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第75話 熊野古道・中辺路町北郡(ほくそぎ)でみた路傍の神仏[2008年02月19日(Tue)]

 
 日本列島に寒気団が居座って寒い日々が続いています。2月に入って1週目の土曜日、2月2日だけはどうにか里山保全の仕事ができましたが、翌日の3日、第2週の9,10日は降雪で活動は出来ませんでした。

 そんな事情で活動報告が出来ませんので、1月23日に歩いた熊野古道・稲葉根王子から清姫の墓までの途中、のごし橋から北郡までのわずか約2キロの間でみた野仏の話題を書くことにしました。


野辺や路傍の石碑・石塔類

 外山晴彦著「野仏の見方」(「サライ」編集部編 小学館発行)によると、「道祖神など『神』を祀る石造物を『路傍神』または『石神』という。他方、お地蔵様など仏教系のものは『野仏』や『石仏』と呼び、厳密には前者と区別される。このような野辺や路傍の石碑・石塔類を総称して『路傍の神仏』というが、ここでは一般的に親しまれている石『野仏』という言葉を使う」としています。

野仏はなぜ集落のはずれにあるのだろう?

  
 今まで歩いてきた紀伊路でも、道沿いが市街化してしまった場所を除けば、村はずれにありましたし、「語り部さんは村の境界で入り口にたっている」と説明していました。

 上記の本には「僧侶や神職が普及に関わったため、初めから寺社境内に建立されたもの、道路の拡幅や新設のために、寺社境内に移された例を除けば、野仏は路傍などに祀られるのが本来の姿だ。その第一の要因は、地域社会全体ではなく一部の人々の信仰であるということ。寺社は地域の公共の場としての性格が強い。その一角を趣旨の異なる私的祭祀が占有するのは望ましいことではない。さらに、かつての神社は、「村の鎮守」というより有力者の氏神を祀る場。寺院も豪族の菩提寺の意味合いが強い。ここに一部庶民の祭場を置くことは、事実上困難でもあった。……神社の神は天空から舞い降りる「降臨の神」。これに対して、道祖神や大歳神(おおどしのかみ)などは「遊行(ゆぎょう)の神」とされる。つまり、道に沿ってやってくる神と考える例が多い。だから、その祭場は路傍がふさわしい野仏の多くが、道標(みちしるべ)を兼ねる」と説明しています。


注:大辞泉 1 .出歩くこと。歩き回ること。2. 僧などが布教や修行のために
   諸国を巡り歩くこと。行脚(あんぎゃ) 】



歌人・藤原定家も歩いた?古道

 今まで歩いてきた紀伊路では、古道そのものが生活道路として利用されていて昔の面影があまり残っていませんでした。



    地図1 鮎川王子から清姫の墓


 そうした中で今回歩いた地図1真ん中あたりの藤原定家の歌碑から少し行くと、富田川沿いの険しい山道の、細い古道に入り、吊り橋の北郡橋近くまで続きます。

 くまの文庫4「熊野中辺路 古道と王子社」によると、「明治7年、鮎川王子は対岸の住吉神社に合祀され、社殿もそのとき一部改築し移されていたので、明治22年の水害には流失を免がれ、現在住吉神社第三殿となっている……鮎川王子から滝尻王子に至る古道は、いま跡づけることは困難であるが、富田川の右岸を暫くさかのぼった後、向越(むかいこし)付近で川を渡ってそこから左岸を進み、山を越して滝尻へ出たものとみられる。建仁元年(1201)の御幸記十月十三日の条で、定家はその間のことを叙して、深浅とりどりの紅葉が川波に影を映しているのをすぐれた景だとし、股までつかる川を渡ったり、険しい山を越したりしている」と、この区間を説明しています。



    写真1 藤原定家も歩いた?富田川沿いの熊野古道

 上記記載のとおり、現在国道311号が走る富田川右岸は明治の大洪水の影響を受けましたが、住吉神社側の左岸は、被害がありませんでした。

 古の人が渡ったという向越(むかいこし)付近はわかりませんが、藤原定家の歌碑の少し先は、写真1に示すように熊野古道の面影が残っているように思えました。

 その古道の、およそ2キロの間に野仏が8体もありました。
インターネットの検索で「石仏の里 市ノ瀬の石仏探訪」には、この地区で一番古い庚申塔は、寛延4年(1751)ですから、それより550年前に藤原定家が歩いた時代には野仏はなく、「深浅とりどりの紅葉が川波に影を映しているのをすぐれた景色」を愛でながら歩いたことでしょう。


野仏は江戸の庶民文化

 先の著書「野仏の見方、江戸の庶民文化」には、「野仏は江戸時代に庶民に定着したもの。古来の庶民願望や習俗の再構成、または新たに創案された信仰だ。ルーツは古代や外国にあるとしても、野仏の多くは、江戸時代に花開いた庶民文化という面が強い。
 村の一角に野仏を祀る主体は村人一1グループだが、そこには必ず指導者がいた。その多くは修験系や仏教系など多彩な行者たちだった。
 彼らは修行ののち、諸国遍歴や普及のため本部から出向、または「村の文化人」として定着する、などさまざまな出会いのなかで、新しい信仰を庶民に普及・指導していった。
 例えば、観音巡礼は、室町時代にはじまったが、当初は修行僧や山伏の厳しい行脚だった。一般庶民に普及するのは江戸時代に入ってから。行者らによる道中案内や組織づくりの指導がなければ不可能に近い。
 平安時代に中国から伝えられた庚申思想も、室町中期に仏教的にまとめられた『庚申縁起』に端を発する。江戸期の爆発的流行は、やはり行者らの積極的な普及活動による」と書いています。


中辺路町北郡近くで見た野仏

 富田川沿いの写真1のような狭い古道を進んでいくと、「道祖神と庚申塚」の案内板がありました。
 「陰陽合体の道祖神でさえの神といわれ邪悪なものをさえぎり路の悪霊を除き旅人を守り、男女円満、縁結びの神として信仰されている。庚申塚は青面金剛で病魔や病鬼を払い除くとされ縄でしばると失物が見つかると信じられています」と書いた案内板の横に3体の野仏が並んでいました。           




     写真2 男女のシンボルが並んだ道祖神

 上記「野仏の見方、道祖神」には、「路傍の神仏は、村境や辻などに建てられることが多い。なかでも、道祖神にはその傾向が強い。それは、悪霊や疫病が村へ侵入するのを防ぐ『塞(さえ)の神』であったり、道行く人を守護する『岐(ふなど)の神』だったりするからだ。峠には手向けの神や境の神として道祖神が立っていることもある。その名のとおり、道に関わる神であり、除災招福、病除けをはじめとする村の守護神だ。
 ところが、地域によっては性の神や結縁神としても祀られる。さらに子宝を得て安産、子孫を育てることは、作物の生育不生産と結びつき、豊作祈願の作神(さくがみ)や生産神ともなる」と説明しています。

 写真1の道祖神の横に、写真2右側の青面金剛像と左側の道祖神?が並んでいました。
3対いずれの野仏にも榊が供えていました。




    写真3 右側:青面金剛像 左側:道祖神

 インターネットの「榊の知識」には、「“榊”という字は日本でつくられた字であり、文字通り<神に捧げる木>という意味があるようです。神話の時代から神前に“榊”を供える風習があったことが史書にみとめられます。読み方には『栄える』『人と神の堺』などから転じたとされています……榊は枯れないサイクルで取り替える、というのが一般的で、とくにこの日に替えなければいけないという決まりはありません」と説明していました。

 青々した榊が供えられているのをみると、毎日でないかもしれないが、村の人たちはこれらの野仏を大切にお守りしている様子がわかりました。

 狭い古道をさらに進んで富田川を外れて急な坂を登りきったあたりに天然の蜂蜜を採取する丸い容器があちこちにありました。




    写真4 上:徳本上人像と蜂蜜採取箱
         下:新旧二体庚申塔


 峠道の蜂蜜箱の撮影で遅れて語り部の説明を聞けなかったために、徳本上人碑の写真4上は蜂蜜の採取箱の左端にわずかにしか写っていませんでした。

 インターネットの「ひだか歴史探訪」によると、「和歌山県日高町が生んだ偉大な修行僧、清貧の徳本上人は、宝暦8年(1758)6月22日、日高町志賀に生まれました。数えでわずか2歳の年、姉に抱かれながら、月に向かって「南無仏」と唱えたとか、4歳のころ、仲のよかった隣家の子どもの急死に無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったとかの逸話が残っており、幼いころからすでに強い出家の意思を抱いていたようです。

 天明4年(1784)に出家した後は、草庵に住み、1日1合の豆粉や麦粉を口にするだけで、ひたすら念仏を唱え続けました。また、水行をしたり、藤の蔓につかまって崖をよじ登るなど、他に例のない過酷な修行をしたことも伝えられており、行場跡も多く残っています……上人の足跡を物語る石碑(名号碑)は全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けています」と解説しています。

写真4上の徳本上人碑と写真4下の新旧庚申塔には榊は供えられていませんでした。あまりに険しい峠道で天然の蜂蜜を採取に来る人たちが、守護神として信仰しているのでしょうか。

 連日の厳しい寒さですが、2月16日の天声人語に「思えば2月は不思議な月だ。『春』なから冬がきわまる……だが寒さの底で、何かが兆している。遠い兆しに心を澄ませば、春が半歩、近づく気もする」と書いていました。

 昨日2月18日、早春の熊野古道を滝尻王子から熊野高原神社まで歩きました。
 1月前には固いつぼみだった梅がいっせいに開花しているのを車窓から見て、春が半歩以上の速さでやってきているなと感じました。
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