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今日の人172.新田八朗さん [2017年12月14日(Thu)]
 今日の人は、日本海ガス代表取締役社長で、富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田八朗さんです。
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 新田さんは1958年富山市生まれの富山市育ち。周りの友だちが「巨人の星」に夢中になっている子どもの頃、新田さんの興味があったのは「日立ドキュメンタリーすばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」でした。まだまだ海外旅行が高根の花だった時代。いつか一回は海外へ行きたい、そんなことを夢見る少年だったのです。

 富山大学附属小学校に通っていた新田さんは、小学校の図書室の本は全部読破した位、読書少年でした。心置きなく本が読めるからという理由で図書委員もやっていたくらいです。それはお母さまの影響も大きかったのかもしれません。忙しい家事仕事の合間に時間が出来ると、いつも本を広げている読書好きのお母さんでした。そして、新田さんが小さい時は国旗クイズと称して、毎晩本を広げてこの国旗はどこの国?とクイズを出すのでした。新田さんはお母さんとのそんな時間もとても好きでした。世界のことにいろいろ興味が湧いたのもそんな親子の時間が始まりかもしれません。そういうわけで、いつの間にか世界中の国旗を全部覚えてしまったのでした。

 お母さんは星の見える日には、新田さんに星座のことも教えてくれました。そうしてその星座にまつわるギリシャ神話も話してくれるのでした。そんな環境で育った新田さんはいつの間にかすっかり本の虫になったのです。
 低学年の頃は本の内容でわからないことがあると、お母さんに尋ねていましたが、高学年になっていろいろ質問していると、「今忙しいからまたあとでね」と言われることも増えてきました。ああ、これを聞きすぎてお母さんに恥をかかせてはいけないな、と思った新田さん、それからは富山市立図書館に通って自分でいろいろ調べるようになりました。なにしろ小学校の図書室の本は読破してしまっていたので、次はもっぱら市立図書館に通うようになったのです。図書館が家から歩いていける所だったのも幸いでした。

 もっとも、新田さんはずっと本ばかり読んでいたわけではありません。体を動かすことも好きだったので、友だちと外でドッジボールやサッカーもよくやっていました。児童会長もやっていたので、きっと子どもの時からリーダーシップを発揮していたにちがいありませんね。

 中学校も附属中に進み、新田さんはサッカー部に入りました。ポジションはレフトウイング。花形のフォワードです。中3の時には彼女も出来ました。デートは一緒にお好み焼き屋に行くというようなかわいらしいものでしたが、前日にお好み焼きを焼く練習をしていたのを懐かしく思い出します。その頃は携帯電話なんてもちろんない時代ですから、約束の電話をするのにも「電話にお父さんが出たらどうしよう」なんてドキドキしたものです。彼女とは「一緒に中部高校に行こう」と約束していたのですが、新田さんは先生から富山高校へ行くように振り分けられてしまい、彼女とは別々の高校になってしまったのです。

 こうして高校は彼女とは離れて富山高校の理数科へ。いつの間にか彼女とも会わなくなり、新田さんは理数科の中では落ちこぼれの部類でなんだかパッとしない高校時代なのでした。部活は高校でもサッカー部。しかし、サッカーよりも思い出深いのは、高3の時の運動会の騎馬戦でした。新田さんは下から2騎目の騎馬の騎手だったのですが、なんとあれよあれよと勝ち進み、敵の大将に勝ってしまったのでした。担任の先生もクラスが優勝したのは初めてだと感慨深げに言ってくれました。

 しかし、県内きっての進学校、やがてクラスも勉強一色になります。この時の理数科のクラスは本当によくできる生徒たちでした。クラス40人のうち半分近くが東大に、11人が医学部に、そして残りも京大や東工大などなど。数学は好きだったけれど、理科があまり好きではなかった新田さんは理数科の中の文系組でした。さすがにちゃんと勉強しようとエンジンがかかったのはようやく高3の夏休み。けれど、そこはやはり子どもの時から圧倒的な読書量で培ってきた豊富な知識量のある新田さんです。一橋大学の経済学部に現役で一発合格を果たしたのでした。
 
 こうして東京での一人暮らしが始まりました。しかし、新田さんのアパートから一橋大のキャンパスまでは電車で2時間かかりました。何でそんな遠い所にアパートが?と不思議ですが、実は、息子の成績を心配していたお父さんが、「ここなら受かるだろう」と慶応大学のある日吉に合格前にアパートを借りてしまわれたからなのでした。でも、これがよくなかった。新田さんはほとんど大学へ行かず、慶応の学生たちと麻雀したり、早慶戦を見に行ったり、すっかり慶応ボーイと化していたのです。気付くと1年生の時に取れた単位はゼロ。さすがにこれではいかんと思い、大学に近い所に引っ越します。2年生からはラグビー同好会に入って、ラグビーも始めました。同好会とはいえ体育会のノリなので、飲み会の時は大変でした。けれど、そのつながりは深く、その時の仲間は今でもいい友だちです。

 2年生からは勉学もきちんとやりました。そんな中、子どもの頃に抱いていた海外への憧れがよみがえってきました。よし、それなら外国に行ける外交官になろう!そう思った新田さんは、外務公務員上級試験を受けることにしました。しかし、試験の前日、試験で緊張しないようにと励ましに来てくれた悪友たちと麻雀が始まってしまったのです。いっそ徹夜したらよかったのですが、夜中に一人また一人と寝込んでいき、新田さんも途中で沈没。目が覚めると、なんととっくに試験が始まっている時間だったのです。しまった!と思っても後の祭り。しかし、わざわざ浪人してまで外交官試験を受けようという気にもならなかった新田さんは、銀行に就職することに決めました。

 第一勧業銀行に入った新田さんは、がむしゃらに働きました。でも、それが楽しかった。どんなに遅くなっても、仕事と一日の終わりをちゃんと区別するために、先輩と飲みに行き、また次の日の7時から仕事。ゆるい大学生活とはちがって、とことん自分を追い詰めるような日々でしたが、それを苦痛と感じることはなかったのです。
 月曜から土曜まではそのように過ごし、日曜は銀行のラグビーチームの練習に連れて行かれました。ラグビー強豪校出身の選手もたくさんいて、そんなメンバーとやるラグビーも楽しく、まさに1週間フル回転状態でした。社内の海外留学試験にもパスし、「外交官にはなれなかったけれど、これで海外に行く夢を果たせる!」そんな思いを抱いていました。
 
 そんな矢先です。お父さんが入院し、お見舞いに富山に戻った時のことでした。病床のお父さんが新田さんに言いました。「よかったら戻ってこないか」それはつまり会社を継いでほしいということに他なりませんでした。銀行に戻って人事の人に相談したところ、
「新田君、それは帰ってあげなさい。親孝行してあげなさい」と言われ、新田さんの心も決まりました。

 こうして2年の銀行勤めの後、富山に戻ってきました。そしてお父さんが社長を務めておられた日本海ガスに入社したのです。しかし、息子が戻ってきて気力が戻ったのか、お父さんはすっかり元気になって仕事にも復帰。同じ会社に入った途端、それまでの親子という感じはなくなりました。2人は経営方針を巡ってよくぶつかりました。どちらも会社をよくしたいと思えばこそのことでしたが、若い新田さんには腑に落ちない所もありました。
 
 そんな新田さんは富山に戻って2年で富山青年会議所(JC)に入会します。JCの活動は自分自身が楽しく、また社会の役にも立つ活動でした。一生懸命やれば役も上がっていき、会社でお父さんに叩かれても、JCでは認めてもらえました。そしてJCで頑張れば海外に行くチャンスもありました。JCでの活動中、新田さんが訪れた国は30か国にもなりました。フィリピンのスモーキーマウンテンには衝撃を受けましたが、そんな過酷な環境の中でも子どもたちの笑顔は輝いていました。タイの孤児院では1日に1回食べられるかどうかの子どもたちが自分たちにできるせいいっぱいのもてなしをしてくれました。新田さんはそれを残さず食べましたが、中にはこんなまずいもの食べられないとばかりに残す人もいました。子どもたちにしたらめったに食べられないご馳走です。それを出してくれているのに、そんな態度しか取れないというのはどういうことだろう。自分たちが何のために活動しているのかを問い直されたような感じでした。ここの子どもたちは何もないように見えるかもしれない。でもとても大切な大きなものを持っているにちがいないのでした。驕ってはいけない、してあげていると思ってはいけない、いろいろな社会的活動に携わる新田さんですが、いつもそのことを肝に銘じているのでした。

 34歳で富山青年会議所理事長、38歳の時に国際青年会議所の副会頭、そして40歳で日本青年会議所の第47代会頭として新田さんは大活躍されました。青年会議所は40歳で卒業なので、今はOBとして後輩たちの活動を見守っています。人育てが得意な新田さんは「金は出すけど口は出さない」がモットー。なるほど、納得です。

 平成12年には日本海ガスの代表取締役社長に就任され、現在は富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、名実ともに富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田さん。少子高齢化は避けられないことだけど、減るペースを減らすことはできる。そして、経済界として、雇用で応援していく。そのための仕掛けも今、いろいろと考えていらっしゃいます。「もちろんダイバーシティの視点を大切にしていきます」との心強いお言葉もいただきました。

 日々お忙しい新田さんですが、楽しい時間は仕事と関係ない仲間と飲みにいくこと。なかなかそんな時間は取れないからこそ、仲間との時間はとても大切な時間です。

 そして、今やりたいことはフランスやイタリアの田舎を予定を決めずにレンタカーで回ること。所々でワイナリーに寄りながら1か月くらいかけてゆっくり回りたい、そんな時間をいつか持ちたいと思っています。子どもの頃に憧れを抱いて見ていた「すばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」のような旅を、きっと新田さんはされるにちがいありません。もっとも、富山の経済界が新田さんを放ってはおかないので、ゆっくりその夢を叶えるのはまだまだ先の話になりそうです。

 
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