CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«今日の人182.前田大介さん | Main | 今日の人184.与島秀則さん»
<< 2019年01月 >>
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
カテゴリアーカイブ
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
宮田妙子
今日の人149.河除静香さん (09/24) 橋本桂
今日の人149.河除静香さん (09/08) 高木敏夫
今日の人123.高橋太郎さん (04/14) 大太
今日の人4+.森本耕司さん (07/17)
今日の人183.八木信一さん [2019年01月08日(Tue)]
 今日の人は、地域総合小児科認定医、日本小児救急医学会SIメンバー等、多方面でご活躍の医師、八木信一さんです。八木先生は富山県自閉症協会の会長でもいらっしゃるので、世界自閉症啓発デーライトイットアップブルー五箇山菅沼でお世話になっています。
IMG_2041.jpg

 八木先生は1958年4月1日に金沢で生まれました。おじいさまもお父様もたくさんのご親戚もお医者様というお医者様一家の長男です。お父様はあの「坂の上の雲」でも有名な秋山真之や広瀬武夫ら当時の超エリートが学んだ海軍兵学校に最後に入学した学年の方なのでした。そのお父様は今も矍鑠とした現役のお医者さまとしてご活躍中です。
 
 八木先生、金沢にいたのは数か月だけで、その後お父様が能登の皆月という無医村に派遣されたのに伴い、そちらに引っ越します。当時は移動手段もなく、ご両親はまだ赤子だった先生を一昼夜おんぶして歩いてようやく皆月に着いたのでした。しかし、そんな皆月にいる時に重症の消化不良になって、一ヶ月近くも意識が戻らず、大変危険な状態になってしまったのです。きっともう助からないだろうと、小さな棺桶まで用意されました。しかし、よほど生命力の強い子だったのでしょう。一ヶ月経った頃に目を開けたのです!こうして死の淵から生還し、その後はこの子は本当に運のある子だと言われて育ったのでした。

 次の年にお父様は今度は札幌の自衛隊病院に。そこにいたのは1年くらいでしたが、八木先生にはその頃の記憶が残っています。当時、よくセスナ機が空からビラを撒いていたのですが、幼い八木先生は病院の屋上でそのビラを拾うのが好きでした。空から紙が降ってきて、それが楽しくてたまらなかったんですね。
その後、お母様が出産でご実家のある東京に。そこに八木先生も一緒についていったのですが、その時乗ったセスナ機が乱高下して大変怖い思いをします。よほど怖い思いをしたせいか今でも八木先生は飛行機が苦手で、移動はもっぱら新幹線なのでした。

そうして3歳違いの妹が生まれた後、八木先生のご一家はおじいさまが産婦人科をしていらっしゃる高岡へ。おじいさまの家の離れで暮らし、八木先生は高岡のカトリック幼稚園に通いました。この頃の八木先生はとにかくじっとしていられない子どもでした。富山弁でいう「しょわしない」子だったのです。古城公園のお堀の白鳥に石を投げては怒られ、家の前に飛び出してミゼット(三輪自動車)にはねられ、幼稚園ではお祈りのミサの時に鼻クソをほじっていてシスターに怒られ、おじいさまの病院の診察室を覗いて看護婦さんのスカートめくりをしておじいさまにお目玉をくらい、それでも凝りもせずに動き回っている、そんな子でした。途中、東京の幼稚園にも数か月通っていたのですが、最初は富山弁を馬鹿にされるのがイヤであまり話せませんでした。けれど、海の絵を描くお絵かきの時間に、東京の子たちはうまく海を描けなかったのですが、高岡の海をよく見ていた八木先生は海と船を見事に描きました。それでみんなにほめられてすっかり東京の友だちとも仲良くなり、小学校に入ってからも東京に行った時には一緒に遊んでいました。八木先生は今も全国にたくさんのお友達がいらっしゃるんですが、誰とでもすぐに友だちになれる特技はその頃から変わっていらっしゃらないんですね。

高岡の小学校に入る予定だったのですが、富山へ引っ越すことになり、八木先生は星井町小学校に入学します。2年生の2学期からは愛宕小学校に転校しました。その頃お父様はたびたび入院されることがあり、入院しながらも日赤病院で働いていらっしゃいました。そんな時は八木先生はこれまたお医者さまの親戚のおじさんの家に預けられました。この家のいとこも大変優秀で、その家のおばさんが大変な教育ママだったのでテストは100点じゃないと怒られるのです。その頃の八木先生はあまり勉強が得意ではなかったので、100点はたまにしか取れません。それで100点の時だけテストをおばさんに渡し、それ以外のテストはドブに捨てていました。しかし、ドブに捨ててあったテストをご丁寧に拾って届けてくれた友だちがいたからさあ大変。当然のごとく、おばさんから大目玉をくらうことになるのでした。けれど、お母さんから勉強のことで怒られることはあまりありませんでした。情操教育にと絵やピアノも習わされましたが、どれも長続きしませんでした。そんな時、君は声がいいからと合唱団を薦められて入団テストを受け合格しましたが、勉強もせずに合唱もないもんだとお父さんに反対されてあえなく退団。
八木家では子どもの通知表をおじいさんに見せるのが年中行事のようになっていましたが、いとこ達がことごとくオール5なのに対して、八木先生はオール3でした。でもおじいさんは「お前はえらい、オール5よりオール3を取る方が難しい」と言って褒めてくれるのでした。いとこ達も「信ちゃんすごいね」と言ってくれて、それで八木先生は腐ることなくのびのびと子ども時代を過ごせたのかもしれません。八木先生はこのおじいさんのことが大好きでした。

子どもの頃から運動は大好きでした。体育の跳び箱、お昼休みや休み時間はポートボールやゴム飛び、運動会でもいつもアンカーでした。鼓笛隊にも選ばれて学校代表でチンドンコンクールに出たりもしていました。そんな八木先生の小学校時代の夢は宇宙飛行士でした。ちょうど6年生の時にアポロが初めて月面に着陸したのです。それで、卒業式の呼びかけで八木先生は「宇宙飛行士になりたい」と言うことになったのですが、これを先生に何度も何度も練習させられました。あまりに練習したので、その夢は卒業式の呼びかけをもってあきらめました。

八木先生が中学に入学したのは1970年でした。ちょうど大阪万博が開催された年です。
入った部活は柔道部。もっとも、ちゃんとした練習はあまりせず、その頃流行っていた「柔道一直線」の技を真似するなどしていました。そこで空手に興味を持ち始めるようにもなりました。
その頃はあさま山荘事件が起こるなど学生運動真っ最中の、激動の時代でした。でも、実は大学紛争が間接的に八木先生に影響を与えることになったのです。今の若い人は学生運動といっても全くピンとこないと思いますが、過去を振り返る映像で東大の安田講堂に放水されている場面は見たことがあるかもしれません。そんな東大紛争の期間、大学では講義が行われていませんでした。八木先生には東大理Vに行っている従兄がいたのですが、彼はどうせ講義がないしとヨーロッパをバックパッカーで旅していました。しかし、その時ドイツで大事故に遭い、奇跡的に命はとりとめたものの、療養を与儀なくされます。富山で療養していたのですが、どうせベッドの上で動けないから、リハビリがてら信一の勉強を見てやるよと八木先生の家庭教師を買って出てくれたのです。その頃、八木先生は中学2年生でしたが、成績は学年の中の下といった感じでした。しかし、従兄に教えてもらってからはあれよあれよという間に成績があがり、あっという間にトップクラスに躍り出ます。県立高校は行けるところがないかもとまで言われていたのが、富山中部(富山で最難関の進学校)でもどこでも大丈夫です、と言われるまでになったのです。

しかし、八木先生、単なる優等生ではありませんでした、中3の時にこっそりと夜に家を抜け出し(1階から出るとばれるので、2階の窓から飛び降りていました)、友だちと一緒にカミナリ族を見に行こうと夜遊びを始めました。カミナリ族というのは暴走族のことで、実は暴走族の発祥の地は富山なのです。暴走族に入ったわけではありませんが、自転車で友だちと夜中に遊んでいました。それで成績も落ちなかったのだから、大したものです。しかし、これにはさすがにお父さんも怒り、坊主にして来いと言われました。しかし八木先生、その時流行っていた高倉健みたいな髪型にしてきたものだから、さらに怒られ、とうとう丸坊主にさせられてしまったのでした。
そんな感じだったので、おじいさんからの「信一は親元においておかない方がいい」との助言もあり、県外の高校に行くことになったのです。富山でも屈指の進学校富山高校にも合格していましたが辞退することにしました。その時、富山高校にトップクラスで合格していたので、高校から「ぜひうちに入ってほしい」と慰留に来られたほどでした。しかし、八木先生は岡山県倉敷市の川崎医科大学付属高等学校に進学します。この頃には自分は将来医者になろうとの思いを強くしていました。

この高校は全寮制の高校で、入った生徒はほぼ全員医学部を目指します。平日は外出は出来ず、7時の起床後は毎朝寮毎に朝礼もあり、そこで点呼されるのでした。1年生の時はサッカー部に入っていましたが2年生からは中学の時からやっていた空手部に。もっとも、高校には空手部はなかったので、川崎医科大学の空手部に入ってそこで練習していました。また週に一回あったクラブは軽音楽クラブに入って、バンドを組んでいました。キャロルのコピーをして、ボーカルとサイドギターを担当。あちこちで演奏する機会もあり、八木先生はいろいろな所でとってもモテました。けれど、その頃特定の女の子と付き合うことはしませんでした。お父さんから「(何をしてもいいけど)女の子を泣かせるようなことだけはするな」と言われていたのです。
八木先生、けっこうヤンチャでタバコを吸ったりお酒を飲んだりして謹慎処分になったこともありました。そんな時は親が呼び出されるのですが、お父様は「俺たちの旧制中学の時はよかったんだけどな」と言って、決して息子を責めるようなことは言いませんでした。「学校では吸うなよ」とだけ言って、長期休暇で家に帰ると、部屋に灰皿が用意されているような、そんなお家でした。それは麻雀で謹慎になった時も同じでした。お父様は怒るどころか「なんで麻雀がダメなんだ?」とおっしゃったのです。お父様にもきつく叱られていたらきっと反発したくもなったでしょう。しかし、そういうお父様でしたから逆に救われていました。だからこそ「女の子を泣かせるようなことだけはするな」の言葉をしっかり守っていたのだと思います。
その後もバンド活動をしたり、先輩に借りたバイクで走ったり、サッカーの試合をしたり、体育館でひたすら体作りをしたりと充実した高校生活を送りました。寮は縦割りの5人部屋だったのですが、寮の中でも八木先生は年齢を問わずたくさんの仲間ができ、今も仲良く付き合っています。

そして川崎医科大学にストレートに進学した八木先生は、バンド活動も続けていましたし、空手ももちろんやっていました。しかし、2年生になった時、お酒の飲みすぎで膵臓を壊し、夏休みの間、富山で入院します。これがきっかけでお酒を飲まなくなった八木先生はウインドサーフィンに熱中するようになりました。「Hi Wind」というサーフィンの雑誌の創刊号に写真が載ったくらいです。
IMG_2111.JPG
八木先生のサーフィン姿

大学3年生の時にはスピード違反でまたまた謹慎処分になった八木先生。この時は夏休みが没収になって、夏休みの2か月間、毎日教授の所に通って英訳をさせられました。そうして毎日教授の前で発表させられたのでした。それまで医学用語の英語に関しては問題なかったのですが、このおかげで、話す方も問題なくなります。もっとも、ずっと自分で全部英訳していたわけではなく、宿題になった分は八木先生のことが好きだった後輩に手伝ってもらったりもしていました。特定の彼女は作らなかった八木先生ですが、女友達は本当にたくさんいて、八木先生のことが好きな子もたくさんいたのです。その子たちをうまく使うのはお得意だったようです。今もダンディな八木先生ですが、その当時のお写真を見ると、絶対モテますよね!って感じです。

川崎医科大学は高校大学を通して、かなりの率で留年する学生がいました。9年間ストレートで卒業していくのは5割くらいでした。これだけ遊んでいて、謹慎もくらった八木先生でしたが、留年はせずストレートで卒業したのです。3年生までは成績もギリギリで留年を免れていたのですが、4年生になった年に妹さんが大学に入学してきます。超優秀で学費免除で入学してきた妹さん。大学の先生たちは「あの子はお前の妹か」ではなく、「お前があの子の兄か?」という言い方をしました。さらには「妹さんは優秀だなぁ」と。
それが癪に触り、そこからはちゃんと勉強し始めた八木先生。勉強したら成績が伸びるのは昔も同じで、4,5,6年の時はトップクラスでした。
 渡辺淳一の作品や白い巨塔が好きだったこともあって、第一志望は外科でした。しかし、小児科の教授の所へも挨拶に行ったときに、教授が「君の妹さんは小児科医になるかね?」と妹のことを聞いてきたのです。その言葉に「僕が小児科医になります」と言ってしまった八木先生。しかし、外科系も1年くらいまわりました。その後、3か所くらいに派遣されて、派遣されるたびにたくさんの女性を泣かせてきた八木先生。ご自身は硬派だとおっしゃいますが、そんなにたくさん女性を泣かせてきたとなると、硬派なのかプレイボーイなのかわかりませんね。(あれあれ、お父様に女の子は泣かせるなって言われていたのに、と言うと、自分が泣かせたわけじゃなくて、向こうが勝手に熱をあげちゃうんだ、とのことでした!)そんな時に、教授から、君はちょっと外の空気を吸ってきなさいと、愛媛県の今治市の病院に派遣されることになります。しかし、行く先々でそんな風にたくさんの女性が泣くことになるので、君は身を固めてから行きなさいということになりました。その頃、八木先生がバイトに行っていた施設に養護学校がありました。その養護学校の校長先生は大学の理事長の知人でもありました。八木先生は大学の理事長にも可愛がられていたのですが、その校長先生の姪御さんがいい子だからと言って紹介されたのが、奥様です。12月に会って、次の3月30日が結婚式に決まりました。そして4月から今治に赴任です。八木先生のお誕生日は4月1日なのですが、29歳の1年間が四国の今治での新婚生活を送りながらの赴任期間になりました。その後、岡山大学の研究施設で脳代謝の研究を1年。母校の教授に大学院に入れと言われ、英語、ドイツ語、一般教養の大学院入試をちゃんとパスして大学院に入ります。4年間、大学院で研究生活を送ったわけですが、その間に長女と次女も生まれました。世の中はちょうどバブルの真っ只中。八木先生も後輩たちと一緒に岡山のディスコに繰り出しては踊っていました。その時、奥様は乳飲み子を抱えていらしたのに、ご主人が夜な夜な踊りに行っていても何も言われなかったなんて、なんて心が広いんでしょう。この頃、夜中の1時くらいに帰っては、長女を起こして長女ともダンスをしていたという八木先生。実はその娘さん、今はお医者様をやりながらベリーダンサーもされているそうです。きっと、その時のダンスの楽しい記憶があってベリーダンスも始められたのではないかとのことでしたが、寝かしつけた子どもを真夜中に起こされる奥様はたまったものじゃなかったんじゃないかなぁと思ってしまうのでした。

 しかし、もちろん遊んでばかりいたわけではありません。博士論文では、ミルクをいかに母乳に近付けるかという研究をしていました。実際に初乳から順を追って母乳の成分を分析していくのです。実は某有名メーカーの粉ミルクはこの時のデータが基になった成分で作られています。私はほぼ母乳で粉ミルクは使いませんでしたが、八木先生が携わられたって知っていたら粉ミルクも、もっと安心して使えていたかもしれませんね。
ただ、博士論文の提出期限の1か月前にぎっくり腰になって動けなくなってしまった八木先生。しかし、この時も仲良くしていた後輩が毎日自宅と研究室を往復して、八木先生のフロッピーディスクを届けてくれたおかげで、ちゃんと論文を出すことができたのでした。いつでも人に恵まれているのは取りも直さず、先生が人を大切にしているからにちがいないのでした。

 お父様が大病をなさっていたこともあって、大学院で一区切りついたら富山に戻る決意をしていた八木先生は平成5年に富山に戻ります。最初は富山大学に籍を置きながら済生会高岡病院に勤めました。半年くらいのつもりで行ったのですが、先生が済生会に行ってからどんどん患者が増えて、結局1年半済生会にいました。その後、大学に戻りましたが、大学でも大変忙しくなり、働きづめに働いていました。昼夜なくそして休日なく働きすぎたせいでしょうか、42歳の厄年の時に、突然何をするのもイヤになって無気力になり、夜は寝られなくなりました。そして、車の事故を起こしてしまいます。このままだとダメだ、そう思った八木先生は、大学病院を辞めて、実家のクリニックで働くことに決めました。平成15年のことでした。

 しかし八木先生が実家の病院に入る頃から、お父様は体力を回復され、そのまま院長はお父様がおやりになって、八木先生は副院長に。それで家の病院でも働きながら、大学病院の勤務医も続けられていて、それは今もずっと変わりません。それ以外にも医師会の理事や他の役職も数えきれず、救急の当直もしょっちゅう引き受けられ、週末ごとに出張で全国を飛び回っていらっしゃいます。そんな風に片時もじっとしているのが苦手な八木先生なのでした。
 そして還暦を迎えた今も、銀座や六本木で遊ぶのも好きですし、隙間時間にスキー場へ行って一滑りしてこられる等、とにかくパワフルです。

 そんな先生とダイバーシティとやま、いったいどこで接点が…?という疑問もごもっとも。実はとても大事なことをまだ書いていません。
 八木先生のご長男は自閉症で生まれ、今はめひの野園のグループホームに入所されています。先生は富山県自閉症協会の会長もされていて、ダイバーシティとやまで毎年開催している4月2日の世界自閉症啓発デーライトイットアップブルーでご縁があったのです。八木先生はちょうどめひの野園に自立支援センターありそが出来た時に東真盛さんと知り合い、自閉症協会の活動にも関わるようになられたのでした。医者としての目線だけでなく、親の目線で共感してもらえるのは、自閉症の子を持つ親御さんにとって、どれほど心強いことでしょう。
 
 本当に数多くの仕事をこなしている八木先生が、もっとも力を注いでいらっしゃるのは障害児医療と子どもの救急です。お忙しい合間を縫って、重い障害を抱えた子の家に往診にもいらしてます。お得意のスキーではスペシャルオリンピックスで障害者スキーのコーチもされているので、趣味と実益を兼ねられてとても楽しいのだと。

 30年来の付き合いのある患者さんもいらして、今も先生先生と慕ってくれるのも嬉しいし、生まれた時から診ている子がいろいろな成長を見せてくれるのも何より嬉しいことです。

 今は人と人をつなぐことが多くなったけれど、それは今までつないでもらったお返しもしたいからです。1人で1000のことは出来ないけれど、100人育てて1人ずつが10のことをすれば、1000になる。そんな風に人を育てていきたい。そうしていつか、聴診器を持ったまま事切れることができたら、それは医者として本望だとおっしゃいました。
その時は、娘さん(娘さんもお2人ともお医者さま)に臨終を伝えてもらって、孫に看取られたい。子どもや孫に自分の志を継いでもらえたらこんなに嬉しいことはない。そして、その志は背中で伝えていきたい。そう八木先生は思っています。

 スキーにサーフィンに空手にロックンロール、そして白衣と聴診器、誰にも負けない障害児医療への情熱、還暦過ぎてもまるで漫画の主人公みたいにスピード感あふれる八木先生。これからも、その誰からも愛されるキャラで、たくさんの悩める親子の道標になってくださいね。
 

 
 


トラックバック
ご利用前に必ずご利用規約(別ウィンドウで開きます)をお読みください。
CanpanBlogにトラックバックした時点で本規約を承諾したものとみなします。
この記事へのトラックバックURL
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
http://blog.canpan.info/tb/1418683

コメントする
コメント