました。

しかし、着付けだけで食べていくのは難しいな、なんかやれることないかな、と思っていた時にたまたま和楽の求人広告が目に入ったのです。なにか惹かれるものを感じた三谷さんは、31歳で和楽に入社。接客の仕事をやっていたのですが、1年後「着付けの人が足りないからやらない?着付けできるのよね」と声をかけられ、卒業式の着付けを手伝うことになったのです。着付けを教えていたとはいえ、ハレの日のとびきりの着付けです。最初のうちはあまりうまいとは言えませんでしたが、だんだん上手になりました。そして、やはり着付けの仕事はとても楽しかったのです。お客さんの特別な日のお仕度を手伝えるのがすごく楽しくてやりがいも感じました。そうして数年過ぎた頃には、息子さんも誕生しました。旦那さんは育児も家事も手伝ってくれるイクメン、カジダンでした。幼い頃から積極的に育児にかかわってこられたこともあってか高1になった今も息子さんはお父さんと大の仲良しです。

三谷さんは息子さんが生まれてますます仕事にも真剣に取り組むようになりました。三谷さんがいらっしゃる店舗は『貸衣裳の和楽』なのですが、お客さんに「ネイルはしてもらえないのですか?」と言われた時に、これからはネイルも絶対に必要と、いちはやく店舗にネイルコーナーを作ったりもしました。なんとなく入った美容の世界だけど、この仕事は自分に向いている。この世界に来て本当によかった!そう感じていた矢先、三谷さんを大きな衝撃が襲います。

それは甲状腺がんという病でした。本当にショックでした。自分はどうなってしまうのだろう…。けれど、幸いなことに、手術でがんは残らず取れて、三谷さんはすぐに仕事にも復帰できたのです。
この時、三谷さんは思いました。ああ、人っていつこんな病気になるかわからない。自分がいなくなっても、子どもがいつでも一人で生きていけるようにちゃんと自立できる生き方を教えていかないといけない。そして、いつ死ぬかわからないのだから、自分のできることを悔いの残らないようにやりたい、と。

こうして、三谷さんは病気になる前に漠然と考えていた花嫁衣裳の着付けをやりたいという思いを叶えるため、10年程前に通信教育で美容師免許も取得したのです。仕事をしながら免許を取得できたのは和楽の林先生の強い勧めがあったことと、社長はじめお店のみなさんがバックアップしてくれたからでした。

こうして、花嫁衣裳の着付けも本格的にやり始めます。もちろんはじめは失敗もたくさんありました。帯が落ちてきて、謝りに行ったこともあります。もっともっと練習しなければ!花嫁さんにとっては一生に一度の晴れ舞台。衣裳の失敗は許されない。完璧にうまくならないとダメだ!花嫁さんの着付けに関して、三谷さんに一切妥協はありませんでした。周りの誰もが感心するくらいひたすら練習に練習を重ねました。

そして、花嫁さんの一生に一度のステージを最高の舞台にしたいという思いはどんどん高じていきました。そんな三谷さんをさらに前に押し出してくれたのは、それまでもずっと着付を教えてくださっていた林先生でした。先生にもっと外に出て勉強したらいいと勧められ、2〜3か月に一度は上京して、国際文化理容美容専門学校で更に研鑽を積みました。外に出て学ぶことで、三谷さんの技術はよりレベルアップしていきました。
 でも、ただ練習するだけよりもコンクールに出るという目標を持つことで、さらに自分もまたお店もレベルアップできるにちがいない!そう思って、全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権の白無垢花嫁部門に出場することに決めたのです。
 花嫁部門は着付け、メイク、かつらを全て1人でこなさないといけません。三谷さんは自分の腕をさらに磨き、2015年11月24日に開催された大会に臨み、「白無垢打掛花嫁にふさわしい、格調高く気品のある装いであること・モデルに似合っていてトータルでバランスがとれていること・技術者としてのマナーが優れていること」等の審査項目で高い評価を得、見事全国準優勝の栄冠を勝ち取ったのです。

しかし、準優勝した後も三谷さんはあくまでも謙虚です。優勝された方は本当にきれいだった。他の方と全然ちがっていた。自分もそこまでのレベルを目指さなければ、とまだまだ日々修行だとおっしゃいます。

でも、こうやってコンクールに出るためにたくさん練習の時間が取れたのも、家族の協力があったからこそ。ご主人は土日も働いてもいいよ、と言ってくれる本当に優しい方です。いつもご家族への感謝を忘れない三谷さん。いつか息子さんが結婚するときに、お嫁さんの支度を自分がしてあげたいという夢があります。こんなとびっきり素敵なお義母さんに花嫁衣裳の着付けをしてもらえる花嫁さんは本当にお幸せですね。

 三谷さんが今楽しいことは、家族と一緒に家で何気なく話ができる時間。病気を克服された三谷さんだからこそ、何気なく過ごせる時間が何より素敵な時間なのだと実感できるのでしょう。そしてやっぱり、着付けをした花嫁さんが一日最高の笑顔で過ごしてくださることも三谷さんにとっての何よりの喜びなのです。

三谷さんがお勤めの和楽グループでは、今 富山県内の神社挙式や料亭ウエディングなど“和婚”に力を入れていらっしゃいます。白無垢を積極的に推進したり、家族や親戚同士の絆を深めることが出来る神社挙式、料亭ウエディングでたくさんのカップルが誕生しました。
そして今回の三谷さんの受賞を機に、和装の技術をより磨き、“和婚”の良さを発信して推進していかれるそうです。

今、結婚前でこのブログをお読みになった皆さんは本当にラッキーです。三谷さんにお願いすれば きっととびきり素敵な和装で 一生に一度の素敵な日を過ごせるにちがいありません。
今日の人154.川口宗治さん [2015年12月20日(Sun)]
今日の人は、全国で初めて相続診断士事務所を立ち上げられ各地で講演や研修に引っ張りだこの相続診断士事務所ライブリッジ代表
川口宗治さんです。
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川口さんは1973年に旧小杉町で生まれました。幼稚園の頃は、ピアノの音を聴くだけでその音を言い当てたので、絶対音感があるねと言われていたものでした。小学校の時の「くもん教室」では、よく富山県で1番に。小学校の時にもう高校数学をやっていたというから驚きです。

小さい頃からスポーツも得意で、特に野球が大好きな野球少年でした。小学校4年生からはスポーツ少年団に入って活躍していました。最初はセンターで、その後はピッチャーをやりました。とにかく自分の選んだことはとことん大事にする、小さい時からそれは変わっていません。連合運動会の時には団長も務めました。

読書も好きで、小学生の時によく読んでいたのは、ズッコケ三人組や江戸川乱歩シリーズ、伝記も好きでした。家にはドラえもんも全巻そろっていて、ドラえもんも好きでした。

 野球は中学校に入っても続けました。そして運動会では応援団長として活躍し、女の子にもモテていました。川口さんは今も女性にモテるので、それはこの頃から変わっていませんね。当時ご両親の期待もとても大きく、それを少し負担に感じることもありました。
そんな川口さんはこの頃、早稲田大学のラグビー部の活躍を見てかっこいいなぁと思い、自分も将来早稲田大学に行ってラグビーがやりたいと中学校の卒業文集に書いていたのでした。

 そして高岡南高校に進学します。当時小杉町の中学生は丸刈りが決まりだったので川口さんも入学当時は坊主頭でした。高岡市の中学生は丸刈りの規則はなかったので、周りはみんなシャレた髪型をしていると感じ、アウェイ感を感じました。田舎者コンプレックスを抱き、必要以上に自分を過小評価していました。野球部を見に行きましたが、入るきっかけが見つかりません。ラグビー部はなんだか怖い人がそろっている気がして、自分を過小評価していた少年にはとても入れる雰囲気には思えませんでした。

そんな中、誘われたのが生徒会執行部でした。そうして誘われるまま、生徒会に入って活動していたのですが、あまり友だちもできませんでした。そんな高校一年の夏に、同じ生徒会執行部の先輩とのお付き合いが始まりました。何しろ高校生くらいだと一歳違うだけですごい差を感じるものですが、川口さんもまた然りでした。朝も他の生徒たちが乗るより早い6時台の電車に待ち合わせて乗っていました。(都会の人にはちょっと想像できないと思いますが、田舎のローカル線では電車が一時間に一本というのもザラにあります。そして、その頃はなぜか電車通学のことをまだ汽車通学と言っていたものです。)
そうして2人で早く学校に行って生徒会室で一緒に過ごしたり、時にはやっぱり今日はサボろうと2人してサボって別の場所で過ごしていたこともありました。

 川口さんのお父さんは息子に大きな期待を寄せていました。川口さんは中学校まで運動でも活躍していましたから、高校で運動部に入らなかったことにとてもショックを受けていました。そういうこともあってか、この頃よく父と息子はぶつかりました。時には殴り合いのけんかになることもあって、お母さんが間に入って止めていたのを覚えています。
今はお父さんと川口さんはとても仲良しで、2人でお酒を酌み交わしながら話すのはとても楽しい時間です。そして一番の理解者もまた親父だと言い切る川口さんはとても嬉しそうなのでした。

 川口さんは高2の時に生徒会長になりました。彼女が卒業して京都の予備校に行くと、一気に友達も増えました。何しろそれまでは、彼女とばかり一緒にいたので、友だちがなかなかできなかったのです。運動会では応援団長(小・中・高とずっと応援団長だったわけです)にもなり、その後の打ち上げで家にたくさんの友だちを呼びました。それまで友だちも作らず彼女とばかりいた息子が、応援団長を務め、たくさんの友だちを連れてきたのでお父さんは大喜びでした。
川口さんたちは打ち上げでお酒も飲みました。しかし、その時の写真を学校で見ていたのを先生に見つかり、停学処分になります。「生徒会長在任中に停学になったのはお前が初めてだ」と先生にあきれられてしまった川口さん。そして、大学に推薦で入るのも絶望的になったのでした。

 さて、大学をどうしようかと思った時に、本も好きだし英語も好きだから人文学部にしようと単純に考えました。家庭教師をしてくれていた人が富大の人文学部の学生でその人がとてもいい人だったというのも人文学部を選んだ理由でした。しかし前期で人文学部を受け、ダメだったので、後期は教育学部小学校教員養成課程を受験。しかし後期も落ちてしまいました。
予備校の入学金を払いに行った日、川口さんは友だちの家に集まって過ごしていました。「まぁ、仕方がないよ。来年、もっといい所に行けばいいさ」友だちも口々にそう言ってくれていましたが、そこに一本の電話がかかってきました。すると、友だちの態度が急に変わり、「お前こんなところにいないでさっさと家に帰れ」とか「今年大学に行って親孝行しろ」とか言うのです。なんで突然こんなことを言うんだろうと思ったら、なんと家の方に教育学部の補欠合格の電話がかかってきていたのを知らせる電話だったのです。

 こうして富山大学教育学部に進学しました。大学ではアメフト部に入ります。そしてこの選択が川口さんの小さい頃の『選んだらとことん』魂を呼び起こしたのです。
 アメフト部は当然体育会ですから、とてもハードです。ミーティングに始まり、練習そしてまたミーティングで振り返り、その後ジムでウエイトトレーニング。毎日5〜6時間はアメフトに費やす毎日でした。しかし、川口さんはこれにはまりました。女の子と遊ぶより100倍楽しい!そう感じました。こうしてどんどんアメフトにのめりこんでいったのです。キャプテンにもなりました。

 教育学部ですから、当然教育実習にも行かなければなりません。しかし、これがアメフトのリーグ戦とかぶっている時期でした。「アメフトのリーグ戦があるから教育実習に行けません」と教官に言った川口さん。すっかり呆れられました。なんと川口さん、教員養成課程は教育実習に行かなければ大学を卒業できないことを知らなかったのです。

 こうして教育実習に行くことになったのですが、行くなら中途半端にやりたくない、100%できることをやろうと思いました。そんな川口先生の授業は子どもたちにもとても人気でしたし、現場はすごく楽しかった。担当の先生からも「川口くん、ぜひ先生になりなさい」と言われましたが、川口さんはあえて先生にならない選択をしました。先生は本当にそれを目指して必死にやっている人がなるべきで、自分はなるべきではない、そんな風に思ったのです。今となってはそんな風には考えないのですが、若くて真っすぐな青年にはそう思えたのでしょう。

 そして就職超氷河期に人材採用育成サポート関連企業に就職。営業企画・研修講師に携わりました。就職してから毎年、川口さんはその会社の新人営業マンのトップ記録を作ります。それはいまだに破られていません。

 大学時代に打ち込んだアメフトは卒業後も続け、半年間は毎週末に大阪にも通いました。関西は伝統的にアメフトが盛んな地域で強いチームも多い。けれど、川口さんは思ったのです。富山よりぬるい!と。もちろん一流の人たちは大変厳しい中でやっていますが、そうじゃない人たちのモチベーションはむしろ富山よりも低いくらいだったのです。高校に入る時、田舎者のコンプレックスがあって自分を過小評価していた。けれど、大阪での体験は川口さんに大きな自信をくれました。鶏口牛後、田舎で志を持ってやっている方がむしろいいのだと。

 こうして川口さんは仕事の傍ら、富山ベアーズの選手としても活躍し、キャプテンを3シーズンやり、富山大学のアメフト部の監督も5年務めました。選んだらとことんやるポリシーはここでも貫かれ、川口さんは今も富山ベアーズでアメフトを続けています。アメフトをずっとやっていたから、人生においてとても大切なことを学べた。だからアメフトの神様に恩返ししたい、そんな気持ちもあります。後輩に大切なことを伝えたい、次の世代に伝えたいという思いは、今やっている相続の仕事の根幹の部分でもあるのです。
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 川口さんは25歳の時に転職を決意しました。仕事がイヤになっての転職ではありません。それまでの仕事もとてもやりがいがありました。けれど、プルデンシャル生命から声をかけてもらい、最初は保険なんて…という思いがありましたが、1人の職業人として尊敬できる人がたくさんおられたし、自分がより成長できると思って転職を決意したのです。

 プルデンシャル生命には新卒の社員はいません。他の企業で実績を上げた人しか転職してこないのです。そして、その年齢は32〜33歳が平均ですから、25歳で声がかかった川口さんは当然一番若い社員でした。しかし、真摯にお客さんと向き合う川口さんの営業成績が上がらないはずがありませんでした。こうして31歳の若さで営業所長に抜擢。チームのメンバーが全員年上ということもあり、苦い思いもたくさんしてきました。でも、その時の経験が、今は大きな財産になっています。

 この期間に川口さんは相続診断士の資格を取得しています。相続において保険金の支払いというのは相続全体の108分の1と言われています。それほど相続というのは多岐に渡って複雑なのです。川口さんは保険金の支払いの時にお客さんに「相続のことは何でも相談してください」と言っていましたが、実際に相談してくるお客さんはほとんどいませんでした。でも、本当は相談したいと思っている人はたくさんいるはずだ。そして、これからの世の中、相続のことをなんでも相談できる人は絶対に必要だ。保険のことなら専門家がたくさんいるけれど、相続に特化した専門家はまだいない…。
 こうして、川口さんは40歳で独立することを決意します。この時も会社の仕事が嫌いで辞めたわけではなく、むしろ好きだったのですが、もっとやりたいことが見つかった以上、もうその道に行くしかありませんでした。川口さんは男の人生は40歳からだと思っていました。40からは自分の思う道を進みたい。だから35歳からの5年間は準備期間と考えて過ごしました。

 そして2013年11月10日に相続診断士事務所を設立。その日は川口さんの40歳の誕生日でもありました。まさに有言実行の男なのです。

 相続診断士事務所を設立してからは、毎日息つく間もないくらいに突っ走ってきました。けれど、自分の思う世の中に向かっていて、どこに行っても求めてもらえると思うと、疲れもどこかに吹っ飛んでしまうのでした。もちろん、全てが順調だったわけではありません。どこの世界でもその道を切り拓くパイオニアには大きな試練があるでしょう。でも、川口さんはその試練も全て今の自分にとって必要不可欠なものと考えました。富山の相続現場から争族(争う家族)をなくしたい。その熱い思いが、今日も川口さんを走らせています。

 実は相続診断士は全国に2万人います。けれど、ほとんどは生保の社員や不動産会社の社員が肩書きのひとつとして持っているという感じなのです。ですから、相続診断士として独立すると言った時に一番驚いたのは相続診断協会の人でした。それだけでやっていけるのか?けれども川口さんは肩書きの一つではなく、その道のプロとしてやりたいと思いを貫きました。
 そうやって独立して2年余り、今では独立第一号のパイオニアとして全国区で有名な相続診断士になったのです。

 川口さんには息子さんが2人いますが、2人とも人としてリスペクトできるとおっしゃいます。同じく息子が2人いて、いつもため息ばかりついている私には、息子を人としてリスペクトするというその姿勢は本当に素晴らしい!と感嘆のため息が出ます。
2人の息子さんは陸上で素晴らしい記録を持っています。2人とも有言実行で決めたことはとことんやり抜きます。川口さんご自身も『選んだらとことん』の方ですから、思いはしっかり息子さんに受け継がれているのですね。
そこには息子さんと話す時はとにかく否定はせずに彼らの自己肯定感を高めるような接し方をしてきたことも影響しているにちがいありません。
そして息子さんたちが成人した時に、男三人で飲める日がとても楽しみな川口さんなのでした。川口さんはとてもお酒が強いので、そこも受け継がれているとしたら、超パワフルな飲み会になりそうですね。

 そんな川口さん、とにかく毎日忙しいのですが、ストレスはありません。強いて言えば運動できる時間が取れないことがちょっとストレスです。アメフトもまだまだ続けていきたいし、やはりなんといっても体が資本なので、もうちょっと体を鍛える時間を作りたいと今思っています。

 川口さんの夢は、富山県から争う相続をなくすこと。自分はその一助になりたいと思っています。今まで盆や正月に会っていた家族が、相続争いをきっかけに会わなくなってしまう、そんな争族を避けたい。今は資金力をカサに大手の会社もいろいろやっているけれど、地元の人にとっては富山弁で話が聴ける人がやっぱり頼りになります。土地勘があって、富山弁のニュアンスを感じられるのは、富山の自分。だから、これからも富山を大切に、富山の仲間たちと一緒に取り組んでいきます。

 今、相続のことで何か困っている方は、ぜひ川口さんに相談してみてください。どんな些細なことでもきっと親身に相談に乗ってくださいますよ。いろいろなセミナーも開かれています。詳しくはこちらで。
ライブリッジホームページ⇒http://www.libridge-souzoku.jp/

 川口さんはこれからもきっと爽やかに、富山の相続現場でタッチダウンを決めていくことでしょう。インタビューしたのは冬だけど、とっても熱いエネルギーを感じた時間になりました。
今日の人153.新石友美さん [2015年12月05日(Sat)]
 今日の人は富山市婦中町の自宅サロンで「やすらぎサロン ここち鳥」を開いていらっしゃる新石友美さんです。友美さんは、さとう式リンパケアや筋ゆる体操で体のコリをほぐしてくれるだけでなく、スキルリーディングやメンタルセラピーで心のコリもほぐしてくれています。(1月からフォーカシングセラピーも始められる予定だそうです。)
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 友美さんは昭和53年に富山市で2人姉妹の長女として生まれました。おとなしい性格で家の中でぬいぐるみを使っておままごと遊びをしているのが好きな子でした。でも、ただおとなしかったわけではなく、幼なじみの3人グループでケンカをしても、自分が悪くないと思ったら、向こうが謝ってくるまで絶対に謝らないという頑固さがありました。

 幼稚園から小学校にかけて運動が苦手でした。体も強くなかったので朝礼で倒れることもよくありました。それでも、帰り道で柿やグミを取って食べたり、栗を拾ったり、ゴム飛びやかくれんぼをしたり、一通りの外遊びもやっていました。特に将来の夢はなかったのですが、書かなきゃいけないので仕方なく書いていたのが「幼稚園の先生」でした。幼稚園バスに乗りたいというのがその理由でした。

 そんな友美さんを突然の不幸が襲います。小学校3年生で大好きだったお父さんが亡くなったのです。友美さんのお父さんは白血病の寛解期でした。数値上では白血病細胞はほぼ消滅した状態でした。もうこれで大丈夫、そう思っていた矢先のことでした。お父さんは整体院に行って、整体師の施術によって下半身不随になってしまったのです。施術中に強烈な痛みを覚えたお父さんは「救急車を呼んでくれ!」と絶叫したそうです。それなのに、そのまま放っておかれ、次の日病院に行くと、「なぜこんなになるまで来なかったんだ!」と言われたそうです。そうして下半身不随で病院に入院中、これまた突然、脳卒中にて手術になったのですが、手術が終わって戻ってきたら、意識も戻らずその日のうちに亡くなってしまったのです。

 本当に突然のことでした。そして当時友美さんには一切お父さんの死因のことは知らされませんでした。後日、家族はその整体師を訴える裁判を起こすのですが、その裁判資料をこっそり見て、なんとなく子どもながらに事の次第を知ったのです。でもそこに書いてあることだけでは、分からないこともたくさんありました。

 大好きなお父さんが突然亡くなった。けれど、友美さんは自分の悲しみを外に出すことができませんでした。妹の前ではお姉ちゃんの私が泣いてはいけない、母や祖母が大変な中で迷惑をかけちゃいけないと、お葬式の時でさえ涙を流すことができなかったのです。

 お父さんは一人っ子でした。ですから同居の祖父母からすれば、一人息子が亡くなったことは大きなショックでした。祖父はもともと祖母に手を上げる人でしたが、それがますます顕著になりました。 しかし祖母は「子どもたちを頼む。子どもたちが結婚、子どもを産むくらいまで生きていてほしい。」と入院中の父から頼まれていたので、死にたいくらいの思いも我慢しました。ただ、祖父が手を上げた時に、決まって祖母は「そんなことしとるから友美が泣いとるよ!」と言っていました。 ただ怖くて泣いていましたし、祖母から言われ泣いている自分を見ると祖父が暴力をやめるため、自分が泣くことで暴力を止めたいという気持ちもありました。
ですから、友美さんは今でも男の人の怒声を聞くと反射的に涙が出てきてしまうのです。

 転んだらすぐ泣いてしまう位だった友美さんが、お父さんのお葬式の時には泣けなくて、すごく冷静に周りを見ていました。家族から言われ、小3で遺影を持って1人で霊柩車の助手席に乗った友美さんは、そこからどこかに自分の感情を置いてきてしまった、そんな感覚がありました。

 そうして、人見知りだったのに班長になったり、変にしっかりしなくっちゃと思っていました。しっかりしなくちゃと思いながら、体が弱いので集会の時には倒れるのです。

 中学に進学すると、もっと健康になりたいとの思いでバスケ部に入りました。練習はきつくずっと補欠でしたが、この3年間で倒れなくなりました。2つ上の女子の先輩が超かっこよくってキュンキュンしながら応援していました。

 14歳の挑戦の時は、保育園の先生をやりました。昔から夢の欄には仕方なく書いていた「幼稚園の先生」でしたが、やってみると、「あ、私この仕事嫌いじゃないな」と思ったのです。

 中学生くらいから、友美さんは天然パーマがひどくなりました。年子の妹は肌の色も白くて髪もサラサラだったので、ますます自分に自信が持てなくなり、とてもおとなしかったのです。

 そして自信のなさに拍車をかけたのがお母さんやおばあさんの言葉でした。お母さんは決して友美さんのことをほめてくれず、逆に友美さんがコンプレックスに思っていることを指差して笑ったりすることがありました。おばあさんもものをはっきり言う人でしたが、友美さんと通じてお母さんに言うようなところがありましたから、友美さんはますます周りに気を遣って言いたいことも言えずに過ごした少女時代だったのです。

 友美さんが美術の時間に書いた絵に「私は心配性」という印象的な絵がありました。美術の先生にも心配性の様子がとてもよく描けているね、と褒められるくらいでしたが、実際友美さんはとても心配性でした。お母さんが旅行に行っても帰ってくるまではずっと心配でした。きっと根底にはお父さんのようにお母さんまで突然いなくなったらどうしようという思いがあったのだと思います。

 高校に進学すると、そこは中学校の仲良しの友達が一人もいない高校でした。誰一人知らず落ち着かない、そんな中で友美さんを救ってくれたのは新しく入った吹奏楽部で出来た友だちでした。友美さんはクラリネット部門に入り、1人では出せないハーモニーを奏でられることに感動を覚えたのでした。

 しかし、高校生活は思った以上に友美さんにとっては過酷なものでした。もともと体が丈夫でないのに、通学がハードだった上に、ここに来て、父の死のことをなぜちゃんと教えてくれないのだろうというモヤモヤが積み重なり、かつ家の中もバラバラでだんだん不安定になっていきました。

 友だちに心のモヤモヤを打ち明けたいと思いましたが、中学生の時に「あなたよりつらい人はいるよ」と言われたことがトラウマになっていて、言いたいけれど言えない、電話をかけても言葉が出ない、ということが続き「キモイ」と言われたりもしました。そんなモヤモヤした思いが積み重なって、友美さんの心は耐えられなくなり、どうしようもなくなって、気が付くと包丁を握っていたのです。死ぬつもりはなかったのですが、とにかくこの苦しさに気付いてほしかった。けれど、包丁を握りしめた友美さんを見てびっくり仰天した母と祖母に、精神科に連れていかれてしまったのです。地べたで泣きわめいて言葉にならなかった友美さん。視野がモノクロになってふわふわしながら歩いていました。学校に行けない時もありましたが、それはちょうど補習期間の間でした。新学期からは学校に行かなければなりません。行きたくなかったけれど、行かなかったらずっと行かなくなるのはわかっていました。それで、無理をしながらも学校にはちゃんと通っていました。

 病院に通いながら通学していた友美さん。病院に通い始めてからずいぶん経ってから、精神科の先生に「何か悩みはあるの?」と聞かれた時に、家族のことで悩んでいることは言えなかったので「学力のことが心配なんです」と本心を隠して言っていました。 すると先生は「何を言ってるんだ。だったら看護師にでもなってみろ。そうしたら、うちで雇ってやるよ。」と強い口調で言いました。友美さんは思いました。そんな風に言われるのは腹が立つ。でも看護師になれば、父の死のこともちゃんとわかるかもしれない。看護学校ならお金もあまりかからないし、家族に負担をかけずに済む。そう思って、看護学校を受けることにしたのです。

 こうして看護学校に進学した友美さん。勉強は思った以上に大変でしたし、あんたには向いていないからやめられと言われたこともありました。けれども友美さんには強い思いがありました。お父さんの最期には寄り添えなかったけれど、亡くなる前の人たちに寄り添っていきたい!時には自信を失いつつも、それが頑張るモチベーションになりました。

 しかし、友美さんはこの間、交通事故に2度遭い、むち打ちで手のしびれや首のしびれがひどすぎて、卒業してすぐに看護師にはならず、1年間フリーターをして過ごしました
 そして1年後、総合病院で看護師として働き始めました。亡くなる前の人々に寄り添った看護がしたい、そう思っていた友美さんでしたが、配属されたのは急性期の病棟でした。あまりに死が多い現場、しかもゆっくり寄り添えるそんな余裕がない現場で友美さんは次第に追い詰められていきました。そんな時、肝炎で入院。これで糸が切れた状態になり、うつっぽくなって、高校の時とは別の精神病院に通うようになりました。

 そんな中、フリーター時代に知り合った人と、結婚。寿退社で最初の病院は2年半でやめました。一人暮らしの経験がなく、いきなりの結婚生活。しかも家を建てたこともあって、次の病院ではハードな勤務を続けました。16時間ぶっ続けで働くこともあったのです。そんな勤務が1年続きました。ここは患者に寄り添った病院じゃない。そんな思いが強くなり、食べられない、寝られない、人に会えない、でも1人でいられない、そんな状態になり、その病院も辞めざるを得なくなりました。

 そうして、再び自らが通院することに。しゃべれない状態だったので、自分の思いをメモに書いて病院に行きました。そこの先生は友美さんの話をちゃんと聞いてくれる人でした。この先生の言うことを信じてみよう。人と会えるようになって、また働けるようになるかもしれない。しかし、それでも突然不安が襲ってきます。そんな不安発作の時に、休みで友人と出かけていた旦那さんに電話をすると、それ以来口をきいてくれなくなりました。そしてお義母さんから、息子を1人にさせてほしいと言われ、別居することになりました。
大事な人に拒絶されるような人間なんだ…。大切な人は私から離れていく …。

 そんな思いを抱えたまま離婚。でも、そこで引っ張り上げてくれたのは、友人のお母さんから紹介してもらった方たちでした。
ちゃんと相手にありがとうを言ってから別れないといけないよと、恨みが残らない形で別れることができたのです。

  離婚して少し経ったくらいの頃に精神科の先生から、「もう病院にこなくていいよ。卒業です。」と言われ、減らしていっていた薬も完全に飲まなくてよくなりました。 友美さんは身体のことも考え、介護施設の日勤の仕事を探し、勤め始め、その仕事にやりがいを感じるようになっていました。その頃、スキルリーディングにも出会いました。自分のことを知りたい。そしてスキルリーディングを学んだら少し楽になったのです。

 実は友美さんが別居している頃に出会った同じくらいの年の女性が、うつがひどい時にクスリを飲んで亡くなってしまったということがありました。その子と自分を分けたものはいったいなんだったんだろう。自分もうつがひどい時は、 どっちの窓から飛び降りようかと思ったりと、衝動的に思うこともありました。でも、私は生きている。

 自分にはまわりに友人がいた。新しい場所へと誘ってくれる人がいた。でも、彼女にはそんな人や場所がなかったのかもしれない。自分の心が許せる場さえあったなら…。

 そこから友美さんは、悩んでいる人が少しでも心のうちを話せる場所を作りたいと思うようになりました。自分自身がうつを何度も繰り返した後にたどり着いた思いでした。

 そこからは看護師の仕事をどんどん減らしていって、心の勉強を始めました。産業カウンセラーの勉強も始めました。そうして離婚して5年後、今の旦那さまに出会います。

 初めて会った人なのに、離婚やうつだったことを話せた人は初めてでした。彼もまたバツイチで、うつの奥さんをずっと支えていた人でした。でも支えきれずに別れたことで、どこか自分を責めている所がありました。まだ友美さんの中には、大事な人から拒絶されるのではないかという思いも残ってはいましたが、それよりも彼のことが気になる気持ちの方が強くなって、自分からお茶に誘いました。彼もまた友美さんと一緒にいる時間に安らぎを感じていました。しかし、2人ともそれ以上先には進めずにいました。

 そんな時、友美さんは友人の薦めもあって「てんつくマン」の合宿に参加します。実はこの合宿、私も参加していたのですが、自分の過去に対峙し、それを許して未来に向かう、ものすごく濃い時間でした。みんなボロボロ号泣だったのですが、友美さんも昔泣けなかった分、余計に大泣きでした。そして、「お父さんの分も幸せになってね」ではなく、「お父さんよりも幸せになってね」と言われたことで、自分の中でつっかえていた何かが流れていく気がしました。

 そうして、その合宿からの帰り道に、今この時じゃないと絶対に後悔する、と、彼に電話をかけたのです。泣きながら思いのたけを話しました。お互いに自分は幸せになってはいけないという思いがあり、身を引こうとそれぞれが思っていたことが分かりました。でも、お互いの心の奥の気持ちに従ってみようと話し合ったのです。そうして、2人は再婚することに決めたのです。

 その後、幸せに暮らしていた友美さんでしたが、体がだるくて仕方がなくて病院を受診したときに、バセドウ病が見つかります。不妊治療をしようとしていた矢先でしたので、本当にショックでした。バセドウ病は甲状腺ホルモンの働きが活発になりすぎて、じっとしていても走っている時のような状態が続き、非常に疲れやすくなったり、不安定になったりします。なんでこんな思いをしなくちゃいけないのかなぁ…。絶望的な気分になったりもしました。けれど、諸富義彦さんの本に出会い、今の症状は今の自分へのメッセージなのだと思うようになりました。脈が速いのは焦らなくてもいいんだよ、と言われている気がしました。

 一生に一度きりの人生。 いつか、と言っていたら、限りある人生どうなるかわからない。今やれることを自分のペースでやっていこう。そう思いました。嵐が好きで時にコンサートに行き、旅行が好きで、自然の中でぼんやりすることが好きで、そんな自分の「好き」を愛おしく感じていきたい。そんな時に、さとう式リンパケアにも出会います。事故等の後遺症もありずっとあちこち痛くて、いろいろ通っていたのですが、近所でリンパマッサージをやっている方の所でさとう式リンパケアのことを知りました。今まで いろいろやってきて、一時的に緩和されてもまた出てくる痛みが、筋ゆるケアをするとすっと楽になりました。ああ、私の探していたのはこれだ!と思って、自分もすぐにさとう式リンパケアのインストラクターの資格を取ります。思い立ったときの友美さんの行動力には本当に脱帽です。自分自身が筋ゆるケアで楽になったので、同じように苦しんでいる方を少しでも楽にしてあげたい!友美さんからはそんな一途な思いを感じます。

 ケアをしていてお客さんの力の抜けた顔を見ているとこちらが幸せな気分になると友美さん。「父が生きていたら私の人生はどうなっていただろう」とずっと思っていたけれど、今はこれはこれでいいや、そんな風に思えるようになったのでした。自然に逆らわずに無理せずに生きていこう。そして自分自身も周りの人も「ここちよい」と思えるそんな時間を過ごしていこう。

 今日も「やすらぎサロン ここち鳥」では、友美さんの優しくほんわり包み込んでくれる笑顔に出会うことができます。皆さんもホッとしたい時、ぜひ友美さんの笑顔に出会ってみてください。
今日の人152.吉谷奈艶子さん [2015年10月30日(Fri)]
 今日の人は、企業研修や子育てコーチングやホワイトボード×コーチング等の講師、そして自立支援家としてあちこちでひっぱりだこの吉谷奈艶子さんです。愛称よっしーなので、ここでもよっしーと書かせていただきます。
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 よっしーは1970年大阪万博開幕の日に高岡市佐加野で生まれました。小さい時は引っ込み思案でいつも誰かの後ろについていくタイプでした。ゴム跳びをしたり、稲刈り後の田んぼの農具の納屋を秘密基地にして遊んだりしていました。タンポポやシロツメクサを摘むのも好きで、とにかく外でばかり遊んでいました。けれど、体は弱かったので、しょっちゅう熱を出して月に一回は医者に通っていたくらいです。
 引っ込み思案ではありましたが、習字、そろばんは自分から習いたいと言いだして習いに行きました。そして一度習い始めると結構長く続くのでした。

 3月生まれのよっしーは親からいつも「知恵遅れ」と言われていました。早生まれで不利だということを言いたかったのかもしれませんが、そう言われて育ったため、自分は頭が悪いものだと思い込んでいました。それで小学校では絶対に手を挙げて発表することはしませんでした。そういうことをするのは頭のいい人がすることで、自分のような子がすることではない、そう思っていたのです。そして実際に勉強も嫌いでした。私は勉強なんかしなくていいんだと思っていました。
 
 小学校の時になりたかったのはピンクレディです。テーブルの上に乗っかってピンクレディになりきって踊っていてテーブルの脚を壊してしまったこともありました。でも、あまりテレビを見させてもらえるうちではなかったので、友だちの話題についていけないこともしばしばありました。お菓子もあまり食べさせてもらえませんでした。でも、これは今から考えるととってもいいことだったように思います。なにしろ当時は、合成着色料だらけのすごい色のお菓子が多かった時代ですから。

 6年になって川原小学校に転校したよっしー。でも転校した当日に友だちができて、すんなり新しい学校に溶け込むことができました。5年の時担任だった先生がなんと転校先に赴任してきたのも安心感を倍増させてくれました。

 そして高岡西部中学校に。中学校ではバレーボール部に入部します。当時高岡西部中のバレー部は外にコートがありました。練習に行くと見せかけて駄菓子屋にサボりに行くような比較的緩い部活でした。

 でも、中学時代のよっしーには誰にも言えなかったイジメられた経験もあります。ある先輩から「目つきが悪い」と別室に呼び出されて、ビンタされたりしたことが何回かありました。言い返すこともできなかったし、それを誰かに言うこともできなかった。とてもつらかったのですが、それでも学校を休もうと思ったことはなかったのです。

 もちろん、イヤなことばかりではありません。当時よっしーには好きな人がいました。3年間で3回同じ人を好きになりました。そうして、3年生の時、思い切って手紙を書いて渡したのです。もしOKだったら廊下の黒板の端っこにYESって書いておいてね、とその手紙には書きました。YESと書いてあるかどうかを見に行くのは勇気がなかったので、友だちに見に行ってもらいました。結果は…OK!みんなで飛び上がって喜びました。その恋は手紙のやりとりだけで終わったのですが、青春の甘い思い出です。

 小学校の時から大和の店員にあこがれがあったこと、近所で好きだったお姉ちゃんが高岡商業に行っていたので、高岡商業に行って大和の店員になるぞとなんとなく思っていたよっしー。当然のように高岡商業高校に進学しました。

 子どもの頃から習っていた書道は高校1年まで続けました。小6から高1までは山田無涯先生に師事。書道はとても好きでした。
 けれど、高岡商業のバレー部は中学時代の部活とは比べものにならないくらいに厳しく、とても書道を続ける余裕はありませんでした。顧問の先生には一日に一回は怒られるといった感じで「人の話は目を見て聞くもんじゃ!」と厳しく言われました。炭酸もアイスもそして恋愛も禁止の部活でした。しかし、そうやって厳しい指導を受ける中で、バレーはこんなに楽しいんだと思うようになりました。けれど回転レシーブの練習のし過ぎで腰椎分離症になり、ドクターストップがかかります。少しでも早く復帰したくて無理をしたら、本来2か月で治るはずが半年もかかってしまいました。それで結局レギュラーにはなれずに悔しい思いをすることになりました。

 中学校までは全く興味の出なかった勉強も好きになり、必死に勉強したら番数が急激に上がって、担任にカンニングしたと勘違いされるほどでした。何かやりだすと止まらなくなるのは昔も今も変わらないようです。

 部活をやめた後はスポーツ用品店でアルバイトを始めました。販売の仕事がすごく面白いと感じました。

そして、夏休み中に学校から推薦されて、就職先が決まります。決まったのは立山アルミでした。第一志望の会社ではなかったのですが、薦められるままに決めたのでした。
3月16日が入社式で配属先が決まるのは4月1日だと言われました。事務職で決まったはずなのに、どんな仕事になるかその時はまだわかりませんでした。入社式の後すぐに会社から国泰寺までランニングで行って、2泊3日の研修が始まりました。帰りはさすがにバスでしたが、迎えに来てもらった時は、熱が出始めて、「事務員になれなかったら辞める!」と口走っていました。

 幸いにして住宅関連の部署に事務員として配置されました。その部署はどんどん大きくなり、最初は30人だった人員が120人にまで増えました。仕事は大変やりがいがあり、男性と対等にやれる現場でした。仕事に対して負けたらダメだという思いのあったよっしーは常に全力でした。

 ある日、関連会社に課長と一緒に打合せに行った時の事、相手側の担当者は開口一番「女か」と言ったのです。聞けば、その会社では女子社員の役割はコピー取りなどの雑用ばかりで責任のある仕事は全く任せてもらえていなかったのです。実は高校の時に第一志望にしていたのはその会社でした。ですが、その時、この会社に行かなくてよかった!と心底思いました。
「女か」と言われた時に「ですから何か?」と言ったよっしー。会社でも女だからと言われたくなくて、いつもケンカしていました。けれど、お客さんのことを常に考えて動いていたので、お客さん受けは本当によかったのです。

 横浜ランドマークタワーの大きな物件も任され、「ようやった」とほめられましたし、後日ランドマークタワーへも招待してもらいました。こうした実績を認められ、東京に転勤して営業をしたらどうだと誘いを受けるほどに。しかし、親に反対されたよっしーは行くことができませんでした。後日、なぜ反対したのかと聞いたとき、本当に行きたいなら反対を押し切ってでも行っただろうと言われ、ああ、自分の意志を通してもよかったんだとようやく思えたのです。

 23歳の時に、当時好きだった人と結婚しますが、一番大きかったのは早く親から離れたいという気持ちでした。けれどよっしー自身も仕事ばかりで帰ってくるのはいつも深夜。家族としては成り立つかもしれないけれど、夫婦としては成り立たない。そう感じたよっしーは26歳の時に離婚。この時生まれて初めて親の反対を押し切って大きな決断をしたのでした。

 離婚直後には胆石で入院。急性膵炎を併発し、3週間入院します。手術の時にちょうど停電になり予備電源で手術するというめったにない体験もしました。

 会社に戻ったよっしーは、営業をさせてくださいと頼みますが、断られます。どうしてもあきらめきれなかったよっしーは、役員が散歩している時間を見計らって一緒に歩き、「どうしてもやりたいんです!」と訴えました。熱意が通じて、ニューオータニの展示場で住宅リフォームの営業として働くことになったのです。
 
 しかし、1年たたないうちに次の結婚が決まります。胆石と急性膵炎で苦しんだよっしーは、今度は子宮内膜症で出血が止まらなくなりました。そうして結婚式の前日に妊娠が発覚したのです。
 自分から頼み込んでもらった仕事だっただけに、1年もたたないうちに結婚になり、本当に申し訳ない気持ちになりました。でも、この仕事は本当に好きでした。あるお客さんがいて、その方のお話を聞くのが大好きだったよっしー。その方は亡くなる直前に「家を直すならあいつの所で直してやってくれ」と言っていらしたそうです。「だからあなたにお願いするわ」と言われた時は本当にこの仕事にやりがいを感じました。
 だから産休中にもカラーコーディネーターやインテリアコーディネーターの資格を取得するなど、積極的に動いていました。けれど、あまりに仕事一辺倒になってしまうので、このままではいけないと感じ、「いったん本社に戻してください」とお願いしたのでした。

 それでもやはり完璧主義は変えられず、仕事も負けられない、子どももいい子に育てたい、だから一切手は抜かず全部手作り、そういう生活が続き、とうとういっぱいいっぱいになってしまったのです。2人目が出来た時、これはもう無理だと思いました。

 そんな時にご主人の実家で一緒に住まないかという話があり、これはいい機会だと思って一緒に住むことにしました。会社に時短を申し出るも断られたため、それまでずっと情熱を傾けてきた仕事を辞めることを決意しました。なんでも適当にやるというのは、よっしーの性格上無理なことでした。

 さりとて、主婦業だけに専念するのもこれまた無理でした。保険代理店をやっている友人に頼まれて、時短の準社員として働き始めました。ある時お客さんから電話応対が素晴らしいとほめられます。「いったいどこで研修を受けられたの?」と聞かれてはたと思いました。そういえば、東京や大阪には研修講師がたくさんいるけど、富山にはちっともいない。いないなら私がやればいい!よっしーはそう思ったのでした。

 そしてたまたま見ていた高校の同窓会のホームページで同級生の飯山晄朗さんの炎のブログを見つけます。見ると、飯山さんはすでに研修講師として大活躍中でした。高校の時はほとんど話したことはなかったけれど、そこは同級生のよしみ、飯山さんに直接「私、研修講師になりたいんだけど」と話しに行ったのです。飯山さんは「まずコーチングの勉強をすべきだよ」とおっしゃいました。そこでコーチングの勉強を始めたよっしーは愕然とします。自分は自分のことを全然しゃべれていない…。どう思う?と聞かれて自分のことを考えていなかった自分に気付きます。相手に合わせることばかり無意識にやっている自分にショックを受けたのです。そして、自分を常に完璧に保とうとしているのと同様に、娘にも完璧を求めていたことに気付いたのです。いつもああしなさい、こうしなさい、と命令ばかりしていて、自分のものさしから外れることをするといつも怒っていました。子どもは支配するもの、そう思っていました。その結果、人の顔色を見てしゃべるような子になっていたのです。

 これではいけない!コーチングを学んでからよっしーは少しずつ子どもとの関わりを変えていきました。しかし、応援したいのに、応援し切れていない自分にジレンマも感じていました。そんな時に出会ったのがナニメンさんこと吉井雅之さんでした。実はこのナニメンさんの講演会を開催したのはダイバーシティとやまだったので、よっしーとナニメンさんの出会いの場を作れたのはとっても嬉しいことです(*’ω’*)
その時のナニメンさんの講演内容はこちら⇒http://diversity-toyama.org/?p=751

 こうして子どもをとことん信じて応援する姿勢に変わったよっしー。よっしーが変わると娘さんも変わっていきました。いや、変わったのではなくて、もともとあったその子のキラキラ光っているところに気付いてやれていなかっただけかもしれません。
 子育てに悩み、辛くて、苦しくて、宗教に救いを求めようかと思ったくらい思い悩んでいたけれど、自分の考え方を変えただけで笑顔になれた。だから、それをたくさんの人に伝えて、みんなを笑顔にしたい。お母さんが笑顔になると子どもも笑顔になる。みんなも笑顔になる。その輪を広げたい。そしてそれが自分の使命だとよっしーは確信しています。
 「信じるから始めよう☆よっしーの子育てコーチング」というブログは子育てに関するヒントがギュッと凝縮されています。ぜひ皆さんも読んでみてください。
ブログはこちら⇒http://ameblo.jp/yossi-smile/

 よっしーの娘さんは2人とも幼い頃からバレエを習っているのですが、つい最近2人一緒に舞台に立つということがありました。ああ、こんな日が来たんだなぁと感慨ひとしおでした。
小さい頃、自分の顔色ばかりうかがっていた娘さんが、今はキラキラした笑顔でいてくれる、それは何より嬉しいことだとよっしーは思っています。そして、そんなよっしーの肩をいつも押してくれる旦那さんやご両親に感謝の気持ちでいっぱいです。

 これからもよっしーは北陸を代表するコーチとしてますます輝いていくでしょう。
11月1日からは〜信じるから始めよう☆子どもの心に効くコーチング〜というメルマガも配信されます。皆さんもぜひ登録されてはいかがでしょうか。きっと子育てに悩んでいるママたちの心が軽くなりますよ。
メルマガの登録はこちらからどうぞ⇒http://ameblo.jp/yossi-smile/

今日の人150.濱田興隆さん [2015年09月23日(Wed)]
 今日の人は夫婦ユニット「ヨーコ&ハマーズ」として各地でコンサートを行いつつ、知的障害者楽団「ラブバンド」を長年指導され、ゴルフもシングルの腕前で教え子もいて、かつご自身が立ち上げられた広告代理店アドプロでも現役でお仕事をなさっていて、何足もの草鞋を履いてご活躍中の濱田興隆さんです。
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 興隆さんは1942年9月に3人兄弟の長男として入善町で生まれました。海が近かったこともあって暑い時は朝から晩まで海で遊んでいました。おかげでいつも真っ黒で夏休み明けの黒んぼ大会で(かつてはそれが学校であったのです)は、いつも一等でした。勉強も出来て生徒会長としても活躍。興隆さんは小さい時から音楽が大好きでした。家には蓄音器があって、2〜3歳の時から自分で蓄音器をならして歌っていました。そしてその歌を家に遊びに来ていたお客さんに歌って聴かせているような子だったのです。歌を聴いた人たちはみな、その歌のうまさにびっくりしていたものでした。

 音楽好きだったこともあって、小学校では器楽クラブに入りました。小学校4年生の時に来られた先生は当時としては珍しく、バイオリンをやっている先生でした。先生は「放課後にバイオリンを教えるから、やりたい人は残りなさい。」とおっしゃいました。この時に手を挙げたのは興隆さんを入れて3人。こうして、放課後バイオリンレッスンが始まりました。バイオリンは大人のバイオリンなので、子どもの手にはとても重いものでした。それで子ども用のものを買ってもらうように先生はおっしゃったのですが、当時は月給が2000〜3000円だったにもかかわらず、バイオリンは10000円もしたのです。それほど贅沢な楽器だったのですが、興隆さんのお父さんは捕鯨船の船長をしていたので家は割合裕福でした。それで興隆さんは念願のバイオリンを手に入れることができたのでした。こうして小学校時代は音楽に明け暮れ、中学校に入ってからそれはますます顕著になっていきました。

 中学校ではブラスバンド部、合唱団、バイオリン部の3つの部を掛け持ちして、音楽が体に染み込んでいく感覚でした。合宿もあって休みなし、まさに体育会系といった感じでした。
いろいろな音楽に触れていく中で自分はバイオリンには合っていないな、と思ったので、次第にブラスバンド部に特化していった興隆さん。クラリネットとサックスは一日も欠かさず練習しました。この頃は今と違って、吹奏楽のコンクールは中学校も高校も関係ありませんでした。ですから、興隆さんたちのブラスバンド部は、吹奏楽の名門の富山商業と張り合っていたのです。コンクールで次勝だった時に富山市の丸の内から総曲輪通りまで花吹雪を受けながら市中パレードをしたのはいい思い出です。

 そんな音楽に打ち込んでいた青春真っ只中の興隆さんに異変が生きたのは中学3年の4月のことでした。ちょうど遠足が予定されていた日の朝、興隆さんが起きるとなぜか足が痛くて地面につけません。ちょうど遠足も中止になったこともあり、近所の接骨院へ。そこで捻挫と言われました。しかし足の痛みはだんだんひどくなり、一週間後の音楽の時間に倒れてしまったのです。外科へと担ぎ込まれた興隆さんは、そこで骨膜炎だと診断され即入院を言い渡されます。入院して治療してもよくなるどころか逆に悪くなっていきました。1回手術をしたいけれど、このままいくと足が切断されてしまう。興隆さんは外科の名医がいると言われていた石川県の病院へ転院。そこでは治療法から何から今までのものとは全くちがっていたのでした。そうして闘病生活で学校に通えないまま6月になってしまいました。学校の先生からは2学期から来れば卒業できると言われていたので、なんとしても早く治したいと思い、手術を早めてくださいとお願いします。ある注射を10本打てたら手術をするがいいかと聞かれ、もちろんいいと答えたのですが、その注射で地獄のような苦しみを味わうことになるのでした。注射の前日はご飯抜き、そして剃毛をされ、足の付け根に極太の動脈注射を打たれました。目隠しをされ、手を縛られ、気絶しそうな痛みに耐えましたが、終わって30分は放心状態です。そこまで痛い注射は後にも先にも初めてでしたし、それを10回も続けるのはとても耐えることが出来ず5回でギブアップしました。そうして、注射を始めて1か月後、夏休みの少し前に手術に踏み切ったのです。その頃はまだ部分麻酔で興隆さんには手術道具が全部見えました。そこには金づちやノミといったものが並べられ、手術の音も全部聞こえる中での手術でした。しまいには麻酔が切れてきたにもかかわらず手術は続けられ、麻酔が切れたまま、興隆さんは傷口を縫われたのでした。術後の痛みにも苦しめられ、あまりに痛さに三日間泣き続けました。鎮痛剤を飲まない方が早く良くなるよと言われた興隆さんは健気にその教えを守ってどんなに痛くても鎮痛剤を飲まずに過ごしたのです。三日経つと泣くほどの痛さからは逃れられましたが、それでも痛いことに変わりはありませんでした。そんな痛みを乗り越えたのにもかかわらず再発の可能性は50%と言われました。夏休みに一応退院できてうちには帰りましたが、無情にも9月半ばに再発。そしてまた入院となりました。これで留年は確定したので、今度は腰を据えて治そうということになりました。12月20日にクリスマスプレゼントをしてあげると言われ、その日がまた手術日になりました。同じような痛さに耐えた後、今回は90%うまくいったので、5年再発しなければ完治だろうと言われました。

 こうしてようやく富山に戻ってきた興隆さん。医者からは走れないし正座も出来ないだろうと言われていました。この頃、興隆さんの家ではお母さんやそのお友達が三味線を習っていました。隣の部屋でその音を聴いていた興隆さん、何しろ音楽の才能は抜群で絶対音感もありますから、その練習の音のずれが気になりました。そしてとうとう自分でも三味線を練習し始めてしまったのです。一度やり始めたら夢中になってしまう興隆さん。三味線は正座してやった方がいい音が出ますから、いつの間にか正座しながら三味線を弾くようになっていたのです。これがとてもいいリハビリになりました。こうして正座できないと言われていた興隆さんは正座ができるようになり、走れるようにもなりました。

 そして高校に進学した興隆さんはやはりブラスバンド部に入部します。バンドも結成して朝から晩まで練習していました。こんなに音楽が好きなのだから音楽の先生にでもさせたらどうかと親戚のおばさんにも言われ、興隆さん自身も音楽大学に進学したいと思っていました。しかし、興隆さんの入院手術は保険が適応されておらず、治療に莫大なお金を使っていたのです。とても音楽大学に進学できるようなお金は残っていなかったのですが、興隆さんはアルバイトしてでも行きたいと思っていました。けれど、そこまで無理の効かない体というのも事実ありました。こうして音楽大学への進学を断念しましたが、お母さんは「大学に行かんでも好きな音楽をやるこっちゃ」と言ってくれました。

 そして卒業後もずっとバンド活動を続けました。「ブルーサウンズ」と名付けたそのバンドはあちこちで引っ張りだこになります。当時青年団活動が活発でダンスパーティがしょっちゅう開催されていました。ゴーゴー、ルンバ、タンゴ、ワルツ、ラテン、ブルース、なんでも演奏できるブルーサウンズは評判を呼び、旅行会社からも指名されました。宇奈月温泉で演奏することもしょちゅうだったのです。
 
 もちろん仕事をしながらのバンド活動でした。仕事は最初車販売の営業マンになり1年でトップ営業マンになりました。その後縁あって自動車学校の先生に。ここでも人気教師となり、指名が来るようになりました。当時自動車学校の先生はスパルタで大変怖い人が多かったのですが、興隆さんは感情で怒ってもますます生徒を萎縮させるだけだと思い、感情的になることは決してしませんでした。それで、興隆さんが乗っている車だけはいつも笑い声が絶えず、生徒たちもすぐに上達していきました。
 その頃、自動車学校の法令の教官は元警察官というのが通例でしたが、興隆さんは校長に自動車学校の改革を提案します。それは法令の教官の採用を試験制度にしたらどうかというものでした。校長も賛成してくれて、公安委員会にかけ合ってくれました。そしてその提案が通り、法令の教官の試験が開始されることになったのです。その試験を興隆さんも受けました。そしてそのために猛勉強をして、なんと興隆さんは全体のトップの成績で合格したのでした。こうして法令の授業も受け持つことになったのですが、笑いあり涙ありの本当に楽しい授業であっという間にこちらでも人気講師になりました。

 28歳の頃、興隆さんは慢性腰痛に苦しめられていました。自動車学校で生徒の運転する車の助手席に座っているのは常に緊張状態が生じています。それで腰が回復することは見込めませんでした。医者に転職を薦められたこともあり、また自身でもコースをくるくる回るだけのそんな毎日に疑問を感じていたので、思い切って転職します。その時に選んだのは家電屋でした。お客さんが喜ぶことを第一に考える興隆さんはまたあっという間に営業のトップになったのでした。家電屋で2年半働く間の30歳の時に、興隆さんはバンド活動を休止しました。グループメンバーに子どもが生まれる等で練習の時間が合わなくなってきたのが主な原因でした。以後20年あまりは音楽は自分の趣味の範囲でやることになりました。

 さて、興隆さんが働いていた家電屋の同じビルには広告代理店も入っていました。最初何をする会社なのだろうと思っていましたが、その会社のデスクを見た時に原稿用紙が置いてありました。これは何を書くのかと聞いたところ、これは放送用紙でラジオのCMを考えているのだという返事でした。それを聞いた興隆さん、ワクワクしてそれから3日間寝られませんでした。これこそ自分の仕事だ、そう思ったのです。
 それからは時々その会社に遊びに行ってはCMの原稿を書いていました。なにしろそれまでもバンドのコンサートで台本を書いた経験もありましたし、結婚式の司会も30組くらいやっていてその台本も書いていたので、原稿を書くのはお手の物だったのです。その原稿を見た社長に「あんたうまいね」と言われた興隆さん。
 興隆さんは思い切って働かせてほしいといいます。しかし、さすがに電気屋と同じビルだったので、社長は「このビルを出て事務所を変わるから、その時に来られ」と言ってくれました。

 こうして広告代理店に入った興隆さんは半年間地元の放送局で研修を受け、その後31歳で富山県のローカル代理店でトップになりました。しかし、興隆さんが実績を挙げれば挙げるほど、足を引っ張る動きも出て来て、いちばん会社に貢献していた興隆さんに対して信じられない仕打ちもあったので、これ以上ここにいても何も生まれないと感じ、その会社を辞めました。

 しかし、広告の仕事は自分の天職だと感じていました。そして1977年10月に自分の会社を設立したのです。「広告は文化なり」それを掲げてのアドプロの設立でした。当時はまだ広告は脇の存在でしたが、興隆さんは美しいもの、ためになるものは決して邪魔者ではないとの考えで広告を打ち立て、それが反響を呼んでどんどん客が増えていきました。
そして興隆さんが手がけたのは広告ばかりではありません。イベントの仕掛け人でもありました。雪のフェスティバルと銘打ったイベントにさっぱり人が集まらなかったときに一番人が集まる食のイベントを提案し、かつ全国の有名店を集めようということでかの全国ラーメン祭りが始まったのです。このイベントはもちろん、他にもあれもこれも興隆さんが手がけたものだったのか!というものがたくさんあって、興隆さんの功績の大きさが半端ないことがわかります。そしてどんなイベントもそれが大事なのではなく、本当に大事なのはその後。そのイベントをどう地域に活かすか、自分の所にどうつなげていくか、イベントはそのためのデータを取ったり反応を見たりする実験場でもあるのだと。興隆さんが手がけたイベントの裏話もとても面白いのですが、これを書くだけで本が書けちゃうくらいなので、このお話はまたのお楽しみに。

しかし、長い年月決して順風満帆だったわけではありません。1億の負債を抱えたこともあります。しかし、なんとかしのぎ切り、社長を交代してアドプロと社員を守ったのです。長距離運転手にでもなろうかなと思ったくらい辛かったこともあるけれど、最初に放送用紙を見た時に受けた雷に打たれたような思いはどんなに苛酷な状況に置かれても変わらなかったのでした。そして73歳になった今も現役で新聞社にも出入りしている興隆さん。自分の取ってきた仕事は自分で最後までやるのがモットーです。

時代を少しさかのぼって、興隆さんが52歳の時のことです。知的障がい者の付き添いボランティアをしていた娘さんから、知的障がい者の人たちがバンドを組むから指導をしてほしいと哀願されます。頼まれた時は絶対無理だから断ろうと思いました。だいたい知的障がいの人たちと接したこともないのに無責任なことを引き受けるわけにはいかない。娘さんが断りにくいならお父さんから断るからと言ってみなさんに集まってもらいました。でもその時、興隆さんは知的障がいの子どもたちから直にお願いしますと頼まれたのです。頭を殴られたような気がしました。気が付いたら「やればいいんでしょ、やれば」と言っている自分がいました。
こうして知的障害者楽団「ラブバンド」の活動が始まりました。やるにあたって注意することを言ってください、と言うと「この子たちは10分はなんとか持つけど、10分以上は持たないんです」と言われました。事実、練習していてちょっと熱が入り、20分も続けてやると倒れだすようなことが起こってしまうのでした。ちょっと練習しては休み、ちょっと練習しては休み、しかも同じところを何回も何回も練習しなければなりません。でも興隆さんは根気強く彼らと向き合い、半年後には曲が1曲通して弾けるようになっていたのです。そして、重度心身障害者親子クリスマス会では2.5曲の演奏ができるようになっていました。その日、2.5曲を2回つまり5曲分を演奏した子どもたち。見に来ていた先生方がいちばん目を丸くされました。この子たちがここまでできるようになるなんて!そして、驚いたことに10分持たないと言われていた子どもたちが30〜40分もつようになっていたのです。

興隆さんは「夢はかならず叶う」「明るく元気に自立しようぜ!」というテーマを掲げました。それまでは知的障がいの子どもたちは何でも親がやってくれていました。けれど、親に頼らないで自分のことを自分でやらないと自立ではない、そう興隆さんは言います。
親はいつも「はやく」と急かしてしまうが、それではダメなのです。時間がかかっても待って本人にやらせて、できた!という自信をつけさせる。待つことがいかに大切か。待って一時辛抱すれば、その後はその方が親も絶対に楽になるのです。そして、興隆さんはご自身のバンドの経験からわかっていました。2〜3曲できるようになると、その後は出来るスピードが上がると。そうして、子どもたちと約束したのです。10曲弾けるようになったらコンサートをやろう、と。

コンサートは学芸会のようにはしたくなかった。どうせならかっこいい本格的なステージを用意したいと思ったのです。そしてそれは広告代理店をやっている興隆さんにはお手の物でした。みなただでやると言ってくれたのですが、いや、ちゃんとお金を払うからと言うと意気に感じてくれて、本当に本格的なステージが仕上がりました。さあ、そんなステージで演奏するのですから、子どもたちも親もみんな大感動です。そしてそのステージの後はみんな意識が変わりました。次の夢を持つ、そして夢を共有化するという意識に変わったのです。みんなで意見を出し合った時に、ディズニーランドで演奏したい!という意見が子どもから上がりました。そして、それが次のみんなの目標になったのです。そして練習ごとにその合言葉を言っていると不思議なもので引き寄せがあったのです。ある時、JCの講演会にディズニーランドの副社長が来られました。ラブバンドはその時のアトラクションで演奏をしました。そのあと、興隆さんは副社長にラブバンドでディズニーランドで演奏したいという夢を訴えたのです。副社長の言葉はこうでした「審査の部門につなぎます。」1か月後に「オーディションビデオを見て審査するので、送ってください。」との連絡が来ました。そしてビデオを送って2か月が過ぎました。結果は合格。なんとラブバンドはディズニーランドで演奏できることになったのです。

ディズニーランドで演奏することになった時に、興隆さんはこれは親離れ子離れのいい機会だと思いました。障害のある子はどうしても親が過保護に接しがちです。それでそれまでは何でも親にやってもらうのが当たり前という状態でした。それで興隆さんは自由行動の時は親から離れることに決めました。もちろん親は心配します。迷子になったらどうするんだ。でも、ディズニーランド内ほど安全な場所はないし、子どもたちにルールをきちんと言う機会でもありました。興隆さんは言いました。「もし迷子になったら掃除をしているキャストを探すんだよ。ディズニーランドはお掃除している人たちがたくさんいるからね。そうして泣かないで自分の名前をちゃんと言うんだよ。」もちろん単独行動ではなく、10人1グループにしてグループ毎に2〜3人のサポーターをつけました。
この自由行動によって子どもたちに大きな変化が生まれました。子どもたちは親から離れるという緊張感があったのでいつものように何でも親任せではなく、自分で必死に注意をしながら歩いたのです。そうして結局1人の迷子も出ませんでした。演奏はもちろんですが、この自由行動も大きな大きな自信になりました。翌日は原宿の竹下通りでも2時間の自由行動を過ごしました。前日のディズニーランドでの自由行動があったので、もう子どもたちは自信を持って自由行動に出かけました。そうしてお目当てのお土産を買いこんで満面の笑顔で帰ってきたのでした。
これを機にラブバンドには出演依頼が殺到し、最初6人だったメンバーは20名を越え、みんなの自信は当初から掲げていた自立へつながっていきました。そして次の目標は海外公演。結成10周年の年に韓国ソウルでの公演を実現させたのです。これらの功績で平成17年には北日本新聞文化功労章を受賞!なんとあの立川志の輔さんと同じ年の受賞でした。この受賞で親御さんたちは「いい子を持って幸せだね」と言われて涙ぐんでいました。それまで引け目を感じていた親御さんたちでしたが、どんどん出ていけばいいというのが興隆さんの考え方でした。だからあえてバンド名に知的障害者楽団と冠しました。これだけできるようになるんだ。堂々としていればいい。そして彼らは親御さんたちにとっても誇りになったのです。そうして15周年にはハワイで演奏し、20周年記念公演も先日目黒雅叙園にて行いました。
200か所での演奏を実現させてきた興隆さん。しかし、ずっと興隆さんにおんぶにだっこでは進歩がない。そう考えた興隆さんはつい先日指導者をバトンタッチしました。きっと新たな指導者の下でいろいろな試行錯誤が生まれるでしょう。でも、それでいいのです。その中からまた新しいラブバンドの形ができていくのですから。

 そんな興隆さんがこれから力を入れていきたいのはヨーコ&ハマーズの活動です。ハマーズは興隆さんのこと。ではヨーコは?実はヨーコさんは2011年に再婚した奥さまでいらっしゃいます。お二人の結婚秘話がこれまたとても素敵なのですが、それはお二人のコンサートでお話になることもありますので、みなさんそちらでぜひお聞きくださいね。
興隆さんは洋子さんの歌の素質を見抜き、彼女をステージに立てるまでに育てられました。そうして、今、夫婦ユニットとして、あちらこちらでステージに立っていらっしゃるのです。専ら興隆さんは電子サックスで洋子さんは歌。お二人のコンサートはいつも大人気で、台湾でのコンサートも企画されているほどです。
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息もぴったりのヨーコ&ハマーズ

 そして興隆さんはゴルフもシングルの腕前でいらっしゃいます。40代まではスキーをしていましたが、50代になった時、ちょうどラブバンドの指導者になった頃にゴルフも始めました。ゴルフクラブの設計家の先生に、アドレス、スタンス、グリップこの3つさえちゃんと守れば100を切ると言われ、事実3〜4年でコンスタントに100を切るようになったのです。今では教え子もいるほどの腕前です。

 73歳、人生まだまだこれからです。広告の仕事、そしてヨーコ&ハマーズを中心とした音楽活動、そしてゴルフ、何足も草鞋を履いても好きなことをやっていれば人間いきいきするものです。夢は思い続ければ必ず叶う、それをずっと体現し続けていきたい。興隆さんはどこまでも熱く、かつクールでカッコいいのでした。常に現場・現物・現実を見る虫の目、時代の流れを見極める魚の目、そして俯瞰して大局を把握する鳥の目、3つの目をしっかり持っていらっしゃる興隆さん。こんな素敵な高齢者が増えていけば、これからの富山の高齢社会はきっと明るいものになるにちがいありません。これからもますますキラキラワクワクでいらしてくださいね。
今日の人149.河除静香さん [2015年08月27日(Thu)]
 今日の人は、今年6月に行われた『「こわれ者の祭典」×「見た目問題」inとやま〜生きづらさだヨ!全員集合』を主催され、大反響を呼んだ河除静香さんです。NHK富山の「ニュース富山人」でも取り上げられ、9月6日(日)朝にはNHK全国版の「おはよう日本」でも取り上げられる予定のまさに時の人です。
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 静香さんは1975年に庄川町で生まれました。生まれて10日間、お母さんは静香さんに会わせてもらえなかったそうです。それは静香さんが「顔面動静脈奇形」という難病で生まれたからでした。おばあさんは若いお母さんにこの子を育てるのは無理だと考え、「私が育てようか」とおっしゃったそうです。でも、お母さんは言いました。「この子は私の子。私が育てます!」

 静香さんは病気のせいで鼻血を出してばかりいました。そしていったん鼻血が出ると止まらなくなることから、保育園に入るのを断られました。けれどお母さんは役場と掛け合い、静香さんの入園を勝ち取ります。けれど、入園したものの、静香さんは保育園に行くのが大嫌いでした。なぜなら顔のことで仲間外れにされていじめられたからです。でも、保育園にあるオルガンが静香さんは大好きでした。それで大人になったらオルガンの先生になりたいと思ったりしていたのでした。

 いじめは小学校に入ってからも続きました。女の子の友だちはたくさんいたのですが、男の子はいつもいじめてくるので、イヤでした。けれど、お母さんは絶対に学校を休ませてくれませんでした。それでどんなに学校に行くのがイヤでも休むことはなかったのです。
 いじめが一番ひどかったのは中学校の時でした。小さな町ですから、小学校のほぼ全員が同じ中学校に入ります。それで男子のいじめはそのまま続き、むしろ中学生になって狡猾になってきたのでした。給食をとられたり、揶揄する言葉が巧妙になってきたりしました。でも、一番ショックだったのは、社会で「基本的人権」について習った時に、「お前に基本的人権はない」と言われた時でした。悔しくて情けなくてたまりませんでしたが、親にも先生にもいじめられていると訴えたことは一度もありませんでした。むしろ明るい自分を見せなきゃいけない、そう思って努めて明るく振舞っていました。何しろ学校は絶対休めない、と思っていたので、一日一日いじめを切り抜けていくしかなかったのです。死にたいと思ったことはありませんでしたが、自分をいじめている人たちが死ねばいいのに、そう思ったことは何度となくありました。

 そんな静香さんが自分を守る方法は、自分をお笑いキャラに仕立てることでした。おちゃらけることで自己防衛していたのです。
その頃静香さんは漫画やアニメが大好きでした。F1レースのアニメの影響でF1レーサーになりたいと思ったり、「地球へ…(テラへ)」が大好きで宇宙から地球が見てみたいと思い、宇宙飛行士になりたいと思ったりしていました。宇宙の写真を見るのも大好きでした。

高校に進学すると、いじめていた男子たちとはすっかり離れてしまったこともあり、いじめはパタッとなくなりました。けれど、あまりに知らない子だらけの高校だったので、1年生の時は友だちが全然作れませんでした。自分の見た目を気にして、自分で殻を作ってしまっていたのかもしれません。私と友だちになってくれる子なんているのかな、そんな風に感じるようになりました。中学の時のおちゃらけキャラはなりを潜め、休み時間はずっと本を読んで過ごしていました。この頃が一番読書をしていた時期だったように思います。
けれど、ソフトボール部のマネージャーをしていて部活がすごく楽しくなり、また2年生からは自分からも声を掛けるようになって、友だちは徐々に増えていきました。

ただ、悩みも増えました。友だちと一緒に帰っている時に、田んぼを挟んで向こうにいる小学生に「あの顔〜」と言われすごく腹が立ちました。友だちは、あんなの気にしられんなと言ってくれましたが、それでも好きな人も出来た頃だったので、イヤなことがあると自分の顔のことが気になりました。こんな顔じゃなかったらなんでももっとうまくいくのに、そう思って落ち込んでいました。顔面動静脈奇形の治療で使うエタノール注射という筋肉注射よりももっと痛い注射を何本打たれても構わないので、朝起きたら普通の顔になっていたい、そう思ったことが何度あったでしょう。

それでも、友だちと恋バナをしたり、部活のみんなとワイワイしたり、楽しい時間も過ごしました。その頃、安田成美が司書役のドラマが流行っていたこともあって、高校の終わりごろには司書になりたいと思うようになりました。もちろん本が好きなことも大きな理由です。

そして司書になるための勉強ができる富山女子短大に進学。短大時代に合コンに誘われることもありましたが、行ってもいつも自分は蚊帳の外に置かれていると感じました。それでワザと男っぽい格好をして出かけたりしていたのです。
サークルは軽音楽部で女の子ばかりのバンドでドラムを叩いていました。目立ちたがり屋だけれど、目立ちたくない、そんな矛盾した気持ちが常にありました。

司書の資格は取れましたが、さりとてすぐに司書の就職口が見つかるほど甘くはなく、静香さんは興味のあったブライダル関係の会社を受けました。けれど、4社受けて全て不採用。その中で1社だけ不採用の理由を教えてくれた会社がありました。「あなたの見た目ではダメ」とはっきりと言われたのです。今でこそ、そうやってちゃんと理由を言ってくれた会社は誠意があったなと思えますが、当時はすごく落ち込みました。もちろん、不採用になったのは見た目の問題だけではなく、スキルの足りない点もあったにちがいないのですが、当時はすべてを見た目のせいにして荒れていました。この頃がいちばん親にも反抗していた時かもしれません。

 けれど半年後、静香さんは就職。就職先は葬祭ホールでした。静香さんは我ながら極端だとおっしゃるのですが、ブライダルがダメなら葬儀だと思って選んだのです。面接試験の時に、「君の目がすごくいい」と言われ、採用が決まりました。
 しかし、事務職での採用だったのですが、現場に代わってほしいと言われ、現場担当に。半年後には遺体搬送業務を依頼され、その研修で亡くなった方を搬送する時に、ご遺体の横に座らなければならず、まだ短大を卒業して間もない静香さんにはさすがに堪えられませんでした。どうしても怖くて続かなかったのです。

 やはり事務をやりたい、そう思った静香さんは職業訓練校で半年過ごしました。その後スリーティという会社で短期のアルバイトをしたのですが、この会社の雰囲気がとてもよく、その後正社員として採用されます。そして、この会社に就職したことで、静香さんは運命の人に出会うことになったのです。

 入社して4年目、会社のみんなで遊びに行っていた時に静香さんは後にパートナーになる河除さんに言われました。「付き合ってくれないか」
そうしてお付き合いが始まったのですが、しばらくたって河除さんが怒り出したことがありました。「何で病気のことをちゃんと話してくれないんだ?」
またこうも言われました。
「じろじろ見られるのがイヤながやったら、俺が着ぐるみを着て隣で歩いてやる」
ああ、この人はこんなにも自分のことを真剣に思ってくれているんだ、そう思った静香さん、こうして2人は1年後に結婚したのです。

 河除さんのご両親も見た目のことを気にする人ではなく、それが結婚の障害になることはありませんでした。結婚式の時も、みんな笑ってお祝いしてくれて、静香さんは幸せに包まれたのです。

 2002年、静香さんは妊娠します。実は20歳の時を最後に手術はしていなかったのですが、顔面動静脈奇形は少しずつ進行していく病気なのです。長男出産から5か月後、目や耳、鼻から出血が止まらなくなり、緊急に手術。その時の手術で皮膚がケロイド状になってしまい、それ以降外出時にはマスクをするようになりました。それまで、静香さんはマスクをしていなかったのですが、マスクをして出かけるようになると、すごく楽になりました。他の人の目を気にせずに普通に歩けるってなんてラクなんだろう。ケロイド状のかさぶたが取れたらマスクを外そうと思っていたけれど、一度そのラクさを味わうと、マスクを外せなくなってしまったのです。

 その後2人の息子さんに恵まれた静香さん。7年前からは中学校で学校司書として働いています。中学生との何気ない会話が楽しい。けれど、やはりマスクは外せずにいるし、お昼ご飯を食べている時にも誰かが部屋に入ってこないかハラハラしながら急いで食べる習慣になりました。

 2010年、ネットで「見た目問題」に取り組む団体があることを知り、また大阪で初の交流会があることもわかりました。「行ってみたい」そう思いました。そうして旦那さんに相談すると、「行っておいでよ」と言ってくれました。
 それまでずっと見た目問題で悩んできたけれど、そのことで悩んでいる他の人に出会ったことはありませんでした。交流会に行くと、みんな自分と同じ見た目問題で悩んでいて、今まで誰にも話したことがないことをいろいろ話してすごく楽しくて、すごくすっきりしました。大阪の主催者の方に「富山でもやってみたらいいじゃないですか」と言われましたが、その時は自分がやるのは無理だと思いました。でも、その時間が本当にいい時間だったので、富山にもこういう催しがあるのではないかと思って調べてみましたが、全く見当たりませんでした。こういう場は絶対に必要だ!そう感じた静香さんは自らが主催者になることを決意。そして2011年に富山で第一回目の交流会を開催したのです。
 すると、県内のみならず京都、滋賀、東京といった県外からも見た目問題で悩んでいる人たちが来てくれました。来た時はとても辛そうな表情だった方が、交流会が終わる頃には笑顔になっている。その姿を見て、本当にみんな話したいのだ、話したいけれど自分のことを話せる場がなかったのだ、そう感じます。ですから、この交流会は細々とではあるけれど、ずっと続けていきたい。そう思っています。そうして年に2回、交流会やイベントを続け、先日10回目を開催することができました。今では、見た目問題だけでなく、吃音で悩んでいる方、身体障がい者の方、いろんな人が来てくれる交流会になっています。

 2012年には 「見た目問題」を解決し、誰もが自分らしい顔で、自分らしい生き方を楽しめる社会をめざすNPO法人マイフェイス・マイスタイルと共催で写真展も開催しました。いろんな方とのつながりが生まれる中、交流会に来てくださる常連さんから「『こわれ者の祭典』っていうのがあるよ。この会と合っているから一回富山に呼んだらいいよ」と言われます。「こわれ者の祭典」はアルコール依存や薬物依存、DVなどさまざまに生きづらさを持っている方の体験発表&パフォーマンスイベント。「病気でどう苦しみ、そこからどう回復したか」をユーモアを交えたトークと、その病気に関するパフォーマンスで盛り上げるイベントを開催しています。その「こわれ者の祭典」の代表が月乃光司さんなのですが、静香さんは月乃光司さんが大阪での公演で出演者を募集しているのを知って、「見るだけではなくて、出る方でやろう」と思い立ちます。最初は詩の朗読を考えていたのですが、そのうちにお芝居の方が伝わると思い、一人芝居の形で舞台に立ちました。たくさんの方の前でスポットライトを浴びての一人芝居はものすごく爽快感がありました。そして、富山で開催した『「こわれ者の祭典」×「見た目問題」inとやま〜生きづらさだヨ!全員集合』でも素晴らしい一人芝居を披露された静香さん。私もその舞台を見たのですが、本当に胸を打つ舞台でした。とても芝居の経験がないとは思えない迫真の演技。このお芝居はこれからももっともっとたくさんの人に見てもらいたい、そう心から思えるそんな舞台なのでした。

 静香さんが今楽しいことは、普通の日々を家族と一緒に送れること。そして「見た目問題」の活動でいろいろな人と知り合えること。今、いろいろな場所で話す機会がある静香さんは、この顔に生まれてきた意義、そしてそこでできることをいつも考えると言います。きっと私にしかできないことがある。私にしか語れないことがある。それを伝えたい。

 けれど、イヤなこともやっぱり見た目のことです。普段はマスクが手放せません。外で食事をする時も気を遣うし。児童クラブの集まりなどで、食べ物が出て来てもマスクを外せません。本来我慢しなくてもいいことを我慢しなくてはいけない、それが辛いなぁと思うのです。
 
 静香さんは子どもたちには自分の好きな道をのびのびと歩いていってほしい、そう思っています。そして自分は今のこの活動をずっと続けていきたい、そしていろんな人と知り合いたい、そう思います。見た目問題を抱えている人は、自分で自分のことをセーブしている人がすごく多いのです。もちろん静香さん自身もそんなところもあるけれど、思い切って舞台に立ったりすれば、すごく楽しいし、人は勇気を出せばなんだってやれるんだって心から思えます。私も、静香さんの新たなステージを楽しみにしています。
今日の人148.野上達也さん [2015年08月11日(Tue)]
 今日の人は、富山大学医学薬学研究部和漢診療学講座助教で、大学附属病院の和漢診療科の外来も担当、J3のサッカーチームのチームドクターでもある野上達也さんです。
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 野上さんは1973年神奈川県で生まれました。3人兄弟の長男として育った野上さん。小学校1年生から空手、小2からはサッカーを習い、その他にも習字、そろばん、スイミングなど、一通りの習い事はやっていました。小学校の時から、とても活発でいかにも頼れる兄貴タイプといった感じだったので、自然に野上さんの周りには人が集まってきました。必然的に学校委員長をやっている、そんなタイプだったのです。けれど、好きな女の子にはスカートめくりをしていたずらをするという、いたずらっ子な面もありました。優等生っぽくないそんなところが逆に人気の秘訣だったかもしれませんね。
 その頃の夢は空手の師範かサッカー選手になりたいというものでした。空手は黒帯をもっている野上さんです。

 中学では、サッカー部に入って、ますますサッカー熱は高まりました。強豪ぞろいの神奈川県大会でベスト8に入ったことも。その時のサッカー部の監督が、「俺はサッカーを知らないからみんな一緒に強くなろう」という方で、野上さんはその先生にとても憧れました。そうして、将来は教員になって、サッカー部の監督になりたい!そんな風に思っていたのです。
 でも、中学に入ったころには不良グループの嫌がらせの対象になってしまったこともありました。机に生ごみを入れられたり、椅子に画びょうを置かれたり。その中心になっていたのが小学校時代のサッカーのチームメイトだったこともあり、胃が痛くなったりもしました。今になって思えば勉強やスポーツが得意なことを鼻にかけるような態度があったかもしれない、と振り返る野上さん。何をどう変えた、という自覚はありませんでしたが、中2になって、お互いが成長したためか、そのチームメイトもサッカー部に戻り、嫌がらせをされることもなくなったのでした。ゴールキーパーだった彼も含めてチームメイトと力を合わせて戦った中学サッカーは今では良い思い出になっているそうです。
 中3の時には、生徒会長にもなりました。そのときに、グラウンドにビックアートを描くというイベントをやりました。生徒ひとりひとりが色板を持ってグラウンドに葛飾北斎の富嶽三十六景の一枚、神奈川沖浪裏のイラストを描いたのです。一人でもずれると絵はうまく完成しません。かったるいと言ってやりたがらない子も当然いて、うまくみんなが並んでくれるようにするのはなかなか大変でした。そこを野上さんは、リーダーシップを発揮して、うまくみんなをまとめて、見事な神奈川沖浪裏を完成させたのでした。

 文武両道の野上さんが進学したのは、進学校としても名高い厚木高校でした。進学校にいても、やっぱりサッカー漬けの毎日。3年生の時には10番をつけてエースとして頑張りましたが、国体選手との練習や強豪校との対戦などを通じて、プロに行くような人はやはりレベルがちがうと実感することにもなったのでした。

 ほぼサッカー漬けとはいえ、本を読んだりするのも好きでした。特に歴史が好きで、三国志も全巻そろえていた野上さんは、東洋思想、そして東洋医学にも興味を持ちました。西洋医学のように全てを分析的に考えるのではなく、すべてを統合的に考える東洋医学に惹かれたのです。また弟さんが気管支ぜんそく持ちで、家族旅行に行った時に発作を起こしたりするのを見る度に、子ども心になんとかしたい、と思っていたこともあって、医学部を目指すことに決めたのです。

 でも、受験勉強に本腰を入れたのは高3になってからでした。受験雑誌で、漢方医学を学べる医学部を探したところ、国立では富山大学だけでした。立山町に小学生の頃にサッカーの遠征に来たことがあったり、親しい友人が富山出身だったりしたこともあり、野上さんは富山に良い印象を持っていました。そうした縁もあり、野上さんは富山大学医学部を受験し、見事現役合格したのです。

 こうして、初めての地、富山へとやって来た野上さん。大学ではサッカー部とスキー部に所属し、サッカー部では全日本医科学生大会で準優勝2回、競技スキー部では距離競技3種目制覇など部活動を中心に住みやすい富山での生活を満喫しながらの学生生活を送りました。

 卒業後の専門を決める時、実は少し迷いました。和漢診療学にはもちろん興味がある。しかし、ずっとスポーツをやっていた野上さんにはスポーツ整形の方に進みたいという気持ちもありました。実際、野上さんはパッと見は漢方医というより、外科医といった方がぴったりくる印象です。   
けれど、和漢診療科のある富山大学医学部においてでさえ、漢方医学の道へ進む学生はあまりいません。野上さんの学年でも全くいませんでした。そこで思ったのです。「俺がやらねば誰がやる」と。昔から全体のバランスを常に考える性格でした。そして、それは悪くない、そう思っています。

 こうして和漢診療学の道を選び、今は現代医学ではよくならずに半ばあきらめた人たちが、和漢に出会ってから元気になっていくことに何よりやりがいを感じる毎日です。患者さんに、ありがとうと言ってもらえることに喜びを感じます。

 けれど、「なんで漢方やっているの?」と言われることがあるのも現実です。漢方医学が何か怪しいもののように思われていると感じることもあるといいます。日本の伝統医学をそんな風に言われるのはとても悔しい。漢方医学を正しく普及していきたい。和漢診療学という現代西洋医学と漢方医学の長所を生かす学問を究めて、現代医学の中でいかに漢方医学を活用するかを追求することが野上さんのテーマです。
 例えば西洋医学の対症療法で行くと、例えば咳が出て、めまいもしてというと別々のクスリが処方されてたくさんの薬剤を服用することになってしまうことが多いけれど、漢方はそうではありません。漢方では、咳もめまいも根は一つと考え、その根本に効く漢方薬を1種類、多くても2種類ほど処方することで患者さんの体調全般を整えることを目指すのです。
 周知のように、今日、1人の患者が多数の薬剤の処方を受けるpolypharmacyが問題になっています。一人の人間が何十種類もの薬を飲んだらどんな副作用が出るのか?はあまり研究されていないのが実情です。polypharmacy の問題は1人1人の医師が自分の専門領域を一生懸命治療する結果ではあるのだけれども、本来は必要最低限の薬剤で最大の効果を出すことが正しい医療。和漢診療学にはこの問題を解決するヒントがあると野上さんは考えています。
 また、漢方薬は高価、という印象が一般にはありますが、実は漢方薬はとても安いのです。漢方薬をうまく使っていけば、医療費を大幅に削減できる可能性があることを示した報告もあり、この点でももっと着目していくべきと考えます。日本にもともとある漢方医学と西洋医学をうまく連携させることで、これからの超高齢社会に備えることができる、いや、そうしていかなければならない。そのために野上さんは和漢診療学ができる医師を育成していくことも自分の役割だと思っています。

 漢方医学は実はプライマリケア向きだという野上さん。プライマリケアとは簡単に言うと国民のあらゆる健康上の問題、疫病に対し、総合的・継続的、そして全人的に対応する地域の保健医療福祉機能です。高度な医療機器を必要とせず、五感を活用して診療に当たる漢方医学はプライマリケアの現場にぴったりな医療です。最初にかかってなんでも相談できる地域の医師が漢方薬を使いこなして、多くの患者さんを治せたらとても素敵なことだと思います。プライマリケアの現場で、漢方医学を正しく認識してもらい、きちんと使ってもらうことが大切だと野上さんは考えています。
 でも実際は、今、富山大学の和漢診療科にこられる方は、多くの医療機関で治療を受けて十分な効果が得られなかったという場合が少なくありません。もっと早くに漢方治療を行えていたら・・・という思うこともしばしば。そんな患者さんを一人でも減らすことが野上さんの役割の一つだと考えているそうです。

 ただ、今、漢方薬の原料は国産のものはとても少なく、大部分を輸入に頼っているのが実情です。しかも、その輸入も、今、心もとなくなってきています。日本の各都道府県に適した漢方薬の原料を育て、国を挙げたプロジェクトとして取り組んでいければ…。それを実現させて、かつ、プライマリケアに和漢診療を取り入れていければ、高齢社会に突き進んでいく日本の医療を支えることができるのではないか・・・。
野上さんの漢方にかける情熱はとても大きくて、そして深い。そしてこれは素晴らしいプロジェクトになるのは間違いないのです。これは決して絵空事にしてはいけない、そう思います。

 そんな大きな志を胸に抱きつつ、日々のささやかな暮らしの中に感じる幸せを大切にしていらっしゃる野上さん。7歳と5歳の男の子のお父さんでもいらっしゃるので、今は子育てが何よりも楽しい時間です。何しろ子どもたちの成長は目を見張るほどです。1週間前にできなかったことが、できるようになるのですから。
そして、もうすぐ3人目のお子さんも生まれる予定です。これで、ますますお父さんの出番が多くなりそうですね。

 そして外来の仕事をしていると、患者さんがよくなっていく姿が目に見えることにとても幸せを感じる時間です。やはり、野上さんは人に接する時間がお好きなのだとつくづく思います。スポーツマンで人情に厚い、とっても素敵なお医者様。私も野上先生に漢方薬を処方してもらいに行きたくなりました。
今日の人147.荒木真理子さん [2015年07月12日(Sun)]
 今日の人は小松菜農園葉っぴ~Farmのカフェ葉っぴ~カフェtuttiのオーナー、荒木真理子さんです。
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 真理子さんは昭和32年に富山市で生まれました。8歳上のお兄さん、5歳上のお姉さんがいる末っ子でした。当時家の近くには富山医科薬科大学の薬学部があって、下宿屋さんをしていました。しかし、薬学部のキャンパスが移転し、下宿屋さんをやめたので、お母さんも外へ勤めに出るようになり、小1の時から鍵っ子になりました。本当はとっても寂しがり屋だったのですが、寂しいという気持ちを素直に言えず、よく机の下に隠れて泣いていました。さびしい気持ちも言えませんでしたが、あやまることもできない子でした。とにかく自分の気持ちは外に出すことができなかったのです。お兄さんは8歳も上だったし、お姉さんも5歳上だったので、なかなか一緒に遊ぶということにはならず、いつも近所の子どもたちと缶けりをしたり、ごっご遊びをしたりしていました。

 お兄さんは富山中部高校から東大に進んだ秀才だったので、大変頭がよく、勉強を教えてもらってもお兄さんには真理子さんがなぜわからないかがわからないといった感じだったので、真理子さんはますます劣等感を抱いてしまうのでした。優秀な兄と比べられているのではないかという思いになり、近所のおばさんたちの目が気になって仕方がありませんでした。そうして自分の気持ちを押し殺したまま勝手にいじめられている気分になって落ち込んでしまう毎日を送っていました。6年生の時には座ったまま貧血になってしまい、点滴に通います。そういう状態ですから、当然激しい運動はできません。中学校に入ってバレー部に入りましたが、ランニング中に貧血を起こしてしまったこともあり、やめることになりました。その後貧血症状が落ち着いたところで水泳部に入りました。けれど、相変わらず何にもときめくこともなく、私なんか死んじゃいたいと思いながら日々を送っていました。

 それは高校に入っても変わらず、悶々としながら毎日をおくります。この頃、胃潰瘍も患いました。何も面白いことのない青春時代でした。
それでも、なんとなく保母さんになりたいという思いを持って、ピアノも習いに行ったりしていましたが、お母さんが慢性肝炎で入院してしまったこともあり、勉強もできない自分が進学したいなどとても言えないと思い、就職する道を選びました。

 病気のお母さんに代わって高校時代からずっと家事をしていた真理子さんに、普段から寡黙でほとんど何も言わないお父さんがお正月に猫の絵が描いてある時計をくれたことがありました。その時も何も言わずにくれたのですが、家事をしている真理子さんをねぎらうつもりでくれたのかな、と今はそう思っています。寡黙なお父さんから娘へのせいいっぱいの愛情表現だったにちがいありません。

 真理子さんが就職したのは写真の現像所でした。1枚1枚ネガを見て色の調節をする仕事です。当時はまだカメラはフィルムの時代でした。
 そんな仕事を続けていた時に友達の紹介で出会ったのが荒木龍憲さん。真理子さん、20歳のことでした。友達とWデートしたのが7月、それから何回かデートしましたが、やっぱり農家の人だし、町生まれの自分には合わないかも…と思って、秋に別れてしまいました。

 そんな矢先、龍憲さんがコンバインで指を切ったと友達から連絡が入ります。急いで駆け付けた真理子さん。一緒に救急車に乗って病院まで付き添うことになりました。その時に、この人は私がいないとダメなのかなぁ、と思ったのです。友達からも荒木さんほど真理子さんのことを好きな人はいないよ、と言われます。その頃、真理子さんはお茶を習っていたのですが、お茶の先生からうちの息子に会ってくれないかとお見合い話を出されたことで、なお二人の気持ちは盛り上がりました。真理子さんのお母さんも龍憲さんのことを気に入り、彼は毎日真理子さんの家でご飯を食べていくくらいでした。
 
 出会って4か後の11月に結納を入れた二人。しかし、結納を入れてからも、やっぱり私には農業は無理かも…と思って悩んだ真理子さん。心配したお母さんが、農家をしていたお父さんの実家に行って尋ねてくると「今は機械化も進んだし、昔と比べたらそんなに大変じゃない」と言われました。それを聞いて、ちょっと安心します。でも、結婚式の日に「イヤになったら帰ってくるちゃ」と言ったところ、お母さんに「一回結婚したらそんなに簡単にできるものじゃない」と諌められての晴れの日の門出だったのです。

 こうして、3月に舅、姑、小姑のそろった家に嫁ぎました。でも、新婚旅行から帰っても玄関に誰も出てこない。真理子さんの体の中に冷たい風がすうっと流れました。そしてやはり自分の考え方は甘かったと痛感する毎日がやってきました。旧来の農家の考えで、嫁は働き手としか思ってもらえず、しかもお義父さんは酒を飲んだら暴れて罵詈雑言を浴びせる人でした。真理子さんはいつでも帰れるように荷物を風呂敷にまとめて、夜な夜な泣いていました。けれど、すぐに妊娠が発覚。大きなお腹でカブを洗っていたら、ぎっくり腰になってしまい、それからは常に腰痛に悩まされるようになったのです。けれど、お義母さんは腰の痛みを知らない人でした。ですから、休んでいるとサボっているように見られ大変つらい思いをしました。

 実家で出産して、嫁ぎ先の家に戻ってくる時は、そこが見えただけで胃がチクチクし始めて、晴れの着物を着たまま もどしてしまうくらいでした。このまま実家にいたかった。けれど、もちろんそうできるはずもなく、子どもをおんぶして農作業をする日々。実家のお母さんから「大丈夫なの?」と聞かれましたが、お母さんは肝臓がんを患っていたので、心配させるのがイヤで「大丈夫」と答えていました。後にお母さんがつけていた家計簿の端に「真理子は何も言わないのが心配」と書かれてあったのを見つけて、親に心配させまいと思って何も言わずにいたけれど、お母さんは私のことが心配でならなかったのだと涙が出ました。

 苦しくても誰にも言えない、どこでも泣けない。そんな時に立正佼成会にご縁がありました。そこで初めておいおい泣くことができ、親孝行の大切さを聞かせてもらったことで、嫁ぎ先での辛い日々にも耐えることができるようになったのです。

 しかし、大変なことは立て続けに起こりました。実家のお父さんが微熱が続いたあと肺がんで亡くなり、娘さんが6歳の時にはご主人が甲状腺がんで入院。同じ年にお母さんも入院。病院に通い詰めの日々でした。さりとて農家なので農作業を休むわけにもいかず野菜の袋詰めをしながら子育てする日々。ただただ必死の毎日が過ぎていきました。
そんな中、今度は義母がなくなり、真理子さん自身も椎間板ヘルニアの痛みでとうとう足が前に出なくなりヘルニアの手術。

 けれど義母が亡くなったことで、義父の口撃は真理子さんに集中するようになり、何度「出ていけ!」と怒鳴られたかわかりません。いつも文句ばかり言っている義父に「じいちゃん、好きなことしられ」と言っても「そんな金どこにあるか!」とまた罵倒される始末。

 家を出ていきたいと思ったことは一度や二度ではありませんでしたが、そのたびに気持ちを奮い立たせてきた真理子さん。そんな時、義父が事故で怪我をして、それがもとで認知症になってしまいます。けれど、認知症になったことで、義父はどんどん角が取れて、穏やかな笑顔をする素敵なおじいちゃんになっていきました。「好きなことをしられ」と言った時に「どこにそんな金がある」と怒鳴っていた義父が、家を新築したいと言ったときに、お金をポンと出してくれたのです。グループホームで「私誰け?」と聞いたときに「さあ、あんた誰け?」とニコニコしながら言っていた義父は、最後はとびきりいい笑顔で旅立っていきました。

 そうして平成11年に家が建ったのですが、その年、真理子さんの腰はまた悪化してしまい、12月20日に沢庵100本を漬けた後、あまりの痛さに入院。そうして2か月の入院生活を余儀なくされたのです。顔も洗えず何も出来ない毎日、筋肉が衰えこのまま寝たきりになってしまうのかと思ったくらいでしたが、友人に薦められて名古屋の気功に藁にも縋る思いで通ううち、なんと走れるし、山にも登れるくらいに回復したのです。まさに奇跡的な回復でした。

 そして、真理子さんはご主人と一緒に小松菜農家として販路をどんどん広げていきました。小松菜の可能性を探るべく、スキルアップ講座にも通いました。小松菜のハウスも増えて毎年研修生を雇うほどになりました。一方、親子の気持ちのすれ違いに悩み、子どものことをもっと理解したくて、個性学も学び始めました。真理子さんが勉強し始めたのは子どもが20歳を過ぎてからだったので、もっと子どもが小さい頃から知っておけば、もっと楽に子育てできたにちがいないと思いました。そうした思いが高じて、個性学の自宅教室を開くに至ったのです。義父がいる間はお客さんを寄せ付けない感じの家でしたが、真理子さんもご主人も人を招くのが好きでしたし、これからはどんどん人が集まる家にしていきたい、そんな思いで自宅教室から、今度はカフェのオープンへとどんどん夢は膨らんでいきました。

 そしてバタバタだった納屋を誰でも入って来られるようなスペースへと改装。ついに一昨年12月に『葉っぴ~カフェtutti』をオープンしたのです。そうして人とのつながりはさらなるつながりを呼び、真理子さんの周りにはご縁の輪がどんどん広がっています。海外派遣のメンバーの一員にも選ばれ、その時一緒にアメリカに行った仲間のつながりで、ネパールの仏画師ダルマさんとも仲良くなりました。ダルマさんは農業とネパール料理とギャラリーを一緒にやれたらという思いを持っており、真理子さんたちとすっかり意気投合。この7月からは農園の研修生として働いています。そして、龍憲さんと真理子さんは同じくこの7月にカフェの2階を、ギャラリーやLiveに使えるオープンスしてオープンさせました。ギャラリーにはさっそくダルマさんの曼荼羅絵が飾られています。そうしてこけら落としにLiveを開催して、ネパールの復興支援も呼びかけるなどなんとも行動的。まさに思ったことを形に変えていく真理子マジック。いったいこれから、どんな夢を実現されていくのか、ますますワクワクが広がります。

 真理子さんは以前お母さんに言われたことがあります。「ちゃんと育てられんでごめんね」と。きっとお母さんは東大を出た優秀なお兄さんと比べてそう言われたのでしょうが、真理子さんはその時お母さんにこう言いました。「大丈夫、ちゃんと育ったから。」
真理子さんは思うのです。生んでくれて育ててくれてありがとう。命をつないでくれたから今の私がある。それがどんなに尊いことかと。だから、今、自分の誕生日はお母さんへの感謝の日に他ならないのです。

 そんな真理子さん、今は本当に毎日が楽しくて仕方がありません。自分で作ったものを採って、自分のお店に出せる。それをお客さんが喜んで食べてくれる。今まで出会うことのなかった人たちとも出会える。富がえりのレシピの人たちと関われたり、おもしろいことをしている人たちとたくさん関われるのが本当に楽しい。

 そして、この秋にはダルマさんたちと一緒にネパールにも行ってこようと思っています。したいことをせずに生きて、死ぬときに後悔するような人生は送りたくない。したいことをやっていつも笑顔でいたい。うまく出来ないことがあっても、何もせずにこれは出来ないそれは出来ないと不平不満をいつも口にしているよりずっといいと思うから。

 以前はとっても暗かったというのが信じられないくらいに生き生きしていらっしゃる真理子さん。いくつになっても夢を持って歩いていくことの大切さを教えてもらう時間になりました。これから、真理子さんの周りでどんなワクワクが待っているのか、とっても楽しみです。
今日の人146.林敦也さん [2015年06月10日(Wed)]
 今日の人は、NPO法人富山ダルクリカバリークルーズ代表の林敦也さんです。薬物依存症のリハビリ施設として、平成20年からさまざまな活動を続けてきた富山ダルクが今年の5月1日からNPO法人となり、新たなスタートを切られてほやほやな時にインタビューさせていただきました。
富山ダルクの活動についてはこちらのホームページをぜひご覧ください。
http://toyama-darc.jimdo.com/
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ダルクの仲間と一緒に
向かって左が林さん
 
 林さんは1974年8月2日に愛知県瀬戸市で生まれました。小さい頃は泣き虫でしょっちゅうお漏らしをしていた男の子。自分の部屋から布団をもってきて、親の間に寝るのが好きな寂しがりやでした。でも、目立ちたがり屋でもありました。暗くなるまで近くの森を探検したり、遊具で遊んだりして過ごしていました。もっぱら外遊び派だったのです。
寒くても半袖・短パンの体操服で登校しているような子で、ずっと目立ちたくて小学校でも悪ふざけはしょっちゅうしていました。けれど、同時にクラスで学級委員はやっていて、先生にはかわいがられていました。ただ、学級委員はやるけれども、児童会や生徒会の役員にまでにはなりませんでした。目立ちたい、でもそこまでの度胸はない、そんな子ども時代でした。

 林さんには1歳年上のお兄さんがいて、何かにつけてこの兄と比較されました。それが本当にイヤでした。なんでも最初に興味を持ってやり始めるのは弟の敦也くん。けれども、後からお兄さんもそれをやり始め、敦也くんよりうまくなってしまうのです。習字は習い始めで一週間でやめました。お兄さんは後から始めて、すっかりうまくなりました。ピアノも最初に始めたのに、その後お兄さんが習い始めて、自分よりうまくなりました。スイミングも自分から始めて一番上のクラスまで行ったのに、それでもお兄さんに抜かれてしまいます。一事が万事そんな調子で、「お兄ちゃんができるなら、あなたもできるでしょ!」と言われるのが本当にイヤでした。両親のお兄さんに対する目は暖かく、自分に対する目はとても冷たく感じました。小さい時は両親の間に寝ていた甘えん坊少年だった林さんには、お兄ちゃんと比べて自分は認めてもらえていないという思いがあって、本当につらかったのでしょう。小3のある日、包丁を持ちだしてお母さんに泣きながら訴えたことがありました。
「なんでお兄ちゃんばっかり!」
けれど、帰ってきたお父さんにこっぴどく怒られました。『僕の思いは伝わらない』そんな悔しさばかりが心に残りました。

 4年生になると少年野球チームに入りました。当時キャプテン翼が流行っていたこともあり、本当はサッカーをやりたかったのですが、お父さんが野球好きでサッカーをやらせてくれませんでした。そしてどういうわけか、広島の真っ赤な帽子を買ってくれました。愛知なので、当然中日ファンが大勢を占める中での真っ赤な帽子がすごくイヤでした。同じく野球をやっていたお兄ちゃんは阪神の帽子で、そっちの方がかっこよかった。それでも、買ってくれた帽子をかぶらないわけにはいかず、とても複雑でした。
 左利きでファーストのポジションを守っていた林さん。運動神経もよく、性格も明るかったので、きっとキャプテンに選ばれるだろうと思っていました。自分の中にはその自信がありました。新キャプテンは6年生と指導者とで選ぶのですが、選ばれたキャプテンと副キャプテンには自分の名前がありませんでした。その時のショックは今でも忘れられません。それだけ自信があったのです。「ああ、僕はみんなに認めてもらっていないんだ」そんな疎外感ばかりが残りました。

そういう諸々があって、家族4人で食卓を囲むのは嫌いでした。4人でいると、絶対に兄と比較される話になるからです。だから、その時間を避けて家に帰るようになりました。

お父さんは自営業で、家の隣に工場があったので、常に顔を合わせている家族でした。上述したように、やりたいと言ったことは、なんでもやらせてくれるご両親。けれど、林さんには不満がありました。どうせなら、ブルーカラーじゃなくて、ホワイトカラーのお父さんがよかった。毎日スーツを着て颯爽と会社に行く、そんな姿がかっこよく思えたのです。

小学校の卒業文集に書いた夢は「将来札束の上で寝ていたい」というものでした。その頃の卒業文集にありがちだったのが「みんなが選ぶクラスの○○ベスト3」例えば、面白い人ベスト3とか、頭のいい人ベスト3とかを選ぶのですが、それらのベスト3には、必ず林さんの名前が入っていました。目立ちたい、注目されたい、という林さんの気持ちはある程度は満たされつつも、しかし、どこか満たされていない、そんな複雑な思いを抱いて中学校に進学します。

中学校では野球部ではなく、卓球部に入りました。5年の時、もし少年野球チームでキャプテンに選ばれていたら、そのまま野球部に入っていたかもしれません。でも、選ばれなかった時点で、そんな気持ちはすっかりなくなってしまっていたのでした。卓球部は上下関係もあまりなくてとても楽でした。

部活は楽でしたが、中学校では周りのみんなが急に成長し始めて、自分だけが変わらずに置いてけぼりをくらっているそんな焦燥感が芽生えました。林さんは背が低いのがイヤで、小学校の時から友だちの分をもらって、毎日6本も牛乳を飲んでいました。それでもちっとも背が伸びず、勉強にもついていけなくなりました。友だちがどんどん自分から離れていくような気がしました。自分は小学校7年生になったくらいの気分でいるのに、周りの人は全然ちがう。なんとか自分の存在感を示そうと林さんが取った行動は、不良っぽい格好をすることでした。ダボダボのズボンを履いて、学生服は長くして、かばんはぺったんこにして、当時の不良少年がよくやるそんな恰好をするようになっていきました。

そうして中1の夏休み。コンビニの駐車場で友だちとたむろしていた時のことです。先輩がそこにやってきました。あきらかに様子がおかしくてやばいと思いました。先輩は服で隠しながらシンナーを吸っていたのです。先輩は「お前らちょっと来い」と林さんたちを呼びつけました。そうして、これを吸ってみろ、と言ったのです。
瞬時にいろんなことを考えました。こんなものやったら頭が悪くなるにちがいない、正直やりたくない。けれど、これを断ったら、この先の中学3年間、目をつけられて何を言われるかわからない、先輩に嫌われたくない。そうして思ってしまったのです。

「1回くらいなら」

15分くらいシンナーを吸っていると、頭がボーっとしてきました。そうして、不思議なことに今まで抱えていたストレスや不安がすうっと消えていったのです。その感覚がひどく居心地がよかった。一回目に吸った時に、吐いて苦しい思いをした人は、もう二度とやらなくなる可能性もあります。けれど、林さんは一回目からとても気持ちがよかった。ああ、これは素晴らしいものだ、そんな感覚になってしまったのです。気付いたら、近くの公園に袋を持って一人だけ残されている自分がいました。もう他のみんなはいなくなっていた。それすら全く気付いていませんでした。

今まで自分の言葉に蓋をしていた。「どうせあなたは」そう言われるのが怖かった。誰に対してもいい格好をしたくて、誰に対しても愚痴を吐けない自分だった。いろんなものが体中に詰まって息をするのが苦しかった。でも、シンナーを吸うと、それがすう〜っと消えてしまったのです。林さんの中から、これはやってはいけないものだ、という思いはすぐに消えてしまいました。

最初のうちは1〜2週間に1回、先輩がシンナーを持ってきてくれたときだけ吸っていましたが、そのうちそれでは我慢できなくなってきました。やるとイヤな気持ちがなくなる、でも、覚めると現実のストレスを感じる、その感じ方は以前よりも強くなっていきました。「クスリがほしい」とうとう、自分から先輩のうちに直接もらいに行くようになったのです。先輩のうちはペンキ屋でした。ですから、シンナーを手に入れるのは容易でした。

それでも最初のうちはまだコントロールできました。でも、中3になると、もう学校よりもクスリだという思いが強くなって、学校に行かなくなりました。お兄ちゃんは生徒会の役員もやって、吹奏楽部の部長も務めた人でした。家に帰ると、ますます兄と比較されるのが苦痛になり、夜中の12時くらいに家に帰り、親と会わないようにしていました。先輩の家にいれば、シンナーを吸いながらいろいろ話せる。自分のことをわかってくれるのはこの場所だけだ、シンナーを吸う、その場所が林さんにとっての唯一の心許せる居場所になっていたのです。

中3の最後の頃は、もう家にもシンナーを持ち帰って自分の部屋でも吸うようになっていました。匂いで周囲にも気づかれていたのは明白でした。
それでも、親に高校だけは行ってくれと言われ、面接試験のみの私立高校に入ります。しかし、高校に行くふりをしてクスリを使ったり、しまいには学校内でもシンナーを吸うようになっていました。もちろん、気付かれないはずはありません。そして、高校は退学になりました。

この頃は1日に500mlものシンナーを吸う日々でした。16歳で暴走族に入り、副総長にもなりました。大人の言うことを聞いていない自分たちに酔っていました。

17歳、彼女と一緒に実家に住んでいました。でも、学校も行かずに昼間っからクスリを使っている息子を人目にさらすのを両親は嫌がりました。自営業なので、そんな息子の姿を周囲の人に見られるのを避けたかったのでしょう。両親は林さんのためにアパートを借りました。自分は自分の部屋にいたかったのに、両親が追い出したのだから、アパート代を払うのも当然両親だ、そう思ってアパート代も親に出させました。
こうしてアパートに住むようになると、うるさく言う人は全くいなくなり、ますますクスリに溺れていきました。彼女と仕事はしなくちゃいけないね、と話し、彼女は昼間は料理屋で働き、林さんは実家の仕事を手伝いに行くといいながら、実際は全くやっていませんでした。そのうち、彼女は愛想を尽かして出て行ってしまいました。一人ぼっちで泣きながら、一晩中シンナーを吸い、覚めてる時は暴走族で走り、仲間と夢は語っているけれど、やっていることはクスリを使っているだけ、そんな日々が過ぎていきました。

食べるものが底をつき、ご飯と具なし味噌汁だけ、そんな時もしょっちゅうでした。けれど、親に泣きつくと、結局親はお金を出してくれるのです。今度こそクスリを辞めるからと数えきれないくらい親に言っている、そうして、今度こそ辞めてくれるだろうと数えきれないくらい親は信じる。この悲しい連鎖が延々と続くのです。林さんは実に6台もの車を事故で廃車にしています。ケンカもしょっちゅう。その尻拭いは全部ご両親がやってきました。親はこうなってしまったのは私たちのせいだ、と自分を責め、そして子どもを許してしまう。こんな悪循環が今もどこかで繰り広げられているのです。

18歳、とうとう林さんは幻覚が見え、幻聴が聴こえるようになりました。風の音が「お前なんか早く死ね」と言っているように聴こえ、粗大ごみ置き場から拾ってきたスロットマシンに描いてあるバニーガールが飛び出してきて、林さんの上に乗っかって首を絞めてくるのです。怖くなって、スロットマシンを焼くと、今度はグニャグニャになったバニーガールが襲いかかってきます。一人で絶叫している林さんはついに精神病院に行くことになりました。しかし、ここからまた新たな薬物中毒が始まっていくのです。

眠れない、と言った林さんに処方された睡眠薬。最初は1錠でした。しかし、その量がちょっとずつ増え、なんと朝昼晩それぞれ18錠ずつという大量の睡眠薬を飲むようになっていったのです。医者はいとも簡単にその薬を処方してくれるのです。これでは処方薬による薬物中毒者が増え続けるはずです。

こうして、シンナーと睡眠薬を乱用し、ますます林さんの生活は荒れていきました。
19歳になったらやめよう、そう決意してもやめられませんでした。
20歳、今度こそは!…やめられませんでした。

 林さんは開き直りました。もう家族にも見放されているんだ。とことん使い続けてやろう。
何回も精神病院に入院しました。長い時は半年も。でも、元気になって出てくるので、また使ってしまう。

 そんな日々の中で衝撃的な出来事がありました。その日、直前まで一緒にクスリを使っていた彼女が、マンションから飛び降り自殺をしたのです。彼女にクスリを教えたのは林さんでした。言葉には出さないけれど、彼女の家族の視線は娘が死んだのはお前のせいだと責めていました。いたたまれなかった…。
 クスリのせいで自分の体が壊れていって、クスリのせいで彼女をなくし、友だちからも責められる。クスリを恨みました。

 そんな時、ある友だちが覚せい剤を持ってきました。なんとかして早くこの苦しみから逃れたかった。
21歳。とうとう覚せい剤に手を出しました。まるで自分がスーパーサイヤ人になったかのような感覚。幸せ感でいっぱいで、悔やんでなんかいられないぜ、という思いになりました。俺が望んでいた幸せはこれだ!…そして自分の意志では何にもどうにもならない状態になっていったのです。当然、やくざな友だちもできました。もう暴走族は引退していたので、クスリつながりの人間関係しかありませんでした。被害妄想はますます激しくなり、赤信号がパトカーのランプに見えました。食べても吐く、飲んでも吐く。点滴だけで生きている感じでした。それでも覚せい剤はやめられなかった。体重は40キロまで落ちました。

 23歳。お父さんから、「仕事もやらないし、そんなことばっかりやっているなら死んでしまえ」と言われます。「やっぱりな。俺なんか生きていても仕方がない」親の前で大量にクスリを飲んで気絶をした林さん。結局死ねと言った親に救急車を呼ばれて病院に運ばれ、胃洗浄をされて一命をとりとめます。でも、クスリをやめられない。
この苦しみから逃れたくて自殺も何回も図りました。けれども、首をつろうとしたときに、死んだらもう薬をつかえないんだという気持ちが出てきたり、森で首つりをしようとした時は、やぶ蚊にたくさん刺されてハッと我にかえったり、そんなことの繰り返しだったのです。

そこまでボロボロになりながらも、自分は弱い人間なのだ、ということを人に言えなかった。かくしてきたものは小さいころからかわっていない。自分の弱さを見せてしまうと自分は生きていけない。そんな思いがずっと心の中にあったのです。

25歳。とうとう精神病院の保護室に入れられます。1週間、ベッドに手足を縛られ、紙オムツをはかされ、身動きできず、朝か夜かもわからない部屋で過ごしました。
終わったな…、そう思いました。俺は何のためにクスリをやってきたんだ?何のために生きてきたんだ?そんな絶望感の中にいながら、一方でここではどうしたってクスリは打てないよな…、そんな安心感を抱く自分もいたのです。
その後の2週間は手足の拘束は解かれたものの、保護室に入れられた状況は変わりありませんでした。コンクリート打ちっぱなしで、鉄格子があり、トイレも部屋の中。しかも、汚物を自分で流すことさえ許されない、刑務所よりも人権を無視され部屋の中で過ごしたのでした。

精神病院を出た後、実家に戻った林さん。そこで何人もの友達がクスリのせいで亡くなっていることを聞かされます。それでも、クスリに頼ってしか自分は生きていけないのだ。
けれど、林さんはヤクザにさえ「お前にはもうクスリは売れない」と言われてしまいます。そうして「お前、ここで働け。」と現場仕事を紹介してもらったのです。あまりに痩せこけた林さんを見て、これ以上覚せい剤を使わせると死んでしまうと思ってくれたのでしょうか。けれど、すでにボロボロになった体では、現場仕事などとてももたず、すぐに辞めてしまったのです。

家に帰った林さんでしたが、ご両親は家に入れてくれませんでした。林さんの荷物は全部外に放り出されていました。ここに至って、ご両親は腹を決めたのです。
「これはあなたの人生だ。あなたの人生だから、全部自分で選んで生きていきなさい。」
そうして、決して家には入れてくれませんでした。
26歳。初めて自分ですべてを決断しなくてはならなくなったのです。

2週間、路上生活をしました。俺には何がある?何もない。全部ない。
13歳の時、ただ友だちを失いたくなかった。
26歳、一人ぼっちで誰からも相手にされない自分…。もはや泊めてくれる友だちも一人もいませんでした。
みじめでたまりませんでした。でも、このままでは生きていくことはできない…。
2週間後、実家に戻りましたが、やはり家に入れてくれることはありませんでした。でもその時にダルクを紹介してくれたのです。ご両親はどんな思いでいらっしゃったでしょう。ただただ息子の回復につながるように、必死で探した場所、それがダルクだったにちがいありません。家に入れなかったのは、ご両親の精いっぱいの愛情でした。もし、そこで家に入れていたら、林さんはダルクに行かなかったにちがいありません。

 こうして、茨城ダルクに入った林さん。初めて茨城に行った時、茨城ダルクの代表がハグしてくれた時のことは忘れません。ハグしてもらった時、クスリを使った時と同じくらい安心しました。気持ちがラクになりました。もちろん、クスリを抜いていく道は簡単なものではありませんでした。それまでクスリの快楽しかしらなかったし、自分が責任を持つことは何らやってこなかったのですから簡単なわけはなかったのです。

依存症になった人で、そうなりたいと思ってなった人なんて誰一人としていないのです。ダルクでは回復プログラムとして、午前1.5時間、午後1.5時間のミーティングの時間が毎日あります。そこでそれぞれが自分の思いを吐露していくのです。悲しかったこと、つらかったこと、仲間が話を聞いてくれて、仲間が共感してくれる。ああ、自分と同じ気持ちを持っている人がいる。上からものを言うのではなく、対等に考えてくれる人がいる。それで自分でさえ気づいていなかった感情とも向き合えるようになってラクになっていける。

そうして、ダルクに来て、3〜4か月たって、とうとう林さんは白旗をあげました。それまで突っ張って生きてきた自分に対して。そして重かった鎧を外したのです。不安は不安でいいじゃないか。不安を隠して生きなくてもいいじゃないか。孤独が一番怖かった林さん。でも、ダルクでは孤独にならずに済む。つらい部分を含めていろんなことが共感できる。そして、ここに来て初めて、本当にクスリを止めた人に出会えた。ああ、いるんだ。クスリから離れることってできるんだ。

9か月過ぎた頃には、なんとか普通の暮らしもできるようになっていました。体力も戻ったので、米屋でアルバイトをして、3か月で60万円貯めた林さん。しかし、まだ考え方が変わったとは言えず、このまま外へ出ていくのは危険だなと感じました。そんな時に、代表に言われます。「お前、その金でサンディエゴのNAのコンベンションに行ってこい」と。
NA(ナルコティクス アノニマス)とは、薬物依存からの回復を目指す薬物依存者の、国際的かつ地域 に根ざした集まりのことです。富山ダルクの午後のミーティングはこのNAのことです。世界116カ国以上 で、毎週33,500回を越すミーティングが行われています。

代表にそのNAのコンベンションに行ってその金を使ってこい、と言われた林さんは、実際にその言葉通り、そのバイト代でアメリカサンディエゴへ飛び、そこで衝撃を受けることになったのです。

 そこには世界中の薬物依存者が集まってきていました。彼らは、自分たちよりはるかに堂々と生きていて、笑顔で「僕は○○依存だよ」と明るく言ってる。そして、とても魅力的な人がたくさんいる。
ああ、俺もくよくよ考えているだけじゃだめだ。今までの自分を隠すな、恥じるな。恥がこれから自分の力になる。生きる材料になる。そしてそれは自分の宝物だ、そういうことを肌で感じた得難い体験になったのです。

そして思いました。自分はこれから仲間のサポートをやろう。まだまだ苦しんでいる仲間が大勢いる。自分が前を向いて歩けるようになったのも仲間のおかげだ。だから、俺はやる。

こうして茨城ダルクで5年を過ごした頃、北陸でもダルクを立ち上げるという話になりました。5年目、東京で研修を受け、山梨ダルクの立ち上げにも携わり、茨城に戻った後、本格的に北陸で場所探しを始めました。いくつか候補は上がったのですが、海がすぐ目の前にある今の富山ダルクの場所に決まりました。

平成20年、5人から富山ダルクがスタートしました。最初のうちは、目の前の海で釣れる魚がおかずになるという日々。晩に行うNAミーティングの会場探しにも苦労しました。薬物依存症者ということで、いろいろな場所で断られ悔しい思いもしましたが、今では富山県内で10か所、金沢で1か所のNAミーティングの場所があります。

ダルクの活動は多岐にわたっています。朝のミーティングが終わると、海水浴、畑、座禅、ヨガ、絵手紙、スノボ…様々な活動があります。そうして少しずつ少しずつクスリから離れていける生活を目指しているのです。薬物依存の人たちが安心していられる場所を作りたい。1時間だけでも、ここで過ごした人が、つらい時に思いだしてまた来てほしい。でも、決して上下関係は作らない。ここではみんなあくまで対等な関係なのだ。林さんの思いはどこまでも深くてあったかいのです。

もちろん、ダルクに来たからと言ってみんな回復できるわけではありません。自分だって、目の前に薬物が置かれたら絶対に使いたくなる。それほどクスリの快楽は脳に刷り込まれているのです。ダルクのみんなにはいつもイヤな方を選べ、面倒くさいと思った方をやれ、と言っています。楽な方に行くと流されやすいままになるからです。
そして、ダルクのみんなにはもし一人でいたくなったら二人でいろ、と言います。ネガティブはクスリに直結するからです。でも、人をコントロールすることはしたくない、だからコントロールしないようにいかに伝えていくか、いつもそこに葛藤しています。
 
 そうして、ダルクで回復していったメンバーがちゃんと自立していってほしい、依存症治療に合った福祉を広げたい、そんな思いで今年の5月1日に富山ダルクをNPO法人化しました。
 行政と関わる機会が増えれば増えるほど、変えていかなければならない部分があまりにも多いことに愕然とする日々です。けれど、「それはもう決まっている」という言葉を変えていきたいと意気込む林さん。今ある【枠】を崩していきたい。それはまさにダイバーシティなスタンダードにしていくことにつながります。

 そして、彼らにうまく自立してもらうためにも、就労支援にも力を入れていきたいと思っています。ずっと苦しんできた依存症者に、やっぱり生きていてよかったと思ってもらいたい。かつて自分自身もそうだったように。そうして、仲間たちの居場所作りをやっていきたい。だから、林さんはあきらめません。

 富山ダルクでは、富山ダルク岩瀬太鼓海岸組として太鼓の演奏活動も行っています。最初バラバラで合いそうにもなかった音が全員合った時の喜びと達成感。そして、聴いた人が喜んでくれる充実感。みんなを一つにするためにも、岩瀬組の活動はずっと続けていきます。

 そんな林さんのストレス解消法は車やスノボ。基本、体を動かすことが大好きなのです。20年ぶりに同窓会に出ることもできました。誰も友達なんていないと思っていた時代も長かったけれど、同窓会に出て、声をかけてくれる同級生たちと再会して、本当にうれしかった。
 5年前には琵琶湖で開催されたダルクのフォーラムにお兄さんが来てくれて「元気か?」と声をかけてくれました。お兄さんの言葉に救われた気がしました。
 薬物依存症者は孤独な人が多いけれど、自分自身が周りの人に支えられたように、これからも林さんはみんなを支えていける自分でありたいと思っています。

 そんな林さんたち富山ダルクの岩瀬太鼓を、6月20日に聴く機会があります。
「こわれ者の祭典」×「見た目問題」in とやま〜生きづらさだヨ!全員集合!〜と題したイベントで、ダルクのような薬物依存症の人たちだけではなく、アルコール依存症や引きこもり、強迫神経症、摂食障害、顔面動静脈奇形など、様々に生きづらさを抱え、それを受けとめて自分らしく生きようとしている人たちによるパフォーマンスやトークライブが開催されるのです。富山ダルク岩瀬太鼓海岸組の演奏もその中で登場。
南砺市福野文化創造センター「ヘリオス」で午後1時開場、午後1時半開演で、なんと入場無料です。ぜひ皆さんも足を運んでみてください。

 林さんのこれからの歩く道はもちろん平坦なものばかりではないでしょう。でも、今の林さんは、そこを楽しめる気持ちがあって、なにより仲間がいる。きっとこれからも泥臭く、でもカッコよく歩いていかれるにちがいありません。
今日の人144.林 不二男さん [2015年05月18日(Mon)]
 今日の人は和楽グループ(法人5、学校法人1、協同組合1、美容室・貸衣装・エステ・美容学校)代表であり、共育和楽塾塾長としても、さまざまな講演会、セミナー、コンサルティングなどに引っ張りだこの林不二男さんです。
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 林さんは1964年に、富山市で生まれました。小さい頃は、もっぱら外で遊ぶわんぱくな男の子でした。林さんが4歳の時に、お母さんは和楽美容院を創業し、大変忙しかったので、林さんは親戚やご近所に預けられるのが当たり前の日々でした。寂しくないと言えば嘘になりますが、ご両親が自分に愛情をいっぱい注いでくれているのは十分感じていたので、むしろその環境を楽しんでいたといっても過言ではありません。

 小学校に入っても、野球や外遊びが大好きでしたが、「店のお姉ちゃんたちのおかげで
たべさせてもらっているんだよ」と躾の厳しい両親の元、店が忙しいときはお店の手伝いをする日々だったそうです

 小学校2年生からは千石町に住んでいたので、いわゆる街の子でした。周りは小学生の時から寿司栄(富山では有名な寿司屋)で食べているような裕福な子が多く、林さんもそういう友だちと遊んではいましたが、ご自身はとても厳格に育てられお小遣いも友人の数分の1でした。小学校3年生の時の夢は学校の先生でした。この夢はすっかり忘れていたのですが、総曲輪小学校130周年の時に、当時埋めたタイムカプセルを掘り出して、それで先生になる夢を持っていたことを思い出したのです。当時担任の先生が好きだったので、先生になりたいと書いた不二男少年でした。
 5年生の時になると、夢は美容師に変わっていました。バリバリ働き店も繁盛し、広げている母の姿がとてもかっこよく見えたのでしょう。当時美容師になりたいと言っている男子はいなかったので、笑われましたが、林さんはどこ吹く風でした。子どものころから度胸が据わっていたのです。

 中学生になると、本格的に美容師になりたいと思っていました。いや、もう一歩進んで美容室の経営者になりたいと思っていました。お父さんからは「鶏口牛後」を言われていましたから、無理していい学校に行くより、できる所でトップに立とうと思っていました。林さんには反抗期というものがありませんでした。ご両親とも厳格でしたが、心から尊敬していました。ご両親はお店がどんどん大きくなるときに、スタッフの教育にもとても厳しい人でした。そういうご両親の真摯な背中を見て育った息子には親に反抗するなどと、思いもよらないことでした。
 なんと林さんの家は門限が6時でした。それは高校に行っても変わりませんでした。そして林さんはそれを完璧に守ったのです。周囲が煙草を吸おうが麻雀をやろうが、流されることはありませんでした。ただなんとなくやる、というのは大嫌いでした。そして当時から徹底的にプラス思考でした。
 高校は富山北部高校に進み、軟式テニス同好会に入りました。同好会は2年生の時に部に格上げしたのですが、林さんは軟式テニスよりもクラスメイトとするバレーボールに夢中になりました。当時のワールドカップ女子バレーボールの影響を強く受けていたようです。毎朝、昼休みとバレーボールにのめりこんでいました。

 高校3年生の頃、林さんは東京の大学へ行って経営の勉強をしようと考えていました。美容師になるためには東京の情報は大事だし、いったん東京で就職して、いずれ富山に戻ろう、そう考えていました。そして帝京大学に進学したのです。

 林さんはお父さんに資産運用でマンションを買ってそこに住むことを提案しました。けれど、お父さんは人脈を広げるためにも富山県学生寮へ行けと強く勧めました。このお父さんの勧めは林さんの人生を大きく変えるきっかけを作ってくれました。富山県学生寮には東京大学や早慶の学生もいれば、偏差値の低い大学の学生もいました。これだけ色々な大学の学生がいるのが楽しくて仕方がなかった。そして、大事なのは偏差値ではなく、人間力だということをここで痛感したのです。2年の時には寮の自治会のトップに立ちました。寮の様々な行事をこなすうちに、将来、リーダーとして生きて行こうと決めたのでした。
 富山県学生寮のOBには政財界のトップクラスの人材が多く輩出され、寮出身というだけで大きなネットワークができました。お父さんに寮に入ることを勧められた時、なぜそんなに勧めたのか「あとからわかる」と言われたのですが、その言葉通り、このネットワークは本当に大きな財産になったのです。
 
 大学ではアーチェリー部に入りました。ここに1年後輩で入ってきたのが後の奥様になる人です。通学が一緒の方向だった彼女を明治大学の五月祭に誘い、6月30日から交際を始め、7月7日の七夕の日にはもうお母さんに彼女を紹介していました。彼女の両親にも付き合う前に「お嬢さんとお付き合いさせていただきたいと思っています」と挨拶に行きました。昔から筋を通すことを徹底していたのです。デートの後は必ず彼女の家の居間にあがり、将来の夢や富山の両親に対する感謝と尊敬の思いを語っていたそうです。

 大学の時から日経流通新聞(現日経MJ新聞)を読んでいて、記事から未来を予測するということもしていました。当時はバブル期、周りをを見ても明確にやりたい仕事があった人は少数で、皆仕事の条件だけで就活をしていたようです。

 大学4年の時に知人から勧誘された自己啓発セミナーで、林さんは大きな衝撃を受けます。ベーシックで感動し、卒業式も参加せず、箱根の山奥での合宿、4日間のアドバンスコースに進みました。その最後に「ノアの箱舟」というワークをやったのですが、そのワークは「今いる30人の中から3人だけを選んでください」というものでした。選ばなかった残りの26人には「あなたは死にます」と伝えなければならない極めて厳しいワークです。この4日間でみんなと深いところまで話し合って、仲良くなっていたし、自分は3人の中に選んでもらえるかもと思っていました。けれど、ものの見事に全員に「林さん、あなたは死にます」と宣告を受けました。学生生活で自信をつけていた林さんは大きなショックを受けました。この体験が、「自分はもっと人のために生きよう」と思ったきっかけになったのです。
 自己啓発セミナーを40代になってもむやみに受講している人もいますが、林さんはそういう類のものは、そんなにいくつも受けるものじゃないと考えています。変わる時には一発で変わる!変わらない人は変わる気がないからいくら受講しても何も変わらない。林さんはノアの箱舟の応用ワークを自社の新人研修などで使うことがありますが、素直な社員たちも見事に一度で変わります。
 林さんはハウツー本も一切読みません。そんなものに頼っているようじゃ絶対にいけないと。ハウツー本や自己啓発セミナーより自分のブレない軸を実践で作ることが大事です。
自分や世の中がどうあるべきか。何のために生まれてきたのか。自分の使命は何か。そのために今を生きることが何よりも大切だと考えています。

 こうして大学を卒業した林さんは、マネージメントも学べて美容師になれる美容室(株)田谷に就職しました。実は、就職する前に美容商材卸問屋がいいか、美容メーカーがいいか、それともこの美容室がいいか、3択で迷っていました。その時に相談したのは、会社の経営者でもあった彼女のお父さんでした。彼女のお父さんに「現場に入ったほうがいい」とアドバイスを受け、最終的に田谷(美容師)を選んだのです。こういう時に、彼女のお父さんに相談しちゃうところが林さんの素敵さの一端を表していますね。

 就職して最初の新人研修、50人の新人の中で林さんはいろんな場面で一人だけ積極的に手を挙げて発言していました。将来の夢はと聞かれると「田谷の営業部長です」と答えていましたし、それだけ元気な新人職員なので、社長の目にもよく止まりました。ヘアケア商品の販売でも4月は売上1位、5月は1位を逃して社長から「大したことないな」と言われたのに発奮して、6月からは1位。その後も常にトップ争いをしていました。
 バブルの真っ盛りで不動産屋の同世代のお客さんから「君は、大卒なのに、なんでこんなお金にならないことをやってるの?」と言われたことがあります。でも、林さんは当時手取り9万でずっとシャンプーをやっていようが全く気になりませんでした。むしろやりたい道に進んで楽しかった。お金をいただいて勉強できることに感謝していました。
 若手社員から6名だけ選抜される青年将校にも選ばれ、美容専門誌「美容と経営」の勉強会にも参加。その時から企画書を矢継ぎ早にあげていました。美容室にプリペイドカードを導入したらいい、フロンガス対策が必要だ、当時はまだ言われていなかったことを先取りして企画書にした林さん。もっとも時代の先を行き過ぎて、その意見が採用されることはなかったのですが。
 船井幸雄さんの異業種勉強会にも当時から参加していました。船井イズムをしっかり継承できているという自負があります。

 23歳で彼女にプロポーズ。お父さんから「来週もらいうけに行くから」と言われトントンと話が決まったのでした。あまり長い間女性を待たせるものではない、そういうご両親の気配りでした。そして24歳で彼女と結婚したのでした。

 就職して3年目、目からウロコ事件が起きます。それは松山の代表的な美容室、リオ美容室の創業者である橋本勝子さんとの運命の出会いでした。橋本さんはおっしゃいました。
 「あんた、今帰ったほうがいいんじゃない?営業部長になってから帰るのも一つだけど、26歳の目線で22人の和楽のスタッフと一緒にがんばったらいいんじゃない?営業部長になって肩で風切って何億も動かしたからって、帰っても誰もついてきてくれないよ」

本当にそうだと思いました。もちろん、葛藤はありました。就職して2年目の駆け出しの時に、結婚式に社長自ら出席したいと言われるほどかわいがってもらいました。それが3年目にやめるといったのですから、社長は引き留めに飛んできました。それはとても光栄なことでした。しかしながら林さんは社長に言いました。
「社長も昔はゼロからスタートされたではないですか。私もそうしたいのです。」
社長は納得してくれました。田谷イズムも十分に林さんの中に染み込んでいました。こうして、26歳の5月に、奥様と共に富山へ戻ってきたのです。

 帰ってくるにあたって、林さんはハサミを置くことを決めました。創業者ではない自分がプレイングマネージャーをやっても、中途半端になる。マネージメント一本で行こう、そう決意してハサミを置いたのです。ハサミを置いた以上、もうスタッフが頼みの綱になります。ここで林さんに新たな覚悟と決意が生まれたのでした。

 こうして社長である父や創業者である母と社員をつなぐパイプ役として帰った初年度からさまざまに動き始めました。帰った当初から新人教育を担当したり、様々な企画をしてみたり「不易流行」を意識し、継承から進化へ突き進んでいくのでした。
 1年後、お父さんからJC(日本青年会議所)に入会しろと言われます。富山県学生寮の時もそうでしたが、とにかく人脈を大事にしろというのがお父さんのポリシーでした。お前は2代目だからどんどん外に出ろ、そんな言葉に押されて、JCに入会しました。
 入会してみると、自分以外の同期は知り合いが多い感じでした。知り合いが全然いない状態で入会した林さんでしたが、仕事を切り上げて活動するのだから何か学び取ろう、何か役に立つことをしようと一生懸命でどんどん周りに注目されるようになっていきました。あるとき人脈を広げたい、という林さんに「それはちがうよ」と言ってくれた先輩がいました。富山いすゞ自動車の池田徳郎さんです。池田さんはおっしゃいました。
「林君、人脈より人望だよ」
ハッとしました。それからは人脈つくりより人望という言葉を胸に活動しました。
まさに人は人でしか磨かれない、それを教えてくれたJCでの活動だったのです。
 2002年に翌年の理事長に立候補し2003年にはJCの理事長に就任しました。
しかしそのプロセスには人生の反省を促される色々な出来事もあったようです。そして己の人生をもう一度見直しました。人に認めてもらえる理事長になるべくがんばろうと。

 2004年は日本青年会議所常任理事兼北信越地区会長として、地区や全国行脚することで、富山JCのポテンシャルの高さを実感します。そして、この伝統を伝えていかなければと思った林さんは、後輩の育成にも力を入れ始めました。
その一環で共育和楽塾も誕生したということです。

 共育和楽塾は未来を切り拓き、自律した自立型人間になるため、自ら学び、自らが変わり、行動する。そんな人財の育成を目指している塾です。塾長はもちろん林さん。口コミでどんどん広がり、今年は富山だけでなく、東京、軽井沢、金沢、魚津でも開催しています。全国に100名を優に超える塾生がいます。

 もちろん、和楽グループの代表としても日々、人財育成の日々です。「和やかに楽しい人財育成」LOCAL BLANDとして小さくて強い会社づくりを目指し、様々な取組みをされています。社員満足が顧客満足を得る。ですから、社員のことを徹底して考えた共育がなされている、それが和楽グループなのです。
「すなお」「プラス思考」「損得より善悪」「利他精神」「矢印を自分に向ける」「因我にあり」などの和楽スピリッツを伝承し、徹底して「信じて」「認めて」「任せて」います。
そんな林イズムの元で、たくさんの人財が育っているのです。

 自らも常に仕事と人生を楽しんでいる林さん。林さんは特別な夢は持ちません。今を真剣に生きていると次が見えてくる。そして、またその次に真剣に取り組んでいけばいい。どこまでも前向きでパワフルです。

 みなさんも一度林さんの講演を聴いて、そのエネルギーに触れてみてください。きっと帰り道はモチベーションMAXになっているに違いありません。
今日の人143.書家satoshi(片山諭志)さん [2015年05月16日(Sat)]
今日の人は、書家として大活躍で先日個展を終えたばかりのsatoshiさんです。
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satoshiさんは1975年7月19日に現南砺市の旧福野町で生まれました。心室中隔欠損症という先天的に心臓に穴が開いている病気で3歳の時に金沢で手術をします。小学校低学年の時は、体育は禁止されていました。
また、小さい頃は絵を描くのがとても好きな子でした。絵と言ってももっぱら写し絵だったのですが、時間も忘れて描いていました。

小学校3年生の時に、ソフトテニススポーツ少年団に出会います。その事が後の人生を大きく変えることになります。
この頃になると、普通に運動してもよくなっていたこともあり、ソフトテニスの練習にのめりこんでいきます。負けず嫌いということもあってメキメキ力を伸ばし、小学校5年の時には県大会で優勝。その後も県内では無敗でしたから、小6の時には本気で全国優勝を目指していました。

中学校ではソフトテニスが強くなることしか考えていませんでした。部活だけでなく、自主練でランニングや筋トレをし、中2からプロテインを飲み始め、とにかくテニス一色だったのです。中2、中3と北信越大会に出場。北信越大会ではベスト4に残入ると、全国大会に出場できます。そのことを目標としてやってきた中3の北信越大会でベスト8まで進み、ベスト4を決める大事な試合で3−1とでリードし、マッチポイントを2回とります。しかし、ペアが2回ともミスをし、そこから流れが変わり、3−4で負けました。(ソフトテニスはダブルスが主流)本当にあと一歩のところで全国大会を逃したのです。
けれど、そこでペアを責めませんでした。マッチポイントを2回も逃し、その後のプレーで気持ちを立て直せなかった自分の弱さをひしひしと感じていたからです。

高校は県外の強豪校に進学したかったのですが、母親が反対でした。地元の福野高校には、尊敬する先輩が行っていましたが、指導者がいませんでした。そしてどうしても来てほしいと声をかけてもらっていた高岡工芸高校へ進学します。

今でもそうなのですが、当時から硬派でかっこよく、とてもモテました。城端線と氷見線を乗り継いで通学していたのですが、通学途中の女子高生たちのあこがれの的だったのです。けれど、本人はテニス一筋でした。当時からメンタルトレーニングや栄養学の本を読み、常に強くなるにはどうすべきかを常に考えていました。「こうする!」と自分で決めたことは徹底的にやる超ストイックな高校生だったのです。

高校2年の時は、先輩とペアを組んで、県総体優勝。先輩が引退し、ペアを組んだ同級生は高校に来てからソフトテニスを始めたような素人に近い選手でしたが、それがきっかけでものすごく勉強になったとsatoshiさん。なにしろ逆境で燃えるタイプ。3年になってから、1,2年の時の倍の練習をこなしました。ペアは下手だけれど、すごく純粋で素直で努力家でした。諭志さんは高校2年からキャプテンを務めていたのですが、その時から先生は部活のやり方に一切口を出しませんでした。練習メニューから何から何までsatoshiさんが決めていましたし、部員もそんな諭志さんを慕っていました。そうして、3年の時は先輩も成し遂げられなかった団体・個人も優勝を果たしたのです。

中学生の頃から大学はテニスの名門「日体大」に行くと決めていた事からスポーツ推薦入試を受け、セレクションでも推薦枠である8人の1人に選ばれ、日体大でさらにソフトテニスへの道をひた走ることになりました。大学へ入ると合宿所に入寮するのですが、ここでは1年生から4年生までが同部屋になります。そして、1年生は3年生の、2年生は4年生の付き人になるのですが、satoshiさんはいきなり、当時の大学チャンピオンの付き人に。とても緊張もしましたが、大変うれしいことでもありました。しかし、一時たりとも気を抜ける時間はありませんでした。なにしろ1年生の門限は6時でしたし、先輩の付き人以外にも掃除当番や食事当番など様々な仕事もありました。

satoshiさんはいつも同級生の誰にも負けないくらい大きな声を出してひたすら頑張りました。常に1軍にはいたのですが、なかなか結果が出せずにいました。3年の夏の大会が終わった時、人生で初めてと言っていいくらいの挫折感を味わっていました。なぜ、これだけ真剣に取り組んでいるのに、結果がついてこないのだろう…。チームも不振だった時期でありそのことを見かねて、監督がいろいろなアドバイスをしてくれました。それがきっかけとなり、3年の秋からはおもしろいくらいに結果が出せるようになったのです。

そして大学4年の全日本学生選手権のダブルスで優勝。ついに日本一の栄冠に輝いたのです。

実は、大学に行く前から、卒業後は地元に帰って福野町役場に就職すると決めていました。スポーツ少年団に在籍していた時から、日本各地や海外との交流をさせてもらいコーチの方や役場の方々に大変感謝していました。そして今度は自分がスポーツで地元に貢献したい!そう思っていたからです。教職課程もとっていて、母校に教育実習にも行きましたが、自分は教師として子どもたちに接するのは何かちがうな、と感じたのです。もっとも、教育実習に行っている間は「あの片山さんが来ている!!」というので、生徒たちからも、そしてその父兄の皆さまからも熱い眼差しを一身に受けていたのですが…。当初の思いを曲げることなく、福野町役場(現在は南砺市役所)に就職して、体育施設の管理や事務仕事をし、夜は社会人選手としてソフトテニスに取り組みました。

社会人になって、まず思ったのは、なんて自由なんだろうということ。大学時代はずっと1分1秒に追われる生活でしたから、社会人になって初めて自由な時間ができたのです。卒業して最初の年は、神奈川国体で8位。富山県が国体のソフトテニスで入賞したのはこの時が初めてでした。そして2年目の熊本国体が2位。3年目の地元開催になった富山国体では3位、次の宮城国体では2位に輝きました。
北信越のインドア大会ではなんと6連覇、全日本クラブ選手権2連覇、東日本大会では2位と、社会人になってからも華々しい活躍を続けたのです。そうして、31歳の兵庫国体をもって現役選手から引退しました。

その後は本格的に中学生の指導に力を入れ始めます。指導に少しでも役立てたいと様々なジャンルの本もたくさん読み漁りました。コーチングのセミナーを受けた時には、今まで怒鳴り散らして教えていたけれど、子どもたちの力を引き出していないのは実は自分だった!と気付いて、指導方法を180度変えました。変える、直すというベクトルを選手ではなく、まず自分に向けるようになりました。福野中学校では、自分の学んだことを生徒達にわかりやすく伝えるソフトテニスクラブ通信も発行していました。そうして指導した生徒の中には、現在ナショナルチームで活躍している選手もいます。

そんな風に自分自身がいろいろな学びを続ける中で出会ったのが、福島正伸さんだったり、てんつくマンだったりしました。そして中学生にテニスを指導しているだけというのは何かちがうな、と感じるようになっていったのです。

もっと広い視野で何かしたい、そう思ったsatoshiさんは福野にてんつくマンを呼んで、てんつくマンの映画上映と書き下ろしのイベントを企画しました。インスピレーションで言葉を書く書き下ろしを見れば見るほど素晴らしいと思うようになりました。そして、自分も書きたいという思いが沸々を湧き上がってくるのを感じたのです。書き下ろした言葉を見て、涙を流して喜ぶ人たちがいる。自分の自己満足のためではなく、人のために書きたい、と心から思ったのです。

こうして6年前から筆を執るようになりました。書の心得があったわけではありませんが、書けば書くほどよくなると思い、毎週土曜の夜に富山駅の地下に座って書くことを1年間続けました。そして1年続けて確信に変わりました。これは自分が本当にやりたいことだということを。その時に、安定した公務員の職を辞めることを決意します。親や上司にはもちろん反対されました。けれど、昔から、決めたら引かないことを、ご両親は言われた時点でわかっていらしたのだろうと思います。むしろ説得に時間がかかったのは上司の方でした。

周りの人たちからも収入はどうするんだと心配されましたが、本人は一切そういうことは心配していませんでした。人のために、という強い思いがあった。これは俺の使命なんだ。もし、仮に収入がなくても、その時はバイトすればいい、そんな風に思っていました。

ちょうど役所をやめる前に役所近くの家で自殺した人がいました。これが現実だ、でもやっぱり自分はこれを止めたい。そのために書きたい。

最初の年はあちこちのイベント会場に出かけて書いていました。1年目は結構売れたのですが、2年目にガクンと落ち込んだ時期がありました。何かを変えるタイミングかもしれない。それまでは比較的丸くてかわいい字で書き下ろしを書き、パステルで色も付けていましたが、そこから作風を変えました。すると客層も変わって自分の中でも変化を感じていました。今までは誰かのためにと思って書いていたけれど、自分が「心から書きたい」に変わっていったのです。こうして、書の専門書からも本格的に学び始めました。

阪神百貨店に出店していたとき、たまたま隣のブースの女性が創作服を作っている人で、彼女はパリでファッションショーや個展もしていると言っていました。彼女ができるなら俺にもできる。なんだか妙な確信が生まれて、satoshiさんは3年目にニューヨークに一週間滞在し、書き下ろしをしてきました。ニューヨークなら、いろいろな国の人々を感じられる、そして最先端のアートが見られる!そしてそんな最先端のアートが集まっているにもかかわらず、書き下ろしは日本にしかありませんでした。書き下ろしは日本の誇りなのです。
ニューヨークに行ったのは2012年。東日本大震災に対する海外からの支援に対して感謝の思いを伝えたいというのもありました。そして、予想通り、とても楽しく充実した一週間になりました。路上に座った瞬間そこにずっと前からいたかのような感覚があり、とても落ち着きました。そんな中で最初から3時間ぶっ通しで書き続けました。来てくれた人の名前はすべて漢字で書きました。皆さんその書き下ろしを受け取って大喜びでした。通訳も頼んでいたのですが、訳してくれたのを聞いた時の皆さんのパフォーマンスがすごかった。ハグされたり、全身で喜びを表現されたり、それらの体験を通して、satoshiさんはなお一層、書き下ろしに確信を持ったのです。そして、言霊を大切にする日本の文化を改めて感じました。
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翌年には、再びニューヨークを訪問しチェルシーのギャラリーで企画されたの日本人の書展にも3点出品。その後、ロンドンとパリでも1週間ずつ滞在し書き下ろしをしてきました。

帰国してからは、本格的に個展へ向けての準備に入りました。イベントに出張する機会も減らし、創作中心の生活でした。個展会場もどこがいいか、下見を重ねました。そうして思い描くものと一番しっくり来る富山市民プラザを会場に選びました。

satoshiさんの作品へのこだわりは半端ありません。個展に出した101点の全ての空間設計に1ミリ単位にまでこだわりぬきました。それは、落款を押す位置を決める時でも、作品の余白を作る上でも、表具する上でも、作品の配置を決める上でも変わりありません。1ミリで表情、表現が変わる、だから妥協という言葉は諭志さんの中にはありません。

そうして開催された初の本格的な個展には、多くの来場者が訪れ、またたくさんの人が驚くほど長い時間会場で作品に触れてくれました。心地よくてずっとこの場にいたかった、そんな感想がたくさん聞かれたのです。作品を搬入して展示したばかりの時と、最終日では、明らかにその場の空気が変わっていました。作品とお客さんが創り出す空間というものをひしひしと感じた時間になりました。
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個展をこれからも続けていきたい、とsatoshiさん。もし、自分の命があと一日しかなかったら作品を書く、それくらい書くことが一番幸せで楽しい時間なのです。

そして今やりたいと思っていることがもう一つあります。それは子どもたち、特に中高校生にいろいろな生き方を伝えていくこと。そのために「道プロジェクト」を立ち上げました。それぞれ自分の道を歩いている南砺の大人5人が講師となって学校などで講演活動を行います。子どもたちにわくわくする人生を伝えたい−。正解なんてないんだよ。他の人じゃなく自分がわくわくするほうを選んで自分らしく生きてもらいたい。そんな思いで活動していきたい、そう思っています。そして、この講師はこれからどんどん増やしていく予定です。今の自分があるのもいろいろな生き方を見てきたから。だから子どもたちにもいろいろな生き方を見てもらいたい。

satoshiさんの創作は自分の体が資本なだけに、健康管理にも気を付けています。食材にもこだわりますし、野菜中心でほとんど自炊。基本外食はしません。そして、寝る前にはスクワットと腕立て伏せも欠かしません。
 
自然の中にいるのも大好きです。植物や樹木から学ぶことは本当に多い。そうして常に自然と自分の気持ちをリンクさせて物事を考えるようにしています。それが創作へのインスピレーションにもつながっているにちがいありません。

テニスラケットを筆に持ち替えても、自分に厳しく妥協しない姿勢はずっと変わりません。そんなsatoshiさんから、この先どんな作品が生み出されていくでしょうか。これからも目が離せませんね。
今日の人142.川田真紀さん [2015年05月02日(Sat)]
 今日の人は看板屋さんとしてたくさんの看板を製作し、また「なんと里山なりわい塾」で地元の間伐材で割り箸活用を進めたり、里山を守る活動について小学校などで特別授業をしたりして幅広く活躍中の川田真紀さんです。
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 真紀さんは福光生まれの福光育ち。小さい時は山の中を走り回るのが好きでした。背戸の川のほとりでおままごとをしたり、友達と秘密基地を作ったり…。でも、ある日、秘密基地で火を炊いているのを爺ちゃんに見つかってしまったからさぁ大変!真紀さんは蔵に閉じ込められてしまったのです。南砺市の家は大きくて、蔵のあるうちもたくさんあるのですが、蔵に閉じ込められるのはそれは怖かった。なにしろ蔵には光が差し込まないので、真っ暗になってしまうのです。それが幼心に怖くて怖くて仕方がなかったのでした。それ以外にも、何かいたずらをしたり時間を守らなかったりしたら蔵に入れられました。入れるのはいつもお父さん、そして出してくれるのはいつもおばあちゃんでした。

 真紀さんには弟がいるのですが、弟さんは体が弱く、いろいろな家の仕事をやらなくてもよかったので、不公平だなぁと感じていました。昔の家は家中みんな働き者で、まして農家もしていましたから、真紀さんも子どもの頃から働くのが当たり前、働かざるもの食うべからず、という感覚でいました。稲刈りの後の落ち葉拾いなども決まって真紀さんの仕事でした。
  
 おばあちゃんはいつも「女も手に職があるといい」と言っていて、父方のおばが3人共看護師をしていたこともあって、真紀さんもいつの頃からか将来は看護師になろうと思うようになっていました。一方、お母さんが独身の時からデザインの仕事をしていて、結婚後はペンキ屋さんで看板を作る仕事をしていたことも影響してか、デザイン関係にも興味がありました。それに真紀さん自身、美術の成績がとってもよかったのです。
 看護科かデザイン科か、乙女心は揺れましたが、高校の体験入学をした時に、高岡工芸の印象がよかったので、デザイン科に進むことに決めたのでした。

 実は若い時にデザインの仕事をしていたお母さんからは「あんたがおらんかったらこの家出て行っとったわ」とよく言われていました。「かたい子(富山弁でいい子という意味)でおれ」といつも言われていました。だから、かたい子が価値があって、かたい子なら愛してもらえると思っていた真紀さんは、かたい子でいるためにいっつもお手伝いをしていたし、先生にも可愛がられるようにしていました。
 事実先生にはとても可愛がられました。それが他の子には真紀さんばかりが贔屓されているように写ったのです。ある出来事がきっかけで6年生のある時期にクラスのみんなから無視されていたことがありました。でも、かたい子でいなくてはいけないという思いが強かった真紀さんは誰にも相談できず、ただ耐えました。そんな真紀さんにそっと励ましの手紙をくれた友だちがいました。偽名を使ってあったけど、それが誰かははっきりわかりました。本当に嬉しかった。

 そんな日々の中でのある集会でのことです。校長先生の話に真紀さんの心は大きく揺さぶられました。校長先生は仏教でいうところの七施のお話をしてくれました。その中に和顔悦色施(わげんえつじきせ)「にこやかな顔で接する」 という話がありました。たとえイヤなことがあっても、笑顔でいる。笑顔でいると周りにいる人も笑顔になれる。そんな話だったのですが、それを聴きながら、真紀さんは自分の中の価値観がグワンと回転する感覚になったのです。
 今まで自分は自分のことを可哀想だと思い、してもらうことばっかり考えていた。だからいつもしてもらえないという不満を抱いていた。そうじゃない。自分が笑顔になって周りも笑顔にしていけばいいんだ!そう思ったのです。6年生でそう素直に思った真紀さんの感性がすごい!そして、もっとすばらしいのは真紀さんは思うだけではなく、実際にそれを実行したのです。そうすることで、真紀さんのことをシカトしていた友達が少しずつ真紀さんに話しかけるようになっていき、最後には真紀さんを無視し始めた一番の元だった人とも仲直りできたのでした。

 お父さんが本を読ませるのが好きだったこともあって小さい時から読書好きだった真紀さん。お父さんが仕事の時に砺波の図書館に連れて行かれ、そこで一日過ごすこともありました。それはちっとも苦ではなく、むしろ好きな本に囲まれる素敵な時間だったのです。

 中学校では美術部に入り、運動会のマスコットを描くなどもしていました。クラスで漫画を描くのが流行っていて、同人誌も流行り始めた頃でした。真紀さんも中3の時に同人誌を作り、学校で友達に売ったのですが、それが先生にバレて怒られて廊下に正座させられたこともありました。
 天然パーマなのに疑われて、先生に水をかけられたこともあります。パーマだと水をかけるとくしゅくしゅっとなりますが、天パだと水をかけるとまっすぐになるのです。それでまっすぐになったのですが、先生は謝ってくれなかったので、腹が立って五分刈りにしちゃったこともありました。でも、その年最後の給食についてきたケーキを先生が真紀さんにくれたので、少しは先生も悪いと思ってくれていたのかな、とその時思ったのでした。

 そんな少女時代を過ごして工芸高校のデザイン科に進んだ真紀さん。お母さんは賛成してくれたのですが、お父さんは工芸高校に行くことに反対でした。なにかうまくいかないことがあると、それみたことかと言われるので、絶対に言わないようにしていました。高校からは一番遠いところから通っていた真紀さんでしたが、そういうこともあって、親に送迎を頼むことはまずありませんでした。そうは言ってもやはり娘のことが心配だったのでしょう。よほど雪がひどいような日には迎えに来てくれました。

 卒業したらすぐ手に職を持ちたいと思っていた真紀さんは、最初伝統工芸の道に進もうかとも考えました。でも、加賀友禅の世界に入った先輩がちっとも楽しそうじゃないのを見て、気持ちが揺れました。ちょうどその頃はまだ、映画の手描き看板が出ている時代でした。映画看板カッコいいな、そうおもった真紀さんは看板屋さんに就職したのです。しかし、そんな簡単に映画看板を描かせてもらえるはずもなく、普通の看板ばかり描くことになったのでした。しかし、それでもプロの世界はやはり厳しく、最初は思うように描けない日々。常に先輩のしていることを見ないとちゃんとできない、そんな世界でした。でも、何度も失敗を重ねて、ある日フッと出来るようになる瞬間があるのです。それがとても嬉しかった。

 こうして少しずつ仕事を覚えていった20歳の時、ばあちゃんが亡くなります。その日の朝、ばあちゃんがむくんでいるのを見た真紀さんは「病院に行ったらいいよ」と言ってそのまま仕事に出かけたのです。その朝、ばあちゃんが笑いかけてくれたのに、真紀さんは視線を逸らして仕事に行ってしまった。そしてばあちゃんは病院に行かずに亡くなった。そのことが猛烈な後悔として残りました。
 だから、ばあちゃんの代わりにじいちゃんの世話は私がせんなん、そんな気持ちでいました。真紀さんは私がじいちゃんを見る、と言ったのですが、お母さんが仕事を辞め、じいちゃんの介護にあたったのです。しかし、お母さんは仕事を辞め、家に入ったことで大きなストレスを抱え込みました。そして、お母さんの後を継いで、真紀さんがペンキ屋さんに入ったのですが、相当に苛酷な現場でした。そして苛酷な現場から家に帰っても、じいちゃんの介護が待っていましたから、この頃の家族はみんないっぱいいっぱいだったのです。そんな中で弟さんだけは大学生で家にいませんでしたから、とことんこの子は苦労しないようになっているんだなぁと真紀さんは思うのでした。

 そのじいちゃんも2年後に亡くなり、お母さんはまたペンキ屋さんに戻ってきました。母と娘が同じ職場で働く…かなり厳しいものがありました。
 そんな時に真紀さんの気持ちを晴らしてくれたのが、オートバイでした。400ccのバイクを乗り回し、ツーリング仲間とあちこち出かけるのが何よりも楽しかったのです。

 その頃真紀さんは、ペンキ屋の社長が入会させてくれたローターアクトクラブの活動にも顔を出していたのですが、そこで知り合ったのが、旦那さんでした。6歳年上の彼は、千葉で働いていたのですが、うつの療養で実家のある城端町にいました。その時に2人は出会ったのです。
 真紀さんは彼の事情を聞いて、親切にしてあげんなん、と思いました。そうして一緒にカウンセリングの会に行って一緒に話を聞いたりしているうちに彼の状態がよくなっていきました。もしかしたら、私、この人のことを治せるかもしれない!そう思った真紀さんは、彼と結婚することを決意します。
 けれど両親は大反対でした。しかし、真紀さんは押し切りました。

 結婚後、彼は再起のために学校に行きたいと言いました。真紀さんも建築のことを学びたい気持ちがありましたから、2人で東京の専門学校に行くことにしました。昼は働きながら夜学の専門学校に通ったのでした。
しかし、お盆に彼の城端町の実家に帰省している時に、彼のご両親から「もうこっちに帰ってきてくれ」と言われます。その言葉にほだされて、結局二人で帰り、そのまま彼の実家で暮らすことになりました。

 城端に住んで2年程は前のペンキ屋で働いていたのですが、ある人間模様を垣間見たことがきっかけでそこを辞め、仕方なく、という感じで独立しました。それが20年程前のことです。

 その後、婦人会で出逢った人から頼まれて、看板屋の傍ら、学校の心の相談室で支援員もやりました。本好きだったこともあり、図書室で司書の補佐もやりました。心の相談室ですから、発達凸凹を抱えた子たちがやってきます。やりがいもあって13年やりました。しかし、自分には専門的なスキルがないのに、そういう凸凹のある子の相手をするのはどうなんだろう、次第にそう感じ始めた真紀さんは、ちゃんと専門的なスキルを持っている方に支援員をバトンタッチしました。

 そうして支援員を辞めた時に、ちょうど「なんと里山元気塾」に入りました。里山で水害が起こるのは、ちゃんと山の手入れをしていなかったから、そういう話を知っていたので、自分にもできることを探したい、そういう気持ちが芽生えました。
 そして真紀さんが考えだしたのが、「きくばりプロジェクト」でした。柱や建材にならない木でも割り箸にすることはできる。そうして里山の木の手入れをすることで、里山が荒れていくのを防ぐことができる。そしてそうやって作った割り箸の袋詰を福祉作業所の方に頼みました。この袋がまたとても素敵です。
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また子どもたちとワークショップも開催しています。変わらない山河を子どもたちに残したい。それはひいては、未来の子どもたちのためにやりたいという自分のためなのだと真紀さん。

友人と一緒に3か所で手植え手刈りの稲作も始めました。完全に自給自足生活というわけにはいかないけれど、自然と共に暮らす、それがとっても心地いいのです。

 そして、つい最近有志と「道プロジェクト」もスタートさせました。真紀さんを含むそれぞれに自分の道を歩いている南砺のスペシャリスト5人が講師になって学校で講演活動を行います。子どもたちにわくわくする人生を伝えたい−。何が正解なんてないんだよ。他の人じゃなく自分がわくわくするほうを選んで自分らしく生きてもらいたい。そんな思いで活動していきたい、そう思っています。

 南砺の地で、しっかり地に足をつけて活動を続ける真紀さん。きっと真紀さんと一緒に活動したいという方の輪はこれからますます広がっていくことでしょう。これからもその素敵な生き方をたくさんの方に伝えていってくださいね。
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