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今日の人180.ミラー香保里さん [2018年11月10日(Sat)]
 今日の人はHumming bird ワインインポーターのミラー香保里さんです。
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香保里さんは、富山の由緒ある呉服店牛島屋の家に生まれ、お兄さん3人に囲まれて育ちました。兄3人のせいか、女の子らしいことはあまり好きではなく、お兄さんの友だちとのサッカー遊びに混じっていたりもしました。ただ小さい頃からお茶、お花、日本舞踊にピアノ、プール、習字と習い事はルーティンになっていて学校帰りはいつも忙しかったのです。
 おままごとのような遊びには全く興味はなかったのですが、裁縫やお料理は小さい時から好きでした。ご両親が仕事でお忙しかったので、家にはお手伝いさんがいたのですが、そのお手伝いさんと一緒にクッキーを焼いたりする時間がとても好きでした。お兄ちゃんが学校から帰って来て何か作ってくれと言われると、ちゃちゃっと作ってしまう、そんな小学生だったのです。
 テレビ番組で好きだったのは、兼高かおる世界の旅でした。当時からいろいろな国に興味がありました。本を読むのも好きで、将来は本屋さんになりたいと思ったりもしていました。

 富山大学附属小学校から附属中学に進み、中学校ではバトミントン部とバスケ部に入ります。自転車通学で、友だちと放課後におしゃべりするのも楽しい時間でした。国語や歴史、そして英語が特に好きでした。そんな中学の時、黒田康子さんに英語を習ったことが香保里さんのターニングポイントになります。黒田さんは40代になってから英語を本格的に勉強し、大学留学をされて、その後大活躍された方なのですが、その黒田さんの生き方にとても刺激を受け、メンターと呼ぶべき人になりました。この出会いがあり、英語をもっと勉強したいという気持ちが強くなりました。そんな時にお母さんから、北海道の札幌聖心女子学院への進学を薦められます。最初はさほど乗り気でもなかったのですが、オープンスクールでとてもいい印象を受け、1人で北海道に行くのも冒険出来ていいなという思いで受験し、見事合格。こうして、高校からは札幌聖心女子学院の寮で暮らすことになりました。
 道産子はみんなとてもあたたかく、のびのびとした高校時代を過ごします。バスケ部に入り、木曜日曜はミサがあって、ポケベルも持ってはいけないという感じで、とってもマジメな高校生活でした。

 大学は東京の広尾にある聖心女子大学へ。もちろん選んだのは英文科でした。おばあさまの代から聖心という子も多くいましたが、インターナショナルスクール出身の子も多く、香保里さんにとって居心地のいい大学でした。合コンのお誘いもしょっちゅうでしたが、そういうことにはとんと興味が湧かない香保里さんなのでした。
 世の中はスーパーモデルブーム、香保里さんはファッションの分野にとても興味がありました。英語を糧に海外に行ってファッション雑誌を作りたい、そんな思いがどんどん膨らんでいきました。ニューヨーク、パリ、ロンドン、ミラノといったファッションの最先端の街にはどこも興味がありましたが、夏に欧州に一ヶ月行ったことでヨーロッパ、特にイギリスに行こうという気持ちが強くなりました。

 こうして大学卒業と同時にロンドンに渡りLondon College of Fashionでファッションプロモーションを専門に学びました。イギリスのPR会社のインターン、スタイリストのアシスタントをやり、語学の壁を感じながらも、それを乗り越えるためにひたすら努力しました。
香保里さんが心がけていたのは、なるべく日本人の中に入らないように、とにかくイギリス人の中にどんどん入っていくということでした。そして英語とファッションプロモーションの腕をどんどん上げていきました。そんなイギリスにいる間に、伴侶となるショーンさんに出会った香保里さん。コーヒー店でアルバイトもしていた香保里さんですが、その時に出会ったのが南アフリカ人のショーンさんでした。いろいろ話すうちに意気投合。しかし、2年間のワーホリでロンドンに来ていたショーンさんの滞在期限は1年を切っていました。母国に戻り大学で勉強することが決まり、その後、4年間の遠距離恋愛が続きました。

 イギリスに渡って3年半。大学の卒業式に出席するため、日本のご両親が香保里さんのもとにやってきます。このままずっとイギリスにいるなら勘当する。もし、どうしても残りたいなら全て自分の力でやりなさい。そう言われました。悩みもしましたが、日本に帰ることを選びます。  
香保里さんは広尾にあるPRコンサルタント会社WAGに入ります。社長の伊藤美恵さんはとても小柄な女性でしたが、日本のファッションシーンを牽引する、実にダイナミックな人でした。真夜中に帰宅する忙しい日々でしたが、いろんなことを叩きこまれ、とても学びの多い2年半でした。伊藤先生の「PRをやっているなら焦りは禁物、どんなハプニングも『ポーカーフェイス』で乗り切りなさい」との教えは今も大切にしています。
 ちょうど情報がSNSへと移っていく過渡期で、広告業界は規模が小さくなってきていました。伊藤先生に雑誌の編集者になりたいと相談すると、力をつけて私のお墨付きを与えたらどこでも紹介すると言われました。
 やがて、香保里さんはアメリカのファッション雑誌『Harper’s BAZAAR』の編集者として働くことになります。広報と編集の両方の気持ちがわかるのが香保里さんの強みでした。ここでの仕事ももちろん忙しかったのですが、ファッションの最前線を目の当たりにし、アーティストやデザイナーのインタビューなど、とてもやりがいのある仕事でした。雑誌の編集者に転職し半年が過ぎた頃、ショーンさんも大学を卒業し、日本に来て英語の教師になりました。2人はその後長女を授かり、結婚しました。
5年間ファッション雑誌の編集者として働きましたが、雑誌が休刊になったこと、そして二人目を妊娠したこともあり、富山に帰ることを決めます。先輩からの自分のタイミングで自分の時間を大切にしなさい、との言葉も背中を押してくれました。富山に行くことには田舎が好きなショーンさんも大賛成でした。
 
こうして息子さんの生まれる年に富山に戻ります。それは東日本大震災の少し前のことでした。子育てしながら主婦として過ごす1年くらいを過ごし、このままでいいのかなと落ち込んだりもしました。高校の時から富山にいなかったので、友だち作りも一からのスタートでした。東京の仕事や翻訳の仕事もポツポツとはありましたが、自分で何かしたいという思いが湧き上がってきました。ちょうどそんな時にご主人のショーンさんのいとこが結婚した人が、ワインの醸造家だったのです。南アフリカで飲んだそのワインは本当に美味しかった!なんて美味しいワインなの!香保里さんは思いました。でも、南アフリカのワインは日本ではそれほどたくさん流通していませんでした。このワインを日本に広めたい。香保里さんの中にそんな思いが膨らみました。人気クリエイターとワイナリーがコラボして誕生した素敵なワインに心が躍り、ポテンシャルの高さを感じました。そして、編集者時代にお世話になった方の力添えで、有名百貨店の社長にプレゼンする機会を得ました。その百貨店での取り扱いを機に、香保里さん夫婦は酒販免許を取り、南アフリカワインの輸入販売の仕事をスタートさせます。もちろんそれは平坦な道のりではありませんでした。今から5年前のことでした。
 昔気質の酒屋さんとの付き合いも香保里さん夫婦には初めてのことばかりでした。でも持ち前のバイタリティで乗り越えてきました。何より、今まで踏み入れたことのない分野の仕事にワクワクしました。ずっとファッションの世界で生きてきたけれど、ファッションとワインもアートでつながる。そこに大きな可能性を感じています。
 そして南アフリカワインを飲むことで、南アフリカに興味を持つ日本人が増えてくれたら嬉しいという気持ちも強く持っています。ワインを通した南アフリカツアーを企画したり、逆に富山を紹介したり…そんな夢がどんどん膨らみます。

 海外に出たことで、逆に富山の魅力も感じることができるようになりました。そして富山には才能豊かな人財もとても多いのだということにも気づいたと香保里さん。

 そんな忙しい日々の中の楽しみは小4と小2のお子さんたちと話すこと。そして、夢は南アフリカと日本をもっと近い関係にすること。両国はお互いのよさをもっと取り入れることができる。そして両国の良さを知っている香保里さんとショーンさんだからこそできることがたくさんあるにちがいありません。富山のおかきを南アフリカで売り出したいとにっこり笑う香保里さん。私としては、南アフリカの人にもぜひ日本語を勉強しに来てほしいなと思うのでした。

 まだ南アフリカワインを飲んだことのない方は、ぜひ一度お飲みになってみてください。ボトルもおしゃれだし、なんといっても美味しい。今年もクリスマスの一本は、決まりですねウインク
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今日の人179.大橋聡司さん [2018年09月09日(Sun)]
 今日の人は、大高建設株式会社代表取締役社長、宇奈月ビール株式会社代表取締役社長、株式会社リレーションズ代表取締役社長、一般社団でんき宇奈月代表理事等多方面でご活躍の大橋聡司さんです。
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 大橋さんは宇奈月生まれの宇奈月育ち。小さい時は友だちと野山を駆け回るのが大好きな活発な少年でした。黒部川で泳いで、ヤリで突いてとった鮎をたき火で焼いて食べたり、高い場所から飛び込んだり、いつも外で遊びまわっていました。小学生の時はスキーや野球、中学生の時はバスケ、高校生の時はラグビー、大学生の時はスキーと、スポーツは大好きでした。
 将来に関しては、子どもの頃から家業の大高建設を継ぐものだと思っていたし、それに疑問を持つこともしませんでした。

 中学2年の担任の先生は初任で初めて受けもったのが大橋さんたちのクラスでした。大橋さんは器用でなんでもできるタイプでしたが、目立ちたがり屋でふざけたりすることもあったので、先生は大橋さんにはことさら厳しくあたりました。家業を継ぐこともわかっていましたし、バスケ部の顧問でもあったので、この子は厳しく育てなければ、と思っていらっしゃったのでした。卒業して十数年たった同窓会でお二人は再会します。当時厳しく当たったことを、さぞ恨んでいるだろうとずっと思っていらして謝罪の言葉を述べられた先生でしたが、当の本人はそんなことは全く覚えておらず、先生にしたら拍子抜けだったそうです。
 大橋さんは息子さんが高校生の時に県の高校のPTA連合の会長をされていて、富山経済同友会の教育問題委員会の委員長でもありました。そんな時にちょうどその恩師が小学校校長会の会長をされていて、そんな縁が重なり、それ以来、お二人は教育関係で前向きなつながりでいらっしゃいます。先生に教育の分野でもがんばってほしいと頼まれ、大橋さんが小・中・高校に出向いて出前授業をすることもあります。恩師から「大橋先生」と呼ばれると、身の引き締まる思いがして一層がんばろうと思うのでした。

 野山を駆け回る小中学校時代を過ごした大橋さんは、魚津高校へと進み、ラグビー部に所属して部活動に明け暮れ、多くの仲間と一緒に青春を謳歌しました。実は、大橋さんの奥さまはこの高校時代の同級生なのですが、お2人がつき合い始めるのはちょっぴり後で、お2人とも上京されてからのことでした。

 魚津高校は国立大学を目指す生徒も多いのですが、大橋さんの家は親戚も含めて東京の私大に行くというのが定着していました。大橋さんは明治大学法学部に進み、明治三大酒飲みサークルの一つと言われるスキーサークルで部長も務めました。オフシーズンも六大学野球やラグビーの応援等で、なにかにつけては飲み会。そして、スキーシーズンになると苗場プリンスホテルでバイトしながら、スキー三昧の日々を送るのでした。世はバブル真っ盛り、そしてちょうど映画「私をスキーに連れてって」で空前のスキーブームの頃でもありました。

 しかし、大橋さんは進路に関して迷うことはありませんでした。いかに世の中がバブルで超売り手市場であろうと、「富山に戻って家業を継ぐ!」という思いは子どもの頃から何ら変わっていなかったからです。

 こうして、富山に戻ってお父さんが社長を務める「大高建設」に入社。幹部社員の高齢化が進み、若い人が入っても育てる術がないといった状況でした。まずは経理畑から始めた大橋さん。時代はちょうど手書きからワープロへとシフトし始めた時でした。その頃、大高建設の経理事務は手書きだったのですが、大橋さんはそれをワープロで打ち直すという単純な作業業務を与えられました。そのままやっても楽しくないので、与えられたものの中で自分なりの工夫をして業務の改善を進めました。またそれまでまともなリクルート活動もしてこなかった会社でしたが、大学の就職課にアプローチするなどちゃんとリクルート活動をして大卒も採用できるようになりました。大橋さんは文系で技術者ではなかったのですが、土木施工管理・建築施工管理の国家資格を取るなど自ら範を示し、若い社員とコミュニケーションを取りながら新たな社風を作ろうとしました。一方で、昔ながらのやり方で自分が会社を支えてきたという自負がある人は、これまでのやり方を変えることに反発しました。そんな人たちと衝突をしながらも、互いに会社を思う気持ちでやっていることには変わりはないのだと、少しずつ少しずつ理解をしてもらいながら会社を改革していきました。

 そして2000年、37歳になった年に3代目の社長に就任しました。同年、青年会議所では富山県のブロック会長も務めました。ただでさえ県会長は、たくさんの公職も付随し、とても多忙で責任の重い役職です。社長業務をこなしながらのJCの県会長というのはとても大変でありましたが、この経験は自身の成長に大いに役立ちましたし、またその時にできた人と人とのネットワークが今も生きています。そして、JC時代にまちづくりに関わったことが今の社会的な活動に繋がっていると思っています。

 社長業もただ会社を現状維持するだけでは将来が危ういと考えた大橋さん、ちょうど世の中に公共事業不要論が渦巻いていた時で、建設以外の事業にチャレンジする必要があると考え、飲食レストラン業にも進出します。外食産業は人財産業だと考えている大橋さん。それはつまり人づくりでもあります。教育に力を入れたい大橋さんが人づくりの分野に進出するのは、自然な流れだったのかもしれません。しゃぶしゃぶ温野菜の北陸甲信越地区のエリア本部として、1店舗1社員で、アルバイト学生を教育するというやり方を展開しました。この教育方法で鍛えられたアルバイト学生は、自身が就職した時にこの経験が大変役に立ちます。人材育成に力を入れているという自負が浮き沈みの多い外食産業にあってゆるぎない経営を続けていられるのです。そしてお客さんのためにいかに美味しいもの、幸せな時間を提供するかという強い思いが、株式会社リレーションズや宇奈月ビールの経営につながっています。
 株式会社リレーションズ⇒http://www.relations-inc.com/
 宇奈月ビール⇒https://www.unazuki-beer.jp/

 また大元の建設業の方も、後継者がいない会社をグループ化してシナジー効果を上げています。海外事業も展開しており、ミャンマーでは現地法人を立ち上げました。大手ゼネコンの土木本部長をやっていた方が海外事業部の部長として手腕を発揮していて、その下で働いているネパール人が、実は私の教え子です。こんなつながりがどんどん生まれているのがとても素敵な大高建設です。
大高建設のさまざまな取り組みについては、ぜひこちらのホームページをご覧ください。
http://o-taka.co.jp/

 大橋さんが今楽しいことは、ずばり「まちづくり」に関わること。一般社団法人でんき宇奈月の代表理事でもいらっしゃる大橋さん。でんき宇奈月は宇奈月温泉において、小水力発電をはじめとした再生可能エネルギーとEVバスによる公共交通事業を導入し、電源開発で発展してきた宇奈月温泉を、先進的なエコ温泉リゾートして観光客誘致を促進するとともに、エネルギーの地産地消を切り口に自立した地域づくりを推進しています。富山国際大学の上坂先生http://blog.canpan.info/diversityt/archive/138はじめ、仲間と一緒にまちづくりに取り組んでいくそのプロセスが本当に楽しいのでした。

 そして、かかわっている地域や人が幸せになってほしい、その一助になれればいい、大橋さんはそう思っています。

 2018年7月から、公益財団法人黒部市国際文化センター理事長に就任されました。代々、黒部市長が務めてきたポストで民間人が就任するのは初めて。企業経営者の手腕を買われての就任だったそうです。黒部市国際文化センター「コラーレ」宇奈月国際会館「セレネ」、黒部市美術館の運営を担う組織のトップとして、ますます多忙になりそうです。

安くておいしいワインを探すのがささやかな趣味と話される大橋さん。まちづくりの仲間たちと話しながら一緒にグラスを傾ける時間が最高の時間かもしれませんね。
今日の人178.有路由美子さん [2018年08月19日(Sun)]
 今日の人は、ほっこり堂主宰の有路由美子さんです。ゆらゆら体操の体操教室、うさとの服の展示販売、手相教室、山元加津子さんの映画の自主上映会や講演会の主催等々、いろんなことを手掛けていらっしゃるとってもアクティブな女性です。
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 由美子さんは富山の大沢野で生まれ育ちました。子どもの頃は体が弱く、体育の時はいつも休んでいるような子でした。外で遊んでいても、ゴム跳びは見ているだけ、その頃流行っていたピンクレディも踊れないし歌えませんでした。ごっこ遊びの時は、お母さんの箪笥から服を引っ張り出してくちゃくちゃにしてしまい、怒られていました。みんなで集まってもどうやって遊んでいいかわからない、そんな子ども時代だったのです。
 そんな少女は図書館で本を読むのが好きでした。4つ下の弟と一緒に近くの猿倉山まで犬を連れて散歩するのも好きでした。ガリガリに痩せていて大きい口が目立つので、クラスの男子から口とかガマガエルと呼ばれてからかわれていました。それが悲しくて、ホームルームの時に、「人の欠点ばかりを言うのはやめて」と抗議したこともありました。何か言われてただ泣き寝入りをするだけの子ではありませんでした。

 その頃の子どもたちの習い事と言えば、そろばんと習字でした。有路さんも両方習っていましたが、あまり長続きはしませんでした。習いに行ったふりをしてどこかに隠れて行かなかったこともありました。両親は共働きで鍵っ子だったので、自営業で子ども達におかえりって言える環境がいいなぁと漠然と思っていました。

 中学では、英語研究サークルを作ろうと言った友だちに誘われて、そこに入ります。英語劇を文化祭で発表したりしていました。英語や数学が好きでしたが、体育は嫌いでした。一度担任が体育の先生だったことがあり、ペーパーテストはできたのに、成績に2をつけられたことがあって、一層体育にコンプレックスを持つようになりました。そんな由美子さんが今ではヨガや自力整体を教えています。

 中学生の時は、保育士さんになれたら楽しそうだなぁと思っていました。その頃から、お母さんが何を決めるにも霊能者に聞くようになり、由美子さんが学校を決める時も、女子高がいいと言われるままに女子高に進学したのでした。保育士になるなら、ちゃんとオルガンとか弾けないとダメだわという軽い気持ちで音楽を専攻したものの、譜面も読めませんでした。他の子はほとんどピアノを習っていてちゃんと弾けるという状況だったので、選択して失敗した!と思ったけれど後の祭り。その後どうやって授業を受けていたのか覚えていないほどです。しかし、保育士になりたかったのに、家には進学させる余裕はないと言われ、一気にモチベーションが下がりました。すると番数もみるみる下がりました。由美子さんは勉強したくないメンバーとつるみ、授業が終わると街の喫茶店や友だちの家に集まっておしゃべりしていました。ドライブインでアルバイトもして、そのお金で自分の服を買ったりお茶代にあてたりしていました。友だちと買い物に行って衝動買いできることに自己満足を感じ、早く働いて自分の自由になるお金をもっと欲しいと思っていました。
就職組は1クラスにまとめられ、補習では簿記や珠算の授業もありました。夜も簿記の学校に通い、簿記の勉強はとても楽しかったのです。

 こうして女子高を卒業した由美子さんは病院で事務員として働き始めました。しかし、失恋をきっかけにショックで計算ができなくなった時期があり、それで仕事を辞めてしまいます。その後、コピー会社で働き始めたのですが、国泰寺に行ってお坊さんと一緒に修行する研修があると聞き、精進料理を食べなきゃならないと思い込んだ由美子さんはそれで仕事を辞めてしまいました。なんと由美子さん、お漬物が大の苦手で、漬物を食べなきゃならないと思い込んで仕事を辞めてしまったのでした。

 その後は内装材の卸しの会社で働き始めました。内勤で受注の電話を取って手配する仕事で、緊張するかなと思ったのですが、実際にやるととても楽しい仕事でした。ここは結婚して子どもができるまで働きました。
 
 由美子さんは23歳で結婚。お母さんが美容院で会った人に「うちの子、嫁さんを探してる」と声をかけられ、とんとん拍子で話が進んだのでした。見合い写真はよかったのですが、会うとやぼったい人だなぁと思いました。でも、友だちが多くて山登りしたりテニスをしたりする人だったので、この人といると退屈しないかなと思ったのです。
 ある日、家に帰ると反物が届いていました。なんと結納の品でした。5月にお見合いして、あれよあれよという間に事がすすみ、9月の結婚式の日取りまで決まってしまったのでした。相手のアラが見えてきて、嫌だな~と思っている絶頂期に結婚式を迎えてしまったのです。
 
 2年後には長男、3年後には次男が生まれました。結婚前に働いていた内装材の会社から来てほしいと言われ、子どもを連れて出社していました。子どもが保育園に行き始めてからは、フルタイムで働くようになりました。35歳まで事務員をしていましたが、世の中の流れがパソコンになり、事務員はいらないので、やめるか営業になるかの二者択一を迫られ営業の仕事をすることを選びます。ハシゴを積んで現場まで行ったこともありましたが、40歳で長年勤めていた会社を辞めました。エクステリアの営業所を立ち上げた知人から事務の募集をしていると言われ、そちらに転職したのです。しかし、そこの取引先の子が事務で入ってきたことでまた営業をやらされるようになります。それで、そこも辞めて内装材の会社で培った知識が活かせるカーテンの会社に事務員として入ったのでした。ところが、なんとそこも営業の人が辞めてしまってまたまた営業をさせられるということになりました。40代で営業で外回りはきついと思った由美子さんは、神島リビングに転職します。そこで輸入家具売り場の担当になり、インテリアコーディネーターの資格を取得します。神島リビングでの仕事は楽しかったのですが、姑が体調を崩し通院に付き添わなければならなくなったのでやむを得ず仕事をやめました。ある時、姑は腸閉塞を起こし、緊急入院。環境が変わったためか痴呆になり、要介護5になってしまいました。しかし、腸の中をきれいにすると頭もクリアになって退院し、すっかり元気になったのです。元気な姑と2人で家にいるのは苦痛だったので、ヘルパーの資格を取って介護の仕事を始めました。介護の仕事を始めて3年、姑が亡くなり、子ども達も独立してしまっていたので、夫婦二人の生活になりました。

由美子さんは神島リビングで働いている時に自分の体調が悪かったこともあって、自分の体のメンテナンスをしたいと自力整体の勉強もしていました。介護の仕事と並行してたまに西宮の先生のところに通うようになりました。それまで学校も職場も半径10q以内の生活圏で暮らしていた由美子さんが50代になって初めて外に出たのです。外ってこんなに楽しいんだ!由美子さん、50代の目覚めでした。こうして自力整体ナビゲーターになった由美子さんは先生から教室を開きなさいと言われます。そうは言われても何をしていいやらさっぱりわかりません。そんな時、リタクラブという貸しスペースがあると言われ、そこのオーナーの平木柳太郎さんに相談したところ、どうやって人を集めるかを教えてくれました。初めてFacebookで告知するということをやり、またヤマシナ印刷の山科さんのところでチラシを作り、初めて自分の整体教室を開いたところ、4~5人の人が来てくれました。人ってこんな感じで集まるんだなぁと初めての経験にわくわくしました。そうやって、マイペースに教室は続けています。そんなある時、整体仲間が山梨で山元 加津子さんの講演会を企画し、その山元 加津子さんの映画があるということを知りました。ちょうど富山でも上映会があって、「僕のうしろに道はできる」という映画を見たのです。その映画を見て、すごく感銘を受けた由美子さん。配給会社に問い合わせたところ、会員になったら少人数でも上映会ができると聞き、それならと会員になって、自主上映をするようになったのです。本当に淡々と毎日を過ごす日々だったけれど、自力整体が自分の殻を破るきっかけになり、やりたいことを次々にやっていくそんなアクティブな女性に大変身したのです。

 そんな由美子さんですが、子どもたちが高校を卒業するころまでは夫とコミュニケーションを取るのをあきらめていました。けれど、いろんな人と出会って話をするうちに、コミュニケーションが取れないのは私のせい?と思うようになりました。自分がコミュニケーションを取れないようにバリアを張っていたのかもしれない、そう考えた由美子さんは、ちょっとしたことでも夫に話すようにしました。そうして、ちゃんと「愛している」と口に出すようにしたのです。するとどうでしょう。冷たい空気が流れていたようにも感じていた夫婦関係が好転して、今は夫もとても優しくなりました。一緒にうさとの服の販売を手伝ってくれるようにもなりました。うさとの服というのは、タイで作られている手作りの服で、一度うさとを着ると他の服が着られなくなるくらい着心地のいい服だそうです。由美子さんはうさとの服販売のコーディネーターもやっていて、9月28日~30日は南砺市福野のギャラリー樫亭で展示会も行うそうなので、興味のある方は足を運んでみてください。うさとの服は由美子さん夫婦をつなぐとっても大事な服なのです。
うさとの服についてはこちら⇒http://www.usaato.com/jp/
 ご主人は今、由美子さんがいろいろな所へ出かけていっても口うるさく言うこともありません。そんなわけで、50代になるまでずっと半径10q圏内で生活していた由美子さんの行動範囲はうんと広がって、日本国内のみならず海外へも出かけるようになりました。一昨年はインドを12日間、昨年はベトナムを5日間旅をしています。そして今度はどこへ行こうかとワクワクして考え中です。

 イベントをしていくうちにたくさんの新しい友だちも出来ました。そうした中で、NPO法人かもめノートに出会い、発語のない障害者の方と言葉なしでコミュニケーションを取る楽しさも知りました。デイサービスは分刻みで忙しかったのですが、かもめノートは1対1でゆっくり時間を過ごせて、由美子さんはこちらの働き方が気に入っています。

 由美子さんは、最近、自分がいかに楽しいかが大事だと思うようになりました。やりたくないと思いながらやっていることでわくわくできるはずがありません。自分の心が動くことをやる、だから頑張れるし、人の心も動く。40代の初めに四柱推命の人に、あなたは今から下降して50歳を過ぎたら上昇すると言われました。その通りで50を過ぎたあたりから、もうなんでも楽しくて仕方がない、という感じになっている由美子さん。これからも自分が心が動く楽しいことをしていきたい、そして自分の経験してきたことを伝えていきたいと思っています。伝えていく、ということでいうと、実は由美子さんは手相を見ることもできます。そうして、それがズバリと当たって皆さんびっくりされるそうです。由美子さんに手相を見てもらう人はツキが良くなるそうなので、皆さんも一度見てもらってはいかがでしょうか。手相教室もこれからやっていくそうですよ。

そして来月9月8日にはかっこちゃんこと山元加津子さんの講演会と映画上映も企画されている由美子さん。そんな由美子さんのパワーがどんどん周りに波及しているのをビシビシ感じます。山元加津子さんの講演会はストレートにハートに響きますので、最近なんだか心が疲れているなぁと感じている方は、足を運んでみてください。
山元加津子さん講演会のお知らせはこちら⇒
https://www.facebook.com/events/389776028171381/

何かを始めるのに年は関係なく、やりたいと思ったらいくつになってもやり始めることができる!そんな勇気が湧いてくる今回のインタビューでした。
今日の人177.種市尋宙さん [2018年07月01日(Sun)]
 今日の人は、富山大学医学薬学研究部助教の種市尋宙(たねいちひろみち)さんです。
種市先生は小児医療の最前線に立ち、子育てに悩む親御さんの悩みに真摯に向き合っていらっしゃる本当にステキなお医者さまです。
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 種市先生は1973年5月5日に新潟市で生まれました。小児科医なので子どもの日生まれというのはちょっと自慢です。
 小さい頃は電車ごっこが大好きで、電車を見るのも好きでした。父方のじいちゃんちが八戸に、母方のじいちゃんちが飯山にあるのですが、遊びに行く時に電車に乗れるのもすごく楽しかった。アニメもロボットものより銀河鉄道999が好きでした。そういうわけでその頃は将来電車の運転士さんになりたいと思っていました。

 妹が2人いますが、親に「お兄ちゃんなんだから」と言われるのがイヤでした。種市先生自身がまだ小学校の低学年の時に、妹がケガをして血を流したことがあったのですが、「なんでちゃんと見ていなかったんだ」とお父さんから怒られ、理不尽さを感じたのをよく覚えています。自分がそういう思いをしたので、自分の子どもにはそういうことは絶対に言わずにおこうと思っていたのですが、自分が親になった今、「お兄ちゃんだろ」とつい言ってしまうなぁと種市先生。そのお気持ち、よくわかります。

 種市先生はちょうどガンダム世代なので、周囲はガンダム好きな子がたくさんいましたが、プラモデルを作るのが得意ではなく、ガンダムにもそんなにはまることはありませんでした。周囲の人達に言われていたこともあって、子どもの頃は自分は不器用だと思い込んでいたのです。後々それはちがうということに気付くのですが、子どもの頃はとにかく言葉の影響力は大きいので、子どもが自信を失うような言葉は使うべきじゃないなと、今は強く思うのでした。

 小学校に入ってからは、とにかくたくさんスポーツをしました。小学校1年生からプールに通い始め、3年生になってスポーツ少年団に入ると、プールの他にもスケート、スキー、遠泳、野球ととにかくいろいろなスポーツに挑戦。5年生からは小学校の野球部に入って超ハードに練習したのですが、とにかく指導が厳しかった。新潟市の中でも3本の指に入る強いチームだったのですが、あまりにスパルタ式だったので、しまいには野球が嫌いになってしまったのです。レフトを守っていた種市先生は、エラーした時に監督に怒られるのが怖くて「こっちに飛んでくるな」と思うようになってしまったそうです。そう思うと体が動いてくれるわけもないのでした。スポーツの指導者の中にはいまだにこのスパルタ方式をとっている人がいますが、脳科学的に見てもそのやり方でいいことは何もないのです。

 種市先生は小学校5年生の時に見た南極物語に強い感銘を受け、その感想を書いた時に、担任の先生にすごく褒められました。全学年の中で一番いい!と太鼓判を押されたのです。それはとても嬉しかった。でも本当に感動したので、そこまで熱い感想文が書けたのだと思っています。そして「将来は南極観測隊の一員になりたい!」というのが、小学校高学年時代の夢でした。

 中学校は地元の公立中学へ。中学校が荒れていた時代です。野球はもうイヤになっていたので、サッカーをやりたいという気持ちもありましたが(キャプテン翼の影響もあってサッカーはすごく人気がありました)、サッカーは小さい頃からやっていてすごくうまいやつがいるだろうし、怖い先輩もいる。怖い先輩のいない部に入ろう、ということで選んだのがバスケットボール部でした。コーチがおらず自分たちで自主練をしている部活でした。和気あいあいとはしていましたが、弱小チームでした。

 しかし、中学2年生の時に新潟市から上越市に引っ越すことになりました。新しい土地で上越教育大学附属中学校の編入試験を受け合格。そこには確かに荒れた子はいませんでしたが、多様性がない環境はなんだかちがうような気がしました。その意味で種市先生は二つの中学校を経験できたことはとてもプラスになったと思っています。最初から附属に行っていては、きっと見えないものもたくさんあっただろうから。
 部活はやはりバスケ部にしました。しかし、ここもそこまで部活に力を入れる中学校ではありませんでした。その頃は南極観測隊よりも、子どもに関係する仕事がしたいと思うようになっていました。小さないとこと遊ぶのも好きだったし、熱中時代や教師びんびん物語など、教師のドラマが結構あって、先生になるのもいいなと思っていたのです。

 高校は公立の進学校でしたが、制服もない、校則もないという先進的な学校でした。
やっぱりサッカーをやりたい、そう思った種市先生はサッカー部に入ります。中学校とちがって練習はとても厳しい部でした。しかし、その厳しさは小学校時代のスパルタ方式とはちがいました。生徒の力を信じ、お前ならできる、というスタンスで監督が接してくれました。どんなに厳しい練習でもつらさを感じなかったのは、監督に信じてもらっているという自信が大きかったにちがいありません。そして種市先生は、高校に入ってからサッカーを始めたにも関わらず、1年生の時からレギュラーに抜擢されたのです。きっと監督は種市先生の運動能力の高さと精神力の強さを見抜いていたのでしょう。
 
 そうしてサッカーに打ち込んで迎えた高校3年の6月のインターハイ予選。チームは2回戦で強豪校に勝ち、勢いづきましたが、3回戦で負けるはずのない相手に敗戦を喫してしまったのです。このショックは大きかった。ここで負けると3年生は自動的に引退です。引退後、受験勉強に専念するかと思えばさにあらず。種市先生は6月から2か月、勉強もせずに遊んでばかりいました。そんな時に、監督から9月の県予選の大会に出ないかと声がかかります。9月の大会に出る、サッカーを続けると告げた時、お父さんは猛反対しました。それでなくても勉強に性根が入っていないのに、この上まだサッカーを続けるとは何事だ!とこっぴどく言われました。しかし、お母さんが陰で応援してくれて、なんとかサッカーを続ける道筋ができたのです。
 ここで種市先生は本気になりました。「よし、空いた時間は徹底的に勉強しよう!」それからは隙間時間を勉強にあてました。9月の大会に出るのですから、夏休みも当然練習があります。種市先生は朝早く学校に行き、勉強してから練習に参加していました。
 こうして迎えた最後の大会。最後は劇的な負け方をしてしまうのですが、インターハイ予選の時の後悔はありませんでした。やりきった充実感がそこにはありました。
 
 勉強に集中するようになって、種市先生の成績はぐんぐん伸びました。監督に9月の県予選に誘われた時に、もし断っていたら、こんなにも集中して勉強することはなかったでしょう。そして、子どもに関わっていきたいという思いは変わっていませんでした。医学部に入って小児科医を目指そう、そう決めてさらに頑張りました。

 サッカーしている時にいろいろ言っていた精神科医のお父さんもその頃には息子の頑張りを見て、認めてくれるようになりました。種市先生は小さい時からお父さんっ子で、お父さんのことが大好きだったのですが、一旦引退した後サッカーをやることに反対された時は「なんで認めてくれないんだろう」と反発心も抱いていました。でも、今、考えるとこの時のお父さんの気持ちがよく分かります。本気で心配してくれて、期待してくれていたからこそ、息子に厳しくしたのだと。実際、お父さんがすんなりサッカーをすることを認めてくれていたら、あそこまで真剣にサッカーと勉強を両立させることはなかったと思うのです。そして、どんな時も懐深く子どもたちのことを理解して支えてくれたお母さん。そんな両親には感謝しかありません。両親に恥じない医者であるためにも、常に誠実であろうと思っている種市先生なのでした。

 こうして、種市先生はストレートで富山大学(当時は富山医科薬科大学)の医学部に合格。
大学でもサッカー部に入り、種市先生がいた6年間はサッカー部の黄金期で、後にも先にもその時がいちばん強かったのです。その時のサッカー部仲間のお一人がブログで以前ご紹介した野上先生です。種市先生、野上先生、そしてあとお2人の4人が同期のサッカー仲間です。種市先生の同期は現在1割も大学には残っていないのですが、不思議とその4人は全員大学に今も残っています。今も4人で集まると、学生時代に戻って何も気を遣わずに心から笑い合える。そんな仲間がいるのは本当に幸せですね。
 
 卒業後の4月から12月までは大学病院で働き、その後の1年半は県立中央病院に。そこに重い血液の病気の子どもが入院してきました。生存確率は10%。その時、種市先生はまだ24歳でしたが、30代であろうその子のお父さんがテーブルに頭をこすりつけて「お願いします。助けてやってください」と何度も頭を下げたのです。その姿を見て、種市先生の心に火がつきました。「よし、絶対に助ける、この子を助ける!」
 その時、病棟でその子がいちばんお気に入りの看護師さんがいました。その看護師さんと種市先生は結ばれることになるのですが、それはもうちょっと先の話です。

 次の年の4月に、種市先生は大学病院に戻ってこいと言われます。その子のことが気になって大学病院に連れていきたいと言ったけれど、それは病院側に断られました。けれど、その頃にはもうその子は助かるという確信はあったので、後輩に引き継いで、大学病院に戻ったのでした。帰って3年目からは大学院に。臨床のスキルアップをしたい時に研究もしなければならないジレンマもありました。そう、種市先生はとにかく現場がお好きなのです。そうして大学院で3年半研究もし、医者になって7年目からは糸魚川の病院に派遣されました。

 この糸魚川での3年間に本当にたくさんの症例と出会い、大変貴重な3年間を過ごすことになります。種市先生は常に子ども達の様子をよく観察しています。そこから見えてくるものがたくさんありました。

 きっと皆さんもカメを触ると病気になるよ、というのは聞かれたことがあると思いますが、世の中に警鐘を鳴らしたのは実は種市先生なのです。
 昔、よくお祭りでもカメを売っていましたよね。その頃、家でカメを飼っている子どもたちがたくさんいました。サルモネラ菌で食中毒になる子の家でカメを飼っていることが多いと種市先生は気づきます。多分3分間診療をしていたら、そこまでの話は出てこないでしょう。でも、種市先生はお母さんと子どもたちとの話を大切にします。だからカメのことにまで思いが及んだのでした。カメの甲羅にはサルモネラ菌がたくさんついている。子どもたちはカメを触った手でそのまま何か掴んで食べてしまう。それでサルモネラ菌にやられて食中毒になってしまっていたのでした。カメがサルモネラ感染症の原因になることは日本ではあまり知られていませんでしたが、種市先生が警鐘を鳴らし、それをテレビ番組が取り上げたことで一気に広まって、今はみんなが知っている常識になったのです。

 また海水パンツをはいていた子のおちんちんが水膨れになってしまうということが続いた時に、種市先生は海水パンツの裏地についているメッシュの目が粗い時に、その孔に皮がはさまってしまうからだということに気付きました。そこで、先生はメディアでそれを発信しました。そのことによって衣料界のガイドラインが変わったのです。ですから、今、日本で作った水着は目の粗い裏地のついたものはありません。種市先生は言います。治しただけで終わりにしてはいけない。次の子を出さないことが大切だと。そのためにちゃんと情報は出す。「予防のための発信力」とても大事なポイントです。そしてこれはどんなことにも通じると思います。当事者はわかっている、でも、他の人は知らない。知らないから仕方ないよね、ではなく、ちゃんと声を上げていかなければ、届くはずもないのです。それなのに、何もやらずに何も変わらないと言っている人のなんと多いことか。自戒を込めて感じました。
 ちなみにこの海水パンツ、国内で作ったものは大丈夫なのですが、外国製だとまだ目の粗いメッシュの裏地のものがあるそうなので、男の子をお持ちの方はぜひ一度チェックしてみてくださいね。

 この糸魚川で過ごした3年で、臨床の感覚をすっかり取り戻した種市先生。先生は糸魚川にいた時に、上述した看護師さんと結婚されたのでした。そして、もっと現場を極めたいという思いが強くなり、大学に救命救急をやりたいと交渉していました。

 こうして念願叶って西東京地域の3次救急の患者が全部運ばれてくるという救命救急の砦、国立病院機構災害医療センターでひたすらトレーニングの日々を1年間送ったのです。しかし、大学からまたもや戻ってこいと言われ、またこれ以上やっていたら救急の魅力にとりつかれてしまうという思いもあって、後ろ髪を引かれつつも大学に戻ったのでした。

 そして、大学病院に戻ってからの種市先生は、富山での小児救急のパイオニアとして大車輪の活躍をされているのです。先生は海外留学をしてさらに学びたいという思いも抱えていらっしゃいます。

 種市先生の現場は、常に生死を伴う分野です。そして、いろいろな思いをぶつけてくる小児患者さんのご家族もたくさんいることから多くの問題に対峙してきました。でも、問題が起こった時に逃げてはだめだ、親御さんも真剣なのだから医者の論理で上から話してもそれが通じるはずもない、だから、常に同じ目線で誠実に話す種市先生。問題が起こった時に逃げずに話した家族とは、強い絆が生まれます。どんな時も信頼関係を持って物事をやりたいのだと。本当になんて誠実なお医者様なんだろうと胸が熱くなります。きっとこんなお医者さまなら、子どもを病院に連れて行った時に、いろいろ話したくなるにちがいありません。
   
 そして実際、お母さんたちの中には、診察の時に、「ちょっとちがう話なんですが、いいですか?」と聞いてくる方がいらっしゃいます。種市先生はそんなお母さんたちの声をとても大事にします。どんなに忙しくても、それを嫌がっては絶対にダメだし、なんでも聞いてもいいんだという雰囲気にすることはとても大事だと思っているのです。そして、その「ちょっとちがうけど…」という話の中にこそ、医者が気付かなければならない大切なことが隠れていることがあるのです。

 最近、子どもたちに予防接種をさせない親御さんも増えています。SNSでの情報拡散等で予防接種は悪だと思い込んでいる人もたくさんいます。しかし、予防接種を受けさせない親御さんたちの中には、本当に受けないでいいのかと揺れ動いている人たちもとても多いのです。「全然ちがうんですが、ちょっと聞きたいことが…」と種市先生に聞いてきたのも、そんなお母さんでした。もしそこで先生が、予防接種は受けなくちゃいけないに決まってるじゃないかという態度だったら、お母さんはそこで心を閉ざしてしまうでしょう。そしてやっぱり絶対に予防接種なんて打たないと思ってしまうかもしれません。実際、母子手帳に予防接種の記録が書いてないことで、病院で白い目で見られ、医者に何も言えなくなっている親御さんもとても多いのです。種市先生は、お母さんたちが不安に思っていることを相談できる場の大切さを思います。そんな場を作らずに、ネットの偏った情報の方に向いてしまう不安を抱えたお母さんたちをどうして責めることができるでしょう。

 種市先生に相談されたお母さんは、その話が終わった後、廊下で泣いていらしたそうです。それまで1人で胸に抱えていた不安な思いをお医者様が誠実に聞いてくださって、そのお母さんはどれだけホッとしたことか。その涙がそれを物語っています。それだけお母さんたちが抱いている不安は大きいのです。それで種市先生は強く思ったのです。「お母さんたちの悩みを放置しちゃだめだ」そして動き始めました。種市先生は、お母さんたちから声がかかれば進んで話しに行っています。ちょっとした集まりでもいい。呼んでくれることで少しでも正確な情報を話したいと思っています。医者は患者を助けたいから医者なのです。1人でも救える命を救いたいと思うのが医者なのです。だから、お母さんたちに正確な情報を少しでも伝えたい、疑問に思うことはなんでも聞いてほしい、種市先生からはそんな強い信念が感じられます。

 種市先生は子どもの終末期医療の現場にずっと立ち会ってきました。臓器移植の子どもに付き添って渡米したこともあります。子ども達の移植は移動だけでも命がけなのです。でも、日本は先進国の中でも子どもの臓器移植が圧倒的に少ない。日本人の死生観のせいにされてしまうことも多く、死を語ることの難しさもあって、日本で臓器提供医療が成り立たないことのジレンマも感じています。でも、これはちゃんと話し合っておくべきことだと強く思います。今、お年寄りの終末期医療はいろいろ考えられるようになってきたし、エンディングノートのようなものもあります。でも、子どもの場合は皆、考えたがらないし、話したがらない。でも、そこにもちゃんと向き合っていかないといけない。

 子どもの死というのは、家族にとって耐えがたい苦痛です。そして苦しい状況におかれた人たちが自分たちで立ち上がらなければならないことがとても多い。種市先生も最初の頃はお父さんやお母さんに何もしてあげられないというつらさを味わいました。でも、今は家族のケアをしっかりやらねば、というミッションも担っていると思っています。病気の子どものいる家庭の兄弟をサポートしなければという思いもとても強くもっています。大きな病気を抱えた子がいるうちは家族のいろんな歯車が狂い、特に兄弟にかかる負担はとても大きい。だからこそ、その兄弟へのサポートもとても大切なのです。

 でも、家族がそんな苦しい思いをしないためにも、重篤な状態になる子どもを少しでも減らしたい。だからこそ、予防医学に力を入れていきたいと強く思っています。
それゆえ、予防接種の大切さも思うのです。ワクチンを打たないことでどれだけ多くの命が危険にさらされるかを、ちゃんとお母さんたちに話したい。それは1人でも救える命を救いたいという種市先生のつよい信念なのです。

 私たちは、SNSの情報やマスコミの情報に流されやすい傾向があるなというのを種市先生のお話を聞きながら反省を込めて感じました。メディアリテラシーの大切さを思いながら、それができていない。影響力の強い人に流されて、それをうのみにしてはいけない。何が真実かというのは、いろいろな話をしっかり聞くことも大切ですし、科学的なデータを自分の目でしっかり見ないといけない。その目を養うことをちゃんと学校教育の場から始めることの大切さを改めて思いました。
 
 もちろん、予防接種のことやいろんな医療のことについて疑問を持つのは、子どものことを思うからこそだというのも、私も2人の息子を持つ母親としてよくわかります。
でも、種市先生のように心から子ども達の命のことを考えているお医者様の声まで聞こえなくなっていては、それは子ども達にとっても不幸だと思います。だから、疑問を持っている方こそ、一度種市先生のお話を聞いてみてください。そこから見えてくるものが、きっとあります。

 

今日の人176.Amit Kanaskarさん [2018年06月11日(Mon)]
 今日の人は銀行員としてお仕事をしながら、アートオブリビングの講師として呼吸法や瞑想を教えていらっしゃるアミット カナスカールさんです。
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 アミットさんはインドマハラシュトラ州で生まれました。
幼い時はとてもやんちゃで、縛っておかないとじっとしていられないような子でした。落ち着いたのは7歳違いの弟が生まれてからです。お母さんに「あなたはお父さんの代わりになるからお願いね」と言われ、兄としての責任感が生まれたのでした。

 アミットさんは子どもの頃から、ひたすら親の話を聞き、家族の状況に敏感でした。何かが欲しいと親におねだりしたことは一度もありません。お母さんのお手伝いをするのがとても楽しい子ども時代でした。家にお客さんが来た時に飲み物を出したりするのが嬉しかった。
動物も好きで、動物園に行くのが好きでした。動物を飽きずにずっと見ていました。家でインコも2羽飼っていましたが、そのインコが死んで木の下に埋めた時に、悲しくてすごく泣きました。あまりに泣いたので、次に飼ってもらえることはありませんでした。とてもセンシティブな子だったのです。
 
 お父さんは2人の子どもを学校に通わせるために花火の行商など2~3の仕事を掛け持ちして家族を養ってくれました。お母さんはとても家族思いで、アミットさんが大学生になっても必ず手作りのお弁当を作って持たせてくれる、そんな優しいお母さんでした。アミットさんは内向的な性格であまり外に自分を出すことはなく、それは自分の弱みじゃないかとずっと思ってきました。でも、その悩みを誰かに話すことはありませんでした。友だちにパーティに誘われたりもしましたが、行ったことはありません。

 ただ、高校に入った頃に親戚が連れて行ってくれたヨガスートラにはとても心惹かれるものがありました。そこで瞑想にも興味を持ちました。ヨガスートラの本を読んで、ベジタリアンになることも決めました。

 進学校で学んでいたアミットさんは、エンジニアになってほしいというご両親の希望のままに、インドの名門プネ大学コンピューター・エンジニアリングに入学します。プネ (Pune)は、「東のオックスフォード」として知られる学術都市で、インド国内のみならず、世界中から学生が集まってきます。近年はIT産業を中心にインドでもっとも目覚しい発展を遂げており、「東のシリコンバレー」ともいわれています。

 そんなアミットさんが日本語に出会ったのは大学2年の時でした。大学でドイツ語をやっている友だちから、日本語をやるから来ない?と誘われていった日本語の授業がとても楽しかった。それで昼は大学、夜は日本語学校に通う日々が始まったのです。アミットさんが自分から何かをやると決めたのは、これが初めてでした。日本語の勉強に夢中になったアミットさんは、大学の講義のメモを日本語で取るくらいでした。それで、日本語の勉強を始めた大学2年の時は日本語能力試験の4級、3年生で3級、4年生で2級に合格したのです。文科省の主催する日本語弁論大会にも出場しました。優秀な人が3人選ばれるのですが、アミットさんは4番目でした。それがすごくショックでした。でも、いつか日本に行こう、それは強く思っていました。

 そして、大学卒業後はインドでソフトウエア会社に就職。出張で日本に来る機会もありました。インドのご両親は息子にMBAを取って欲しいという夢も持っていたので、アミットさんはハワイ大学に渡り、ハワイ大学と日米経営研究所(JAIMS)でMBAを取得。ハワイ大には日本語のプログラムもあって奨学金も出ました。アミットさんは日本で3か月インターンシップをし、その後日本で仕事を探しました。最初は生保で1年半仕事をし、その後現在勤める銀行に転職。今は5人の部下を持つマネージャーをしています。インドにいた時は6年間SEとして働きました。ずっとコンピューターの前にいる仕事は、今は絶対にイヤだなと思っています。いろいろあっても、やはり人と話せる仕事の方がいいとアミットさんは思うのでした。

 アミットさんがアートオブリビングに出会ったのは友だちに紹介されたのがきっかけです。インドの家の近くでコースがあるから受けるといいよと言われ、2003年の12月に6日間のコースを受けます。すると自分の内側がとても静かになって満たされていく感覚を深く味わいました。すっかりこのプログラムに心酔したアミットさんは基本コースが終わる前には上級コースを受ける予約を入れたほどでした。このアートオブリビングの創設者であり、ヨガの大家でもあるシュリシュリの智慧の講話を聴いた時、ずっと涙が出て止まりませんでした。シュリシュリの深い愛と真実を感じたアミットさんは2004年の1月から6月までの間に開講されている全てのコースを受け、最後は両親にも受講してもらいました。そして、4月にインドの会社を辞め、6月にハワイ大学の留学へと向かったのです。ハワイで出迎えてくれたのもまた、アートオブリビングの先生でした。アートオブリビングは世界155か国、1万箇所以上に拠点を持つ国際NGOなのです。

 アミットさんはMBAを取って、日本でインターンシップを終えた後すぐに2週間休みを取りました。その2週間でアートオブリビングの講師養成プログラムに参加します。その後日本で働きながら、アートオブリビングの活動を続け、日本版のホームぺージを作ったりもしました。
アートオブリビングJapanのホームページはこちら⇒https://www.artofliving.org/jp-ja
 そして2010年には講師養成の残りのプログラムも終了し、正式に講師の資格を得たのでした。

アミットさんは今、日本のあちこちでアートオブリビングの講師として活躍しています。ここ富山でも鵜飼ひろ子さんと一緒にプログラムを展開していらっしゃるので、興味のある方はぜひ一度訪ねてみてください。私も一番基本の3日間のハピネスプログラムに参加しましたが、呼吸法でとても穏やかな心地になることを身を持って体験しました。
 アミットさんは、会社員として働いている平日も、呼吸法や瞑想は欠かさないそうです。それでいつも囚われのない穏やかな表情をされているのだなぁと納得の私なのでした。

 アミットさんはこれまで学んできたことを体験として気付けた時がとても楽しいとおっしゃいます。姪っ子が無邪気に遊ぶ動画がインドに住む弟さんから送られてきて、それを見ることが癒やしの時間です。

 
 ヒンドゥ教のお正月のお祭り、ディワリの時は約2週間帰国するようにしているアミットさん。その時は親元で過ごし、ひと時親孝行をしてくるのでした。

 平日は会社員、週末はアートオブリビングの講師として忙しい毎日を送っているアミットさんですが、かつて柔道や茶道も習いに行っていました。京都や奈良に行くのも落ち着きます。ダジャレや落語も好きで、いつか自分自身で落語もやってみたいと思っています。
とにかく日本が大好きなのです。

 そんなアミットさん、会社でもアートオブリビングの智慧を取り入れていきたいと思っています。普通の仕事の中でもその智慧を取り入れることができたら、きっと仕事のストレスや人間関係の軋轢はうんと減るにちがいないですね。

そして夢は、昔のヨガの環境を再現した遊園地(テーマパーク)を造ること。その遊園地、ぜひ行ってみたいです!

富山でアミットさんのプログラムを受けてみたい人はこちらをチェック
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次項有そして6月21日は国連の定めた国際ヨガデーです。
皆さんも国際ヨガデーのイベントに参加してヨガに触れてみませんか?
イベントはこちら⇒https://www.artofliving.org/jp-ja/international-yoga-day/Schedule2018

今日の人175.小泉英児さん [2018年05月30日(Wed)]
 今日の人は「施術院 空のヒカリ(クウノヒカリ)」院長の小泉英児さんです。空のヒカリは、全身のバランスを整え、神経の流れと内臓の働きを高める神経伝達調整(NTA)を軸とした施術院です。「どこに行っても治らなかった症状がよくなった」と小泉さんの所には老若男女を問わず連日患者さんが訪れています。
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 小泉さんは高岡市御馬出町で5人兄弟の次男として生まれました。兄弟が多いので小さい時から我慢することが多かったといいます。欲しいものをすぐに買ってもらえる友だちがうらやましくて仕方ありませんでした。両親、祖父母とも同居の9人家族だったのですが、小泉さんが頑固なことからおばあちゃんから育てにくい子だと言われていました。言うことを聞かず、家の外に出されることもしょっちゅうでした。家の教育方針がお兄ちゃんの言うことは絶対というものだったので、それを守ってお兄ちゃんに逆らうことはしませんでした。ただ、その分、下の兄弟たちとはよくケンカしていました。

 小学校は平米小学校。実は、小泉さんの親戚には高岡出身のプロ野球選手がいて、その姿を見て育ったので自分もプロ野球選手になりたいと思っていました。しかし、平米小には少年野球チームがなく、小泉さんのお母さんが働きかけて、少年野球チームができたくらいでした。こうして小学校3年生からは野球漬けの毎日となりました。
 高岡には古城公園という大きな公園があるのですが、小泉さんが遊ぶところはもっぱらそこでした。友だちと基地を作ったり魚やザリガニを捕まえたりして遊んでいました。お堀に落ちてしまったこともあるくらい活発でした。そんな風に外で遊ぶか、野球をしているかどっちかというような日々だったのです。
 相変わらずおばあちゃんには厳しくされていて、座る時に背中にものさしを入れて姿勢を正されたりしていました。家は貧乏ではなかったのですが、つましく暮らすのを良しとする教育方針だったのか、おにぎりも塩おにぎりしか食べたことがありませんでした。一度学校で好きなおにぎりを作ってもいいと言われた時に、みんなは様々な具を持ってきていたのに、小泉さんは塩だけ持っていったことがありました。『え?おにぎりって塩だけじゃないのか?』初めていろいろな具を入れるということを知ってショックを受けたのです。でも、そのおかげでハングリー精神が身につきました。

 中学校は高陵中学に。ここでももちろん野球を続けました。高陵中学は公立の中学校ですが、小泉さんの時代の高陵中学は中教研で県下でトップの成績を取るくらい優秀でした。そんな中、小泉さんはクラスで成績があまりよくなく、中2の時の先生は小泉さんのテストだけ教室に張り出しました。それはこんな風にだけはなるなという見せしめのためなのでした。他の生徒達には席替えがあるのに、小泉さんだけ固定の席にされていたくらいです。最初は『勝手にやってろ』と思っていましたが、先生がそういう態度なので、生徒も次第に小泉さんのことを馬鹿にするようになっていきました。これはさすがにこたえました。
 また中2の時は大けがもして野球が半年できませんでした。小泉さんのポジションはショートなのですが、練習にしても自分はこんなにやっているのに、なんでみんなはやらないんだろうとよく他の選手の態度にイライラしていました。そんな中での怪我だったのです。しかし、みんなと練習ができない間、独学でトレーニング方法について勉強し、単独トレーニングをしていました。怪我が治って復帰した後、みんなより遅れているどころか小泉さんだけ上達していたので、自分のトレーニング方法は間違っていなかったと思いました。それだけストイックに野球に取り組んでいたのです。
 中3になると、家出もしました。学校でも途中から全員にシカトされていて、本当に居場所がない状態でした。中学校が終わったら就職しようと思っていましたが、中3の時の先生から、「甲子園に行きたくないんか?」と言われ、私立の高岡第一高校の特待生の話を持ってこられました。 
 しかし、親は私立高校はダメだと言いました。親戚が高商出身のプロ野球選手ということもあって、高岡商業の自慢話ばかり聞かされていました。それに反発心を抱いた小泉さんは絶対に高商はいかないと決めて、その当時野球の強かった氷見高校を受験。成績が悪いと言われていたけれど、県立高校の普通科にすんなり受かったのでした。

 入ってみると氷見高校はとても地元色が強く、野球部の監督から、「高岡の奴は3年間レギュラーになれないけど、それでもいいか?」と聞かれます。でも、そこでシュンとならないのが小泉さん。逆に『なにくそ、必ずレギュラーになって監督を見返してやる!』と、毎日家でも血豆ができるほど素振りをし、トレーニングに汗を流す日々を送ったのでした。1年の時にもレギュラーになれそうだったのですが、それはつぶされました。でも、2年からはレギュラーとしてショートに抜擢されたのです。しかし、努力の甲斐むなしく、甲子園には行けませんでした。試合の前にキャプテンのうちに泊まり込み、一緒に練習もしたのですが、その子の練習を見て愕然とします。自分はホントに血豆をつぶすほど家でトレーニングしていたけど、その子は素振りもほんの数分するくらい。ああ、こんなんじゃ甲子園に行けるわけないじゃないか、と急に熱が冷めたのです。プロにも行きたかったけど、そもそもプロになる子は素質からして全然ちがうということも身近でまざまざと見せつけられたので、プロに行く道はあきらめました。

 それまで野球バカで野球しかしてこなかった小泉さん、ここでタガが外れました。夜遊びしたり家に帰らなかったりするようになったのです。しかし、野球を頑張っていたこともあり、私立大学からはいくつか推薦も来ていました。でも、それは全部断りました。
 しかし、親はどこでもいいからとにかく進学しろといい、お父さんも卒業したという柔道整復師の専門学校に入ることになったのです。しかし、柔道整復師の専門学校は柔道をやっていない学生はいじめの対象になりました。何かにつけてしめられることが多く、教科書を忘れただけで腕立て伏せを2時間やらされたり、殴られている学生もいたくらいです。また、柔道部だった学生は下駄をはかせてもらえるのですが、やっていなかった小泉さんはたった1点足りないだけで、留年の憂き目にあいます。しかし、これで持ち前の反骨精神に火がつきました。なにくそと1年間猛勉強したところ、次の年は楽勝で柔道整復師の国家試験にも合格できました。それまで全く読書もしてこなかった小泉さんですが、その時からいろいろな本を読むようになりました。

 こうして晴れて柔道整復師の資格を取り、整形外科に就職した小泉さん。しかし、その世界は、ドクターをトップとして形成されるピラミッド型で、ピラミッドの下の位置にいた小泉さんは、思ったことがあっても何も言えない、何も通らない、そんな状況だったのです。親にお金を返していたので、お金も全然たまらない、それでとうとう鬱状態に陥り、その病院は辞めました。
 次に働いたのは接骨院でしたが、ここでもグレーな部分をいっぱい見てイヤになってしまい、3か月で辞めてしまいます。
 そして、また別の整形外科でも働きはじめたのですが、ここもトップダウンの組織でした。小泉さんは専門職ではなく、バスの送迎係をやらされ、それについて意見したところ、君はそういうことを言えない立場でしょ、と言われ、また失意のうちに仕事を辞めることになったのでした。
 その後、特養ホームでの仕事を紹介されて、給料の話もしないままに働き始めたのですが、実際に働き始めると、とても安い給料で、結婚もしていた小泉さんはこのままでは食べていけないと整体とかけもちで仕事していました。
 そんな無理もたたったのか、急性腎不全を発症。水で体重が13sも増えてしまい、緊急透析が必要だと言われました。しかし、一度人工透析を受けると、その後ずっと透析を受け続けなければいけない体になってしまいます。それだと家族に迷惑をかけることになってしまうと、小泉さんは人工透析を断りました。パンパンになっていた体のむくみが、透析を断った次の日から奇跡的に引いてきて、2か月入院することにはなりましたが人工透析を受けずに済んだのでした。
このまま、組織の中で働き続けるのか、それとも自分が目指す道で行くのか、大病をした小泉さんの中で答えは出ていました。自分で開業しよう。
 こうして2015年に施術院 空のヒカリを開業したのです。

 実際にNTAに出会ったのはそこからさかのぼること5年の2010年のことです。実は、小泉さんは2009年にお子さんを死産で亡くされています。そういうこともあって、NTAの勉強を始めました。勉強初めてすぐに感銘を受けました。こういう価値観が世の中にあるんだ。なんだか世界がグルンと回ったような気がしました。いいと思うことも悪いと思うことも、全ては自分の心が作り出しているのだと気づきました。そうしてあらゆることに感謝することを始めました。見える状況はそんなに変わってはいない。けれど、人生が好転しはじめたのです。しかし、特養ホームでNTAを使った施術をやっても評価されることはありませんでした。それまで歩けなかった人が歩けるようになったりするので、逆に困ると言われることもありました。症状が軽くなると点数が減点されて、施設に支給される額も減るからです。

 そういうこともあって、小泉さんは独立の道を選びました。自身が病気になったことで、出会う人も変わりました。そんないろいろな人との出会いでここまで来れたのだと思っています。

 NTAは奥が深く、雲をつかむような感覚があります。やればやるほどますます奥行きが深くなるので、2回くらい本気で辞めようと思ったこともありました。でも、その度に、いや、この施術で救われている人がこれだけたくさんいる、信じてやっていこうと続けてきました。開業して一つの目標はクリアできました。しかし、やっていく中で、また迷いも出てきました。よくいつも目標設定しろと言われますが、それがしっくりきませんでした。単に喜ばれることを目的にしていてそれでいいのだろうか?腑に落ちないことが続いて自分がパニック障害のような状態になってしまったこともありました。そうしているうちに、ネフローゼが再発し、健康に不安を抱えているこんな自分がやっていていいのかという気持ちにもなりました。けれど、家族を抱えている以上生活がありました。
 不安や怖れに襲われている時に、笛奏者の福井幹さんに会う機会があり、そこで話をしている時に、不安や怖れがなくなり、ストンと落ちた瞬間がありました。人に喜ばれることが大義名分であるとしたらそれは水面にあるもの。それが息苦しくなるとしたら、そこにいるステージがちがう。ライトワーカー(光の仕事)という役割の人もいて、その役割のある人はニコニコ笑っていたらいい。それはやっていて自分も楽しいし、周りも楽しくする。でも、ライトワーカーの人が人を喜ばせるためにという大義名分を掲げるとしんどくなってしまう。メンターに欲を失くして自分を律するしかないと言われるととてもしんどい。そうではなく、自分も楽しめるライトワーカーとしての役割を担えているのならそうありたいと思った時に、心がすうっと軽くなりました。ですから、小泉さんは今、自分がやりたいことをやってできることを楽しんでいければいいなと思っています。病気に一喜一憂しないことも身を持って学びました。薬を使わない人体実験もしています。施術院の名前が「空のヒカリ」なのは、希望の光になれたらいいなという思いと空(くう)というのは根源でもあるからです。

 ある時、寝ている時に小泉さんに愛、希望、感謝そしてサハスーラという声が何度も聞こえ、頭にすうっと光が入っている感覚がありました。その時はサハスーラという言葉に意味があるとはわからなかったのですが、後にサハスーラとは第7チャクラ(頭頂)のことを意味すると知ったのです。光のエネルギーをツールにして自分の持っている色で仕事をしなさいという意味だと確信しました。自分も幸せでみんなも幸せになる世界を目指したい、小泉さんはそう思っています。

 興味のある人は一度小泉さんの施術を受けてみてください。西洋医学でもない、整体や接骨院でもない、大自然とつながるような不思議な感覚になります。身体の不調だけでなく、心の不調も和らげてくれるのが、空のヒカリなのです。


今日の人174.横田宗親さん [2018年02月12日(Mon)]
 今日の人は、自治体国際化協会多文化共生部部長の横田宗親さんです。
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多文化共生に関わる仲間たちと 
向かって右端が横田さん

横田さんは1987年に群馬県庁に入庁後、1989年に自治省(現総務省)に入省。国際室係長、財政課係長、兵庫県宝塚市行財政改革担当部長、埼玉県さいたま市財政部長、自治税務局固定資産税課交納付金管理官などを歴任。2017年4月より一般財団法人自治体国際化協会多文化共生部長として自治体や国際交流協会における災害時外国人支援や多文化共生施策の支援に取り組んでいらっしゃいます。
経歴だけ見ると、「うわ~」って思っちゃいますが、横田さん、実はグレてたことがある!

 横田さんは昭和42年に前橋で生まれ前橋で育ちました。家はサッカーで有名な前橋育英高校のすぐそばです。
今はとっても陽気で誰とでもすぐに友だちになれる横田さんですが、小さい時はとてもおとなしかったそうです。あまりにもしゃべらないので、お母さんが心配して児童センターに相談したくらいでした。

 しかし、小学校に入ってからはすっかりおしゃべりになり、クラスの人気者に。仲良し5人組でいつも外で遊んでいました。昔ながらの缶蹴りをしたり、秘密基地を作ったり、川で釣りをしたり、みんなで将来の夢を書いたカプセルを埋めたり。ちなみにそのカプセルはまだ掘り出しておらず、またどんな夢を書いたのかも覚えていないそうです。カプセル、いつか見つかるといいですね。

 ピンクレディが好きでよくみんなの前で踊っていました。今の横田さんの風貌からは到底想像できないのですが…。今度機会があったら見てみたい♪
野球も好きで家中みんな巨人ファンでした。2歳年上のお兄ちゃんだけ、なぜか中日ファンでした。お兄ちゃんとはよくケンカもしましたが、今ではとても仲の良い兄弟です。

 5年生の時、塾の先生に恋をします。石野真子似のとってもキュートな先生でした。そこで俄然勉強も頑張り出した宗親少年。一気に成績が伸びました。

中学ではバスケ部に。同学年の部員が20人もいる大所帯でしたが、とても楽しく、夏休みには自主練もこなすくらい熱も入っていました。中三ではレギュラーを勝ち取ります。
クラスでは学級委員で、生徒会長選挙にも立候補。残念ながら当選はしなかったのですが、生徒会では書記を務めていました。バレー部の同級生の子と当時流行っていた交換日記も回したりして、楽しい中学生時代を過ごしたのでした。

 高校受験は、模擬試験で合格圏内に数回しか入らなかったにもかかわらず、お父さんに県内一の進学校の前橋高校を受けろと薦められ、そこを受験することに。横田さんご自身は本当は別の高校に行きたかったのですが、そこを受けることはできませんでした。しかし、前橋高校には落ちてしまい、東京農業大学附属高校に行くことに。これが横田さんの一つ目のターニングポイントになりました。行きたい高校に行けず、高校に落ちたショックからか、ぐれ始めたのです。内緒でバイクに乗ったり、ロカビリーにハマったり、とにかく家には帰らず、友だちの家にたむろったりと遊び呆けていました。 そんな中、お母さんは「あの子は本当は別の高校を受験したかったのよ」とお父さんにちらっと言った時に、お父さんが怒って、お母さんにてをあげたことがありました。それに腹を立てた横田さんはその後ずっとお父さんとは口をききませんでした。  
けれど、お母さんのことを悲しませては絶対にいけないと思っていたので、グレても人に迷惑をかけるようなことは決してしませんでした。  

 高校3年生になった時、就職しようと横田さんは考えていたのですが、ここでまたお父さんから群馬県立農業大学校に行くことを薦められ、薦めのままに全寮制の2年制の農業大学校に入りました。しかし、ここでもちっとも勉強はせず、ひたすら遊びまくりました。派手な車に乗り、ナンパ街道と言われているところで、友だちと可愛いい子を追っかけまくってました。そんな中、20歳になる手前、就職のことを考えなくてはいけなくなった時、横田さんははたと思ったのです。今までさんざん親に迷惑や心配もかけたし、ここで何とか男気を見せよう!そうして、2か月猛勉強して、県庁職の公務員試験に合格したのでした。    

 こうして20歳の時に群馬県庁に入ります。最初に配属されたのは精神病院の医事課でした。辞令交付後の初仕事は、なんと亡くなった患者さんの立ち合い。家族が来るまでの1時間半。霊安室で過ごしたのです。
 精神病院には実にさまざまな人がやってきます。それは自分がそれまでに経験したことのない世界でした。全身に入れ墨を入れた人、アルコール中毒や薬中毒の人、外来患者で仲良くなって、なんとか来なくてもよくなった人たちが、何か月かしてまた再びやってくる。そして、いい時と悪くなった時はまるでちがう人になっています。
「こんな病気で苦しむ人たちが世の中にいるんだ、自分はなんて幸せ者、もっと頑張らなきゃあかん!」最初に精神病院に配属されたことは横田さんにとって自分の人生を真剣に考えるとても大きなきっかけになりました。そうして、自分にはもっと本気を出してやれることがあるんじゃないか、そう思うようになりました。
 
 ちょうどそんな時、自治省に行く試験があるから受けてみないかと上司に言われます。横田さんはその試験に見事パスし、自治省(現総務省)に入省したのでした。そして、入省後に夜間大学にも通わせてもらいました。

 自治省には東大を卒業したバリバリのエリートがたくさん入ってきます。そんな中で横田さんの経歴は異例かもしれないけれど、東大卒のエリートでは決して体験していないようなことを体験してきたことは紛れもなく横田さんにとっての宝物です。今まで挫折を味わったことがない人たちはポキッとすぐに折れてしまうけれど、横田さんには柳のようなしなやかさがあります。何があっても対処できる多様性があります。もし、横田さんが前橋高校に受かって、ずっと優等生の道を歩いてきたら、今のようにいろんな視点を持つことができなかったかもしれません。

 そんな横田さんの経験が発揮されたエピソードをひとつご紹介します。横田さんが兵庫県宝塚市行財政改革担当部長をされていた時のこと。督促状に怒った恐い人が部長室にまで怒鳴りこんできたことがありました。普通ならビビりそうなところですが、そこは昔やんちゃしていた横田さん。そんな怖い人に絡まれることもあったので、熱くなっている相手にとっても冷静に事態を収拾したのでした。きっと部下の皆さんもそんな部長を「なんて頼もしいんだ!」と思ったことでしょう。

 平成7年から9年にかけては国際室でJETや、ODA予算で途上国の政府機関幹部との交流事業をアレンジをする仕事をしていたのですが、これがとても楽しかった。ただ途上国の人たちと直接話したいと思っても通訳を介してのコミュニケーション、英語をもっと勉強してればと後悔したそうですが、昨年からクレアの多文化共生部勤務になったので、奮起して英語を習い始めました。宿題がとても多くて大変なのですが、五十の手習いもまた楽し、とレッスンに励んでいます。

 スポーツも得意な横田さん。若い頃のサーフィン、今はたまにのゴルフ、息子さんの野球の審判とこちらも多彩です。サーフィンをやっていて真っ黒だった若い時のニックネームはボブ。「あ~、なるほど」と横田さんに会ったことのある人はきっと思うにちがいないですね。
 五十歳になって、退職後のことも視野に入れて考えるようになってきました。子どもが大好きなので、子どもたちに何か教えたい、そんな場を作りたいとも思っていますし、日本語教師にも興味があります。居酒屋もやりたいと思っています。いっそ、夜は居酒屋をやって、その場所を昼は日本語教室や子どもたちの居場所にするというのはいかがでしょうか?そんな場所ができたら、きっと私もしょっちゅう顔を出します。

 そんな横田さんの座右の銘は「笑門来福」そして、座右の銘と一緒に心がけている言葉が「人生お一人様一回限り、楽しみま笑」
 だから、今日も横田さんは笑顔です。
 多文化共生に取り組む全国各地の多文化共生マネージャーの皆さんにはぜひとも一度会っていただきたいなぁと思う豪快で素敵な部長さんなのでした。 
今日の人173.鵜飼ひろ子さん [2017年12月30日(Sat)]
今日の人は、インドに本部を置く国際NGOアートオブリビングのインターナショナル認定講師の鵜飼ひろ子さんです。ひろ子さんは、富山県で呼吸法を広めたい、そしてたくさんの人たちの笑顔が見たいという思いで、子育てをしながら活動中です。
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 ひろ子さんは氷見市生まれ。自営業の家で育ちました。両親も祖父母もとても忙しかったのですが、常に従業員のおばちゃんたちが10人以上いて、とてもにぎやかな家でした。しかし、両親が忙しすぎることもあって、ひろ子さんは自分は親に心配かけないように、わがままを言わないように、保育園の頃から常にそんなことを考えている子どもでした。そんなわけで自分を出さないことが癖になってしまった子どもらしくない子どもだったのです。

 保育園の頃はおませさんで、イヤリングをつけたり女の子らしい恰好をするのがとても好きでした。でも、ある時、襲われそうになるという恐ろしい目に遭い、女の子らしくしているのが怖くなりました。しかし、自分を出せないひろ子さんはそれを誰かに言うことをしませんでした。女の子らしくするのが恥ずかしい、そう感じるようになってしまったひろ子さんは、それ以来ずっとショートヘアで過ごします。女の子らしくするのはイヤだ、怖い、というひろ子さんの心の叫びだったのかもしれません。しかし、それは誰も知らないことでした。本当はもっと甘えていいはずなのに甘えられない。そんな子ども時代を過ごしたのです。
 その頃の日常は、友だちと外で虫捕りをしたり、海岸に基地を作って遊んだりして、家へ帰ってからは家業のお手伝いでした。ひろ子さんはどちらかというとおじいちゃん子でした。おじいちゃんは、戦争を体験してきたこともあって、よくひろ子さんに戦争話を聞かせました。厳しいけれど、情に熱いおじいちゃんのことが大好きでした。両親より祖父母と一緒に過ごす時間が長いくらいでした。しかし、小さい頃はおじいちゃんが好きだと素直に言えない子どもでした。

 ひろ子さんに転機が訪れたのは小学校5年生の時でした。ハンドボールを始めたのです。氷見はハンドボールの実力が全国でも有名です。やっているうちにどんどん好きになりました。その頃、特になりたいものはなかったのですが、まさにハンドボールが生きがいでした。

 中学生になっても当然のようにハンドボール部に入ります。体力テストでも常に上位で、ハンドボールをやっている自分を誇らしく思っていました。でも、やはり自分を外に出すことは苦手なままでした。反抗期って何だろうというくらい、全くもって従順な子どもでした。けれど心の中にはいつも何かしら素直に自分を出せないイライラが付きまとっていました。中3の時には全国大会にも出ましたが、自分にはスポ根が向いていないんじゃないかと思い始めてモヤモヤしていました。けれど、ハンドボールが強い氷見高校から推薦をもらい、疑問を持ったまま進学。

 しかし、モヤモヤを抱えたままだったので、スランプに陥ります。あんなに楽しかったはずのハンドボールが全く楽しくない、絶望的なものを感じるようになりました。
 実はひろ子さんはダイエットがきっかけで摂食障害にもなっていました。このままでは自分は本当にダメだと思ったひろ子さんは意を決して親に言います。「心が風邪を引いたみたいなので、病院に行きたい、」と。カウンセリングが始まって、ひろ子さんは初めて知りました。『ああ、自分のことを話してもいいんだ。ちゃんと私の話を聞いてくれる人がいるんだ。』
そこでハンドボールを辞めたいということも打ち明けました。そして、3年生のインターハイの2か月前にハンドボールを辞めたのでした。
 急に辞めて迷惑をかけたけれど、ひろ子さんはやっと自分を正直に出せるところに辿りつけた、と感じました。それがとても大きかった。でも、ハンドボールを辞めてしまった時、学校に行く目的を失ってしまいました。不登校気味になりましたが、補習をしてもらってなんとか卒業しました。
 カウンセリングに通っている中で、毎週来ているガリガリに痩せた子を見て、自分と同じように苦しんでいるそんな子どもたちの心のサポートが出来たらいいなと思うようになりました。中学生の時はキラキラしていたけれど、穴に落ちてしまった。キラキラしたところにいない自分だけど、自分に正直に素直になれることはホントに大事だと思うのでした。

 そして、作ることが好き、作ることで何か表現したい、と思うようになりました。最初はデザイナー専門学校に入ったのですが、自分の求めていたものと違うと感じて1か月で辞めてしまいます。身内が奈良に住んでいた縁で、ひろ子さんも奈良に行き、アルバイトをしながら自分を表現できる素材を探し始めました。その頃になると、摂食障害はほぼ治っていました。自分の体の痛みが生きている証だと感じていた状態をようやく脱することができたのです。

 そんな中で、陶芸の作家さんに出会います。手伝いに行って土を触る時間がたまらなく好きだったひろ子さんは、もっと陶芸を学ぼうと心に決め、京都造形大学の陶芸コースに通い始めました。そこでのバイト先の人が本当にいい人たちで、見守ってもらえる感が半端ありませんでした。彼らの陽気さに本当に救われたひろ子さんだったのです。

 そして、バイトで人生の大きな転機も迎えました。バイト先で、生涯の伴侶に出会うことになったのです。彼の明るさの中には、自分にはない何かがある、そう思いました。彼は京都大学の大学院でシナプスの研究をしていたのですが、なんとそこから飲食店に就職。結婚した2人は千葉に住み始めました。

 関東の陶芸仲間と作品展を開いたり、陶芸教室の手伝いをしていたひろ子さんですが、ある日突然作品が作れなくなってしまいます。一人の時間が多くなり、旦那さんは仕事で忙しい。モヤモヤが徐々に募っていきました。そんな時に、千葉から大阪に移ることになりました。

 大阪では身体や心のことをもっと学びたいと東洋医学のことについて学びました。カラーヒーリングやスピリチュアル系のことも学び、そんな中で呼吸法も薦められました。これがすごくよかった。その時、旦那さんはストレスMAXで口が開けられない等の症状がいろいろ出ていました。そんな時に呼吸法を旦那さんが受けたら症状がすごく改善されたのです。ハンドボールを辞めてからずっと暗いトンネルにいたような感覚が常にありましたが、呼吸法をやるようになってから、その暗いトンネルをすっかり抜けられたのです。そうして物事をポジティブにとらえられるようになりました。呼吸法をやることで自分のエネルギーの状態がよくなると、見え方も変わってくるようになったのです。

 お子さんがまだ1歳にならない頃、旦那さんは東京でもう少し学びたいと上京し、それを機にひろ子さんとお子さんは氷見に戻ります。最初は仮住まいのつもりでしたが、旦那さんも富山に来て、塾を経営し始めました。鵜飼塾という名のその塾は今、口コミでどんどん広がり、キャンセル待ちになっているほどの人気です。

 呼吸法に出会い、世界各地のイベントにも出かけるほど積極的になったひろ子さん。ドイツでのアートオブリビングに参加した時は世界中の人がヨガでつながるという感覚を体感しました。インドで伝統的なヨガに触れた時は、自分自身に出会えた、そんな感覚を味わいました。3歳の子どもを連れての参加でした。

 その後ひろ子さんは、富山で呼吸法を広げたいと思って、月に1回先生を呼ぶようになりました。そして次第にいろいろなクラスを開設するようになっていきました。たまった毒素を体外に排出してくれるスダルシャンクリア呼吸法。ビジネスマン、うつで苦しんでいる人たち、いろいろな人がこの呼吸法に出会うことで笑顔になっていきました。学校の中で行う思春期向けのプログラムもあります。

 人間関係で自分の足りない部分に直面した時に呼吸法に出会えたおかげで逃げなくなりました。楽しいこともあれば、大変なこともある中で、ひとつひとつのことに一喜一憂しなくなりました。

 そんなひろ子さんがこれからやっていきたいことは、呼吸法や瞑想を通して、幸せな人、幸せな家族を増やしていくことです。たくさんのストレスを抱えて息も出来なくなっているかつての自分のような人が、ストレスのとらえ方を変えて笑顔になれたらいいな、と思っています。呼吸法を行うことで、考えを過去や未来ではなく、うまく「今」に持ってくることができます。感情を呼吸のリズムでうまくもってこれるようになるのです。身体も心も軽くなる感覚が味わえます。

 ひろ子さん自身、今も毎朝必ず呼吸法をやります。だからきっといつも穏やかでとびきり素敵な笑顔なのですね。

 ストレスとは切っても切れない現代社会、いくらポジティブでいようと思っても、次から次へと湧いてくる厄介な問題、沈みがちなココロにたくさん栄養をくれる、そんな呼吸法を私も一度ぜひ体験してみたいと思いました。皆さんもご一緒にいかがですか。

 ひろ子さんの教室のお問い合わせは⇒https://ameblo.jp/hiroko-jgd/

今日の人172.新田八朗さん [2017年12月14日(Thu)]
 今日の人は、日本海ガス代表取締役社長で、富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田八朗さんです。
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 新田さんは1958年富山市生まれの富山市育ち。周りの友だちが「巨人の星」に夢中になっている子どもの頃、新田さんの興味があったのは「日立ドキュメンタリーすばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」でした。まだまだ海外旅行が高根の花だった時代。いつか一回は海外へ行きたい、そんなことを夢見る少年だったのです。

 富山大学附属小学校に通っていた新田さんは、小学校の図書室の本は全部読破した位、読書少年でした。心置きなく本が読めるからという理由で図書委員もやっていたくらいです。それはお母さまの影響も大きかったのかもしれません。忙しい家事仕事の合間に時間が出来ると、いつも本を広げている読書好きのお母さんでした。そして、新田さんが小さい時は国旗クイズと称して、毎晩本を広げてこの国旗はどこの国?とクイズを出すのでした。新田さんはお母さんとのそんな時間もとても好きでした。世界のことにいろいろ興味が湧いたのもそんな親子の時間が始まりかもしれません。そういうわけで、いつの間にか世界中の国旗を全部覚えてしまったのでした。

 お母さんは星の見える日には、新田さんに星座のことも教えてくれました。そうしてその星座にまつわるギリシャ神話も話してくれるのでした。そんな環境で育った新田さんはいつの間にかすっかり本の虫になったのです。
 低学年の頃は本の内容でわからないことがあると、お母さんに尋ねていましたが、高学年になっていろいろ質問していると、「今忙しいからまたあとでね」と言われることも増えてきました。ああ、これを聞きすぎてお母さんに恥をかかせてはいけないな、と思った新田さん、それからは富山市立図書館に通って自分でいろいろ調べるようになりました。なにしろ小学校の図書室の本は読破してしまっていたので、次はもっぱら市立図書館に通うようになったのです。図書館が家から歩いていける所だったのも幸いでした。

 もっとも、新田さんはずっと本ばかり読んでいたわけではありません。体を動かすことも好きだったので、友だちと外でドッジボールやサッカーもよくやっていました。児童会長もやっていたので、きっと子どもの時からリーダーシップを発揮していたにちがいありませんね。

 中学校も附属中に進み、新田さんはサッカー部に入りました。ポジションはレフトウイング。花形のフォワードです。中3の時には彼女も出来ました。デートは一緒にお好み焼き屋に行くというようなかわいらしいものでしたが、前日にお好み焼きを焼く練習をしていたのを懐かしく思い出します。その頃は携帯電話なんてもちろんない時代ですから、約束の電話をするのにも「電話にお父さんが出たらどうしよう」なんてドキドキしたものです。彼女とは「一緒に中部高校に行こう」と約束していたのですが、新田さんは先生から富山高校へ行くように振り分けられてしまい、彼女とは別々の高校になってしまったのです。

 こうして高校は彼女とは離れて富山高校の理数科へ。いつの間にか彼女とも会わなくなり、新田さんは理数科の中では落ちこぼれの部類でなんだかパッとしない高校時代なのでした。部活は高校でもサッカー部。しかし、サッカーよりも思い出深いのは、高3の時の運動会の騎馬戦でした。新田さんは下から2騎目の騎馬の騎手だったのですが、なんとあれよあれよと勝ち進み、敵の大将に勝ってしまったのでした。担任の先生もクラスが優勝したのは初めてだと感慨深げに言ってくれました。

 しかし、県内きっての進学校、やがてクラスも勉強一色になります。この時の理数科のクラスは本当によくできる生徒たちでした。クラス40人のうち半分近くが東大に、11人が医学部に、そして残りも京大や東工大などなど。数学は好きだったけれど、理科があまり好きではなかった新田さんは理数科の中の文系組でした。さすがにちゃんと勉強しようとエンジンがかかったのはようやく高3の夏休み。けれど、そこはやはり子どもの時から圧倒的な読書量で培ってきた豊富な知識量のある新田さんです。一橋大学の経済学部に現役で一発合格を果たしたのでした。
 
 こうして東京での一人暮らしが始まりました。しかし、新田さんのアパートから一橋大のキャンパスまでは電車で2時間かかりました。何でそんな遠い所にアパートが?と不思議ですが、実は、息子の成績を心配していたお父さんが、「ここなら受かるだろう」と慶応大学のある日吉に合格前にアパートを借りてしまわれたからなのでした。でも、これがよくなかった。新田さんはほとんど大学へ行かず、慶応の学生たちと麻雀したり、早慶戦を見に行ったり、すっかり慶応ボーイと化していたのです。気付くと1年生の時に取れた単位はゼロ。さすがにこれではいかんと思い、大学に近い所に引っ越します。2年生からはラグビー同好会に入って、ラグビーも始めました。同好会とはいえ体育会のノリなので、飲み会の時は大変でした。けれど、そのつながりは深く、その時の仲間は今でもいい友だちです。

 2年生からは勉学もきちんとやりました。そんな中、子どもの頃に抱いていた海外への憧れがよみがえってきました。よし、それなら外国に行ける外交官になろう!そう思った新田さんは、外務公務員上級試験を受けることにしました。しかし、試験の前日、試験で緊張しないようにと励ましに来てくれた悪友たちと麻雀が始まってしまったのです。いっそ徹夜したらよかったのですが、夜中に一人また一人と寝込んでいき、新田さんも途中で沈没。目が覚めると、なんととっくに試験が始まっている時間だったのです。しまった!と思っても後の祭り。しかし、わざわざ浪人してまで外交官試験を受けようという気にもならなかった新田さんは、銀行に就職することに決めました。

 第一勧業銀行に入った新田さんは、がむしゃらに働きました。でも、それが楽しかった。どんなに遅くなっても、仕事と一日の終わりをちゃんと区別するために、先輩と飲みに行き、また次の日の7時から仕事。ゆるい大学生活とはちがって、とことん自分を追い詰めるような日々でしたが、それを苦痛と感じることはなかったのです。
 月曜から土曜まではそのように過ごし、日曜は銀行のラグビーチームの練習に連れて行かれました。ラグビー強豪校出身の選手もたくさんいて、そんなメンバーとやるラグビーも楽しく、まさに1週間フル回転状態でした。社内の海外留学試験にもパスし、「外交官にはなれなかったけれど、これで海外に行く夢を果たせる!」そんな思いを抱いていました。
 
 そんな矢先です。お父さんが入院し、お見舞いに富山に戻った時のことでした。病床のお父さんが新田さんに言いました。「よかったら戻ってこないか」それはつまり会社を継いでほしいということに他なりませんでした。銀行に戻って人事の人に相談したところ、
「新田君、それは帰ってあげなさい。親孝行してあげなさい」と言われ、新田さんの心も決まりました。

 こうして2年の銀行勤めの後、富山に戻ってきました。そしてお父さんが社長を務めておられた日本海ガスに入社したのです。しかし、息子が戻ってきて気力が戻ったのか、お父さんはすっかり元気になって仕事にも復帰。同じ会社に入った途端、それまでの親子という感じはなくなりました。2人は経営方針を巡ってよくぶつかりました。どちらも会社をよくしたいと思えばこそのことでしたが、若い新田さんには腑に落ちない所もありました。
 
 そんな新田さんは富山に戻って2年で富山青年会議所(JC)に入会します。JCの活動は自分自身が楽しく、また社会の役にも立つ活動でした。一生懸命やれば役も上がっていき、会社でお父さんに叩かれても、JCでは認めてもらえました。そしてJCで頑張れば海外に行くチャンスもありました。JCでの活動中、新田さんが訪れた国は30か国にもなりました。フィリピンのスモーキーマウンテンには衝撃を受けましたが、そんな過酷な環境の中でも子どもたちの笑顔は輝いていました。タイの孤児院では1日に1回食べられるかどうかの子どもたちが自分たちにできるせいいっぱいのもてなしをしてくれました。新田さんはそれを残さず食べましたが、中にはこんなまずいもの食べられないとばかりに残す人もいました。子どもたちにしたらめったに食べられないご馳走です。それを出してくれているのに、そんな態度しか取れないというのはどういうことだろう。自分たちが何のために活動しているのかを問い直されたような感じでした。ここの子どもたちは何もないように見えるかもしれない。でもとても大切な大きなものを持っているにちがいないのでした。驕ってはいけない、してあげていると思ってはいけない、いろいろな社会的活動に携わる新田さんですが、いつもそのことを肝に銘じているのでした。

 34歳で富山青年会議所理事長、38歳の時に国際青年会議所の副会頭、そして40歳で日本青年会議所の第47代会頭として新田さんは大活躍されました。青年会議所は40歳で卒業なので、今はOBとして後輩たちの活動を見守っています。人育てが得意な新田さんは「金は出すけど口は出さない」がモットー。なるほど、納得です。

 平成12年には日本海ガスの代表取締役社長に就任され、現在は富山経済同友会代表幹事や北陸経済連合会常任理事等を務められ、名実ともに富山の経済界のトップリーダーとして日々お忙しくしていらっしゃる新田さん。少子高齢化は避けられないことだけど、減るペースを減らすことはできる。そして、経済界として、雇用で応援していく。そのための仕掛けも今、いろいろと考えていらっしゃいます。「もちろんダイバーシティの視点を大切にしていきます」との心強いお言葉もいただきました。

 日々お忙しい新田さんですが、楽しい時間は仕事と関係ない仲間と飲みにいくこと。なかなかそんな時間は取れないからこそ、仲間との時間はとても大切な時間です。

 そして、今やりたいことはフランスやイタリアの田舎を予定を決めずにレンタカーで回ること。所々でワイナリーに寄りながら1か月くらいかけてゆっくり回りたい、そんな時間をいつか持ちたいと思っています。子どもの頃に憧れを抱いて見ていた「すばらしい世界旅行」や「兼高かおる世界の旅」のような旅を、きっと新田さんはされるにちがいありません。もっとも、富山の経済界が新田さんを放ってはおかないので、ゆっくりその夢を叶えるのはまだまだ先の話になりそうです。

 
今日の人171.前田昌宏さん [2017年10月19日(Thu)]
今日の人は、APA SPORTS CLUB執行役員and健康運動指導士の前田昌宏さんです。
前田さんは、とやま健泊もコーディネートして、富山の人々の健康をバックアップしています。とやま健泊は富山県内の宿泊施設に泊まって、運動指導と栄養指導を受けられるというプログラムを役安で受講できるとっても素敵なプランです。ぜひチェックしてみてください⇒http://toyama.kenpaku.jp/
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 前田さんは1967年に石川県で生まれ育ちました。男3人兄弟の真ん中だったので、常に微妙な立ち位置でした。家は温泉街で散髪屋をやっていました。そういうわけで両親はいつも忙しく、保育園にはおじいちゃんが送り迎えをしてくれました。小さい頃はおじいちゃん子だった前田さん。太っていたのでコロがあだ名でした。あんちゃん(お兄さん)の友だちと一緒に外遊びをする毎日。上の人たちからはとても可愛がられました。

 昔から根はマジメで、必ず宿題をしてから遊びに行っていました。勉強もよく出来たので、いつも学級委員に選ばれていました。でも自分の思いが通らないと泣いてしまうところがありました。今でも内面はナヨナヨしていると思っています。(外見からは全く想像できないのですが)そんな小学校時代の悲しかった思い出は、児童会長選挙に出たくないのに立候補させられて、挙句に落選してしまったというものです。勉強ができる子よりも、人気があって笑いが取れるタイプの子が選ばれやすいですものね。
 
 子どもの頃から柔道をやっていて、その後は野球をやり始めます。野球クラブではキャッチャーでした。中学校でも野球部に入り、ポジションはやはりキャッチャー。キャプテンも務めましたが、最後の大会の直前に正キャッチャーの座を奪われてしまいます。その子が試合で逆転ホームランを打ってチームが勝利したので、嬉しい反面とても複雑なのでした。中学時代のほろ苦い思い出です。けれど、後に彼が甲子園で活躍したので、その時は素直に嬉しかった前田さんでした。

 小学校の時から、将来は先生になりたいと思っていました。ずっといい子で来て、何の疑問も持たずに来たので、グレる子を見てもなんであんなことをするんだろうと不思議に思うのでした。しかし、中学校で成績が落ち始め、高校は当初のランクを落として地元の高校へ進学しました。当時流行っていたスクール・ウォーズにあこがれていたことと、ラグビーの早明戦を見て絶対高校に行ったらラグビー部へ行くぞと決めていたので部活は当然のごとくラグビー部へ。花園を目指してラクビーに燃える高校時代を送ります。しかし、思春期の悩みもありました。前田さんは両親から勉強しろと言われたことはただの一度もなかったものの、家族で宗教に入っていたので、日曜は必ずお祈りに行けと言われていました。でも、部活をやっている以上、日曜も部活に行かなければいけない日がほとんどでした。自分は部活に行きたいのですが、両親は宗教を優先しろと言う。その葛藤が常にありました。
 前田さんのご両親は理髪店をやっていたので、息子も理容学校に行けばいいという考えでした。勉強しろとは言われませんでしたが、お祈りに行けとは口酸っぱく言われました。それがイヤで、家を出たくて出たくて仕方ありませんでした。
 よし、大学進学して家を出るぞ!そう思いましたが、両親は国立でないとやれないと言いました。共通一次試験で思いのほかいい点数が取れて、前田さんは金沢大学教育学部に合格。しかし、両親はそれも宗教のおかげと言うので、前田さんはそれに反発し、どうしても家を出たいとアパートで一人暮らしを始めました。

 しかし、いざ一人暮らしを始めると、とても寂しく(そう、前田さんは子どもの頃からとても寂しがりやなのです)結局週に2回くらいは実家に帰っていました。教育学部で体育教師を目指しながら、体育会のラグビー部の活動やアルバイトにも忙しい日々でした。バイクの免許も取って、バイクにも乗っていました。(大学の頃は原チャリでしたが)バイク乗り、だけど一人で行動するのは嫌い、お1人様の食事なんてとんでもないことでした。でも、寂しがりやなのを人に知られるのは嫌でした。寂しいけど、ちゃんとしなければならない、ずっとそんな思いに囚われていました。その思いから解放されるのは、それからずいぶん後のことになります。

 その頃の金沢大学は今と違って兼六園の中にありました。日本で唯一お城の中にあるキャンパスだったのです。ですから、ラクビー部でのお花見も城内の桜を見られるという贅沢なものでした。もっとも、前田さんはお酒が飲めない体質だったので、お酒を飲まされても吐いてしまうのでした。その頃の体育会と言えば飲まされるのが当たり前という感じだったので、前田さんのように飲めない体質の人には、相当大変だったことでしょう。

 大学1、2年の頃は体育教師になろうと思っていました。教育学部で体育専攻なのでそれは当然の流れです。しかし、親に手を回してあるからと言われカチンと来た前田さん。
そういう所で親の力を借りるなんて真っ平ごめんだから体育の先生には絶対にならない、そう心に決めたのです。

 前田さんは自分は親に愛されていないんだ、とずっと思っていました。親は宗教が一番大事で自分のことは大事じゃないんだと。でも、親が大事にしている宗教を否定するようなことはやはりできませんでした。自分は部活が忙しいから宗教を辞めたいんだとは言いだせなかったのです。かといって部活を休むわけにもいかず、ずっとモヤモヤとした葛藤がありました。それは高校生の時だけではなく、大学生になっても続きました。

 体育教師の道をあきらめた前田さんは一般企業への就職活動をやり始めました。ラクビー部で副キャプテンを務めていた実績も買われて、就職は案外すんなりと決まりました。
 
 そうして、ある大手企業で営業職として勤務することになったのです。しかし、営業の仕事は思っていた以上にきつく、ノルマは厳しく課せられるわ、いつも怒られてしまうわで、だんだんと追い詰められていきました。この仕事は合っていない、その気持ちがどんどん膨らんで、1年でやめることになったのです。

 仕事を辞めた後、しばらくは実家で何もせずに過ごしていました。しかし何もしない生活が3か月経った頃、大学の先生から「ちょっと大学に来い」と連絡が入ります。仕事を辞めて家にいると風の噂に聞きつけた先生が、このままではよくないと呼び出してくださったのでしょう。医王山にある大学のスポーツセンターでバイトしろと言われ、そこでバイトをやり始めました。スポーツセンターの管理が主な仕事だったので、木を切ったり草を刈ったりもしていました。半年くらい経った時に、このまま大学でアルバイトをしていても仕方がないと感じ始めます。でも、スポーツセンターでバイトして思ったのは、やはり自分は得意なスポーツを使って何か仕事が出来るといいなということでした。働く人の健康づくりを手伝う仕事がしたい、そう考えて金沢でスポーツクラブの採用面接を受けた所、富山に行ってください、と言われます。

こうして、アピアスポーツクラブに営業で入ったのが23歳の秋でした。いろいろ営業をしていく中で、工場の中にフィットネスセンターを作ってほしいという話も出て、実際に工場内フィットネスセンターを作り、スタッフを派遣するくらいの盛況ぶりでした。前田さんは富山で就職した後も社会人ラクビーを続けていたのですが、仕事が忙しくなりすぎて、27歳の時にラグビーを辞めました。それまで前田さんにとっての精神的支柱はラグビーだったので、ラグビーを辞めてしまうと、なんだか自分の中にポッカリと穴が空いたような気分になりました。ラグビーの練習以上にきついものはないのですが、逆に言えばラグビー以上に熱くなれるものもまた見つからないのでした。

前田さんが作った工場内フィットネスクラブの会員の中に精神的に病んでいる人がいたこともあり、前田さんはカウンセリングの勉強に行くことにしました。カウンセリングの勉強をする中で、自分自身の葛藤がどんどん表に出てきました。練習で自分がカウンセリングを受ける役になった時に、思いがけずずっと抱えていた親との葛藤の話を話しました。少しだけ話すつもりだったのに、先生にどんどん話を引き出されて、いつの間にか大泣きしている自分がいました。それまでずっと抱えていた気持ちを親に伝えた方がいいんじゃないかとその時に言われ、それまで伸ばし伸ばしにしていたけれど、ちゃんと伝えようと踏ん切りがつきます。そして、宗教を辞めたいと思っている気持ちを泣きながら親に伝えます。絶対に怒られると思っていたけれど、両親から言われたのは「わかった」という言葉でした。受け入れてもらえた。宗教から離れても大切にしてもらえるとわかって、前田さんは心の重荷が取れてすごくラクになれました。この出来事は自分の中では本当に大きなターニングポイントになりましたし、カウンセリングの大切さを身を持って知ることができたのです。31歳のことでした。

 同じ時期にプロジェクトアドベンチャーも学び始めます。プロジェクトアドベンチャーとはアメリカで開発された体験学習法をベースにした教育プログラムで、人間関係で最も大切な「人を信頼する心」や成長のために必要な自分自身を見つめ直すということを冒険をベースとしたプログラムを通して体験することができます。これは企業研修にも使えるんじゃないか、前田さんはそう思いました。グループで行動していく中で多くの気づきがあるからです。そして、このプロジェクトアドベンチャーとカウンセリングを同時期に勉強できたことは、その後仕事を進めていく上で大変有意義でした。

 前田さんはアピアスポーツクラブの会員さんとの出会いの中からも新しい発見をしていきます。42歳の厄年にはバイクも乗り始めました。これも会員さんの中でバイククラブがあって、そこに参加して乗り始めたのです。それから毎年、春は日帰り、夏は一泊でツーリングに出かけています。バイクで各地に出かけるのはとても楽しい時間です。
また会員さんの中にそば打ちの先生もいて、そば打ちも始めました。今では2段の腕前。そばを打って実家に持って帰るととても喜んでくれるのが嬉しいのでした。

 人とのかかわりは好きだけど、べたべたする関係は苦手です。だから会員さんとそばを打ったり、たまにツーリングに行ったり、そんな距離感がちょうど心地いいのです。

 そんな前田さんが今、力を入れているのはとやま健泊。とやま健泊とは、健康上の問題で日常生活に制限のない期間を示す「健康寿命」を延ばそうと、富山県が昨年から行っている健康合宿です。生活習慣病予防に効果的な運動や食事について1泊2日で指導しているのですが、それを全般的にコーディネートしているのが前田さんなのです。今年は富山県内6会場で計12回実施中。立山国際ホテルや桜池クアガーデンに泊まって、1泊2食+健康指導+アクティブレジャー代金も入れて8000円という破格のお値段!みなさんもぜひホームぺージをご覧になってみてください。実は私もこのとやま健泊に参加して前田さんと知り合ったのでした。

 そんな前田さんには、もっとスポーツクラブの拠点を増やしたいという夢があります。もっともっとたくさんの人に体を動かす楽しさを伝えて、健康づくりの役に立ちたい。体の健康だけではなく、心の健康づくりもしていきたいから、カウンセリング的な仕事も増やしていきたい。またプロジェクトアドベンチャーで学んだことを生かして、キャンプをしながら子どもたちの可能性を広げていきたい。やりたいことがいっぱいあってワクワクしますね。
 
いろんな人とつながっていくと、ああ、この人とこの人がつながるとまた面白いことが起きるな、この人とこの人もつなげたいな、そんなことがたくさん起きてきます。いろんな人の可能性を見つけることができる本当にありがたい仕事をさせてもらっていると前田さん。
 これからも健康づくりを通してたくさんの人を笑顔にしてくださることでしょう。

 
 
今日の人170.和田直也さん [2017年09月03日(Sun)]
今日の人は富山大学 研究推進機構 極東地域研究センター教授の和田直也さんです。

和田先生は昭和42年1月2日に東京目黒で生まれ育ちました。家は町の電気屋さんで、3人兄弟の3番目だったので、いつも2人のお兄さんに追いかけられたりして鍛えられていました。おかげでかけっこはめっぽう速く、小学校の運動会ではいつも活躍していたものです。小さい頃は背が低くて、前から2番目が定位置でしたが、相撲も強かったし、野球、サッカーとオールマイティにこなしていました。隣町に巨人の土井正三選手の家があってサインをもらいに行ったり、あの世界の王選手の家にも押しかけてサインをもらいました。もっとも、土井選手や王選手には直接は会えなくて、お手伝いさんに下敷きやサイン色紙を渡して翌日もらったのですが、それでも富山育ちの私にはなんともうらやましい話です。

小学校の中学年になると、もっぱらサッカーをやるようになりました。体育の先生がサッカークラブの指導者ということもあったのですが、和田先生はその先生が厳しいけれど好きだったのです。
しかし、スポーツばかりをしていたわけではありません。魚釣りも好きだったし、タガメや水カマキリといった水生昆虫を捕って飼っていたし、カブトムシの幼虫を捕まえたりするのも大好きでした。絵を描くのも好きで、セルを買ってきて宇宙戦艦ヤマトのデスラー総統のセル画まで書いていたくらいだし、プラモデルを作るのも好きで、零戦や戦車を作ったりしていました。ハンダゴテを使って自分でラジオも作りましたし、友だちと将棋も指していました。しかも将棋会館に通い詰めて血尿まで出たくらいだというのですから、とにかく何かやるととことんやっちゃうのです。そういうわけで本当に忙しい子ども時代を過ごした和田少年でした。

中学校は家のすぐ裏にある中学校に行ったので、近すぎて遅刻しちゃうくらいでした。ただ、グラウンドが狭すぎてサッカー部がなかったのはとても残念でした。当時は校内暴力が問題になっていた頃です。学校の窓ガラスが割れるというような事件も全国的によくある時代でした。小学校時代のサッカーの友だちもワルのトップになったりして、荒れていました。派手に遊ぶ子もいたしやグレて先生にも殴りかかっている子もいました。その姿を見て「なんでそんなことをするかなぁ?」と思っていました。そうして「派手じゃなくて地味でいい。僕は中心からずれた生き方がしたいなぁ」と思いました。自然の中で暮らしたい。だったら農業に従事するのがいいかな。ご両親の田舎が山梨でお盆には毎年のように山梨に行っていたのですが、農村風景が大好きでした。自然にかかわることで生計が立てられたらいいなぁ、そんな風に思っていたのです。

高校は、都立でいちばんサッカーの強い高校を第一志望にしていたのですが、落ちてしまい、第2志望の都立目黒高校へ。家から自転車で10分の近い高校でしたし、何より自由な校風で都立なのに制服も着ていかなくてよかった。東横線の都立大学前駅が近くにあって、麻雀荘がたくさんあったのですが、授業の時間に麻雀荘で麻雀をしたりして、大学生以上に大学生っぽい高校時代でした。中学校の時は暗かったので殻を破ろうと、サッカー部に入ったし、バンドを組んでボーカルをやったりもしました。クイーンやビートルズの歌を熱唱していた和田先生。プロ志向の人にほめられたそうですから、相当歌がお上手なんですね。
そんなこんなでとても充実した高校生活でした。遊んでいてもどこか受かるだろうと思って、某私立大学を二校受験。しかし、どちらも落ちてしまいます。

浪人生活の中で自分の得意なことはなんだろうと考えた時に、ものづくりに興味があるから工学部かなぁと考えました。東京都に新設された科学技術大学(当時)の宇宙工学も面白そうだと思いましたが、目が悪くなって眼圧が高くなってしまい、ものづくりに携わるのは難しく感じてしまったのです。比較的入りやすいと思った某私立大学も受験しましたが、なんとダメでした。国公立は本命ではなかったのですが、なんとなく共通一次を受けてはいたので、2次試験の配点が高いところを探しました。
ちょうどその頃、竹下内閣の下でリゾート開発が積極的に進められていましたが、週刊誌ではそれによって自然破壊が進んでいることが取り上げられていました。和田先生は思います。宇宙工学もいいけど、自然破壊をどうにかしたい。自分は自然の中にいるのが好きだから、その自然が破壊され続けていくのは嫌だ。そして、得意科目の物理で生物学科が受けられる横浜市立大学に合格。生物の勉強をして、生徒に自然の大切さを伝えられる教師になろう、そう思っていました。

しかし、大学に入ってみると、ミクロな部分の生物学が主流でした。和田先生はマクロな生物学がやりたかったのです。そういうわけで1年目からイヤになってしまいます。スイッチが入るととことんやるタイプなのですが、スイッチが入らないと全然やる気が起きないのでした。そんな和田先生が真剣に取り組んだのはサッカーでした。体育会のサッカー部に入って本格的にサッカーをしていました。しかし、2年生になって半月板を損傷してしまいます。しばらく気付かずに練習を続けていて、なおひどくなってしまいました。その後、手術をしましたが、元には戻らず引退せざるを得なくなってしまいます。

サッカー部を引退し、することがなくなってしまった和田先生は本格的に勉強を始めました。生物の教師の資格も取ろうと思って、教職課程も取りました。生命の価値を知りながら、その大切さを訴えられる教員になりたい、そう思っていました。
教員採用試験は1次は受かり、2次試験は補欠合格でした。補欠というのは、誰かが辞退をした時に繰り上がりで採用されるというものです。
採用かどうかはっきりしないので、和田先生は大学院の受験も考えます。鮎の食べる珪藻類の種類と水質について研究していた和田先生。マクロな生物学を自学していたので大学院では顕微鏡を使わなくてもいい所がいい、森の研究がやれるところがいいと思っていました。そんな希望に合って受けたのは北海道大学大学院環境科学研究科(当時)でした。

ちょうど和田先生が学部生の時はバブルで超売り手市場でした。和田先生の友だちは理系でも金融系にバンバン就職が決まっていきました。そんな風にみんなが浮かれている時代に「リゾート開発はいけないんじゃないか、環境破壊が進んでいくと持続可能な社会は保てないんじゃないか」そんなことをずっと考えていました。浪人時代に感じていた自然破壊をどうにかしたいという思いはずっと持ち続けていたのです。ですから、そういう点でも北海道大学大学院環境科学研究科は和田先生の思いにぴったり合った大学院でした。
しかし、大学院に合格が決まり、札幌に引っ越した4月に教員採用試験補欠合格の連絡が入ります。和田先生は悩みました。でも、マクロの規模の生態学が勉強できる大学院で勉強する方を選びました。ようやくやりたい学問と一致したのでしっかり勉強したいと思ったのです。

こうして北海道に行き、大学院生にして初めて一人暮らしを始めます。一人暮らしの学生というと朝寝坊のイメージですが、和田先生は違いました。毎朝5時に起きて近くの森を散歩し、木の種類を覚えたり、野鳥を覚えたりしました。北海道なのでシマリスやエゾリスにもよく出会えました。担当教授は放任主義の人でしたが、その分、先輩たちと毎夜飲みながら議論を交わしました。そして先輩と山登りの調査に行くのでした。修士課程の2年間はあっと言う間に過ぎ、その後どうしようかと思った時に、自然保護協会の職員になろうかとか、ドイツに留学しようかと思いましたが、どちらもダメでした。それで残された選択肢として博士課程の試験を受けた所、合格。その後の研究生活でも、いい仲間に恵まれました。

仲間の一人に砂漠の研究をしている人がいました。ちょうど環境庁(当時)の森林減少と砂漠化解明の研究プロジェクトが進んでいる所でした。日本はバブルの時にインドネシアやマレーシアの木を安く手に入れるのに、現地では多くの森林が伐採されていました。一方、乾燥地では植物の生産を上回る人間の活動で砂漠化がどんどん進んでいたのです。それを食い止めるためのプロジェクトでもありました。和田先生の仲間はそのプロジェクトの一環でインドのタール砂漠で調査をしていたのですが、日本に帰ってきた時に、「なかなかうまくいかないから手伝ってほしい」と和田先生に頼みます。それで和田先生はインドへ2か月間の調査に同行しました。でも、インドについた時にいきなり現地の洗礼を受けてしまうことに。靴の上にわざと牛糞を落とされ、グルの人にそれを磨いてやると言われたのです。白っぽい靴だったし、そのままでは汚いので和田先生は靴磨きを頼もうと思ったのですが、一緒に行った友だちはそれこそ奴らの思うつぼだから、その手には乗るな、と言います。おまけに飛行機に乗る時に、その時の調査に使うネズミ捕り用のトラップが引っかかり、機内持ち込みだけOKということで、膝の上にはネズミのトラップ、足元からは牛糞の臭いが上って来る、そんなスタートになってしまったのでした。

現地の砂漠ではネズミが種子を食べることと植物の回復の関係性について調査しました。最初、ネズミを捕るのにピーナッツを使って罠を仕掛けたところ、なかなかうまくいきません。なぜかピーナッツだけきれいに食べられてしまっているのです。どうしてこんなことになるのか不思議でならなかったので、ある日その仕掛けをしばらく見張っていることにしました。すると、ピーナッツを食べていたのはネズミではなくて、なんと現地の子どもたちだったのです。こりゃいかんということで、子ども達に食べられないように工夫して今度はちゃんと罠にネズミがかかるようにしたのでした。

しかし、インドでの貧困を目の当たりにして、和田先生はこの世界の矛盾についてつくづくと考えることになりました。目の前にはその日の暮らしにも困るような貧しい人々がたくさんいるのに、上空には数百億円単位の戦闘機が轟音を立てて飛んでいく。物乞いの子どもに恵んでやろうとした時も、仲間に叱られます。「一人にやってしまうとあとからあとからキリがなくなる。可哀想だけど、やらないと決めておいた方がいいんだ。」確かにその通りだけど、同じようにこの世に生を受けてなぜこんなにちがうのだろうと無常を感じざるを得ないのでした。私はそれを聞いて芭蕉の野ざらし紀行の「唯これ天にして、汝が性の拙きを泣け(これは、ただただ天が成したことで、お前のもって生まれた悲運の定めと、嘆くほかないのだよ)」が思い浮かんでしまうのでした。
そういうわけで、いろいろ考えさせられたインドでの調査になったのです。

博士課程での和田先生のメインの調査地は苫小牧の演習林でした。そこに、神岡出身の中野繁先生が研究にやって来られました。中野先生は,河川サケ科魚類の行動生態および群集生態の緻密かつ精力的な野外調査に基づく研究を遂行してこられた方で、生態学の広い領域を結び付ける視座を持って国際的にも活躍されている先生でした。三重大学演習林でのアマゴの研究を契機に生態学の最先端を歩み始め、その後、和田先生もおられた苫小牧の演習林にフィールドを移されたのでした。この中野先生との出会いは和田先生にとって本当に大きかった。中野先生はとてもユーモアのある方で、和田先生のことを大変かわいがってくれました。そして、何より研究に対する真摯な姿勢に心を打たれました。中野先生は、川や森にいる動植物の相互作用について深く研究していました。魚類は必要なエネルギーの約四割を森から得ており、鳥はエネルギーの約三割を川から得ているなど、現地調査を重視して膨大なデータを集めました。そんな中野先生の研究に対する姿勢を間近で見られたことは幸せなことでした。中野先生はその後京都大学生態学研究センター助教授となったのですが、カリフォルニア湾で離島の調査に向かう途中でボートが転覆。37歳という若さで逝ってしまわれました。酒を酌み交わしながら、もっともっと語り合いたかった、和田先生はそう心から思います。けれど、それはもう叶わぬこととなってしまいました。でも、和田先生にとって、中野先生と過ごせた時間は本当に大切な宝物になったことは間違いありません。人との出会いと別れは、本当にせつなくて、そして愛しい。今生きている私たちは、この命をちゃんと使えているだろうか、そう問いかけられているのかもしれませんね。

北海道大学で学位を取得した和田先生は、富山大学の公募に応募し、見事に採用され、28歳で初めて富山に。和田先生が富山大学の助手に決まった時は、神岡出身の中野先生もとても喜んでくださいました。神岡と富山はとても近いですものね。
しかし、和田先生が助手になった頃は、まだ大学も「仕事は見て覚えなさい」という風潮で、中の仕組みを覚えるのには苦労をしたのでした。担当の教授が途中で出ていかれてしまうという予想外の事態も乗り越え、和田先生は33歳で助教授になります。

この頃、和田先生は北極圏のスヴァールバル諸島(ノルウェー領土)でチョウノスケソウの調査を行いました。スヴァールバル諸島は夏でも気温が5℃くらいしかないツンドラ気候。調査に行く時は長い棒を持って歩けと言われました。そうしないとアークティック・ターン(北極アジサシ)という鳥に突かれてしまうのです。長い棒を持って歩くと、その棒の方を突いてくるので大丈夫なのでした。また、流氷に乗るのに失敗して渡りそびれた白くまが残っている可能性があるからライフルも必ず持っていけと言われ、調査に行く時はライフルを担ぎ、長い棒を持ち歩くというフル装備で出かけたのでした。ライフルは最初に撃ち方を教えてもらい実際に何発か撃って練習したのですが、和田先生はすぐに的に命中させました。サッカーといい、本当に運動神経がいいのです。
こうして、和田先生はチョウノスケソウが生えている調査地まで行き、チョウノスケソウが北極圏でどのように種子を生産するのかを調査しました。またチョウノスケソウの向日性も調査しました。

ちなみにチョウノスケソウ(学名Dryas octopetala)がなぜチョウノスケソウというかというと、ロシア人植物学者マキシモヴィッチの助手をしていた須川長之助が立山でこの花を見つけ、後にこのエピソードを知った牧野富太郎(日本の植物学の父と言われる人)が和名をチョウノスケソウにしたのでした。

立山でチョウノスケソウ…というわけで、賢明な読者の方はお分かりかと思いますが、そう、和田先生は立山でのチョウノスケソウの調査も長年に渡って続けていらっしゃいます。今も山のシーズンは週に一度のペースで立山の調査地に登っているのです。本当にタフな和田先生です。

2004年、国立大学富山大学は国立大学法人富山大学になりました。これに先立つ2001年に富山大学極東地域研究センターが設立されます。和田先生は2003年から所属が理学部から極東地域研究センターに移りました。
この頃、環日本海構想の一環として極東地域の研究には熱心に力が注がれていました。センターに移った和田先生には、大陸で仕事をやってくれというミッションがおりました。温暖化で生態がどう変わったかを調べる仕事です。こうして和田先生は中国と北朝鮮の国境にまたがる白頭山(長白山)で調査をしました。白頭山にはチョウノスケソウが生えています。アクリル板で温室を作って、チョウノスケソウの調査をやっていました。しかし、3年やったところで中国政府の意向で調査の続行が出来なくなってしまいました。もう少し継続してやれば結果が出たのに、と思うとこれはとても口惜しい調査になってしまったのです。

2010年からはロシアでも調査を開始しました。気候変動で高山生態系がどう変わるかやロシアの森林における資源量を調査するものです。この調査は今も続いていて、毎年8月になると、和田先生はロシアに渡ります。毎週のように立山に登って調査したり、ロシアに行って調査したり、ライフル銃を持って北極圏で調査したり、と本当にアクティブでスリリングな研究だなぁと感心します。
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ハバロフスクの博物館で、アムールトラとヒグマが喧嘩していたので、森の中では絶対に会いたくないシュチュエーション、やめてくれと猛獣の喧嘩の仲裁に入っている和田先生

しかし、こんな風に調査に出かけ、学生にも丁寧に指導している和田先生なので、目下の悩みは論文をあまり書けていないということです。今まで調査して一生懸命データを取ったものは、全て解析してきちんと論文にして残したい。そして、ちゃんと掲載にこぎつけたい、それが和田先生の楽しみの一つでもあり夢でもあります。論文を書くのが楽しみでそれが夢だってさらっと言えるなんて、かっこいい!

和田先生の他の楽しみは家でお酒を飲んだり、学生とお酒を飲んだり、酔っぱらって歌ったりすることです。バンドでボーカルをやっていらしたくらいだもの。相当お上手なんでしょうね。

研究に情熱を燃やし、好きなことにとことんのめり込む少年のような純粋さを失わない大学教授。お酒に失敗しちゃう学生みたいなところもおありで、とってもチャーミングな先生です。
 これからは立山に登って高山植物を見たら、きっと和田先生の少年のような笑顔が思い浮かぶにちがいないなぁと思った今回のインタビューでした。

今日の人169.いしかわ ひろきさん [2017年08月24日(Thu)]
 今日の人は介護職のミュージシャン、いしかわひろきさんです。「非営利団体かもめのノート」と「認知症対応型通所介護デイサービス木の実」で介護職を掛け持ちしているいしかわさん。彼が大切にしている軸はパーソンセンタードケア。工場の流れ作業のような介護ではなく、一人一人の個性や特性を理解して合理的な配慮をしたケアがパーソンセンタードケア。その名の通り一人一人に寄り添っていくケアを深めていきたいといしかわさん。いしかわさん自身その想いを書いているのでぜひお読みください。→『完全即興を仕事にする: 完全即興とパーソンセンタードケア Kindle版
そんないしかわさんはCDアルバムを出したばかり。
CDタイトルは「everlasting」
詳しくはこちらをご覧ください⇒https://hirokiishikawa.jimdo.com/everlasting/
音楽の才能にもあふれた介護のスペシャリストなのです。
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 いしかわさんが生まれたのは1986年。3人兄弟の末っ子として生まれました。なぜだか小さい頃の記憶はほとんどありません。ただ、両親ともに公務員で、子ども達にも安定した公務員を望んだので「しっかり勉強して公務員になれ」とそればかり言われて育ちました。6つ年上のお兄さんはそれに反発してぐれ始めます。その頃くらいから、ようやくいしかわさんの記憶が始まります。お兄さんは茶髪にしてギターを弾き、家にいろんな友だちがやってきてよく騒いでいました。

 いしかわさんはと言えば、親に反抗することもなく、言われるがままに勉強していました。公文に通い、その後は育英に通っていました。それに疑問を抱いてはいましたが、なにしろ他にやりたいこともないので、やれと言われるからやる、と言った感じでした。運動が嫌いで中学校ではパソコン部に入りましたが、そこはヤンキーの溜まり場だったので、いしかわさんはあまり部活には顔を出さず帰宅部という感じでした。

 高校は呉羽高校の普通科へ。今度は友達がいたからという理由でテニス部に入りましたが、あまり部活にのめり込むことはありませんでした。どちらかと言えば、高校時代は暗黒の時代でした。自分は何者だ?という思い。何でも知っていると思う一方、何も知らない自分。それは青春時代に特有のもやもやした何かに加えて、いしかわさんの家の空気もそうさせていました。いしかわさんの家は梨農家のおじいさんと公務員のお父さんの2本の柱があって、その2本の柱の価値観は相容れないものだったので、それがいしかわさんの心理状態にも大きな影響を与えていたのです。

夢や希望が持てないまま過ごした高校時代。そんないしかわさんはお兄さんの影響もあって、高校3年生からギターを始めます。富山大学に進学してからもJAZZ研究会に入って、ギターに熱中しました。それまでの心の隙間を埋めるかのようにひたすらギターに没頭する毎日。バンドを組んで外部の人と一緒にLiveをやるうちに、県内外のライブハウスから声がかかるまでになりました。もともとロックが好きだったのですが、徐々にジャズに移っていきました。アバンギャルドなノイズ系のジャズが好きで、よくライブハウスでも演奏していましたが、それを仕事にしようとは思いませんでした。「公務員じゃないと生きていけない」という親からの洗脳が強く、そこから外れるのが怖かったのです。演奏している時だけ、生きているという実感があり、それ以外は抜け殻のような感覚でした。

 こうして、親の言われるまま、公務員の職に就いたいしかわさん。しかし、その仕事は自分にはさっぱり合わないものでした。ストレスばかりが溜まりわずか1年で−20s。半年休職し、結局1年半で仕事を辞めました。運転していると、今すぐこの車が事故ったらいいのに、というような思いが常にありました。自分は長くは生きてはいないだろう。自殺願望がある人の気持ちが痛いほどよくわかるのでした。

 仕事を辞めた後、失業保険給付制度を使って保育士の学校へ通いました。仕事を辞めたことで両親が困った顔をするのを見たくなかったので、なにも言わせないためにも保育士の学校に通ったのでした。その時に実習でめひの野園に行き、福祉の現場をおもいしろいと感じました。
 その後で実際に就職したのは民間企業です。学校は就職率を100%にしたがったので、仕方なくそこに就職したという感じでしたが、ケンカをしまくり2か月と2週間で辞めてしまったのでした。その後は知り合いの紹介で契約社員として働いたり、整体師の現場で働いたり、カレー屋で働いたりもしました。カレー屋の時は、アトピーの症状がひどくなり、店長とケンカもしたりして、ひどくやさぐれていました。自分は何も出来ない奴なんだ、そう感じて落ち込み、本気で入れ墨を入れようかと思ったくらいです。そうして日雇いの仕事を転々として時間が過ぎていました。

 そんな時に、ハローワークで見つけたのが介護系のデイサービスでの仕事でした。めひの野園に実習に行った時に福祉の現場は面白いと感じていたいしかわさんは、実際デイサービスで働いた時も面白いと感じました。もう一つ、知的障害を持つ人と一緒に外に出かける仕事も始めました。彼らと一緒にお風呂やプールに出かける仕事です。当然、外でパニック症状が出る人もいます。大きな声で叫ぶ人もいます。そんな彼らを奇異な目で見てくる人もたくさんいます。でも、いしかわさんは彼らと出かけるのがとても楽しいと言います。介護の仕事は演奏するのと似ているのです。しかも完全即興演奏です。それがたまらなく楽しい。理屈で云々ではないのです。サラリーマンや公務員にはきっと分からないであろう、この完全即興演奏の感覚。だからこそ音楽家はもっともっと介護の世界に入ってこればいいのに、そう思っています。なぜなら音楽家は障害者と感覚で共感できる部分が多いからです。
その感覚の部分はいしかわさん自身が書いているので、興味のある方はぜひAmazonでお読みください。『言葉でコミュニケーションを取ることが難しい相手との接し方に悩んだ時に読む本: 「完全即興を仕事にする」副読本』で検索!

 福祉の仕事をしていて、いしかわさんがよく感じるのは、いわゆる健常者と言われる人たちが、障害者の自尊心を傷つけているということです。接する障害者の事前情報は知っておいて損はないけれど、そこに縛られてはいけないと感じます。決めつけられるのがイヤなのは、障害者の人に関わらず、誰にでも言えることですよね。それなのに、障害者の人にあの人はこういう障害があるから、こうなんだ、って決めつけてしまっては、その人自身を見ていないことになります。そんな接し方をしていると敏感な人はすぐに感じてしまうに違いありません。

 意識しすぎることなく自然体で。だから笑いたい時は爆笑する。障害者と一緒にいるからといって不自然に気を遣ったりしない。笑いたい時は笑う。怒りたい時は怒る。健常者とか障害者とかそんな言葉の縛りはくそくらえ。みんな一人の人間じゃないか。そんな余裕が出てくるようになりました。だから、今は仕事がとても楽しい。そして音楽活動は1か月〜2か月に1回ライブをするペースでやっていければいい、それが今のベストな感じです。

 大学の時からずっと付き合っていた彼女とも昨年結婚したいしかわさん。でも、両親とは距離を置くようにしています。自分の場合はその方がうまくいく。いろんな問題があっても、そこから逃げることの大切さ、抱え込まないことの大切さがわかるようになりました。だから、今苦しんでいる人には、「つらくなったら逃げてほしい、そしたらきっと笑える日が来るから」そう伝えたいと思っています。

 障害者と接していると、当然言葉を発することのできない人もいます。でも、いしかわさんは言葉が出せない人との言葉のやり取りを楽しんでいます。発語がなくても、感覚で理解し合える。それはミュージシャンいしかわひろきの感性が成せることなのでしょう。
 そして、今は笑うことの大切さを実感しています。人が死ぬことだって、実はめでたいことかもしれない。だったら、死ぬまで笑っていようぜ。
 外国人が介護の現場に入ってくることも賛成です。彼らは明るく陽気に介護することが得意な人が多い。それは福祉の世界にとって、本当に大切なことだと思うから。

 そして、ミュージシャンいしかわひろきの方は8月24日にアルバムを発表しました。

アルバム情報はこちら
【 CDタイトル 】
「everlasting」
いしかわひろき,遠藤豪,たかのさおり




【 演奏者profile 】


たかのさおり

富山出身在住/うた/リコーダーやトイピアノなどおもちゃ
2002年3月友人とデュオで出場したとあるカラオケ全国大会でグランドチャンピオンの受賞をきっかけに独学で歌を始める。同年女性ボーカルグループ「grava」に加入し本格的に音楽活動をスタート。ギタリストとのユニット「monophonic」では、えかきとのコラボレーションでライブペイントイベントに多数参加。クラシックギターとのユニット「saoと大橋俊希」、ちび楽器アンサンブルと歌のバンド「BALANCE」の活動を経て現在に至る。2011年より、saomochamusic(サオモチャミュージック)として、自作音楽つきの紙芝居を上演するこどもライブの活動も積極的に行っている。また、2014年からは、うたと美術でつくる創作世界「状況劇団パッチ」の活動をはじめる。その他、CMソングの制作やご当地アイドルへの楽曲提供も行っている。



遠藤豪

1988年富山県富山市生まれ。
高校生の頃、米口 ハンニャ 篤氏からギターと音楽理論を、大学在学中に矢堀孝一氏からジャズギターを学ぶ。
大学在学中から、地元の富山県やお隣の石川県など、主に北陸で演奏活動を始める。
2014年8月から2年ほど語学と音楽の勉強のためNYに留学。現地で演奏活動やレッスンなど行う。
2016年11月帰国。
2017年7月より関西に拠点を移し活動中。



いしかわ ひろき
(guitar player , composer )

大学在学時からギターを始め、ノイズ音楽やグランジに深く傾倒しつつジャズ研究会に所属しジャズを学ぶ。
ジャズセッションに身を投じながらも現代音楽やフリージャズ、ブラックミュージックやクラブミュージックに深く傾倒する。

2014年、作曲しはじめる。
2015年、sadistic margarineにguitar playerとして加入。
2016年6月に究極のライフヒストリー小説 & CD【間違っていた人は、誰もいなかった】を発表。
2017年には富山で活躍中のアコースティックユニット、マツバラーズと共同制作した「たびびとのうた」がラジオたかおかにて起用される。


浮遊感あふれる曲調や完全即興を取り入れた演奏スタイルが定評を得ている。
購入はこちらから⇒https://hirokiishikawa.jimdo.com/everlasting/




パーソンセンタードケアの出来るミュージシャンいしかわひろきの歩みをこれからも楽しみにしています。
今日の人168.萩野二彦さん [2017年07月09日(Sun)]
 今日の人は 若年性認知症ケア専門職で、マーケティングセミナーや認知症セミナーの講師等も手がけていらっしゃる萩野二彦さんです。
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にこやかに皿洗いをされている萩野さん

 萩野さんは、富山市で生まれ育ちました。小さい時は体が弱くてとても暗い子どもでした。体が弱いのであまり外では遊ばず、家の中でばかり遊んでいました。月光仮面が大好きで、家の中ではふろしきをマント代わりにして、おもちゃの刀を持ってこたつから飛び降りたりしていたものです。当時のこたつはまだ練炭炬燵でこたつに頭を突っ込んで寝てしまい、中毒で死にそうになったこともありました。小児結核も患い、とにかく生きているのがやっとな感じだったのです。
お父さんは婦中町の開業医、お母さんは富山の繁華街桜木町でスナックのママをしていました。しかし父の都合で萩野さんは母方で育てられます。お母さんも家にいない時間が多く、萩野さんは主におばあちゃんに育てられました。おばあちゃんはとってもお掃除好きだったので知らぬ間に大事にしているおもちゃを悪気なく捨ててしまうような人でした。しかしお母さんは羽振りがよく、おもちゃを惜しみなく買ってくれたので、ブリキの飛行機や白バイのおもちゃでよく遊んでいたのを覚えています。
 
 小学校中学年になって、自転車に乗り始めてからは少しずつ体力がついて元気になり、外遊びも出来るようになりました。それで缶蹴りや鬼ごっこやメンコをしたりお寺の砂場で遊んだりしました。小学校高学年の時の夢はパイロットや白バイ隊員でした。男子にとっては間違いなくあこがれの職業ですね。

 小学校の高学年から太り始めた萩野さんは中学校に入ってのっけから柔道部に誘われて入らされてしまいます。これがイヤでイヤで仕方がありませんでした。はやく辞めたい、そればかり思っていました。
授業中はいろいろなことを妄想するのが好きでした。例えば、中学校の四角いプールを見て、流れるプールや波のプールがあればいいのになぁといろいろ想像を膨らませていました。今は当たり前にそんなプールがありますが、当時はまだそんなプールはなかったのです。ですから、太閤山ランドのプールが出来た時はびっくりしました。世の中には自分と同じようなことを考えている人がいて、空想したことを実現しちゃう人がいるんだ!これはすごいことだぞ!って。そこに気付けたことはとても大きかった。

 中学の卒業間近のある日、合唱部の先生に「そこの2人お喋りしてるから立っていなさい!」と注意され、廊下にバケツを持って立たされました。その時一緒に立たされた子はそれまでは友だちではなかったのですが、「俺ら何も話してないよな」「そうだよな、ひどいよな」と話が盛り上がり、それがきっかけ親友になるのですから、人生における大事なきっかけとは面白いものだなぁとつくづく思います。

 高校に入っても柔道部に誘われたのですが、断って自動車クラブに入りました。しかし、部室が集中している場所が他の部の子が隠れて吸っていたタバコの火の不始末で全焼するという事件が起こります。自動車クラブの部室も全焼したため、萩野さんは帰宅部になります。それからはもっぱらあの一緒に廊下に立たされた彼とつるむようになりました。彼と高校は違ったのですがのですが、ほとんど毎日のように一緒に過ごしていました。彼はとても気さくで社交的な性格だったので、萩野さんだけでなく、いろんな子が集まってきました。内気だった萩野さんもそこで一気に友だちが増えた感じでした。実は、その子のお父さんと萩野さんのお父さんは昔友だち同士でした。「君はあいつの息子か?」と聞かれ、それから萩野さんのことを可愛がってくれるようになりました。私生児で生まれた萩野さんにはお父さんの記憶はほとんどありません。もし、おやじが家にいたらこんな感じなんだろうなと思い、なんだかそれがとても嬉しかった。そんなおやじさんとの交流も含めて、そこで過ごす時間は萩野さんにとってとても大切な時間でした。

 そして、高校卒業後は専修大学の商学部へ。アパートは下北沢のすぐ近くだったので、下北沢が遊び場になって、東京生活を楽しめるようになっていました。下北沢には小劇場がたくさんあって、演劇にはまった萩野さん。なにしろ安いし、役者の息遣いが間近に感じられる小劇場の雰囲気が大好きでした。

高校の時に空き家に集っていたメンバーとは高校卒業後も交流が続き、メンバーの兄貴分たちが行った富山初の野外コンサートイベント「ヤングフェスティバル」の初開催を手伝います。やがてそれを引継ぎ県内でいろいろなイベントをやっていくことになりました。引継ぎの時は引継ぎ式をして杯を交わすなどしました。何だかその時代の風潮を感じます。富山でアマチュアバンドコンサートを企画したり、ビートルズのフィルムコンサートを企画したりしました。萩野さんはイベントが当たってかなり羽振りのよい大学生だったので、しょっちゅう富山と東京を行ったり来たり出来たのです。
ビートルズのフィルムコンサートの時は、東京赤坂の東芝EMIに「ビートルズのフィルムを貸してください!」と直談判。担当者はあきれ果てていましたが、「もうポスターも印刷しちゃったんです」と粘ると、なんと一週間後に貸してくれたのです!そんなわけで当時の萩野さんは学生起業家、プロモーターの走り、といった感じでした。

 大学を卒業後は富山に戻って地元企業に就職したのですが、社長が夜な夜な飲みに行く時に運転手をさせられてずっと待たされていることに虚しさを感じて辞めました。その頃は就職難の時代だったのですが、ちょうど富山に西武百貨店がオープンして、応募し採用になり、最初は茶碗売り場を担当させられました。花形の洋服売り場とちがって、茶碗売り場は人気がなかったのですが、ここで辞めると仕事がないと思って我慢しました。その後は、外商、企画統括、旅行サロン、ブライダル、セゾンカード友の会と様々な部署に配属になり、その都度結果を残してきました。セゾンカード友の会の担当の時には富山で初めてのテレビショッピングをやりました。それまで、テレビショッピングに慣れていなかった富山の人は、その放送を見て商品の注文ではなく、「あの姉ちゃん、どこの人け?うちの嫁にしたい」と商品を紹介している女性を紹介してほしいという電話が多いくらいでした。

 しかし、西武百貨店の看板をしょっているけれど、果たして俺自身の実力はどうなんだ?肩書きを外した時の俺は何をもっているんだ?そういう思いが強くなってきたころにヘッドハンテイングされ14年間勤めた西武を辞めたのです。

 その仕事は自己啓発プログラムを販売するフルコミッションの仕事でした。萩野さんはメキメキ実力を発揮してすぐに月間アワードを取るようになります。どんどん収入が増えて「よ~し」と思った矢先に実父が亡くなります。ほとんど会ったこともない実父で、まともに顔を見たのは亡くなった時が初めてでした。しかし、常に認めてほしいと思っていた存在がいなくなったことで、心にポッカリと穴が空きます。そうして、動けなくなってしまったのです。

 萩野さんはサラリーマン時代はいつかは独立したいと思っていました。フランチャイズビジネスにも興味があり日ごろからよく東京へ出かけて研究をしていました。この時に心に引っかかっていた現像プリントの仕事で起業しようと思い立ちます。自己啓発プログラムの販売で貯めた貯金が1000万程ありました。それを元手に、富山市に30分現像仕上げの店をオープンさせました。15坪のそのお店は売り上げがどんどん上がり年商が1億円になります。すっかり天狗になってしまった萩野さん。これを全国展開しようと思い、フランチャイズシステムを学ぶセミナーに通い始めます。このセミナーには今思えばすごい人たちがたくさん参加していました。私が聞いただけでも、今や全国にチェーンを持つ会社のそうそうたる方々です。そんな多くの仲間との出会いの中からビジネスのヒントをいただきます。

 順調だった事業でしたが、デジカメが登場し、あっという間にフィルムを駆逐していきました。見る間に お店の売り上げが落ちていきました。踏ん切りをつけなくてはいけないのはわかっているのに、なかなかつけられない。やはり、自分で最初に出したお店には強い愛着があったのです。そしてとうとう、萩野さんは夜逃げせざるを得ない状況にまで追い込まれてしまったのです。

 しかし、捨てる神あれば拾う神ありとはよく言ったもので、松本にいる知人から仕事を手伝ってくれないかと声がかかりました。ビジネスノウハウを教えるというもので、営業をかけるとすぐに売れ出して、本社を東京に移して大手ショッピングセンターにも次々に出店するまでになります。萩野さんは知的財産のこともいろいろと勉強しマネジメントの講師も引き受けたりしていました。

 2008年には萩野さんの事務所も東京に移し、創業パーティも盛大に開催し、いよいよこれからという時に、奥さんに悪性リンパ腫が見つかります。それまで、萩野さんは事務的なことは富山にいる奥さんに託し、自身は全国を飛び回る生活だったので、その機能がストップしてしまいました。そして2010年の奥さんが亡くなり、心が空っぽ状態になってしまいます。そんな状態ではとても東京での仕事など続けることはできませんでした。富山に帰ってきたからもやることがなく、また何もやる気が出ず、半日以上ファストフード店でボーっと座っていることもありました。そんな時に出会ったのが能登さんでした。(能登さんのことはこちらのブログでお読みください→)
 こうして能登さんとの出会いから、今まで全く縁のなかったNPO業界に関わっていくことになりました。ここで、今までの価値観がガラリと変わるのを感じました。

 その後、高岡大和で開かれている北日本新聞のカルチャーセンターでビジネス講座やマーケティング講座を担当したり、富山を映画で盛り上げていこうとしていた氷見の大石さん(その後、富山が映画撮影のメッカになったのはこの大石さんの功績が大きいのですが、そのお話はまた別の機会に(*^-^*))に賛同して、一緒に活動したりしました。下北沢でよく演劇を見ていたのがこの時に役に立ちました。なんと萩野さん、富山で撮影された映画にちょこちょこ出演されているそうなので、今度ぜひ探してみたいと思います。

 そうした日々の中、2015年に「認知症対応型通所介護デイサービス木の実」と出会います。今まで全くやったことのなかった福祉の世界に携わることになった萩野さん。でも、この世界は驚きの連続でした。これまでレストランや物販、サービス店などの店舗運営について全国で2千件以上に携わっていて施設マネジメントで出来ないことは無いと自負していたのに、それらのスキルではまったく通用しない。認知症の人の介護は大変で働く人もどんどん辞めていく。
 自分が今までやってきた世界とは全然ちがう。大きな介護施設であれば成り立っていく、そんな感じであった。しかし職員は安い給料で働いていて生活が成り立たない、この先もそんな現状ではとても福祉の世界は未来が無い。この現状をなんとか打破して、現場のスタッフも入所者も家族も、ちゃんとやっていけるようにするにはどうしたらいいか、今、萩野さんは常にそれを考えています。そう、そのことをビジネス的に考えているのです。萩野さんがこの世界にイノベーションを起こしてくれそうでとっても楽しみです。

萩野さんは今、カルチャーセンターの講座や町内会の講座でも、認知症患者の家族のための講座を開いています。交通ルールを知らないと事故が起こるのと同じで、認知症のことを知らずに認知症の人に接していると大変なことになってしまいます。この先認知症の人が爆発的に増えていくことを考えると、家族向けの講座の普及は急務です。そういうわけで、萩野さんの頭の中は今、半分が認知症のことを占めているのです。じゃあ、あとの半分は何かって?
それは…うふふ♡ きっとお気づきの方も多いかと思いますが、今、萩野さんは恋をしています。その人を見ていると全然飽きないそうですよ。60代の恋、ステキですね。

 そんな萩野さんが今楽しいことは、もちろん彼女といるときもそうですが、重い認知症の人とコミュニケーションが取れた時だそうです。萩野さんはコーチングやNLP等の心理学の勉強なども一通り学んでいるのですが、認知症の人には、それは全く通用しない。認知症の人は、コントロールの効かないガンダムの中に自分がいるようなものなのです。自分の思いを外にうまく出すことができない。なるほど爆発してしまうことも道理なのですが、そんな中にあっても、そのコントロールの効かないモビルスーツの中にいる自分を受容できた人たちと会話が通じることがある。その嬉しさといったら!

 もちろん話が通じないことが多いから、イラっとすることだらけです。それはそうです。でも、認知症ケアってマーケティングの極致なんです。だって、本人が望むことしか受け入れてくれなくて、すぐに反応がわかるのですから。そう、萩野さんは極めてビジネス的に状況を見つつ、かつその状況を楽しんでいらっしゃるように見えます。そして、木の実にはようやくコアなスタッフがそろってきたので、きっとこれからの展開がとても面白くなるとワクワクしていらっしゃるのでした。

 認知症は全人口の1割の生活が脅かされている差し迫った問題です。この先ボディブローのようにじわじわとこの問題が効いてくるのは間違いありません。家族崩壊、そして地域崩壊していく様子が目に見えるようだと萩野さん。誰もそれを直視せず、またそこに投資されているお金を吸い取ろうとしている輩が今うじゃうじゃいます。それをなんとしても変えていきたい。それが自分の使命だと萩野さんは思っていらっしゃるようでした。

 人生にはいいことも悪いこともいろいろあるけれど、でもそれら全てが、今ある自分を形作っているのだということをとっても実感できるインタビューでした。今つらいことがあったとしても、それはあなたの人生の彩になる。萩野さんの優しい笑顔がそれを物語っています。

今日の人167.米村美樹子さん [2017年06月19日(Mon)]
 今日の人は、中国人の研修プログラムのデザインや翻訳、手帳術コーチとして願いが叶う手帳術講座等を開催されていらっしゃる米村美樹子さんです。19243765_1376214452465199_264156772_o.jpg
2012年の反日デモの直後の国慶節に天安門広場にて
見知らぬ中国人のおじさんがシャッター切ってくれた一枚


 米村さんは高岡市で生まれ育ちました。小さい頃はショートヘアで、よく男の子に間違われていたそうです。本当はロングヘアに憧れていたのですが、お母さんがショートが好きで、ずっとショートにされていたのでした。でも、その反動からか小学校中学年になってからはロングにして、いつもツインテールにしていました。

 近所の子と外遊びもしましたが、お絵かきが大好きでした。変わったところでは納戸に入るのも好きでした。昔の箪笥やおもちゃ箱がしまってある納戸に入ると妙に落ち着いたのです。

 小学生の頃はキャンディキャンディやベルサイユのばらが好きでした。キャンディキャンディではアンソニー、ベルサイユのばらではオスカルが好き、という王道路線でした。作品の歴史的背景を調べるのも大好きでした。この場所と場所、国と国はどうつながるんだろう、そんなことを考えるとワクワクして家にあった地理の本をいつまでも読んでいるような少女でした。
 
 低学年の頃はバレーボールの選手になりたいと思っていました。その頃アタックNo.1が流行っていたこともあって、ドッジボールが怖かったくせにバレーボールの選手になりたいと思っていたのでした。みんながキャーキャー言っていたアイドルには全く興味がなく、小学生の頃からラジオで中島みゆきやユーミン、オフコースを聴いていました。

 中学校では剣道部に入部。女らしくないことをしたいと思って剣道部を選んだのですが、その年はなぜか女子部員がすごく多い年でした。そして小学校の時から地理や歴史の本を夢中で読んでいた米村さんは、中学校でも歴史が飛び抜けて好きでした。米村さんの歴史のノートの取り方があまりに素晴らしくて、高校の時など歴史の先生に「お前のノートの取り方を見せてくれ」と言われていたほどです。歴史全般が得意だったのですが、中でも中国史は異常に頭に入りました。三国志や史記が好きで、大学時代は文献を翻訳していたため漢和辞典をひくのが速いという変わった特技の持ち主になりました。
 高校時代はバスケ部のマネージャーをしていたのですが、高校野球が好きで甲子園まで見に行ったりもしていました。

 大学は中国史を学びたくて、京都女子大へ。古美術研究会に入ってお寺や庭をたくさん見てまわりました。高台寺で特別拝観のガイドをさせてもらったときには、CMのロケで訪れた女優の黒木瞳さんを間近で見たのが思い出です。

 大学時代は羽目を外すこともなく、大学とデザイン事務所のバイトに行き、アパートに戻ってニュースステーションを見て寝る、というなんともまじめな生活でした。

 大学を卒業後しばらくして、NHK富山の契約アナウンサーとして採用されます。当時ローカルの契約では2年で辞めなければならないという暗黙の了解がありました。2年で辞めた後は東京でフリーのアナウンサーになりました。フリーのアナウンサーにとってオーディションは日常茶飯事です。それは大学入試のようにボーダーラインが決まっているわけではなく、誰が採用されるかは神のみぞ知るといった感じです。この時期の経験が、米村さんに努力しても報われないことがあるということを教えてくれたのでした。そんな時に大切になってくるのは、どうやって自分の心と折り合いをつけるか、ということです。みんなプロですから、プライドがある分、余計に嫉妬が芽生えやすい世界でした。そんな中で鍛えられたので、きっとずいぶんとタフになったはずです。

 その後、NHKの国際放送局に採用になった米村さん。ナレーションもいろいろ担当したので、「あなたの番組聞いていたよ!あれ、あなただったんですね」と後に言われたこともありました。国際放送局は人間関係はとてもいい所でしたが、9.11テロ直後、特別編成で番組が突如休みになり、お給料がもらえなくなるということもありました。なにしろ番組が放送されて初めてお給料がもらえるので、番組が放送休止になると、その分のお給料ありません。このままだと生活できないと訴えたことがありました。おかげですぐにその状況は改善されました。
国際放送局の仕事を始めてから6年後、米村さんの担当していた番組が終わることになりました。米村さんは仕事を辞めて前々から興味があった中国に留学しようと決断。しかし、その年はSARSが大流行した年でもあり、ご両親は米村さんが留学することに大反対でした。中国に移ってからも反日デモや悪い報道がたくさんあったので、お母さんはワイドショーで悪いニュースを見るたびに電話をかけてきました。母が娘を心配する気持ちはもっともですが、その後たびたび日本人のメディアリテラシーについて考えさせられました。日本人は概してメディアの情報を取捨選択する力が高くなく、報道されたことがすべてと思い込んでしまいがちです。報道は本当だったとしても、それは全体のうちの一部にすぎないことが往々にしてあります。作り手のバイアスがかかる場合もある。鵜呑みにするのは決してよいことではない。中国にいると、それを身を持って感じるのでした。
 
  中国に留学した当初、中国語検定3級は持っていてもちっとも話せない現実に愕然としました。留学先の大学での中国語の授業は、教師の技量がまちまちな上、教え方が確立されていないために必要に感じられない授業もありました。むしろ大学教授の奥さんと相互学習がどんどん中国語の会話を上達させました。しかし、最初のうちはなかなか北京に馴染めませんでした。その頃は大学の周辺にはほとんど洗練された所がなかったのも理由の一つです。留学して3か月経過した頃「3日でいいから東京に帰って青山のカフェでお洒落な友だちとお茶したい!」と思ったこともありました。

 2005年は反日デモを間近で目撃して、少なからずショックを受けます。デモ隊が大学の正門前を通過していくときに、学内からどんどん学生が合流していく様子がマンションの窓から見えました。日本はそれまで中国に対して支援してきていたけれど、デモに参加している人たちはそれも理解していないこともショックでした。

 上海と比べて北京は日本人が圧倒的に少ない一方、日本人が手を付けていないビジネスの領域がたくさんありました。米村さんはそれまでのアナウンサー時代の経験を活かして、プレゼンのスキルを上げるセミナーを管理職向けに開催しました。そこから次の仕事につながって、中国人にビジネスマナーをや日本式の仕事の進め方を教える仕事が少しずつ増えていきました。

中国に住む時間が長くなるにつれ、次第に中国人への理解も深くなってきます。中国人ってこんな考え方をするんだ!という発見も面白かった。馴染めなかった北京での暮らしから少しずつ「苦」の部分がなくなっていきました。特に2007年の年末から3か月帰国した際は考えに変化が生まれました。北京にいる間「何で私はここにいるんだろう?」と嘆きたくなることがままあったけれど、北京という町はこれはこれでいいのだ。この時期そう考えられるようになっていました。そしてやはり日本にいて痛切に感じたのは、日本人は中国人のことを理解していない、いや理解しようとしていないということでした。メディアを介した中国人の情報は信じるけれど、自分の目で中国や中国人を見ていない。メディアの情報は全体から見た一部でしかないことが理解できなければ、結局発想が堂々巡りになるだけではないだろうか。自分で見て、感じて、考える必要性を痛感しました。

それをより強く感じる出来事が起こりました。2012年の反日デモでした。デモの数日前は、親しい中国人から日本人だとばれると危ないから一人でタクシーに乗るなと心配されるほど緊張感があった、それは確かです。そして北京の日本大使館前でデモが発生した際、周囲が厳戒態勢だったのも事実でした。しかし、自宅周辺も仕事場周辺も、北京のほとんどはいつも通りの穏やかさでした。デモの喧噪は一切聞こえませんでした。この事実が伝えられないのは理由があります。日本のメディアは大手と言えと、中国を担当する記者の数は各社せいぜい3,4人。多くて5,6人。限られた数で日本の25倍の面積の中国全土をカバーするので、目立つ大きな現場ばかり取材することになります。結果、私たちが日本で目にするのは必然的に刺激的な部分ばかりにならざるを得ないというわけです。米村さんはこのとき日本のテレビ局の電話取材を受けました。デモ隊がいるのは日本大使館周辺だけで北京は概ね平穏であること、事態を悲しんだり、米村さんに対し謝罪してくれた中国人がいたことを紹介しました。しかし、中には無神経な日本の新聞社もありました。メールやメッセンジャーでの情況確認も取らずいきなり日本語で携帯電話にかけてきたのです。中国語にも英語にも反応できない人物が、です。仮に偶然過激な考えの人がそばにいる恐れがある場所で日本語を話したとしたら、自らの安全は保障できません。電話をかけてきた新聞記者は相手がどんな状況にいるかを考える視点がすっぽりと抜け落ちていたのでしょう。取材をするときに大切なのは、取材相手の生命に少しでも危険が及ぶ可能性は排除しなければならないということです。良くも悪くも、日本人は平和だなと感じた出来事でした。

2013年、北京の生活環境は厳しくなっていました。急速なインフレで、家賃も生活費もどんどん上がっていきました。空がいつも真っ白で防塵マスクは必需品になり、朝窓の外を見るたびに気持ちが落ち込みました。その環境にいることのリスクを考えて、日本に戻ることに決めたのです。

そうして、2013年の5月、富山に帰ってきました。これからは中国と日本を近付ける、そんな役割を担おう!そう思いました。

ある時、自分の手帳の付け方が実用的なことに気が付きます。そこで手帳術のセミナーを高岡、続けて東京で開催したところ、すごく評判がよかった。きっちりせずに怠けながらできるのですが自己肯定感がすごく上がっていくのです。興味がある方はぜひ、米村さんの手帳術セミナーを受講してみてくださいね。目からウロコなこと間違いなしです。
手帳術セミナーは今後中国語バージョンも作って、中国でも展開していこうと考えています。あまり手帳を取る習慣のない中国の人にはきっと画期的でしょう。

米村さんは安定した場所にずっといると何もしなくなるので、自分に不安になるそうです。自然に他人がやっていない所を探して手を出したくなる習性があると素敵な笑顔で教えてくださいました。敢えて苦労する道を選んでいくフロンティアスピリッツに溢れていて、今どきの軟弱な草食男子にちょっとお説教をお願いしたくなりました。

そんな米村さんが今楽しいことは、飛行機でも列車でも乗り物に乗ってどこかに行くことです。移動そのものが好き!と嬉しそう。はじめての場所に行って、歩いて、その土地の地形を把握するのも好きです。街歩きの達人・タモリさんが、“ブラブラ”歩きながら知られざる街の歴史や人々の暮らしに迫る「ブラタモリ」がお好きなわけですね。

他の場所から遊びに来てくれた友だちといろいろな話をすることもとても楽しい。そして、愛猫といる時は、いちばんほっとできる時間です。

夢は大きく、東アジアの平和です。お互いにいがみ合っていても何の解決にもなりません。米村さんのような方が中国と日本を近付ける活動を続けてくださることが、メディアの一方通行の知識しか持たない人の意識を変化させてくれるのだと思います。

「人は食べ物がおいしいところにいたらそこそこ幸せ」と ここでもかっこいい姉貴っぷりの米村さん!海外生活が長かった米村さんの言葉だからとても説得力があります。この後どんなふうに道を切り拓いていかれるのか、とっても楽しみにしています。
今日の人166.毛利勝彦さん [2017年06月10日(Sat)]
 今日の人は、設計事務所を経営され、また建築士としていろいろな設計に携わりつつ、今はアパートの大家さんとしてそこに住んでいるベトナム人留学生たちに日本の親父さんのような存在で接している毛利勝彦さんです。
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アパートで学生と歓談?している毛利さんビール


毛利さんは昭和27年に3月25日に富山市で生まれました。
小さい頃は泣き虫で、お母さんが仕事で家にいないと泣きべそをかいていたものです。
でも、その頃の日本は子どもがたくさんいた時代で、近所の子どもたちとメンコをしたり、お宮さんの周りを走り回ったり、かくれんぼしたり、いろんなことをして外で遊んでいました。
 小学校に入ってから、中学校までは滑川で過ごします。将来やりたいと思うことは特になかったので、勉強は全くしませんでした。中学2年からは町内の子に引きずられるように、不良グループに。昼から学校をサボって富山の街中へ繰り出し、映画を見たり、大和デパートの屋上で動物を見たり(当時大和の屋上は子どもの遊園地と小さな動物園があったのです)遊んでばかりいました。学校の先生にはこっぴどく叱られましたが、親が呼びつけられるといったことはなく、また毛利さんも親、特にお母さんには心配をかけたくなかったので、警察沙汰になるようなことはしませんでした。お父さんは塗装屋さんだったのですが、道楽者でしたからお母さんはいつも苦労をしていました。だからお母さんを悲しませることだけは絶対にしたくないと思っていたのです。その一心から、不良になりすぎることはなかったのでした。

 高校は富山工業高校の工芸科に進みます。高校に入ると、それまでの不良仲間は散り散りになり、特に遊ぶこともなくなった毛利さんは勉強一筋に転じます。そうして1年生の2学期からはずっとトップの成績だったので、卒業時には優良賞を受賞したほどでした。もっとも、自分からそういうことをアピールするタイプではなく、またずっと硬派で通していたので、好きな女の子の家で一緒に勉強していても、結局何も言えないままでした。話し方が滑川弁でそれがコンプレックスになって告白できなかったのかもしれません。

 ロマンスは生まれなかったけれど成績優秀だった毛利さんは、高校卒業後に東京の大手百貨店大丸の室笑内装工部にすんなり就職が決まります。そうして、皇居の内装だったり、船や飛行機の内装だったり、大きな仕事をいくつも任されるまでに腕を上げたのです。女優の今陽子さんのマンションの内装を頼まれたりもしました。東京での仕事はとても楽しかったのですが,毛利さんは長男でご両親が心配なこともあって、4,5年してから富山に帰ってきました。

 富山に帰ってきた毛利さんは、高校で同じ美術部だった後輩と結婚。毛利さんは昔から油絵で抽象画を描くのが好きだったので、市展や県展にもよく作品を出していたのです。60代になって少し時間が出来たのでえ、そろそろ描き始めようかとも思っていましたが、最近はベトナム人学生たちと一緒に釣りに出かけたり、飲んだりしていて、逆に忙しくなってしまったと毛利さん。でも、若い彼らと一緒に過ごせるのはとても楽しいとチャーミングな笑顔でおっしゃいます。こうした小さな、でもとても濃い交流の積み重ねこそ、多文化共生にとって一番大事なことだと毛利さんと留学生を見ていて感じます。留学生にとっても、毛利さんのような素敵な大家さんに出会えたことで、富山が大好きになったにちがいないはずだから。

さて、話を戻します。富山に帰ってきてすぐに入った会社で、毛利さんは大きな洋風建築の設計を頼まれます。当時珍しい素晴らしい洋風建築の建物で、あまりに贅沢な造りだったので、新聞で叩かれるほどでした。
 ヨーロッパ風の建築が好きだった毛利さんはヨーロッパに何度も行きました。そうして、ヨーロッパに行った時に頭に残ったものを描くのが得意でした。

 当時はまだ図面をコンピューターで書ける時代ではなかったので、手書きで図面を書いていました。1分の1の設計図を手書きで書ける人は富山には毛利さんしかいなかったので、本当に貴重な存在でした。まだ会社員の一般的な初任給が6万ほどの時代に、設計料だけで2日で10万もらう程の稼ぎぶりでした。飲みにいくことも多かったし、スキーやゴルフもたっぷりやりました。夜遅くまで仕事をし、その後飲みに行って朝の3,4時まで飲んで、また朝から仕事をするという毎日を送っても元気でした。仕事も遊びも全力投球、それが毛利さんのやり方なのでした。
 実は毛利さんは、お父さんが道楽者でお母さんが苦労したこともあって、お父さんと一緒に飲みに行ったことがありませんでした。しかし、歳を重ねた今は、あんなに反発しないで、親父と飲みに行けばよかったなぁと思うのでした。

 40代で独立して、夢家工房(ゆめやこうぼう)建築設計事務所を設立した毛利さん。独立する前は、主に店舗の設計が多かったのですが、独立してからは住宅の設計も数多く手がけました。経営も順調だったのですが、独立後10年程経ったある日、屋根の上から落下し、頭を強く打ち付けるという事故が起こります。あたりは血の海になりました。脳挫傷でクモ膜下出血を起こし、そのまま逝ってしまってもおかしくない状況でしたが、奇跡的に一命を取りとめました。1か月入院し、体にしびれもあまり残らなかったのは幸いでしたが、仕事に戻ってから愕然とします。今まではどんなにたくさんの仕事が重なっていても、同時並行でたくさんの仕事をこなせていました。10くらい仕事があっても平気だったのに、2つくらい仕事が重なっただけで、もう頭が働かなくなるのです。自分が情けなくて、どん底に落ちた気分でした。大好きだったお酒も飲まなくなりました。そんな状態が3、4年続いたでしょうか。少しずつ仕事もできるようになってきて、またお酒も飲めるようになってきました。

 そんな頃に、毛利さんが大家をしているアパートにベトナム人の留学生たちが入居してきたのです。不慣れな異国の地でさぞかし不自由な思いをしているだろうと彼らの世話をあれこれ焼いているうちに、一緒にお酒も飲むようになりました。なにしろベトナムの留学生たちはみんなで集まってワイワイ飲むのが大好きです。元来、そういう楽しい場所が大好きな毛利さんはベトナムの学生たちと飲むのがすっかり日課になりました。居酒屋で仕事の愚痴を言い合いながら飲む酒と違って、彼らと飲む酒はすごく楽しいのです。今の彼らの姿は、エネルギーにあふれた高度成長期の頃の日本人の姿に重なる部分があるのかもしれませんね。
そして、毛利さんのアパートでの外国人学生たちと近所の方々との付き合い方もとっても自然なのです。いつも学生たちのことを気にかけていろいろ相談にも乗ってあげている近所のおじさんは、学生たちからおじさんおじさんと慕われていますし、いつも畑で採れた野菜を持ってきてくれるおばさんもいます。国際交流とか多文化共生って声高に言わなくても、こんな風にごく自然に日本人と外国人がご近所付き合いできる関係ってとてもステキです。

 60代後半になった毛利さん、昔のように仕事も遊びにも全力投球というわけにはいきませんが、マイペースでやっていけたらいいと思っています。時間のある時は、映画を見たり、留学生を連れて釣りに行ったり飲みにいったり、とても有意義に時間を使っていらっしゃいます。
まとまった時間が出来たら、またヨーロッパもゆっくり旅行したいし、学生たちに案内してもらってベトナムを旅行するのも楽しみにしていることのひとつです。  

工業高校の美術部の仲間との美術展にも今年は久しぶりに出展しようと思っています。時代を重ねた今、毛利さんはキャンバスにどんな世界を描くのでしょうか。
留学生たちと一緒に毛利さんの美術展を見に行くのを楽しみにしていますね。
今日の人165.成瀬 裕さん [2017年04月21日(Fri)]
 今日の人は、(株)リアルセキュリティ代表取締役で、今年「○○○のしごと塾ネットワーク」を立ち上げられた成瀬裕さんです。
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 成瀬さんは昭和42年に氷見で生まれ、氷見で育ちました。小さい時から落ち着きがないやんちゃな子で、外でカエルや虫を捕ったり、川で泳いだりして過ごしていました。川で泳いでいた時に、取水口に吸い込まれそうになって死にかけたこともありました。その時は同級生の手を必死で引っ張って、なんとか助かった裕少年でした。
 ただ、外遊びは好きなのですが、病弱だったので、小学校4年生の時から、剣道を始めました。お父さんの上司にあたる人が剣道を教えていて、そこで習い始めたのです。先生がおっかなくて、イヤなんだけど練習に行く。でも、イヤなんだけど好き。そんな感じでずっと剣道は続けました。そして、落ち着きのなかった裕少年は、剣道を始めたことでだんだん落ち着けるようになってきたのです。ただ、勉強はずっと嫌いでした。小6の時に、おばあちゃんに「将来はどうするの?」と聞かれた時に、「僕には剣道しかないんだ!」と答えていました。それくらい剣道一筋の少年時代だったのです。将来は警察官や消防士のようなかっこいい制服を着られる職業にあこがれました。

 当然、中学校に入っても剣道部に入った成瀬さん。勉強はしないけど、剣道の本だけは読んでいました。人生の基礎は全部剣道から学んだと言っても過言ではありません。相手を敬うこと、礼儀、忍耐力、全て剣道が教えてくれました。お父さんは厳格な人で、成瀬さんは反抗期なんて考えも及ばなかったくらいですが、お父さんも成瀬さんの剣道のことは認めてくれていました。きっとそれで成瀬さんも自己肯定感が満たされていたのだと思います。そのお父さんは、5人兄弟で妹を3人嫁に出したような苦労人でした。そんなお父さんの姿を見て育ったので、成瀬さん自身も早い時から仕事をしようと決めていました。
 
 高校まで剣道一筋だった成瀬さんは、高校卒業後、剣道の先生に誘われた警備会社へと就職します。まず最初に配属されたのは、ショッピングセンターの常駐勤務でした。夜間警備の時に、マネキンの手があたって、思いっきりビビったこともありました。ホームセンターで侵入警報が鳴り、駆け付けたところ、店内からガサガサと音がして、緊張が走りましたが、懐中電灯で照らすとカブトムシだった、なんてこともありました。成瀬さんは見かけによらず、ホラーが大嫌いなのですが、警備会社にいると、いろいろな怪奇現象話には事欠かないのでした。その話はいつかじっくりお聞きすることにしましょう。

その後あらゆる警備を経験、26歳になったとき、富山県警備業協会の委嘱講師、富山県公安委員会の委嘱講師になったのです。それまで勉強が大嫌いだった成瀬さんですが、この時は本当に真剣に勉強しました。なにしろ警備会社は民間の警察、つまり警察が勉強する内容は頭に入れなければなりません。法律用語だってわからないといけないのですから、その勉強量たるや、相当なものだったことでしょう。
 こうして27歳の時には全国警備業協会の特別講習講師になり、28歳で全国警備業協会特別講習講師技術研究専門部会の専門員になったのです。この技研の専門員は警備業業界の宝と呼ばれています。警備業の講師の中でも雲の上の存在、そんな立場に自分が立つなど、考えだにしなかったことでした。
 
 しかし、いざ技研活動を始めると、会社内で男のひがみ、妬み、嫉みを感じることに。いつか認めてもらえるだろうと必死で頑張っていましたが、出張も増え、なかなか職場内の理解は得られないまま時間が流れていきました。
 平成8年には、全国都市緑化フェア高岡おとぎの森会場警備隊隊長の任も受け、技研の活動を半年休止しました。半年も技研活動を休むと、技研研修会に行ったときに仲間に追いつけなくて愕然としました。技研をやめて職場の仕事に専念するしかないかと思い始めた矢先、技研の3本の指に入ると言われる先生から紹介を受け転職を決意します。30歳の時でした。しかし、いずれ独立しようと思っていた成瀬さんは「独立する夢があるから、3年契約でお願いします」と約束し、埼玉の警備会社に転職しました。

 しかし、その後会社は不況のあおりを受け、100名あまりの警備員の給与を下げることになり、3年を待たずに退職。氷見に帰って独立しようと決意し、32歳で創業。しかし、事務所は実家の廊下、スタッフは自分一人というとても厳しい状況でのスタートでした。経営が上手くいかず、生活費を稼ぐため公衆トイレの清掃もやりました。当然技研活動も休止せざるを得ませんでしたが、時折入る技研の同志からの励ましが、何よりの心の拠り所なのでした。

 創業して3年たち、なんとか仕事が軌道に乗った成瀬さんは、33歳で氷見商工会議所青年部に入会。地元でも多くの仲間が出来ました。しかし、そんな時に、技研委嘱解除の封書が届き、間に合わなかったかと愕然としました。落ち込んでいる成瀬さんのところに、以前いろいろ励ましてくれた技研の元常務から手紙が届きました。そこには「我々は誰のために何をするのか、人の喜びあることをやることのやりがい。自分を試すこと、それが一番大事。そのためには魂を磨きなさい」そう書かれてありました。それを読んで、心が震えた成瀬さん。以後、その言葉は人生の道標となったのでした。

その後、40歳のとき会社は不況のあおりをうけて合併します。つらい決断でしたが、やむを得ませんでした。そして、その翌年には、富山県商工会議所青年部連合会第31代会長に就任し、会員1000名のトップに立ったのです。その年のスローガンは「物語創造~ストーリーがあれば人は集まる~」でした。

 会社の方は合併8年で経営方針が食い違い、合併を解消。
こうして成瀬さんは株式会社リアルセキュリティを正式に立ち上げたのでした。そして、全国警備業協会にも返り咲き、全国各地で経営者研修会を担当しました。そこで、一番の問題になったのは、人材確保と人材の定着でした。これは警備会社だけの問題ではなく、社会問題だ、と感じた成瀬さんは、何か自分にできることはないかと模索を始めます。警備と講師の仕事は両輪だから、今までの経験を活かして、求職者の仕事に対する不安や困惑を取り除き、希望を大きく膨らませるような教育をやるのが僕の使命なんじゃないか、そう感じ始めたのです。「最後は覚悟!」そう思った成瀬さん「五十にして天命を知る」ということわざがあったな、の自分の集大成として警備のしごと塾を開こう!そう決意しました。いやいや、警備だけでなく、いろいろなプロの人たちがいるのだから、その人たちが集う○○○のしごと塾ネットワークにすればもっと面白いではないか。そうして、どんどん夢は膨らみ、とうとう成瀬さんは氷見ドリプラで自分の夢をプレゼンしたのです。
成瀬さんのプレゼンはこちら→https://www.youtube.com/watch?v=eGEWwjnGolg
 
 そうして夢を語ったことでどんどん仲間が集まり、今やしごと塾の仲間は16企業。
警備のしごと塾の他にも、健康、板金、建設、看板、デザイン、接客、エステ、大工…といろいろなしごと塾が集っています。皆さんもぜひ一度、○○○のしごと塾ネットワークのホームページをご覧になってみてください。
○○○のしごと塾ネットワーク

 今も夢に向かっていきいきと走り続ける成瀬さんが楽しいことは、しごと塾の仲間と月1回集まってあれやこれやと話し合っていること(もちろんその後はとっても大事な飲み会ですが)、そして今年から小学校に入学したお子さんの成長を見守ること。

 このまましごと塾を充実させていき、いつかしごと塾の記念講演もやりたいと考えています。そして、大好きだった剣道を再開して、小学生に教えたいというのも夢です。
 人の成長に関わるのは本当に楽しい、と50歳の成瀬さん。その目は今でも少年のように茶目っ気たっぷりで、キラキラしていました。
今日の人164.木村太郎さん [2017年01月29日(Sun)]
 今日の人は、ネイチャーガイド・エコツアーディレクターとして世界各地での感動的なエコツアーを開催したり、さつきやま森の学び舎・ようちえんの運営、講演会や研修、企業顧問等々、好きなことをしていたらいつの間にかいろんなことをやっていたという木村太郎さんです。
エコツアーディレクター木村太郎の旅 https://eco-tour.amebaownd.com/
太郎さんのFacebook  https://www.facebook.com/taro.kimura.ecoguide
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 太郎さんは1975年、東京で生まれ千葉で育ちました。
子どもの頃は超マジメ。優等生で学級委員長などもしていましたが、たくさんの人の前ではとても話せないようなあがり症でした。小学生の頃にファミコンが登場したのですが、ファミコンには全くはまらず、遊びと言えば外でひたすら野球でした。木村家は小学生の間は就寝8時、土日でも9時という家だったので、流行りのドラマの話題には全くついていけませんでした。平日はドラゴンボールやキン肉マン、土曜はドリフ、日曜は大河ドラマ、せいぜいそれくらいしかテレビは見ていませんでした。かといって、読書好きだったわけでもなく、読書感想文を書くのはすごくイヤでした。

 小学6年生の時に出会った体験塾が、その後の太郎さんの人生において大きな意味を持つようになります。そこでは月に一度、山登りに行っていました。最初は友だちと遊びに行けるという気持ちも大きかったのですが、山に登っていくうちにどんどん山が好きになっていった太郎さん。普段は日帰り登山なのですが、夏休みは泊りがけで八ヶ岳にも登りました。

 中学に入ると、お父さんの仕事が忙しくなったこともあって、太郎さんはすごく自由になりました。夜8時に寝るなんてとんでもないとばかりに、男友達の家に泊まりに行ってバカ騒ぎをするのも恒例行事になっていたし、お母さんとケンカした時はプチ家出して、体験塾でお世話になっている方の所へ2~3日泊まりに行くのでした。でも、そんなふうにいろいろ話せる大人がいるというのはとても幸せなことでした。
 中学で入ったのは吹奏楽部。肺活量がかなり必要なユーフォニウムを吹いていました。じゃんけんで負けて放送委員会にも入らされたのですが、これがすごくおもしろかった。ビデオカメラを持っていろいろ取材したものを編集して校内放送で流したり、新任の先生のインタビューを生放送で流したり、とても楽しくて結局3年間ずっと続けたのです。
 もちろん体験塾での登山も続けていたし、地域のサークルでバトミントンとホッケーもやっていました。

 高校は家から自転車で10分で行ける所へ行きました。高校では生徒会に入らされて、3年間生徒会活動をやりました。生徒会の仲間と毎晩10時くらいまで遊んでいたので、家に帰るとよく怒られました。それでまたプチ家出して体験塾の方の家に泊まりに行くのでした。この体験塾は、高校生の時は参加する方ではなく、もう企画する側になっていました。

 進路を決める時、太郎さんは大学受験はせず、体験塾の先輩が行っていた北海道の酪農家でインターンシップをする道を選びました。お父さんは烈火のごとく怒りましたが、それを押し切って北海道へ。そこで4か月インターンシップをやり、せっかくなので北海道を一周しました。それからすぐに東京のじいちゃんが亡くなりました。ばあちゃんが1人暮らしになってしまうので、フリーな太郎さんがばあちゃんと一緒に住むことになりました。

 その時、お母さんがC.Wニコルさんが校長をしている自然を守るレンジャーを育てる専門学校の新聞の切り抜きを持って来て、「ここ受けてみたらどう?」と薦めてくれました。太郎さんも自分のやりたいことができそうだと、その専門学校に入ることにします。山登りにも行けるし、おばあちゃんと住んでいたので3食作ってくれるし、さらにおばあちゃんは太郎さんの話をゆっくり聞いてくれるしで、東京での暮らしはとても快適でした。バイトもしましたが、山登りの用品を買っていると財布はいつもすっからかんでした。でも、そうやって少しずついい山登りグッズをそろえていくのは、とても楽しかったのです。

 卒業後太郎さんはネパールで植林をしているNGOの活動に参加しました。1か月半くらいルクラで過ごし、森林調査をしました。毎日山ほどチャイを飲まされましたが、とても楽しかった。この経験もあって、やはり自分は森で過ごしたいという思いがとても強くなった太郎さん。ちょうど上高地で山小屋の管理人を探していると知り、上高地に住むことになりました。まるでドラマ「北の国から」のような環境での生活。山小屋の維持管理が主な仕事なのですが、空いた時間はたっぷりありました。そこで太郎さんは一週間に一度は図書館に行き、一度に10冊借りては読んでいました。それまで読書をしたことはほとんどなかったのですが、この山小屋での時間にたくさんのことを本から吸収した太郎さんなのでした。山小屋の管理人として、またネイチャーガイドとして、とても穏やかで充実した日々を過ごしていたのです。
 そのうち山小屋でイベントもするようになり、全国のいろいろなガイドとも繋がりました。こうして22歳から32歳まで、上高地で過ごしたのです。

 ネイチャーガイドとして、様々なことをやっていきたいと思っていた太郎さんは、子どもキャンプのスタッフとしても活動していたのですが、立科の子どもキャンプにスタッフで来ていた女性と恋に落ちます。
 そうして、山を下りて奥さんのいる大阪に住むことになりました。1年間は仕事をしないで、日本各地で夏にどんなネイチャープログラムをやっているか見てまわりたいと、実行した太郎さん。そして彼女は反対することなくそれを応援してくれたのでした。
 そんな中、小豆島を見に行きたいとガイド仲間を訪ねた所、小豆島のホテルで支配人と夕食をすることになりました。そこで、支配人からアドバイザー契約を結びたいと言われ、月に一回小豆島に行って、アドバイザーをやることになりました。そのうち系列の那須高原にあるホテルにも頼まれて、月に一回ガイド養成講座をするようにもなりました。こうやって好きなことをやっているうちに自然に仕事を引き寄せてしまう太郎さんなのでした。

 一年経って、ちゃんとしたガイドをやろうと屋久島など日本国内をいろいろガイドしましたが、国内だけだとあんまりおもしろくないなと感じていました。そんな時に石川に住む友達から「オーロラが見たい」と言われます。「ツアーをやってる友達がいるよ」というと、「お前がツアーを組んでくれないか?」と頼まれました。これがきっかけで海外のツアーも始めるようになりました。これがとてもおもしろくて、それからは海外ツアーのガイドだけするようになったのです。太郎さんのツアーはとことんこだわりのあるツアーなので、来る人は人生が変わるような感動を味わえます。例えばオーロラを見に行くにしても、単にオーロラが見えればいいというツアーではありません。カヌーに乗って川面にも真上に広がるオーロラが映る中を進んでいく、そんな神秘的な体験ができるのです。その感動はなかなか言葉では言い表すことができません。
 
 子どもが生まれた太郎さんは、入園する前のプレ幼稚園で子どもたちに11時におやつを与えるのを見て愕然としました。お昼ご飯を食べる前のこんな時間に、市販のおやつを食べさせるなんて…。もっと、子どもが自分の体を使って、自分らしく過ごせる幼稚園に通わせたい、そう思った太郎さんでしたが、そんな幼稚園はありませんでした。唯一、徳島に行かせたいフリースクールの幼稚園はあったのですが、そこに行かせるために引っ越すか、はたまた思い切って自分たちで幼稚園を作ってしまうか、悩みました。結果、太郎さんは奥さんと一緒に認可外の幼稚園を作ってしまったのです。2012年の4月当初は月2回だけでしたが、徐々に希望者が増え、2013年春にはようちえんクラスが、2014年春には小学部もオープンしました。さつきやま森のようちえん、さつきやま森の学び舎(小学部)のホームページもぜひご覧ください。また、コーチングのコーチの奥さんが中心となって人材育成も進めていらっしゃいます。まさに夫婦二人三脚の木村家なのでした。

 そして太郎さんが外国でガイドをすることはどんどん増えて、ペルーでトレッキングをしてマチュピチュに行ったり、南アフリカの花園を見たり、ボリヴィアのウユニ塩湖に行ったりもしています。昨年はなんと50日間もペルーにいたとか。そして、太郎さんのスペシャルなガイドを経験した人は、もう普通の旅行ではとても満足できなくなるというのです。お客さんの行きたいところを聞いた時から、徹底的に作り上げ、予想のはるか上を行く太郎さんのガイド。なんと、作りこむのに2~3年かかることもあるそうです。でも、お客さんの感極まった表情、その瞬間を見るためなら努力を惜しまないのです。例えばオーロラを見に行くときはインディアン、イヌイット、現地の15人くらいの人にも関わってもらって、ただのオーロラではなく、先に書いたようなスペシャルなオーロラを見てもらう。太郎さんのツアー料金は一般的なツアーよりは高めなのですが、お客さんは「この内容なら安すぎる!」と口々におっしゃるそうです。いったいどんなガイドなのか、自分自身で一度ぜひ体験してみたいものですね。

 そんな太郎さんが今まで旅をしてきていちばん好きな場所は、ペルーのアンデスです。地球にこんなところがあったんだ!そんな感動の連続で、4700mで食べるランチの美味しいことといったら!しかも現地のガイドやコックが一緒に登ってくれて、4700mで作ったランチを食べられるのです。なんて贅沢なんでしょう。
 だから、太郎さんが楽しいことは、やっぱり山登りです。ペルーでも250q、ずっと歩いていました。ロングトレイルが好きなので、本当は月に1~2回は山に行きたいなぁというのが本音です。

 そんな太郎さんが今後取り組みたいと思っていることは、自然エネルギーの循環を自分たちで作り出すことです。原発などに地球の負になるエネルギーに頼ることなく、自然エネルギーの循環を作り出したい。太陽光発電に取り組んでいるNPOとの勉強会も始めました。ゆくゆくは、ようちえんもスタッフの住む家も全部太陽光発電にしたいのです。農業している場所も太陽光発電システムにして、農家が安定した収入を得られるような仕組みにしたい。地域全体で自然エネルギーを循環できるTaro Villageを作りたい、そんな夢の一歩を踏み出したところです。
 そしていつか自然エネルギーの循環とともにお金の循環もできるようになった時に、悠々自適に世界中うろうろして過ごしたいと思っています。そんな日が来るのも、そんなに遠くないかもしれませんね。

太郎さんの素敵な旅の数々は、どうぞこちらをご覧ください。
〜エコツアーディレクター木村太郎の旅〜https://eco-tour.amebaownd.com/
ステキな写真にぞくぞくすること間違いなし。そして次は、あなたも旅に出たくなるにちがいありません。
今日の人163.武内孝憲さん [2017年01月15日(Sun)]
 今日の人は、1848年創業の呉服専門店牛島屋の専務取締役であり、ハレの日を演出している株式会社ハミングバード代表取締役社長であり、中央通りのまちなか活用プロジェクト「マチノス」の運営を手掛ける武内孝憲さんです。
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 武内さんは由緒ある牛島屋の家に生まれ、物心ついた時から牛島屋のある中央通り商店街はいつもそこにある場所でした。

 家は商売で忙しかったので、母方の実家に預けられることも多く、よく絵本を読んでもらっていたし、朗読劇のカセットテープを流しながら寝かしつけられてもいました。そのおかげか、小さい頃から本を読むのは大好きだったし、勝手にストーリーを考えて空想したり、朗読を聞いたりすることが今も好きです。

幼稚園の頃はまだモジモジしている男の子でした。小学校に入ってサッカーを始めると、目立ちたがり屋の面がムクムクと顔を出し、積極的に声を出し自分の意見を言う子に変わっていきました。富山大学附属小学校に通っていたのですが、先生にも恵まれ人間性を尊重し向き合ってもらえたことや、ずっと学級委員や指揮者の任に当たらせてもらえたことで、責任感も培われたとのこと。

街中が通学路だったので、乗り継ぎの時間は中央通り商店街でお店に寄るのが日常でした。その頃、おじいさまは近所の骨董品屋や家具屋に井戸端会議をしに出入りしていらしたので、そこに寄っておやつをいただくのが日課でした。その時代の中央通りといえば、総曲輪と並んで富山でいちばん華やかな商店街でしたから、私たちにとって総曲輪や中央通りに遊びに行くのは、特別な日で前の日からワクワクしたものです。みんなにとって特別なそんな場所が武内さんにとっては日常の場所なのでした。

中学校も富山大学附属中学へ。サッカー部に入って活躍します。部活帰りに寄るのも、やっぱり中央通り商店街。本屋のバックヤードも武内さんの居場所になっていて、そこで本を読むのも大好きな時間でした。焼き鳥屋で焼き鳥を2、3本買って部活後のお腹を満たしていたものです。(部活帰りにお肉屋さんのコロッケを食べるというのはよく聞きますが、中学生で焼き鳥は初めて聞きました!)
この頃は、学校の先生になりたいと考えていました。生徒に囲まれて、ひとつのコミュニティを作り上げていくそんな仕事がとても魅力的だと思ったのです。附属中学校には教育実習生もたくさん来ていたので、彼らの姿も刺激になりました。もっとも、実習生をからかっていたのも事実ですが・・・。

高校は富山県内屈指の進学校、富山中部高校へ。ここでも迷うことなくサッカー部でした。高校時代も遊びの場は中央通りでした。この頃はDCブランド全盛期だったのですが、DCブランドのお店やレコード店がいつも行く場所でした。街中で映画を見て、喫茶店でお茶をして、そんなデートも日常の中にありました。でも、その頃友だちから「進路決めるの、悩まなくてもいいからいいよね」と言われるのがイヤでした。他のチャンスを最初から消去されている気がして、釈然としなかったのです。

中学校でも高校でも応援団長や団長だった武内さん。応援団長や団長と言えば、運動会の花形です。さぞかし、充実した時間だったにちがいありません。けれど、サッカー部の最後の大会では、序盤に骨折して不完全燃焼に終わります。そのまま終わるのがイヤで、他の3年生は夏には引退するにも関わらず、卒業ギリギリまでサッカーをやっていた武内さん。その年は志望校に合格は叶わず一浪することにして、予備校に進みました。横浜にある予備校の寮に住み、志を同じくする友人たちと合宿状態だった1年間。この1年の経験はとても貴重でした。

大学は法学部を目指します。人と関わる仕事がしたかったし、先生と呼ばれる仕事がしたいという思いは昔から変わっていませんでした。しかし、一浪後に進んだ大学は、武内さんの志望校ではありませんでした。本当に行きたいところに行けない、そんな挫折感でいっぱいでした。ですから斜に構えて大学に通っていました。ただ、単位は大学3年までに全部取ってしまうことを自分に課していたので、大学をサボったりするようなことはありませんでした。そうして3年までに全ての単位を取り終えたのでした。
サッカーサークルの友だちに薦められて、自由が丘にあったスポーツバーでバイトもしていました。そこは、Jリーグの前身になる社会人チームの人たちがたくさん来ていて、そんな人たちと会話できることがとても楽しかった。

そんな武内さん、実は大学3年の2月に学生結婚をします。その頃の武内さんは、もう家業を継ごうという決意が固まっていました。いろいろな仕事があるけれど、家業を継げるということを「これは自分にとってのチャンスに変えるべきだ」、そんな思いが固まっていたのです。それで何で結婚かというと、創業1848年の牛島屋は歴史ある商家らしく、年回りの相性をとても大切にしていたのです。そこで、ふたりにとってこの年がふさわしいということになって、当時付き合っていた彼女(実は幼なじみで、昔は姉弟みたいな感じでした。しかし、浪人時代に距離を取ったことで、お互いの居心地のよさを感じていました。そうして、付き合って1年半たっていました)と式を挙げたのです。

大学を卒業したら、大阪に修行に行くことが決まっていた武内さんは、大学4年の1年間は広告代理店の営業として働きました。単位は全部取っていたので、正社員として1年働いたのです。奥さんは、着物の勉強をしなければならなかったので、着物の専門学校に通いながらの2人の生活のスタートでした。そして1年後、武内さんの卒業を待って、2人そろって大阪へ引っ越しました。大阪では、営業を通していろいろな人と関わる楽しさも知ることができました。

こうして大阪で何年か修業を積み、牛島屋が創業150年を迎える1年前に、富山へ戻ったのです。そして富山に帰る年に長男も生まれました。
大阪で経験も実績も積んできた武内さんは、張り切って仕事に取組み始めました。けれど、これまでとは全然勝手がちがいました。確かに、大阪と富山では仕事の環境も全然ちがうのですが、こんなにまで勝手がちがうとは…。しかし、もちろんちがうからと言って、手をこまねいているわけにはいきません。

牛島屋は創業150年を迎えた後、大泉に大きなビルを建てました。しかし、起工式の前日、幼い頃から一番の理解者であった祖父が亡くなります。おじいさんが商店街の世話をずっとしていたのを見てきた武内さんは、そうすることを当たり前と感じていました。ですから、早速商店街の活動をスタートさせました。中央通りでパリ祭なるイベントを開催しました。屋台、大道芸、様々なパフォーマンスが繰り広げられ、街も活気にあふれました。その頃、バブルはもう終わっていたのですが、まだ商店街にも活気がある時代だったのです。しかし、徐々に商店街から人の波が消え、シャッターを閉めるお店も多くなってしまいました。駐車場のある郊外の大型ショッピングセンターに買い物にいく流れが商店街にも否応なく影を落としました。けれど、なんとかまた街の中心の商店街に活気を取り戻したい。そのためには、まず商店街が力を合わせなければ。そう思った武内さんは、笑店街ネットワークなるものも立ち上げて、それまでほとんど交流のなかった商店街の横のつながりを生み出しました。そこで情報交換も生まれ仲間作りの起点になりました。笑店街ネットワークは6年間続けてその役割を果たしたと考え、今は休止しています。

牛島屋の仕事に加え、まちづくりの活動を中心的に担ってきた武内さんは、こうして商店街にとってなくてはならない存在になっていきました。

そして、昨年2016年9月からは新たな取り組みとしてまちなか活用プロジェクト「マチノス」をオープンさせました。マチノスは中央通り商店街の牛島屋の2~4階をシェアスペースとして貸し出し、すでに様々なプロジェクトが動き始めています。一例をあげると、Liveとお茶会やワインの会、いろんな講座に、単発のワークショップ等々、素敵なイベントが満載。もちろんそれだけではなく、まちの成り立ちや歴史、伝統を見直し、まちなか本来の賑わいを取り戻しながら、市民の交流や学びの場を提供するプロジェクトというのが「マチノス」のコンセプト。

武内さんはおっしゃいます。これまで通りの商店街をやっていては、商店街に未来はない。商店街の価値観を変えていく時が来ている。人のコミュニティの在り方として、もっとできることがあるはずだ。そして、少しずつだけど、化学反応が起き始めていると。

そして、自分なりのコミュニティを生み出していくことは、商売以前に自分のライフワークとしてとらえるようになったのです。ハミングバードという会社をやり始めて、武内さんはたくさんの作り手、可能性を持った人たちとつながりを持つことができました。そういう人たちとのプロモーションを通じて広がりを生み出せることを実感したのです。一人一人で個別に何かをやっているより、うんと可能性が生まれる。コミュニティが生まれる。そして、可能性を導き出して、知らない人同士をつなげることができるコネクターとしての自分を武内さんはとても嬉しく感じるのでした。

そんな風にいつも忙しくしている武内さんのリラックスできる場は、やっぱり大好きな本屋なのでした。でも、それだけではなく、人に会っている時間も実はとてもリラックスできる時間です。武内さんは人に興味があって、誰かの話を聴いている時間もとても好きなのです。人に会うことが趣味と言ってもいいかもしれません。それが仕事に生かされる部分もあります。もちろん、最初から仕事に生かそうと思いながら話しているわけではありません。ひたすらその人に興味があるからです。だからこそみんな胸襟を開いて武内さんと話してくれるのでしょうね。一人でいるのはちっとも苦じゃないけれど、一人でいると結果的に動いてしまう武内さんなのでした。

これからの世の中はAIにとって代わられる部分もたくさんあるでしょう。でも、そんな世の中だからこそ、人の力が必要なことは何なのか、そしてこれからどんな世の中になっていくのか、変わっていくことにすごく興味があります。とにかく知的好奇心が旺盛で、いくつになっても少年のようにやりたい!知りたい!がたくさんあるのでした。

そんな武内さん、実は今もサッカーチームにも3つ入っていて、富山市サッカー協会の理事もやっています。こんなに忙しいのにどこにそんな暇があるんだろうと思うのですが、とにかく体を動かすのが好き、いろいろ運営するのが好きでいらっしゃるのです。

最後に武内さんの夢を聞きました。それは、着物や伝統産業をどうやって今のライフスタイルに織り込んでいくかという道を作っていくことです。どんなに生活が変わろうと、やはり着物は日本人にとってなくてはならないもの。今まで培ってきた文化的な深さを伝えていきたい。自分が動くことでこれまでも、そしてこれからも新しい形が見えてくると武内さんは確信しています。着物文化、日本の伝統文化が根付く場作りを新しい形でやっていきたい。そして場作りは、武内さんのやっている、ハミングバードにも、マチノスにもすべてに通じることなのです。

人懐っこくてとても素敵な笑顔の武内さん、きっとこれからもたくさんの人をつなげて新たな商店街を創りだしていかれることでしょう。

みなさんも次の休日は、商店街に足を運んでみませんか?きっとそこでは懐かしい、けれど新しい、そんな発見がいくつもできると思うから。
 

今日の人162.長崎悦子さん [2016年12月10日(Sat)]
 今日の人は会計に困ってる個人事業主や中小企業向けの会計セミナーを開催したり、うつ病・発達障害当事者おしゃべり会を定期的に開催している長崎悦子さんです。
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『糸あわせ(しあわせ)』というホームページも開設していらっしゃるので、ぜひお読みください。
http://nagasakietsuko.com/
 
 長崎さん、愛称えっちゃんは富山県のいちばん東に位置する朝日町で生まれ育ちました。
家は自営業だったので、小さい時からいつもお客さんが出入りしていましたが、どう挨拶していいかわからなくていつも黙って何もしゃべらない子でした。年子のお兄ちゃんがいて、お兄ちゃんの後をついて歩くか、それ以外の時は1人でぼーっとしている時間が多くありました。絵本は好きでいつも読んでいました。

 小さい時からえっちゃんには不思議な感覚がありました。みんなは遊んでいるけれど、自分だけ透明な丸い入れ物に入っていて、そこはみんなとは遮断された世界。そこにいるとえっちゃんは落ち着くのでした。だから、みんなと交わらなくても殊更寂しいという思いを抱くことはありませんでした。むしろ一人が落ち着いて好きだった。
 実はえっちゃんのお父さんはお酒に酔うとひどく暴力をふるう人でした。それは幼いえっちゃんにも容赦なく向けられました。だから、えっちゃんは暴力のある毎日が日常だったのです。その透明なバリアは、そんな怖い思いからもえっちゃんを救ってくれていて、いつの間にか、その怖いという思いすらも覆い隠してしまったのかもしれません。

 保育園の頃は、周りはみんな夢中でピンクレディを踊っていましたが、中には入りませんでした。小学校に入って、みんなに遊ぼうと誘われても、その輪に入ろうとはしなかったえっちゃん。担任の先生に「なぜ中に入らないの?なぜ一緒に遊ばないの?」と理不尽にお説教されていました。当時は(いや、学校では今もその傾向が強いですね)「みんなちがってみんないい」ではなく、「みんな同じでみんないい」と思われていたので、先生も何の疑いもなく、「みんな一緒に遊びなさい」と言っていたのでしょうが、それがえっちゃんには苦痛でなりませんでした。遠足に行っても誰かと一緒にご飯を食べることはなく、いつも一人で食べていました。バスも一緒に座る人がいなかったので一人で座っていると、先生が隣に座ってきて『いやだなぁ。一人にしておいてくれたらいいのに』と思っていたものです。

 また、えっちゃんには『宿題はしていくべきもの』という意識がなかったので、していかないことが多くありました。夏休みの宿題も自由研究は好きでやるけれど、日記を書くのは嫌い。でも、学校の決まりに反抗している気持ちはなく、単にそんな決まりを守るのは苦手だったのです。しかし、そんなことを許してくれるような雰囲気は当時は全くありませんでした。その上、2年生の時に担任になった先生は、超熱血な人で、給食が食べられなかったり、逆上がりができなかったり、絵を描くことができなかったりすると、ことごとく居残りをさせたのです。給食が食べられなくて、1人掃除の時間まで食べさせられていたこともしょっちゅうでした。えっちゃんは五感が鋭くて、特に食感が敏感なので、給食を残さず食べろというのは本当に苦痛でした。肉は噛んでも噛んでも飲み込めなくて、ゴムのようにしか感じられなかった。その先生は結局2,5,6年の担任だったので、えっちゃんはずっと熱血指導に苦しむことになります。えっちゃんは家で怒られることに慣れ過ぎていたせいか、怒られても平気な顔をしていました。これが先生にはとても反抗的だと映ったようです。それでますます怒られるの繰り返し。この時のことがトラウマになっているせいか今も熱血を全面に出してこられると、うっとなってしまうのです。

 そんなえっちゃんが大好きだったのは算数でした。図形は嫌いだったけど、とにかく数字が大好き。そろばんもならっていたので、計算も得意でした。それで、この頃は将来は数学の先生になりたいと思っていたのです。

 中学校に入ると、いろいろな小学校から生徒が来ることもあって、以前より人とおしゃべりするようになりました。部活はソフトテニス部に入ります。しばらくは大丈夫でしたが、そのうちテニス部で仲間外れされるようになりました。えっちゃんは何でもストレートに言ってしまうタイプ。それが他の部員にはカチンと来たようで、仲間外れにされてしまったのです。もちろんイヤだったけど、部活は休んでも学校は休みませんでした。その頃、学校はイヤでも行かなくてはいけないという思いがありました。それで休もうという思いには至らなかったのです。中学校でも忘れ物をよくするし、先生には怒られてばかりで職員室で正座させられたこともありました。それでもやっぱり怒られることに耐性がついているえっちゃんは平気な顔をするので、先生はますます怒ってしまうのでした。怒られているこの子が透明なバリアで必死で自分を守っているのにも気づかずに。

 中学生の頃は漫画を読むのが大好きでした。家にはたくさん漫画の本があって、貸本屋のようにみんな借りに来ていました。お兄ちゃんもいたので、少年漫画もありました。でも、アニメは見なかった。漫画はいろいろ想像できるけど、アニメでは想像できない。えっちゃんは自分の頭の中で想像できるものが好きだったのです。

 この頃、えっちゃんはお母さんから「こんな仕事があるんだよ」と税理士を薦められます。自分でも数字が好きだったし、家は自営だけどお金がないから税理士を頼めない。じゃあ私が税理士になればいい、そう思って将来税理士になると決めたのです。

 こうして泊高校の商業科に進学します。商業科の科目はどれも本当に楽しかった。簿記なんて面白くてたまりませんでした。特に勉強しなくても商業科の科目では常にいい成績を取っていました。

 高校では最初ソフトテニス部に入っていたのですが、途中でやめて先生に誘われた科学同好会へ転部します。ここはメンバーが楽しかった。何より、試合の勝ち負けでピリピリしなくていいのがいちばんありがたかった。えっちゃんは体育の授業が小学生の時から大っ嫌いでした。自分が原因で負けてしまうことが多く、勝ち負けがつくのはとってもイヤでした。だから今でも勝負事は嫌いです。

 税理士になりたかったえっちゃんは税理士コースのある専門学校を目指していましたが、成績がよかったため進路指導で大学に行けと言われます。英語がきらいだから大学に行くのは嫌だ、私は本当に税理士になりたいんだ、そう突っぱねてなんとか思いはわかってもらえました。

 こうして大原簿記専門学校に入学。2か月で日商簿記の1級に受かったえっちゃんは、本校舎とは離れたプレハブの教室でマンツーマンで勉強するという環境になります。何か月かは1人で税理士コースの勉強を、1年の後半からは2人になり、2年生からクラスが4人にはなりましたが、少人数教育に変わりはなく、在学中に税理士を取れというプレッシャーを感じながらの学生生活を送りました。サークル活動などもなく、本当につまらない学生生活でしたが、唯一よかったのは大嫌いな体育がないということでした。
 こうして在学中に税理士試験の科目のうち3科目に合格して卒業しました。

 卒業後は会計事務所に就職しましたが、ここは本当にパワハラがひどい所でした。
「ただいま戻りました」と言うところを「ただいま」と言ってしまっただけで2時間もお説教されたり、ちょっとしたことでもすぐに怒鳴られたりしました。先輩からは、「何をしても怒鳴られるから」と言われましたが、とても耐えられたものじゃないと7か月で辞めました。
 次にスーパーの事務として働きました。悪気はないけど言いたいことを言ってしまうえっちゃんは上司とうまくいきません。仕事はできるので、新しく入った子の教育係をさせられるくらいでしたが、上司との関係が悪化して辞めてしまったのでした。
 その次も別のスーパーで働きました。ここは学生時代にバイトしていたスーパーでした。なにしろレジのスピードが半端なかったえっちゃんは最初にレジを担当しますが、その後、青果部門の担当に。すると、また人間関係が悪化し、手も痛めてまた辞めることに。

 その後、就職したのはまた会計事務所でした。普通4~5年たたないとお客さんをつけてもらえないのですが、一番若くて資格もあるえっちゃんは入ってすぐに制服が支給され、お客さんもつきました。そして所長さんにすごく可愛がられたので、他の女性社員から妬まれてしまいます。お客さんともストレートにぶつかるので、だんだんお客さんとやり取りするのが苦痛になってしまいました。こうしてまた人間関係が悪化。だんだん苦しくなって、パソコンで鬱病のチェックすると「あなたは鬱です」とパソコンに診断されます。けれど、苦しい中でも仕事は続けました。体もおかしくなっていきました。「長崎さんだけ所長の態度がちがう。長崎さんは怒られないでしょ」と言われ、飲み会に行くのも苦痛でした。もう精神的にも限界の状態で体の具合も悪く、仕事を辞めて卵巣嚢腫の手術をしたのです。

 その後もいくつか仕事をしましたが、何をしても被害妄想がひどくなっていきました。いつも悪口を言われている感覚が続き、まわりと一切かかわらない、しゃべらなくなりました。そして全く動けなくなってしまいました。内科に行っても脳の検査をしても異常なし。とうとう鬱と診断されたのです。仕事に出てこいと言われても、行けるわけもありませんでした。全部が怖かった。その時に行っていた会社は、最後の挨拶もせずに終わりました。

 その後はひたすら家の中で過ごしました。もう自分なんか消えてなくなりたい。どうやったら楽に死ねるかを自殺サイトで探してばかりいました。
 けれど、1年たたないうちに文房具屋で働き始めます。えっちゃんは文房具に詳しく、店長とも仲良くやれましたが、どうしても他の女の人と仲良くなれないのです。とにかく女性の団体が一番苦手なえっちゃん。それは今も変わっていません。その文房具屋は一日無断欠勤をした後に辞めてしまいました。すると医者から、「なんで働けないの?」と言われたのです。そう言われるのが苦痛で、医者にも行かなくなりました。しばらくは薬がなくてもOKでした。
 
 その後、一人暮らしをしようと実家から引っ越しして富山の会計事務所で働き始めました。しかし、やはり症状がひどくなって、富山市の医者に行き始めます。最初はよかったのですが、次第に先生と合わなくなっていきます。「周りで何か起きたとき、自分の思い通りにいかないと納得しない」と書かれたえっちゃん。「仕事を休みなさい」との診断書を会社に見せると「会社をやめてくれ」と言われ、この仕事も辞めたのでした。

 こうしてアパートを引き払い、数か月で朝日町の実家に戻ります。その後もいろいろな仕事をしました。経理の仕事をした時は、夢ばかり語って現実を見ない上司にぞっとしたし、また会計事務所で働いた時は、入ってすぐに100人規模のセミナーをその事務所で一番のお局様と一緒に担当させられておかしくなりました。嫌いなカラオケでも無理やり歌わされるような体育会系のノリにもついていけなくて、立ち直れないくらいにダメージを受けました。この時にいちばん死にたいと思い、会計ももう一生できない、そう思っていました。

 その後はしばらく仕事をしていません。やがて、学生時代のアルバイトでお世話になった方が店長をしているスーパーで働き始めました。店長は、鬱病でもWelcomeだよと言ってくれました。チーフも鬱病の本を読んで勉強してくれていました。きっとそのスーパーがなかったら、今も元気にしていないと思うのです。けれど、5時間のパートからフルタイムのパートへと変わった時に、やらなくてはいけないことが増えすぎてパンクしてしまったのでした。

 間をあけずに、今度は黒部の事業所に事務として入りました。この時に、初めて自分が発達障害だということがわかりました。
 それが分かった時、最初はものすごく混乱しました。そうして、次の段階では、何でも発達障害のせいにしている自分がイヤになりました。ただ、そこも吹っ切れると、検査してよかったと思えるようになったのです。

 自分は国語の能力はないと思っていたけれど、言葉を使う理解能力があると言われて、そうだったんだと初めて思いました。実際に、えっちゃんの書く文章はとても読みやすくて、スッと入ってきます。発達障害者支援センターありそでは、自分は努力できないと思っていたけれど、めちゃめちゃ努力していると言われました。できることとできないことがわかったし、頭の回転が速くてパンクするタイプだということもわかりました。こんな風に自分の得手不得手がわかったことはとてもよかったと思いました。

 黒部の事業所でしばらく働いていたえっちゃんは、そこの所長とケンカして「やめてください」と言われてしまいます。この先どうしたらいいんだろうと思って、発達障害者支援センターありそに相談に行くと、ありそと職安の人が本気で怒って動いてくれました。その後は、職業訓練でホームページ制作の技術も身につけました。その後、コンサル会社で働いた後に、障害者枠で仕事をしたりもしました。けれど、事務やシール貼りやパソコン業務などの仕事をしていたら皆の視線が突き刺さるように思いました。なんでこんな雑用ばかりしなくちゃいけないんだろう。障害者枠で働く自分がみじめに思えてなりませんでした。女の人たちが裏で固まっているのも相変わらず苦手でした。その後子宮筋腫で体調がおかしくなり、手術。何か月も家にいる状態が続きました。

 ようやく回復できたのは昨年の12月です。会計で困っている人を手伝う仕事をフリーランスで始めました。確定申告のお手伝いなど、お客さんに合わせるのがとても楽しいと思いました。そうして、会計セミナーも開催するようになっていきました。えっちゃんのお手製のテキストは会計の素人が読んでもとてもわかりやすいと評判です。教え方もとてもうまいのです。得意な会計のことで誰かの役に立てるのは、とてもやりがいのあることでした。
それまでは人と話すことは苦手でした。特に慣れない人と話すのはとても緊張があったのです。でも、会計セミナーを通して、いろいろな人と普通に話せることが増えていきました。そして人と話すことがあまり苦痛ではなくなり、むしろ楽しいと思える時間も増えてきました。

 今はもう一つ楽しいことがあります。それは税理士試験の試験勉強です。今、えっちゃんは再び税理士になろうと挑戦しているのです。努力家の彼女のことだからきっと残りの試験も通るに違いありません。

 また【うつ病・発達障害の当事者おしゃべり会】を月に一回開催するようにもなりました。
告知文に彼女の思いがよく現れているので、ここに掲載します。

「ゆる〜く、うつ病・発達障害の当事者
おしゃべり会をやります。
 
適当にくつろげる居場所です。
 
みんなどうしているんだろう。知りたい。
何でも話せる場所が欲しい。
家に居ずらいから居場所が欲しい。
そんなカンジで気軽に使ってください。
 
しゃべりたくなかったら、
しゃべらなくても大丈夫。
だやかったら寝ていても大丈夫。
  
自分が居やすいように居てください。
 
本当に不安でたまらない時、
人がいるってわかるだけでも、
心が落ち着き、安心していられます。
 
聞いてもらうだけでも、
楽になるコトもあります。
 
気が向いたら、ふら〜っと立ち寄ってください。
途中参加、途中退出も大歓迎です。
事前申し込みは、不要です。」

自分が苦しかったとき、どうしようもなかった時、きっとこんな場があればよかった、
えっちゃんはそんな風に思っているのかな、そう感じます。

  税理士試験に受かって、晴れて税理士になったら、えっちゃんは一軒家を借りたいと思っています。それはこだわりの一軒家で、2階は税理士事務所、1階は当事者会などが開ける集いの場にします。そして、その集いの間は、必ず畳の部屋にします。今も当事者会は畳の部屋でやっています。畳の上だと好きな時に寝転がれるし、なんだかあったかい。
 
  そんな糸あわせ(しあわせ)な一軒家が出来たら、きっと遊びに行かせてね。

  小さい時、えっちゃんを包んでいた透明な丸い入れ物は、もうなくなったでしょうか。いえ、きっとそのバリアがある時もあるけれど、今、えっちゃんはそのバリアから外へと歩きだしています。私も一緒に歩いていけたらいいなと思います。そこはきっと、ダイバーシティが広がる場所だから。
 
今日の人161.佐藤 剛(タケシィ)さん [2016年10月10日(Mon)]
 今日の人は、唄三線奏者として日本全国のみならず海外でもご活躍中のタケシィさんこと佐藤剛さんです。
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 タケシィさんは小田原で育ちました。小さい時は虫捕りや野球をして遊んでいましたが、カエルはなぜか苦手な少年でした。(実は今も苦手です。) 家の中ではトランプや人生ゲームをして遊んでいました。進んで先頭に立つタイプではありませんでしたが、まわりの子に注目はされたいなぁと思ってはいました。
 ロボットアニメやNHKの人形劇も好きでした。特に好きだった人形劇は新八犬伝です。当時流行っていたアメリカ横断ウルトラクイズのマネをして、友だちと一緒に「ニューヨークへ行きたいか~」と言ってクイズを出し合っていたのもいい思い出です。テッパンのサザエさんや意地悪ばあさんもよく見ていました。そしてタケシィさんは子どもの頃からなぜか目上の人に可愛がられる性分でした。今もそうですが、人懐っこい笑顔が周囲を和ませていたのだと思います。

 小学校の高学年の頃は、鉄道が好きな鉄ちゃんだったので、将来は車掌になりたいと思っていました。特に憧れていたのは、ブルートレインの車掌でした。学級委員はいつも引き受けていて、小学校では児童会長もやりました。

 中学ではひたすら勉強していました。ひたすらやったらトップクラスになり、そこから落ちないようにまたひたすら勉強するのでした。そんなタケシィさんの息抜きは音楽でした。聴いた音を耳コピーして弾けたので、当時はまっていたYMOをオルガンやシンセサイザーで弾いていました。自分でDJをしてラジオ番組を作って、それをカセットテープに吹き込んで友だちに回したりもしていました。

 こうして進学校の小田原高校に進んだタケシィさん。高校では鉄道研究会に入ります。駅名はほとんど全部わかったし、駅名を聞くと、距離感もわかるという相当な鉄道好きでした。それなのに、大人になってからタケシィさんは鉄道とは関係のない仕事に就き、鉄道に興味のなかったお兄さんがJRに就職したのですから、不思議なものです。

 この頃は鉄道研究会のみんなと野球をやったりもしていたし、音楽の幅はもっと広がって、フュージョン、ラテンフュージョンもいつも聞いていたし、洋楽にもはまりました。MTVやベストヒットUSAをずっと流しっぱなしにしていたし、基地向けの英語の放送も聴いていました。片思いの女の子もいました。といっても、恋に恋してる感じでした。

 最初、理系を選んでいたタケシィさん。でも理系科目の物理や化学が不得意科目で、英語、国語、社会が得意だったので、途中で文系にチェンジします。そうして、つぶしが利きそうな法学部を受験することに。途中で文系に変えたし、浪人も覚悟していたのですが、第一志望の中央大学の法学部に現役合格しました。

 法学部に入ったからには弁護士を目指そうかと、最初は意気込んでいたのですが、大学の授業を受けて、あ、無理だと思い、すぐにあきらめてしまいます。代わりに、大学時代に夢中になったのは、ギター・マンドリンクラブでの活動でした。家にギターがあったのを思い出し、軽い気持ちで入ったのですが、入ると体育会系の超ハードなクラブだったのです。春と秋の定期演奏会に加え、合同演奏会や部内発表会、合宿と、まるでクラブをしに大学に行っている感じさえしました。パート毎に合奏練習をし、夜中に個人練習をする毎日。時には徹夜で練習している時もありました。4年生の時には4年のギターパートが1人になってしまい、やめるなんてとてもできない状況に。そしてトップリーダーも任せられ、おまけにその年はなんと中央大学ギターマンドリンクラブ50周年という節目の年だったからさあ大変。50周年記念コンサートをOBも交えて東京、大阪、名古屋で開催することになったのです。おかげで4年になっても就活する暇など全くありませんでした。記念コンサートが終わった後は、感動というより脱力という言葉がぴったりでした。それほど力を使いはたしたタケシィさんなのでした。

 そして、4年の6月からようやく就職活動を始めます。その時、世の中は超売り手市場でした。タケシィさんは、ほとんど就職活動することなく、最初に受けた企業から内定をもらったのです。就職事情の厳しい今の学生から見ると、考えられないことかもしれませんね。内々定の日には、箱根のコテージにご招待されました。当時は、内定を出した学生がほかの所に行かないように、一流ホテルや豪華客船に缶詰にされるなんてこともあったのです。
結局、部活は11月まで続け、卒業に必要な単位を取った後で、卒業旅行にも出かけました。

卒業後、トステムに営業職として入ります。研修が終わって配属になったのは福島県の郡山でした。一人暮らしはこの時初めてだったので、知っている人が誰もいない、日曜に誰とも話さないで過ごす、そんなこともあり、親のありがたみをひしひしと感じました。

 2年目になって、少し仕事に余裕が出てくると、何かやろうと思えるようになりました。そうだ、自分は泳げないから泳げるようになろう、そう思ってプールに通うようになりました。すると、プール仲間が出来て、スキューバーダイビングにも誘われるように。たくさん仲間が出来て、一緒に猪苗代湖でキャンプをしたり、スノボにも行くようになりました。この時、スノボに ものすごくはまりました。まだスノボ人口は少ない頃だったので、本気でオリンピック選手を目指そうかしらと考えたほど のめりこみました。タケシィさんは、のめりこむと とことんな人なのです。週末遊ぶために、仕事もがんばれました。この時、キャンプで知り合った女性と結婚しました。なんと彼女は、同じビルの同じフロアで働いている人だったのです。なんだか運命の糸を感じて、2人は結婚したのです。

 こうして6年半の福島勤務を経て、東京に転勤に。でも、この頃になると仕事への情熱はなくなっていました。営業相手がエンドユーザーではないので、客の顔が見えにくいというのもあって、なんだかノルマのためだけに働いているような気になることもしばしばありました。けれど、嫁をもらった以上、仕事を辞めるわけにはいかない、そう思って働きました。この頃は旅行に行ったり、映画を見たりして余暇を過ごしていました。

 しかし、奥さんにどうしてもやりたいことが見つかって、2人は離婚。なんとか気持ちを奮い立たせようと、プールに行ったり山登りに行ったりしていました。

 その頃、朝ドラで「ちゅらさん」が人気になり、沖縄料理の店が流行っていました。そんな時に、夏川りみと古謝美佐子のジョイントコンサートがあって、見に行くことに。そのコンサートで、沖縄民謡も歌われました。舞台で正座で弾く生の三線の音に、タケシィさんは一気に心を持っていかれました。これをやりたい!そう思いました。すると、会社の子が、すぐ近くに三線教室がありますよ、と教えてくれました。
 その門を叩いて三線を習い始めたタケシィさん。三線の楽譜は、五線譜とは全然違う工工四という楽譜です。最初「なんだ、これは?」と思いましたが、好きになるととことんのめり込むタケシィさんの本領発揮です。あっという間に工工四の譜面を読めるようになり、弾くのが大好きになりました。もっともっとと練習しているうちにあれよあれよと上達し、先生のデモ演奏に一緒に行くようになりました。そして1年もたつと、人前に出て三線の演奏をするようになっていました。

 カウンターしかない音楽バーにも顔を出すようになって、そこで三線でジョイント演奏をすることもあり、仕事以外は三線にどっぷりという日々を過ごしていました。しかし、そのお店にもなじんできた頃に、名古屋への転勤が決まります。名古屋へ行く前に、お店に行くと、名古屋のお店を紹介してくれました。名古屋に行き、そのお店で素人ミュージシャンと仲良くなりました。けれど仕事は最悪でした。そして、名古屋に行って1年、とうとう仕事を辞めました。

 仕事を辞め、東京に戻ったタケシィさんは、昭島でアパートを借りました。そして、再就職したのですが、その会社がいわゆるブラック企業で、こちらは1年で辞めることに。辞める時に、1年続いた奴は珍しいと言われたほどでした。この時、タケシィさんは、40歳。

 いろいろ考える前に3か月遊ぼう、そう思いました。沖縄で過ごしたり、Liveに出させてもらったり、そうして過ごしているうちに、『音楽でやっていきたい』その思いがどんどん強くなって、ミュージックバーのママに相談しました。はじめは「絶対やめた方がいい」と強く反対されました。いや、こんなこともう出来ないから絶対やる!タケシィさんの強い思いを聞いて、ママは最後には応援すると言ってくれました。

 こうして唄三線奏者のタケシィが誕生しました。最初のうちはご祝儀的にお客さんが来てくれました。しかし、その年リーマンショックがあり、お客さんはガクッと減りました。
 でも、タケシィさんはもう迷いませんでした。この道でやっていくと決めたんだから、動揺することはするまい、そう思っていたのです。とにかく場数を踏みました。そしてステージをこなせばこなすだけ、たくさんの出会いが生まれていったのです。

 そんな出会いのひとつに富山の竹野佑都さんがいました。竹野さんに、富山でどこか演奏するところがあったら教えてほしいと言ったところ、氷見にある「紅茶のとびら」を紹介してくれました。こうして4年前に初めて富山でのLiveを行いました。紅茶のとびらで、金沢のお店も紹介してもらい、金沢ともつながりが出来ました。しゃみせん楽家の濱谷さんとも知り合って、おわら船で三線を弾いたりもしました。そしておわら風の盆の時期には、八尾で過ごす場所も出来ました。タケシィさんは本当に人とつながる才能がおありなのだと思います。どこに行っても、すうっと友達が出来るのです。

 今年の富山ではいろいろな所でLiveを行いました。日本全国でそうやってLiveが出来る日々が本当に楽しいとタケシィさん。サラリーマンをしていた時に比べると、手元に残るお金は少ないけれど、心はうんと豊かです。人との出会い、土地との出会い。日本のことでも、いかに知らないことが多いかというのを毎回思うのです。そして、この日本の文化を海外の人にも知らせなければ、と思うのです。そんなタケシィさんは、海外でもLiveをしています。この秋にはカンボジアでもLiveします。どんな出逢いが待っているか、とてもワクワクしています。

 芸の道に終わりなし。唄三線の道はまるで人生そのもののようだと感じています。もちろん、プレッシャーを感じることもありますが、でもそれをはるかに勝って楽しいのです。

 自分は沖縄の人と同じように伝えることはできない。けれど、沖縄の人とはちがう役割で伝えることができる。自分は沖縄の音楽の入り口的な役割を担って、それを人々に伝えていきたい、そう思っています。

 タケシィさんの周りでは、そんな生き方の影響を受けて、自分のやりたいことをやる人が増えています。唄三線奏者として歩き始めて9年目。本当に勢いだけで始めたと言ってもいいけれど、その前に20年間サラリーマンをやっていたからこそ、9年続けていられる自分がいるとも思うのです。

 そんなタケシィさんに、夢を伺ってみました。夢はずっと現役で歌い続けること、そして世界各地で歌うこと。いつかは紅白歌合戦にも出る!その夢、きっとかないますね。
 だって妄想したら、もう そうするしかないですから。

 土地を愛し、人を愛し、三線を愛す、そんなタケシィさんはこれからどんな唄を紡いでいってくれるでしょう。今度あなたの土地でタケシィさんのLiveがあったら、ぜひ、訪ねてみてください。きっと居心地のよい時間が、そこにはあります。

 タケシィさんのLive情報右矢印1http://takec.jp/schedule.html
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