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今日の人177.種市尋宙さん [2018年07月01日(Sun)]
 今日の人は、富山大学医学薬学研究部助教の種市尋宙(たねいちひろみち)さんです。
種市先生は小児医療の最前線に立ち、子育てに悩む親御さんの悩みに真摯に向き合っていらっしゃる本当にステキなお医者さまです。
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 種市先生は1973年5月5日に新潟市で生まれました。小児科医なので子どもの日生まれというのはちょっと自慢です。
 小さい頃は電車ごっこが大好きで、電車を見るのも好きでした。父方のじいちゃんちが八戸に、母方のじいちゃんちが飯山にあるのですが、遊びに行く時に電車に乗れるのもすごく楽しかった。アニメもロボットものより銀河鉄道999が好きでした。そういうわけでその頃は将来電車の運転士さんになりたいと思っていました。

 妹が2人いますが、親に「お兄ちゃんなんだから」と言われるのがイヤでした。種市先生自身がまだ小学校の低学年の時に、妹がケガをして血を流したことがあったのですが、「なんでちゃんと見ていなかったんだ」とお父さんから怒られ、理不尽さを感じたのをよく覚えています。自分がそういう思いをしたので、自分の子どもにはそういうことは絶対に言わずにおこうと思っていたのですが、自分が親になった今、「お兄ちゃんだろ」とつい言ってしまうなぁと種市先生。そのお気持ち、よくわかります。

 種市先生はちょうどガンダム世代なので、周囲はガンダム好きな子がたくさんいましたが、プラモデルを作るのが得意ではなく、ガンダムにもそんなにはまることはありませんでした。周囲の人達に言われていたこともあって、子どもの頃は自分は不器用だと思い込んでいたのです。後々それはちがうということに気付くのですが、子どもの頃はとにかく言葉の影響力は大きいので、子どもが自信を失うような言葉は使うべきじゃないなと、今は強く思うのでした。

 小学校に入ってからは、とにかくたくさんスポーツをしました。小学校1年生からプールに通い始め、3年生になってスポーツ少年団に入ると、プールの他にもスケート、スキー、遠泳、野球ととにかくいろいろなスポーツに挑戦。5年生からは小学校の野球部に入って超ハードに練習したのですが、とにかく指導が厳しかった。新潟市の中でも3本の指に入る強いチームだったのですが、あまりにスパルタ式だったので、しまいには野球が嫌いになってしまったのです。レフトを守っていた種市先生は、エラーした時に監督に怒られるのが怖くて「こっちに飛んでくるな」と思うようになってしまったそうです。そう思うと体が動いてくれるわけもないのでした。スポーツの指導者の中にはいまだにこのスパルタ方式をとっている人がいますが、脳科学的に見てもそのやり方でいいことは何もないのです。

 種市先生は小学校5年生の時に見た南極物語に強い感銘を受け、その感想を書いた時に、担任の先生にすごく褒められました。全学年の中で一番いい!と太鼓判を押されたのです。それはとても嬉しかった。でも本当に感動したので、そこまで熱い感想文が書けたのだと思っています。そして「将来は南極観測隊の一員になりたい!」というのが、小学校高学年時代の夢でした。

 中学校は地元の公立中学へ。中学校が荒れていた時代です。野球はもうイヤになっていたので、サッカーをやりたいという気持ちもありましたが(キャプテン翼の影響もあってサッカーはすごく人気がありました)、サッカーは小さい頃からやっていてすごくうまいやつがいるだろうし、怖い先輩もいる。怖い先輩のいない部に入ろう、ということで選んだのがバスケットボール部でした。コーチがおらず自分たちで自主練をしている部活でした。和気あいあいとはしていましたが、弱小チームでした。

 しかし、中学2年生の時に新潟市から上越市に引っ越すことになりました。新しい土地で上越教育大学附属中学校の編入試験を受け合格。そこには確かに荒れた子はいませんでしたが、多様性がない環境はなんだかちがうような気がしました。その意味で種市先生は二つの中学校を経験できたことはとてもプラスになったと思っています。最初から附属に行っていては、きっと見えないものもたくさんあっただろうから。
 部活はやはりバスケ部にしました。しかし、ここもそこまで部活に力を入れる中学校ではありませんでした。その頃は南極観測隊よりも、子どもに関係する仕事がしたいと思うようになっていました。小さないとこと遊ぶのも好きだったし、熱中時代や教師びんびん物語など、教師のドラマが結構あって、先生になるのもいいなと思っていたのです。

 高校は公立の進学校でしたが、制服もない、校則もないという先進的な学校でした。
やっぱりサッカーをやりたい、そう思った種市先生はサッカー部に入ります。中学校とちがって練習はとても厳しい部でした。しかし、その厳しさは小学校時代のスパルタ方式とはちがいました。生徒の力を信じ、お前ならできる、というスタンスで監督が接してくれました。どんなに厳しい練習でもつらさを感じなかったのは、監督に信じてもらっているという自信が大きかったにちがいありません。そして種市先生は、高校に入ってからサッカーを始めたにも関わらず、1年生の時からレギュラーに抜擢されたのです。きっと監督は種市先生の運動能力の高さと精神力の強さを見抜いていたのでしょう。
 
 そうしてサッカーに打ち込んで迎えた高校3年の6月のインターハイ予選。チームは2回戦で強豪校に勝ち、勢いづきましたが、3回戦で負けるはずのない相手に敗戦を喫してしまったのです。このショックは大きかった。ここで負けると3年生は自動的に引退です。引退後、受験勉強に専念するかと思えばさにあらず。種市先生は6月から2か月、勉強もせずに遊んでばかりいました。そんな時に、監督から9月の県予選の大会に出ないかと声がかかります。9月の大会に出る、サッカーを続けると告げた時、お父さんは猛反対しました。それでなくても勉強に性根が入っていないのに、この上まだサッカーを続けるとは何事だ!とこっぴどく言われました。しかし、お母さんが陰で応援してくれて、なんとかサッカーを続ける道筋ができたのです。
 ここで種市先生は本気になりました。「よし、空いた時間は徹底的に勉強しよう!」それからは隙間時間を勉強にあてました。9月の大会に出るのですから、夏休みも当然練習があります。種市先生は朝早く学校に行き、勉強してから練習に参加していました。
 こうして迎えた最後の大会。最後は劇的な負け方をしてしまうのですが、インターハイ予選の時の後悔はありませんでした。やりきった充実感がそこにはありました。
 
 勉強に集中するようになって、種市先生の成績はぐんぐん伸びました。監督に9月の県予選に誘われた時に、もし断っていたら、こんなにも集中して勉強することはなかったでしょう。そして、子どもに関わっていきたいという思いは変わっていませんでした。医学部に入って小児科医を目指そう、そう決めてさらに頑張りました。

 サッカーしている時にいろいろ言っていた精神科医のお父さんもその頃には息子の頑張りを見て、認めてくれるようになりました。種市先生は小さい時からお父さんっ子で、お父さんのことが大好きだったのですが、一旦引退した後サッカーをやることに反対された時は「なんで認めてくれないんだろう」と反発心も抱いていました。でも、今、考えるとこの時のお父さんの気持ちがよく分かります。本気で心配してくれて、期待してくれていたからこそ、息子に厳しくしたのだと。実際、お父さんがすんなりサッカーをすることを認めてくれていたら、あそこまで真剣にサッカーと勉強を両立させることはなかったと思うのです。そして、どんな時も懐深く子どもたちのことを理解して支えてくれたお母さん。そんな両親には感謝しかありません。両親に恥じない医者であるためにも、常に誠実であろうと思っている種市先生なのでした。

 こうして、種市先生はストレートで富山大学(当時は富山医科薬科大学)の医学部に合格。
大学でもサッカー部に入り、種市先生がいた6年間はサッカー部の黄金期で、後にも先にもその時がいちばん強かったのです。その時のサッカー部仲間のお一人がブログで以前ご紹介した野上先生です。種市先生、野上先生、そしてあとお2人の4人が同期のサッカー仲間です。種市先生の同期は現在1割も大学には残っていないのですが、不思議とその4人は全員大学に今も残っています。今も4人で集まると、学生時代に戻って何も気を遣わずに心から笑い合える。そんな仲間がいるのは本当に幸せですね。
 
 卒業後の4月から12月までは大学病院で働き、その後の1年半は県立中央病院に。そこに重い血液の病気の子どもが入院してきました。生存確率は10%。その時、種市先生はまだ24歳でしたが、30代であろうその子のお父さんがテーブルに頭をこすりつけて「お願いします。助けてやってください」と何度も頭を下げたのです。その姿を見て、種市先生の心に火がつきました。「よし、絶対に助ける、この子を助ける!」
 その時、病棟でその子がいちばんお気に入りの看護師さんがいました。その看護師さんと種市先生は結ばれることになるのですが、それはもうちょっと先の話です。

 次の年の4月に、種市先生は大学病院に戻ってこいと言われます。その子のことが気になって大学病院に連れていきたいと言ったけれど、それは病院側に断られました。けれど、その頃にはもうその子は助かるという確信はあったので、後輩に引き継いで、大学病院に戻ったのでした。帰って3年目からは大学院に。臨床のスキルアップをしたい時に研究もしなければならないジレンマもありました。そう、種市先生はとにかく現場がお好きなのです。そうして大学院で3年半研究もし、医者になって7年目からは糸魚川の病院に派遣されました。

 この糸魚川での3年間に本当にたくさんの症例と出会い、大変貴重な3年間を過ごすことになります。種市先生は常に子ども達の様子をよく観察しています。そこから見えてくるものがたくさんありました。

 きっと皆さんもカメを触ると病気になるよ、というのは聞かれたことがあると思いますが、世の中に警鐘を鳴らしたのは実は種市先生なのです。
 昔、よくお祭りでもカメを売っていましたよね。その頃、家でカメを飼っている子どもたちがたくさんいました。サルモネラ菌で食中毒になる子の家でカメを飼っていることが多いと種市先生は気づきます。多分3分間診療をしていたら、そこまでの話は出てこないでしょう。でも、種市先生はお母さんと子どもたちとの話を大切にします。だからカメのことにまで思いが及んだのでした。カメの甲羅にはサルモネラ菌がたくさんついている。子どもたちはカメを触った手でそのまま何か掴んで食べてしまう。それでサルモネラ菌にやられて食中毒になってしまっていたのでした。カメがサルモネラ感染症の原因になることは日本ではあまり知られていませんでしたが、種市先生が警鐘を鳴らし、それをテレビ番組が取り上げたことで一気に広まって、今はみんなが知っている常識になったのです。

 また海水パンツをはいていた子のおちんちんが水膨れになってしまうということが続いた時に、種市先生は海水パンツの裏地についているメッシュの目が粗い時に、その孔に皮がはさまってしまうからだということに気付きました。そこで、先生はメディアでそれを発信しました。そのことによって衣料界のガイドラインが変わったのです。ですから、今、日本で作った水着は目の粗い裏地のついたものはありません。種市先生は言います。治しただけで終わりにしてはいけない。次の子を出さないことが大切だと。そのためにちゃんと情報は出す。「予防のための発信力」とても大事なポイントです。そしてこれはどんなことにも通じると思います。当事者はわかっている、でも、他の人は知らない。知らないから仕方ないよね、ではなく、ちゃんと声を上げていかなければ、届くはずもないのです。それなのに、何もやらずに何も変わらないと言っている人のなんと多いことか。自戒を込めて感じました。
 ちなみにこの海水パンツ、国内で作ったものは大丈夫なのですが、外国製だとまだ目の粗いメッシュの裏地のものがあるそうなので、男の子をお持ちの方はぜひ一度チェックしてみてくださいね。

 この糸魚川で過ごした3年で、臨床の感覚をすっかり取り戻した種市先生。先生は糸魚川にいた時に、上述した看護師さんと結婚されたのでした。そして、もっと現場を極めたいという思いが強くなり、大学に救命救急をやりたいと交渉していました。

 こうして念願叶って西東京地域の3次救急の患者が全部運ばれてくるという救命救急の砦、国立病院機構災害医療センターでひたすらトレーニングの日々を1年間送ったのです。しかし、大学からまたもや戻ってこいと言われ、またこれ以上やっていたら救急の魅力にとりつかれてしまうという思いもあって、後ろ髪を引かれつつも大学に戻ったのでした。

 そして、大学病院に戻ってからの種市先生は、富山での小児救急のパイオニアとして大車輪の活躍をされているのです。先生は海外留学をしてさらに学びたいという思いも抱えていらっしゃいます。

 種市先生の現場は、常に生死を伴う分野です。そして、いろいろな思いをぶつけてくる小児患者さんのご家族もたくさんいることから多くの問題に対峙してきました。でも、問題が起こった時に逃げてはだめだ、親御さんも真剣なのだから医者の論理で上から話してもそれが通じるはずもない、だから、常に同じ目線で誠実に話す種市先生。問題が起こった時に逃げずに話した家族とは、強い絆が生まれます。どんな時も信頼関係を持って物事をやりたいのだと。本当になんて誠実なお医者様なんだろうと胸が熱くなります。きっとこんなお医者さまなら、子どもを病院に連れて行った時に、いろいろ話したくなるにちがいありません。
   
 そして実際、お母さんたちの中には、診察の時に、「ちょっとちがう話なんですが、いいですか?」と聞いてくる方がいらっしゃいます。種市先生はそんなお母さんたちの声をとても大事にします。どんなに忙しくても、それを嫌がっては絶対にダメだし、なんでも聞いてもいいんだという雰囲気にすることはとても大事だと思っているのです。そして、その「ちょっとちがうけど…」という話の中にこそ、医者が気付かなければならない大切なことが隠れていることがあるのです。

 最近、子どもたちに予防接種をさせない親御さんも増えています。SNSでの情報拡散等で予防接種は悪だと思い込んでいる人もたくさんいます。しかし、予防接種を受けさせない親御さんたちの中には、本当に受けないでいいのかと揺れ動いている人たちもとても多いのです。「全然ちがうんですが、ちょっと聞きたいことが…」と種市先生に聞いてきたのも、そんなお母さんでした。もしそこで先生が、予防接種は受けなくちゃいけないに決まってるじゃないかという態度だったら、お母さんはそこで心を閉ざしてしまうでしょう。そしてやっぱり絶対に予防接種なんて打たないと思ってしまうかもしれません。実際、母子手帳に予防接種の記録が書いてないことで、病院で白い目で見られ、医者に何も言えなくなっている親御さんもとても多いのです。種市先生は、お母さんたちが不安に思っていることを相談できる場の大切さを思います。そんな場を作らずに、ネットの偏った情報の方に向いてしまう不安を抱えたお母さんたちをどうして責めることができるでしょう。

 種市先生に相談されたお母さんは、その話が終わった後、廊下で泣いていらしたそうです。それまで1人で胸に抱えていた不安な思いをお医者様が誠実に聞いてくださって、そのお母さんはどれだけホッとしたことか。その涙がそれを物語っています。それだけお母さんたちが抱いている不安は大きいのです。それで種市先生は強く思ったのです。「お母さんたちの悩みを放置しちゃだめだ」そして動き始めました。種市先生は、お母さんたちから声がかかれば進んで話しに行っています。ちょっとした集まりでもいい。呼んでくれることで少しでも正確な情報を話したいと思っています。医者は患者を助けたいから医者なのです。1人でも救える命を救いたいと思うのが医者なのです。だから、お母さんたちに正確な情報を少しでも伝えたい、疑問に思うことはなんでも聞いてほしい、種市先生からはそんな強い信念が感じられます。

 種市先生は子どもの終末期医療の現場にずっと立ち会ってきました。臓器移植の子どもに付き添って渡米したこともあります。子ども達の移植は移動だけでも命がけなのです。でも、日本は先進国の中でも子どもの臓器移植が圧倒的に少ない。日本人の死生観のせいにされてしまうことも多く、死を語ることの難しさもあって、日本で臓器提供医療が成り立たないことのジレンマも感じています。でも、これはちゃんと話し合っておくべきことだと強く思います。今、お年寄りの終末期医療はいろいろ考えられるようになってきたし、エンディングノートのようなものもあります。でも、子どもの場合は皆、考えたがらないし、話したがらない。でも、そこにもちゃんと向き合っていかないといけない。

 子どもの死というのは、家族にとって耐えがたい苦痛です。そして苦しい状況におかれた人たちが自分たちで立ち上がらなければならないことがとても多い。種市先生も最初の頃はお父さんやお母さんに何もしてあげられないというつらさを味わいました。でも、今は家族のケアをしっかりやらねば、というミッションも担っていると思っています。病気の子どものいる家庭の兄弟をサポートしなければという思いもとても強くもっています。大きな病気を抱えた子がいるうちは家族のいろんな歯車が狂い、特に兄弟にかかる負担はとても大きい。だからこそ、その兄弟へのサポートもとても大切なのです。

 でも、家族がそんな苦しい思いをしないためにも、重篤な状態になる子どもを少しでも減らしたい。だからこそ、予防医学に力を入れていきたいと強く思っています。
それゆえ、予防接種の大切さも思うのです。ワクチンを打たないことでどれだけ多くの命が危険にさらされるかを、ちゃんとお母さんたちに話したい。それは1人でも救える命を救いたいという種市先生のつよい信念なのです。

 私たちは、SNSの情報やマスコミの情報に流されやすい傾向があるなというのを種市先生のお話を聞きながら反省を込めて感じました。メディアリテラシーの大切さを思いながら、それができていない。影響力の強い人に流されて、それをうのみにしてはいけない。何が真実かというのは、いろいろな話をしっかり聞くことも大切ですし、科学的なデータを自分の目でしっかり見ないといけない。その目を養うことをちゃんと学校教育の場から始めることの大切さを改めて思いました。
 
 もちろん、予防接種のことやいろんな医療のことについて疑問を持つのは、子どものことを思うからこそだというのも、私も2人の息子を持つ母親としてよくわかります。
でも、種市先生のように心から子ども達の命のことを考えているお医者様の声まで聞こえなくなっていては、それは子ども達にとっても不幸だと思います。だから、疑問を持っている方こそ、一度種市先生のお話を聞いてみてください。そこから見えてくるものが、きっとあります。

 

今日の人175.小泉英児さん [2018年05月30日(Wed)]
 今日の人は「施術院 空のヒカリ(クウノヒカリ)」院長の小泉英児さんです。空のヒカリは、全身のバランスを整え、神経の流れと内臓の働きを高める神経伝達調整(NTA)を軸とした施術院です。「どこに行っても治らなかった症状がよくなった」と小泉さんの所には老若男女を問わず連日患者さんが訪れています。
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 小泉さんは高岡市御馬出町で5人兄弟の次男として生まれました。兄弟が多いので小さい時から我慢することが多かったといいます。欲しいものをすぐに買ってもらえる友だちがうらやましくて仕方ありませんでした。両親、祖父母とも同居の9人家族だったのですが、小泉さんが頑固なことからおばあちゃんから育てにくい子だと言われていました。言うことを聞かず、家の外に出されることもしょっちゅうでした。家の教育方針がお兄ちゃんの言うことは絶対というものだったので、それを守ってお兄ちゃんに逆らうことはしませんでした。ただ、その分、下の兄弟たちとはよくケンカしていました。

 小学校は平米小学校。実は、小泉さんの親戚には高岡出身のプロ野球選手がいて、その姿を見て育ったので自分もプロ野球選手になりたいと思っていました。しかし、平米小には少年野球チームがなく、小泉さんのお母さんが働きかけて、少年野球チームができたくらいでした。こうして小学校3年生からは野球漬けの毎日となりました。
 高岡には古城公園という大きな公園があるのですが、小泉さんが遊ぶところはもっぱらそこでした。友だちと基地を作ったり魚やザリガニを捕まえたりして遊んでいました。お堀に落ちてしまったこともあるくらい活発でした。そんな風に外で遊ぶか、野球をしているかどっちかというような日々だったのです。
 相変わらずおばあちゃんには厳しくされていて、座る時に背中にものさしを入れて姿勢を正されたりしていました。家は貧乏ではなかったのですが、つましく暮らすのを良しとする教育方針だったのか、おにぎりも塩おにぎりしか食べたことがありませんでした。一度学校で好きなおにぎりを作ってもいいと言われた時に、みんなは様々な具を持ってきていたのに、小泉さんは塩だけ持っていったことがありました。『え?おにぎりって塩だけじゃないのか?』初めていろいろな具を入れるということを知ってショックを受けたのです。でも、そのおかげでハングリー精神が身につきました。

 中学校は高陵中学に。ここでももちろん野球を続けました。高陵中学は公立の中学校ですが、小泉さんの時代の高陵中学は中教研で県下でトップの成績を取るくらい優秀でした。そんな中、小泉さんはクラスで成績があまりよくなく、中2の時の先生は小泉さんのテストだけ教室に張り出しました。それはこんな風にだけはなるなという見せしめのためなのでした。他の生徒達には席替えがあるのに、小泉さんだけ固定の席にされていたくらいです。最初は『勝手にやってろ』と思っていましたが、先生がそういう態度なので、生徒も次第に小泉さんのことを馬鹿にするようになっていきました。これはさすがにこたえました。
 また中2の時は大けがもして野球が半年できませんでした。小泉さんのポジションはショートなのですが、練習にしても自分はこんなにやっているのに、なんでみんなはやらないんだろうとよく他の選手の態度にイライラしていました。そんな中での怪我だったのです。しかし、みんなと練習ができない間、独学でトレーニング方法について勉強し、単独トレーニングをしていました。怪我が治って復帰した後、みんなより遅れているどころか小泉さんだけ上達していたので、自分のトレーニング方法は間違っていなかったと思いました。それだけストイックに野球に取り組んでいたのです。
 中3になると、家出もしました。学校でも途中から全員にシカトされていて、本当に居場所がない状態でした。中学校が終わったら就職しようと思っていましたが、中3の時の先生から、「甲子園に行きたくないんか?」と言われ、私立の高岡第一高校の特待生の話を持ってこられました。 
 しかし、親は私立高校はダメだと言いました。親戚が高商出身のプロ野球選手ということもあって、高岡商業の自慢話ばかり聞かされていました。それに反発心を抱いた小泉さんは絶対に高商はいかないと決めて、その当時野球の強かった氷見高校を受験。成績が悪いと言われていたけれど、県立高校の普通科にすんなり受かったのでした。

 入ってみると氷見高校はとても地元色が強く、野球部の監督から、「高岡の奴は3年間レギュラーになれないけど、それでもいいか?」と聞かれます。でも、そこでシュンとならないのが小泉さん。逆に『なにくそ、必ずレギュラーになって監督を見返してやる!』と、毎日家でも血豆ができるほど素振りをし、トレーニングに汗を流す日々を送ったのでした。1年の時にもレギュラーになれそうだったのですが、それはつぶされました。でも、2年からはレギュラーとしてショートに抜擢されたのです。しかし、努力の甲斐むなしく、甲子園には行けませんでした。試合の前にキャプテンのうちに泊まり込み、一緒に練習もしたのですが、その子の練習を見て愕然とします。自分はホントに血豆をつぶすほど家でトレーニングしていたけど、その子は素振りもほんの数分するくらい。ああ、こんなんじゃ甲子園に行けるわけないじゃないか、と急に熱が冷めたのです。プロにも行きたかったけど、そもそもプロになる子は素質からして全然ちがうということも身近でまざまざと見せつけられたので、プロに行く道はあきらめました。

 それまで野球バカで野球しかしてこなかった小泉さん、ここでタガが外れました。夜遊びしたり家に帰らなかったりするようになったのです。しかし、野球を頑張っていたこともあり、私立大学からはいくつか推薦も来ていました。でも、それは全部断りました。
 しかし、親はどこでもいいからとにかく進学しろといい、お父さんも卒業したという柔道整復師の専門学校に入ることになったのです。しかし、柔道整復師の専門学校は柔道をやっていない学生はいじめの対象になりました。何かにつけてしめられることが多く、教科書を忘れただけで腕立て伏せを2時間やらされたり、殴られている学生もいたくらいです。また、柔道部だった学生は下駄をはかせてもらえるのですが、やっていなかった小泉さんはたった1点足りないだけで、留年の憂き目にあいます。しかし、これで持ち前の反骨精神に火がつきました。なにくそと1年間猛勉強したところ、次の年は楽勝で柔道整復師の国家試験にも合格できました。それまで全く読書もしてこなかった小泉さんですが、その時からいろいろな本を読むようになりました。

 こうして晴れて柔道整復師の資格を取り、整形外科に就職した小泉さん。しかし、その世界は、ドクターをトップとして形成されるピラミッド型で、ピラミッドの下の位置にいた小泉さんは、思ったことがあっても何も言えない、何も通らない、そんな状況だったのです。親にお金を返していたので、お金も全然たまらない、それでとうとう鬱状態に陥り、その病院は辞めました。
 次に働いたのは接骨院でしたが、ここでもグレーな部分をいっぱい見てイヤになってしまい、3か月で辞めてしまいます。
 そして、また別の整形外科でも働きはじめたのですが、ここもトップダウンの組織でした。小泉さんは専門職ではなく、バスの送迎係をやらされ、それについて意見したところ、君はそういうことを言えない立場でしょ、と言われ、また失意のうちに仕事を辞めることになったのでした。
 その後、特養ホームでの仕事を紹介されて、給料の話もしないままに働き始めたのですが、実際に働き始めると、とても安い給料で、結婚もしていた小泉さんはこのままでは食べていけないと整体とかけもちで仕事していました。
 そんな無理もたたったのか、急性腎不全を発症。水で体重が13sも増えてしまい、緊急透析が必要だと言われました。しかし、一度人工透析を受けると、その後ずっと透析を受け続けなければいけない体になってしまいます。それだと家族に迷惑をかけることになってしまうと、小泉さんは人工透析を断りました。パンパンになっていた体のむくみが、透析を断った次の日から奇跡的に引いてきて、2か月入院することにはなりましたが人工透析を受けずに済んだのでした。
このまま、組織の中で働き続けるのか、それとも自分が目指す道で行くのか、大病をした小泉さんの中で答えは出ていました。自分で開業しよう。
 こうして2015年に施術院 空のヒカリを開業したのです。

 実際にNTAに出会ったのはそこからさかのぼること5年の2010年のことです。実は、小泉さんは2009年にお子さんを死産で亡くされています。そういうこともあって、NTAの勉強を始めました。勉強初めてすぐに感銘を受けました。こういう価値観が世の中にあるんだ。なんだか世界がグルンと回ったような気がしました。いいと思うことも悪いと思うことも、全ては自分の心が作り出しているのだと気づきました。そうしてあらゆることに感謝することを始めました。見える状況はそんなに変わってはいない。けれど、人生が好転しはじめたのです。しかし、特養ホームでNTAを使った施術をやっても評価されることはありませんでした。それまで歩けなかった人が歩けるようになったりするので、逆に困ると言われることもありました。症状が軽くなると点数が減点されて、施設に支給される額も減るからです。

 そういうこともあって、小泉さんは独立の道を選びました。自身が病気になったことで、出会う人も変わりました。そんないろいろな人との出会いでここまで来れたのだと思っています。

 NTAは奥が深く、雲をつかむような感覚があります。やればやるほどますます奥行きが深くなるので、2回くらい本気で辞めようと思ったこともありました。でも、その度に、いや、この施術で救われている人がこれだけたくさんいる、信じてやっていこうと続けてきました。開業して一つの目標はクリアできました。しかし、やっていく中で、また迷いも出てきました。よくいつも目標設定しろと言われますが、それがしっくりきませんでした。単に喜ばれることを目的にしていてそれでいいのだろうか?腑に落ちないことが続いて自分がパニック障害のような状態になってしまったこともありました。そうしているうちに、ネフローゼが再発し、健康に不安を抱えているこんな自分がやっていていいのかという気持ちにもなりました。けれど、家族を抱えている以上生活がありました。
 不安や怖れに襲われている時に、笛奏者の福井幹さんに会う機会があり、そこで話をしている時に、不安や怖れがなくなり、ストンと落ちた瞬間がありました。人に喜ばれることが大義名分であるとしたらそれは水面にあるもの。それが息苦しくなるとしたら、そこにいるステージがちがう。ライトワーカー(光の仕事)という役割の人もいて、その役割のある人はニコニコ笑っていたらいい。それはやっていて自分も楽しいし、周りも楽しくする。でも、ライトワーカーの人が人を喜ばせるためにという大義名分を掲げるとしんどくなってしまう。メンターに欲を失くして自分を律するしかないと言われるととてもしんどい。そうではなく、自分も楽しめるライトワーカーとしての役割を担えているのならそうありたいと思った時に、心がすうっと軽くなりました。ですから、小泉さんは今、自分がやりたいことをやってできることを楽しんでいければいいなと思っています。病気に一喜一憂しないことも身を持って学びました。薬を使わない人体実験もしています。施術院の名前が「空のヒカリ」なのは、希望の光になれたらいいなという思いと空(くう)というのは根源でもあるからです。

 ある時、寝ている時に小泉さんに愛、希望、感謝そしてサハスーラという声が何度も聞こえ、頭にすうっと光が入っている感覚がありました。その時はサハスーラという言葉に意味があるとはわからなかったのですが、後にサハスーラとは第7チャクラ(頭頂)のことを意味すると知ったのです。光のエネルギーをツールにして自分の持っている色で仕事をしなさいという意味だと確信しました。自分も幸せでみんなも幸せになる世界を目指したい、小泉さんはそう思っています。

 興味のある人は一度小泉さんの施術を受けてみてください。西洋医学でもない、整体や接骨院でもない、大自然とつながるような不思議な感覚になります。身体の不調だけでなく、心の不調も和らげてくれるのが、空のヒカリなのです。


今日の人173.鵜飼ひろ子さん [2017年12月30日(Sat)]
今日の人は、インドに本部を置く国際NGOアートオブリビングのインターナショナル認定講師の鵜飼ひろ子さんです。ひろ子さんは、富山県で呼吸法を広めたい、そしてたくさんの人たちの笑顔が見たいという思いで、子育てをしながら活動中です。
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 ひろ子さんは氷見市生まれ。自営業の家で育ちました。両親も祖父母もとても忙しかったのですが、常に従業員のおばちゃんたちが10人以上いて、とてもにぎやかな家でした。しかし、両親が忙しすぎることもあって、ひろ子さんは自分は親に心配かけないように、わがままを言わないように、保育園の頃から常にそんなことを考えている子どもでした。そんなわけで自分を出さないことが癖になってしまった子どもらしくない子どもだったのです。

 保育園の頃はおませさんで、イヤリングをつけたり女の子らしい恰好をするのがとても好きでした。でも、ある時、襲われそうになるという恐ろしい目に遭い、女の子らしくしているのが怖くなりました。しかし、自分を出せないひろ子さんはそれを誰かに言うことをしませんでした。女の子らしくするのが恥ずかしい、そう感じるようになってしまったひろ子さんは、それ以来ずっとショートヘアで過ごします。女の子らしくするのはイヤだ、怖い、というひろ子さんの心の叫びだったのかもしれません。しかし、それは誰も知らないことでした。本当はもっと甘えていいはずなのに甘えられない。そんな子ども時代を過ごしたのです。
 その頃の日常は、友だちと外で虫捕りをしたり、海岸に基地を作って遊んだりして、家へ帰ってからは家業のお手伝いでした。ひろ子さんはどちらかというとおじいちゃん子でした。おじいちゃんは、戦争を体験してきたこともあって、よくひろ子さんに戦争話を聞かせました。厳しいけれど、情に熱いおじいちゃんのことが大好きでした。両親より祖父母と一緒に過ごす時間が長いくらいでした。しかし、小さい頃はおじいちゃんが好きだと素直に言えない子どもでした。

 ひろ子さんに転機が訪れたのは小学校5年生の時でした。ハンドボールを始めたのです。氷見はハンドボールの実力が全国でも有名です。やっているうちにどんどん好きになりました。その頃、特になりたいものはなかったのですが、まさにハンドボールが生きがいでした。

 中学生になっても当然のようにハンドボール部に入ります。体力テストでも常に上位で、ハンドボールをやっている自分を誇らしく思っていました。でも、やはり自分を外に出すことは苦手なままでした。反抗期って何だろうというくらい、全くもって従順な子どもでした。けれど心の中にはいつも何かしら素直に自分を出せないイライラが付きまとっていました。中3の時には全国大会にも出ましたが、自分にはスポ根が向いていないんじゃないかと思い始めてモヤモヤしていました。けれど、ハンドボールが強い氷見高校から推薦をもらい、疑問を持ったまま進学。

 しかし、モヤモヤを抱えたままだったので、スランプに陥ります。あんなに楽しかったはずのハンドボールが全く楽しくない、絶望的なものを感じるようになりました。
 実はひろ子さんはダイエットがきっかけで摂食障害にもなっていました。このままでは自分は本当にダメだと思ったひろ子さんは意を決して親に言います。「心が風邪を引いたみたいなので、病院に行きたい、」と。カウンセリングが始まって、ひろ子さんは初めて知りました。『ああ、自分のことを話してもいいんだ。ちゃんと私の話を聞いてくれる人がいるんだ。』
そこでハンドボールを辞めたいということも打ち明けました。そして、3年生のインターハイの2か月前にハンドボールを辞めたのでした。
 急に辞めて迷惑をかけたけれど、ひろ子さんはやっと自分を正直に出せるところに辿りつけた、と感じました。それがとても大きかった。でも、ハンドボールを辞めてしまった時、学校に行く目的を失ってしまいました。不登校気味になりましたが、補習をしてもらってなんとか卒業しました。
 カウンセリングに通っている中で、毎週来ているガリガリに痩せた子を見て、自分と同じように苦しんでいるそんな子どもたちの心のサポートが出来たらいいなと思うようになりました。中学生の時はキラキラしていたけれど、穴に落ちてしまった。キラキラしたところにいない自分だけど、自分に正直に素直になれることはホントに大事だと思うのでした。

 そして、作ることが好き、作ることで何か表現したい、と思うようになりました。最初はデザイナー専門学校に入ったのですが、自分の求めていたものと違うと感じて1か月で辞めてしまいます。身内が奈良に住んでいた縁で、ひろ子さんも奈良に行き、アルバイトをしながら自分を表現できる素材を探し始めました。その頃になると、摂食障害はほぼ治っていました。自分の体の痛みが生きている証だと感じていた状態をようやく脱することができたのです。

 そんな中で、陶芸の作家さんに出会います。手伝いに行って土を触る時間がたまらなく好きだったひろ子さんは、もっと陶芸を学ぼうと心に決め、京都造形大学の陶芸コースに通い始めました。そこでのバイト先の人が本当にいい人たちで、見守ってもらえる感が半端ありませんでした。彼らの陽気さに本当に救われたひろ子さんだったのです。

 そして、バイトで人生の大きな転機も迎えました。バイト先で、生涯の伴侶に出会うことになったのです。彼の明るさの中には、自分にはない何かがある、そう思いました。彼は京都大学の大学院でシナプスの研究をしていたのですが、なんとそこから飲食店に就職。結婚した2人は千葉に住み始めました。

 関東の陶芸仲間と作品展を開いたり、陶芸教室の手伝いをしていたひろ子さんですが、ある日突然作品が作れなくなってしまいます。一人の時間が多くなり、旦那さんは仕事で忙しい。モヤモヤが徐々に募っていきました。そんな時に、千葉から大阪に移ることになりました。

 大阪では身体や心のことをもっと学びたいと東洋医学のことについて学びました。カラーヒーリングやスピリチュアル系のことも学び、そんな中で呼吸法も薦められました。これがすごくよかった。その時、旦那さんはストレスMAXで口が開けられない等の症状がいろいろ出ていました。そんな時に呼吸法を旦那さんが受けたら症状がすごく改善されたのです。ハンドボールを辞めてからずっと暗いトンネルにいたような感覚が常にありましたが、呼吸法をやるようになってから、その暗いトンネルをすっかり抜けられたのです。そうして物事をポジティブにとらえられるようになりました。呼吸法をやることで自分のエネルギーの状態がよくなると、見え方も変わってくるようになったのです。

 お子さんがまだ1歳にならない頃、旦那さんは東京でもう少し学びたいと上京し、それを機にひろ子さんとお子さんは氷見に戻ります。最初は仮住まいのつもりでしたが、旦那さんも富山に来て、塾を経営し始めました。鵜飼塾という名のその塾は今、口コミでどんどん広がり、キャンセル待ちになっているほどの人気です。

 呼吸法に出会い、世界各地のイベントにも出かけるほど積極的になったひろ子さん。ドイツでのアートオブリビングに参加した時は世界中の人がヨガでつながるという感覚を体感しました。インドで伝統的なヨガに触れた時は、自分自身に出会えた、そんな感覚を味わいました。3歳の子どもを連れての参加でした。

 その後ひろ子さんは、富山で呼吸法を広げたいと思って、月に1回先生を呼ぶようになりました。そして次第にいろいろなクラスを開設するようになっていきました。たまった毒素を体外に排出してくれるスダルシャンクリア呼吸法。ビジネスマン、うつで苦しんでいる人たち、いろいろな人がこの呼吸法に出会うことで笑顔になっていきました。学校の中で行う思春期向けのプログラムもあります。

 人間関係で自分の足りない部分に直面した時に呼吸法に出会えたおかげで逃げなくなりました。楽しいこともあれば、大変なこともある中で、ひとつひとつのことに一喜一憂しなくなりました。

 そんなひろ子さんがこれからやっていきたいことは、呼吸法や瞑想を通して、幸せな人、幸せな家族を増やしていくことです。たくさんのストレスを抱えて息も出来なくなっているかつての自分のような人が、ストレスのとらえ方を変えて笑顔になれたらいいな、と思っています。呼吸法を行うことで、考えを過去や未来ではなく、うまく「今」に持ってくることができます。感情を呼吸のリズムでうまくもってこれるようになるのです。身体も心も軽くなる感覚が味わえます。

 ひろ子さん自身、今も毎朝必ず呼吸法をやります。だからきっといつも穏やかでとびきり素敵な笑顔なのですね。

 ストレスとは切っても切れない現代社会、いくらポジティブでいようと思っても、次から次へと湧いてくる厄介な問題、沈みがちなココロにたくさん栄養をくれる、そんな呼吸法を私も一度ぜひ体験してみたいと思いました。皆さんもご一緒にいかがですか。

 ひろ子さんの教室のお問い合わせは⇒https://ameblo.jp/hiroko-jgd/

今日の人172.新田八朗さん [2017年12月14日(Thu)]
 今日の人は、日本海ガス代表取締役社長で、富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田八朗さんです。
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 新田さんは1958年富山市生まれの富山市育ち。周りの友だちが「巨人の星」に夢中になっている子どもの頃、新田さんの興味があったのは「日立ドキュメンタリーすばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」でした。まだまだ海外旅行が高根の花だった時代。いつか一回は海外へ行きたい、そんなことを夢見る少年だったのです。

 富山大学附属小学校に通っていた新田さんは、小学校の図書室の本は全部読破した位、読書少年でした。心置きなく本が読めるからという理由で図書委員もやっていたくらいです。それはお母さまの影響も大きかったのかもしれません。忙しい家事仕事の合間に時間が出来ると、いつも本を広げている読書好きのお母さんでした。そして、新田さんが小さい時は国旗クイズと称して、毎晩本を広げてこの国旗はどこの国?とクイズを出すのでした。新田さんはお母さんとのそんな時間もとても好きでした。世界のことにいろいろ興味が湧いたのもそんな親子の時間が始まりかもしれません。そういうわけで、いつの間にか世界中の国旗を全部覚えてしまったのでした。

 お母さんは星の見える日には、新田さんに星座のことも教えてくれました。そうしてその星座にまつわるギリシャ神話も話してくれるのでした。そんな環境で育った新田さんはいつの間にかすっかり本の虫になったのです。
 低学年の頃は本の内容でわからないことがあると、お母さんに尋ねていましたが、高学年になっていろいろ質問していると、「今忙しいからまたあとでね」と言われることも増えてきました。ああ、これを聞きすぎてお母さんに恥をかかせてはいけないな、と思った新田さん、それからは富山市立図書館に通って自分でいろいろ調べるようになりました。なにしろ小学校の図書室の本は読破してしまっていたので、次はもっぱら市立図書館に通うようになったのです。図書館が家から歩いていける所だったのも幸いでした。

 もっとも、新田さんはずっと本ばかり読んでいたわけではありません。体を動かすことも好きだったので、友だちと外でドッジボールやサッカーもよくやっていました。児童会長もやっていたので、きっと子どもの時からリーダーシップを発揮していたにちがいありませんね。

 中学校も附属中に進み、新田さんはサッカー部に入りました。ポジションはレフトウイング。花形のフォワードです。中3の時には彼女も出来ました。デートは一緒にお好み焼き屋に行くというようなかわいらしいものでしたが、前日にお好み焼きを焼く練習をしていたのを懐かしく思い出します。その頃は携帯電話なんてもちろんない時代ですから、約束の電話をするのにも「電話にお父さんが出たらどうしよう」なんてドキドキしたものです。彼女とは「一緒に中部高校に行こう」と約束していたのですが、新田さんは先生から富山高校へ行くように振り分けられてしまい、彼女とは別々の高校になってしまったのです。

 こうして高校は彼女とは離れて富山高校の理数科へ。いつの間にか彼女とも会わなくなり、新田さんは理数科の中では落ちこぼれの部類でなんだかパッとしない高校時代なのでした。部活は高校でもサッカー部。しかし、サッカーよりも思い出深いのは、高3の時の運動会の騎馬戦でした。新田さんは下から2騎目の騎馬の騎手だったのですが、なんとあれよあれよと勝ち進み、敵の大将に勝ってしまったのでした。担任の先生もクラスが優勝したのは初めてだと感慨深げに言ってくれました。

 しかし、県内きっての進学校、やがてクラスも勉強一色になります。この時の理数科のクラスは本当によくできる生徒たちでした。クラス40人のうち半分近くが東大に、11人が医学部に、そして残りも京大や東工大などなど。数学は好きだったけれど、理科があまり好きではなかった新田さんは理数科の中の文系組でした。さすがにちゃんと勉強しようとエンジンがかかったのはようやく高3の夏休み。けれど、そこはやはり子どもの時から圧倒的な読書量で培ってきた豊富な知識量のある新田さんです。一橋大学の経済学部に現役で一発合格を果たしたのでした。
 
 こうして東京での一人暮らしが始まりました。しかし、新田さんのアパートから一橋大のキャンパスまでは電車で2時間かかりました。何でそんな遠い所にアパートが?と不思議ですが、実は、息子の成績を心配していたお父さんが、「ここなら受かるだろう」と慶応大学のある日吉に合格前にアパートを借りてしまわれたからなのでした。でも、これがよくなかった。新田さんはほとんど大学へ行かず、慶応の学生たちと麻雀したり、早慶戦を見に行ったり、すっかり慶応ボーイと化していたのです。気付くと1年生の時に取れた単位はゼロ。さすがにこれではいかんと思い、大学に近い所に引っ越します。2年生からはラグビー同好会に入って、ラグビーも始めました。同好会とはいえ体育会のノリなので、飲み会の時は大変でした。けれど、そのつながりは深く、その時の仲間は今でもいい友だちです。

 2年生からは勉学もきちんとやりました。そんな中、子どもの頃に抱いていた海外への憧れがよみがえってきました。よし、それなら外国に行ける外交官になろう!そう思った新田さんは、外務公務員上級試験を受けることにしました。しかし、試験の前日、試験で緊張しないようにと励ましに来てくれた悪友たちと麻雀が始まってしまったのです。いっそ徹夜したらよかったのですが、夜中に一人また一人と寝込んでいき、新田さんも途中で沈没。目が覚めると、なんととっくに試験が始まっている時間だったのです。しまった!と思っても後の祭り。しかし、わざわざ浪人してまで外交官試験を受けようという気にもならなかった新田さんは、銀行に就職することに決めました。

 第一勧業銀行に入った新田さんは、がむしゃらに働きました。でも、それが楽しかった。どんなに遅くなっても、仕事と一日の終わりをちゃんと区別するために、先輩と飲みに行き、また次の日の7時から仕事。ゆるい大学生活とはちがって、とことん自分を追い詰めるような日々でしたが、それを苦痛と感じることはなかったのです。
 月曜から土曜まではそのように過ごし、日曜は銀行のラグビーチームの練習に連れて行かれました。ラグビー強豪校出身の選手もたくさんいて、そんなメンバーとやるラグビーも楽しく、まさに1週間フル回転状態でした。社内の海外留学試験にもパスし、「外交官にはなれなかったけれど、これで海外に行く夢を果たせる!」そんな思いを抱いていました。
 
 そんな矢先です。お父さんが入院し、お見舞いに富山に戻った時のことでした。病床のお父さんが新田さんに言いました。「よかったら戻ってこないか」それはつまり会社を継いでほしいということに他なりませんでした。銀行に戻って人事の人に相談したところ、
「新田君、それは帰ってあげなさい。親孝行してあげなさい」と言われ、新田さんの心も決まりました。

 こうして2年の銀行勤めの後、富山に戻ってきました。そしてお父さんが社長を務めておられた日本海ガスに入社したのです。しかし、息子が戻ってきて気力が戻ったのか、お父さんはすっかり元気になって仕事にも復帰。同じ会社に入った途端、それまでの親子という感じはなくなりました。2人は経営方針を巡ってよくぶつかりました。どちらも会社をよくしたいと思えばこそのことでしたが、若い新田さんには腑に落ちない所もありました。
 
 そんな新田さんは富山に戻って2年で富山青年会議所(JC)に入会します。JCの活動は自分自身が楽しく、また社会の役にも立つ活動でした。一生懸命やれば役も上がっていき、会社でお父さんに叩かれても、JCでは認めてもらえました。そしてJCで頑張れば海外に行くチャンスもありました。JCでの活動中、新田さんが訪れた国は30か国にもなりました。フィリピンのスモーキーマウンテンには衝撃を受けましたが、そんな過酷な環境の中でも子どもたちの笑顔は輝いていました。タイの孤児院では1日に1回食べられるかどうかの子どもたちが自分たちにできるせいいっぱいのもてなしをしてくれました。新田さんはそれを残さず食べましたが、中にはこんなまずいもの食べられないとばかりに残す人もいました。子どもたちにしたらめったに食べられないご馳走です。それを出してくれているのに、そんな態度しか取れないというのはどういうことだろう。自分たちが何のために活動しているのかを問い直されたような感じでした。ここの子どもたちは何もないように見えるかもしれない。でもとても大切な大きなものを持っているにちがいないのでした。驕ってはいけない、してあげていると思ってはいけない、いろいろな社会的活動に携わる新田さんですが、いつもそのことを肝に銘じているのでした。

 34歳で富山青年会議所理事長、38歳の時に国際青年会議所の副会頭、そして40歳で日本青年会議所の第47代会頭として新田さんは大活躍されました。青年会議所は40歳で卒業なので、今はOBとして後輩たちの活動を見守っています。人育てが得意な新田さんは「金は出すけど口は出さない」がモットー。なるほど、納得です。

 平成12年には日本海ガスの代表取締役社長に就任され、現在は富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、名実ともに富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田さん。少子高齢化は避けられないことだけど、減るペースを減らすことはできる。そして、経済界として、雇用で応援していく。そのための仕掛けも今、いろいろと考えていらっしゃいます。「もちろんダイバーシティの視点を大切にしていきます」との心強いお言葉もいただきました。

 日々お忙しい新田さんですが、楽しい時間は仕事と関係ない仲間と飲みにいくこと。なかなかそんな時間は取れないからこそ、仲間との時間はとても大切な時間です。

 そして、今やりたいことはフランスやイタリアの田舎を予定を決めずにレンタカーで回ること。所々でワイナリーに寄りながら1か月くらいかけてゆっくり回りたい、そんな時間をいつか持ちたいと思っています。子どもの頃に憧れを抱いて見ていた「すばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」のような旅を、きっと新田さんはされるにちがいありません。もっとも、富山の経済界が新田さんを放ってはおかないので、ゆっくりその夢を叶えるのはまだまだ先の話になりそうです。

 
今日の人171.前田昌宏さん [2017年10月19日(Thu)]
今日の人は、APA SPORTS CLUB執行役員and健康運動指導士の前田昌宏さんです。
前田さんは、とやま健泊もコーディネートして、富山の人々の健康をバックアップしています。とやま健泊は富山県内の宿泊施設に泊まって、運動指導と栄養指導を受けられるというプログラムを役安で受講できるとっても素敵なプランです。ぜひチェックしてみてください⇒http://toyama.kenpaku.jp/
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 前田さんは1967年に石川県で生まれ育ちました。男3人兄弟の真ん中だったので、常に微妙な立ち位置でした。家は温泉街で散髪屋をやっていました。そういうわけで両親はいつも忙しく、保育園にはおじいちゃんが送り迎えをしてくれました。小さい頃はおじいちゃん子だった前田さん。太っていたのでコロがあだ名でした。あんちゃん(お兄さん)の友だちと一緒に外遊びをする毎日。上の人たちからはとても可愛がられました。

 昔から根はマジメで、必ず宿題をしてから遊びに行っていました。勉強もよく出来たので、いつも学級委員に選ばれていました。でも自分の思いが通らないと泣いてしまうところがありました。今でも内面はナヨナヨしていると思っています。(外見からは全く想像できないのですが)そんな小学校時代の悲しかった思い出は、児童会長選挙に出たくないのに立候補させられて、挙句に落選してしまったというものです。勉強ができる子よりも、人気があって笑いが取れるタイプの子が選ばれやすいですものね。
 
 子どもの頃から柔道をやっていて、その後は野球をやり始めます。野球クラブではキャッチャーでした。中学校でも野球部に入り、ポジションはやはりキャッチャー。キャプテンも務めましたが、最後の大会の直前に正キャッチャーの座を奪われてしまいます。その子が試合で逆転ホームランを打ってチームが勝利したので、嬉しい反面とても複雑なのでした。中学時代のほろ苦い思い出です。けれど、後に彼が甲子園で活躍したので、その時は素直に嬉しかった前田さんでした。

 小学校の時から、将来は先生になりたいと思っていました。ずっといい子で来て、何の疑問も持たずに来たので、グレる子を見てもなんであんなことをするんだろうと不思議に思うのでした。しかし、中学校で成績が落ち始め、高校は当初のランクを落として地元の高校へ進学しました。当時流行っていたスクール・ウォーズにあこがれていたことと、ラグビーの早明戦を見て絶対高校に行ったらラグビー部へ行くぞと決めていたので部活は当然のごとくラグビー部へ。花園を目指してラクビーに燃える高校時代を送ります。しかし、思春期の悩みもありました。前田さんは両親から勉強しろと言われたことはただの一度もなかったものの、家族で宗教に入っていたので、日曜は必ずお祈りに行けと言われていました。でも、部活をやっている以上、日曜も部活に行かなければいけない日がほとんどでした。自分は部活に行きたいのですが、両親は宗教を優先しろと言う。その葛藤が常にありました。
 前田さんのご両親は理髪店をやっていたので、息子も理容学校に行けばいいという考えでした。勉強しろとは言われませんでしたが、お祈りに行けとは口酸っぱく言われました。それがイヤで、家を出たくて出たくて仕方ありませんでした。
 よし、大学進学して家を出るぞ!そう思いましたが、両親は国立でないとやれないと言いました。共通一次試験で思いのほかいい点数が取れて、前田さんは金沢大学教育学部に合格。しかし、両親はそれも宗教のおかげと言うので、前田さんはそれに反発し、どうしても家を出たいとアパートで一人暮らしを始めました。

 しかし、いざ一人暮らしを始めると、とても寂しく(そう、前田さんは子どもの頃からとても寂しがりやなのです)結局週に2回くらいは実家に帰っていました。教育学部で体育教師を目指しながら、体育会のラグビー部の活動やアルバイトにも忙しい日々でした。バイクの免許も取って、バイクにも乗っていました。(大学の頃は原チャリでしたが)バイク乗り、だけど一人で行動するのは嫌い、お1人様の食事なんてとんでもないことでした。でも、寂しがりやなのを人に知られるのは嫌でした。寂しいけど、ちゃんとしなければならない、ずっとそんな思いに囚われていました。その思いから解放されるのは、それからずいぶん後のことになります。

 その頃の金沢大学は今と違って兼六園の中にありました。日本で唯一お城の中にあるキャンパスだったのです。ですから、ラクビー部でのお花見も城内の桜を見られるという贅沢なものでした。もっとも、前田さんはお酒が飲めない体質だったので、お酒を飲まされても吐いてしまうのでした。その頃の体育会と言えば飲まされるのが当たり前という感じだったので、前田さんのように飲めない体質の人には、相当大変だったことでしょう。

 大学1、2年の頃は体育教師になろうと思っていました。教育学部で体育専攻なのでそれは当然の流れです。しかし、親に手を回してあるからと言われカチンと来た前田さん。
そういう所で親の力を借りるなんて真っ平ごめんだから体育の先生には絶対にならない、そう心に決めたのです。

 前田さんは自分は親に愛されていないんだ、とずっと思っていました。親は宗教が一番大事で自分のことは大事じゃないんだと。でも、親が大事にしている宗教を否定するようなことはやはりできませんでした。自分は部活が忙しいから宗教を辞めたいんだとは言いだせなかったのです。かといって部活を休むわけにもいかず、ずっとモヤモヤとした葛藤がありました。それは高校生の時だけではなく、大学生になっても続きました。

 体育教師の道をあきらめた前田さんは一般企業への就職活動をやり始めました。ラクビー部で副キャプテンを務めていた実績も買われて、就職は案外すんなりと決まりました。
 
 そうして、ある大手企業で営業職として勤務することになったのです。しかし、営業の仕事は思っていた以上にきつく、ノルマは厳しく課せられるわ、いつも怒られてしまうわで、だんだんと追い詰められていきました。この仕事は合っていない、その気持ちがどんどん膨らんで、1年でやめることになったのです。

 仕事を辞めた後、しばらくは実家で何もせずに過ごしていました。しかし何もしない生活が3か月経った頃、大学の先生から「ちょっと大学に来い」と連絡が入ります。仕事を辞めて家にいると風の噂に聞きつけた先生が、このままではよくないと呼び出してくださったのでしょう。医王山にある大学のスポーツセンターでバイトしろと言われ、そこでバイトをやり始めました。スポーツセンターの管理が主な仕事だったので、木を切ったり草を刈ったりもしていました。半年くらい経った時に、このまま大学でアルバイトをしていても仕方がないと感じ始めます。でも、スポーツセンターでバイトして思ったのは、やはり自分は得意なスポーツを使って何か仕事が出来るといいなということでした。働く人の健康づくりを手伝う仕事がしたい、そう考えて金沢でスポーツクラブの採用面接を受けた所、富山に行ってください、と言われます。

こうして、アピアスポーツクラブに営業で入ったのが23歳の秋でした。いろいろ営業をしていく中で、工場の中にフィットネスセンターを作ってほしいという話も出て、実際に工場内フィットネスセンターを作り、スタッフを派遣するくらいの盛況ぶりでした。前田さんは富山で就職した後も社会人ラクビーを続けていたのですが、仕事が忙しくなりすぎて、27歳の時にラグビーを辞めました。それまで前田さんにとっての精神的支柱はラグビーだったので、ラグビーを辞めてしまうと、なんだか自分の中にポッカリと穴が空いたような気分になりました。ラグビーの練習以上にきついものはないのですが、逆に言えばラグビー以上に熱くなれるものもまた見つからないのでした。

前田さんが作った工場内フィットネスクラブの会員の中に精神的に病んでいる人がいたこともあり、前田さんはカウンセリングの勉強に行くことにしました。カウンセリングの勉強をする中で、自分自身の葛藤がどんどん表に出てきました。練習で自分がカウンセリングを受ける役になった時に、思いがけずずっと抱えていた親との葛藤の話を話しました。少しだけ話すつもりだったのに、先生にどんどん話を引き出されて、いつの間にか大泣きしている自分がいました。それまでずっと抱えていた気持ちを親に伝えた方がいいんじゃないかとその時に言われ、それまで伸ばし伸ばしにしていたけれど、ちゃんと伝えようと踏ん切りがつきます。そして、宗教を辞めたいと思っている気持ちを泣きながら親に伝えます。絶対に怒られると思っていたけれど、両親から言われたのは「わかった」という言葉でした。受け入れてもらえた。宗教から離れても大切にしてもらえるとわかって、前田さんは心の重荷が取れてすごくラクになれました。この出来事は自分の中では本当に大きなターニングポイントになりましたし、カウンセリングの大切さを身を持って知ることができたのです。31歳のことでした。

 同じ時期にプロジェクトアドベンチャーも学び始めます。プロジェクトアドベンチャーとはアメリカで開発された体験学習法をベースにした教育プログラムで、人間関係で最も大切な「人を信頼する心」や成長のために必要な自分自身を見つめ直すということを冒険をベースとしたプログラムを通して体験することができます。これは企業研修にも使えるんじゃないか、前田さんはそう思いました。グループで行動していく中で多くの気づきがあるからです。そして、このプロジェクトアドベンチャーとカウンセリングを同時期に勉強できたことは、その後仕事を進めていく上で大変有意義でした。

 前田さんはアピアスポーツクラブの会員さんとの出会いの中からも新しい発見をしていきます。42歳の厄年にはバイクも乗り始めました。これも会員さんの中でバイククラブがあって、そこに参加して乗り始めたのです。それから毎年、春は日帰り、夏は一泊でツーリングに出かけています。バイクで各地に出かけるのはとても楽しい時間です。
また会員さんの中にそば打ちの先生もいて、そば打ちも始めました。今では2段の腕前。そばを打って実家に持って帰るととても喜んでくれるのが嬉しいのでした。

 人とのかかわりは好きだけど、べたべたする関係は苦手です。だから会員さんとそばを打ったり、たまにツーリングに行ったり、そんな距離感がちょうど心地いいのです。

 そんな前田さんが今、力を入れているのはとやま健泊。とやま健泊とは、健康上の問題で日常生活に制限のない期間を示す「健康寿命」を延ばそうと、富山県が昨年から行っている健康合宿です。生活習慣病予防に効果的な運動や食事について1泊2日で指導しているのですが、それを全般的にコーディネートしているのが前田さんなのです。今年は富山県内6会場で計12回実施中。立山国際ホテルや桜池クアガーデンに泊まって、1泊2食+健康指導+アクティブレジャー代金も入れて8000円という破格のお値段!みなさんもぜひホームぺージをご覧になってみてください。実は私もこのとやま健泊に参加して前田さんと知り合ったのでした。

 そんな前田さんには、もっとスポーツクラブの拠点を増やしたいという夢があります。もっともっとたくさんの人に体を動かす楽しさを伝えて、健康づくりの役に立ちたい。体の健康だけではなく、心の健康づくりもしていきたいから、カウンセリング的な仕事も増やしていきたい。またプロジェクトアドベンチャーで学んだことを生かして、キャンプをしながら子どもたちの可能性を広げていきたい。やりたいことがいっぱいあってワクワクしますね。
 
いろんな人とつながっていくと、ああ、この人とこの人がつながるとまた面白いことが起きるな、この人とこの人もつなげたいな、そんなことがたくさん起きてきます。いろんな人の可能性を見つけることができる本当にありがたい仕事をさせてもらっていると前田さん。
 これからも健康づくりを通してたくさんの人を笑顔にしてくださることでしょう。

 
 
今日の人170.和田直也さん [2017年09月03日(Sun)]
今日の人は富山大学 研究推進機構 極東地域研究センター教授の和田直也さんです。

和田先生は昭和42年1月2日に東京目黒で生まれ育ちました。家は町の電気屋さんで、3人兄弟の3番目だったので、いつも2人のお兄さんに追いかけられたりして鍛えられていました。おかげでかけっこはめっぽう速く、小学校の運動会ではいつも活躍していたものです。小さい頃は背が低くて、前から2番目が定位置でしたが、相撲も強かったし、野球、サッカーとオールマイティにこなしていました。隣町に巨人の土井正三選手の家があってサインをもらいに行ったり、あの世界の王選手の家にも押しかけてサインをもらいました。もっとも、土井選手や王選手には直接は会えなくて、お手伝いさんに下敷きやサイン色紙を渡して翌日もらったのですが、それでも富山育ちの私にはなんともうらやましい話です。

小学校の中学年になると、もっぱらサッカーをやるようになりました。体育の先生がサッカークラブの指導者ということもあったのですが、和田先生はその先生が厳しいけれど好きだったのです。
しかし、スポーツばかりをしていたわけではありません。魚釣りも好きだったし、タガメや水カマキリといった水生昆虫を捕って飼っていたし、カブトムシの幼虫を捕まえたりするのも大好きでした。絵を描くのも好きで、セルを買ってきて宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のセル画まで書いていたくらいだし、プラモデルを作るのも好きで、零戦や戦車を作ったりしていました。ハンダゴテを使って自分でラジオも作りましたし、友だちと将棋も指していました。しかも将棋会館に通い詰めて血尿まで出たくらいだというのですから、とにかく何かやるととことんやっちゃうのです。そういうわけで本当に忙しい子ども時代を過ごした和田少年でした。

中学校は家のすぐ裏にある中学校に行ったので、近すぎて遅刻しちゃうくらいでした。ただ、グラウンドが狭すぎてサッカー部がなかったのはとても残念でした。当時は校内暴力が問題になっていた頃です。学校の窓ガラスが割れるというような事件も全国的によくある時代でした。小学校時代のサッカーの友だちもワルのトップになったりして、荒れていました。派手に遊ぶ子もいたしやグレて先生にも殴りかかっている子もいました。その姿を見て「なんでそんなことをするかなぁ?」と思っていました。そうして「派手じゃなくて地味でいい。僕は中心からずれた生き方がしたいなぁ」と思いました。自然の中で暮らしたい。だったら農業に従事するのがいいかな。ご両親の田舎が山梨でお盆には毎年のように山梨に行っていたのですが、農村風景が大好きでした。自然にかかわることで生計が立てられたらいいなぁ、そんな風に思っていたのです。

高校は、都立でいちばんサッカーの強い高校を第一志望にしていたのですが、落ちてしまい、第2志望の都立目黒高校へ。家から自転車で10分の近い高校でしたし、何より自由な校風で都立なのに制服も着ていかなくてよかった。東横線の都立大学前駅が近くにあって、麻雀荘がたくさんあったのですが、授業の時間に麻雀荘で麻雀をしたりして、大学生以上に大学生っぽい高校時代でした。中学校の時は暗かったので殻を破ろうと、サッカー部に入ったし、バンドを組んでボーカルをやったりもしました。クイーンやビートルズの歌を熱唱していた和田先生。プロ志向の人にほめられたそうですから、相当歌がお上手なんですね。
そんなこんなでとても充実した高校生活でした。遊んでいてもどこか受かるだろうと思って、某私立大学を二校受験。しかし、どちらも落ちてしまいます。

浪人生活の中で自分の得意なことはなんだろうと考えた時に、ものづくりに興味があるから工学部かなぁと考えました。東京都に新設された科学技術大学(当時)の宇宙工学も面白そうだと思いましたが、目が悪くなって眼圧が高くなってしまい、ものづくりに携わるのは難しく感じてしまったのです。比較的入りやすいと思った某私立大学も受験しましたが、なんとダメでした。国公立は本命ではなかったのですが、なんとなく共通一次を受けてはいたので、2次試験の配点が高いところを探しました。
ちょうどその頃、竹下内閣の下でリゾート開発が積極的に進められていましたが、週刊誌ではそれによって自然破壊が進んでいることが取り上げられていました。和田先生は思います。宇宙工学もいいけど、自然破壊をどうにかしたい。自分は自然の中にいるのが好きだから、その自然が破壊され続けていくのは嫌だ。そして、得意科目の物理で生物学科が受けられる横浜市立大学に合格。生物の勉強をして、生徒に自然の大切さを伝えられる教師になろう、そう思っていました。

しかし、大学に入ってみると、ミクロな部分の生物学が主流でした。和田先生はマクロな生物学がやりたかったのです。そういうわけで1年目からイヤになってしまいます。スイッチが入るととことんやるタイプなのですが、スイッチが入らないと全然やる気が起きないのでした。そんな和田先生が真剣に取り組んだのはサッカーでした。体育会のサッカー部に入って本格的にサッカーをしていました。しかし、2年生になって半月板を損傷してしまいます。しばらく気付かずに練習を続けていて、なおひどくなってしまいました。その後、手術をしましたが、元には戻らず引退せざるを得なくなってしまいます。

サッカー部を引退し、することがなくなってしまった和田先生は本格的に勉強を始めました。生物の教師の資格も取ろうと思って、教職課程も取りました。生命の価値を知りながら、その大切さを訴えられる教員になりたい、そう思っていました。
教員採用試験は1次は受かり、2次試験は補欠合格でした。補欠というのは、誰かが辞退をした時に繰り上がりで採用されるというものです。
採用かどうかはっきりしないので、和田先生は大学院の受験も考えます。鮎の食べる珪藻類の種類と水質について研究していた和田先生。マクロな生物学を自学していたので大学院では顕微鏡を使わなくてもいい所がいい、森の研究がやれるところがいいと思っていました。そんな希望に合って受けたのは北海道大学大学院環境科学研究科(当時)でした。

ちょうど和田先生が学部生の時はバブルで超売り手市場でした。和田先生の友だちは理系でも金融系にバンバン就職が決まっていきました。そんな風にみんなが浮かれている時代に「リゾート開発はいけないんじゃないか、環境破壊が進んでいくと持続可能な社会は保てないんじゃないか」そんなことをずっと考えていました。浪人時代に感じていた自然破壊をどうにかしたいという思いはずっと持ち続けていたのです。ですから、そういう点でも北海道大学大学院環境科学研究科は和田先生の思いにぴったり合った大学院でした。
しかし、大学院に合格が決まり、札幌に引っ越した4月に教員採用試験補欠合格の連絡が入ります。和田先生は悩みました。でも、マクロの規模の生態学が勉強できる大学院で勉強する方を選びました。ようやくやりたい学問と一致したのでしっかり勉強したいと思ったのです。

こうして北海道に行き、大学院生にして初めて一人暮らしを始めます。一人暮らしの学生というと朝寝坊のイメージですが、和田先生は違いました。毎朝5時に起きて近くの森を散歩し、木の種類を覚えたり、野鳥を覚えたりしました。北海道なのでシマリスやエゾリスにもよく出会えました。担当教授は放任主義の人でしたが、その分、先輩たちと毎夜飲みながら議論を交わしました。そして先輩と山登りの調査に行くのでした。修士課程の2年間はあっと言う間に過ぎ、その後どうしようかと思った時に、自然保護協会の職員になろうかとか、ドイツに留学しようかと思いましたが、どちらもダメでした。それで残された選択肢として博士課程の試験を受けた所、合格。その後の研究生活でも、いい仲間に恵まれました。

仲間の一人に砂漠の研究をしている人がいました。ちょうど環境庁(当時)の森林減少と砂漠化解明の研究プロジェクトが進んでいる所でした。日本はバブルの時にインドネシアやマレーシアの木を安く手に入れるのに、現地では多くの森林が伐採されていました。一方、乾燥地では植物の生産を上回る人間の活動で砂漠化がどんどん進んでいたのです。それを食い止めるためのプロジェクトでもありました。和田先生の仲間はそのプロジェクトの一環でインドのタール砂漠で調査をしていたのですが、日本に帰ってきた時に、「なかなかうまくいかないから手伝ってほしい」と和田先生に頼みます。それで和田先生はインドへ2か月間の調査に同行しました。でも、インドについた時にいきなり現地の洗礼を受けてしまうことに。靴の上にわざと牛糞を落とされ、グルの人にそれを磨いてやると言われたのです。白っぽい靴だったし、そのままでは汚いので和田先生は靴磨きを頼もうと思ったのですが、一緒に行った友だちはそれこそ奴らの思うつぼだから、その手には乗るな、と言います。おまけに飛行機に乗る時に、その時の調査に使うネズミ捕り用のトラップが引っかかり、機内持ち込みだけOKということで、膝の上にはネズミのトラップ、足元からは牛糞の臭いが上って来る、そんなスタートになってしまったのでした。

現地の砂漠ではネズミが種子を食べることと植物の回復の関係性について調査しました。最初、ネズミを捕るのにピーナッツを使って罠を仕掛けたところ、なかなかうまくいきません。なぜかピーナッツだけきれいに食べられてしまっているのです。どうしてこんなことになるのか不思議でならなかったので、ある日その仕掛けをしばらく見張っていることにしました。すると、ピーナッツを食べていたのはネズミではなくて、なんと現地の子どもたちだったのです。こりゃいかんということで、子ども達に食べられないように工夫して今度はちゃんと罠にネズミがかかるようにしたのでした。

しかし、インドでの貧困を目の当たりにして、和田先生はこの世界の矛盾についてつくづくと考えることになりました。目の前にはその日の暮らしにも困るような貧しい人々がたくさんいるのに、上空には数百億円単位の戦闘機が轟音を立てて飛んでいく。物乞いの子どもに恵んでやろうとした時も、仲間に叱られます。「一人にやってしまうとあとからあとからキリがなくなる。可哀想だけど、やらないと決めておいた方がいいんだ。」確かにその通りだけど、同じようにこの世に生を受けてなぜこんなにちがうのだろうと無常を感じざるを得ないのでした。私はそれを聞いて芭蕉の野ざらし紀行の「唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け(これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ)」が思い浮かんでしまうのでした。
そういうわけで、いろいろ考えさせられたインドでの調査になったのです。

博士課程での和田先生のメインの調査地は苫小牧の演習林でした。そこに、神岡出身の中野繁先生が研究にやって来られました。中野先生は,河川サケ科魚類の行動生態および群集生態の緻密かつ精力的な野外調査に基づく研究を遂行してこられた方で、生態学の広い領域を結び付ける視座を持って国際的にも活躍されている先生でした。三重大学演習林でのアマゴの研究を契機に生態学の最先端を歩み始め、その後、和田先生もおられた苫小牧の演習林にフィールドを移されたのでした。この中野先生との出会いは和田先生にとって本当に大きかった。中野先生はとてもユーモアのある方で、和田先生のことを大変かわいがってくれました。そして、何より研究に対する真摯な姿勢に心を打たれました。中野先生は、川や森にいる動植物の相互作用について深く研究していました。魚類は必要なエネルギーの約四割を森から得ており、鳥はエネルギーの約三割を川から得ているなど、現地調査を重視して膨大なデータを集めました。そんな中野先生の研究に対する姿勢を間近で見られたことは幸せなことでした。中野先生はその後京都大学生態学研究センター助教授となったのですが、カリフォルニア湾で離島の調査に向かう途中でボートが転覆。37歳という若さで逝ってしまわれました。酒を酌み交わしながら、もっともっと語り合いたかった、和田先生はそう心から思います。けれど、それはもう叶わぬこととなってしまいました。でも、和田先生にとって、中野先生と過ごせた時間は本当に大切な宝物になったことは間違いありません。人との出会いと別れは、本当にせつなくて、そして愛しい。今生きている私たちは、この命をちゃんと使えているだろうか、そう問いかけられているのかもしれませんね。

北海道大学で学位を取得した和田先生は、富山大学の公募に応募し、見事に採用され、28歳で初めて富山に。和田先生が富山大学の助手に決まった時は、神岡出身の中野先生もとても喜んでくださいました。神岡と富山はとても近いですものね。
しかし、和田先生が助手になった頃は、まだ大学も「仕事は見て覚えなさい」という風潮で、中の仕組みを覚えるのには苦労をしたのでした。担当の教授が途中で出ていかれてしまうという予想外の事態も乗り越え、和田先生は33歳で助教授になります。

この頃、和田先生は北極圏のスヴァールバル諸島(ノルウェー領土)でチョウノスケソウの調査を行いました。スヴァールバル諸島は夏でも気温が5℃くらいしかないツンドラ気候。調査に行く時は長い棒を持って歩けと言われました。そうしないとアークティック・ターン(北極アジサシ)という鳥に突かれてしまうのです。長い棒を持って歩くと、その棒の方を突いてくるので大丈夫なのでした。また、流氷に乗るのに失敗して渡りそびれた白くまが残っている可能性があるからライフルも必ず持っていけと言われ、調査に行く時はライフルを担ぎ、長い棒を持ち歩くというフル装備で出かけたのでした。ライフルは最初に撃ち方を教えてもらい実際に何発か撃って練習したのですが、和田先生はすぐに的に命中させました。サッカーといい、本当に運動神経がいいのです。
こうして、和田先生はチョウノスケソウが生えている調査地まで行き、チョウノスケソウが北極圏でどのように種子を生産するのかを調査しました。またチョウノスケソウの向日性も調査しました。

ちなみにチョウノスケソウ(学名Dryas octopetala)がなぜチョウノスケソウというかというと、ロシア人植物学者マキシモヴィッチの助手をしていた須川長之助が立山でこの花を見つけ、後にこのエピソードを知った牧野富太郎(日本の植物学の父と言われる人)が和名をチョウノスケソウにしたのでした。

立山でチョウノスケソウ…というわけで、賢明な読者の方はお分かりかと思いますが、そう、和田先生は立山でのチョウノスケソウの調査も長年に渡って続けていらっしゃいます。今も山のシーズンは週に一度のペースで立山の調査地に登っているのです。本当にタフな和田先生です。

2004年、国立大学富山大学は国立大学法人富山大学になりました。これに先立つ2001年に富山大学極東地域研究センターが設立されます。和田先生は2003年から所属が理学部から極東地域研究センターに移りました。
この頃、環日本海構想の一環として極東地域の研究には熱心に力が注がれていました。センターに移った和田先生には、大陸で仕事をやってくれというミッションがおりました。温暖化で生態がどう変わったかを調べる仕事です。こうして和田先生は中国と北朝鮮の国境にまたがる白頭山(長白山)で調査をしました。白頭山にはチョウノスケソウが生えています。アクリル板で温室を作って、チョウノスケソウの調査をやっていました。しかし、3年やったところで中国政府の意向で調査の続行が出来なくなってしまいました。もう少し継続してやれば結果が出たのに、と思うとこれはとても口惜しい調査になってしまったのです。

2010年からはロシアでも調査を開始しました。気候変動で高山生態系がどう変わるかやロシアの森林における資源量を調査するものです。この調査は今も続いていて、毎年8月になると、和田先生はロシアに渡ります。毎週のように立山に登って調査したり、ロシアに行って調査したり、ライフル銃を持って北極圏で調査したり、と本当にアクティブでスリリングな研究だなぁと感心します。
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ハバロフスクの博物館で、アムールトラとヒグマが喧嘩していたので、森の中では絶対に会いたくないシュチュエーション、やめてくれと猛獣の喧嘩の仲裁に入っている和田先生

しかし、こんな風に調査に出かけ、学生にも丁寧に指導している和田先生なので、目下の悩みは論文をあまり書けていないということです。今まで調査して一生懸命データを取ったものは、全て解析してきちんと論文にして残したい。そして、ちゃんと掲載にこぎつけたい、それが和田先生の楽しみの一つでもあり夢でもあります。論文を書くのが楽しみでそれが夢だってさらっと言えるなんて、かっこいい!

和田先生の他の楽しみは家でお酒を飲んだり、学生とお酒を飲んだり、酔っぱらって歌ったりすることです。バンドでボーカルをやっていらしたくらいだもの。相当お上手なんでしょうね。

研究に情熱を燃やし、好きなことにとことんのめり込む少年のような純粋さを失わない大学教授。お酒に失敗しちゃう学生みたいなところもおありで、とってもチャーミングな先生です。
 これからは立山に登って高山植物を見たら、きっと和田先生の少年のような笑顔が思い浮かぶにちがいないなぁと思った今回のインタビューでした。

今日の人169.いしかわ ひろきさん [2017年08月24日(Thu)]
 今日の人は介護職のミュージシャン、いしかわひろきさんです。「非営利団体かもめのノート」と「認知症対応型通所介護デイサービス木の実」で介護職を掛け持ちしているいしかわさん。彼が大切にしている軸はパーソンセンタードケア。工場の流れ作業のような介護ではなく、一人一人の個性や特性を理解して合理的な配慮をしたケアがパーソンセンタードケア。その名の通り一人一人に寄り添っていくケアを深めていきたいといしかわさん。いしかわさん自身その想いを書いているのでぜひお読みください。→『完全即興を仕事にする: 完全即興とパーソンセンタードケア Kindle版
そんないしかわさんはCDアルバムを出したばかり。
CDタイトルは「everlasting」
詳しくはこちらをご覧ください⇒https://hirokiishikawa.jimdo.com/everlasting/
音楽の才能にもあふれた介護のスペシャリストなのです。
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 いしかわさんが生まれたのは1986年。3人兄弟の末っ子として生まれました。なぜだか小さい頃の記憶はほとんどありません。ただ、両親ともに公務員で、子ども達にも安定した公務員を望んだので「しっかり勉強して公務員になれ」とそればかり言われて育ちました。6つ年上のお兄さんはそれに反発してぐれ始めます。その頃くらいから、ようやくいしかわさんの記憶が始まります。お兄さんは茶髪にしてギターを弾き、家にいろんな友だちがやってきてよく騒いでいました。

 いしかわさんはと言えば、親に反抗することもなく、言われるがままに勉強していました。公文に通い、その後は育英に通っていました。それに疑問を抱いてはいましたが、なにしろ他にやりたいこともないので、やれと言われるからやる、と言った感じでした。運動が嫌いで中学校ではパソコン部に入りましたが、そこはヤンキーの溜まり場だったので、いしかわさんはあまり部活には顔を出さず帰宅部という感じでした。

 高校は呉羽高校の普通科へ。今度は友達がいたからという理由でテニス部に入りましたが、あまり部活にのめり込むことはありませんでした。どちらかと言えば、高校時代は暗黒の時代でした。自分は何者だ?という思い。何でも知っていると思う一方、何も知らない自分。それは青春時代に特有のもやもやした何かに加えて、いしかわさんの家の空気もそうさせていました。いしかわさんの家は梨農家のおじいさんと公務員のお父さんの2本の柱があって、その2本の柱の価値観は相容れないものだったので、それがいしかわさんの心理状態にも大きな影響を与えていたのです。

夢や希望が持てないまま過ごした高校時代。そんないしかわさんはお兄さんの影響もあって、高校3年生からギターを始めます。富山大学に進学してからもJAZZ研究会に入って、ギターに熱中しました。それまでの心の隙間を埋めるかのようにひたすらギターに没頭する毎日。バンドを組んで外部の人と一緒にLiveをやるうちに、県内外のライブハウスから声がかかるまでになりました。もともとロックが好きだったのですが、徐々にジャズに移っていきました。アバンギャルドなノイズ系のジャズが好きで、よくライブハウスでも演奏していましたが、それを仕事にしようとは思いませんでした。「公務員じゃないと生きていけない」という親からの洗脳が強く、そこから外れるのが怖かったのです。演奏している時だけ、生きているという実感があり、それ以外は抜け殻のような感覚でした。

 こうして、親の言われるまま、公務員の職に就いたいしかわさん。しかし、その仕事は自分にはさっぱり合わないものでした。ストレスばかりが溜まりわずか1年で−20s。半年休職し、結局1年半で仕事を辞めました。運転していると、今すぐこの車が事故ったらいいのに、というような思いが常にありました。自分は長くは生きてはいないだろう。自殺願望がある人の気持ちが痛いほどよくわかるのでした。

 仕事を辞めた後、失業保険給付制度を使って保育士の学校へ通いました。仕事を辞めたことで両親が困った顔をするのを見たくなかったので、なにも言わせないためにも保育士の学校に通ったのでした。その時に実習でめひの野園に行き、福祉の現場をおもいしろいと感じました。
 その後で実際に就職したのは民間企業です。学校は就職率を100%にしたがったので、仕方なくそこに就職したという感じでしたが、ケンカをしまくり2か月と2週間で辞めてしまったのでした。その後は知り合いの紹介で契約社員として働いたり、整体師の現場で働いたり、カレー屋で働いたりもしました。カレー屋の時は、アトピーの症状がひどくなり、店長とケンカもしたりして、ひどくやさぐれていました。自分は何も出来ない奴なんだ、そう感じて落ち込み、本気で入れ墨を入れようかと思ったくらいです。そうして日雇いの仕事を転々として時間が過ぎていました。

 そんな時に、ハローワークで見つけたのが介護系のデイサービスでの仕事でした。めひの野園に実習に行った時に福祉の現場は面白いと感じていたいしかわさんは、実際デイサービスで働いた時も面白いと感じました。もう一つ、知的障害を持つ人と一緒に外に出かける仕事も始めました。彼らと一緒にお風呂やプールに出かける仕事です。当然、外でパニック症状が出る人もいます。大きな声で叫ぶ人もいます。そんな彼らを奇異な目で見てくる人もたくさんいます。でも、いしかわさんは彼らと出かけるのがとても楽しいと言います。介護の仕事は演奏するのと似ているのです。しかも完全即興演奏です。それがたまらなく楽しい。理屈で云々ではないのです。サラリーマンや公務員にはきっと分からないであろう、この完全即興演奏の感覚。だからこそ音楽家はもっともっと介護の世界に入ってこればいいのに、そう思っています。なぜなら音楽家は障害者と感覚で共感できる部分が多いからです。
その感覚の部分はいしかわさん自身が書いているので、興味のある方はぜひAmazonでお読みください。『言葉でコミュニケーションを取ることが難しい相手との接し方に悩んだ時に読む本: 「完全即興を仕事にする」副読本』で検索!

 福祉の仕事をしていて、いしかわさんがよく感じるのは、いわゆる健常者と言われる人たちが、障害者の自尊心を傷つけているということです。接する障害者の事前情報は知っておいて損はないけれど、そこに縛られてはいけないと感じます。決めつけられるのがイヤなのは、障害者の人に関わらず、誰にでも言えることですよね。それなのに、障害者の人にあの人はこういう障害があるから、こうなんだ、って決めつけてしまっては、その人自身を見ていないことになります。そんな接し方をしていると敏感な人はすぐに感じてしまうに違いありません。

 意識しすぎることなく自然体で。だから笑いたい時は爆笑する。障害者と一緒にいるからといって不自然に気を遣ったりしない。笑いたい時は笑う。怒りたい時は怒る。健常者とか障害者とかそんな言葉の縛りはくそくらえ。みんな一人の人間じゃないか。そんな余裕が出てくるようになりました。だから、今は仕事がとても楽しい。そして音楽活動は1か月〜2か月に1回ライブをするペースでやっていければいい、それが今のベストな感じです。

 大学の時からずっと付き合っていた彼女とも昨年結婚したいしかわさん。でも、両親とは距離を置くようにしています。自分の場合はその方がうまくいく。いろんな問題があっても、そこから逃げることの大切さ、抱え込まないことの大切さがわかるようになりました。だから、今苦しんでいる人には、「つらくなったら逃げてほしい、そしたらきっと笑える日が来るから」そう伝えたいと思っています。

 障害者と接していると、当然言葉を発することのできない人もいます。でも、いしかわさんは言葉が出せない人との言葉のやり取りを楽しんでいます。発語がなくても、感覚で理解し合える。それはミュージシャンいしかわひろきの感性が成せることなのでしょう。
 そして、今は笑うことの大切さを実感しています。人が死ぬことだって、実はめでたいことかもしれない。だったら、死ぬまで笑っていようぜ。
 外国人が介護の現場に入ってくることも賛成です。彼らは明るく陽気に介護することが得意な人が多い。それは福祉の世界にとって、本当に大切なことだと思うから。

 そして、ミュージシャンいしかわひろきの方は8月24日にアルバムを発表しました。

アルバム情報はこちら
【 CDタイトル 】
「everlasting」
いしかわひろき,遠藤豪,たかのさおり




【 演奏者profile 】


たかのさおり

富山出身在住/うた/リコーダーやトイピアノなどおもちゃ
2002年3月友人とデュオで出場したとあるカラオケ全国大会でグランドチャンピオンの受賞をきっかけに独学で歌を始める。同年女性ボーカルグループ「grava」に加入し本格的に音楽活動をスタート。ギタリストとのユニット「monophonic」では、えかきとのコラボレーションでライブペイントイベントに多数参加。クラシックギターとのユニット「saoと大橋俊希」、ちび楽器アンサンブルと歌のバンド「BALANCE」の活動を経て現在に至る。2011年より、saomochamusic(サオモチャミュージック)として、自作音楽つきの紙芝居を上演するこどもライブの活動も積極的に行っている。また、2014年からは、うたと美術でつくる創作世界「状況劇団パッチ」の活動をはじめる。その他、CMソングの制作やご当地アイドルへの楽曲提供も行っている。



遠藤豪

1988年富山県富山市生まれ。
高校生の頃、米口 ハンニャ 篤氏からギターと音楽理論を、大学在学中に矢堀孝一氏からジャズギターを学ぶ。
大学在学中から、地元の富山県やお隣の石川県など、主に北陸で演奏活動を始める。
2014年8月から2年ほど語学と音楽の勉強のためNYに留学。現地で演奏活動やレッスンなど行う。
2016年11月帰国。
2017年7月より関西に拠点を移し活動中。



いしかわ ひろき
(guitar player , composer )

大学在学時からギターを始め、ノイズ音楽やグランジに深く傾倒しつつジャズ研究会に所属しジャズを学ぶ。
ジャズセッションに身を投じながらも現代音楽やフリージャズ、ブラックミュージックやクラブミュージックに深く傾倒する。

2014年、作曲しはじめる。
2015年、sadistic margarineにguitar playerとして加入。
2016年6月に究極のライフヒストリー小説 & CD【間違っていた人は、誰もいなかった】を発表。
2017年には富山で活躍中のアコースティックユニット、マツバラーズと共同制作した「たびびとのうた」がラジオたかおかにて起用される。


浮遊感あふれる曲調や完全即興を取り入れた演奏スタイルが定評を得ている。
購入はこちらから⇒https://hirokiishikawa.jimdo.com/everlasting/




パーソンセンタードケアの出来るミュージシャンいしかわひろきの歩みをこれからも楽しみにしています。
今日の人168.萩野二彦さん [2017年07月09日(Sun)]
 今日の人は 若年性認知症ケア専門職で、マーケティングセミナーや認知症セミナーの講師等も手がけていらっしゃる萩野二彦さんです。
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にこやかに皿洗いをされている萩野さん

 萩野さんは、富山市で生まれ育ちました。小さい時は体が弱くてとても暗い子どもでした。体が弱いのであまり外では遊ばず、家の中でばかり遊んでいました。月光仮面が大好きで、家の中ではふろしきをマント代わりにして、おもちゃの刀を持ってこたつから飛び降りたりしていたものです。当時のこたつはまだ練炭炬燵でこたつに頭を突っ込んで寝てしまい、中毒で死にそうになったこともありました。小児結核も患い、とにかく生きているのがやっとな感じだったのです。
お父さんは婦中町の開業医、お母さんは富山の繁華街桜木町でスナックのママをしていました。しかし父の都合で萩野さんは母方で育てられます。お母さんも家にいない時間が多く、萩野さんは主におばあちゃんに育てられました。おばあちゃんはとってもお掃除好きだったので知らぬ間に大事にしているおもちゃを悪気なく捨ててしまうような人でした。しかしお母さんは羽振りがよく、おもちゃを惜しみなく買ってくれたので、ブリキの飛行機や白バイのおもちゃでよく遊んでいたのを覚えています。
 
 小学校中学年になって、自転車に乗り始めてからは少しずつ体力がついて元気になり、外遊びも出来るようになりました。それで缶蹴りや鬼ごっこやメンコをしたりお寺の砂場で遊んだりしました。小学校高学年の時の夢はパイロットや白バイ隊員でした。男子にとっては間違いなくあこがれの職業ですね。

 小学校の高学年から太り始めた萩野さんは中学校に入ってのっけから柔道部に誘われて入らされてしまいます。これがイヤでイヤで仕方がありませんでした。はやく辞めたい、そればかり思っていました。
授業中はいろいろなことを妄想するのが好きでした。例えば、中学校の四角いプールを見て、流れるプールや波のプールがあればいいのになぁといろいろ想像を膨らませていました。今は当たり前にそんなプールがありますが、当時はまだそんなプールはなかったのです。ですから、太閤山ランドのプールが出来た時はびっくりしました。世の中には自分と同じようなことを考えている人がいて、空想したことを実現しちゃう人がいるんだ!これはすごいことだぞ!って。そこに気付けたことはとても大きかった。

 中学の卒業間近のある日、合唱部の先生に「そこの2人お喋りしてるから立っていなさい!」と注意され、廊下にバケツを持って立たされました。その時一緒に立たされた子はそれまでは友だちではなかったのですが、「俺ら何も話してないよな」「そうだよな、ひどいよな」と話が盛り上がり、それがきっかけ親友になるのですから、人生における大事なきっかけとは面白いものだなぁとつくづく思います。

 高校に入っても柔道部に誘われたのですが、断って自動車クラブに入りました。しかし、部室が集中している場所が他の部の子が隠れて吸っていたタバコの火の不始末で全焼するという事件が起こります。自動車クラブの部室も全焼したため、萩野さんは帰宅部になります。それからはもっぱらあの一緒に廊下に立たされた彼とつるむようになりました。彼と高校は違ったのですがのですが、ほとんど毎日のように一緒に過ごしていました。彼はとても気さくで社交的な性格だったので、萩野さんだけでなく、いろんな子が集まってきました。内気だった萩野さんもそこで一気に友だちが増えた感じでした。実は、その子のお父さんと萩野さんのお父さんは昔友だち同士でした。「君はあいつの息子か?」と聞かれ、それから萩野さんのことを可愛がってくれるようになりました。私生児で生まれた萩野さんにはお父さんの記憶はほとんどありません。もし、おやじが家にいたらこんな感じなんだろうなと思い、なんだかそれがとても嬉しかった。そんなおやじさんとの交流も含めて、そこで過ごす時間は萩野さんにとってとても大切な時間でした。

 そして、高校卒業後は専修大学の商学部へ。アパートは下北沢のすぐ近くだったので、下北沢が遊び場になって、東京生活を楽しめるようになっていました。下北沢には小劇場がたくさんあって、演劇にはまった萩野さん。なにしろ安いし、役者の息遣いが間近に感じられる小劇場の雰囲気が大好きでした。

高校の時に空き家に集っていたメンバーとは高校卒業後も交流が続き、メンバーの兄貴分たちが行った富山初の野外コンサートイベント「ヤングフェスティバル」の初開催を手伝います。やがてそれを引継ぎ県内でいろいろなイベントをやっていくことになりました。引継ぎの時は引継ぎ式をして杯を交わすなどしました。何だかその時代の風潮を感じます。富山でアマチュアバンドコンサートを企画したり、ビートルズのフィルムコンサートを企画したりしました。萩野さんはイベントが当たってかなり羽振りのよい大学生だったので、しょっちゅう富山と東京を行ったり来たり出来たのです。
ビートルズのフィルムコンサートの時は、東京赤坂の東芝EMIに「ビートルズのフィルムを貸してください!」と直談判。担当者はあきれ果てていましたが、「もうポスターも印刷しちゃったんです」と粘ると、なんと一週間後に貸してくれたのです!そんなわけで当時の萩野さんは学生起業家、プロモーターの走り、といった感じでした。

 大学を卒業後は富山に戻って地元企業に就職したのですが、社長が夜な夜な飲みに行く時に運転手をさせられてずっと待たされていることに虚しさを感じて辞めました。その頃は就職難の時代だったのですが、ちょうど富山に西武百貨店がオープンして、応募し採用になり、最初は茶碗売り場を担当させられました。花形の洋服売り場とちがって、茶碗売り場は人気がなかったのですが、ここで辞めると仕事がないと思って我慢しました。その後は、外商、企画統括、旅行サロン、ブライダル、セゾンカード友の会と様々な部署に配属になり、その都度結果を残してきました。セゾンカード友の会の担当の時には富山で初めてのテレビショッピングをやりました。それまで、テレビショッピングに慣れていなかった富山の人は、その放送を見て商品の注文ではなく、「あの姉ちゃん、どこの人け?うちの嫁にしたい」と商品を紹介している女性を紹介してほしいという電話が多いくらいでした。

 しかし、西武百貨店の看板をしょっているけれど、果たして俺自身の実力はどうなんだ?肩書きを外した時の俺は何をもっているんだ?そういう思いが強くなってきたころにヘッドハンテイングされ14年間勤めた西武を辞めたのです。

 その仕事は自己啓発プログラムを販売するフルコミッションの仕事でした。萩野さんはメキメキ実力を発揮してすぐに月間アワードを取るようになります。どんどん収入が増えて「よ~し」と思った矢先に実父が亡くなります。ほとんど会ったこともない実父で、まともに顔を見たのは亡くなった時が初めてでした。しかし、常に認めてほしいと思っていた存在がいなくなったことで、心にポッカリと穴が空きます。そうして、動けなくなってしまったのです。

 萩野さんはサラリーマン時代はいつかは独立したいと思っていました。フランチャイズビジネスにも興味があり日ごろからよく東京へ出かけて研究をしていました。この時に心に引っかかっていた現像プリントの仕事で起業しようと思い立ちます。自己啓発プログラムの販売で貯めた貯金が1000万程ありました。それを元手に、富山市に30分現像仕上げの店をオープンさせました。15坪のそのお店は売り上げがどんどん上がり年商が1億円になります。すっかり天狗になってしまった萩野さん。これを全国展開しようと思い、フランチャイズシステムを学ぶセミナーに通い始めます。このセミナーには今思えばすごい人たちがたくさん参加していました。私が聞いただけでも、今や全国にチェーンを持つ会社のそうそうたる方々です。そんな多くの仲間との出会いの中からビジネスのヒントをいただきます。

 順調だった事業でしたが、デジカメが登場し、あっという間にフィルムを駆逐していきました。見る間に お店の売り上げが落ちていきました。踏ん切りをつけなくてはいけないのはわかっているのに、なかなかつけられない。やはり、自分で最初に出したお店には強い愛着があったのです。そしてとうとう、萩野さんは夜逃げせざるを得ない状況にまで追い込まれてしまったのです。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、松本にいる知人から仕事を手伝ってくれないかと声がかかりました。ビジネスノウハウを教えるというもので、営業をかけるとすぐに売れ出して、本社を東京に移して大手ショッピングセンターにも次々に出店するまでになります。萩野さんは知的財産のこともいろいろと勉強しマネジメントの講師も引き受けたりしていました。

 2008年には萩野さんの事務所も東京に移し、創業パーティも盛大に開催し、いよいよこれからという時に、奥さんに悪性リンパ腫が見つかります。それまで、萩野さんは事務的なことは富山にいる奥さんに託し、自身は全国を飛び回る生活だったので、その機能がストップしてしまいました。そして2010年の奥さんが亡くなり、心が空っぽ状態になってしまいます。そんな状態ではとても東京での仕事など続けることはできませんでした。富山に帰ってきたからもやることがなく、また何もやる気が出ず、半日以上ファストフード店でボーっと座っていることもありました。そんな時に出会ったのが能登さんでした。(能登さんのことはこちらのブログでお読みください→)
 こうして能登さんとの出会いから、今まで全く縁のなかったNPO業界に関わっていくことになりました。ここで、今までの価値観がガラリと変わるのを感じました。

 その後、高岡大和で開かれている北日本新聞のカルチャーセンターでビジネス講座やマーケティング講座を担当したり、富山を映画で盛り上げていこうとしていた氷見の大石さん(その後、富山が映画撮影のメッカになったのはこの大石さんの功績が大きいのですが、そのお話はまた別の機会に(*^-^*))に賛同して、一緒に活動したりしました。下北沢でよく演劇を見ていたのがこの時に役に立ちました。なんと萩野さん、富山で撮影された映画にちょこちょこ出演されているそうなので、今度ぜひ探してみたいと思います。

 そうした日々の中、2015年に「認知症対応型通所介護デイサービス木の実」と出会います。今まで全くやったことのなかった福祉の世界に携わることになった萩野さん。でも、この世界は驚きの連続でした。これまでレストランや物販、サービス店などの店舗運営について全国で2千件以上に携わっていて施設マネジメントで出来ないことは無いと自負していたのに、それらのスキルではまったく通用しない。認知症の人の介護は大変で働く人もどんどん辞めていく。
 自分が今までやってきた世界とは全然ちがう。大きな介護施設であれば成り立っていく、そんな感じであった。しかし職員は安い給料で働いていて生活が成り立たない、この先もそんな現状ではとても福祉の世界は未来が無い。この現状をなんとか打破して、現場のスタッフも入所者も家族も、ちゃんとやっていけるようにするにはどうしたらいいか、今、萩野さんは常にそれを考えています。そう、そのことをビジネス的に考えているのです。萩野さんがこの世界にイノベーションを起こしてくれそうでとっても楽しみです。

萩野さんは今、カルチャーセンターの講座や町内会の講座でも、認知症患者の家族のための講座を開いています。交通ルールを知らないと事故が起こるのと同じで、認知症のことを知らずに認知症の人に接していると大変なことになってしまいます。この先認知症の人が爆発的に増えていくことを考えると、家族向けの講座の普及は急務です。そういうわけで、萩野さんの頭の中は今、半分が認知症のことを占めているのです。じゃあ、あとの半分は何かって?
それは…うふふ♡ きっとお気づきの方も多いかと思いますが、今、萩野さんは恋をしています。その人を見ていると全然飽きないそうですよ。60代の恋、ステキですね。

 そんな萩野さんが今楽しいことは、もちろん彼女といるときもそうですが、重い認知症の人とコミュニケーションが取れた時だそうです。萩野さんはコーチングやNLP等の心理学の勉強なども一通り学んでいるのですが、認知症の人には、それは全く通用しない。認知症の人は、コントロールの効かないガンダムの中に自分がいるようなものなのです。自分の思いを外にうまく出すことができない。なるほど爆発してしまうことも道理なのですが、そんな中にあっても、そのコントロールの効かないモビルスーツの中にいる自分を受容できた人たちと会話が通じることがある。その嬉しさといったら!

 もちろん話が通じないことが多いから、イラっとすることだらけです。それはそうです。でも、認知症ケアってマーケティングの極致なんです。だって、本人が望むことしか受け入れてくれなくて、すぐに反応がわかるのですから。そう、萩野さんは極めてビジネス的に状況を見つつ、かつその状況を楽しんでいらっしゃるように見えます。そして、木の実にはようやくコアなスタッフがそろってきたので、きっとこれからの展開がとても面白くなるとワクワクしていらっしゃるのでした。

 認知症は全人口の1割の生活が脅かされている差し迫った問題です。この先ボディブローのようにじわじわとこの問題が効いてくるのは間違いありません。家族崩壊、そして地域崩壊していく様子が目に見えるようだと萩野さん。誰もそれを直視せず、またそこに投資されているお金を吸い取ろうとしている輩が今うじゃうじゃいます。それをなんとしても変えていきたい。それが自分の使命だと萩野さんは思っていらっしゃるようでした。

 人生にはいいことも悪いこともいろいろあるけれど、でもそれら全てが、今ある自分を形作っているのだということをとっても実感できるインタビューでした。今つらいことがあったとしても、それはあなたの人生の彩になる。萩野さんの優しい笑顔がそれを物語っています。

今日の人167.米村美樹子さん [2017年06月19日(Mon)]
 今日の人は、中国人の研修プログラムのデザインや翻訳、手帳術コーチとして願いが叶う手帳術講座等を開催されていらっしゃる米村美樹子さんです。19243765_1376214452465199_264156772_o.jpg
2012年の反日デモの直後の国慶節に天安門広場にて
見知らぬ中国人のおじさんがシャッター切ってくれた一枚


 米村さんは高岡市で生まれ育ちました。小さい頃はショートヘアで、よく男の子に間違われていたそうです。本当はロングヘアに憧れていたのですが、お母さんがショートが好きで、ずっとショートにされていたのでした。でも、その反動からか小学校中学年になってからはロングにして、いつもツインテールにしていました。

 近所の子と外遊びもしましたが、お絵かきが大好きでした。変わったところでは納戸に入るのも好きでした。昔の箪笥やおもちゃ箱がしまってある納戸に入ると妙に落ち着いたのです。

 小学生の頃はキャンディキャンディやベルサイユのばらが好きでした。キャンディキャンディではアンソニー、ベルサイユのばらではオスカルが好き、という王道路線でした。作品の歴史的背景を調べるのも大好きでした。この場所と場所、国と国はどうつながるんだろう、そんなことを考えるとワクワクして家にあった地理の本をいつまでも読んでいるような少女でした。
 
 低学年の頃はバレーボールの選手になりたいと思っていました。その頃アタックNo.1が流行っていたこともあって、ドッジボールが怖かったくせにバレーボールの選手になりたいと思っていたのでした。みんながキャーキャー言っていたアイドルには全く興味がなく、小学生の頃からラジオで中島みゆきやユーミン、オフコースを聴いていました。

 中学校では剣道部に入部。女らしくないことをしたいと思って剣道部を選んだのですが、その年はなぜか女子部員がすごく多い年でした。そして小学校の時から地理や歴史の本を夢中で読んでいた米村さんは、中学校でも歴史が飛び抜けて好きでした。米村さんの歴史のノートの取り方があまりに素晴らしくて、高校の時など歴史の先生に「お前のノートの取り方を見せてくれ」と言われていたほどです。歴史全般が得意だったのですが、中でも中国史は異常に頭に入りました。三国志や史記が好きで、大学時代は文献を翻訳していたため漢和辞典をひくのが速いという変わった特技の持ち主になりました。
 高校時代はバスケ部のマネージャーをしていたのですが、高校野球が好きで甲子園まで見に行ったりもしていました。

 大学は中国史を学びたくて、京都女子大へ。古美術研究会に入ってお寺や庭をたくさん見てまわりました。高台寺で特別拝観のガイドをさせてもらったときには、CMのロケで訪れた女優の黒木瞳さんを間近で見たのが思い出です。

 大学時代は羽目を外すこともなく、大学とデザイン事務所のバイトに行き、アパートに戻ってニュースステーションを見て寝る、というなんともまじめな生活でした。

 大学を卒業後しばらくして、NHK富山の契約アナウンサーとして採用されます。当時ローカルの契約では2年で辞めなければならないという暗黙の了解がありました。2年で辞めた後は東京でフリーのアナウンサーになりました。フリーのアナウンサーにとってオーディションは日常茶飯事です。それは大学入試のようにボーダーラインが決まっているわけではなく、誰が採用されるかは神のみぞ知るといった感じです。この時期の経験が、米村さんに努力しても報われないことがあるということを教えてくれたのでした。そんな時に大切になってくるのは、どうやって自分の心と折り合いをつけるか、ということです。みんなプロですから、プライドがある分、余計に嫉妬が芽生えやすい世界でした。そんな中で鍛えられたので、きっとずいぶんとタフになったはずです。

 その後、NHKの国際放送局に採用になった米村さん。ナレーションもいろいろ担当したので、「あなたの番組聞いていたよ!あれ、あなただったんですね」と後に言われたこともありました。国際放送局は人間関係はとてもいい所でしたが、9.11テロ直後、特別編成で番組が突如休みになり、お給料がもらえなくなるということもありました。なにしろ番組が放送されて初めてお給料がもらえるので、番組が放送休止になると、その分のお給料ありません。このままだと生活できないと訴えたことがありました。おかげですぐにその状況は改善されました。
国際放送局の仕事を始めてから6年後、米村さんの担当していた番組が終わることになりました。米村さんは仕事を辞めて前々から興味があった中国に留学しようと決断。しかし、その年はSARSが大流行した年でもあり、ご両親は米村さんが留学することに大反対でした。中国に移ってからも反日デモや悪い報道がたくさんあったので、お母さんはワイドショーで悪いニュースを見るたびに電話をかけてきました。母が娘を心配する気持ちはもっともですが、その後たびたび日本人のメディアリテラシーについて考えさせられました。日本人は概してメディアの情報を取捨選択する力が高くなく、報道されたことがすべてと思い込んでしまいがちです。報道は本当だったとしても、それは全体のうちの一部にすぎないことが往々にしてあります。作り手のバイアスがかかる場合もある。鵜呑みにするのは決してよいことではない。中国にいると、それを身を持って感じるのでした。
 
  中国に留学した当初、中国語検定3級は持っていてもちっとも話せない現実に愕然としました。留学先の大学での中国語の授業は、教師の技量がまちまちな上、教え方が確立されていないために必要に感じられない授業もありました。むしろ大学教授の奥さんと相互学習がどんどん中国語の会話を上達させました。しかし、最初のうちはなかなか北京に馴染めませんでした。その頃は大学の周辺にはほとんど洗練された所がなかったのも理由の一つです。留学して3か月経過した頃「3日でいいから東京に帰って青山のカフェでお洒落な友だちとお茶したい!」と思ったこともありました。

 2005年は反日デモを間近で目撃して、少なからずショックを受けます。デモ隊が大学の正門前を通過していくときに、学内からどんどん学生が合流していく様子がマンションの窓から見えました。日本はそれまで中国に対して支援してきていたけれど、デモに参加している人たちはそれも理解していないこともショックでした。

 上海と比べて北京は日本人が圧倒的に少ない一方、日本人が手を付けていないビジネスの領域がたくさんありました。米村さんはそれまでのアナウンサー時代の経験を活かして、プレゼンのスキルを上げるセミナーを管理職向けに開催しました。そこから次の仕事につながって、中国人にビジネスマナーをや日本式の仕事の進め方を教える仕事が少しずつ増えていきました。

中国に住む時間が長くなるにつれ、次第に中国人への理解も深くなってきます。中国人ってこんな考え方をするんだ!という発見も面白かった。馴染めなかった北京での暮らしから少しずつ「苦」の部分がなくなっていきました。特に2007年の年末から3か月帰国した際は考えに変化が生まれました。北京にいる間「何で私はここにいるんだろう?」と嘆きたくなることがままあったけれど、北京という町はこれはこれでいいのだ。この時期そう考えられるようになっていました。そしてやはり日本にいて痛切に感じたのは、日本人は中国人のことを理解していない、いや理解しようとしていないということでした。メディアを介した中国人の情報は信じるけれど、自分の目で中国や中国人を見ていない。メディアの情報は全体から見た一部でしかないことが理解できなければ、結局発想が堂々巡りになるだけではないだろうか。自分で見て、感じて、考える必要性を痛感しました。

それをより強く感じる出来事が起こりました。2012年の反日デモでした。デモの数日前は、親しい中国人から日本人だとばれると危ないから一人でタクシーに乗るなと心配されるほど緊張感があった、それは確かです。そして北京の日本大使館前でデモが発生した際、周囲が厳戒態勢だったのも事実でした。しかし、自宅周辺も仕事場周辺も、北京のほとんどはいつも通りの穏やかさでした。デモの喧噪は一切聞こえませんでした。この事実が伝えられないのは理由があります。日本のメディアは大手と言えと、中国を担当する記者の数は各社せいぜい3,4人。多くて5,6人。限られた数で日本の25倍の面積の中国全土をカバーするので、目立つ大きな現場ばかり取材することになります。結果、私たちが日本で目にするのは必然的に刺激的な部分ばかりにならざるを得ないというわけです。米村さんはこのとき日本のテレビ局の電話取材を受けました。デモ隊がいるのは日本大使館周辺だけで北京は概ね平穏であること、事態を悲しんだり、米村さんに対し謝罪してくれた中国人がいたことを紹介しました。しかし、中には無神経な日本の新聞社もありました。メールやメッセンジャーでの情況確認も取らずいきなり日本語で携帯電話にかけてきたのです。中国語にも英語にも反応できない人物が、です。仮に偶然過激な考えの人がそばにいる恐れがある場所で日本語を話したとしたら、自らの安全は保障できません。電話をかけてきた新聞記者は相手がどんな状況にいるかを考える視点がすっぽりと抜け落ちていたのでしょう。取材をするときに大切なのは、取材相手の生命に少しでも危険が及ぶ可能性は排除しなければならないということです。良くも悪くも、日本人は平和だなと感じた出来事でした。

2013年、北京の生活環境は厳しくなっていました。急速なインフレで、家賃も生活費もどんどん上がっていきました。空がいつも真っ白で防塵マスクは必需品になり、朝窓の外を見るたびに気持ちが落ち込みました。その環境にいることのリスクを考えて、日本に戻ることに決めたのです。

そうして、2013年の5月、富山に帰ってきました。これからは中国と日本を近付ける、そんな役割を担おう!そう思いました。

ある時、自分の手帳の付け方が実用的なことに気が付きます。そこで手帳術のセミナーを高岡、続けて東京で開催したところ、すごく評判がよかった。きっちりせずに怠けながらできるのですが自己肯定感がすごく上がっていくのです。興味がある方はぜひ、米村さんの手帳術セミナーを受講してみてくださいね。目からウロコなこと間違いなしです。
手帳術セミナーは今後中国語バージョンも作って、中国でも展開していこうと考えています。あまり手帳を取る習慣のない中国の人にはきっと画期的でしょう。

米村さんは安定した場所にずっといると何もしなくなるので、自分に不安になるそうです。自然に他人がやっていない所を探して手を出したくなる習性があると素敵な笑顔で教えてくださいました。敢えて苦労する道を選んでいくフロンティアスピリッツに溢れていて、今どきの軟弱な草食男子にちょっとお説教をお願いしたくなりました。

そんな米村さんが今楽しいことは、飛行機でも列車でも乗り物に乗ってどこかに行くことです。移動そのものが好き!と嬉しそう。はじめての場所に行って、歩いて、その土地の地形を把握するのも好きです。街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」がお好きなわけですね。

他の場所から遊びに来てくれた友だちといろいろな話をすることもとても楽しい。そして、愛猫といる時は、いちばんほっとできる時間です。

夢は大きく、東アジアの平和です。お互いにいがみ合っていても何の解決にもなりません。米村さんのような方が中国と日本を近付ける活動を続けてくださることが、メディアの一方通行の知識しか持たない人の意識を変化させてくれるのだと思います。

「人は食べ物がおいしいところにいたらそこそこ幸せ」と ここでもかっこいい姉貴っぷりの米村さん!海外生活が長かった米村さんの言葉だからとても説得力があります。この後どんなふうに道を切り拓いていかれるのか、とっても楽しみにしています。
今日の人166.毛利勝彦さん [2017年06月10日(Sat)]
 今日の人は、設計事務所を経営され、また建築士としていろいろな設計に携わりつつ、今はアパートの大家さんとしてそこに住んでいるベトナム人留学生たちに日本の親父さんのような存在で接している毛利勝彦さんです。
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アパートで学生と歓談?している毛利さんビール


毛利さんは昭和27年に3月25日に富山市で生まれました。
小さい頃は泣き虫で、お母さんが仕事で家にいないと泣きべそをかいていたものです。
でも、その頃の日本は子どもがたくさんいた時代で、近所の子どもたちとメンコをしたり、お宮さんの周りを走り回ったり、かくれんぼしたり、いろんなことをして外で遊んでいました。
 小学校に入ってから、中学校までは滑川で過ごします。将来やりたいと思うことは特になかったので、勉強は全くしませんでした。中学2年からは町内の子に引きずられるように、不良グループに。昼から学校をサボって富山の街中へ繰り出し、映画を見たり、大和デパートの屋上で動物を見たり(当時大和の屋上は子どもの遊園地と小さな動物園があったのです)遊んでばかりいました。学校の先生にはこっぴどく叱られましたが、親が呼びつけられるといったことはなく、また毛利さんも親、特にお母さんには心配をかけたくなかったので、警察沙汰になるようなことはしませんでした。お父さんは塗装屋さんだったのですが、道楽者でしたからお母さんはいつも苦労をしていました。だからお母さんを悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのです。その一心から、不良になりすぎることはなかったのでした。

 高校は富山工業高校の工芸科に進みます。高校に入ると、それまでの不良仲間は散り散りになり、特に遊ぶこともなくなった毛利さんは勉強一筋に転じます。そうして1年生の2学期からはずっとトップの成績だったので、卒業時には優良賞を受賞したほどでした。もっとも、自分からそういうことをアピールするタイプではなく、またずっと硬派で通していたので、好きな女の子の家で一緒に勉強していても、結局何も言えないままでした。話し方が滑川弁でそれがコンプレックスになって告白できなかったのかもしれません。

 ロマンスは生まれなかったけれど成績優秀だった毛利さんは、高校卒業後に東京の大手百貨店大丸の室笑内装工部にすんなり就職が決まります。そうして、皇居の内装だったり、船や飛行機の内装だったり、大きな仕事をいくつも任されるまでに腕を上げたのです。女優の今陽子さんのマンションの内装を頼まれたりもしました。東京での仕事はとても楽しかったのですが,毛利さんは長男でご両親が心配なこともあって、4,5年してから富山に帰ってきました。

 富山に帰ってきた毛利さんは、高校で同じ美術部だった後輩と結婚。毛利さんは昔から油絵で抽象画を描くのが好きだったので、市展や県展にもよく作品を出していたのです。60代になって少し時間が出来たのでえ、そろそろ描き始めようかとも思っていましたが、最近はベトナム人学生たちと一緒に釣りに出かけたり、飲んだりしていて、逆に忙しくなってしまったと毛利さん。でも、若い彼らと一緒に過ごせるのはとても楽しいとチャーミングな笑顔でおっしゃいます。こうした小さな、でもとても濃い交流の積み重ねこそ、多文化共生にとって一番大事なことだと毛利さんと留学生を見ていて感じます。留学生にとっても、毛利さんのような素敵な大家さんに出会えたことで、富山が大好きになったにちがいないはずだから。

さて、話を戻します。富山に帰ってきてすぐに入った会社で、毛利さんは大きな洋風建築の設計を頼まれます。当時珍しい素晴らしい洋風建築の建物で、あまりに贅沢な造りだったので、新聞で叩かれるほどでした。
 ヨーロッパ風の建築が好きだった毛利さんはヨーロッパに何度も行きました。そうして、ヨーロッパに行った時に頭に残ったものを描くのが得意でした。

 当時はまだ図面をコンピューターで書ける時代ではなかったので、手書きで図面を書いていました。1分の1の設計図を手書きで書ける人は富山には毛利さんしかいなかったので、本当に貴重な存在でした。まだ会社員の一般的な初任給が6万ほどの時代に、設計料だけで2日で10万もらう程の稼ぎぶりでした。飲みにいくことも多かったし、スキーやゴルフもたっぷりやりました。夜遅くまで仕事をし、その後飲みに行って朝の3,4時まで飲んで、また朝から仕事をするという毎日を送っても元気でした。仕事も遊びも全力投球、それが毛利さんのやり方なのでした。
 実は毛利さんは、お父さんが道楽者でお母さんが苦労したこともあって、お父さんと一緒に飲みに行ったことがありませんでした。しかし、歳を重ねた今は、あんなに反発しないで、親父と飲みに行けばよかったなぁと思うのでした。

 40代で独立して、夢家工房(ゆめやこうぼう)建築設計事務所を設立した毛利さん。独立する前は、主に店舗の設計が多かったのですが、独立してからは住宅の設計も数多く手がけました。経営も順調だったのですが、独立後10年程経ったある日、屋根の上から落下し、頭を強く打ち付けるという事故が起こります。あたりは血の海になりました。脳挫傷でクモ膜下出血を起こし、そのまま逝ってしまってもおかしくない状況でしたが、奇跡的に一命を取りとめました。1か月入院し、体にしびれもあまり残らなかったのは幸いでしたが、仕事に戻ってから愕然とします。今まではどんなにたくさんの仕事が重なっていても、同時並行でたくさんの仕事をこなせていました。10くらい仕事があっても平気だったのに、2つくらい仕事が重なっただけで、もう頭が働かなくなるのです。自分が情けなくて、どん底に落ちた気分でした。大好きだったお酒も飲まなくなりました。そんな状態が3、4年続いたでしょうか。少しずつ仕事もできるようになってきて、またお酒も飲めるようになってきました。

 そんな頃に、毛利さんが大家をしているアパートにベトナム人の留学生たちが入居してきたのです。不慣れな異国の地でさぞかし不自由な思いをしているだろうと彼らの世話をあれこれ焼いているうちに、一緒にお酒も飲むようになりました。なにしろベトナムの留学生たちはみんなで集まってワイワイ飲むのが大好きです。元来、そういう楽しい場所が大好きな毛利さんはベトナムの学生たちと飲むのがすっかり日課になりました。居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲む酒と違って、彼らと飲む酒はすごく楽しいのです。今の彼らの姿は、エネルギーにあふれた高度成長期の頃の日本人の姿に重なる部分があるのかもしれませんね。
そして、毛利さんのアパートでの外国人学生たちと近所の方々との付き合い方もとっても自然なのです。いつも学生たちのことを気にかけていろいろ相談にも乗ってあげている近所のおじさんは、学生たちからおじさんおじさんと慕われていますし、いつも畑で採れた野菜を持ってきてくれるおばさんもいます。国際交流とか多文化共生って声高に言わなくても、こんな風にごく自然に日本人と外国人がご近所付き合いできる関係ってとてもステキです。

 60代後半になった毛利さん、昔のように仕事も遊びにも全力投球というわけにはいきませんが、マイペースでやっていけたらいいと思っています。時間のある時は、映画を見たり、留学生を連れて釣りに行ったり飲みにいったり、とても有意義に時間を使っていらっしゃいます。
まとまった時間が出来たら、またヨーロッパもゆっくり旅行したいし、学生たちに案内してもらってベトナムを旅行するのも楽しみにしていることのひとつです。  

工業高校の美術部の仲間との美術展にも今年は久しぶりに出展しようと思っています。時代を重ねた今、毛利さんはキャンバスにどんな世界を描くのでしょうか。
留学生たちと一緒に毛利さんの美術展を見に行くのを楽しみにしていますね。
今日の人165.成瀬 裕さん [2017年04月21日(Fri)]
 今日の人は、(株)リアルセキュリティ代表取締役で、今年「○○○のしごと塾ネットワーク」を立ち上げられた成瀬裕さんです。
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 成瀬さんは昭和42年に氷見で生まれ、氷見で育ちました。小さい時から落ち着きがないやんちゃな子で、外でカエルや虫を捕ったり、川で泳いだりして過ごしていました。川で泳いでいた時に、取水口に吸い込まれそうになって死にかけたこともありました。その時は同級生の手を必死で引っ張って、なんとか助かった裕少年でした。
 ただ、外遊びは好きなのですが、病弱だったので、小学校4年生の時から、剣道を始めました。お父さんの上司にあたる人が剣道を教えていて、そこで習い始めたのです。先生がおっかなくて、イヤなんだけど練習に行く。でも、イヤなんだけど好き。そんな感じでずっと剣道は続けました。そして、落ち着きのなかった裕少年は、剣道を始めたことでだんだん落ち着けるようになってきたのです。ただ、勉強はずっと嫌いでした。小6の時に、おばあちゃんに「将来はどうするの?」と聞かれた時に、「僕には剣道しかないんだ!」と答えていました。それくらい剣道一筋の少年時代だったのです。将来は警察官や消防士のようなかっこいい制服を着られる職業にあこがれました。

 当然、中学校に入っても剣道部に入った成瀬さん。勉強はしないけど、剣道の本だけは読んでいました。人生の基礎は全部剣道から学んだと言っても過言ではありません。相手を敬うこと、礼儀、忍耐力、全て剣道が教えてくれました。お父さんは厳格な人で、成瀬さんは反抗期なんて考えも及ばなかったくらいですが、お父さんも成瀬さんの剣道のことは認めてくれていました。きっとそれで成瀬さんも自己肯定感が満たされていたのだと思います。そのお父さんは、5人兄弟で妹を3人嫁に出したような苦労人でした。そんなお父さんの姿を見て育ったので、成瀬さん自身も早い時から仕事をしようと決めていました。
 
 高校まで剣道一筋だった成瀬さんは、高校卒業後、剣道の先生に誘われた警備会社へと就職します。まず最初に配属されたのは、ショッピングセンターの常駐勤務でした。夜間警備の時に、マネキンの手があたって、思いっきりビビったこともありました。ホームセンターで侵入警報が鳴り、駆け付けたところ、店内からガサガサと音がして、緊張が走りましたが、懐中電灯で照らすとカブトムシだった、なんてこともありました。成瀬さんは見かけによらず、ホラーが大嫌いなのですが、警備会社にいると、いろいろな怪奇現象話には事欠かないのでした。その話はいつかじっくりお聞きすることにしましょう。

その後あらゆる警備を経験、26歳になったとき、富山県警備業協会の委嘱講師、富山県公安委員会の委嘱講師になったのです。それまで勉強が大嫌いだった成瀬さんですが、この時は本当に真剣に勉強しました。なにしろ警備会社は民間の警察、つまり警察が勉強する内容は頭に入れなければなりません。法律用語だってわからないといけないのですから、その勉強量たるや、相当なものだったことでしょう。
 こうして27歳の時には全国警備業協会の特別講習講師になり、28歳で全国警備業協会特別講習講師技術研究専門部会の専門員になったのです。この技研の専門員は警備業業界の宝と呼ばれています。警備業の講師の中でも雲の上の存在、そんな立場に自分が立つなど、考えだにしなかったことでした。
 
 しかし、いざ技研活動を始めると、会社内で男のひがみ、妬み、嫉みを感じることに。いつか認めてもらえるだろうと必死で頑張っていましたが、出張も増え、なかなか職場内の理解は得られないまま時間が流れていきました。
 平成8年には、全国都市緑化フェア高岡おとぎの森会場警備隊隊長の任も受け、技研の活動を半年休止しました。半年も技研活動を休むと、技研研修会に行ったときに仲間に追いつけなくて愕然としました。技研をやめて職場の仕事に専念するしかないかと思い始めた矢先、技研の3本の指に入ると言われる先生から紹介を受け転職を決意します。30歳の時でした。しかし、いずれ独立しようと思っていた成瀬さんは「独立する夢があるから、3年契約でお願いします」と約束し、埼玉の警備会社に転職しました。

 しかし、その後会社は不況のあおりを受け、100名あまりの警備員の給与を下げることになり、3年を待たずに退職。氷見に帰って独立しようと決意し、32歳で創業。しかし、事務所は実家の廊下、スタッフは自分一人というとても厳しい状況でのスタートでした。経営が上手くいかず、生活費を稼ぐため公衆トイレの清掃もやりました。当然技研活動も休止せざるを得ませんでしたが、時折入る技研の同志からの励ましが、何よりの心の拠り所なのでした。

 創業して3年たち、なんとか仕事が軌道に乗った成瀬さんは、33歳で氷見商工会議所青年部に入会。地元でも多くの仲間が出来ました。しかし、そんな時に、技研委嘱解除の封書が届き、間に合わなかったかと愕然としました。落ち込んでいる成瀬さんのところに、以前いろいろ励ましてくれた技研の元常務から手紙が届きました。そこには「我々は誰のために何をするのか、人の喜びあることをやることのやりがい。自分を試すこと、それが一番大事。そのためには魂を磨きなさい」そう書かれてありました。それを読んで、心が震えた成瀬さん。以後、その言葉は人生の道標となったのでした。

その後、40歳のとき会社は不況のあおりをうけて合併します。つらい決断でしたが、やむを得ませんでした。そして、その翌年には、富山県商工会議所青年部連合会第31代会長に就任し、会員1000名のトップに立ったのです。その年のスローガンは「物語創造~ストーリーがあれば人は集まる~」でした。

 会社の方は合併8年で経営方針が食い違い、合併を解消。
こうして成瀬さんは株式会社リアルセキュリティを正式に立ち上げたのでした。そして、全国警備業協会にも返り咲き、全国各地で経営者研修会を担当しました。そこで、一番の問題になったのは、人材確保と人材の定着でした。これは警備会社だけの問題ではなく、社会問題だ、と感じた成瀬さんは、何か自分にできることはないかと模索を始めます。警備と講師の仕事は両輪だから、今までの経験を活かして、求職者の仕事に対する不安や困惑を取り除き、希望を大きく膨らませるような教育をやるのが僕の使命なんじゃないか、そう感じ始めたのです。「最後は覚悟!」そう思った成瀬さん「五十にして天命を知る」ということわざがあったな、の自分の集大成として警備のしごと塾を開こう!そう決意しました。いやいや、警備だけでなく、いろいろなプロの人たちがいるのだから、その人たちが集う○○○のしごと塾ネットワークにすればもっと面白いではないか。そうして、どんどん夢は膨らみ、とうとう成瀬さんは氷見ドリプラで自分の夢をプレゼンしたのです。
成瀬さんのプレゼンはこちら→https://www.youtube.com/watch?v=eGEWwjnGolg
 
 そうして夢を語ったことでどんどん仲間が集まり、今やしごと塾の仲間は16企業。
警備のしごと塾の他にも、健康、板金、建設、看板、デザイン、接客、エステ、大工…といろいろなしごと塾が集っています。皆さんもぜひ一度、○○○のしごと塾ネットワークのホームページをご覧になってみてください。
○○○のしごと塾ネットワーク

 今も夢に向かっていきいきと走り続ける成瀬さんが楽しいことは、しごと塾の仲間と月1回集まってあれやこれやと話し合っていること(もちろんその後はとっても大事な飲み会ですが)、そして今年から小学校に入学したお子さんの成長を見守ること。

 このまましごと塾を充実させていき、いつかしごと塾の記念講演もやりたいと考えています。そして、大好きだった剣道を再開して、小学生に教えたいというのも夢です。
 人の成長に関わるのは本当に楽しい、と50歳の成瀬さん。その目は今でも少年のように茶目っ気たっぷりで、キラキラしていました。
今日の人163.武内孝憲さん [2017年01月15日(Sun)]
 今日の人は、1848年創業の呉服専門店牛島屋の専務取締役であり、ハレの日を演出している株式会社ハミングバード代表取締役社長であり、中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営を手掛ける武内孝憲さんです。
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 武内さんは由緒ある牛島屋の家に生まれ、物心ついた時から牛島屋のある中央通り商店街はいつもそこにある場所でした。

 家は商売で忙しかったので、母方の実家に預けられることも多く、よく絵本を読んでもらっていたし、朗読劇のカセットテープを流しながら寝かしつけられてもいました。そのおかげか、小さい頃から本を読むのは大好きだったし、勝手にストーリーを考えて空想したり、朗読を聞いたりすることが今も好きです。

幼稚園の頃はまだモジモジしている男の子でした。小学校に入ってサッカーを始めると、目立ちたがり屋の面がムクムクと顔を出し、積極的に声を出し自分の意見を言う子に変わっていきました。富山大学附属小学校に通っていたのですが、先生にも恵まれ人間性を尊重し向き合ってもらえたことや、ずっと学級委員や指揮者の任に当たらせてもらえたことで、責任感も培われたとのこと。

街中が通学路だったので、乗り継ぎの時間は中央通り商店街でお店に寄るのが日常でした。その頃、おじいさまは近所の骨董品屋や家具屋に井戸端会議をしに出入りしていらしたので、そこに寄っておやつをいただくのが日課でした。その時代の中央通りといえば、総曲輪と並んで富山でいちばん華やかな商店街でしたから、私たちにとって総曲輪や中央通りに遊びに行くのは、特別な日で前の日からワクワクしたものです。みんなにとって特別なそんな場所が武内さんにとっては日常の場所なのでした。

中学校も富山大学附属中学へ。サッカー部に入って活躍します。部活帰りに寄るのも、やっぱり中央通り商店街。本屋のバックヤードも武内さんの居場所になっていて、そこで本を読むのも大好きな時間でした。焼き鳥屋で焼き鳥を2、3本買って部活後のお腹を満たしていたものです。(部活帰りにお肉屋さんのコロッケを食べるというのはよく聞きますが、中学生で焼き鳥は初めて聞きました!)
この頃は、学校の先生になりたいと考えていました。生徒に囲まれて、ひとつのコミュニティを作り上げていくそんな仕事がとても魅力的だと思ったのです。附属中学校には教育実習生もたくさん来ていたので、彼らの姿も刺激になりました。もっとも、実習生をからかっていたのも事実ですが・・・。

高校は富山県内屈指の進学校、富山中部高校へ。ここでも迷うことなくサッカー部でした。高校時代も遊びの場は中央通りでした。この頃はDCブランド全盛期だったのですが、DCブランドのお店やレコード店がいつも行く場所でした。街中で映画を見て、喫茶店でお茶をして、そんなデートも日常の中にありました。でも、その頃友だちから「進路決めるの、悩まなくてもいいからいいよね」と言われるのがイヤでした。他のチャンスを最初から消去されている気がして、釈然としなかったのです。

中学校でも高校でも応援団長や団長だった武内さん。応援団長や団長と言えば、運動会の花形です。さぞかし、充実した時間だったにちがいありません。けれど、サッカー部の最後の大会では、序盤に骨折して不完全燃焼に終わります。そのまま終わるのがイヤで、他の3年生は夏には引退するにも関わらず、卒業ギリギリまでサッカーをやっていた武内さん。その年は志望校に合格は叶わず一浪することにして、予備校に進みました。横浜にある予備校の寮に住み、志を同じくする友人たちと合宿状態だった1年間。この1年の経験はとても貴重でした。

大学は法学部を目指します。人と関わる仕事がしたかったし、先生と呼ばれる仕事がしたいという思いは昔から変わっていませんでした。しかし、一浪後に進んだ大学は、武内さんの志望校ではありませんでした。本当に行きたいところに行けない、そんな挫折感でいっぱいでした。ですから斜に構えて大学に通っていました。ただ、単位は大学3年までに全部取ってしまうことを自分に課していたので、大学をサボったりするようなことはありませんでした。そうして3年までに全ての単位を取り終えたのでした。
サッカーサークルの友だちに薦められて、自由が丘にあったスポーツバーでバイトもしていました。そこは、Jリーグの前身になる社会人チームの人たちがたくさん来ていて、そんな人たちと会話できることがとても楽しかった。

そんな武内さん、実は大学3年の2月に学生結婚をします。その頃の武内さんは、もう家業を継ごうという決意が固まっていました。いろいろな仕事があるけれど、家業を継げるということを「これは自分にとってのチャンスに変えるべきだ」、そんな思いが固まっていたのです。それで何で結婚かというと、創業1848年の牛島屋は歴史ある商家らしく、年回りの相性をとても大切にしていたのです。そこで、ふたりにとってこの年がふさわしいということになって、当時付き合っていた彼女(実は幼なじみで、昔は姉弟みたいな感じでした。しかし、浪人時代に距離を取ったことで、お互いの居心地のよさを感じていました。そうして、付き合って1年半たっていました)と式を挙げたのです。

大学を卒業したら、大阪に修行に行くことが決まっていた武内さんは、大学4年の1年間は広告代理店の営業として働きました。単位は全部取っていたので、正社員として1年働いたのです。奥さんは、着物の勉強をしなければならなかったので、着物の専門学校に通いながらの2人の生活のスタートでした。そして1年後、武内さんの卒業を待って、2人そろって大阪へ引っ越しました。大阪では、営業を通していろいろな人と関わる楽しさも知ることができました。

こうして大阪で何年か修業を積み、牛島屋が創業150年を迎える1年前に、富山へ戻ったのです。そして富山に帰る年に長男も生まれました。
大阪で経験も実績も積んできた武内さんは、張り切って仕事に取組み始めました。けれど、これまでとは全然勝手がちがいました。確かに、大阪と富山では仕事の環境も全然ちがうのですが、こんなにまで勝手がちがうとは…。しかし、もちろんちがうからと言って、手をこまねいているわけにはいきません。

牛島屋は創業150年を迎えた後、大泉に大きなビルを建てました。しかし、起工式の前日、幼い頃から一番の理解者であった祖父が亡くなります。おじいさんが商店街の世話をずっとしていたのを見てきた武内さんは、そうすることを当たり前と感じていました。ですから、早速商店街の活動をスタートさせました。中央通りでパリ祭なるイベントを開催しました。屋台、大道芸、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、街も活気にあふれました。その頃、バブルはもう終わっていたのですが、まだ商店街にも活気がある時代だったのです。しかし、徐々に商店街から人の波が消え、シャッターを閉めるお店も多くなってしまいました。駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに買い物にいく流れが商店街にも否応なく影を落としました。けれど、なんとかまた街の中心の商店街に活気を取り戻したい。そのためには、まず商店街が力を合わせなければ。そう思った武内さんは、笑店街ネットワークなるものも立ち上げて、それまでほとんど交流のなかった商店街の横のつながりを生み出しました。そこで情報交換も生まれ仲間作りの起点になりました。笑店街ネットワークは6年間続けてその役割を果たしたと考え、今は休止しています。

牛島屋の仕事に加え、まちづくりの活動を中心的に担ってきた武内さんは、こうして商店街にとってなくてはならない存在になっていきました。

そして、昨年2016年9月からは新たな取り組みとしてまちなか活用プロジェクト「マチノス」をオープンさせました。マチノスは中央通り商店街の牛島屋の2~4階をシェアスペースとして貸し出し、すでに様々なプロジェクトが動き始めています。一例をあげると、Liveとお茶会やワインの会、いろんな講座に、単発のワークショップ等々、素敵なイベントが満載。もちろんそれだけではなく、まちの成り立ちや歴史、伝統を見直し、まちなか本来の賑わいを取り戻しながら、市民の交流や学びの場を提供するプロジェクトというのが「マチノス」のコンセプト。

武内さんはおっしゃいます。これまで通りの商店街をやっていては、商店街に未来はない。商店街の価値観を変えていく時が来ている。人のコミュニティの在り方として、もっとできることがあるはずだ。そして、少しずつだけど、化学反応が起き始めていると。

そして、自分なりのコミュニティを生み出していくことは、商売以前に自分のライフワークとしてとらえるようになったのです。ハミングバードという会社をやり始めて、武内さんはたくさんの作り手、可能性を持った人たちとつながりを持つことができました。そういう人たちとのプロモーションを通じて広がりを生み出せることを実感したのです。一人一人で個別に何かをやっているより、うんと可能性が生まれる。コミュニティが生まれる。そして、可能性を導き出して、知らない人同士をつなげることができるコネクターとしての自分を武内さんはとても嬉しく感じるのでした。

そんな風にいつも忙しくしている武内さんのリラックスできる場は、やっぱり大好きな本屋なのでした。でも、それだけではなく、人に会っている時間も実はとてもリラックスできる時間です。武内さんは人に興味があって、誰かの話を聴いている時間もとても好きなのです。人に会うことが趣味と言ってもいいかもしれません。それが仕事に生かされる部分もあります。もちろん、最初から仕事に生かそうと思いながら話しているわけではありません。ひたすらその人に興味があるからです。だからこそみんな胸襟を開いて武内さんと話してくれるのでしょうね。一人でいるのはちっとも苦じゃないけれど、一人でいると結果的に動いてしまう武内さんなのでした。

これからの世の中はAIにとって代わられる部分もたくさんあるでしょう。でも、そんな世の中だからこそ、人の力が必要なことは何なのか、そしてこれからどんな世の中になっていくのか、変わっていくことにすごく興味があります。とにかく知的好奇心が旺盛で、いくつになっても少年のようにやりたい!知りたい!がたくさんあるのでした。

そんな武内さん、実は今もサッカーチームにも3つ入っていて、富山市サッカー協会の理事もやっています。こんなに忙しいのにどこにそんな暇があるんだろうと思うのですが、とにかく体を動かすのが好き、いろいろ運営するのが好きでいらっしゃるのです。

最後に武内さんの夢を聞きました。それは、着物や伝統産業をどうやって今のライフスタイルに織り込んでいくかという道を作っていくことです。どんなに生活が変わろうと、やはり着物は日本人にとってなくてはならないもの。今まで培ってきた文化的な深さを伝えていきたい。自分が動くことでこれまでも、そしてこれからも新しい形が見えてくると武内さんは確信しています。着物文化、日本の伝統文化が根付く場作りを新しい形でやっていきたい。そして場作りは、武内さんのやっている、ハミングバードにも、マチノスにもすべてに通じることなのです。

人懐っこくてとても素敵な笑顔の武内さん、きっとこれからもたくさんの人をつなげて新たな商店街を創りだしていかれることでしょう。

みなさんも次の休日は、商店街に足を運んでみませんか?きっとそこでは懐かしい、けれど新しい、そんな発見がいくつもできると思うから。
 

今日の人162.長崎悦子さん [2016年12月10日(Sat)]
 今日の人は会計に困ってる個人事業主や中小企業向けの会計セミナーを開催したり、うつ病・発達障害当事者おしゃべり会を定期的に開催している長崎悦子さんです。
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『糸あわせ(しあわせ)』というホームページも開設していらっしゃるので、ぜひお読みください。
http://nagasakietsuko.com/
 
 長崎さん、愛称えっちゃんは富山県のいちばん東に位置する朝日町で生まれ育ちました。
家は自営業だったので、小さい時からいつもお客さんが出入りしていましたが、どう挨拶していいかわからなくていつも黙って何もしゃべらない子でした。年子のお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんの後をついて歩くか、それ以外の時は1人でぼーっとしている時間が多くありました。絵本は好きでいつも読んでいました。

 小さい時からえっちゃんには不思議な感覚がありました。みんなは遊んでいるけれど、自分だけ透明な丸い入れ物に入っていて、そこはみんなとは遮断された世界。そこにいるとえっちゃんは落ち着くのでした。だから、みんなと交わらなくても殊更寂しいという思いを抱くことはありませんでした。むしろ一人が落ち着いて好きだった。
 実はえっちゃんのお父さんはお酒に酔うとひどく暴力をふるう人でした。それは幼いえっちゃんにも容赦なく向けられました。だから、えっちゃんは暴力のある毎日が日常だったのです。その透明なバリアは、そんな怖い思いからもえっちゃんを救ってくれていて、いつの間にか、その怖いという思いすらも覆い隠してしまったのかもしれません。

 保育園の頃は、周りはみんな夢中でピンクレディを踊っていましたが、中には入りませんでした。小学校に入って、みんなに遊ぼうと誘われても、その輪に入ろうとはしなかったえっちゃん。担任の先生に「なぜ中に入らないの?なぜ一緒に遊ばないの?」と理不尽にお説教されていました。当時は(いや、学校では今もその傾向が強いですね)「みんなちがってみんないい」ではなく、「みんな同じでみんないい」と思われていたので、先生も何の疑いもなく、「みんな一緒に遊びなさい」と言っていたのでしょうが、それがえっちゃんには苦痛でなりませんでした。遠足に行っても誰かと一緒にご飯を食べることはなく、いつも一人で食べていました。バスも一緒に座る人がいなかったので一人で座っていると、先生が隣に座ってきて『いやだなぁ。一人にしておいてくれたらいいのに』と思っていたものです。

 また、えっちゃんには『宿題はしていくべきもの』という意識がなかったので、していかないことが多くありました。夏休みの宿題も自由研究は好きでやるけれど、日記を書くのは嫌い。でも、学校の決まりに反抗している気持ちはなく、単にそんな決まりを守るのは苦手だったのです。しかし、そんなことを許してくれるような雰囲気は当時は全くありませんでした。その上、2年生の時に担任になった先生は、超熱血な人で、給食が食べられなかったり、逆上がりができなかったり、絵を描くことができなかったりすると、ことごとく居残りをさせたのです。給食が食べられなくて、1人掃除の時間まで食べさせられていたこともしょっちゅうでした。えっちゃんは五感が鋭くて、特に食感が敏感なので、給食を残さず食べろというのは本当に苦痛でした。肉は噛んでも噛んでも飲み込めなくて、ゴムのようにしか感じられなかった。その先生は結局2,5,6年の担任だったので、えっちゃんはずっと熱血指導に苦しむことになります。えっちゃんは家で怒られることに慣れ過ぎていたせいか、怒られても平気な顔をしていました。これが先生にはとても反抗的だと映ったようです。それでますます怒られるの繰り返し。この時のことがトラウマになっているせいか今も熱血を全面に出してこられると、うっとなってしまうのです。

 そんなえっちゃんが大好きだったのは算数でした。図形は嫌いだったけど、とにかく数字が大好き。そろばんもならっていたので、計算も得意でした。それで、この頃は将来は数学の先生になりたいと思っていたのです。

 中学校に入ると、いろいろな小学校から生徒が来ることもあって、以前より人とおしゃべりするようになりました。部活はソフトテニス部に入ります。しばらくは大丈夫でしたが、そのうちテニス部で仲間外れされるようになりました。えっちゃんは何でもストレートに言ってしまうタイプ。それが他の部員にはカチンと来たようで、仲間外れにされてしまったのです。もちろんイヤだったけど、部活は休んでも学校は休みませんでした。その頃、学校はイヤでも行かなくてはいけないという思いがありました。それで休もうという思いには至らなかったのです。中学校でも忘れ物をよくするし、先生には怒られてばかりで職員室で正座させられたこともありました。それでもやっぱり怒られることに耐性がついているえっちゃんは平気な顔をするので、先生はますます怒ってしまうのでした。怒られているこの子が透明なバリアで必死で自分を守っているのにも気づかずに。

 中学生の頃は漫画を読むのが大好きでした。家にはたくさん漫画の本があって、貸本屋のようにみんな借りに来ていました。お兄ちゃんもいたので、少年漫画もありました。でも、アニメは見なかった。漫画はいろいろ想像できるけど、アニメでは想像できない。えっちゃんは自分の頭の中で想像できるものが好きだったのです。

 この頃、えっちゃんはお母さんから「こんな仕事があるんだよ」と税理士を薦められます。自分でも数字が好きだったし、家は自営だけどお金がないから税理士を頼めない。じゃあ私が税理士になればいい、そう思って将来税理士になると決めたのです。

 こうして泊高校の商業科に進学します。商業科の科目はどれも本当に楽しかった。簿記なんて面白くてたまりませんでした。特に勉強しなくても商業科の科目では常にいい成績を取っていました。

 高校では最初ソフトテニス部に入っていたのですが、途中でやめて先生に誘われた科学同好会へ転部します。ここはメンバーが楽しかった。何より、試合の勝ち負けでピリピリしなくていいのがいちばんありがたかった。えっちゃんは体育の授業が小学生の時から大っ嫌いでした。自分が原因で負けてしまうことが多く、勝ち負けがつくのはとってもイヤでした。だから今でも勝負事は嫌いです。

 税理士になりたかったえっちゃんは税理士コースのある専門学校を目指していましたが、成績がよかったため進路指導で大学に行けと言われます。英語がきらいだから大学に行くのは嫌だ、私は本当に税理士になりたいんだ、そう突っぱねてなんとか思いはわかってもらえました。

 こうして大原簿記専門学校に入学。2か月で日商簿記の1級に受かったえっちゃんは、本校舎とは離れたプレハブの教室でマンツーマンで勉強するという環境になります。何か月かは1人で税理士コースの勉強を、1年の後半からは2人になり、2年生からクラスが4人にはなりましたが、少人数教育に変わりはなく、在学中に税理士を取れというプレッシャーを感じながらの学生生活を送りました。サークル活動などもなく、本当につまらない学生生活でしたが、唯一よかったのは大嫌いな体育がないということでした。
 こうして在学中に税理士試験の科目のうち3科目に合格して卒業しました。

 卒業後は会計事務所に就職しましたが、ここは本当にパワハラがひどい所でした。
「ただいま戻りました」と言うところを「ただいま」と言ってしまっただけで2時間もお説教されたり、ちょっとしたことでもすぐに怒鳴られたりしました。先輩からは、「何をしても怒鳴られるから」と言われましたが、とても耐えられたものじゃないと7か月で辞めました。
 次にスーパーの事務として働きました。悪気はないけど言いたいことを言ってしまうえっちゃんは上司とうまくいきません。仕事はできるので、新しく入った子の教育係をさせられるくらいでしたが、上司との関係が悪化して辞めてしまったのでした。
 その次も別のスーパーで働きました。ここは学生時代にバイトしていたスーパーでした。なにしろレジのスピードが半端なかったえっちゃんは最初にレジを担当しますが、その後、青果部門の担当に。すると、また人間関係が悪化し、手も痛めてまた辞めることに。

 その後、就職したのはまた会計事務所でした。普通4~5年たたないとお客さんをつけてもらえないのですが、一番若くて資格もあるえっちゃんは入ってすぐに制服が支給され、お客さんもつきました。そして所長さんにすごく可愛がられたので、他の女性社員から妬まれてしまいます。お客さんともストレートにぶつかるので、だんだんお客さんとやり取りするのが苦痛になってしまいました。こうしてまた人間関係が悪化。だんだん苦しくなって、パソコンで鬱病のチェックすると「あなたは鬱です」とパソコンに診断されます。けれど、苦しい中でも仕事は続けました。体もおかしくなっていきました。「長崎さんだけ所長の態度がちがう。長崎さんは怒られないでしょ」と言われ、飲み会に行くのも苦痛でした。もう精神的にも限界の状態で体の具合も悪く、仕事を辞めて卵巣嚢腫の手術をしたのです。

 その後もいくつか仕事をしましたが、何をしても被害妄想がひどくなっていきました。いつも悪口を言われている感覚が続き、まわりと一切かかわらない、しゃべらなくなりました。そして全く動けなくなってしまいました。内科に行っても脳の検査をしても異常なし。とうとう鬱と診断されたのです。仕事に出てこいと言われても、行けるわけもありませんでした。全部が怖かった。その時に行っていた会社は、最後の挨拶もせずに終わりました。

 その後はひたすら家の中で過ごしました。もう自分なんか消えてなくなりたい。どうやったら楽に死ねるかを自殺サイトで探してばかりいました。
 けれど、1年たたないうちに文房具屋で働き始めます。えっちゃんは文房具に詳しく、店長とも仲良くやれましたが、どうしても他の女の人と仲良くなれないのです。とにかく女性の団体が一番苦手なえっちゃん。それは今も変わっていません。その文房具屋は一日無断欠勤をした後に辞めてしまいました。すると医者から、「なんで働けないの?」と言われたのです。そう言われるのが苦痛で、医者にも行かなくなりました。しばらくは薬がなくてもOKでした。
 
 その後、一人暮らしをしようと実家から引っ越しして富山の会計事務所で働き始めました。しかし、やはり症状がひどくなって、富山市の医者に行き始めます。最初はよかったのですが、次第に先生と合わなくなっていきます。「周りで何か起きたとき、自分の思い通りにいかないと納得しない」と書かれたえっちゃん。「仕事を休みなさい」との診断書を会社に見せると「会社をやめてくれ」と言われ、この仕事も辞めたのでした。

 こうしてアパートを引き払い、数か月で朝日町の実家に戻ります。その後もいろいろな仕事をしました。経理の仕事をした時は、夢ばかり語って現実を見ない上司にぞっとしたし、また会計事務所で働いた時は、入ってすぐに100人規模のセミナーをその事務所で一番のお局様と一緒に担当させられておかしくなりました。嫌いなカラオケでも無理やり歌わされるような体育会系のノリにもついていけなくて、立ち直れないくらいにダメージを受けました。この時にいちばん死にたいと思い、会計ももう一生できない、そう思っていました。

 その後はしばらく仕事をしていません。やがて、学生時代のアルバイトでお世話になった方が店長をしているスーパーで働き始めました。店長は、鬱病でもWelcomeだよと言ってくれました。チーフも鬱病の本を読んで勉強してくれていました。きっとそのスーパーがなかったら、今も元気にしていないと思うのです。けれど、5時間のパートからフルタイムのパートへと変わった時に、やらなくてはいけないことが増えすぎてパンクしてしまったのでした。

 間をあけずに、今度は黒部の事業所に事務として入りました。この時に、初めて自分が発達障害だということがわかりました。
 それが分かった時、最初はものすごく混乱しました。そうして、次の段階では、何でも発達障害のせいにしている自分がイヤになりました。ただ、そこも吹っ切れると、検査してよかったと思えるようになったのです。

 自分は国語の能力はないと思っていたけれど、言葉を使う理解能力があると言われて、そうだったんだと初めて思いました。実際に、えっちゃんの書く文章はとても読みやすくて、スッと入ってきます。発達障害者支援センターありそでは、自分は努力できないと思っていたけれど、めちゃめちゃ努力していると言われました。できることとできないことがわかったし、頭の回転が速くてパンクするタイプだということもわかりました。こんな風に自分の得手不得手がわかったことはとてもよかったと思いました。

 黒部の事業所でしばらく働いていたえっちゃんは、そこの所長とケンカして「やめてください」と言われてしまいます。この先どうしたらいいんだろうと思って、発達障害者支援センターありそに相談に行くと、ありそと職安の人が本気で怒って動いてくれました。その後は、職業訓練でホームページ制作の技術も身につけました。その後、コンサル会社で働いた後に、障害者枠で仕事をしたりもしました。けれど、事務やシール貼りやパソコン業務などの仕事をしていたら皆の視線が突き刺さるように思いました。なんでこんな雑用ばかりしなくちゃいけないんだろう。障害者枠で働く自分がみじめに思えてなりませんでした。女の人たちが裏で固まっているのも相変わらず苦手でした。その後子宮筋腫で体調がおかしくなり、手術。何か月も家にいる状態が続きました。

 ようやく回復できたのは昨年の12月です。会計で困っている人を手伝う仕事をフリーランスで始めました。確定申告のお手伝いなど、お客さんに合わせるのがとても楽しいと思いました。そうして、会計セミナーも開催するようになっていきました。えっちゃんのお手製のテキストは会計の素人が読んでもとてもわかりやすいと評判です。教え方もとてもうまいのです。得意な会計のことで誰かの役に立てるのは、とてもやりがいのあることでした。
それまでは人と話すことは苦手でした。特に慣れない人と話すのはとても緊張があったのです。でも、会計セミナーを通して、いろいろな人と普通に話せることが増えていきました。そして人と話すことがあまり苦痛ではなくなり、むしろ楽しいと思える時間も増えてきました。

 今はもう一つ楽しいことがあります。それは税理士試験の試験勉強です。今、えっちゃんは再び税理士になろうと挑戦しているのです。努力家の彼女のことだからきっと残りの試験も通るに違いありません。

 また【うつ病・発達障害の当事者おしゃべり会】を月に一回開催するようにもなりました。
告知文に彼女の思いがよく現れているので、ここに掲載します。

「ゆる〜く、うつ病・発達障害の当事者
おしゃべり会をやります。
 
適当にくつろげる居場所です。
 
みんなどうしているんだろう。知りたい。
何でも話せる場所が欲しい。
家に居ずらいから居場所が欲しい。
そんなカンジで気軽に使ってください。
 
しゃべりたくなかったら、
しゃべらなくても大丈夫。
だやかったら寝ていても大丈夫。
  
自分が居やすいように居てください。
 
本当に不安でたまらない時、
人がいるってわかるだけでも、
心が落ち着き、安心していられます。
 
聞いてもらうだけでも、
楽になるコトもあります。
 
気が向いたら、ふら〜っと立ち寄ってください。
途中参加、途中退出も大歓迎です。
事前申し込みは、不要です。」

自分が苦しかったとき、どうしようもなかった時、きっとこんな場があればよかった、
えっちゃんはそんな風に思っているのかな、そう感じます。

  税理士試験に受かって、晴れて税理士になったら、えっちゃんは一軒家を借りたいと思っています。それはこだわりの一軒家で、2階は税理士事務所、1階は当事者会などが開ける集いの場にします。そして、その集いの間は、必ず畳の部屋にします。今も当事者会は畳の部屋でやっています。畳の上だと好きな時に寝転がれるし、なんだかあったかい。
 
  そんな糸あわせ(しあわせ)な一軒家が出来たら、きっと遊びに行かせてね。

  小さい時、えっちゃんを包んでいた透明な丸い入れ物は、もうなくなったでしょうか。いえ、きっとそのバリアがある時もあるけれど、今、えっちゃんはそのバリアから外へと歩きだしています。私も一緒に歩いていけたらいいなと思います。そこはきっと、ダイバーシティが広がる場所だから。
 
今日の人159.久保あきさん [2016年07月14日(Thu)]
 今日の人は東洋学専門スクールHappyLecture Lively(易経勉強会・気学塾・名付け・家相・引越し・ビジネス鑑定)主宰の久保あきさんです。
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 あきさんは昭和53年に富山市で生まれ、3歳まで富山で過ごしました。
幼稚園からは東京に。その幼稚園の給食のカレーライスが大好きでした。(正確にはそのカレーライスの上にのせられていたゆで卵のスライスが大好きだったのですが)
 その幼稚園は、いろいろなことが習える幼稚園で、あきさんは日本舞踊とピアノを習っていました。けれど、小さい頃は引っ込み思案で発表会の時にトライアングルで前に出た時に、自分がどこで弾くのかわからなくなって、そのまま引っ込んでしまう、そんな子でした。でも、幼稚園の先生は大好きで、将来は幼稚園の先生になりたいなぁと思っていたのです。

小学校に入っても、その先生の家に遊びに行くくらい、その先生のことは大好きでした。電車遊びやレンジャーごっこをして遊ぶのが好きという、男の子っぽい一面もありました。もっとも、レンジャーごっこでは、ピンクレンジャーを取り合っていたのですが…。あきさんには弟がいるのですが、弟に髪の毛を引っ張られても怒りもしない温厚な姉でした。しかし、勉強はさっぱりわからず大嫌いでした。わからなくても「わからないから教えて」が言えませんでした。わからないとお母さんに怒られ、怒られるからますます教えてと言えなくなる。そんな繰り返しでした。その頃、お母さんとお父さんは折り合いが悪く、お父さんは2週間に1回くらいしか家に帰ってきませんでした。ですから余計にお母さんのイライラがあきさんに向かってしまったのです。

 やがて、両親は離婚。あきさんと弟さんはお母さんの実家のある富山に戻ってきました。小学校では東京からの転校生というだけで目立ちます。しかも、東京の小学校では大丈夫だったヘアバンドも富山では禁止されていました。ですから、何かと窮屈な思いをしていたのでした。そんなあきさんの救いになったのが、吹奏楽でした。あきさんの小学校のブラスバンドの顧問の先生が、たまたまクラス担任の先生でした。その先生に薦められて、あきさんはブラスバンドに入ったのです。こうしてホルンを吹き始めました。全国大会に行くような小学校で、あきさんは4年生からはレギュラーとして活躍しました。

 しかし、クラスではなかなかなじめませんでした。そこで、5年のクラス替えを機に、今までの標準語ではなく、富山弁で話すことにしました。くだけた感じを出したことで友だちもできました。そうやって出来た友だちが4〜5人で家に遊びに来ました。でも、その時、あきさんの家は散らかっていました。お母さんはあきさんや弟さんを養うために水商売をしていました。夜中遅くに帰ってきて、朝あきさんたちが学校に行くときはいつも寝ていました。それで、家の中は常に散らかっているような状況だったのです。そんな家を見て、遊びに来た子たちは「もう遊びに行けん」と言いました。そこからまた友だちができにくくなりました。体育で2人組を作る時も、なぜか自分だけが余って1人になってしまいます。そんな時でも自分からはなかなか声をかけることができず、つらかった。そんなあきさんを救ってくれたのは、やはり吹奏楽だったのです。なにしろお盆とお正月以外は休みがありませんでした。ですから、練習をしている時は、あまり余計なことを考えずにすんだのです。

 お母さんとおじいさんおばあさんとのケンカもひどいものでした。朝、学校に行くときはお母さんはまだ寝ていたので、朝ごはんはありませんでした。給食であまったパンをもらってきて、校門で食べていました。栄養状態が悪かったせいもあるのでしょうか、100mを走るのに20秒もかかっていました。勉強も出来ず、運動も出来ない。クラスの子からも避けられている。暗くて重い心を子ども時代のあきさんは抱いていたのです。

 あきさんの家の前にはお寺がありました。あきさんはそこの子と仲良くなりました。その子はお寺の子なのですが、ぐれていました。そういう子といると、なぜかホッとしました。
お父さんは1〜2か月に1回会いに来て、一緒にご飯を食べたり、キャンプに行ったりもしました。お父さんにもらったお年玉で、弟さんとお揃いのラジカセを買って重い思いをして持って帰ってきたことを懐かしく思い出します。弟さんとの時間が、あきさんには心穏やかに過ごせる時間でした。

 横浜の友だちとはずっと仲良くしていました。一緒に豊島園に行ったり、友だち家の別荘がある越後湯沢にスキーに行ったりもしました。保母さんになりたいという思いはずっとありましたが、お父さんのお姉さんがやっていたグラフィックデザイナーにもあこがれました。

 しかし、とにかく勉強が嫌いでした。音読させられる時も、漢字が読めません。覚えたり、応用したりすることが苦手でした。あきさんが高学年になった頃は祖父母は埼玉の伯父さんの所に引っ越しました。それで、夜、家には大人がいないので、宿題をしなくても、誰も叱ったりはしなかったのです。

 ただ、さすがにあきさんにもお母さんにも焦燥感があったのでしょう。5,6年の時には家庭教師に来てもらっていました。この時の先生がとてもいい先生で、ニベアのいい匂いがする大学生でした。しかし、2人目の家庭教師が不真面目な大学生で、夏休みにパタっと来なくなってしまったのです。人によってこんなにも対応がちがうということを、小学生のあきさんは学んだのでした。

 ブラスバンドは相変わらず強くて、盛岡や静岡へも行っていました。練習でもとても達成感がありました。でも、パートリーダーの友だちを超えられない、というのが常にありました。けれど、ブラスバンドに支えられたと言ってもいい小学校時代でした。

 中学校でも吹奏楽部に入ります。この時、打楽器を選んだことで一気に芽が出ました。そして、あきさんは上の学年の男子にとにかくモテました。あきさんの姿を見たいがために打楽器パートの前に男子が群がりました。そんなわけで、同学年の女子から反発を買います。その頃、向かいのお寺のうちの子と夜遊びにも出かけるようになっていました。
勉強は相変わらず苦手で、後ろから2番をキープしていました。受験できる高校がなく、吹奏楽の推薦で、マーチングで有名な龍谷富山高校(当時は女子高)の音楽コースへ。

 春休みにはすぐに部活が始まりました。マーチングの強い部だったので、2年生の時にはフランスに2週間遠征したほどでした。しかし、この頃、家ではお母さんの彼氏がDVであきさんたちにも暴力をふるったので、家にはほとんど帰りませんでした。あきさんは、年上の彼の家で泊まっていました。おしゃれにももちろん興味があったので、いろいろな服やファッショングッズも買っていました。実入りのいいコンパニオンのアルバイトをしたりもしました。心の空洞を埋めるために、楽しいことに向かっている気がしました。弟も高1の時にはすでにDJを目指すなど、2人してぐれている感じでした。けれど、お互いに悩みを悩みとしてとらえていなかったのです。夜中に遊びに出ているのですから、危険なこともよくありました。でも、お母さんはあまり怒らない人でした。

 高校卒業後は渋谷にある美容学校に入ろうと受験しましたが、落ちてしまいます。それで働きながら美容師になる道を歩こうと美容院に就職しましたが、わずか3日で仕事を辞めました。そこは2年位働いてようやくシャンプーを任されるような美容院だったので、とてもじゃないけど無理だと思いました。それからは美容院を転々としましたが、どこも長続きはしませんでした。そうして高岡の歓楽街 桐木町で夜のバイトを始めます。それが19歳の時でした。
 その後は、アパレル関係で昼に働きながら、夜は富山市の歓楽街 桜木町に勤めていました。生来の美貌に加えて、話術も巧みなあきさんは、あっという間にお店のナンバー1に上り詰めました。お店にはVIPルームもあって、それこそ富山の政財界の重鎮が集っていました。あきさんはそこで、稼ぎ方、男の選び方、人生の機微、いろいろなものを学んだと言っても過言ではないでしょう。
ある時、あきさんはあるブティックのオーナーから、うちで働かないかと誘われます。こうしてそのブティックで働き始めたのですが、ブティックのオーナーがバーを出した時に、そのお店をあきさんに任されたのです。そのバーで出会ったのが旦那さまでした。旦那様も相当にモテる人でした。モテる男とモテる女が出会って結婚しようというのですから、そりゃあもういろいろあるわけです。

その頃、あきさんは気学に出会っていました。初めて「これは本物だ!」と思えるものに出会えた喜びは大きく、すっかり気学にはまっていきました。気学に叶うものはない、そう感じたあきさんは気学を猛勉強しました。それまで勉強に全く興味が持てなかったのを取り返すように、ひたすら学びました。ビジネス、政治の世界にも気学はなくてはならないものだということが、学べば学ぶほどわかりました。

そしてあきさんが、彼の名前を鑑定したところ、今までお付き合いした誰よりも鑑定結果が良かったことも手伝って、結婚へ踏み切りました。旦那さんは結婚するなら、お店を辞めてというので、お店は辞めました。しかし、実はその時まだ旦那さんはたくさんいた彼女たちとちゃんとは別れていなかったのです。

結婚当初は旦那さんの実家で同居していたあきさん。けれど、日常会話ひとつとっても受け入れられていない感じがして、子どもが生まれて2歳の時に、別居に踏み切ります。そのころ、旦那さんは自分でやっていた店を辞めて夜勤の工場で働き始めるようになっていました。けれど、帰ってきてすぐにパソコンのスイッチをつけてゲームをし始めるのにゲンナリしました。彼女たちと別れられないことも原因になり、旦那さんとも離れて住むことにしたのです。

1年離れて生活し、別れるか、それとも自分が我慢するか…と思っていたところ、旦那さんが泣いて謝ってきました。別居している間、新たに正社員として務めることになり、また一緒に住むようになったのです。
会社勤めになったことで、生活が規則正しくなり、一緒に住めたことが嬉しく感じました。けれど、次第に『家にいるなら手伝ってよ、いろいろやってよ』という求め心が強くなっていきました。そうして、また事あるごとにぶつかって、破局寸前という感じにもなりましたが、その時に心理学の手法を使うようにしました。そうすると、いろいろなことが不思議とうまくまわるようになりました。気学の先生に言われたことを、疑いの心を持たずに「ただやる」ということも徹底しました。そうすることで、心のモヤモヤがなくなり、あきさんが笑顔でいることで、旦那さんも大変穏やかになりました。旦那さんとずっと一緒にいるということを決めたあきさん。一緒に生きようと決めると、何かあっても解決できる方法が先に思い浮かぶようになりました。そして今では3人の子どもたちと旦那さんと一緒に幸せに暮らしています。

あきさんが今いちばんやりたいと思っていることは、たくさん来てくれるお客さん一人一人の思いにちゃんと応えられるようにしたいということです。そのために情報発信していきたいし、自分自身もずっと勉強していきたい。人はいくつからでも変わることができる、それを見事に実践して見せてくれているあきさんなのでした。

そして、今、楽しいと思うのは、ご飯が美味しく出来た時。仕事に没頭しすぎると、ついついご飯のことも忘れてしまうのですが、ご飯がある家庭というのは、愛情に包まれていて幸せだと思うのです。だから、タスクを明日に回してでも、ご飯は作るようにしています。

 あきさんは子どもの頃の自分のような家庭環境にいる子どもたちに声かけできる環境を作りたい。そして、いつからでも人は変われるんだよ、ということを伝えたいと思ってもいます。それは小さい頃に悩んでいた自分自身に一番伝えたいことなのかもしれません。そして、DVなどの負の連鎖を親になる時に断ち切りたい。そのために家庭訪問型で子どもと遊んだり、ご飯を作りにいったりする活動もスタートさせたい、そう思っています。

 気学の方も法人を作って、目の前の人に必要なものをすぐに提供できるようにしていきたいと思っています。とにかくやりたいことが目白押しですが、ひとつひとつ確実に歩みを進めているあきさんなのでした。
 今、いろいろ悩んでいる人がいたら、一度あきさんの話を聴きにいってみてください。きっと新たな扉が開くにちがいありません。
今日の人158.齋藤秀峰さん [2016年06月21日(Tue)]
 今日の人は、I CAN コーチング ミッションコーチであり、一般財団法人ブランド・マネージャー認定協会 認定シニアトレーナーなど、様々にご活躍中の齋藤秀峰さんです。
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 昭和38年生まれの秀さんは富山市で生まれ育ちました。秀さんのお父さんは戦争で満州から戻った後に箪笥職人の修行をしていた人で、その時にお母さんと知り合います。お母さんは家具屋の娘さんでお嬢様でした。けれど、お父さんは事情があって箪笥職人を辞めてサラリーマンになり、家族で社宅に住んでいました。その社宅が、秀さんが2歳の時に、もらい火で全焼。お父さんはサラリーマンを辞め、職人になろうとトタン屋で働きその後独立します。独立直後はお金がなく、一家はベニヤ板一枚で仕切られているような家に住み始めたので、近所からは貧乏人扱いをされていました。秀さんはそんなに惨めな思いをした記憶もないのですが、当時幼稚園でお絵かきがあった時に、画用紙の右上の3センチ角にしか絵を描かなかったそうです。そんなに小さくしか絵を描かないことを心配した幼稚園の先生がお母さんを呼び出しました。しかし、お母さんはそういうことを全く意に介さず、それをギャハハと笑って「うちの子ったらね」と周り中に伝えるような人でした。そういう所がお父さんとは合わなかったのか、2人は顔を合わせるたびにケンカをしていました。

 子どもの頃、秀さんは野球が大好きでした。いつも何人かで集まっては三角ベースをしていました。田んぼや空き地が野球をする場所でした。家の夕食時間は18時で、時間厳守だったので、いつもその時間までは外で遊び、18時には家族そろって晩御飯を食べるのでした。家では家族に加えて、職人さんが2〜3人いつも一緒に食事をしていました。職人さんがいる時はさすがに食事中の夫婦ケンカもなかったので、比較的穏やかな時間が流れていたのでした。

 そうしているうちにお父さんの仕事もうまくまわり始め、小学3年の時にはちゃんとした家を建てました。今度はクーラーもついていました。しかし、幼い時から我慢してきた習慣はなかなか抜けないものです。秀さんは少年野球のクラブチームに入りたかったのですが、親にユニフォームや用具を買ってくれと言うことができませんでした。それでクラブチームに入ることはあきらめたのでした。人に何かを頼むというのは、今でも苦手な秀さんです。

 その頃、父の現場であまったものを使って、自分でものを作るのも好きでした。お金をかけずに遊ぶのがうまい子でした。でも、そんな時に、2歳年上のお姉さんがエレクトーンを買ってもらったのです。お姉さんは未熟児で生まれたので、いつも両親からチヤホヤされているように秀さんは感じました。自分はクラブチームに入りたいと言えないのに…。悔しくて、お姉さんとはことあるごとにケンカばかりしていました。

 そんな我慢ばかりしていた秀さんが変わったのは中1の時でした。中学校では野球部に入りたいけど、クラブチームの子は強いし…という思いもあってか、バトミントン部に入りました。でも、おもしろくなくて、半年で退部。その後興味を持ったのは、音楽でした。オーディオを買ってもらい、ユーミンや井上陽水にはまりました。ギターも買ってもらい、バンドを組んで曲を作っていました。マイクも買ってもらってレコーディングもしていました。服にも興味が出て、自分で服を買ったりもするようになりました。今まで我慢していた分を取り返すように、この頃は何でも買ってもらっていたのでした。ギターを始めたのは、音楽が好きということもありましたが、ずばりモテるためでもありました。秀さんは初恋が幼稚園の時、という結構なおませさんなのです。

 こうしてみんなが受験勉強で忙しい時も、曲を作ったり詩を書いたりしていました。そしてあまり勉強もすることなく高校受験。進学したのは富山南高校。それまでは大学進学について考えたこともなかったので、志望調査票に書き込むことができなかった秀さん。それでも、いつも学年上位の成績だったそうです。そんな秀さんは、周りが受験勉強一色になっているのに、高3の10月まではバンド活動を続け、いろんなコンテストにも出場していました。伊藤俊博さんとも同じコンテストにも出たりしていました。

 数学が得意だったので理系を選択。心理学関係か音楽関係に進みたかった秀さんですが、音楽関係に関連があると思い芝浦工業大学の通信工学科を選びます。1,2年の時は大宮に住みました。秀さんが大学2年の時に、新幹線の大宮駅ができ、街がどんどん変わっていくさまを間のあたりにしたのでした。3年からは芝浦へ。田町の駅で降りると三田地区には慶應大生がいます。歩いていてもパッと見でどちらの大学生かわかったとのこと。通信工学科は140人いて女の子が2人だけという、男ばっかりの学科なのでした。秀さんたちは体力維持同好会というソフトボールサークルを作り、その同好会はなんと学内のソフトボール大会で優勝。名前とそぐわない実力派のサークルでした。
 また今や全国区となった二郎系のラーメンの元祖、「ラーメン二郎」は田町にあり、週に2〜3回通うほどはまった秀さん。あの味を超えるラーメンにはまだ出会えていないとのことです。ボウリングにも週に1度は行っていました。大学生活を満喫していました。

 こうして4年生になって就職活動の時期を迎えたわけですが、この時は売り手市場でした。大手企業にもすんなり入れるような時代だったのです。東京で就職する選択肢もありましたし、あまり人の目を気にせずに過ごすことのできる東京は、秀さんにとってはとても過ごしやすい場所でした。でも、秀さんは富山に戻ることを選びました。心の中に長男だから富山にもどらなくてはいけないという思いを抱えていたのかもしれません。しかし、就職を決めながらも、自分はサラリーマンには向いていないなと感じている部分がありました。それでも何をすればいいかわからなかったので、とりあえずサラリーマンになろうと思ったのです。こうして、富山村田製作所に就職しました。

 まず配属になったのは製造ラインを改良する技術分野でした。2年目になると、大きなテーマをたくさん任されるようになります。
 ある会議の席で、秀さんが報告していた時のことです。「この改善は無理だと思います」と言いました。すると、黒字の神様と言われていた部長が「技術屋が無理だと言うのは無限にある可能性を全部やってから言うもんだ。」とおっしゃったのです。それを聞いてはっとしました。そこからの秀さんは仕事を取り組む姿勢を学んでいったのです。

 製造技術から商品設計、そして商品開発へと。13年の間に秀さんが村田製作所で歩いた道です。就職2年目には社内のバトミントン部で一緒になった女性と結婚しました。
特許もたくさん取りました。常に考える癖がつき、寝て起きた時にひらめいてそれが特許に繋がったこともありました。あきらめずにやってみる。それがすっかり秀さんの中に定着したのです。

 しかし、34歳になった時、ふと、「自分はなぜ会社にいるのだろう?」と思ってしまった秀さん。もともと会社にずっといるつもりはなかったのですから、13年の会社勤めは長すぎるほどでした。それでも、会社員時代は秀さんにとって貴重な時間となったことも間違いないでしょう。

 次に秀さんは立山町でローソンの店舗経営者になりました。田舎にコンビニが出来て、近所の人はびっくり。でもとても喜ばれました。しかし、フランチャイズはアイディアを出しても誰も評価してくれない。秀さんは、ローソンの仕事から離れ、次に始めたのはDTPの仕事でした。車のグラフィックは誰もやりたがらないので、それをやりましたが、これは大はずれ。店舗をたたみ、自宅横の工房に移り、インターネットで集客をせざるを得ない状況。でも、いろいろな方法を取り入れてやっていくうちにどんどん売り上げが伸びるようになりました。

 こうしてマーケティングをし、ウェブの制作に取り組むようになっていった秀さん。当時はまだ富山では少なかったSEO中心のウェブマーケティングと制作を始めました。
 ホームページを作っていく中で思ったのは、ブランドを構築することの大切さ。ブランドを構築することで与えられる価値の大きさは本当に計り知れません。2008年からは、自社でウェディング小物のブランドを立ち上げて実践も開始。そして、基礎からブランドを学びたいと思っていた2010年、秀さんの家は2度目の火事に遭います。今回の火事は秀さんが外で飲んでいる時に起きました。連絡が携帯電話に何度も入っていたのですが、秀さんは電話に出ませんでした。帰ると家は焼け、お父さんが逃げ遅れて救急車で病院に運ばれていました。他の人は「重体ならもうダメだ」と言っていましたが、秀さんだけは、『この親父がくたばるわけがない』と思っていました。そうして秀さんの思った通り、お父さんは奇跡的に危険な状態を乗り越えて、1週間もすると病院を抜け出してこっそりお酒を買いにいっていたほどでした。そんなお父さんは今もお元気でいらっしゃいます。

 そして、ブランド・マネージャー認定協会でブランドについて学び、そこでたくさんの人たちと出会います。この出会いも秀さんにとって大きなものでした。2011年にはブランドトレーナーの資格も得ます。そして同年9月から、コーチングも学び始めたのでした。この年の年末から、秀さんは積極的に外に出るようになっていきました。倫理法人会に参加したり、ドリームプランプレゼンテーションの支援会に参加したり、人にたくさん会うようになりました。人と会ってみないと、課題が見えてこない。秀さんはたくさんの人と出会うことで、自分の中の課題にもぶつかっていきました。いろいろな思いがまだ混沌とあったのです。2012年の夏からはアチーブメントでも学びはじめました。

 いろいろな学びの中で、52歳まではそれ以降の準備期間、そんな風に感じることが多くありました。実際にコズミックダイアリーでは52歳で一度周期が終わり、52歳の誕生日から新たな周期が始まるとのこと。
 そして迎えた52歳。これからの自分は、成長したいと思っている人、夢を追いかけている人を支える、そんなコーチとして生きていきたい、そう強く思いました。秀さんの新たな旅立ちのテーマはズバリ「人」です。本気の人を支援する形を作っていきたい。オリジナルで作っていきたい。今までいろいろなことを身につけてきたのは、全てここに至るための準備期間に過ぎなかったのだ、そんな風に感じています。

 秀さんの夢は独立起業したい人を応援すること。困っている人、つぶれそうな人を見ると放っておけないのです。これまでは、どうやったらうまくいくか、やり方を教えていたけれど、それではダメだと気付きました。クライアント自身が自分たちで考えて自力でつかんでいけるように支えていきたい。やり方を教えた方が改善は早いけれど、5年後10年後を考えたら、自力でできるようにしていくことがすごく大切です。そんな風なクライアントが各都道府県に少なくとも1人ずついて、何か月かかけて各都道府県を泊まり歩きたい、今はそんな日が来るのを楽しみにしています。

 ですから、秀さんが今、楽しいことは、ズバリ仕事!楽しくない仕事はやらない!と決めています。だから仕事が楽しくないわけがないのです。もう一つはお孫さんと遊ぶこと。秀さん、まだまだお若いのですが、もうおじいちゃまなんです。この時ばかりはお孫さんにデレデレになっちゃうんでしょうね。

 山に登ることもとても楽しい時間です。山のきれいな景色を見るのが好きなので、雨が降ってまで登ることはしたくありません。雨が降ったら登らない。晴れたら登る。そんな登山が好きです。

 世界の山にも行ってみたいと思っています。麓の湖にポツンときれいな山小屋があるそんな景色が大好きです。
 いつかそんな山小屋を秀さん自身が持ってみたい。ボーっとしていたら誰かがフラッと山小屋に遊びに来て、いろいろしゃべって帰っていく。最初暗い顔をしていた人も帰る頃には笑顔で帰っていく。そんな素敵な山小屋が誕生する日も、そう遠くはなさそうです。そんな日が来たら、私も秀さんの山小屋にぜひ遊びに行かせてくださいね。
今日の人156.荒井里江さん [2016年01月27日(Wed)]
 今日の人は、フジ創ホーム代表取締役、高岡まちっこプロジェクトの仕掛け人でもある荒井里江さんです。
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 里江さんは1974年井波町で生まれ育ちました。2人姉妹の長女で外遊びの好きなおてんばな女の子でした。といっても学校では人前で話すようなタイプではありませんでした。でも、5年生の時にチェッカーズが好きになり、その歌を歌っている時に友だちから「うまいね」と褒められたことで自信がついて、人前で話すことも苦にならなくなっていきました。男の子に告白されたりしたのも自信につながりました。その頃になりたかったのは、アイドルや女優です。お父さんが「お前社長になれ」と言ったことがあって、深く考えずに社長も夢のひとつにしていました。

 中学1年の時はソフトテニス部に入ったのですが、中2で高岡に引っ越して志貴野中学校に転校してからは演劇部に入りました。演じるのがとても楽しくて、この頃もまだ女優になりたいという気持ちを持っていました。社長が夢というのはすっかり忘れていました。
志貴野中学校はマンモス校で当時1学年に12クラスもあったのですが、中3の時の友だちがすごく仲がよく、仲良し4人組でいつも職員室に入り浸って先生にいろいろ質問していたのをとても懐かしく思い出します。先生もイヤな顔ひとつせずに夜遅くまで付き合ってくれました。

進学したのは小杉高校です。高校では放送部に入りました。2年生の時、朗読部門のコンクールで暗記をして本を持たずに出場したところ「それは朗読ではない」と言われ失格に。とても悔しかったのですが、3年の時はしっかり朗読して、入選したのでした。
部活の時は発声練習と称して高校近くのカラオケボックスに行っていたこともよくありました。それもとても楽しい思い出です。

卒業後は京都の亀岡にあった短大に進学します。経営学部でしたが、友だちや彼氏と遊ぶのに忙しく単位が足りなくなる羽目に。しかし、就職が決まっていたのでゼミの先生が単位が取れるように働きかけてくれて無事に卒業できたのでした。

こうして就職したのが、プロミスの高岡支社でした。けれど、半年で三重に転勤しろと言われ、その時に高岡の人と付き合っていた里江さんは三重行きを断り、わずか半年で会社を辞めてしまったのです。しかし、その頃は就職難の時代でした。なかなか次の仕事が見つかりません。アルバイトをして過ごしていたのですが、友だちが工場でプログラムの仕事をしていて会社に誘ってくれました。こうして放電加工機をプログラムして機械を動かす仕事を始めたのです。

しかし、23歳の時に胸がずっと苦しく感じてそのうちチクチクし出す症状に襲われます。病院に行っても、痛み止めを注射しても治りません。最後に大学病院に行った時に、胸腺が腫れていると言われました。赤ちゃんがしゃっくりを流すためについている場所があり、大人になるにしたがって小さくなるはずなのに、里江さんは逆に大きくなってしまっていたのです。幸い手術をして症状は治まったのでした。

その後、友だちと一緒に遊びにいった中のお1人と付き合いだして25歳で結婚。1月に両親に結婚したいと言った時はまだ早いのではないかと言われましたが、1月末に同居していたおばあちゃんがあと何か月かだと言われ、急いだ方がいいと、4月に結婚。孫の花嫁姿を見届けたおばあちゃんは5月に浄土に往かれたのでした。

それまでは宗教的なことに全く興味がありませんでした。せっかく京都で短大生活を送ったのに、神社仏閣に行ったことも全然ありませんでした。けれど、小さい頃からおばあちゃんがお経をあげて仏壇に手を合わせている時は一緒に手を合わせていました。そして、おばあちゃんが亡くなってからは、毎日仏壇に参るようになっていました。そのうちお経ってどんな意味があるんだろうと思うようになりました。そうしてお経についての本を読んで、お経というのは人生の説教が書いてあるというのを初めて知ったのです。
26歳で出産した里江さんは、25歳から26歳の1年の間に生と死の両方を経験して、生と死について初めて真剣にいろいろ考えたのでした。そうして人生の意味についても考えるようになりました。

里江さんは結婚した時に、モデルハウス代わりに家を建てました。お父さんはその頃もう住宅会社を経営していて、その時売り出していたローコスト住宅を建てたのでした。しかし、子どもが裸足で床の上を歩いているのを見て、冷たそうだと思いました。けれど、小さい子はやはり裸足で歩きたがります。こうして次第に住宅に興味を持つようになっていきました。

出産前まで三協アルミでCADの仕事をしていた里江さんは、育休が明けたあと、会社に戻ろうと思っていました。でもお父さんの会社で経理をしていたお母さんから会社に入ってと言われ、お父さんの会社に入り、経理を手伝うようになりました。しかし、その頃はまだ経理だけだったので、主婦業が中心のような日々でした。

しかし、2人目の子を出産した後、本格的に仕事に取り組むようになっていきました。新潟の夢ハウスに加盟して、そこのモデルハウスを見たときに、なんて気持ちのいい空間なんだと感動したのです。そうして、家の造り、間取り、営業、なんでも教えてもらいながら住宅業界の裏の話もたくさん聞かせてもらいました。でも、一般の人々にとって住宅のことは複雑で本当にわかりにくい。とっても大きな買い物なのに、みんな詳しいことを全然知らない。里江さんはお客さんにできるだけわかりやすく伝えていきたいと思いました。ですから、たくさん勉強しました。

下の子は生後半年で幼稚園に通い始めました。そうやって受けいれてもらったことで里江さんは安心して働くことが出来ました。子どもたちの世話を担ってくれているお母さんにとってもすごく負担が軽くなりました。(里江さんは婿取りだったので実のご両親と同居しています。)年少になった頃はもうボス的存在になっていて、年少から幼稚園に入ってきて登園時においおい泣いている子に「お前ら泣いてもお母さん戻ってこんぞ」と言って面倒をみてあげるような自立心旺盛な子になってくれたのでした。

お父さんは経理、現場、設計、なんでも自由にやらせてくれました。でも本当に危ない時はビシッと言ってくれるのでした。そうやって、いろいろな場に出してくれたおかげで、たくさんのつながりも出来ました。社長さんたちは里江さんにいろいろなことを教えてくれました。里江さんは人の話を聞いて、そこから学ぶのがとても得意でした。人から盗める力というのはとても大切です。もちろんそうやってたくさんの人に教えられて育ててもらえたので、自分も誰かに何か聞かれた時は出し惜しみすることはしません。

そうやってお父さんと一緒に住み心地のいい家を模索してきましたが、35歳の時にドイツに視察したことで家づくりに対する意識がまた大きく変わりました。暑くても冷房がいらない、寒くても暖房がいらない、そんな家を見て、「私もこんな家づくりをしたい!」と強く思うようになりました。そして、400〜500年前の家が残っていて、街にうまく調和している。街の中にはトラムが走っていて、車が排除されている。トラムを走らせる時も高くても再生可能エネルギーを使っていました。ああ、高岡もこんな町にしなくちゃいけないな。気付いた私がやらなくては!これがまちづくりの出発点にもなっています。

 そして里江さんは36歳の時に、会社の注文部門を引き継いで独立。そこから株式会社フジ創ホーム代表取締役として活躍する日々を送っています。住むことで健康になれる、そんな住まい、ドイツで大きな衝撃を受けた時のような、低燃費で住みやすくて健康に良い家を富山で建てたい。お客様にとって大きな買い物なのだから、とことんわかりやすく説明して、心から満足してもらえる家をつくりたい!
社員からは「社長は前しか見ていない」といつも言われますが(もちろんいい意味で)、乗り越えられない壁はないと思っている里江さんなのでした。

 そして、まちづくりにも本格的に動き始めました。まず突破口になればと思って、高岡まちっこプロジェクトを立ち上げました。中心市街地の空き家を活用し、若者の「まちなか居住」を促進するためのまちっこプロジェクトは、富山大学芸術文化学部の学生をはじめ、若手クリエーターの「まちなか」居住を推進することで、高岡のまちが抱えている様々な問題を解決してしまおう!というイカしたプロジェクトです。
そこから生まれたのが、空き家を活用したギャラリーカフェ「メリースマイルカフェ」であり、今実際に大学生が住みまちなかの盛り上げにも一役も二役も買っている「ほんまちの家」でした。
今では、まちっこサポーターになる人が続出。ワークショップをしてたくさんの人の意見を取り入れることで、その町に住んでいる人たちが率先して考えるようになるいい循環が生まれています。そして、大学、企業、行政、そしてもちろんそこに住む町の人、そんないろいろな人が協働してこのプロジェクトに取り組んでいます。

 社長をしてお子さんもいて、更にたくさんのプロジェクトに関わっている里江さんですが、忙しいと思ったことは一度もないと笑顔できっぱり!やっていることは全部、自分のやりたいこと。やらなくちゃ!ではなく、あれもしたい、これもしたい!ああ〜楽しすぎる!な毎日なのです。
 もちろん、いろいろなことを言う人はいます。でも、ねたみやひがみ、そんなマイナスのエネルギーに振り回されないことが大切。なにしろ人生は一回きりなのです。楽しまずに生きるなんてもったいない。自分が正しいと思う道を行けばいい。そして、里江さんは言います。「本当に私は人に恵まれているんです。だからいつも感謝しています。感謝の気持ちで神社にお参りに伺うと、ああ、神様に守られているなって思うんです。」と。ホントにその言葉通りにあたたかなエネルギーに包まれていらっしゃる里江さんなのでした。

 未来の子どもたちが笑って過ごせる高岡にしていきたい。だからとにかくやる。やれば道は拓ける。
 そんな言葉にこちらがたくさんあたたかい気持ちとパワーをいただけた、今回のインタビューでした。
今日の人155.三谷朋子さん [2015年12月24日(Thu)]
今日の人は、和楽グループ ブライダル事業部着付技術担当チーフ三谷朋子さんです。
三谷さんは全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権白無垢花嫁部門(2015年11月24日開催)にて見事準優勝された まさに時の方です。
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三谷さんは1963年富山市で2人姉妹の妹として生まれました。小さい時は、2歳違いのお姉さんや友達と一緒に、外でドッジボールやゴム跳びをしたり、家の中でリカちゃん人形の着せ替えをして遊んだりしていました。また、家が自転車屋で自転車を入れる大きな段ボールがあったので、それで段ボールハウスを作って遊んでいたりもしました。
商売をしている親を見て育ったので、小学生の頃は将来はサービス業がいいなぁと漠然と考えていました。

中学に入るとバレーボール部に所属。もっとも、そこまでまじめな部員ではなかったので、時々さぼってもいました。巨人がとっても好きな女の子で、ジャイアンツの試合が来ると球場まで足を運んだり、泊まっている旅館まで選手を見に行ったりしていました。時に好きだったのは河埜や土井といった渋めの選手でした。

反抗期も少しはありましたが、特別将来こうなりたいというものもなかったので、高校は事務科に進みます。友だちの家や喫茶店でおしゃべりをするのが楽しい高校時代でした。英文タイプ部に入ったのですが、みんなやっているからやろうかなぁという程度でした。漫画は好きで、当時流行っていた「はいからさんが通る」や「エースを狙え!」を真剣に読んでいたものです。

高校を出ると短大の情報処理学科に進みました。その頃はコンピューターが出始めたばかりの時代で、今では考えられないくらいの大きなコンピューターを使っていました。短大の時はテニス部に入ってテニスに打ち込み、バイトもしていたので、とても充実していた学生時代だったのです。

短大卒業後は事務職のOLとして働き始めました。OL時代に友だちと茶道を習い始め、着物を着る機会が増えました。それで着付けも習い始めたところ、着付けの方が好きになり、着付けをずっと習い続けました。そしてとうとう着付けの師範の免状も取り着付けを教えるまでになりました。

短大卒業後もテニスは好きでずっと続けていたのですが、テニスで出会った人と結婚。結婚後も一年はOLを続けていたのですが、その後はOLを辞めて着付けの先生だけでのんびりと過ごすことにしました。

しかし、着付けだけで食べていくのは難しいな、なんかやれることないかな、と思っていた時にたまたま和楽の求人広告が目に入ったのです。なにか惹かれるものを感じた三谷さんは、31歳で和楽に入社。接客の仕事をやっていたのですが、1年後「着付けの人が足りないからやらない?着付けできるのよね」と声をかけられ、卒業式の着付けを手伝うことになったのです。着付けを教えていたとはいえ、ハレの日のとびきりの着付けです。最初のうちはあまりうまいとは言えませんでしたが、だんだん上手になりました。そして、やはり着付けの仕事はとても楽しかったのです。お客さんの特別な日のお仕度を手伝えるのがすごく楽しくてやりがいも感じました。そうして数年過ぎた頃には、息子さんも誕生しました。旦那さんは育児も家事も手伝ってくれるイクメン、カジダンでした。幼い頃から積極的に育児にかかわってこられたこともあってか高1になった今も息子さんはお父さんと大の仲良しです。

三谷さんは息子さんが生まれてますます仕事にも真剣に取り組むようになりました。三谷さんがいらっしゃる店舗は『貸衣裳の和楽』なのですが、お客さんに「ネイルはしてもらえないのですか?」と言われた時に、これからはネイルも絶対に必要と、いちはやく店舗にネイルコーナーを作ったりもしました。なんとなく入った美容の世界だけど、この仕事は自分に向いている。この世界に来て本当によかった!そう感じていた矢先、三谷さんを大きな衝撃が襲います。

それは甲状腺がんという病でした。本当にショックでした。自分はどうなってしまうのだろう…。けれど、幸いなことに、手術でがんは残らず取れて、三谷さんはすぐに仕事にも復帰できたのです。
この時、三谷さんは思いました。ああ、人っていつこんな病気になるかわからない。自分がいなくなっても、子どもがいつでも一人で生きていけるようにちゃんと自立できる生き方を教えていかないといけない。そして、いつ死ぬかわからないのだから、自分のできることを悔いの残らないようにやりたい、と。

こうして、三谷さんは病気になる前に漠然と考えていた花嫁衣裳の着付けをやりたいという思いを叶えるため、10年程前に通信教育で美容師免許も取得したのです。仕事をしながら免許を取得できたのは和楽の林先生の強い勧めがあったことと、社長はじめお店のみなさんがバックアップしてくれたからでした。

こうして、花嫁衣裳の着付けも本格的にやり始めます。もちろんはじめは失敗もたくさんありました。帯が落ちてきて、謝りに行ったこともあります。もっともっと練習しなければ!花嫁さんにとっては一生に一度の晴れ舞台。衣裳の失敗は許されない。完璧にうまくならないとダメだ!花嫁さんの着付けに関して、三谷さんに一切妥協はありませんでした。周りの誰もが感心するくらいひたすら練習に練習を重ねました。

そして、花嫁さんの一生に一度のステージを最高の舞台にしたいという思いはどんどん高じていきました。そんな三谷さんをさらに前に押し出してくれたのは、それまでもずっと着付を教えてくださっていた林先生でした。先生にもっと外に出て勉強したらいいと勧められ、2〜3か月に一度は上京して、国際文化理容美容専門学校で更に研鑽を積みました。外に出て学ぶことで、三谷さんの技術はよりレベルアップしていきました。
 でも、ただ練習するだけよりもコンクールに出るという目標を持つことで、さらに自分もまたお店もレベルアップできるにちがいない!そう思って、全国から着付資格者が日頃の腕を磨いて集まり着付の技術を競う、武市昌子杯 振袖・留袖・花嫁 着付技術選手権の白無垢花嫁部門に出場することに決めたのです。
 花嫁部門は着付け、メイク、かつらを全て1人でこなさないといけません。三谷さんは自分の腕をさらに磨き、2015年11月24日に開催された大会に臨み、「白無垢打掛花嫁にふさわしい、格調高く気品のある装いであること・モデルに似合っていてトータルでバランスがとれていること・技術者としてのマナーが優れていること」等の審査項目で高い評価を得、見事全国準優勝の栄冠を勝ち取ったのです。

しかし、準優勝した後も三谷さんはあくまでも謙虚です。優勝された方は本当にきれいだった。他の方と全然ちがっていた。自分もそこまでのレベルを目指さなければ、とまだまだ日々修行だとおっしゃいます。

でも、こうやってコンクールに出るためにたくさん練習の時間が取れたのも、家族の協力があったからこそ。ご主人は土日も働いてもいいよ、と言ってくれる本当に優しい方です。いつもご家族への感謝を忘れない三谷さん。いつか息子さんが結婚するときに、お嫁さんの支度を自分がしてあげたいという夢があります。こんなとびっきり素敵なお義母さんに花嫁衣裳の着付けをしてもらえる花嫁さんは本当にお幸せですね。

 三谷さんが今楽しいことは、家族と一緒に家で何気なく話ができる時間。病気を克服された三谷さんだからこそ、何気なく過ごせる時間が何より素敵な時間なのだと実感できるのでしょう。そしてやっぱり、着付けをした花嫁さんが一日最高の笑顔で過ごしてくださることも三谷さんにとっての何よりの喜びなのです。

三谷さんがお勤めの和楽グループでは、今 富山県内の神社挙式や料亭ウエディングなど“和婚”に力を入れていらっしゃいます。白無垢を積極的に推進したり、家族や親戚同士の絆を深めることが出来る神社挙式、料亭ウエディングでたくさんのカップルが誕生しました。
そして今回の三谷さんの受賞を機に、和装の技術をより磨き、“和婚”の良さを発信して推進していかれるそうです。

今、結婚前でこのブログをお読みになった皆さんは本当にラッキーです。三谷さんにお願いすれば きっととびきり素敵な和装で 一生に一度の素敵な日を過ごせるにちがいありません。
今日の人154.川口宗治さん [2015年12月20日(Sun)]
今日の人は、全国で初めて相続診断士事務所を立ち上げられ各地で講演や研修に引っ張りだこの相続診断士事務所ライブリッジ代表
川口宗治さんです。
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川口さんは1973年に旧小杉町で生まれました。幼稚園の頃は、ピアノの音を聴くだけでその音を言い当てたので、絶対音感があるねと言われていたものでした。小学校の時の「くもん教室」では、よく富山県で1番に。小学校の時にもう高校数学をやっていたというから驚きです。

小さい頃からスポーツも得意で、特に野球が大好きな野球少年でした。小学校4年生からはスポーツ少年団に入って活躍していました。最初はセンターで、その後はピッチャーをやりました。とにかく自分の選んだことはとことん大事にする、小さい時からそれは変わっていません。連合運動会の時には団長も務めました。

読書も好きで、小学生の時によく読んでいたのは、ズッコケ三人組や江戸川乱歩シリーズ、伝記も好きでした。家にはドラえもんも全巻そろっていて、ドラえもんも好きでした。

 野球は中学校に入っても続けました。そして運動会では応援団長として活躍し、女の子にもモテていました。川口さんは今も女性にモテるので、それはこの頃から変わっていませんね。当時ご両親の期待もとても大きく、それを少し負担に感じることもありました。
そんな川口さんはこの頃、早稲田大学のラグビー部の活躍を見てかっこいいなぁと思い、自分も将来早稲田大学に行ってラグビーがやりたいと中学校の卒業文集に書いていたのでした。

 そして高岡南高校に進学します。当時小杉町の中学生は丸刈りが決まりだったので川口さんも入学当時は坊主頭でした。高岡市の中学生は丸刈りの規則はなかったので、周りはみんなシャレた髪型をしていると感じ、アウェイ感を感じました。田舎者コンプレックスを抱き、必要以上に自分を過小評価していました。野球部を見に行きましたが、入るきっかけが見つかりません。ラグビー部はなんだか怖い人がそろっている気がして、自分を過小評価していた少年にはとても入れる雰囲気には思えませんでした。

そんな中、誘われたのが生徒会執行部でした。そうして誘われるまま、生徒会に入って活動していたのですが、あまり友だちもできませんでした。そんな高校一年の夏に、同じ生徒会執行部の先輩とのお付き合いが始まりました。何しろ高校生くらいだと一歳違うだけですごい差を感じるものですが、川口さんもまた然りでした。朝も他の生徒たちが乗るより早い6時台の電車に待ち合わせて乗っていました。(都会の人にはちょっと想像できないと思いますが、田舎のローカル線では電車が一時間に一本というのもザラにあります。そして、その頃はなぜか電車通学のことをまだ汽車通学と言っていたものです。)
そうして2人で早く学校に行って生徒会室で一緒に過ごしたり、時にはやっぱり今日はサボろうと2人してサボって別の場所で過ごしていたこともありました。

 川口さんのお父さんは息子に大きな期待を寄せていました。川口さんは中学校まで運動でも活躍していましたから、高校で運動部に入らなかったことにとてもショックを受けていました。そういうこともあってか、この頃よく父と息子はぶつかりました。時には殴り合いのけんかになることもあって、お母さんが間に入って止めていたのを覚えています。
今はお父さんと川口さんはとても仲良しで、2人でお酒を酌み交わしながら話すのはとても楽しい時間です。そして一番の理解者もまた親父だと言い切る川口さんはとても嬉しそうなのでした。

 川口さんは高2の時に生徒会長になりました。彼女が卒業して京都の予備校に行くと、一気に友達も増えました。何しろそれまでは、彼女とばかり一緒にいたので、友だちがなかなかできなかったのです。運動会では応援団長(小・中・高とずっと応援団長だったわけです)にもなり、その後の打ち上げで家にたくさんの友だちを呼びました。それまで友だちも作らず彼女とばかりいた息子が、応援団長を務め、たくさんの友だちを連れてきたのでお父さんは大喜びでした。
川口さんたちは打ち上げでお酒も飲みました。しかし、その時の写真を学校で見ていたのを先生に見つかり、停学処分になります。「生徒会長在任中に停学になったのはお前が初めてだ」と先生にあきれられてしまった川口さん。そして、大学に推薦で入るのも絶望的になったのでした。

 さて、大学をどうしようかと思った時に、本も好きだし英語も好きだから人文学部にしようと単純に考えました。家庭教師をしてくれていた人が富大の人文学部の学生でその人がとてもいい人だったというのも人文学部を選んだ理由でした。しかし前期で人文学部を受け、ダメだったので、後期は教育学部小学校教員養成課程を受験。しかし後期も落ちてしまいました。
予備校の入学金を払いに行った日、川口さんは友だちの家に集まって過ごしていました。「まぁ、仕方がないよ。来年、もっといい所に行けばいいさ」友だちも口々にそう言ってくれていましたが、そこに一本の電話がかかってきました。すると、友だちの態度が急に変わり、「お前こんなところにいないでさっさと家に帰れ」とか「今年大学に行って親孝行しろ」とか言うのです。なんで突然こんなことを言うんだろうと思ったら、なんと家の方に教育学部の補欠合格の電話がかかってきていたのを知らせる電話だったのです。

 こうして富山大学教育学部に進学しました。大学ではアメフト部に入ります。そしてこの選択が川口さんの小さい頃の『選んだらとことん』魂を呼び起こしたのです。
 アメフト部は当然体育会ですから、とてもハードです。ミーティングに始まり、練習そしてまたミーティングで振り返り、その後ジムでウエイトトレーニング。毎日5〜6時間はアメフトに費やす毎日でした。しかし、川口さんはこれにはまりました。女の子と遊ぶより100倍楽しい!そう感じました。こうしてどんどんアメフトにのめりこんでいったのです。キャプテンにもなりました。

 教育学部ですから、当然教育実習にも行かなければなりません。しかし、これがアメフトのリーグ戦とかぶっている時期でした。「アメフトのリーグ戦があるから教育実習に行けません」と教官に言った川口さん。すっかり呆れられました。なんと川口さん、教員養成課程は教育実習に行かなければ大学を卒業できないことを知らなかったのです。

 こうして教育実習に行くことになったのですが、行くなら中途半端にやりたくない、100%できることをやろうと思いました。そんな川口先生の授業は子どもたちにもとても人気でしたし、現場はすごく楽しかった。担当の先生からも「川口くん、ぜひ先生になりなさい」と言われましたが、川口さんはあえて先生にならない選択をしました。先生は本当にそれを目指して必死にやっている人がなるべきで、自分はなるべきではない、そんな風に思ったのです。今となってはそんな風には考えないのですが、若くて真っすぐな青年にはそう思えたのでしょう。

 そして就職超氷河期に人材採用育成サポート関連企業に就職。営業企画・研修講師に携わりました。就職してから毎年、川口さんはその会社の新人営業マンのトップ記録を作ります。それはいまだに破られていません。

 大学時代に打ち込んだアメフトは卒業後も続け、半年間は毎週末に大阪にも通いました。関西は伝統的にアメフトが盛んな地域で強いチームも多い。けれど、川口さんは思ったのです。富山よりぬるい!と。もちろん一流の人たちは大変厳しい中でやっていますが、そうじゃない人たちのモチベーションはむしろ富山よりも低いくらいだったのです。高校に入る時、田舎者のコンプレックスがあって自分を過小評価していた。けれど、大阪での体験は川口さんに大きな自信をくれました。鶏口牛後、田舎で志を持ってやっている方がむしろいいのだと。

 こうして川口さんは仕事の傍ら、富山ベアーズの選手としても活躍し、キャプテンを3シーズンやり、富山大学のアメフト部の監督も5年務めました。選んだらとことんやるポリシーはここでも貫かれ、川口さんは今も富山ベアーズでアメフトを続けています。アメフトをずっとやっていたから、人生においてとても大切なことを学べた。だからアメフトの神様に恩返ししたい、そんな気持ちもあります。後輩に大切なことを伝えたい、次の世代に伝えたいという思いは、今やっている相続の仕事の根幹の部分でもあるのです。
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 川口さんは25歳の時に転職を決意しました。仕事がイヤになっての転職ではありません。それまでの仕事もとてもやりがいがありました。けれど、プルデンシャル生命から声をかけてもらい、最初は保険なんて…という思いがありましたが、1人の職業人として尊敬できる人がたくさんおられたし、自分がより成長できると思って転職を決意したのです。

 プルデンシャル生命には新卒の社員はいません。他の企業で実績を上げた人しか転職してこないのです。そして、その年齢は32〜33歳が平均ですから、25歳で声がかかった川口さんは当然一番若い社員でした。しかし、真摯にお客さんと向き合う川口さんの営業成績が上がらないはずがありませんでした。こうして31歳の若さで営業所長に抜擢。チームのメンバーが全員年上ということもあり、苦い思いもたくさんしてきました。でも、その時の経験が、今は大きな財産になっています。

 この期間に川口さんは相続診断士の資格を取得しています。相続において保険金の支払いというのは相続全体の108分の1と言われています。それほど相続というのは多岐に渡って複雑なのです。川口さんは保険金の支払いの時にお客さんに「相続のことは何でも相談してください」と言っていましたが、実際に相談してくるお客さんはほとんどいませんでした。でも、本当は相談したいと思っている人はたくさんいるはずだ。そして、これからの世の中、相続のことをなんでも相談できる人は絶対に必要だ。保険のことなら専門家がたくさんいるけれど、相続に特化した専門家はまだいない…。
 こうして、川口さんは40歳で独立することを決意します。この時も会社の仕事が嫌いで辞めたわけではなく、むしろ好きだったのですが、もっとやりたいことが見つかった以上、もうその道に行くしかありませんでした。川口さんは男の人生は40歳からだと思っていました。40からは自分の思う道を進みたい。だから35歳からの5年間は準備期間と考えて過ごしました。

 そして2013年11月10日に相続診断士事務所を設立。その日は川口さんの40歳の誕生日でもありました。まさに有言実行の男なのです。

 相続診断士事務所を設立してからは、毎日息つく間もないくらいに突っ走ってきました。けれど、自分の思う世の中に向かっていて、どこに行っても求めてもらえると思うと、疲れもどこかに吹っ飛んでしまうのでした。もちろん、全てが順調だったわけではありません。どこの世界でもその道を切り拓くパイオニアには大きな試練があるでしょう。でも、川口さんはその試練も全て今の自分にとって必要不可欠なものと考えました。富山の相続現場から争族(争う家族)をなくしたい。その熱い思いが、今日も川口さんを走らせています。

 実は相続診断士は全国に2万人います。けれど、ほとんどは生保の社員や不動産会社の社員が肩書きのひとつとして持っているという感じなのです。ですから、相続診断士として独立すると言った時に一番驚いたのは相続診断協会の人でした。それだけでやっていけるのか?けれども川口さんは肩書きの一つではなく、その道のプロとしてやりたいと思いを貫きました。
 そうやって独立して2年余り、今では独立第一号のパイオニアとして全国区で有名な相続診断士になったのです。

 川口さんには息子さんが2人いますが、2人とも人としてリスペクトできるとおっしゃいます。同じく息子が2人いて、いつもため息ばかりついている私には、息子を人としてリスペクトするというその姿勢は本当に素晴らしい!と感嘆のため息が出ます。
2人の息子さんは陸上で素晴らしい記録を持っています。2人とも有言実行で決めたことはとことんやり抜きます。川口さんご自身も『選んだらとことん』の方ですから、思いはしっかり息子さんに受け継がれているのですね。
そこには息子さんと話す時はとにかく否定はせずに彼らの自己肯定感を高めるような接し方をしてきたことも影響しているにちがいありません。
そして息子さんたちが成人した時に、男三人で飲める日がとても楽しみな川口さんなのでした。川口さんはとてもお酒が強いので、そこも受け継がれているとしたら、超パワフルな飲み会になりそうですね。

 そんな川口さん、とにかく毎日忙しいのですが、ストレスはありません。強いて言えば運動できる時間が取れないことがちょっとストレスです。アメフトもまだまだ続けていきたいし、やはりなんといっても体が資本なので、もうちょっと体を鍛える時間を作りたいと今思っています。

 川口さんの夢は、富山県から争う相続をなくすこと。自分はその一助になりたいと思っています。今まで盆や正月に会っていた家族が、相続争いをきっかけに会わなくなってしまう、そんな争族を避けたい。今は資金力をカサに大手の会社もいろいろやっているけれど、地元の人にとっては富山弁で話が聴ける人がやっぱり頼りになります。土地勘があって、富山弁のニュアンスを感じられるのは、富山の自分。だから、これからも富山を大切に、富山の仲間たちと一緒に取り組んでいきます。

 今、相続のことで何か困っている方は、ぜひ川口さんに相談してみてください。どんな些細なことでもきっと親身に相談に乗ってくださいますよ。いろいろなセミナーも開かれています。詳しくはこちらで。
ライブリッジホームページ⇒http://www.libridge-souzoku.jp/

 川口さんはこれからもきっと爽やかに、富山の相続現場でタッチダウンを決めていくことでしょう。インタビューしたのは冬だけど、とっても熱いエネルギーを感じた時間になりました。
今日の人153.新石友美さん [2015年12月05日(Sat)]
 今日の人は富山市婦中町の自宅サロンで「やすらぎサロン ここち鳥」を開いていらっしゃる新石友美さんです。友美さんは、さとう式リンパケアや筋ゆる体操で体のコリをほぐしてくれるだけでなく、スキルリーディングやメンタルセラピーで心のコリもほぐしてくれています。(1月からフォーカシングセラピーも始められる予定だそうです。)
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 友美さんは昭和53年に富山市で2人姉妹の長女として生まれました。おとなしい性格で家の中でぬいぐるみを使っておままごと遊びをしているのが好きな子でした。でも、ただおとなしかったわけではなく、幼なじみの3人グループでケンカをしても、自分が悪くないと思ったら、向こうが謝ってくるまで絶対に謝らないという頑固さがありました。

 幼稚園から小学校にかけて運動が苦手でした。体も強くなかったので朝礼で倒れることもよくありました。それでも、帰り道で柿やグミを取って食べたり、栗を拾ったり、ゴム飛びやかくれんぼをしたり、一通りの外遊びもやっていました。特に将来の夢はなかったのですが、書かなきゃいけないので仕方なく書いていたのが「幼稚園の先生」でした。幼稚園バスに乗りたいというのがその理由でした。

 そんな友美さんを突然の不幸が襲います。小学校3年生で大好きだったお父さんが亡くなったのです。友美さんのお父さんは白血病の寛解期でした。数値上では白血病細胞はほぼ消滅した状態でした。もうこれで大丈夫、そう思っていた矢先のことでした。お父さんは整体院に行って、整体師の施術によって下半身不随になってしまったのです。施術中に強烈な痛みを覚えたお父さんは「救急車を呼んでくれ!」と絶叫したそうです。それなのに、そのまま放っておかれ、次の日病院に行くと、「なぜこんなになるまで来なかったんだ!」と言われたそうです。そうして下半身不随で病院に入院中、これまた突然、脳卒中にて手術になったのですが、手術が終わって戻ってきたら、意識も戻らずその日のうちに亡くなってしまったのです。

 本当に突然のことでした。そして当時友美さんには一切お父さんの死因のことは知らされませんでした。後日、家族はその整体師を訴える裁判を起こすのですが、その裁判資料をこっそり見て、なんとなく子どもながらに事の次第を知ったのです。でもそこに書いてあることだけでは、分からないこともたくさんありました。

 大好きなお父さんが突然亡くなった。けれど、友美さんは自分の悲しみを外に出すことができませんでした。妹の前ではお姉ちゃんの私が泣いてはいけない、母や祖母が大変な中で迷惑をかけちゃいけないと、お葬式の時でさえ涙を流すことができなかったのです。

 お父さんは一人っ子でした。ですから同居の祖父母からすれば、一人息子が亡くなったことは大きなショックでした。祖父はもともと祖母に手を上げる人でしたが、それがますます顕著になりました。 しかし祖母は「子どもたちを頼む。子どもたちが結婚、子どもを産むくらいまで生きていてほしい。」と入院中の父から頼まれていたので、死にたいくらいの思いも我慢しました。ただ、祖父が手を上げた時に、決まって祖母は「そんなことしとるから友美が泣いとるよ!」と言っていました。 ただ怖くて泣いていましたし、祖母から言われ泣いている自分を見ると祖父が暴力をやめるため、自分が泣くことで暴力を止めたいという気持ちもありました。
ですから、友美さんは今でも男の人の怒声を聞くと反射的に涙が出てきてしまうのです。

 転んだらすぐ泣いてしまう位だった友美さんが、お父さんのお葬式の時には泣けなくて、すごく冷静に周りを見ていました。家族から言われ、小3で遺影を持って1人で霊柩車の助手席に乗った友美さんは、そこからどこかに自分の感情を置いてきてしまった、そんな感覚がありました。

 そうして、人見知りだったのに班長になったり、変にしっかりしなくっちゃと思っていました。しっかりしなくちゃと思いながら、体が弱いので集会の時には倒れるのです。

 中学に進学すると、もっと健康になりたいとの思いでバスケ部に入りました。練習はきつくずっと補欠でしたが、この3年間で倒れなくなりました。2つ上の女子の先輩が超かっこよくってキュンキュンしながら応援していました。

 14歳の挑戦の時は、保育園の先生をやりました。昔から夢の欄には仕方なく書いていた「幼稚園の先生」でしたが、やってみると、「あ、私この仕事嫌いじゃないな」と思ったのです。

 中学生くらいから、友美さんは天然パーマがひどくなりました。年子の妹は肌の色も白くて髪もサラサラだったので、ますます自分に自信が持てなくなり、とてもおとなしかったのです。

 そして自信のなさに拍車をかけたのがお母さんやおばあさんの言葉でした。お母さんは決して友美さんのことをほめてくれず、逆に友美さんがコンプレックスに思っていることを指差して笑ったりすることがありました。おばあさんもものをはっきり言う人でしたが、友美さんと通じてお母さんに言うようなところがありましたから、友美さんはますます周りに気を遣って言いたいことも言えずに過ごした少女時代だったのです。

 友美さんが美術の時間に書いた絵に「私は心配性」という印象的な絵がありました。美術の先生にも心配性の様子がとてもよく描けているね、と褒められるくらいでしたが、実際友美さんはとても心配性でした。お母さんが旅行に行っても帰ってくるまではずっと心配でした。きっと根底にはお父さんのようにお母さんまで突然いなくなったらどうしようという思いがあったのだと思います。

 高校に進学すると、そこは中学校の仲良しの友達が一人もいない高校でした。誰一人知らず落ち着かない、そんな中で友美さんを救ってくれたのは新しく入った吹奏楽部で出来た友だちでした。友美さんはクラリネット部門に入り、1人では出せないハーモニーを奏でられることに感動を覚えたのでした。

 しかし、高校生活は思った以上に友美さんにとっては過酷なものでした。もともと体が丈夫でないのに、通学がハードだった上に、ここに来て、父の死のことをなぜちゃんと教えてくれないのだろうというモヤモヤが積み重なり、かつ家の中もバラバラでだんだん不安定になっていきました。

 友だちに心のモヤモヤを打ち明けたいと思いましたが、中学生の時に「あなたよりつらい人はいるよ」と言われたことがトラウマになっていて、言いたいけれど言えない、電話をかけても言葉が出ない、ということが続き「キモイ」と言われたりもしました。そんなモヤモヤした思いが積み重なって、友美さんの心は耐えられなくなり、どうしようもなくなって、気が付くと包丁を握っていたのです。死ぬつもりはなかったのですが、とにかくこの苦しさに気付いてほしかった。けれど、包丁を握りしめた友美さんを見てびっくり仰天した母と祖母に、精神科に連れていかれてしまったのです。地べたで泣きわめいて言葉にならなかった友美さん。視野がモノクロになってふわふわしながら歩いていました。学校に行けない時もありましたが、それはちょうど補習期間の間でした。新学期からは学校に行かなければなりません。行きたくなかったけれど、行かなかったらずっと行かなくなるのはわかっていました。それで、無理をしながらも学校にはちゃんと通っていました。

 病院に通いながら通学していた友美さん。病院に通い始めてからずいぶん経ってから、精神科の先生に「何か悩みはあるの?」と聞かれた時に、家族のことで悩んでいることは言えなかったので「学力のことが心配なんです」と本心を隠して言っていました。 すると先生は「何を言ってるんだ。だったら看護師にでもなってみろ。そうしたら、うちで雇ってやるよ。」と強い口調で言いました。友美さんは思いました。そんな風に言われるのは腹が立つ。でも看護師になれば、父の死のこともちゃんとわかるかもしれない。看護学校ならお金もあまりかからないし、家族に負担をかけずに済む。そう思って、看護学校を受けることにしたのです。

 こうして看護学校に進学した友美さん。勉強は思った以上に大変でしたし、あんたには向いていないからやめられと言われたこともありました。けれども友美さんには強い思いがありました。お父さんの最期には寄り添えなかったけれど、亡くなる前の人たちに寄り添っていきたい!時には自信を失いつつも、それが頑張るモチベーションになりました。

 しかし、友美さんはこの間、交通事故に2度遭い、むち打ちで手のしびれや首のしびれがひどすぎて、卒業してすぐに看護師にはならず、1年間フリーターをして過ごしました
 そして1年後、総合病院で看護師として働き始めました。亡くなる前の人々に寄り添った看護がしたい、そう思っていた友美さんでしたが、配属されたのは急性期の病棟でした。あまりに死が多い現場、しかもゆっくり寄り添えるそんな余裕がない現場で友美さんは次第に追い詰められていきました。そんな時、肝炎で入院。これで糸が切れた状態になり、うつっぽくなって、高校の時とは別の精神病院に通うようになりました。

 そんな中、フリーター時代に知り合った人と、結婚。寿退社で最初の病院は2年半でやめました。一人暮らしの経験がなく、いきなりの結婚生活。しかも家を建てたこともあって、次の病院ではハードな勤務を続けました。16時間ぶっ続けで働くこともあったのです。そんな勤務が1年続きました。ここは患者に寄り添った病院じゃない。そんな思いが強くなり、食べられない、寝られない、人に会えない、でも1人でいられない、そんな状態になり、その病院も辞めざるを得なくなりました。

 そうして、再び自らが通院することに。しゃべれない状態だったので、自分の思いをメモに書いて病院に行きました。そこの先生は友美さんの話をちゃんと聞いてくれる人でした。この先生の言うことを信じてみよう。人と会えるようになって、また働けるようになるかもしれない。しかし、それでも突然不安が襲ってきます。そんな不安発作の時に、休みで友人と出かけていた旦那さんに電話をすると、それ以来口をきいてくれなくなりました。そしてお義母さんから、息子を1人にさせてほしいと言われ、別居することになりました。
大事な人に拒絶されるような人間なんだ…。大切な人は私から離れていく …。

 そんな思いを抱えたまま離婚。でも、そこで引っ張り上げてくれたのは、友人のお母さんから紹介してもらった方たちでした。
ちゃんと相手にありがとうを言ってから別れないといけないよと、恨みが残らない形で別れることができたのです。

  離婚して少し経ったくらいの頃に精神科の先生から、「もう病院にこなくていいよ。卒業です。」と言われ、減らしていっていた薬も完全に飲まなくてよくなりました。 友美さんは身体のことも考え、介護施設の日勤の仕事を探し、勤め始め、その仕事にやりがいを感じるようになっていました。その頃、スキルリーディングにも出会いました。自分のことを知りたい。そしてスキルリーディングを学んだら少し楽になったのです。

 実は友美さんが別居している頃に出会った同じくらいの年の女性が、うつがひどい時にクスリを飲んで亡くなってしまったということがありました。その子と自分を分けたものはいったいなんだったんだろう。自分もうつがひどい時は、 どっちの窓から飛び降りようかと思ったりと、衝動的に思うこともありました。でも、私は生きている。

 自分にはまわりに友人がいた。新しい場所へと誘ってくれる人がいた。でも、彼女にはそんな人や場所がなかったのかもしれない。自分の心が許せる場さえあったなら…。

 そこから友美さんは、悩んでいる人が少しでも心のうちを話せる場所を作りたいと思うようになりました。自分自身がうつを何度も繰り返した後にたどり着いた思いでした。

 そこからは看護師の仕事をどんどん減らしていって、心の勉強を始めました。産業カウンセラーの勉強も始めました。そうして離婚して5年後、今の旦那さまに出会います。

 初めて会った人なのに、離婚やうつだったことを話せた人は初めてでした。彼もまたバツイチで、うつの奥さんをずっと支えていた人でした。でも支えきれずに別れたことで、どこか自分を責めている所がありました。まだ友美さんの中には、大事な人から拒絶されるのではないかという思いも残ってはいましたが、それよりも彼のことが気になる気持ちの方が強くなって、自分からお茶に誘いました。彼もまた友美さんと一緒にいる時間に安らぎを感じていました。しかし、2人ともそれ以上先には進めずにいました。

 そんな時、友美さんは友人の薦めもあって「てんつくマン」の合宿に参加します。実はこの合宿、私も参加していたのですが、自分の過去に対峙し、それを許して未来に向かう、ものすごく濃い時間でした。みんなボロボロ号泣だったのですが、友美さんも昔泣けなかった分、余計に大泣きでした。そして、「お父さんの分も幸せになってね」ではなく、「お父さんよりも幸せになってね」と言われたことで、自分の中でつっかえていた何かが流れていく気がしました。

 そうして、その合宿からの帰り道に、今この時じゃないと絶対に後悔する、と、彼に電話をかけたのです。泣きながら思いのたけを話しました。お互いに自分は幸せになってはいけないという思いがあり、身を引こうとそれぞれが思っていたことが分かりました。でも、お互いの心の奥の気持ちに従ってみようと話し合ったのです。そうして、2人は再婚することに決めたのです。

 その後、幸せに暮らしていた友美さんでしたが、体がだるくて仕方がなくて病院を受診したときに、バセドウ病が見つかります。不妊治療をしようとしていた矢先でしたので、本当にショックでした。バセドウ病は甲状腺ホルモンの働きが活発になりすぎて、じっとしていても走っている時のような状態が続き、非常に疲れやすくなったり、不安定になったりします。なんでこんな思いをしなくちゃいけないのかなぁ…。絶望的な気分になったりもしました。けれど、諸富義彦さんの本に出会い、今の症状は今の自分へのメッセージなのだと思うようになりました。脈が速いのは焦らなくてもいいんだよ、と言われている気がしました。

 一生に一度きりの人生。 いつか、と言っていたら、限りある人生どうなるかわからない。今やれることを自分のペースでやっていこう。そう思いました。嵐が好きで時にコンサートに行き、旅行が好きで、自然の中でぼんやりすることが好きで、そんな自分の「好き」を愛おしく感じていきたい。そんな時に、さとう式リンパケアにも出会います。事故等の後遺症もありずっとあちこち痛くて、いろいろ通っていたのですが、近所でリンパマッサージをやっている方の所でさとう式リンパケアのことを知りました。今まで いろいろやってきて、一時的に緩和されてもまた出てくる痛みが、筋ゆるケアをするとすっと楽になりました。ああ、私の探していたのはこれだ!と思って、自分もすぐにさとう式リンパケアのインストラクターの資格を取ります。思い立ったときの友美さんの行動力には本当に脱帽です。自分自身が筋ゆるケアで楽になったので、同じように苦しんでいる方を少しでも楽にしてあげたい!友美さんからはそんな一途な思いを感じます。

 ケアをしていてお客さんの力の抜けた顔を見ているとこちらが幸せな気分になると友美さん。「父が生きていたら私の人生はどうなっていただろう」とずっと思っていたけれど、今はこれはこれでいいや、そんな風に思えるようになったのでした。自然に逆らわずに無理せずに生きていこう。そして自分自身も周りの人も「ここちよい」と思えるそんな時間を過ごしていこう。

 今日も「やすらぎサロン ここち鳥」では、友美さんの優しくほんわり包み込んでくれる笑顔に出会うことができます。皆さんもホッとしたい時、ぜひ友美さんの笑顔に出会ってみてください。
今日の人152.吉谷奈艶子さん [2015年10月30日(Fri)]
 今日の人は、企業研修や子育てコーチングやホワイトボード×コーチング等の講師、そして自立支援家としてあちこちでひっぱりだこの吉谷奈艶子さんです。愛称よっしーなので、ここでもよっしーと書かせていただきます。
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 よっしーは1970年大阪万博開幕の日に高岡市佐加野で生まれました。小さい時は引っ込み思案でいつも誰かの後ろについていくタイプでした。ゴム跳びをしたり、稲刈り後の田んぼの農具の納屋を秘密基地にして遊んだりしていました。タンポポやシロツメクサを摘むのも好きで、とにかく外でばかり遊んでいました。けれど、体は弱かったので、しょっちゅう熱を出して月に一回は医者に通っていたくらいです。
 引っ込み思案ではありましたが、習字、そろばんは自分から習いたいと言いだして習いに行きました。そして一度習い始めると結構長く続くのでした。

 3月生まれのよっしーは親からいつも「知恵遅れ」と言われていました。早生まれで不利だということを言いたかったのかもしれませんが、そう言われて育ったため、自分は頭が悪いものだと思い込んでいました。それで小学校では絶対に手を挙げて発表することはしませんでした。そういうことをするのは頭のいい人がすることで、自分のような子がすることではない、そう思っていたのです。そして実際に勉強も嫌いでした。私は勉強なんかしなくていいんだと思っていました。
 
 小学校の時になりたかったのはピンクレディです。テーブルの上に乗っかってピンクレディになりきって踊っていてテーブルの脚を壊してしまったこともありました。でも、あまりテレビを見させてもらえるうちではなかったので、友だちの話題についていけないこともしばしばありました。お菓子もあまり食べさせてもらえませんでした。でも、これは今から考えるととってもいいことだったように思います。なにしろ当時は、合成着色料だらけのすごい色のお菓子が多かった時代ですから。

 6年になって川原小学校に転校したよっしー。でも転校した当日に友だちができて、すんなり新しい学校に溶け込むことができました。5年の時担任だった先生がなんと転校先に赴任してきたのも安心感を倍増させてくれました。

 そして高岡西部中学校に。中学校ではバレーボール部に入部します。当時高岡西部中のバレー部は外にコートがありました。練習に行くと見せかけて駄菓子屋にサボりに行くような比較的緩い部活でした。

 でも、中学時代のよっしーには誰にも言えなかったイジメられた経験もあります。ある先輩から「目つきが悪い」と別室に呼び出されて、ビンタされたりしたことが何回かありました。言い返すこともできなかったし、それを誰かに言うこともできなかった。とてもつらかったのですが、それでも学校を休もうと思ったことはなかったのです。

 もちろん、イヤなことばかりではありません。当時よっしーには好きな人がいました。3年間で3回同じ人を好きになりました。そうして、3年生の時、思い切って手紙を書いて渡したのです。もしOKだったら廊下の黒板の端っこにYESって書いておいてね、とその手紙には書きました。YESと書いてあるかどうかを見に行くのは勇気がなかったので、友だちに見に行ってもらいました。結果は…OK!みんなで飛び上がって喜びました。その恋は手紙のやりとりだけで終わったのですが、青春の甘い思い出です。

 小学校の時から大和の店員にあこがれがあったこと、近所で好きだったお姉ちゃんが高岡商業に行っていたので、高岡商業に行って大和の店員になるぞとなんとなく思っていたよっしー。当然のように高岡商業高校に進学しました。

 子どもの頃から習っていた書道は高校1年まで続けました。小6から高1までは山田無涯先生に師事。書道はとても好きでした。
 けれど、高岡商業のバレー部は中学時代の部活とは比べものにならないくらいに厳しく、とても書道を続ける余裕はありませんでした。顧問の先生には一日に一回は怒られるといった感じで「人の話は目を見て聞くもんじゃ!」と厳しく言われました。炭酸もアイスもそして恋愛も禁止の部活でした。しかし、そうやって厳しい指導を受ける中で、バレーはこんなに楽しいんだと思うようになりました。けれど回転レシーブの練習のし過ぎで腰椎分離症になり、ドクターストップがかかります。少しでも早く復帰したくて無理をしたら、本来2か月で治るはずが半年もかかってしまいました。それで結局レギュラーにはなれずに悔しい思いをすることになりました。

 中学校までは全く興味の出なかった勉強も好きになり、必死に勉強したら番数が急激に上がって、担任にカンニングしたと勘違いされるほどでした。何かやりだすと止まらなくなるのは昔も今も変わらないようです。

 部活をやめた後はスポーツ用品店でアルバイトを始めました。販売の仕事がすごく面白いと感じました。

そして、夏休み中に学校から推薦されて、就職先が決まります。決まったのは立山アルミでした。第一志望の会社ではなかったのですが、薦められるままに決めたのでした。
3月16日が入社式で配属先が決まるのは4月1日だと言われました。事務職で決まったはずなのに、どんな仕事になるかその時はまだわかりませんでした。入社式の後すぐに会社から国泰寺までランニングで行って、2泊3日の研修が始まりました。帰りはさすがにバスでしたが、迎えに来てもらった時は、熱が出始めて、「事務員になれなかったら辞める!」と口走っていました。

 幸いにして住宅関連の部署に事務員として配置されました。その部署はどんどん大きくなり、最初は30人だった人員が120人にまで増えました。仕事は大変やりがいがあり、男性と対等にやれる現場でした。仕事に対して負けたらダメだという思いのあったよっしーは常に全力でした。

 ある日、関連会社に課長と一緒に打合せに行った時の事、相手側の担当者は開口一番「女か」と言ったのです。聞けば、その会社では女子社員の役割はコピー取りなどの雑用ばかりで責任のある仕事は全く任せてもらえていなかったのです。実は高校の時に第一志望にしていたのはその会社でした。ですが、その時、この会社に行かなくてよかった!と心底思いました。
「女か」と言われた時に「ですから何か?」と言ったよっしー。会社でも女だからと言われたくなくて、いつもケンカしていました。けれど、お客さんのことを常に考えて動いていたので、お客さん受けは本当によかったのです。

 横浜ランドマークタワーの大きな物件も任され、「ようやった」とほめられましたし、後日ランドマークタワーへも招待してもらいました。こうした実績を認められ、東京に転勤して営業をしたらどうだと誘いを受けるほどに。しかし、親に反対されたよっしーは行くことができませんでした。後日、なぜ反対したのかと聞いたとき、本当に行きたいなら反対を押し切ってでも行っただろうと言われ、ああ、自分の意志を通してもよかったんだとようやく思えたのです。

 23歳の時に、当時好きだった人と結婚しますが、一番大きかったのは早く親から離れたいという気持ちでした。けれどよっしー自身も仕事ばかりで帰ってくるのはいつも深夜。家族としては成り立つかもしれないけれど、夫婦としては成り立たない。そう感じたよっしーは26歳の時に離婚。この時生まれて初めて親の反対を押し切って大きな決断をしたのでした。

 離婚直後には胆石で入院。急性膵炎を併発し、3週間入院します。手術の時にちょうど停電になり予備電源で手術するというめったにない体験もしました。

 会社に戻ったよっしーは、営業をさせてくださいと頼みますが、断られます。どうしてもあきらめきれなかったよっしーは、役員が散歩している時間を見計らって一緒に歩き、「どうしてもやりたいんです!」と訴えました。熱意が通じて、ニューオータニの展示場で住宅リフォームの営業として働くことになったのです。
 
 しかし、1年たたないうちに次の結婚が決まります。胆石と急性膵炎で苦しんだよっしーは、今度は子宮内膜症で出血が止まらなくなりました。そうして結婚式の前日に妊娠が発覚したのです。
 自分から頼み込んでもらった仕事だっただけに、1年もたたないうちに結婚になり、本当に申し訳ない気持ちになりました。でも、この仕事は本当に好きでした。あるお客さんがいて、その方のお話を聞くのが大好きだったよっしー。その方は亡くなる直前に「家を直すならあいつの所で直してやってくれ」と言っていらしたそうです。「だからあなたにお願いするわ」と言われた時は本当にこの仕事にやりがいを感じました。
 だから産休中にもカラーコーディネーターやインテリアコーディネーターの資格を取得するなど、積極的に動いていました。けれど、あまりに仕事一辺倒になってしまうので、このままではいけないと感じ、「いったん本社に戻してください」とお願いしたのでした。

 それでもやはり完璧主義は変えられず、仕事も負けられない、子どももいい子に育てたい、だから一切手は抜かず全部手作り、そういう生活が続き、とうとういっぱいいっぱいになってしまったのです。2人目が出来た時、これはもう無理だと思いました。

 そんな時にご主人の実家で一緒に住まないかという話があり、これはいい機会だと思って一緒に住むことにしました。会社に時短を申し出るも断られたため、それまでずっと情熱を傾けてきた仕事を辞めることを決意しました。なんでも適当にやるというのは、よっしーの性格上無理なことでした。

 さりとて、主婦業だけに専念するのもこれまた無理でした。保険代理店をやっている友人に頼まれて、時短の準社員として働き始めました。ある時お客さんから電話応対が素晴らしいとほめられます。「いったいどこで研修を受けられたの?」と聞かれてはたと思いました。そういえば、東京や大阪には研修講師がたくさんいるけど、富山にはちっともいない。いないなら私がやればいい!よっしーはそう思ったのでした。

 そしてたまたま見ていた高校の同窓会のホームページで同級生の飯山晄朗さんの炎のブログを見つけます。見ると、飯山さんはすでに研修講師として大活躍中でした。高校の時はほとんど話したことはなかったけれど、そこは同級生のよしみ、飯山さんに直接「私、研修講師になりたいんだけど」と話しに行ったのです。飯山さんは「まずコーチングの勉強をすべきだよ」とおっしゃいました。そこでコーチングの勉強を始めたよっしーは愕然とします。自分は自分のことを全然しゃべれていない…。どう思う?と聞かれて自分のことを考えていなかった自分に気付きます。相手に合わせることばかり無意識にやっている自分にショックを受けたのです。そして、自分を常に完璧に保とうとしているのと同様に、娘にも完璧を求めていたことに気付いたのです。いつもああしなさい、こうしなさい、と命令ばかりしていて、自分のものさしから外れることをするといつも怒っていました。子どもは支配するもの、そう思っていました。その結果、人の顔色を見てしゃべるような子になっていたのです。

 これではいけない!コーチングを学んでからよっしーは少しずつ子どもとの関わりを変えていきました。しかし、応援したいのに、応援し切れていない自分にジレンマも感じていました。そんな時に出会ったのがナニメンさんこと吉井雅之さんでした。実はこのナニメンさんの講演会を開催したのはダイバーシティとやまだったので、よっしーとナニメンさんの出会いの場を作れたのはとっても嬉しいことです(*’ω’*)
その時のナニメンさんの講演内容はこちら⇒http://diversity-toyama.org/?p=751

 こうして子どもをとことん信じて応援する姿勢に変わったよっしー。よっしーが変わると娘さんも変わっていきました。いや、変わったのではなくて、もともとあったその子のキラキラ光っているところに気付いてやれていなかっただけかもしれません。
 子育てに悩み、辛くて、苦しくて、宗教に救いを求めようかと思ったくらい思い悩んでいたけれど、自分の考え方を変えただけで笑顔になれた。だから、それをたくさんの人に伝えて、みんなを笑顔にしたい。お母さんが笑顔になると子どもも笑顔になる。みんなも笑顔になる。その輪を広げたい。そしてそれが自分の使命だとよっしーは確信しています。
 「信じるから始めよう☆よっしーの子育てコーチング」というブログは子育てに関するヒントがギュッと凝縮されています。ぜひ皆さんも読んでみてください。
ブログはこちら⇒http://ameblo.jp/yossi-smile/

 よっしーの娘さんは2人とも幼い頃からバレエを習っているのですが、つい最近2人一緒に舞台に立つということがありました。ああ、こんな日が来たんだなぁと感慨ひとしおでした。
小さい頃、自分の顔色ばかりうかがっていた娘さんが、今はキラキラした笑顔でいてくれる、それは何より嬉しいことだとよっしーは思っています。そして、そんなよっしーの肩をいつも押してくれる旦那さんやご両親に感謝の気持ちでいっぱいです。

 これからもよっしーは北陸を代表するコーチとしてますます輝いていくでしょう。
11月1日からは〜信じるから始めよう☆子どもの心に効くコーチング〜というメルマガも配信されます。皆さんもぜひ登録されてはいかがでしょうか。きっと子育てに悩んでいるママたちの心が軽くなりますよ。
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