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第152話 「戦没した船と海員の資料館」を訪ねて[2011年09月21日(Wed)]


 前々回で「第150話平洋丸の進水式」、前回には「第151話 平洋丸の進水式(その2)」を公開したが、友人からのコメントを参考に戦時化の徴用船についてもう少し詳しく調べることにした。

 戦時徴用船などを検索していると、「戦没した船と海員の資料館」が神戸元町の「全日本海員組合関西支部」内に展示されていることを知ったので、9月15日に見学してきた。
 国道2号線沿いに面した海岸通3丁目の資料館を入ると、「日本海員組合記念碑(写真1)」と右の壁には船舵(rudder)が飾られていた。



写真1 日本海員組合記念碑


 その記念碑には初代組合長楢崎猪太郎氏が大正十四年に私財を以って購入し、寄付されたことなどが書いてあった。
 その経歴を見ると、「1865〜1932 明治・昭和時代前期の労働運動家。元治(げんじ)2年2月20日生まれ。明治20年三井物産船舶部にはいり、船長、監督。のち満鉄大連埠頭事務所長、海員協会専務理事を歴任。大正10年日本海員組合を結成し,初代組合長となる」と書いていた。


海に墓標を 海員不戦の誓い

 展示室で「日本は周りを海に囲まれた国です。その上資源の少ない国土ですので、食料品から石油燃料、鉄の原料など、様々な物資を外国から輸入して経済を維持しています。
1941年から1945年にかけて、日本がアメリカ・イギリス・中国・オランダなど、世界の多くの国と戦った第二次世界大戦は、こうした認識を忘れた無謀な戦争だったのです。
このため沢山の船が、戦争の犠牲になりました。戦争が終わった時、政府が発表した被害の総額は、官・民一般汽船3575隻、機帆船2070隻、漁船1595隻(計7240隻)などとなっています。

 この資料館には、これらの船の在りし日の写真を展示しております」と資料館の主旨を書いた案内書をもらった。

 第一展示室には戦没した徴用船の写真が壁面にびっしりと展示されていた。
持ち帰って読んだ「さいべりあ丸(日本海汽船)セブ島残留船員の帰還報告・新谷英一著」に気になる文があった。
 「由来軍公用船々員は、何処までも軍属であった。船長であろうが何であろうが、軍はそんなことは問わないのである。戦局の進展につれ、多少の考慮は払われた様だが、それは飽まで必要に迫られたことで、根本概念においては少しも変ってはいなかった。軍人、軍馬、軍犬、鳩、軍属と当時は小さい声でしか云えなかったのだが、とに角最低位の中でも、直属の軍属は外様(否三等軍属)の船員に対し威張ったものである・・・・・・」

展示室の片隅に「或る機関長の雄叫び」


  「商船乗りは日章旗のもとでは死すとも
                軍艦旗のもとでは死なじ」


が貼ってあった。

 戦中派で直接戦争体験のない筆者にも、軍の勝手な都合で徴用船にされ、軍属という民間人に対して虐げられた扱いの船乗りの雄叫びに理解できた。

 この館のスタッフの説明によると、軍艦以外の徴用船7240隻の88%が沈められ、海員は60,600人が犠牲になったが、死亡率は43%で、陸軍の23%、海軍の18%に比し、多くの徴用された船員が犠牲になっている。

 第151話で、友人が教えてくれた「米軍が食料や弾薬の補給、即ちロジスティックスを最重要と考えたのに対し、日本軍は比較的軽視の傾向にありました」というコメントを裏付けたものといえる。


護送船団

 ロジスティクスとは、「元来、軍事用語であり、軍隊の装備品、糧食などの軍事品の調達、供給に関する軍事科学である兵站(へいたん)術、およびその具体的運営を意味している(小学館・日本大百科全書)」と書いている。

 ウキペディア(フリー百科事典)の「護送船団」の「第二次世界大戦(太平洋)」によると、「太平洋戦線においては、日本軍による通商破壊活動は不活発であったが、他方、アメリカ軍による日本に対する通商破壊活動は戦争後期以降、極めて活発であったために、日本軍が護送船団を組織している。

 戦争前半においては、アメリカ海軍の潜水艦は魚雷の不調もあり、通商破壊活動をあまり行わなかった。戦争中期以降、ガトー級潜水艦の大量就役や魚雷の改善が進むと、航空機も加わっての活発な通商破壊活動を行うようになった。対する日本軍は、戦争前期には商船・輸送船などの喪失が極めて少なかったことから、上陸作戦時を除き、護送船団はほとんど組織していなかった。

 その後、商船などの被害が急増するにつれ、護衛船団の必要性を認識し、1943年(昭和18年)11月15日に海軍内に海上護衛総司令部(海上護衛総隊・海護総隊)を設置し、通商活動におけるものも含む船団護衛に乗り出している。
しかし、日本の船団護衛は、駆逐艦・海防艦をはじめとする護衛艦艇の絶対数の不足、レーダーやソナー、対潜前投兵器などの対潜装備の能力不足、そしてアメリカ軍の攻撃力の大きさのために失敗に終わっている」と説明している。

 戦争末期になってやっとロジスティクスの重要性を認識するようになったようだ。


第二図南丸

 戦後の食糧難の時期、学校給食に鯨肉が出てきても、筆者には匂い等で食べにくかったことと共に、「図南丸(となんまる)」が捕鯨船として南氷洋で活躍していたことの記憶がある。

 先の平洋丸や平安丸とともに、第二図南丸の進水式の記念絵葉書が出てきた。この船は日本水産の所属の捕鯨母船として活躍し、漁閑期には北米から海軍用石油の輸入に用いられた。




写真2 第二図南丸進水記念絵葉書




写真3 第二図南丸進水記念絵葉書



 新聞記事文庫 造船業(07-023)・大阪朝日新聞 夕刊 1937.5.4(昭和12)、データ作成神戸大学付属図書館によると、

 「科学の全智嚢と最新技術を挙げて行われんとする世界無比を誇る最新鋭超弩級捕鯨母船日本水産『図南丸』第二世の古今未曾有の河中進水式はいよいよ来る十一日に行われるが、当日は臨時列車が運転されるというほどの物凄さで、何ぶんにも2万トン級の大船が狭い川の中への進水式というので一般からも極めて注目されている」と当時の様子を報道している。

 第二図南丸(19262総トン)は、当時商船として日本最大であった。昭和16年11月に海軍に徴用され、第三図南丸と同様の任務に従事した。
第二図南丸は昭和19年8月22日、舟山列島付近の北緯29−53、東経125−17において、米潜水艦の雷撃で沈没した。
 
 戦前の日本捕鯨の期待を担ってきた巨大捕鯨母船は、本来の捕鯨母船と言う役割ではなく、単なる油槽船としてその短い生涯を閉じた。


 商船が戦時下、軍のために徴用された船員は軍の横暴で虐げられ、軍人より20%強も多くの犠牲者が出した。「海に墓標を 海員不戦の誓い」を噛み締めながら資料館をあとにした。


(平成23年9月21日)


第151話 平洋丸の進水式・その2[2011年09月13日(Tue)]


 前回の第150話で「平洋丸の進水式」の写真と絵葉書を公開したが、他のアルバム帖からもこの船の晴れやかな進水式の別の写真が見つかった。



写真1 平洋丸の進水風景


  写真1は造船台から安治川に滑り降りていく瞬間だろうか。

 前回の写真では、進水式で飾られる満艦飾は写っていなかったが、写真1では大きな船体と共に、多くの参列者や船上には関係者の姿が小さく写っていた。




写真2 飛行機より見た平洋丸の進水の光景


 写真2では父のアルバムには、航空写真とは言わずに「飛行機より見た平洋丸の進水の光景」の説明書きをそのまま引用した。

 父の自分史「牛歩四十年・造船工作の人々」によると、「入社した翌年の4年に、海軍省第6掃海艇、特務艦“かもめ”が進水し、大連汽船石炭運搬船“撫順丸”、“甘井子丸”も竣工した。
 そして10月5日に、待望の日本郵船貨客船“平洋丸”が進水した。
 
 この平洋丸は9,815総トン、全長140mで、河幅が船台方向にわずか217mという非常にむずかしい進水で、河川進水の国内記録を更新した。建造主任はTさん(のちの取締役因島造船所長)で、進水の前夜より着々準備を進め、10月5日の満潮時を期して進水し、無事安治川に浮んだとき、思わず万才の声がでた。

翌5年4月16日に、平洋丸よりさらに大きい11,616総トンの“平安丸”も目出度く進水した」と当時のことを記していた。





写真3 平安丸進水記念絵葉書(1)




写真4 平安丸進水記念絵葉書(2)


 昭和初期の電気溶接


 19世紀末期に開発された炭素アーク溶接法や金属アーク溶接法の原理を生かし、欠点を改善する研究開発が20世紀になって活発に行われるようになった。

 上記「牛歩四十年」によると、「昭和3年(1928年)当時の電気溶接工場の設備は、定置式50馬力直流モーター・ゼネレーター溶接機1組と、米国ゼアース(Zearth)製丸型油槽に仕組んだ溶接機を、自家製トロリーに乗せて移動できるようにしたものが4台あった。全工場の電気溶接は造船溶接工場が担当していたので、この移動溶接機を造船、造機・修繕の各工事現場に運び作業をした。
 小道具の溶接棒ホルダーは、真鍮棒で作った火箸の根元に電線のコードを結んだもので抵抗が多く、溶接を続行するうちに熱で持てなくなり、バケツの水で冷しながら使用した。また遮光面は平板の絶縁紙に色ガラスを取付けたもので、側面から紫外線・赤外線等の有害光線が目に入り、工員は常に赤い眼をしていた」と書いている。

 この自分史には、「入社当時の電気溶接工場とロイド受検協会受検のテストピース(写真3)」を載せていた。




写真5 ロイド協会受検のテストピース


 筆者は昭和40年代から60年にかけて橋梁検査で溶接試験のテストに何度も立ち会ったことがあるが、テストピースはこの写真の5分の1くらいの大きさになっていた。

 戦後に一時期造船王国といわれた日本も、こうした初期の電気溶接からの改良や技術進歩によって現在の繁栄がもたらされたと思う。


友人二人からのコメント

 前回「第150話 平洋丸の進水式」を公開したところ、友人二人からコメントをもらった。

 大学の同級生のYさんは、土木工学を学ぶ前に船乗りになるための学校に入ったというほどの船好きである。
 当時の工場の作業環境などを感慨深げに語った後、仕事でガダルカナル島に2年間滞在した時、港に着く寸前に米軍の攻撃にあい沈没してしまった残骸が未だに残っているということだった。

 当時の徴用船は、貨客船で速力や収容能力を重視していて船に使う鉄板は薄いものだった。徴用船として補強もしただろうが、船底までは補強できず攻撃を受ければひとたまりもなかったという。

 ネットでガダルカナル島 徴用船で検索してみると「船団輸送で完敗した海軍 船団護衛をおろそかにした海軍 ヒ86船団の悲劇」に、「米リバティ型戦時標準船もその程度の速力戦時貨物船の主流であった〔1A 船(11.5Kt),2A船〔油・炭混焼〕(10.0Kt),3A船 (12.0Kt)など〕。だが日本標準船は二重底でなかったことである。

 日本の戦時標準船は鉄の棺桶と船員に揶揄された。鉄材節約のため、船舶命数(使用期間)を通常の25年から半分以下の10年程度に見積もり、その分だけ鋼板(鉄板)を薄くした。二重船底でもなく、鉄板が薄いために簡単に沈没した」と書いていた。

 また、一緒によく飲むAさんからは「ニッポンの徴用船が、米軍雷撃機や潜水艦から片っ端に沈められていったのに対し、日本の方は、『見敵必殺』と武士道の高い次元からか、米軍の戦艦や重巡の攻撃・必殺に主力を置いていたようです。これは、米軍が食料や弾薬の補給、即ちロジスティックスを最重要と考えたのに対し、日本軍は比較的軽視の傾向にありました。(典型的な失敗はインパール作戦です。トラック類が不足していたために、ビルマの奥地で牛馬を2万頭入手するのを前提とした狂気じみた作戦計画です。食料や、弾薬の補給は二の次の計画です。7万人の将兵がほとんど飢え死にしました)

 http://www.kcnet.ne.jp/~kubota/ をご覧ください。これは、昭和19年10月の戦争後期に入るフイリッピンのレイテ湾激戦の時に、栗田艦隊が数千席の輸送船団や上陸用舟艇の中に米国の軍艦がいなかったために話にならんと言って引き帰しています。
 折角の米軍を殲滅させるチャンス見逃しています。マッカーサーも命拾いをしたと伝えられています)『太平洋戦争(下) 児島襄 中公新書 258ページ』このような戦争観の差異がこのような大きな結果を生み出しています」のメールをもらった。


 今年の6月に「後期高齢者」の範疇に入れられてしまった筆者だが、昭和初期の頃は未だこの世に生を受けていなかった。

 父の古いアルバムを整理していくと、昭和9年9月21日午前5時頃、高知県室戸岬に上陸した室戸台風は、大阪と神戸の間に午前8時頃再上陸したという写真も出てきた。

 これら惨状の写真を整理していずれ公開しようと思っている。



(平成23年9月13日)

(平成23年9月14日絵葉書2枚追加)


第150話 平洋丸の進水式[2011年09月01日(Thu)]


  父のアルバの中で学生時代から就職したころの写真を整理していたら、昭和4(1929)年10月5日に平洋丸の進水式の写真が3枚出てきた。今から82年前の日立造船桜島工場で写したものだ。

進水式の記念写真

 明治39(1906)年生まれの父は、昭和3(1928)年の22歳で日立造船に入社したので、約1年半に進水式の記念写真に顔を出していることになる(写真1)。



写真1 平洋丸進水前の記念写真


 父が書いた自分史「牛歩四十年」にもこの記念写真が貼っていて、写真の下に「平洋丸進水直前の造船工作課員」と説明を入れていた。写真に写っている34人が平洋丸の造船の工作に携わった人たちのようである。
 その下に平洋丸進水の航空写真も貼ってあった。

 記念写真は82年を経過していてセピア色に変色しているが、写真屋が三脚を立てて撮ったと思われる。写っている人たちに焦点がぴったりと合っていて顔かたちがしっかりと確認できる。最年少が父と同じ22歳としても、今年は104歳である。この人たちの了解を得るのは不可能なので半透明の紙で顔にスモークをかけて人物は特定できないようにした。

 わざわざこの記念写真を入れたのは、山高帽やカンカン帽などを手に持つか、被っていて、当時の造船会社での作業の一端を知ることができると思ったからだ。今なら安全靴にヘルメットを持つか、被った姿で写っていることだろう。


平洋丸の進水状況

 この記念写真に比べて進水状況の写真2枚は父が撮影したもので、4.5cm×6.5cmと小さかったので、スキャナで拡大して「平洋丸」と確認できた。

 進水式の儀式は、建造した船体が造船台から滑らせて初めて水に触れることになる。

 何回か進水式を見学したが、確か船底に鋼鉄製のローラーが仕込まれていて、摩擦抵抗を少なくして滑りやすいようにしている。船体を支えていた木枠を順次外していき、下準備が整った段階で支綱が切られ、くす玉が割れ、近くの楽団が景気良い音楽を奏でながら、水面へと滑り降りていく。




写真2 平洋丸の進水状況


 写真1で大きな木材に支えられた船底は可なりの勾配になっているが、写真2では勾配がゆるくなっているのは、滑っている途中で写しているからだろう。

 上記2枚の写真からは、どんな形の船か分からなかったが、写真3で船の概観を知ることができた。




写真3 初めて水に触れた平洋丸



 進水した船体は、原動機や各種の装備を取り付ける艤装(ぎそう)の工程を終えて完成し、船主に引き渡される。

進水式記念絵葉書

 上記のアルバムと別のアルバムも整理していたら、全く偶然にも戦前の平洋丸の進水式記念絵葉書が出てきた。
 何度か進水式に出て記念の進水式絵葉書をもらっているが、戦前の絵葉書を見るのは初めてだった。
 手持ちの進水式の絵葉書を見ると、全長、幅、計画満載吃水、総屯数、速力など船の主要目の次に、船の一般配置図があって、絵葉書と3点セットになっている。

 戦前のものは、絵葉書だけ2枚セットになっていた。




写真4 平洋丸の進水式記念絵葉書


 写真4は建造中の写真を取り込んで富士山に波をあしらった絵葉書である。

 もう1枚は、この船が完成した時の絵を正確に描いた絵に「日本郵船株式会社 南米航路船 平洋丸 進水記念」小さな文字で書いていた。
 この絵葉書は、進水式が10月だから、季節を取り入れて満月にスズキや花をあしらった絵葉書になっている。




写真5 平洋丸の進水式記念絵葉書


平洋丸の運命

 まさかインターネットで「平洋丸」が検索できるとは思ってもいなかったが、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で詳しく知ることができた。
 その後、数奇な運命をたどる「南米航路船・平洋丸」をフリー事典からつまみ食いをしてみた。

 船歴には昭和3年12月4日だから、父が入社して8ヶ月後に起工している。就役昭和5年(1930年)4月19日、喪失は昭和18年(1943年)1月17日で、13年で沈没した。

 主要目は、総トン数9,816トン、全長146.94m、吃水9.14m、出力10,462馬力(最大)、航海速力16.0ノット、乗客一等船客42名、二等船客80名、三等船客500名である。

 上記にも書いたが、進水式は大阪鐵工所櫻島工場で行われたが、平洋丸の長さ146.94mに対して川幅は247mであったこと、さらに、平洋丸は河川に進水する船の大きさとしては当時の国内新記録であったため、式には日本郵船の社長や大阪市長をはじめ1万人近い観覧客が招かれた。幸いにして式は無事挙行され、翌日の新聞には進水式の様子を写した航空写真が掲載された。
 父が航空写真をどこで手に入れたか分からないが、自分史に載せたのは当時話題になった出来事だったからなのだろう。

 昭和5年4月19日に就航してからは、香港や日本とチリの間を往復し続けたが、昭和14年8月に最後ペルー移民を輸送し、昭和16年6月22日の神戸発を最後に南米西岸航路が休航となった後は日本の港に繋船されたままとなっていた。

 昭和16年10月15日、平洋丸は海軍に徴用され、特設輸送艦となった。
 
 平洋丸の最初の任務は11月21日に舞鶴を出港し、サイパン、マーシャル諸島に部隊を揚陸し、その任務を完了した。日米開戦は日本に戻る途中であり、開戦後の平洋丸は横須賀を拠点にサイパン、トラックなどの内南洋を中心に輸送任務を行い、時にはラバウル島などの外南洋への輸送任務も行った。

 昭和18年1月11日、乗組114名、トラック諸島の基地建設要員1753名、東京市の南方慰問団11名の計1878名と食糧や武器弾薬4000トンを乗せて、トラック島に向かって横須賀を出港した。この時の航海は護衛艦なしの単独航海であったため、平洋丸は平均15ノットの高速で航海し、見張員を増員して潜水艦の監視にあたらせた。そのため航海は順調で、1月16日にサイパン沖を通過し、1月17日にはトラックの北約400kmの地点にさしかかった。

 1月17日午後2時5分、入港祝いの赤飯が作られている最中、左舷船首附近に米潜水艦が放った魚雷が命中した。1本目の魚雷命中からすぐ2本目と3本目の魚雷が機関室に命中し、機関室から火災が発生しただけでなく、平洋丸のエンジンは完全に停止した。

 平洋丸からの脱出に成功した生存者たちは、海中にいる人と救命艇や筏に乗っている人とで助け合い、交代で救命艇や筏に乗って体力の消耗を防いだり、乾パンや飲み水を分け合った

 遭難から4日目の1月20日朝、平洋丸からの救難信号を受けて周辺海域を捜索していた海軍の飛行機のうちの1機が救命艇を発見し、現場に到着して救助を開始した。この救助作業により、乗組員70名と便乗者951名の計1021名が救助された。

 昭和5年から昭和14年までの9年間、南米航路船として乗客定員622名、ペルー国、コロンビア国へ移民船として活躍していたのに、第二次世界大戦のため特設輸送艦として徴用されたのは、貨物の積載能力が大型貨物船並みであるということと、船艙のスペースに余裕があったため居住スペースの拡大が可能であったためであるという。

 移民で乗船された方、徴用船で辛くも救助された方1021名など、多くの方々のかかわりがあることを知った。船の耐用年数はどのくらいか知らないが、13年で潜水艦に沈没されるとはあらためて戦争のむなしさを痛感した。


(平成23年9月1日)
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