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第192話 浜口雄幸と雄幸橋[2014年02月28日(Fri)]

 箕面だんだんクラブの団体ブログ「竹炭作り」は、2007年6月から公開している。一方個人ブログ「四季折々」は2009年5月から「四季折々」で公開している。団体ブログではできるだけ活動報告などを中心に、個人では身近な話題を書いている。

 先日2月13日の個人ブログには「第73話 濱口雄幸と雄幸橋」を公開したばかりだったが、2月9日朝日新聞朝刊の「読書・著者に会いたい」に、今井清一さんの濱口雄幸伝(上・下)が刊行されたことを公開した後で知った。

 昨年12月に朔北〈さくほく〉社から出版された「濱口雄幸伝 上・下」を検索すると、「こんな真摯堅実なリーダーが日本にもいた!この時代に、もし濱口雄幸がいたら…今だからこそ読んで欲しい『濱口雄幸伝』」と紹介されている。

 「第73話 浜口雄幸と雄幸橋」では、城山三郎さんが「浜口雄幸 死を賭して守った国民との約束」と題した講演録の一部を紹介と、生誕地に架かった雄幸橋のことをまとめたものである。
まず、筆者が感激した城山三郎さんの講演録を含む「第73話 濱口雄幸と雄幸橋」を取り上げることにした。

「第73話 浜口雄幸と雄幸橋」から

 古い資料パソコンで探していたら、2011年7月8日発売の「文芸春秋第89巻・第9号」で、作家の城山三郎が、1989年7月7日 奈良市史跡文化センターで講演録のコピーが出てきた。「浜口雄幸 死を賭して守った国民との約束」と題した講演である。

 城山三郎さんの小説では、唯一文官として絞首刑となった元首相・広田弘毅の生涯を描いた「落日燃ゆ」や「粗にして野だが卑ではない 石田禮助の生涯」」など感動して読んだことがある。
 この講演録を読んだとき、濱口雄幸の生きざまに感動し、多くの友人にそのコピーを渡した。2年ぶりに読み返してみて、その思いを更に深めた。そして、偉大な政治家の生家の近くに新設された高知臨港道路に架かる「雄幸橋」の開通式典に参列したことを思い出していた。

1.講演「死を賭して守った国民との約束」

 講演は、作家・城山三郎さんが奥さんとカナダ旅行で展望車に乗った時の個室の不具合の話題から始まって、浜口雄幸首相が昭和5年の11月14日に、東京駅から特急「つばめ」の展望車に乗り込もうとしたときに狙撃され、重傷を負う事件に話が進んでいく。

 城山さんは浜口首相が撃たれたときに呟いた「男子の本懐」を題名にして、昭和5年1月に、浜口雄幸首相と井上準之助大蔵大臣が多くの困難を克服しながら金解禁の政策を、生命を賭けて断行ことを書いている。その二人の生きざまを通して、人間の生きがいとは何かを問いかけた小説である。

 この小説を書いたことが縁で、昭和56年浜口雄幸の五十回忌に城山さんが招かれたことときの出来事が講演の主題になっている。
50回忌の多数の出席希望をどうするか、遺族から城山さんへの相談で、当時の現職だった鈴木善幸総理大臣と渡辺美智雄大蔵大臣とが出席された。鈴木総理は急な所用で奥さんが代理で出席された。

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写真1  ライオン宰相と恐れられた浜口首相


 写真1はアサヒクロニクル「週刊20世紀・067」からの孫引きで、浜口明子氏提供とあり、「政策実現にあたる厳しい姿勢から、政界では『ライオン宰相』と恐れられ、国民から半ば親しみを持たれた……写真のライオンは滋賀県の信楽民政クラブの贈り物(以下略)」と解説している。

2.布を靴の形に裁って足元に巻きつけ、それに墨を塗った靴

 この講演録を読みながら、思わず感動したのは、最後に遺族を代表して一人だけ生き残っておられる娘の富士子さんが話されたエピソードである。
 講演は、浜口雄幸と同じ一等展望車に乗っていた実業家の真珠王・御木本幸吉のことに触れ、二人の違った形の「緊縮」に触れながら、主題に迫っていく。以下講演録を書き出してみる。

 「浜口さんは大手術をして少しよくなるが、また悪くなる、手術をする、その繰り返しで国会を欠席している。野党からは、右翼に撃たれてこうなったのは同情するが、総理大臣が国会に出ないのはけしからん、政権をゆずり渡せ、と攻撃されている。
 与党の側は、『もう少しで良くなるから、そのときは必ず出席する』と約束するわけですが、会期末の3月、また容態が悪くなり、絶対安静の状態のとき、富士子さんが枕元に呼ばれ手を取って、『お前に最後の頼みがあるから聞いてくれ。自分を国会に出させてくれ。医者も母もみんな反対。お前(富士子さん)が先生とお母さんを口説いてほしい。国会における約束は国民に対する約束である。総理たる者が国民との約束を守らなければ、国民はいったい、何を信頼して生きていけばいいというのか』と。
 
 父は目に涙を浮かべて頼んだという。私は父の涙を見たことがない富士子さんは、ほんとに父の最期の頼みなのだなと思い、医者と母を口説き落として、国会に行ってもらうことにしたが、靴を履かせても、靴が重くて歩けないと言う。
 『仕方なく母と相談して、布を靴の形に裁って足元に巻きつけ、それに墨を塗って靴を履いているように見せかけました』と。

3.浜口雄幸の生まれた高知市五台山

 城山三郎さんの「男子の本懐」によると、「浜口は、明治3年(1870年)4月1日、高知県長岡郡五台山村唐谷の水口家に生まれた。水口家は、代々、土佐藩のお山方、つまり山林見回りの小役人であり、雄幸の父胤平(たねひら)もまた、藩政時代はお山方。維新後も、山林宮と名前は変わったが、同じ役目を続けていた。十年一日の如く、機械的で地味な仕事であった……高知市南東にある五台山―名刺があり、眺めもよくて、いつも観光客でにぎわっている場所だが、それから先は、水田が続き、にわかにひなびた風景になる。

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写真2 雄幸橋のたもとに建つ生家の碑


 水田がひろがり、川があり、水田があって、低い丘陵地帯に至る。松や雑木が茂った山麓には、農家が数戸点在しているが、水口家は、そこからまたまた、小さな谷を奥へ分け入ったところに、一戸だけ離れて立っていた……。
 浜口の名前の雄幸を、世間では「ゆうこう」と読む。字も音も勇壮で、いかにも浜口に似つかわしいのだが、実は、この名前、正確には「おさぢ」と呼ぶべきであった。
 男子の出生ばかり続いた彼の家では、娘を欲しがり、生まれてくる子に「お幸」という名を用意した。ところが、生まれたのは、またまた男の子。やむなく「雄幸」と書きかえた。土佐の発音では「おさち」でなく、「おさぢ」と濁る。
 この末男に対し、両親はそれでも娘を見るような目で接したためであろうか、雄幸は物静かで、気のやさしい子供であった。むしろ、臆病でさえあった。そうした名残が、少女のような笑い方ににじんでいた」。城山三郎著「男子の本懐」から引用。

4.高知新港臨港道路全線開通式典

 写真2の生家の碑のすぐ際に、雄幸橋が架設された。高知新港臨港道路の全線開通式典が、この橋の北入り口で平成10年2月28日13時30分からの安全祈願祭に続き、14時から全線の開通式が執り行われた。

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写真3  平成10年2月に開通した雄幸橋


 新しく架設された橋には、くす玉、テープカット、渡り初めなどの式典がつきものだ。話はそれるが、「くす玉」の起源は、古くは中国、後漢の前後頃、端午に五色の糸(赤青黄白黒)を肘にかけて魔よけまじないとした長命縷・続命縷という風習が伝わったもので、日本では「続日本後記」仁明天皇嘉祥2年(849)5月5日の項に“薬玉”とあるのが最初とされる。(ネットから引用)

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写真4 くす玉開披とテープカット


 テープカットはカタカナ表記からわかるように西洋から来たものだろう。
 
 和洋折衷の式典はいかにも日本らしい行事のさばき方だと思う。

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写真5 ブラスバンドで式典を盛り上げる


 ブラスバンドが行進曲を奏でながら、親子三世代が神主を先導に通り初めとなる。
 渡り初めの起源は定かでないが、江戸時代の絵図や書物に見られるという。「一家に三代の夫婦が顕在することは大変珍しく、おめでたいことから、これにあやかり『三代夫婦のように、橋も永続して欲しい』という願いが込められているのではないかという説がある」(ネットから引用)

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写真6 三世代の通り初め



 三世代の後ろに正装の関係者に続いて一般の見学者の行列が続く。

 式典の資料には、参加70名とあるので、神主の先導する行列は、写真7から見て多数が参加しての通り初めになった。

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写真7 神主の先導で通り初め


 一般車は3時から開通で、白バイの先導(写真8)で高知新港に向けて、雄幸橋を通り抜けていった。

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写真8 白バイの先導で車両が雄幸橋を渡る


5.浜口雄幸の題字が箕面の滝道に!

 ネットで浜口雄幸のことを検索していたら、「箕面滝道こぼればなし第5集・森秀次像の題字は浜口雄幸の筆(写真 、写真 )」が見つかった。この滝道へは年に数回はハイキングで出かけているが、そこまでは気が付かなかった。「こぼればなし第5集」を以下に引用してみた。

 「夫婦橋を渡った所に森秀次の銅像(写真9)があります。彼は現在の和泉市に生まれ、現池田市の医師の養子に入った人で、明治28年40才で府会議員になるや、箕面山の府立公園化に奔走し、31年にそれを実現させました。その後明治36年には衆議院議員となり、大正9年まで政界で活躍し、大正15年に没しました。この銅像は昭和五年に、その功績と人徳を讃えて、ゆかりの地である箕面公園内に作られました。この銅像の題字が浜口雄幸の筆(写真10)であることも注目されます。浜口は昭和五年当時の総理大臣ですが、これを書いてしばらく後に、凶弾に倒れたのでした」      

 
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 写真9 箕面滝道に立つ森秀次の銅像


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写真10 箕面滝道に浜口雄幸の筆跡


 城山三郎の講演録を読んだのは昨年11月頃だったと思う。読んでいて平成10年2月に高知臨港道路の開通式典に参列したことを思いだし、「濱口雄幸と雄幸橋」でブログにまとめることにした。 
 「男子の本懐」を読むとともに、開通式典の写真を探し出すのに手間取った。

 ネットの検索では、政治家としてあまりにも偉大な浜口雄幸の名前を拝した橋にもかかわらず、この橋の写真を見つけることができなかった。橋梁としてはごく普通の形式ではあるが、「雄幸橋」はどんな橋かを知らせする意味もこめてまとめてみた次第である。

 浜口雄幸が東京駅で狙撃されたのは昭和5年11月14日である。たまたま購読していた「週刊20世紀:朝日新聞発行・週刊20世紀」の067号(昭和5年・1930年)にはこの時のことが詳細に書かれている。

 先に書いた「読書・著者に会いたい」に、今井清一さんの「濱口雄幸伝(上・下)」が刊行されたこともあり、「週刊20世紀(昭和5年)」を参考に、次回にその当時の世相を書いてみたい。

(平成26年2月28日)



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