CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 新聞記事から | Main | 昔の話題 »
<< 2017年11月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
第143話 補足版ー関東大震災での西条八十とハーモニカ[2011年06月02日(Thu)]


 東日本大震災から2ヶ月半以上経ったが、元気が出て、励ましになるような話題がみつからない。被災されて復旧、復興に取り組んでおられる方たちのことを思うと、のんきな話題は慎むべきだと思う。

 そんな昨今だが、平成7年(1995年)1月17日の阪神大震災から4ヶ月した頃だったろうか、平成7年懐徳堂春期講座で詩人の佐々木幹郎先生の「都市の鼓膜−関東大震災の以前と以降」を聴講し時のことを思い出した。

 その講座の概要には「東京という都市に、人間と同じように、もし『鼓膜』があったならと推定してみる。大正12年の関東大震災のとき、轟音はどんなふうに聞こえただろうか。都市が破壊されるときの音については、誰もが記憶に残している。大地震の前に、海鳴りの音が聞こえた。大地が揺れると同時に、空気も揺れた。その最中に、当時正午を知らせるために鳴らされていた大砲が『ドン』と鳴った。下町では、空を飛んでいた雀が地面に落ち、鶏たちも腰が抜けたように歩けなくなった。竜巻が起こり、本所にあった被服廠跡に避難していた3万2千人が焼け死んだ。新宿御苑に避難誘導した人々は、余震のたびに全員で南無阿弥陀仏の大合唱をしている。東京での死者・行方不明者の総計は約9万人。首都の鼓膜はこのとき、痛みをともなって破れたのだ」と書かれている。
 そして、大震災の経験が当時の文学者にどのような影響を与えたかという講義だった。

 なお、当時の世相が少しでも理解できるように、朝日クロニクル「週刊20世紀」の写真から引用してみた。


西条八十と関東大震災

 その話のなかで「西條八十が関東大震災に遭遇して上野の山に避難したおり、少年の吹くハ−モニカを聞いたその時の感激が、歌謡作詩家になっていった」という話に、とくに興味をそそられた。そこでその出典となった本や西條八十の経歴を調べてみた。
西條八十に関する資料をみると「フランス象徴派の影響を受けた近代詩人、童謡詩人、歌謡作詩家の三つの顔を持つ」と書かれている。

 歌謡作詞家の顔を出すきっかけは、中央公論社、昭和50年4月10日発行の西條嫩子著「父 西條八十」のなかに書かれている。

 「大正12年、母がお産で入院中、大震災がおきた。私はまだ、四歳で、妹の慧子と盲目の祖母をかかえるようにして、琴という名の保母兼家政婦が中庭につれだすと同時に、目の前の物置が大震動で瞬時にくずれてめちゃめちゃになってしまった。
すぐに父が駈けもどってきた。近くの髪床屋に行っていたのでエプロン姿のまま、落ちてきた屋根瓦にひたいを割られ血だらけであった。私共の無事な姿を見た時の父の顔を忘れることができない。家は壁が落ちた位だったのでひといきつくと父は双児を死産したばかりの母を案じて池袋の高橋病院へでかけていった。

 余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。
ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

 その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。それは思いがけぬ美しく優しい音であった。激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。この時の得もいわれぬ深い感銘が父をして歌う唄、大衆への歌、レコ−ドへ向かう機縁となったようである」と、「父西条八十は私の白鳥だった(集英社文庫)」などの著作の八十の娘さんが書いている。




地震直後の築地の交差点付近。数刻のちにこの近辺も猛火につつまれた。地震と同時に市内の各所から上がった火の手は、折からの風速用〜15メートルの強風にあおられて60近くの大火流となり、早いものは毎時800メートルの速さで市内をなめつくした


西条八十と船頭小唄

 この話を聞いたのは、阪神大震災のあった年、平成7年の5月頃だった。その年の暮れの日曜日、車の中でNHKラジオから野口雨情を話題にした童謡漫談を聞いた。その中で西條八十が遭遇した関東大震災とハ−モニカの話が出てきた。

 内容は上記とほぼ同じだったが、その時少年が吹いた曲は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」だったという。それを漫談風にしゃべっていたところでは、八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。

 ちなみに、ハ−モニカが初めて日本に伝えられたのは明治中ごろらしい。当初はドイツ製が優勢だった。その輸入が第一次世界大戦で止まっていた間の大正5、6年に国産品が相次いで現れ、急激な普及の糸口になった。(世界大百科事典・平凡社)

 この「船頭小唄」は大正10年に発表され、その前年からの恐慌で民衆の生活が窮迫化し、それまでの楽天的な曲調が影をひそめていった時代である。関東大震災が起こった大正12年当時には、庶民のあいだで歌われていたのだろう。

   船頭小唄 
         野口雨情作詞、中山晋平作曲
   おれは河原の 枯れすすき
   同じお前も 枯れすすき
   どうせ二人は この世では
   花の咲かない 枯れすすき

 と、日本人特有の哀調を極度にゆりうごかしたこの歌は、空前の大ヒットとなったと歌謡史に書かれている。


フランス留学後発表した東京行進曲

  「関東大震災の翌年の早春、愛児慧子への深い傷心をいだきながら、父は早大の留学生として渡仏することになった」と、上記「父 西條八十」の次の章に書いている。
 昭和2年フランスから帰国したときにすっかり復興した東京の姿を見て作ったのが「当世銀座節」だった。西條が雑誌に発表した詩に中山晋平が作曲し、佐藤千夜子がレコ−ドに吹き込んだが、あまり流行らなかった。

 昭和4年に発表した「東京行進曲」は、同名の映画主題歌として日活が八十に依頼したもので、関東大震災後の復興で面目を一新した東京の風物を軽快な曲で描いて25万枚売れたという。




「東京行進曲」大ヒット


 「生まれてはじめて、当てようとして思い切り調子をおろして書いたものだけにこの『東京行進曲』の成功、不成功は私の重大な関心事だった」と自叙伝に書いている。

 この『東京行進曲』の大成功によって、ビクタ−専属の作詞家となって歌謡作詞家としての顔が見ることができる。
 
     東京行進曲
             西條八十作詞、中山晋平作曲
   昔恋しい銀座の柳
   婀娜(あだ)な年増を誰が知ろ
   ジャズで踊って リキュ−ルで更けて
   明けりゃダンサ−の涙雨




東京音頭大流行(西條八十作詞・中山晋平作曲)


 戦後流行った歌謡曲

 終戦になった昭和20年ころまでよく歌われていたのは、西條八十の作詩した「東京音頭」「支那の夜」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「若鷲の歌」などだった。
 戦後になって、西条八十作詞の歌謡曲では「青い山脈」「王将」などを口ずさんだものだが、藤山一郎が晩年指揮していたころ「思い出のメロディ−」の最後には、
    青い山脈
              西條八十作詩、服部良一作曲
   若く明るい歌声に 
   雪崩は消える花も咲く 
   青い山脈 雪割桜 空のはて 
   今日もわれらの 夢を呼ぶ

は、懐かしい思い出である。
同窓会などで最後に合唱する曲には、「校歌」の場合もあるが、「高校三年生・作詞:丘 灯至夫、作曲:遠藤 実」」や「青い山脈」などもよく歌う曲だ。
思い出の懐かしい曲でもあるが、「青い山脈」の明るく前向きな歌詞は何となく浮き立つ感じがしてくる。


青い山脈の作曲のエピソード

 フリー百科事典(ウィキペディア)の青い山脈を見ると、この曲を作曲した服部良一のエピソードが載っていた。
「大阪から京都に向かう京阪神急行電鉄京都線(現在の阪急京都線)の電車から北摂の山並みを眺めた時に曲想が浮かんできた。手帳に書きとめようとしたが、生憎車内は買い出しの客で満員。五線譜を書くことができない。とっさの思いつきでハーモニカの番号を書いたという。服部自身「周りの人も、闇屋が計算していると思ったのでしょうね。」と回想している」
 
 西條八十の歌詞をみて作曲した服部良一の二人は「青い山脈」ではハーモニカでつながっている気がした。


(平成23年6月2日)


第143話 関東大震災での西條八十とハーモニカ[2011年05月30日(Mon)]


 東日本大震災から2ヶ月半以上経ったが、元気が出て、励ましになるような話題がみつからない。被災されて復旧、復興に取り組んでおられる方たちのことを思うと、のんきな話題は慎むべきだと思う。

 そんな昨今だが、平成7年(1995年)1月17日の阪神大震災から4ヶ月した頃だったろうか、平成7年懐徳堂春期講座で詩人の佐々木幹郎先生の「都市の鼓膜−関東大震災の以前と以降」を聴講し時のことを思い出した。

 その講座の概要には「東京という都市に、人間と同じように、もし『鼓膜』があったならと推定してみる。大正12年の関東大震災のとき、轟音はどんなふうに聞こえただろうか。都市が破壊されるときの音については、誰もが記憶に残している。大地震の前に、海鳴りの音が聞こえた。大地が揺れると同時に、空気も揺れた。その最中に、当時正午を知らせるために鳴らされていた大砲が『ドン』と鳴った。

 下町では、空を飛んでいた雀が地面に落ち、鶏たちも腰が抜けたように歩けなくなった。竜巻が起こり、本所にあった被服廠跡に避難していた3万2千人が焼け死んだ。新宿御苑に避難誘導した人々は、余震のたびに全員で南無阿弥陀仏の大合唱をしている。東京での死者・行方不明者の総計は約9万人。首都の鼓膜はこのとき、痛みをともなって破れたのだ」と書かれている。
 そして、大震災の経験が当時の文学者にどのような影響を与えたかという講義だった。


西條八十と関東大震災

 その話のなかで「西條八十が関東大震災に遭遇して上野の山に避難したおり、少年の吹くハ−モニカを聞いたその時の感激が、歌謡作詩家になっていった」という話に、とくに興味をそそられた。そこでその出典となった本や西條八十の経歴を調べてみた。
 西條八十に関する資料をみると「フランス象徴派の影響を受けた近代詩人、童謡詩人、歌謡作詩家の三つの顔を持つ」と書かれている。

 歌謡作詞家の顔を出すきっかけは、中央公論社、昭和50年4月10日発行の西條嫩子著「父 西條八十」のなかに書かれている。
 「大正12年、母がお産で入院中、大震災がおきた。私はまだ、四歳で、妹の慧子と盲目の祖母をかかえるようにして、琴という名の保母兼家政婦が中庭につれだすと同時に、目の前の物置が大震動で瞬時にくずれてめちゃめちゃになってしまった。

 すぐに父が駈けもどってきた。近くの髪床屋に行っていたのでエプロン姿のまま、落ちてきた屋根瓦にひたいを割られ血だらけであった。私共の無事な姿を見た時の父の顔を忘れることができない。家は壁が落ちた位だったのでひといきつくと父は双児を死産したばかりの母を案じて池袋の高橋病院へでかけていった。

 余震がひんぴんと繰り返された。都心や下町方面の空が炎のように赤く染まっていた。朝鮮人の襲撃があると言って近所の男の人たちが竹槍をかまえて出ていった。病院へかけつけた父は母が池袋駅の構内に寝たまま避難して無事であることをたしかめると月島に住む兄英治夫婦を案じて築地の方角へ歩き出した。

 ところが、倒れた家屋や避難民の激しい動きにまきこまれ、いつのまにか上野の山の方へおしよせられてしまった。自警団に阻まれたりして、けっきょく上野の山で一夜を明かす羽目となった。

その夜半、地獄のように遠く近く燃えさかる火災を眼下にみながら、恐怖にふるえる避難民の中からとつぜん一少年の吹くハ−モニカの音が響いた。それは思いがけぬ美しく優しい音であった。激しい地震と火災におびえ、疲れた人々の心に、それは慰撫の天使の喇叭のように鳴りひびき、しみ渡った。この時の得もいわれぬ深い感銘が父をして歌う唄、大衆への歌、レコ−ドへ向かう機縁となったようである」と、「父西条八十は私の白鳥だった(集英社文庫)」などの著作の八十の娘さんが書いている。


西條八十と船頭小唄

 この話を聞いたのは、阪神大震災のあった年、平成7年の5月頃だった。その年の暮れの日曜日、車の中でNHKラジオから野口雨情を話題にした歌謡漫談を聞いた。その中で西條八十が遭遇した関東大震災とハ−モニカの話が出てきた。

 内容は上記とほぼ同じだったが、その時少年が吹いた曲は、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「船頭小唄」だったという。それを漫談風にしゃべっていたところでは、八十は「この非常時に」と遮ろうとしたが、すでにハ−モニカの奏でる哀調を帯びた旋律が流れていて、あたりの人たちが静まり返ってその音色に聞き入ったそうだ。

 ちなみに、ハ−モニカが初めて日本に伝えられたのは明治中ごろらしい。当初はドイツ製が優勢だった。その輸入が第一次世界大戦で止まっていた間の大正5、6年に国産品が相次いで現れ、急激な普及の糸口になった。(世界大百科事典・平凡社)

 この「船頭小唄」は大正10年に発表され、その前年からの恐慌で民衆の生活が窮迫化し、それまでの楽天的な曲調が影をひそめていった時代である。関東大震災が起こった大正12年当時には、庶民のあいだで歌われていたのだろう。

   船頭小唄 
         野口雨情作詞、中山晋平作曲
   おれは河原の 枯れすすき
   同じお前も 枯れすすき
   どうせ二人は この世では
   花の咲かない 枯れすすき

と、日本人特有の哀調を極度にゆりうごかしたこの歌は、空前の大ヒットとなったと歌謡史に書かれている。


フランス留学後発表した東京行進曲

 「関東大震災の翌年の早春、愛児慧子への深い傷心をいだきながら、父は早大の留学生として渡仏することになった」と、上記「父 西條八十」の次の章に書いている。

 昭和2年フランスから帰国したときにすっかり復興した東京の姿を見て作ったのが「当世銀座節」だった。西條が雑誌に発表した詩に中山晋平が作曲し、佐藤千夜子がレコ−ドに吹き込んだが、あまり流行らなかった。

 昭和4年に発表した「東京行進曲」は、同名の映画主題歌として日活が八十に依頼したもので、関東大震災後の復興で面目を一新した東京の風物を軽快な曲で描いて25万枚売れたという。
 「生まれてはじめて、当てようとして思い切り調子をおろして書いたものだけにこの『東京行進曲』の成功、不成功は私の重大な関心事だった」と自叙伝に書いている。

 この『東京行進曲』の大成功によって、ビクタ−専属の作詞家となって歌謡作詞家としての顔が見ることができる。
 
     東京行進曲
             西條八十作詞、中山晋平作曲
   昔恋しい銀座の柳
   婀娜(あだ)な年増を誰が知ろ
   ジャズで踊って リキュ−ルで更けて
   明けりゃダンサ−の涙雨


 戦後流行った歌謡曲

  終戦になった昭和20年ころまでよく歌われていたのは、西條八十の作詩した「東京音頭」「支那の夜」「旅の夜風」「誰か故郷を思わざる」「若鷲の歌」などだった。
 戦後、西条八十作詞の歌謡曲では「青い山脈」「王将」などを口ずさんだものだが、藤山一郎が晩年指揮していたころ「思い出のメロディ−」の最後には、
    青い山脈
              西條八十作詩、服部良一作曲
   若く明るい歌声に 
   雪崩は消える花も咲く 
   青い山脈 雪割桜 空のはて 
   今日もわれらの 夢を呼ぶ

は、懐かしい思い出である。

 同窓会などで最後に合唱する曲には、「校歌」の場合もあるが、「高校三年生・作詞:丘 灯至夫、作曲:遠藤 実」」や「青い山脈」などもよく歌う曲だ。

 思い出の懐かしい曲でもあるが、「青い山脈」の明るく前向きな歌詞は何となく浮き立つ感じがしてくる。


青い山脈の作曲のエピソード

 フリー百科事典(ウィキペディア)の青い山脈を見ると、この曲を作曲した服部良一のエピソードが載っていた。

 「大阪から京都に向かう京阪神急行電鉄京都線(現在の阪急京都線)の電車から北摂の山並みを眺めた時に曲想が浮かんできた。手帳に書きとめようとしたが、生憎車内は買い出しの客で満員。五線譜を書くことができない。とっさの思いつきでハーモニカの番号を書いたという。服部自身「周りの人も、闇屋が計算していると思ったのでしょうね。」と回想している」
 
 西條八十の歌詞をみて作曲した服部良一の二人は「青い山脈」ではハーモニカでつながっている気がした。

(平成23年5月30日)


プロフィール

箕面だんだんクラブさんの画像
リンク集
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/index2_0.xml