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今日の人166.毛利勝彦さん [2017年06月10日(Sat)]
 今日の人は、設計事務所を経営され、また建築士としていろいろな設計に携わりつつ、今はアパートの大家さんとしてそこに住んでいるベトナム人留学生たちに日本の親父さんのような存在で接している毛利勝彦さんです。
IMG_5588.JPG
アパートで学生と歓談?している毛利さんビール


毛利さんは昭和27年に3月25日に富山市で生まれました。
小さい頃は泣き虫で、お母さんが仕事で家にいないと泣きべそをかいていたものです。
でも、その頃の日本は子どもがたくさんいた時代で、近所の子どもたちとメンコをしたり、お宮さんの周りを走り回ったり、かくれんぼしたり、いろんなことをして外で遊んでいました。
 小学校に入ってから、中学校までは滑川で過ごします。将来やりたいと思うことは特になかったので、勉強は全くしませんでした。中学2年からは町内の子に引きずられるように、不良グループに。昼から学校をサボって富山の街中へ繰り出し、映画を見たり、大和デパートの屋上で動物を見たり(当時大和の屋上は子どもの遊園地と小さな動物園があったのです)遊んでばかりいました。学校の先生にはこっぴどく叱られましたが、親が呼びつけられるといったことはなく、また毛利さんも親、特にお母さんには心配をかけたくなかったので、警察沙汰になるようなことはしませんでした。お父さんは塗装屋さんだったのですが、道楽者でしたからお母さんはいつも苦労をしていました。だからお母さんを悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのです。その一心から、不良になりすぎることはなかったのでした。

 高校は富山工業高校の工芸科に進みます。高校に入ると、それまでの不良仲間は散り散りになり、特に遊ぶこともなくなった毛利さんは勉強一筋に転じます。そうして1年生の2学期からはずっとトップの成績だったので、卒業時には優良賞を受賞したほどでした。もっとも、自分からそういうことをアピールするタイプではなく、またずっと硬派で通していたので、好きな女の子の家で一緒に勉強していても、結局何も言えないままでした。話し方が滑川弁でそれがコンプレックスになって告白できなかったのかもしれません。

 ロマンスは生まれなかったけれど成績優秀だった毛利さんは、高校卒業後に東京の大手百貨店大丸の室笑内装工部にすんなり就職が決まります。そうして、皇居の内装だったり、船や飛行機の内装だったり、大きな仕事をいくつも任されるまでに腕を上げたのです。女優の今陽子さんのマンションの内装を頼まれたりもしました。東京での仕事はとても楽しかったのですが,毛利さんは長男でご両親が心配なこともあって、4,5年してから富山に帰ってきました。

 富山に帰ってきた毛利さんは、高校で同じ美術部だった後輩と結婚。毛利さんは昔から油絵で抽象画を描くのが好きだったので、市展や県展にもよく作品を出していたのです。60代になって少し時間が出来たのでえ、そろそろ描き始めようかとも思っていましたが、最近はベトナム人学生たちと一緒に釣りに出かけたり、飲んだりしていて、逆に忙しくなってしまったと毛利さん。でも、若い彼らと一緒に過ごせるのはとても楽しいとチャーミングな笑顔でおっしゃいます。こうした小さな、でもとても濃い交流の積み重ねこそ、多文化共生にとって一番大事なことだと毛利さんと留学生を見ていて感じます。留学生にとっても、毛利さんのような素敵な大家さんに出会えたことで、富山が大好きになったにちがいないはずだから。

さて、話を戻します。富山に帰ってきてすぐに入った会社で、毛利さんは大きな洋風建築の設計を頼まれます。当時珍しい素晴らしい洋風建築の建物で、あまりに贅沢な造りだったので、新聞で叩かれるほどでした。
 ヨーロッパ風の建築が好きだった毛利さんはヨーロッパに何度も行きました。そうして、ヨーロッパに行った時に頭に残ったものを描くのが得意でした。

 当時はまだ図面をコンピューターで書ける時代ではなかったので、手書きで図面を書いていました。1分の1の設計図を手書きで書ける人は富山には毛利さんしかいなかったので、本当に貴重な存在でした。まだ会社員の一般的な初任給が6万ほどの時代に、設計料だけで2日で10万もらう程の稼ぎぶりでした。飲みにいくことも多かったし、スキーやゴルフもたっぷりやりました。夜遅くまで仕事をし、その後飲みに行って朝の3,4時まで飲んで、また朝から仕事をするという毎日を送っても元気でした。仕事も遊びも全力投球、それが毛利さんのやり方なのでした。
 実は毛利さんは、お父さんが道楽者でお母さんが苦労したこともあって、お父さんと一緒に飲みに行ったことがありませんでした。しかし、歳を重ねた今は、あんなに反発しないで、親父と飲みに行けばよかったなぁと思うのでした。

 40代で独立して、夢家工房(ゆめやこうぼう)建築設計事務所を設立した毛利さん。独立する前は、主に店舗の設計が多かったのですが、独立してからは住宅の設計も数多く手がけました。経営も順調だったのですが、独立後10年程経ったある日、屋根の上から落下し、頭を強く打ち付けるという事故が起こります。あたりは血の海になりました。脳挫傷でクモ膜下出血を起こし、そのまま逝ってしまってもおかしくない状況でしたが、奇跡的に一命を取りとめました。1か月入院し、体にしびれもあまり残らなかったのは幸いでしたが、仕事に戻ってから愕然とします。今まではどんなにたくさんの仕事が重なっていても、同時並行でたくさんの仕事をこなせていました。10くらい仕事があっても平気だったのに、2つくらい仕事が重なっただけで、もう頭が働かなくなるのです。自分が情けなくて、どん底に落ちた気分でした。大好きだったお酒も飲まなくなりました。そんな状態が3、4年続いたでしょうか。少しずつ仕事もできるようになってきて、またお酒も飲めるようになってきました。

 そんな頃に、毛利さんが大家をしているアパートにベトナム人の留学生たちが入居してきたのです。不慣れな異国の地でさぞかし不自由な思いをしているだろうと彼らの世話をあれこれ焼いているうちに、一緒にお酒も飲むようになりました。なにしろベトナムの留学生たちはみんなで集まってワイワイ飲むのが大好きです。元来、そういう楽しい場所が大好きな毛利さんはベトナムの学生たちと飲むのがすっかり日課になりました。居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲む酒と違って、彼らと飲む酒はすごく楽しいのです。今の彼らの姿は、エネルギーにあふれた高度成長期の頃の日本人の姿に重なる部分があるのかもしれませんね。
そして、毛利さんのアパートでの外国人学生たちと近所の方々との付き合い方もとっても自然なのです。いつも学生たちのことを気にかけていろいろ相談にも乗ってあげている近所のおじさんは、学生たちからおじさんおじさんと慕われていますし、いつも畑で採れた野菜を持ってきてくれるおばさんもいます。国際交流とか多文化共生って声高に言わなくても、こんな風にごく自然に日本人と外国人がご近所付き合いできる関係ってとてもステキです。

 60代後半になった毛利さん、昔のように仕事も遊びにも全力投球というわけにはいきませんが、マイペースでやっていけたらいいと思っています。時間のある時は、映画を見たり、留学生を連れて釣りに行ったり飲みにいったり、とても有意義に時間を使っていらっしゃいます。
まとまった時間が出来たら、またヨーロッパもゆっくり旅行したいし、学生たちに案内してもらってベトナムを旅行するのも楽しみにしていることのひとつです。  

工業高校の美術部の仲間との美術展にも今年は久しぶりに出展しようと思っています。時代を重ねた今、毛利さんはキャンバスにどんな世界を描くのでしょうか。
留学生たちと一緒に毛利さんの美術展を見に行くのを楽しみにしていますね。
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