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今日の人170.和田直也さん [2017年09月03日(Sun)]
今日の人は富山大学 研究推進機構 極東地域研究センター教授の和田直也さんです。

和田先生は昭和42年1月2日に東京目黒で生まれ育ちました。家は町の電気屋さんで、3人兄弟の3番目だったので、いつも2人のお兄さんに追いかけられたりして鍛えられていました。おかげでかけっこはめっぽう速く、小学校の運動会ではいつも活躍していたものです。小さい頃は背が低くて、前から2番目が定位置でしたが、相撲も強かったし、野球、サッカーとオールマイティにこなしていました。隣町に巨人の土井正三選手の家があってサインをもらいに行ったり、あの世界の王選手の家にも押しかけてサインをもらいました。もっとも、土井選手や王選手には直接は会えなくて、お手伝いさんに下敷きやサイン色紙を渡して翌日もらったのですが、それでも富山育ちの私にはなんともうらやましい話です。

小学校の中学年になると、もっぱらサッカーをやるようになりました。体育の先生がサッカークラブの指導者ということもあったのですが、和田先生はその先生が厳しいけれど好きだったのです。
しかし、スポーツばかりをしていたわけではありません。魚釣りも好きだったし、タガメや水カマキリといった水生昆虫を捕って飼っていたし、カブトムシの幼虫を捕まえたりするのも大好きでした。絵を描くのも好きで、セルを買ってきて宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のセル画まで書いていたくらいだし、プラモデルを作るのも好きで、零戦や戦車を作ったりしていました。ハンダゴテを使って自分でラジオも作りましたし、友だちと将棋も指していました。しかも将棋会館に通い詰めて血尿まで出たくらいだというのですから、とにかく何かやるととことんやっちゃうのです。そういうわけで本当に忙しい子ども時代を過ごした和田少年でした。

中学校は家のすぐ裏にある中学校に行ったので、近すぎて遅刻しちゃうくらいでした。ただ、グラウンドが狭すぎてサッカー部がなかったのはとても残念でした。当時は校内暴力が問題になっていた頃です。学校の窓ガラスが割れるというような事件も全国的によくある時代でした。小学校時代のサッカーの友だちもワルのトップになったりして、荒れていました。派手に遊ぶ子もいたしやグレて先生にも殴りかかっている子もいました。その姿を見て「なんでそんなことをするかなぁ?」と思っていました。そうして「派手じゃなくて地味でいい。僕は中心からずれた生き方がしたいなぁ」と思いました。自然の中で暮らしたい。だったら農業に従事するのがいいかな。ご両親の田舎が山梨でお盆には毎年のように山梨に行っていたのですが、農村風景が大好きでした。自然にかかわることで生計が立てられたらいいなぁ、そんな風に思っていたのです。

高校は、都立でいちばんサッカーの強い高校を第一志望にしていたのですが、落ちてしまい、第2志望の都立目黒高校へ。家から自転車で10分の近い高校でしたし、何より自由な校風で都立なのに制服も着ていかなくてよかった。東横線の都立大学前駅が近くにあって、麻雀荘がたくさんあったのですが、授業の時間に麻雀荘で麻雀をしたりして、大学生以上に大学生っぽい高校時代でした。中学校の時は暗かったので殻を破ろうと、サッカー部に入ったし、バンドを組んでボーカルをやったりもしました。クイーンやビートルズの歌を熱唱していた和田先生。プロ志向の人にほめられたそうですから、相当歌がお上手なんですね。
そんなこんなでとても充実した高校生活でした。遊んでいてもどこか受かるだろうと思って、某私立大学を二校受験。しかし、どちらも落ちてしまいます。

浪人生活の中で自分の得意なことはなんだろうと考えた時に、ものづくりに興味があるから工学部かなぁと考えました。東京都に新設された科学技術大学(当時)の宇宙工学も面白そうだと思いましたが、目が悪くなって眼圧が高くなってしまい、ものづくりに携わるのは難しく感じてしまったのです。比較的入りやすいと思った某私立大学も受験しましたが、なんとダメでした。国公立は本命ではなかったのですが、なんとなく共通一次を受けてはいたので、2次試験の配点が高いところを探しました。
ちょうどその頃、竹下内閣の下でリゾート開発が積極的に進められていましたが、週刊誌ではそれによって自然破壊が進んでいることが取り上げられていました。和田先生は思います。宇宙工学もいいけど、自然破壊をどうにかしたい。自分は自然の中にいるのが好きだから、その自然が破壊され続けていくのは嫌だ。そして、得意科目の物理で生物学科が受けられる横浜市立大学に合格。生物の勉強をして、生徒に自然の大切さを伝えられる教師になろう、そう思っていました。

しかし、大学に入ってみると、ミクロな部分の生物学が主流でした。和田先生はマクロな生物学がやりたかったのです。そういうわけで1年目からイヤになってしまいます。スイッチが入るととことんやるタイプなのですが、スイッチが入らないと全然やる気が起きないのでした。そんな和田先生が真剣に取り組んだのはサッカーでした。体育会のサッカー部に入って本格的にサッカーをしていました。しかし、2年生になって半月板を損傷してしまいます。しばらく気付かずに練習を続けていて、なおひどくなってしまいました。その後、手術をしましたが、元には戻らず引退せざるを得なくなってしまいます。

サッカー部を引退し、することがなくなってしまった和田先生は本格的に勉強を始めました。生物の教師の資格も取ろうと思って、教職課程も取りました。生命の価値を知りながら、その大切さを訴えられる教員になりたい、そう思っていました。
教員採用試験は1次は受かり、2次試験は補欠合格でした。補欠というのは、誰かが辞退をした時に繰り上がりで採用されるというものです。
採用かどうかはっきりしないので、和田先生は大学院の受験も考えます。鮎の食べる珪藻類の種類と水質について研究していた和田先生。マクロな生物学を自学していたので大学院では顕微鏡を使わなくてもいい所がいい、森の研究がやれるところがいいと思っていました。そんな希望に合って受けたのは北海道大学大学院環境科学研究科(当時)でした。

ちょうど和田先生が学部生の時はバブルで超売り手市場でした。和田先生の友だちは理系でも金融系にバンバン就職が決まっていきました。そんな風にみんなが浮かれている時代に「リゾート開発はいけないんじゃないか、環境破壊が進んでいくと持続可能な社会は保てないんじゃないか」そんなことをずっと考えていました。浪人時代に感じていた自然破壊をどうにかしたいという思いはずっと持ち続けていたのです。ですから、そういう点でも北海道大学大学院環境科学研究科は和田先生の思いにぴったり合った大学院でした。
しかし、大学院に合格が決まり、札幌に引っ越した4月に教員採用試験補欠合格の連絡が入ります。和田先生は悩みました。でも、マクロの規模の生態学が勉強できる大学院で勉強する方を選びました。ようやくやりたい学問と一致したのでしっかり勉強したいと思ったのです。

こうして北海道に行き、大学院生にして初めて一人暮らしを始めます。一人暮らしの学生というと朝寝坊のイメージですが、和田先生は違いました。毎朝5時に起きて近くの森を散歩し、木の種類を覚えたり、野鳥を覚えたりしました。北海道なのでシマリスやエゾリスにもよく出会えました。担当教授は放任主義の人でしたが、その分、先輩たちと毎夜飲みながら議論を交わしました。そして先輩と山登りの調査に行くのでした。修士課程の2年間はあっと言う間に過ぎ、その後どうしようかと思った時に、自然保護協会の職員になろうかとか、ドイツに留学しようかと思いましたが、どちらもダメでした。それで残された選択肢として博士課程の試験を受けた所、合格。その後の研究生活でも、いい仲間に恵まれました。

仲間の一人に砂漠の研究をしている人がいました。ちょうど環境庁(当時)の森林減少と砂漠化解明の研究プロジェクトが進んでいる所でした。日本はバブルの時にインドネシアやマレーシアの木を安く手に入れるのに、現地では多くの森林が伐採されていました。一方、乾燥地では植物の生産を上回る人間の活動で砂漠化がどんどん進んでいたのです。それを食い止めるためのプロジェクトでもありました。和田先生の仲間はそのプロジェクトの一環でインドのタール砂漠で調査をしていたのですが、日本に帰ってきた時に、「なかなかうまくいかないから手伝ってほしい」と和田先生に頼みます。それで和田先生はインドへ2か月間の調査に同行しました。でも、インドについた時にいきなり現地の洗礼を受けてしまうことに。靴の上にわざと牛糞を落とされ、グルの人にそれを磨いてやると言われたのです。白っぽい靴だったし、そのままでは汚いので和田先生は靴磨きを頼もうと思ったのですが、一緒に行った友だちはそれこそ奴らの思うつぼだから、その手には乗るな、と言います。おまけに飛行機に乗る時に、その時の調査に使うネズミ捕り用のトラップが引っかかり、機内持ち込みだけOKということで、膝の上にはネズミのトラップ、足元からは牛糞の臭いが上って来る、そんなスタートになってしまったのでした。

現地の砂漠ではネズミが種子を食べることと植物の回復の関係性について調査しました。最初、ネズミを捕るのにピーナッツを使って罠を仕掛けたところ、なかなかうまくいきません。なぜかピーナッツだけきれいに食べられてしまっているのです。どうしてこんなことになるのか不思議でならなかったので、ある日その仕掛けをしばらく見張っていることにしました。すると、ピーナッツを食べていたのはネズミではなくて、なんと現地の子どもたちだったのです。こりゃいかんということで、子ども達に食べられないように工夫して今度はちゃんと罠にネズミがかかるようにしたのでした。

しかし、インドでの貧困を目の当たりにして、和田先生はこの世界の矛盾についてつくづくと考えることになりました。目の前にはその日の暮らしにも困るような貧しい人々がたくさんいるのに、上空には数百億円単位の戦闘機が轟音を立てて飛んでいく。物乞いの子どもに恵んでやろうとした時も、仲間に叱られます。「一人にやってしまうとあとからあとからキリがなくなる。可哀想だけど、やらないと決めておいた方がいいんだ。」確かにその通りだけど、同じようにこの世に生を受けてなぜこんなにちがうのだろうと無常を感じざるを得ないのでした。私はそれを聞いて芭蕉の野ざらし紀行の「唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け(これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ)」が思い浮かんでしまうのでした。
そういうわけで、いろいろ考えさせられたインドでの調査になったのです。

博士課程での和田先生のメインの調査地は苫小牧の演習林でした。そこに、神岡出身の中野繁先生が研究にやって来られました。中野先生は,河川サケ科魚類の行動生態および群集生態の緻密かつ精力的な野外調査に基づく研究を遂行してこられた方で、生態学の広い領域を結び付ける視座を持って国際的にも活躍されている先生でした。三重大学演習林でのアマゴの研究を契機に生態学の最先端を歩み始め、その後、和田先生もおられた苫小牧の演習林にフィールドを移されたのでした。この中野先生との出会いは和田先生にとって本当に大きかった。中野先生はとてもユーモアのある方で、和田先生のことを大変かわいがってくれました。そして、何より研究に対する真摯な姿勢に心を打たれました。中野先生は、川や森にいる動植物の相互作用について深く研究していました。魚類は必要なエネルギーの約四割を森から得ており、鳥はエネルギーの約三割を川から得ているなど、現地調査を重視して膨大なデータを集めました。そんな中野先生の研究に対する姿勢を間近で見られたことは幸せなことでした。中野先生はその後京都大学生態学研究センター助教授となったのですが、カリフォルニア湾で離島の調査に向かう途中でボートが転覆。37歳という若さで逝ってしまわれました。酒を酌み交わしながら、もっともっと語り合いたかった、和田先生はそう心から思います。けれど、それはもう叶わぬこととなってしまいました。でも、和田先生にとって、中野先生と過ごせた時間は本当に大切な宝物になったことは間違いありません。人との出会いと別れは、本当にせつなくて、そして愛しい。今生きている私たちは、この命をちゃんと使えているだろうか、そう問いかけられているのかもしれませんね。

北海道大学で学位を取得した和田先生は、富山大学の公募に応募し、見事に採用され、28歳で初めて富山に。和田先生が富山大学の助手に決まった時は、神岡出身の中野先生もとても喜んでくださいました。神岡と富山はとても近いですものね。
しかし、和田先生が助手になった頃は、まだ大学も「仕事は見て覚えなさい」という風潮で、中の仕組みを覚えるのには苦労をしたのでした。担当の教授が途中で出ていかれてしまうという予想外の事態も乗り越え、和田先生は33歳で助教授になります。

この頃、和田先生は北極圏のスヴァールバル諸島(ノルウェー領土)でチョウノスケソウの調査を行いました。スヴァールバル諸島は夏でも気温が5℃くらいしかないツンドラ気候。調査に行く時は長い棒を持って歩けと言われました。そうしないとアークティック・ターン(北極アジサシ)という鳥に突かれてしまうのです。長い棒を持って歩くと、その棒の方を突いてくるので大丈夫なのでした。また、流氷に乗るのに失敗して渡りそびれた白くまが残っている可能性があるからライフルも必ず持っていけと言われ、調査に行く時はライフルを担ぎ、長い棒を持ち歩くというフル装備で出かけたのでした。ライフルは最初に撃ち方を教えてもらい実際に何発か撃って練習したのですが、和田先生はすぐに的に命中させました。サッカーといい、本当に運動神経がいいのです。
こうして、和田先生はチョウノスケソウが生えている調査地まで行き、チョウノスケソウが北極圏でどのように種子を生産するのかを調査しました。またチョウノスケソウの向日性も調査しました。

ちなみにチョウノスケソウ(学名Dryas octopetala)がなぜチョウノスケソウというかというと、ロシア人植物学者マキシモヴィッチの助手をしていた須川長之助が立山でこの花を見つけ、後にこのエピソードを知った牧野富太郎(日本の植物学の父と言われる人)が和名をチョウノスケソウにしたのでした。

立山でチョウノスケソウ…というわけで、賢明な読者の方はお分かりかと思いますが、そう、和田先生は立山でのチョウノスケソウの調査も長年に渡って続けていらっしゃいます。今も山のシーズンは週に一度のペースで立山の調査地に登っているのです。本当にタフな和田先生です。

2004年、国立大学富山大学は国立大学法人富山大学になりました。これに先立つ2001年に富山大学極東地域研究センターが設立されます。和田先生は2003年から所属が理学部から極東地域研究センターに移りました。
この頃、環日本海構想の一環として極東地域の研究には熱心に力が注がれていました。センターに移った和田先生には、大陸で仕事をやってくれというミッションがおりました。温暖化で生態がどう変わったかを調べる仕事です。こうして和田先生は中国と北朝鮮の国境にまたがる白頭山(長白山)で調査をしました。白頭山にはチョウノスケソウが生えています。アクリル板で温室を作って、チョウノスケソウの調査をやっていました。しかし、3年やったところで中国政府の意向で調査の続行が出来なくなってしまいました。もう少し継続してやれば結果が出たのに、と思うとこれはとても口惜しい調査になってしまったのです。

2010年からはロシアでも調査を開始しました。気候変動で高山生態系がどう変わるかやロシアの森林における資源量を調査するものです。この調査は今も続いていて、毎年8月になると、和田先生はロシアに渡ります。毎週のように立山に登って調査したり、ロシアに行って調査したり、ライフル銃を持って北極圏で調査したり、と本当にアクティブでスリリングな研究だなぁと感心します。
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ハバロフスクの博物館で、アムールトラとヒグマが喧嘩していたので、森の中では絶対に会いたくないシュチュエーション、やめてくれと猛獣の喧嘩の仲裁に入っている和田先生

しかし、こんな風に調査に出かけ、学生にも丁寧に指導している和田先生なので、目下の悩みは論文をあまり書けていないということです。今まで調査して一生懸命データを取ったものは、全て解析してきちんと論文にして残したい。そして、ちゃんと掲載にこぎつけたい、それが和田先生の楽しみの一つでもあり夢でもあります。論文を書くのが楽しみでそれが夢だってさらっと言えるなんて、かっこいい!

和田先生の他の楽しみは家でお酒を飲んだり、学生とお酒を飲んだり、酔っぱらって歌ったりすることです。バンドでボーカルをやっていらしたくらいだもの。相当お上手なんでしょうね。

研究に情熱を燃やし、好きなことにとことんのめり込む少年のような純粋さを失わない大学教授。お酒に失敗しちゃう学生みたいなところもおありで、とってもチャーミングな先生です。
 これからは立山に登って高山植物を見たら、きっと和田先生の少年のような笑顔が思い浮かぶにちがいないなぁと思った今回のインタビューでした。

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