CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«今日の人145.神谷 哲さん | Main | 今日の人147.荒木真理子さん»
<< 2017年10月 >>
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
カテゴリアーカイブ
最新記事
月別アーカイブ
最新コメント
宮田妙子
今日の人149.河除静香さん (09/24) 橋本桂
今日の人149.河除静香さん (09/08) 高木敏夫
今日の人123.高橋太郎さん (04/14) 大太
今日の人4+.森本耕司さん (07/17)
今日の人146.林敦也さん [2015年06月10日(Wed)]
 今日の人は、NPO法人富山ダルクリカバリークルーズ代表の林敦也さんです。薬物依存症のリハビリ施設として、平成20年からさまざまな活動を続けてきた富山ダルクが今年の5月1日からNPO法人となり、新たなスタートを切られてほやほやな時にインタビューさせていただきました。
富山ダルクの活動についてはこちらのホームページをぜひご覧ください。
http://toyama-darc.jimdo.com/
11391781_841888225886140_5492394712709444285_n.jpg
ダルクの仲間と一緒に
向かって左が林さん
 
 林さんは1974年8月2日に愛知県瀬戸市で生まれました。小さい頃は泣き虫でしょっちゅうお漏らしをしていた男の子。自分の部屋から布団をもってきて、親の間に寝るのが好きな寂しがりやでした。でも、目立ちたがり屋でもありました。暗くなるまで近くの森を探検したり、遊具で遊んだりして過ごしていました。もっぱら外遊び派だったのです。
寒くても半袖・短パンの体操服で登校しているような子で、ずっと目立ちたくて小学校でも悪ふざけはしょっちゅうしていました。けれど、同時にクラスで学級委員はやっていて、先生にはかわいがられていました。ただ、学級委員はやるけれども、児童会や生徒会の役員にまでにはなりませんでした。目立ちたい、でもそこまでの度胸はない、そんな子ども時代でした。

 林さんには1歳年上のお兄さんがいて、何かにつけてこの兄と比較されました。それが本当にイヤでした。なんでも最初に興味を持ってやり始めるのは弟の敦也くん。けれども、後からお兄さんもそれをやり始め、敦也くんよりうまくなってしまうのです。習字は習い始めで一週間でやめました。お兄さんは後から始めて、すっかりうまくなりました。ピアノも最初に始めたのに、その後お兄さんが習い始めて、自分よりうまくなりました。スイミングも自分から始めて一番上のクラスまで行ったのに、それでもお兄さんに抜かれてしまいます。一事が万事そんな調子で、「お兄ちゃんができるなら、あなたもできるでしょ!」と言われるのが本当にイヤでした。両親のお兄さんに対する目は暖かく、自分に対する目はとても冷たく感じました。小さい時は両親の間に寝ていた甘えん坊少年だった林さんには、お兄ちゃんと比べて自分は認めてもらえていないという思いがあって、本当につらかったのでしょう。小3のある日、包丁を持ちだしてお母さんに泣きながら訴えたことがありました。
「なんでお兄ちゃんばっかり!」
けれど、帰ってきたお父さんにこっぴどく怒られました。『僕の思いは伝わらない』そんな悔しさばかりが心に残りました。

 4年生になると少年野球チームに入りました。当時キャプテン翼が流行っていたこともあり、本当はサッカーをやりたかったのですが、お父さんが野球好きでサッカーをやらせてくれませんでした。そしてどういうわけか、広島の真っ赤な帽子を買ってくれました。愛知なので、当然中日ファンが大勢を占める中での真っ赤な帽子がすごくイヤでした。同じく野球をやっていたお兄ちゃんは阪神の帽子で、そっちの方がかっこよかった。それでも、買ってくれた帽子をかぶらないわけにはいかず、とても複雑でした。
 左利きでファーストのポジションを守っていた林さん。運動神経もよく、性格も明るかったので、きっとキャプテンに選ばれるだろうと思っていました。自分の中にはその自信がありました。新キャプテンは6年生と指導者とで選ぶのですが、選ばれたキャプテンと副キャプテンには自分の名前がありませんでした。その時のショックは今でも忘れられません。それだけ自信があったのです。「ああ、僕はみんなに認めてもらっていないんだ」そんな疎外感ばかりが残りました。

そういう諸々があって、家族4人で食卓を囲むのは嫌いでした。4人でいると、絶対に兄と比較される話になるからです。だから、その時間を避けて家に帰るようになりました。

お父さんは自営業で、家の隣に工場があったので、常に顔を合わせている家族でした。上述したように、やりたいと言ったことは、なんでもやらせてくれるご両親。けれど、林さんには不満がありました。どうせなら、ブルーカラーじゃなくて、ホワイトカラーのお父さんがよかった。毎日スーツを着て颯爽と会社に行く、そんな姿がかっこよく思えたのです。

小学校の卒業文集に書いた夢は「将来札束の上で寝ていたい」というものでした。その頃の卒業文集にありがちだったのが「みんなが選ぶクラスの○○ベスト3」例えば、面白い人ベスト3とか、頭のいい人ベスト3とかを選ぶのですが、それらのベスト3には、必ず林さんの名前が入っていました。目立ちたい、注目されたい、という林さんの気持ちはある程度は満たされつつも、しかし、どこか満たされていない、そんな複雑な思いを抱いて中学校に進学します。

中学校では野球部ではなく、卓球部に入りました。5年の時、もし少年野球チームでキャプテンに選ばれていたら、そのまま野球部に入っていたかもしれません。でも、選ばれなかった時点で、そんな気持ちはすっかりなくなってしまっていたのでした。卓球部は上下関係もあまりなくてとても楽でした。

部活は楽でしたが、中学校では周りのみんなが急に成長し始めて、自分だけが変わらずに置いてけぼりをくらっているそんな焦燥感が芽生えました。林さんは背が低いのがイヤで、小学校の時から友だちの分をもらって、毎日6本も牛乳を飲んでいました。それでもちっとも背が伸びず、勉強にもついていけなくなりました。友だちがどんどん自分から離れていくような気がしました。自分は小学校7年生になったくらいの気分でいるのに、周りの人は全然ちがう。なんとか自分の存在感を示そうと林さんが取った行動は、不良っぽい格好をすることでした。ダボダボのズボンを履いて、学生服は長くして、かばんはぺったんこにして、当時の不良少年がよくやるそんな恰好をするようになっていきました。

そうして中1の夏休み。コンビニの駐車場で友だちとたむろしていた時のことです。先輩がそこにやってきました。あきらかに様子がおかしくてやばいと思いました。先輩は服で隠しながらシンナーを吸っていたのです。先輩は「お前らちょっと来い」と林さんたちを呼びつけました。そうして、これを吸ってみろ、と言ったのです。
瞬時にいろんなことを考えました。こんなものやったら頭が悪くなるにちがいない、正直やりたくない。けれど、これを断ったら、この先の中学3年間、目をつけられて何を言われるかわからない、先輩に嫌われたくない。そうして思ってしまったのです。

「1回くらいなら」

15分くらいシンナーを吸っていると、頭がボーっとしてきました。そうして、不思議なことに今まで抱えていたストレスや不安がすうっと消えていったのです。その感覚がひどく居心地がよかった。一回目に吸った時に、吐いて苦しい思いをした人は、もう二度とやらなくなる可能性もあります。けれど、林さんは一回目からとても気持ちがよかった。ああ、これは素晴らしいものだ、そんな感覚になってしまったのです。気付いたら、近くの公園に袋を持って一人だけ残されている自分がいました。もう他のみんなはいなくなっていた。それすら全く気付いていませんでした。

今まで自分の言葉に蓋をしていた。「どうせあなたは」そう言われるのが怖かった。誰に対してもいい格好をしたくて、誰に対しても愚痴を吐けない自分だった。いろんなものが体中に詰まって息をするのが苦しかった。でも、シンナーを吸うと、それがすう〜っと消えてしまったのです。林さんの中から、これはやってはいけないものだ、という思いはすぐに消えてしまいました。

最初のうちは1〜2週間に1回、先輩がシンナーを持ってきてくれたときだけ吸っていましたが、そのうちそれでは我慢できなくなってきました。やるとイヤな気持ちがなくなる、でも、覚めると現実のストレスを感じる、その感じ方は以前よりも強くなっていきました。「クスリがほしい」とうとう、自分から先輩のうちに直接もらいに行くようになったのです。先輩のうちはペンキ屋でした。ですから、シンナーを手に入れるのは容易でした。

それでも最初のうちはまだコントロールできました。でも、中3になると、もう学校よりもクスリだという思いが強くなって、学校に行かなくなりました。お兄ちゃんは生徒会の役員もやって、吹奏楽部の部長も務めた人でした。家に帰ると、ますます兄と比較されるのが苦痛になり、夜中の12時くらいに家に帰り、親と会わないようにしていました。先輩の家にいれば、シンナーを吸いながらいろいろ話せる。自分のことをわかってくれるのはこの場所だけだ、シンナーを吸う、その場所が林さんにとっての唯一の心許せる居場所になっていたのです。

中3の最後の頃は、もう家にもシンナーを持ち帰って自分の部屋でも吸うようになっていました。匂いで周囲にも気づかれていたのは明白でした。
それでも、親に高校だけは行ってくれと言われ、面接試験のみの私立高校に入ります。しかし、高校に行くふりをしてクスリを使ったり、しまいには学校内でもシンナーを吸うようになっていました。もちろん、気付かれないはずはありません。そして、高校は退学になりました。

この頃は1日に500mlものシンナーを吸う日々でした。16歳で暴走族に入り、副総長にもなりました。大人の言うことを聞いていない自分たちに酔っていました。

17歳、彼女と一緒に実家に住んでいました。でも、学校も行かずに昼間っからクスリを使っている息子を人目にさらすのを両親は嫌がりました。自営業なので、そんな息子の姿を周囲の人に見られるのを避けたかったのでしょう。両親は林さんのためにアパートを借りました。自分は自分の部屋にいたかったのに、両親が追い出したのだから、アパート代を払うのも当然両親だ、そう思ってアパート代も親に出させました。
こうしてアパートに住むようになると、うるさく言う人は全くいなくなり、ますますクスリに溺れていきました。彼女と仕事はしなくちゃいけないね、と話し、彼女は昼間は料理屋で働き、林さんは実家の仕事を手伝いに行くといいながら、実際は全くやっていませんでした。そのうち、彼女は愛想を尽かして出て行ってしまいました。一人ぼっちで泣きながら、一晩中シンナーを吸い、覚めてる時は暴走族で走り、仲間と夢は語っているけれど、やっていることはクスリを使っているだけ、そんな日々が過ぎていきました。

食べるものが底をつき、ご飯と具なし味噌汁だけ、そんな時もしょっちゅうでした。けれど、親に泣きつくと、結局親はお金を出してくれるのです。今度こそクスリを辞めるからと数えきれないくらい親に言っている、そうして、今度こそ辞めてくれるだろうと数えきれないくらい親は信じる。この悲しい連鎖が延々と続くのです。林さんは実に6台もの車を事故で廃車にしています。ケンカもしょっちゅう。その尻拭いは全部ご両親がやってきました。親はこうなってしまったのは私たちのせいだ、と自分を責め、そして子どもを許してしまう。こんな悪循環が今もどこかで繰り広げられているのです。

18歳、とうとう林さんは幻覚が見え、幻聴が聴こえるようになりました。風の音が「お前なんか早く死ね」と言っているように聴こえ、粗大ごみ置き場から拾ってきたスロットマシンに描いてあるバニーガールが飛び出してきて、林さんの上に乗っかって首を絞めてくるのです。怖くなって、スロットマシンを焼くと、今度はグニャグニャになったバニーガールが襲いかかってきます。一人で絶叫している林さんはついに精神病院に行くことになりました。しかし、ここからまた新たな薬物中毒が始まっていくのです。

眠れない、と言った林さんに処方された睡眠薬。最初は1錠でした。しかし、その量がちょっとずつ増え、なんと朝昼晩それぞれ18錠ずつという大量の睡眠薬を飲むようになっていったのです。医者はいとも簡単にその薬を処方してくれるのです。これでは処方薬による薬物中毒者が増え続けるはずです。

こうして、シンナーと睡眠薬を乱用し、ますます林さんの生活は荒れていきました。
19歳になったらやめよう、そう決意してもやめられませんでした。
20歳、今度こそは!…やめられませんでした。

 林さんは開き直りました。もう家族にも見放されているんだ。とことん使い続けてやろう。
何回も精神病院に入院しました。長い時は半年も。でも、元気になって出てくるので、また使ってしまう。

 そんな日々の中で衝撃的な出来事がありました。その日、直前まで一緒にクスリを使っていた彼女が、マンションから飛び降り自殺をしたのです。彼女にクスリを教えたのは林さんでした。言葉には出さないけれど、彼女の家族の視線は娘が死んだのはお前のせいだと責めていました。いたたまれなかった…。
 クスリのせいで自分の体が壊れていって、クスリのせいで彼女をなくし、友だちからも責められる。クスリを恨みました。

 そんな時、ある友だちが覚せい剤を持ってきました。なんとかして早くこの苦しみから逃れたかった。
21歳。とうとう覚せい剤に手を出しました。まるで自分がスーパーサイヤ人になったかのような感覚。幸せ感でいっぱいで、悔やんでなんかいられないぜ、という思いになりました。俺が望んでいた幸せはこれだ!…そして自分の意志では何にもどうにもならない状態になっていったのです。当然、やくざな友だちもできました。もう暴走族は引退していたので、クスリつながりの人間関係しかありませんでした。被害妄想はますます激しくなり、赤信号がパトカーのランプに見えました。食べても吐く、飲んでも吐く。点滴だけで生きている感じでした。それでも覚せい剤はやめられなかった。体重は40キロまで落ちました。

 23歳。お父さんから、「仕事もやらないし、そんなことばっかりやっているなら死んでしまえ」と言われます。「やっぱりな。俺なんか生きていても仕方がない」親の前で大量にクスリを飲んで気絶をした林さん。結局死ねと言った親に救急車を呼ばれて病院に運ばれ、胃洗浄をされて一命をとりとめます。でも、クスリをやめられない。
この苦しみから逃れたくて自殺も何回も図りました。けれども、首をつろうとしたときに、死んだらもう薬をつかえないんだという気持ちが出てきたり、森で首つりをしようとした時は、やぶ蚊にたくさん刺されてハッと我にかえったり、そんなことの繰り返しだったのです。

そこまでボロボロになりながらも、自分は弱い人間なのだ、ということを人に言えなかった。かくしてきたものは小さいころからかわっていない。自分の弱さを見せてしまうと自分は生きていけない。そんな思いがずっと心の中にあったのです。

25歳。とうとう精神病院の保護室に入れられます。1週間、ベッドに手足を縛られ、紙オムツをはかされ、身動きできず、朝か夜かもわからない部屋で過ごしました。
終わったな…、そう思いました。俺は何のためにクスリをやってきたんだ?何のために生きてきたんだ?そんな絶望感の中にいながら、一方でここではどうしたってクスリは打てないよな…、そんな安心感を抱く自分もいたのです。
その後の2週間は手足の拘束は解かれたものの、保護室に入れられた状況は変わりありませんでした。コンクリート打ちっぱなしで、鉄格子があり、トイレも部屋の中。しかも、汚物を自分で流すことさえ許されない、刑務所よりも人権を無視され部屋の中で過ごしたのでした。

精神病院を出た後、実家に戻った林さん。そこで何人もの友達がクスリのせいで亡くなっていることを聞かされます。それでも、クスリに頼ってしか自分は生きていけないのだ。
けれど、林さんはヤクザにさえ「お前にはもうクスリは売れない」と言われてしまいます。そうして「お前、ここで働け。」と現場仕事を紹介してもらったのです。あまりに痩せこけた林さんを見て、これ以上覚せい剤を使わせると死んでしまうと思ってくれたのでしょうか。けれど、すでにボロボロになった体では、現場仕事などとてももたず、すぐに辞めてしまったのです。

家に帰った林さんでしたが、ご両親は家に入れてくれませんでした。林さんの荷物は全部外に放り出されていました。ここに至って、ご両親は腹を決めたのです。
「これはあなたの人生だ。あなたの人生だから、全部自分で選んで生きていきなさい。」
そうして、決して家には入れてくれませんでした。
26歳。初めて自分ですべてを決断しなくてはならなくなったのです。

2週間、路上生活をしました。俺には何がある?何もない。全部ない。
13歳の時、ただ友だちを失いたくなかった。
26歳、一人ぼっちで誰からも相手にされない自分…。もはや泊めてくれる友だちも一人もいませんでした。
みじめでたまりませんでした。でも、このままでは生きていくことはできない…。
2週間後、実家に戻りましたが、やはり家に入れてくれることはありませんでした。でもその時にダルクを紹介してくれたのです。ご両親はどんな思いでいらっしゃったでしょう。ただただ息子の回復につながるように、必死で探した場所、それがダルクだったにちがいありません。家に入れなかったのは、ご両親の精いっぱいの愛情でした。もし、そこで家に入れていたら、林さんはダルクに行かなかったにちがいありません。

 こうして、茨城ダルクに入った林さん。初めて茨城に行った時、茨城ダルクの代表がハグしてくれた時のことは忘れません。ハグしてもらった時、クスリを使った時と同じくらい安心しました。気持ちがラクになりました。もちろん、クスリを抜いていく道は簡単なものではありませんでした。それまでクスリの快楽しかしらなかったし、自分が責任を持つことは何らやってこなかったのですから簡単なわけはなかったのです。

依存症になった人で、そうなりたいと思ってなった人なんて誰一人としていないのです。ダルクでは回復プログラムとして、午前1.5時間、午後1.5時間のミーティングの時間が毎日あります。そこでそれぞれが自分の思いを吐露していくのです。悲しかったこと、つらかったこと、仲間が話を聞いてくれて、仲間が共感してくれる。ああ、自分と同じ気持ちを持っている人がいる。上からものを言うのではなく、対等に考えてくれる人がいる。それで自分でさえ気づいていなかった感情とも向き合えるようになってラクになっていける。

そうして、ダルクに来て、3〜4か月たって、とうとう林さんは白旗をあげました。それまで突っ張って生きてきた自分に対して。そして重かった鎧を外したのです。不安は不安でいいじゃないか。不安を隠して生きなくてもいいじゃないか。孤独が一番怖かった林さん。でも、ダルクでは孤独にならずに済む。つらい部分を含めていろんなことが共感できる。そして、ここに来て初めて、本当にクスリを止めた人に出会えた。ああ、いるんだ。クスリから離れることってできるんだ。

9か月過ぎた頃には、なんとか普通の暮らしもできるようになっていました。体力も戻ったので、米屋でアルバイトをして、3か月で60万円貯めた林さん。しかし、まだ考え方が変わったとは言えず、このまま外へ出ていくのは危険だなと感じました。そんな時に、代表に言われます。「お前、その金でサンディエゴのNAのコンベンションに行ってこい」と。
NA(ナルコティクス アノニマス)とは、薬物依存からの回復を目指す薬物依存者の、国際的かつ地域 に根ざした集まりのことです。富山ダルクの午後のミーティングはこのNAのことです。世界116カ国以上 で、毎週33,500回を越すミーティングが行われています。

代表にそのNAのコンベンションに行ってその金を使ってこい、と言われた林さんは、実際にその言葉通り、そのバイト代でアメリカサンディエゴへ飛び、そこで衝撃を受けることになったのです。

 そこには世界中の薬物依存者が集まってきていました。彼らは、自分たちよりはるかに堂々と生きていて、笑顔で「僕は○○依存だよ」と明るく言ってる。そして、とても魅力的な人がたくさんいる。
ああ、俺もくよくよ考えているだけじゃだめだ。今までの自分を隠すな、恥じるな。恥がこれから自分の力になる。生きる材料になる。そしてそれは自分の宝物だ、そういうことを肌で感じた得難い体験になったのです。

そして思いました。自分はこれから仲間のサポートをやろう。まだまだ苦しんでいる仲間が大勢いる。自分が前を向いて歩けるようになったのも仲間のおかげだ。だから、俺はやる。

こうして茨城ダルクで5年を過ごした頃、北陸でもダルクを立ち上げるという話になりました。5年目、東京で研修を受け、山梨ダルクの立ち上げにも携わり、茨城に戻った後、本格的に北陸で場所探しを始めました。いくつか候補は上がったのですが、海がすぐ目の前にある今の富山ダルクの場所に決まりました。

平成20年、5人から富山ダルクがスタートしました。最初のうちは、目の前の海で釣れる魚がおかずになるという日々。晩に行うNAミーティングの会場探しにも苦労しました。薬物依存症者ということで、いろいろな場所で断られ悔しい思いもしましたが、今では富山県内で10か所、金沢で1か所のNAミーティングの場所があります。

ダルクの活動は多岐にわたっています。朝のミーティングが終わると、海水浴、畑、座禅、ヨガ、絵手紙、スノボ…様々な活動があります。そうして少しずつ少しずつクスリから離れていける生活を目指しているのです。薬物依存の人たちが安心していられる場所を作りたい。1時間だけでも、ここで過ごした人が、つらい時に思いだしてまた来てほしい。でも、決して上下関係は作らない。ここではみんなあくまで対等な関係なのだ。林さんの思いはどこまでも深くてあったかいのです。

もちろん、ダルクに来たからと言ってみんな回復できるわけではありません。自分だって、目の前に薬物が置かれたら絶対に使いたくなる。それほどクスリの快楽は脳に刷り込まれているのです。ダルクのみんなにはいつもイヤな方を選べ、面倒くさいと思った方をやれ、と言っています。楽な方に行くと流されやすいままになるからです。
そして、ダルクのみんなにはもし一人でいたくなったら二人でいろ、と言います。ネガティブはクスリに直結するからです。でも、人をコントロールすることはしたくない、だからコントロールしないようにいかに伝えていくか、いつもそこに葛藤しています。
 
 そうして、ダルクで回復していったメンバーがちゃんと自立していってほしい、依存症治療に合った福祉を広げたい、そんな思いで今年の5月1日に富山ダルクをNPO法人化しました。
 行政と関わる機会が増えれば増えるほど、変えていかなければならない部分があまりにも多いことに愕然とする日々です。けれど、「それはもう決まっている」という言葉を変えていきたいと意気込む林さん。今ある【枠】を崩していきたい。それはまさにダイバーシティなスタンダードにしていくことにつながります。

 そして、彼らにうまく自立してもらうためにも、就労支援にも力を入れていきたいと思っています。ずっと苦しんできた依存症者に、やっぱり生きていてよかったと思ってもらいたい。かつて自分自身もそうだったように。そうして、仲間たちの居場所作りをやっていきたい。だから、林さんはあきらめません。

 富山ダルクでは、富山ダルク岩瀬太鼓海岸組として太鼓の演奏活動も行っています。最初バラバラで合いそうにもなかった音が全員合った時の喜びと達成感。そして、聴いた人が喜んでくれる充実感。みんなを一つにするためにも、岩瀬組の活動はずっと続けていきます。

 そんな林さんのストレス解消法は車やスノボ。基本、体を動かすことが大好きなのです。20年ぶりに同窓会に出ることもできました。誰も友達なんていないと思っていた時代も長かったけれど、同窓会に出て、声をかけてくれる同級生たちと再会して、本当にうれしかった。
 5年前には琵琶湖で開催されたダルクのフォーラムにお兄さんが来てくれて「元気か?」と声をかけてくれました。お兄さんの言葉に救われた気がしました。
 薬物依存症者は孤独な人が多いけれど、自分自身が周りの人に支えられたように、これからも林さんはみんなを支えていける自分でありたいと思っています。

 そんな林さんたち富山ダルクの岩瀬太鼓を、6月20日に聴く機会があります。
「こわれ者の祭典」×「見た目問題」in とやま〜生きづらさだヨ!全員集合!〜と題したイベントで、ダルクのような薬物依存症の人たちだけではなく、アルコール依存症や引きこもり、強迫神経症、摂食障害、顔面動静脈奇形など、様々に生きづらさを抱え、それを受けとめて自分らしく生きようとしている人たちによるパフォーマンスやトークライブが開催されるのです。富山ダルク岩瀬太鼓海岸組の演奏もその中で登場。
南砺市福野文化創造センター「ヘリオス」で午後1時開場、午後1時半開演で、なんと入場無料です。ぜひ皆さんも足を運んでみてください。

 林さんのこれからの歩く道はもちろん平坦なものばかりではないでしょう。でも、今の林さんは、そこを楽しめる気持ちがあって、なにより仲間がいる。きっとこれからも泥臭く、でもカッコよく歩いていかれるにちがいありません。
トラックバック
ご利用前に必ずご利用規約(別ウィンドウで開きます)をお読みください。
CanpanBlogにトラックバックした時点で本規約を承諾したものとみなします。
この記事へのトラックバックURL
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
http://blog.canpan.info/tb/1095338

コメントする
コメント