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今日の人153.新石友美さん [2015年12月05日(Sat)]
 今日の人は富山市婦中町の自宅サロンで「やすらぎサロン ここち鳥」を開いていらっしゃる新石友美さんです。友美さんは、さとう式リンパケアや筋ゆる体操で体のコリをほぐしてくれるだけでなく、スキルリーディングやメンタルセラピーで心のコリもほぐしてくれています。(1月からフォーカシングセラピーも始められる予定だそうです。)
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 友美さんは昭和53年に富山市で2人姉妹の長女として生まれました。おとなしい性格で家の中でぬいぐるみを使っておままごと遊びをしているのが好きな子でした。でも、ただおとなしかったわけではなく、幼なじみの3人グループでケンカをしても、自分が悪くないと思ったら、向こうが謝ってくるまで絶対に謝らないという頑固さがありました。

 幼稚園から小学校にかけて運動が苦手でした。体も強くなかったので朝礼で倒れることもよくありました。それでも、帰り道で柿やグミを取って食べたり、栗を拾ったり、ゴム飛びやかくれんぼをしたり、一通りの外遊びもやっていました。特に将来の夢はなかったのですが、書かなきゃいけないので仕方なく書いていたのが「幼稚園の先生」でした。幼稚園バスに乗りたいというのがその理由でした。

 そんな友美さんを突然の不幸が襲います。小学校3年生で大好きだったお父さんが亡くなったのです。友美さんのお父さんは白血病の寛解期でした。数値上では白血病細胞はほぼ消滅した状態でした。もうこれで大丈夫、そう思っていた矢先のことでした。お父さんは整体院に行って、整体師の施術によって下半身不随になってしまったのです。施術中に強烈な痛みを覚えたお父さんは「救急車を呼んでくれ!」と絶叫したそうです。それなのに、そのまま放っておかれ、次の日病院に行くと、「なぜこんなになるまで来なかったんだ!」と言われたそうです。そうして下半身不随で病院に入院中、これまた突然、脳卒中にて手術になったのですが、手術が終わって戻ってきたら、意識も戻らずその日のうちに亡くなってしまったのです。

 本当に突然のことでした。そして当時友美さんには一切お父さんの死因のことは知らされませんでした。後日、家族はその整体師を訴える裁判を起こすのですが、その裁判資料をこっそり見て、なんとなく子どもながらに事の次第を知ったのです。でもそこに書いてあることだけでは、分からないこともたくさんありました。

 大好きなお父さんが突然亡くなった。けれど、友美さんは自分の悲しみを外に出すことができませんでした。妹の前ではお姉ちゃんの私が泣いてはいけない、母や祖母が大変な中で迷惑をかけちゃいけないと、お葬式の時でさえ涙を流すことができなかったのです。

 お父さんは一人っ子でした。ですから同居の祖父母からすれば、一人息子が亡くなったことは大きなショックでした。祖父はもともと祖母に手を上げる人でしたが、それがますます顕著になりました。 しかし祖母は「子どもたちを頼む。子どもたちが結婚、子どもを産むくらいまで生きていてほしい。」と入院中の父から頼まれていたので、死にたいくらいの思いも我慢しました。ただ、祖父が手を上げた時に、決まって祖母は「そんなことしとるから友美が泣いとるよ!」と言っていました。 ただ怖くて泣いていましたし、祖母から言われ泣いている自分を見ると祖父が暴力をやめるため、自分が泣くことで暴力を止めたいという気持ちもありました。
ですから、友美さんは今でも男の人の怒声を聞くと反射的に涙が出てきてしまうのです。

 転んだらすぐ泣いてしまう位だった友美さんが、お父さんのお葬式の時には泣けなくて、すごく冷静に周りを見ていました。家族から言われ、小3で遺影を持って1人で霊柩車の助手席に乗った友美さんは、そこからどこかに自分の感情を置いてきてしまった、そんな感覚がありました。

 そうして、人見知りだったのに班長になったり、変にしっかりしなくっちゃと思っていました。しっかりしなくちゃと思いながら、体が弱いので集会の時には倒れるのです。

 中学に進学すると、もっと健康になりたいとの思いでバスケ部に入りました。練習はきつくずっと補欠でしたが、この3年間で倒れなくなりました。2つ上の女子の先輩が超かっこよくってキュンキュンしながら応援していました。

 14歳の挑戦の時は、保育園の先生をやりました。昔から夢の欄には仕方なく書いていた「幼稚園の先生」でしたが、やってみると、「あ、私この仕事嫌いじゃないな」と思ったのです。

 中学生くらいから、友美さんは天然パーマがひどくなりました。年子の妹は肌の色も白くて髪もサラサラだったので、ますます自分に自信が持てなくなり、とてもおとなしかったのです。

 そして自信のなさに拍車をかけたのがお母さんやおばあさんの言葉でした。お母さんは決して友美さんのことをほめてくれず、逆に友美さんがコンプレックスに思っていることを指差して笑ったりすることがありました。おばあさんもものをはっきり言う人でしたが、友美さんと通じてお母さんに言うようなところがありましたから、友美さんはますます周りに気を遣って言いたいことも言えずに過ごした少女時代だったのです。

 友美さんが美術の時間に書いた絵に「私は心配性」という印象的な絵がありました。美術の先生にも心配性の様子がとてもよく描けているね、と褒められるくらいでしたが、実際友美さんはとても心配性でした。お母さんが旅行に行っても帰ってくるまではずっと心配でした。きっと根底にはお父さんのようにお母さんまで突然いなくなったらどうしようという思いがあったのだと思います。

 高校に進学すると、そこは中学校の仲良しの友達が一人もいない高校でした。誰一人知らず落ち着かない、そんな中で友美さんを救ってくれたのは新しく入った吹奏楽部で出来た友だちでした。友美さんはクラリネット部門に入り、1人では出せないハーモニーを奏でられることに感動を覚えたのでした。

 しかし、高校生活は思った以上に友美さんにとっては過酷なものでした。もともと体が丈夫でないのに、通学がハードだった上に、ここに来て、父の死のことをなぜちゃんと教えてくれないのだろうというモヤモヤが積み重なり、かつ家の中もバラバラでだんだん不安定になっていきました。

 友だちに心のモヤモヤを打ち明けたいと思いましたが、中学生の時に「あなたよりつらい人はいるよ」と言われたことがトラウマになっていて、言いたいけれど言えない、電話をかけても言葉が出ない、ということが続き「キモイ」と言われたりもしました。そんなモヤモヤした思いが積み重なって、友美さんの心は耐えられなくなり、どうしようもなくなって、気が付くと包丁を握っていたのです。死ぬつもりはなかったのですが、とにかくこの苦しさに気付いてほしかった。けれど、包丁を握りしめた友美さんを見てびっくり仰天した母と祖母に、精神科に連れていかれてしまったのです。地べたで泣きわめいて言葉にならなかった友美さん。視野がモノクロになってふわふわしながら歩いていました。学校に行けない時もありましたが、それはちょうど補習期間の間でした。新学期からは学校に行かなければなりません。行きたくなかったけれど、行かなかったらずっと行かなくなるのはわかっていました。それで、無理をしながらも学校にはちゃんと通っていました。

 病院に通いながら通学していた友美さん。病院に通い始めてからずいぶん経ってから、精神科の先生に「何か悩みはあるの?」と聞かれた時に、家族のことで悩んでいることは言えなかったので「学力のことが心配なんです」と本心を隠して言っていました。 すると先生は「何を言ってるんだ。だったら看護師にでもなってみろ。そうしたら、うちで雇ってやるよ。」と強い口調で言いました。友美さんは思いました。そんな風に言われるのは腹が立つ。でも看護師になれば、父の死のこともちゃんとわかるかもしれない。看護学校ならお金もあまりかからないし、家族に負担をかけずに済む。そう思って、看護学校を受けることにしたのです。

 こうして看護学校に進学した友美さん。勉強は思った以上に大変でしたし、あんたには向いていないからやめられと言われたこともありました。けれども友美さんには強い思いがありました。お父さんの最期には寄り添えなかったけれど、亡くなる前の人たちに寄り添っていきたい!時には自信を失いつつも、それが頑張るモチベーションになりました。

 しかし、友美さんはこの間、交通事故に2度遭い、むち打ちで手のしびれや首のしびれがひどすぎて、卒業してすぐに看護師にはならず、1年間フリーターをして過ごしました
 そして1年後、総合病院で看護師として働き始めました。亡くなる前の人々に寄り添った看護がしたい、そう思っていた友美さんでしたが、配属されたのは急性期の病棟でした。あまりに死が多い現場、しかもゆっくり寄り添えるそんな余裕がない現場で友美さんは次第に追い詰められていきました。そんな時、肝炎で入院。これで糸が切れた状態になり、うつっぽくなって、高校の時とは別の精神病院に通うようになりました。

 そんな中、フリーター時代に知り合った人と、結婚。寿退社で最初の病院は2年半でやめました。一人暮らしの経験がなく、いきなりの結婚生活。しかも家を建てたこともあって、次の病院ではハードな勤務を続けました。16時間ぶっ続けで働くこともあったのです。そんな勤務が1年続きました。ここは患者に寄り添った病院じゃない。そんな思いが強くなり、食べられない、寝られない、人に会えない、でも1人でいられない、そんな状態になり、その病院も辞めざるを得なくなりました。

 そうして、再び自らが通院することに。しゃべれない状態だったので、自分の思いをメモに書いて病院に行きました。そこの先生は友美さんの話をちゃんと聞いてくれる人でした。この先生の言うことを信じてみよう。人と会えるようになって、また働けるようになるかもしれない。しかし、それでも突然不安が襲ってきます。そんな不安発作の時に、休みで友人と出かけていた旦那さんに電話をすると、それ以来口をきいてくれなくなりました。そしてお義母さんから、息子を1人にさせてほしいと言われ、別居することになりました。
大事な人に拒絶されるような人間なんだ…。大切な人は私から離れていく …。

 そんな思いを抱えたまま離婚。でも、そこで引っ張り上げてくれたのは、友人のお母さんから紹介してもらった方たちでした。
ちゃんと相手にありがとうを言ってから別れないといけないよと、恨みが残らない形で別れることができたのです。

  離婚して少し経ったくらいの頃に精神科の先生から、「もう病院にこなくていいよ。卒業です。」と言われ、減らしていっていた薬も完全に飲まなくてよくなりました。 友美さんは身体のことも考え、介護施設の日勤の仕事を探し、勤め始め、その仕事にやりがいを感じるようになっていました。その頃、スキルリーディングにも出会いました。自分のことを知りたい。そしてスキルリーディングを学んだら少し楽になったのです。

 実は友美さんが別居している頃に出会った同じくらいの年の女性が、うつがひどい時にクスリを飲んで亡くなってしまったということがありました。その子と自分を分けたものはいったいなんだったんだろう。自分もうつがひどい時は、 どっちの窓から飛び降りようかと思ったりと、衝動的に思うこともありました。でも、私は生きている。

 自分にはまわりに友人がいた。新しい場所へと誘ってくれる人がいた。でも、彼女にはそんな人や場所がなかったのかもしれない。自分の心が許せる場さえあったなら…。

 そこから友美さんは、悩んでいる人が少しでも心のうちを話せる場所を作りたいと思うようになりました。自分自身がうつを何度も繰り返した後にたどり着いた思いでした。

 そこからは看護師の仕事をどんどん減らしていって、心の勉強を始めました。産業カウンセラーの勉強も始めました。そうして離婚して5年後、今の旦那さまに出会います。

 初めて会った人なのに、離婚やうつだったことを話せた人は初めてでした。彼もまたバツイチで、うつの奥さんをずっと支えていた人でした。でも支えきれずに別れたことで、どこか自分を責めている所がありました。まだ友美さんの中には、大事な人から拒絶されるのではないかという思いも残ってはいましたが、それよりも彼のことが気になる気持ちの方が強くなって、自分からお茶に誘いました。彼もまた友美さんと一緒にいる時間に安らぎを感じていました。しかし、2人ともそれ以上先には進めずにいました。

 そんな時、友美さんは友人の薦めもあって「てんつくマン」の合宿に参加します。実はこの合宿、私も参加していたのですが、自分の過去に対峙し、それを許して未来に向かう、ものすごく濃い時間でした。みんなボロボロ号泣だったのですが、友美さんも昔泣けなかった分、余計に大泣きでした。そして、「お父さんの分も幸せになってね」ではなく、「お父さんよりも幸せになってね」と言われたことで、自分の中でつっかえていた何かが流れていく気がしました。

 そうして、その合宿からの帰り道に、今この時じゃないと絶対に後悔する、と、彼に電話をかけたのです。泣きながら思いのたけを話しました。お互いに自分は幸せになってはいけないという思いがあり、身を引こうとそれぞれが思っていたことが分かりました。でも、お互いの心の奥の気持ちに従ってみようと話し合ったのです。そうして、2人は再婚することに決めたのです。

 その後、幸せに暮らしていた友美さんでしたが、体がだるくて仕方がなくて病院を受診したときに、バセドウ病が見つかります。不妊治療をしようとしていた矢先でしたので、本当にショックでした。バセドウ病は甲状腺ホルモンの働きが活発になりすぎて、じっとしていても走っている時のような状態が続き、非常に疲れやすくなったり、不安定になったりします。なんでこんな思いをしなくちゃいけないのかなぁ…。絶望的な気分になったりもしました。けれど、諸富義彦さんの本に出会い、今の症状は今の自分へのメッセージなのだと思うようになりました。脈が速いのは焦らなくてもいいんだよ、と言われている気がしました。

 一生に一度きりの人生。 いつか、と言っていたら、限りある人生どうなるかわからない。今やれることを自分のペースでやっていこう。そう思いました。嵐が好きで時にコンサートに行き、旅行が好きで、自然の中でぼんやりすることが好きで、そんな自分の「好き」を愛おしく感じていきたい。そんな時に、さとう式リンパケアにも出会います。事故等の後遺症もありずっとあちこち痛くて、いろいろ通っていたのですが、近所でリンパマッサージをやっている方の所でさとう式リンパケアのことを知りました。今まで いろいろやってきて、一時的に緩和されてもまた出てくる痛みが、筋ゆるケアをするとすっと楽になりました。ああ、私の探していたのはこれだ!と思って、自分もすぐにさとう式リンパケアのインストラクターの資格を取ります。思い立ったときの友美さんの行動力には本当に脱帽です。自分自身が筋ゆるケアで楽になったので、同じように苦しんでいる方を少しでも楽にしてあげたい!友美さんからはそんな一途な思いを感じます。

 ケアをしていてお客さんの力の抜けた顔を見ているとこちらが幸せな気分になると友美さん。「父が生きていたら私の人生はどうなっていただろう」とずっと思っていたけれど、今はこれはこれでいいや、そんな風に思えるようになったのでした。自然に逆らわずに無理せずに生きていこう。そして自分自身も周りの人も「ここちよい」と思えるそんな時間を過ごしていこう。

 今日も「やすらぎサロン ここち鳥」では、友美さんの優しくほんわり包み込んでくれる笑顔に出会うことができます。皆さんもホッとしたい時、ぜひ友美さんの笑顔に出会ってみてください。
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