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今日の人187.小田島 道朗さん [2019年07月14日(Sun)]
今日の人は(公社)北海道国際交流・協力総合センター 交流・協力部課長で多文化共生マネージャーでもある小田島 道朗さんです。北海道の多文化共生推進の中心とも言える小田島さんに、札幌でお話を伺いました。
IMG_3845.jpg

小田島さんは1970年に北海道旭川で生まれました。小さい時から外で遊ぶのが大好きで、家で遊んでいた記憶はあまりありません。両親とも先生だったこともあり、躾にはなかなか厳しく、ゲームは買ってもらえませんでした。それで、ゲームをしたい時は友だちの家に行ってやっていたものでした。
小さい頃から生き物が好きで、当時やっていた「野生の王国」等の動物番組をよく見ていました。図鑑を見るのも好きでした。でも、小学生の時に、当時飼っていたポメラニアンが死んでしまい、それが本当にショックだったので、それ以来ペットは飼っていません。
スポーツ少年でもあった小田島さんは、小学生の時は野球とテニス、冬になるとスキーをやっていました。北海道には長靴に履くミニスキーもあって、子どもの時はよくそのミニスキーでも遊んだものでした。(それ、富山にもありました。懐かしい!)
そんな小田島さんが小学生の頃になりたかったのは、ラーメン屋さんです。それくらい地元の旭川ラーメンが大好きでした。だから、大学で札幌に出た時は札幌ラーメンの味に全然馴染めなかったのです。さすがに今は、札幌ラーメンの味にも慣れましたが、やっぱり一番好きなのはずっと旭川ラーメンです。
また、高学年の時は、仲良しの女の子と交換日記をしたりもしていました。そう、当時は交換日記がとても流行っていたのです。多分、同年代の人はみんな交換日記の経験があるんじゃないかなぁ。はい、もちろん私もやっていました。

中学生になると、バスケ部に入ります。小田島さんの通っていた北海道教育大学附属中学校は当時バスケ部がなかなか強かったのです。テニスもやりたかったのですが、中学には軟式テニス部しかなくて(小学生の時は硬式テニス)、バスケ部を選んだのでした。運動好きな小田島さんのことですから、バスケも真剣に取り組みました。1,2年の時はポイントガード、3年の時はセンターがポジションでした。中学の時は、将来体育の先生のなりたいと思っていました。

高校に入ると、硬式テニス部に入ります。といっても、そこまで真剣にはやっていませんでした。高校には夏の間は自転車で、冬になるとバスで通っていました。いろいろと友だちとつるんで遊んでいました。今は布袋寅泰に似ている小田島さんですが、この頃は野球の清原に似ていると時々言われていました。

大学進学で、札幌に出てきた小田島さん。大学では英語英米文学科に進みます。テニスを教えるアルバイトで人に教える楽しさを知り、将来は英語教師になろうかと思っていました。けれど、2年の時に、このままでいいのかと痛切に思うようになります。このままでいても、自分は英語も身につかないし、中途半端なまま卒業を迎えてしまいそうだと思ったのです。
 そこで小田島さんはハワイの大学に留学することにしました。学びたい教授がいたこともあって、アメリカ・ハワイ州へ留学することに決めたのです。
でも、アメリカの大学ではでは成績が悪いと除籍になります。次の授業まで原書で100ぺージ読んでいかなくてはいけないこともざらにありました。それで、最初の頃はとにかく必死で勉強しました。ハワイにいても日焼けをする暇はなかったのです。
4年生になって、ようやく自由な時間が増え、アルバイトをする余裕もできました。タンタラスの丘という観光客に大人気のワイキキの夜景の広がる場所で、リムジンに乗って来る観光客の写真を夜景をバックに撮るというバイトをしていました。そうして、ゴルフをするのも大好きになりました。なにしろ、ハワイは現地に住んでいる人は、日本でのカラオケ一回分くらいの料金でラウンドできるのです。今もゴルフをするのが大好きな小田島さんは、毎年12月に奥様と一緒にハワイに行ってゴルフをするのが何よりの楽しみです。
 こうしてとても充実したハワイでの大学生活を終えて、日本に戻ってきたのでした。

 帰国して、最初は英語教師になろうと英会話学校へ面接に行きます。けれど、学校は会話はネイティブの先生が欲しい、文法のクラスだったら教えてほしいと言いました。文法を教えるクラスなんてつまらない。それなら、自分のために英語を使おう。そう思った小田島さんは北海道庁の国際課で通訳翻訳のアルバイトを始めます。そこで、知ったのが今、小田島さんが勤める北海道国際交流・協力総合センター(HIECC、当時は北方圏センター)の存在でした。

こうしてハイエックで働くことになった小田島さん。それ以来さまざまなことを手掛けてきました。
 ます、携わったのは、海外技術研修員の担当者としての仕事でした。南米や中国から来る技術研修員を受け入れ、北海道との懸け橋の役割を担う人材の育成を図りました。
 次にJICA北海道国際センターで研修事業の実施を担当しました。
 その後、本部に戻ってからは北欧との大きな交流イベントを手掛けたり、道内の高校生を開発途上国に派遣し地球規模の問題を身近に考える現地研修を行う「高校生・アジアの架橋養成事業」を手掛けたり、今も続く様々な取り組みを作ってきました。
 
 でも、その頃、小田島さんはまだ多文化共生という言葉を知りませんでした。その言葉を知ったのはハイエックに就職して何年も経ってからです。国際交流ではなく、多文化共生、そんな視点があったのか。その頃、ちょうどニセコにどんどん外国人が増えてきていました。なぜ、過疎で苦しんでいた町にこんなに外国人が来るようになったのか?その部分を深く知りたくて、多文化共生マネージャー養成講座を受けることに決めました。
 小田島さんが多文化共生マネージャー養成講座を受けたのは、2009年のことです。2008年にリーマンショックが起き、日本に住む外国人にも激震が走った翌年のことでした。

 それ以来、小田島さんは北海道の多文化共生をずっと牽引してきました。
救急救命表示板を作成して、道内の全救急車に配備したのも小田島さんの尽力です。
言葉が通じず救急車に乗ってもお互いに何も伝えられなかった外国人と救急隊員にとって、この表示板はどれだけ心強い味方になったことでしょう。
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小田島さんの手掛けた救急救命表示板

 また札幌国際プラザと一緒にワークショップを開催する等して、多文化共生マネージャー同士でお互いの知識と意識を高めあっています。そんな仲間がいることもとても嬉しいと小田島さん。その一方でどんなに頑張ってもなかなか人の意識が変わらず、はがゆい想いをしてきたことも事実です。広い北海道全土に多文化共生の考え方を浸透していくのは、本当に大変なことだと思います。でも、小田島さんたちの一歩一歩は、確実に広がっているにちがいないのです。

 今、全国的に外国人ワンストップセンターが動き出しましたが、ハイエック内にもワンストップセンターが開設されることになり、今年は北海道の多文化共生を更に前に進める年になると思っています。
今、吹いてきた風をとらえて、北海道の地域国際化協会として、信頼される団体にしたい、それは小田島さんが必ずやろうと思っていることです。また、道庁と災害時協定を締結するなどし、被災した外国人への支援などの活動がHIECCとしてできる体制を構築していきたいとも思っています。昨年9月に発生した「北海道胆振東部地震」の時の様に、何かしたくても何も出来ない、そんなジレンマはもうたくさん。そのために、小田島さんは今日も走っています。

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