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第225話 市制施行60周年表彰状受賞を機に箕面の今昔を調べる[2016年12月21日(Wed)]
 箕面市は昭和31年(1956年)12月1日に箕面町と豊川村と合併し、箕面市が誕生した。昭和31年は丙申(ひのえさる)で、60年経った今年が干支で一回りして生まれた年の干支である丙申にかえり、元の暦にかえるので還暦を迎えたことになる。
 この機会に箕面の過去、箕面市の現在のことなどを資料から調べてみた。

T 市制60周年の表彰状を授与する

 12月1日に箕面市市制60周年記念式典がメイプルホールで開催され、表彰状及び感謝状の贈呈で「箕面だんだんクラブ」は「環境・公衆衛生功労」の部門で授与した。

 この功労の表彰状には「地域振興」「産業振興」「社会福祉」「教育」「文化」「人権・国際」「公安・防災」「篤行者」「特別」があり、一部「篤行者」に個人での表彰はあるものの、そのほとんどは団体の表彰である。
 私たち「箕面だんだんクラブ」など「環境・公衆衛生功労」だけでも122団体が受賞している。

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写真1 環境・公衆衛生功労で授与した表彰状

U 箕面市の誕生の経緯


 箕面市は「箕面の大滝」などが有名ではあるが、勝尾寺や箕面寺なども歴史的にも有名である。そこで町村合併で誕生した箕面市の誕生の経緯などについて箕面市立郷土資料館に出かけた。
 館内の展示パネル「箕面のおこり」によると、「箕面市域における人の歴史は、旧石器が発見されていることから、数万年前に遡り、遺跡の調査から縄文、弥生、古墳時代と途切れることなく人々が生活していたことがわかっている。奈良時代に山岳修行の地として開かれた『勝尾寺』と『箕面寺』は平安時代には『聖』が集う場所として全国的に有名になった他、平安時代になると牛馬を放し飼いにした『豊島牧(てしままき)』や、『山陽道』沿いに馬や旅用の諸道具を備えた『草野駅(すすきのうまや)』があったと推測される」と紹介している。

 館外にも展示パネルで明治時代からの写真が紹介されていた。

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 写真2 箕面市誕生のパネル(郷土資料館館外パネル)

 写真2の館外展示パネルは、箕面市誕生の経緯が書かれている。「箕面市誕生 ソシテ、現在ヘト続ク」の見出しに続いて「昭和23年町制を施行した箕面町は同年8月止々呂美町、萱野町と合併。次いで昭和31年(1956年)大阪府下24番目の『箕面市』が誕生しました。以降50年の間に人口は12万5千人に増加し、自然に恵まれた住宅・観光都市として発展を続けています」と紹介している。

 この文面からすると、箕面市の過去を紹介している展示パネルは箕面市誕生から50年経ったときに作成したものであろうか?
この展示パネルも市制60周年の還暦を迎えて生まれ変わったからには、時代にあった展示方法で箕面市を紹介してもらえればと思う。

 また、「箕面町報」という新聞も展示されていた。(写真3)発行年月日は不明だが、箕面市誕生直後の記事であろうか。

 文面には、「昭和28年(1953年)3月に始まった箕面町、豊川村合併問題も、ここ3年有余の年月を経て実を結び、12月1日を期して豊川村を合併、箕面市が誕生することになりました。昭和28年の第16回国会において町村合併促進法が成立し、また、本年6月には新市町村建設促進法が交付され、国家の方針も弱小自治体をできるだけ少なくして健全な大きな自治体育成へと進んできました。今ここに箕面市が誕生するに至りましたことは、箕面町、及び豊川村住民の福利、強度発展の上か見ても誠によろこばしいことだと思います」と書いていた。

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写真3 昭和31年箕面市が誕生した当時の新聞記事(郷土資料館館外パネル)


 この記事の中で「昭和28年3月に始まった……」は、昭和28年9月1日に成立した「町村合併促進法」に基づくものである。また、「本年6月には新市町村建設促進法……」は、昭和31年6月30日に成立した「新市町村促進法」の法律で箕面市が誕生したことになる。

V 住みよさランキングと箕面市の人口推移

 全国の都市を対象にした、東洋経済の「住みよさランキング」。総合の「住みよさランキング2016」のほか部門別、2016年版近畿の記事を抜き書きしてみると、「滋賀県がトップ10の内5市を占め、草津市が第1位である。芦屋市が2位、3位は生駒市に次いで、箕面市は5位(全国53位)である。昨年2位だった箕面市(大阪)が5位へと後退した。箕面市は、高水準にあった住宅着工戸数がやや減速したことで「快適度」の順位が16位から21位に下がったことが響いた」と解説している。

 箕面市が誕生した昭和31年(1956年)ころ、人口はどのくらいであったか、ネットで「箕面市まち人・しごと創生総合戦略推進検討会(第1回資料・平成27年8月6日)」でみると、国勢調査の和30年で26,564人であるので、それより少し多い2万7千人くらいで発足したと思われる。

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図1−箕面市と大阪府内の人口推移位

 平成28年1月の箕面市の住民基本台帳の人口、世帯数によると、外国人を含む人口は135,584人(2,941人)、世帯数59,021人(1,931世帯)である。カッコ内の数字は外国人。
他の市との比較データはわからないが、箕面市内には外国人が多く住んでいるように思う。かつての大阪外国語大学は大阪大学になったが、大阪大学で研究している外国人は多くいる。私が住んでいる小野原地域は阪大吹田キャンパスと隣接していて、朝夕にはキャンパスへ通う自転車や歩く外国人を多く見かける。

W 集中豪雨で大被害

 今回の式典で賞状とともに「箕面市誕生60周年記念冊子・みどりとあかね」の「60年のあゆみ」のなかで、「昭和42年7月 集中豪雨で大被害(3人死亡、家屋全半壊3戸、床上浸水330戸、橋流失14件)」が目に留まった。
「昭和42年7月の豪雨は、1日262mmという記録的な大雨が降り、大きな被害を出しました。この水害では、消防団員や幼児など4名がなくなりました。これを機会にダム建設への動きはいっそう強まりました」と書いている。(文と写真4は参考文献1から引用)  

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 写真4 昭和42年(1967年) 箕面川(瀬川)

W−1 治水ダムをつくるか!自然を守るか!

 参考文献@はつづいて、「ダムの計画が発表されると,箕面国定公園内にあり,植物や昆虫の宝庫である、箕面の豊かな自然環境が壊されると反対運動が起こりました。専門家が調査を行い、自然環境をなるべく壊さないように考えて、岩を積み上げたロックフィルという方法を使って治水ダムを建設することになりました」とダム建設のきっかけを書いている。

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写真5 治水ダム建設に関する新聞記事(参考文献1から)


W−2 箕面川ダム完成!

 「人々の願いがかない,ついに昭和57年(1982年)箕面川ダムが完成しました。このダムのおかげで、箕面川の水害はなくなり,箕面はおだやかな山と川のせせらぎの自然を安心して楽しめる場所になりました。
 平成5年(1993年)には,できる限り植林などの緑化対策を実施し、景色に気を配って進められた活動がみとめられ、『環境賞』を受賞しました。自然と調和したダムは観光の名所にもなっています」(参考文献@から)

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 写真6 箕面川ダム(参考文献@から)


W−3 昭和10年の集中豪雨

 
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参考 文献(2)の、特集「水害の爪痕」に、「昭和9年も室戸台風による被害復旧のさなかであった翌10年に6月と8月、近畿地方は2回にわたる集中豪雨に見舞われた」と書いて、写真7を掲載している。

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写真7 復旧作業中の箕面川仰箕橋付近(参考文献Aから)

X 箕面に動物園があったころ

 郷土資料館の館外展示パネルに箕面に動物園があったことを紹介している(写真8)。
動物園 珍獣ダッテ、猛獣ダッテ」に続いて、「箕面有馬電気軌道によって、明治43年11月に日本で三番目の動物園として開園した箕面動物園。その広さは三万坪で、当時では日本最大でした」と書いている。

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写真8 明治時代に箕面にあった動物園(郷土資料館パネル)

 参考文献@で「箕面の歴史・自然・まちづくり」の章に、「箕面に日本で一、二をきそう広さの動物園があった!」のタイトルにで、「明治43年(1910)に箕面・有馬電気軌道(今の阪急電車)が梅田から箕面間に開通しました。また、その年の11月、箕面駅のすぐ北側の山に箕面動物園が開園しました。動物園の中には、売店や大観覧車、噴水が作られ、にぎわったようです」と説明している。

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写真9 動物園の入口(参考文献@から)

Y 箕面駅の今昔


 郷土資料館の館外展示パネルに「電車開通 大阪ト、ツナガッタ! 小林一三らにより設立された箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)は明治43年3月に梅田〜宝塚間、石橋〜箕面間で開業。多くの観光客が箕面を訪れるようになりました。また、沿線開発によって住宅地も発展しました。この電車の開通がきっかけとなって、現在の箕面の街に発展したといえます」と当時の様子を書いている。 

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写真10 電車開通(郷土資料館館外パネル)

 写真11は参考文献@から、明治43年開通当時の箕面駅前を走る電車である。

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写真11 開通当時箕面駅前を走る電車(参考文献@)

 その解説には「走り始めたころの電車は1両で小さく、定員も82名で

発車の回数も1時間に1回くらいのものでした。電車賃は、石橋から箕面までが5銭でした。そのころは、家の数も少なく、電車は、広々とした田んぼの中を走っていました。当時の箕面駅は、降車ホーム、乗車ホーム、貨物ホームの三つに分かれていました。箕面駅についた電卓は、今のように折り返すのではなく、駅前をラケット形に回っていきました。また、駅前は広場になっていて、テニスや模型飛行機の競技大会なビ、いろいろな催しがおこなわれました」と解説している。(参考文献@から)

 図2は現在の地図に箕面山の動物園と阪急電車の箕面駅のラケット形の線路を入れたのではないだろうかと思われる。

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図2−明治44年頃の箕面駅付近の地図(参考文献@から)

 現在の箕面駅は駅前広場(写真12)にはバスの停留所に、市民のための「オレンジゆずるバス」の発着場、タクシーの乗降場があり、駅前広場は比較的ゆったりしているが、行楽シーズン以外は、通勤・通学以外は比較的閑散としているのだはないだろうか。

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 写真12 現在の箕面駅前ひろば

 
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写真13は、現在の箕面駅改札口である。千里ニュータウンに住んでいたころの1967年に北千里駅に孔の開いた定期券で改札口を通過できるシステムが導入されて以来、今では阪急電車のすべての駅にこの自動化札が導入されている。

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写真13 現在の箕面駅の改札口

箕面市の今後の話題

 上記「箕面駅の今昔」で書いているように、この駅は観光施設の集客を主な目的で出来た駅であったため、公共施設は駅から離れた場所であったり、通勤、通学、買い物などではやや不便と言わざるを得ない。
 そのような現状に大阪の中心から延びる地下鉄の延伸である北大阪急行延伸が、現在の千里中央駅から新駅箕面駅(仮称)が、「大型商業施設を核とした箕面のにぎわいの中心『かやの中央』へ接続(平成27年もみじだより3月号)から引用」平成27年秋から着手していて平成32年(2020年)の開業に向けて動いている。

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 図3−(仮称)新箕面駅のイメージ図(もみじだよりから)

 もう一つは新しく開発された街「彩都」の山肌である。北摂山地の山並みの中腹に、山肌を削って伐採や、造成工事が行われて毎日来た北の山並みを見るにつけ見苦しい現状である。「UR都市機構彩都開発事務所」が発行した東生涯学習センターからの景観予想図を見ながら、その変化(図4)に注目して写真に記録している。

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 図4−山並み景観保全と斜面緑化(UR都市機構から)

 図4の一番上の図は造成工事の最盛期・緑化工事着手時期(平成22年頃)である。緑化工事着手後、約10年後の平成32年頃には一番下のイメージになると描いている。写真14は平成28年12月17に撮った山並みである。

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写真14 箕面の山並み(東図書館付近から撮影)

 4年後の2020年には北大阪急行の新箕面駅(仮称)が開業しているであろうし、東京オリンピックでにぎわうことであろう。

(平成28年12月21日)


第215話 阿為神社の蹴鞠と大門寺の紅葉を観る[2015年11月30日(Mon)]
 11月12日に公開した「第214話 今年の秋の紅葉は見事だ!」の最後に「勤労感謝の日が晴天ならば、阿為神社の蹴鞠と大門寺の観楓会にぜひ行ってみたい」と書いていた。23日は午後から雨の予報だったが、一日中何とか雨に降られずに蹴鞠の会も観楓会にも行くことができたので、その様子をまとめてみた。
 我が家から茨木市安威と車で約30分と近く、まず11時からの新嘗祭奉納と蹴鞠の会に出かけた。

国民の祝祭日

 新嘗祭はこの頃ではほとんど聞くことのない言葉だが、昭和18年に国民学校に入学した私は国民の休日であったから覚えている。神嘗祭も休日だったが10月の何日だったかは記憶していなかった。11月23日は現在「勤労感謝の日」になっている。

 因みに「新嘗祭は、稲の収穫を祝い、翌年の豊穣を祈願する古くからの祭儀。天皇が新穀を天神、地祇にすすめ、その恩恵を謝、天皇が新穀を天神、地祇にすすめ、その恩恵を謝し、また、みずからも食する。宮中のほか、伊勢神宮や出雲大社でも行う」。また、神嘗祭(かんなめさい)は10月17日で「天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉納する祭儀」と解説している(コトバンクから引用)。
 このほかに、現在の「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」、「秋分の日」は、「先祖をうやまい、なくなった人をしのぶ」と解説をしている。

 戦前の春分、秋分は「春季皇霊祭」「秋季皇霊祭」と言って「天皇が宮中の皇霊殿で天皇が歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式」であった。(コトバンクから引用)
 このほか、1月1日は「四方拝」や、2月11日は「紀元節」、天皇誕生日を「天長節」と国民の祝祭日が10日あり、祝祭日は皇室中心で、神道一色であることがわかる。
 現在の国民の祝祭日は平成28年から8月11日に「山の日」も加わって年間日数は16日になる。

 「神ここに蹴鞠の庭の照紅葉」

 阿為神社には11時に着いた。すでに新嘗祭の行事が本殿内で神官らの祈願が進められていた。拝殿を囲む三方には見学用の椅子が並べられていて、百人以上の見学者が鞠庭を囲んで着席していた(写真1)。

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 写真1 阿為神社の拝殿と手前は鞠庭

 拝殿の左隅に「神ここに蹴鞠の庭の照紅葉」の句碑(写真2)があった。阿為神社正面は緑色の木々に囲まれていたので、照る紅葉はところどころで見ることができた。

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写真2 「神ここに蹴鞠の庭の照紅葉」の句碑

 新嘗祭は30分ほどで終わり、独特の装束、上着は鞠水干(サリスイカン)、鞠袴(マリバカマ)に、烏帽子(エボシ)に、沓も古式にならった履物であった。
 鞠庭は、「広さ凡そ14m四方で、テテスコートの様に平坦で水はけのよい土地がよく、鞠庭四隅の梢内側に、松・桜・柳・楓の木を植える。高さは4〜5m。尚、地中に壷を数箇埋めて蹴った鞠の反響をよくする」と神社でもらった「蹴鞠について」の説明書きに書いていたが、四隅には笹が立てられていた。(以下、蹴鞠に関する説明は神社からの資料を参考)

蹴鞠の始め

 蹴鞠は「老若男女・上手下手・貴賤を問わず、互にメンバーの中の相手に蹴りよい鞠を蹴渡して共に楽しむ」という。
 色とりどりの装束の男性が6人、女性2人がもそろもそろと(静かにゆるやかにするさま)入場してきた。

 会場に着いて神殿の右側に細長い畳が敷いてあったが、そこに8人がそろって座った。それにも作法があって、写真3の右側の女性2人は後ろ向きから袴を開けるような仕草をしてからくるりと鞠庭に向きを変えてから座った。

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写真3 蹴鞠をする8人の着席

 「始め」の作法は、カエデに枝に挟んだ鞠を神殿に向かって捧げる仕草などであった(写真4)。

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写真4 カエデに挟んだ鞠を捧げて始まる

 「始め・終り・途中の動作に作法と言うべきものが多くあり、見ている人々に見苦しく感じられない作法が定められている」という。
 着席から蹴り始めの時間をデジカメの記録では約9分間であった。

蹴り易い鞠を相手に与える


 独特の装束をつけた8人が、足で鞠を蹴って地に落さず、手を用いず鞠庭で蹴り続けて楽しむものであって、勝ち負けはない。蹴鞠が始まると、鞠を連続して打ち合うラリーの応酬は意外と長く続いた。
 
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写真5の左端のひげを生やした長老がマイクで、「鞠を蹴る時のかけ声には、『アリ』・『ヤ』・『オウ』の三声がある。上手な人は蹴り易い鞠を相手に与える」などと解説してくれた。

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写真5 掛け声で鞠の受け渡しを正確に

「鞠を蹴る時もその姿勢が極めて大切で、腰や膝を曲げる事なく、足の高さも足裏の見えない程度にあげ端正優雅を要する」という。

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写真6 腰や膝を曲げることなく端正優雅に蹴る

 この蹴鞠の会の最後に観客も参加して鞠を蹴っていたが、ブラジル人、タンザニアのTシャツを着た彼らも、日本語を習得したのだろう。「アリ」などと掛け声をかけていた。

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写真7 外国人も一緒に蹴鞠を楽しむ

 たまに高く蹴った鞠をヘッディングでキャッチしていたが、サッカー国のブラジル人だから、鞠でもボールでも蹴る行為は同じだからだろうか。
 
 蹴鞠は勝敗がない無勝負の遊びながら、作法は厳しいが優雅な遊びを楽しむことができた。

神峯山大門寺の紅葉

 茨木市大門寺は今年の10月26日に安威川ダムの見学会に参加したとき、ダムサイトの右岸側の見学場所のすぐ上に大門寺があり、紅葉が美しいということを教えてもらっていた。

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写真8 安威川ダムサイトから上流側

 そこで、11月4日に大門寺へ紅葉を見に出かけたが、地元の人から本堂前の1本だけは早く紅葉するが、11月下旬ころが見ごろで11が21日から23日には鑑楓会が開かれると話してくれた。

 23日にときは大門寺周辺の木々が全体に紅葉していた。

 本堂では僧侶が読経していた。大門寺略記などから、本堂は寛永19年(1642年)に再建、現在に至っているから373年前の建物である。  

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 写真9 373年前の大門寺本堂

 大門寺略記には「神峯山大門寺金剛院はもと青龍寺と号し、現在は真言宗御室派に属する。宝亀二年(771年)、孝仁天皇の長子、開成皇子(桓武天皇の兄)の開基による」というから1200年以上前の古刹である。

 お茶席があるというので、庭を望む毛氈を引いた席に案内された。庭から見る紅葉の見事さに思わず立ち上がってシャッターを押した。

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写真10 大門寺の庭の紅葉


 山門は参道から少し上がった場所にあるのに、大きなカエデの紅葉が見られるとは、なぜと、一瞬思ったが、参道のカエデの上の方の紅葉を眺めていることが分かった。

 11月4日に訪れたとき、参道のカエデが未だ紅葉する前の写真を撮っていた(写真11)。

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写真11 山門前の紅葉(2015年11月4日撮影)

 カエデの根本からでなく、幹の中ほどの紅葉した最高の位置に庭があってその素晴らしい景色を眺められるという不思議な体験をした。
 普段はこの庭を鑑賞できないだろうから、ベストポジションで観楓することができて大満足の祭日を過ごすことができた。

 今年は紅葉の時期が長かったおかげでいろんなところで紅葉を楽しむことができた。さらに2日後の11月25日には京都岩倉の実相院への紅葉狩りに出かけた。その素晴らしい紅葉をお伝えできればと思っているが、明日は師走で「先生も坊さんも走るほど忙しい」と世間では言う。

 来年は傘寿を迎えるこの老人には、はて!纏められるかな?

(平成27年11月30日)


第208話 「みどり生き生きみのお生き生き体験フェア」開催される[2015年05月02日(Sat)]
 「みどり生き生きみのお生き生き体験フェア」は、毎年春は千里中央・せんちゅうパルで、秋は、箕面市内の「かやの広場」で開催されている。
 主催者の「NPO法人みのお山麓保全委員会」の話しでは、ここ2年間ほど4月の初めでは雨天で中止になっていたので、今年は天気が安定する下旬にしたそうだ。
 今年は4月29日の祝日「昭和の日」に開催された。予報では「曇りながら場所によってはにわか雨がある」ということだったが、幸いに雨も降らず午前10時〜午後4時まで大勢の人でにぎわった。

みんなで守ろう 箕面の里山


 箕面だんだんクラブでは、毎回このイベントに参加しているので、その準備や開催日の様子をこのブログで公開している。開場の10時の1時間ほど前に、せんちゅうパル北広場で各参加団体の準備の様子を見てみた。
 イベントの本部で今回主催のリーフレットをもらい、このイベントの目的・意義はどう伝えているかをあらためて見てみた。
「みんなで守ろう 箕面の里山」と「箕面の山に ありがとう」が最上段に掲げてあった。

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図−体験フェアの具体的内容のリーフレット


 箕面市のホームページの昨年10月28日の案内に、「『山なみにいだかれ、みどり豊かなわがまち、みのお』を将来に受けついでいくために、ともに考え行動していくための催しです」と書いてあり、リーフレットの裏面にその主旨に沿う「楽しむ」「知る」「親しむ」「体験する」「作る」「遊ぶ」「募金」があり、幼いころから山に馴染んでもらうように工夫されているのをあらためて認識した。

箕面だんだんクラブのブース

 10時前にイベントの主催者から注意事項等の連絡と「今日一日雨が降ることがないように祈るばかりです」と挨拶があった。
 だんだんクラブのブースを一つ上の階から全体をちょうど10時に撮ってみた。

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 写真1 午前10時の箕面だんだんクラブのブース


 机にはだんだんクラブの活動拠点である体験学習の森で作ってきた竹細工、竹炭のほかに、今回は竹炭を細かく砕いて水洗いをして袋詰めした消臭剤も配布の品に加えた。それに木の根に苔と小さな木を植え付けた盆栽が登場した。(写真2)

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 写真2 木の根を利用した盆栽


 この盆栽を作成したMさんに「募金箱(写3)に書いている値段でもよいか」と確認していたが、この盆栽はかなりの値打ちがあると思っていた。「盆栽を趣味にするのはお年寄りかな?」と思案していたが、中年の女性客も興味を持ってみられていて、寄付金を入れられていた。男の方は千円を寄付金として入れた方もおられたようで、昼過ぎにはなくなってしまった。

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 写真3 竹筒で作った募金箱


 イベントのテーマ「知る」では、「森の四季(写真4)」とか、「竹炭の作り方(写真5)」など、だんだんクラブの活動を紹介していた。

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写真4 「森の四季」の展示パネル


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写真5 「竹炭の作り方」の展示パネル


 「体験する」では、かつては子供たちに竹を切るのを体験することにしていたが、場所等の関係で取りやめになっていた。

 だんだんクラブでは、子どもたちには刃物を使っての竹細工を作るのは難しいので、体験学習の森で事前に作ってきた作品を(写真6)の配布することにした。

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写真6 竹細工の展示


 他団体のブースでは、小枝やどんぐりなどの自然素材を使って、作り、体験し、自然素材に親しむコーナーに人気があったようである。

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写真7 自然素材を使った工作のブース


「遊ぶ、楽しむ」では、幼い子供たちまでも野菜てっぽう(写真8)で的に弾をあてるゲームを楽しんでいた。

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  写真7 野菜てっぽうで遊ぶ子どもたち


 また、竹で作った竹ぽっくり(写真9)は、コンクリートの上を「パカッ、パカッ」と歩くときに響く音を楽しんでいた。

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写真8 竹ぽっくりを教えてもらう子供


生物多様性とは


 だんだんクラブで森林の保全活動に参加するようになって以来、よく口にする言葉に「生物多様性」がある。
 普段何かにつけて使う言葉であるが、具体的にはあまり理解していなかったので、写真12の展示パネルに注目して読んでみた。
 「生物多様性とは、生き物たちの豊かな個性とのつながりのこと。地球上の生きものは、40億年という長い歴史の中でさまざまな環境に適応して進化し、3,000万種ともいわれる多様な生きものが生まれました。これらの生命は、一つひとつに個性があり、全て直接に間接に支えあっていきています」と解説している。

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 写真9 生物多様性の展示パネル


 「生物多様性の3つのレベル」として、@生態系の多様性、A遺伝子の多様性、B種の多様性があり、生物多様性の危機として、「人間により持ち込まれたものによる危機」、「自然に対する働きかけの縮小による危機」、「開発など人間活動による危機」を掲げていた。


 箕面だんだんクラブのブースには、募金付きの竹炭や竹細工品の配布で募金箱を設けていて、閉場1時間半前に撮った写真10では、会場の10時に撮った写真5に比してほとんどなくなるほどになっていた。

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写真10 閉場1時間半前のだんだんクラブのブース


 今回の体験フェアでは、カンカン照りでなく、曇っていたがしのぎやすい「昭和の日」の祝日、無事イベントを終えることができた。

 今回の展示パネルで、主催者コーナーの横に「毒性が強いキノコ・カエンダケを絶対触らない」の注意書きと箕面の滝道近くで撮ったカエンダケの写真などが紹介されていた。

 また、持ち帰った資料の中の「箕面ビジターセンターだより」に、2015年4月の「箕面のキノコ特集号」に分かり易く紹介されていた。それらを含めて次回は「キノコ」についてまとめてみたいと思っている

(平成27年5月2日)


第201話 本町から梅田まで御堂筋を歩いて[2014年10月14日(Tue)]
 御堂筋のイチョウ並木が色づき始めた10月10日、本町で歯の治療が終わった午後の1時間半ほど梅田まで歩いてみた。

 今から50年前(昭和39年)の10月10日は東京オリンピックが開催された日だった。この日は絶好の秋晴れ、土曜日は今のように休日でなく、午前中勤務、午後は休みの半ドンだった。
 堂島川沿いの事務所で開会式の様子をテレビで観戦した。我が家には白黒テレビだったが、事務所にはやっとカラーテレビが入り、その中継を感動してみていたことを思い出す。
 
 50年後の同じ日の午後、のんびりと御堂筋沿いを歩いて、沿道の移ろいを観察してみた。

 昭和39年はその2年前に設立した阪神高速道路は土佐堀・難波間が供用し、続いて環状線の梅田から東横堀川にかけて工事が最盛期だった。大阪市庁舎や日本銀行大阪支店の建物北側の大江橋を跨ぐ付近の工事を担当していた。その頃の工事のネガアルバムをスキャナして当時と現在との変化なども調べてみた。

おおさかカンヴァス2014

 本町交差点から東側の歩道を梅田に向って歩き始めた。10月26日の大阪マラソンの幟(のぼり)が街路灯に取り付けられていて風になびいていた。(写真1)

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写真1 大阪マラソンを知らせる幟


 市民参加のこのマラソンは、2011年から始まったそうだが、応募者が多くてなかなか当たらないとジムの仲間から聞いている。

 本町ガーデンシティ前に黒い影絵が展示されていた。(写真2)

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写真2 影絵の展示


 影絵の近くに立っている女性に尋ねると、「夜暗くなると、影絵がくっきりと見えて幻想的です」と言っていたが、昼間ではさっぱり影絵の効果はなかった。その女性から「MIDOSUJI STREET JOUNAL」の新聞をもらった。その「おおさかカンヴァス2014」には「アートと都市のコラボレーション2014」で、10月9日〜10月11日の期間で開催されていた。
 そのジャーネル紙によると「浪速文化揃い踏み影絵」には「大阪随一の都市空間である御堂筋の特徴を活かし、能、文楽、上方歌舞伎、上方落語など、豊かな大阪文化をテーマとする『光と影のアート』。大型影絵によって大阪文化の魅力を発信する」と解説していた。

 少し北へ行くと、「御堂筋にぎわい創出社会実験」(写真3)の立て看板があり、その先には椅子が並べられていて、キッチンカーで調理した簡単な食べ物が売られていた。

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 写真3 御堂筋にぎわい創出社会実験の立て看板


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写真4 歩道に椅子を並べた社会実験


 ジャーナル紙には「AUTUMN GALLERY恒例のオープンスペースがこの秋も出現します!テラスの周りにはフードマルシェやキッチンカー、まちかどコンサート等、催しが多数開催されます」で、写真4はその一環で歩道や建物の際に椅子が並べられていた。

高村光太郎の彫刻「みちのく」

 御堂筋には数多くの彫刻が展示されているが、彫刻で活躍している人を知らない中で、高村光太郎の女性像「みちのく」が展示されていて親近感いだいた。(写真5)

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 写真5 高村光太郎の彫刻「みちのく」


 と言うのも、中学校1年生の国語の教科書のだっただろう、高村光太郎の「道程」という詩をすぐに思い出したからだ。
       
      道程 
  僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る
  ああ、自然よ 父よ
 
  僕を一人立ちさせた広大な父よ
  僕から目を離さないで守る事をせよ
  常に父の気魄(きはく)を僕に充たせよ
  
  この遠い道程のため
  この遠い道程のため

 最初の「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」だけは覚えていた。中学生当時にどんな観賞をしたか思い出せないが、力強い詩で元気づけられたように思う。

 大阪市制御堂筋彫刻ストリートによると、「高村光太郎の晩年の代表作である。十和田湖の自然の偉大さ、深遠さを表現した彫刻であるとともに、彼の心の中に生きていた妻・智恵子の残像を具現した裸婦像でもある。2人の女性からなるこの作品は、よく見ると全く同一の裸婦像を向い合せに置くという極めて異例の構成となっている」と説明していた。
 そこで、古いアルバムから昭和59年10月訪れた十和田湖の御前ケ浜の十和田開発記念裸婦像を探し出した。 

 
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写真6 十和田湖畔の裸婦像(昭和59年10月8日撮影)


御堂筋の銀杏並木と南行き一方通行

 御堂筋は市の中心部を南北に縦断する国道で南北幹線の基軸である。

 御堂筋といえば、「雨の御堂筋」(歌:欧陽菲菲、作詞:林春生)の「小ぬか雨降る御堂筋……いちょう並木は枯葉を落とし……」とか、もっと古い歌詞では、坂本スミ子が歌っていた「たそがれの御堂筋」(歌:坂本スミ子、作詞:古川益雄)では、「銀杏並木の御堂筋を 肩を並べて二人きり もっと歩こう 中ノ島……」と歌の題材になるほどになっている。

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写真7 御堂筋の銀杏並木


 数年前の銀杏並木はもっと太くて老木であったように思う。余り大きくなって枝葉が茂ると運転に支障が出るから、若木に植え替えられたのだろうか。
 
 1970年の大阪万博が開催された頃、本町近くの御堂筋に面したビルの9階が勤務するビルだった。
 堂島川で基礎工事から桁の架設工事、床版工事などを担当していた。昭和39年頃の御堂筋は、写真8で分かるように、大阪市の中心部を南北に縦断する幅43.6m(24間)、全6車線道路で、北行き、南行き両方向を通行することができた。

 交通量増加の対策として1970年に梅田新道交差点より南の全車線が南行き一方通行になった。堺筋線や四つ橋線は逆に北行きの一方通行になった。

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写真8 南北両方向通行できた頃(大江橋付近)


 南行き一方通行の初日、9階のビルから車の動静を観察していたことを思い出した。唐突な対応策かと思ったが、交通量増加の切り札としてフランスのパリではすでに導入されていることを知った。

 三和銀行本店ビル(三菱UFJ信託銀行)

 三和銀行は大阪に本店を持つ都市銀行であったが、2002年に東海銀行と合併してUFJ銀行となったのち、東京三菱銀行と合併して、現在は三菱東京UFJ銀行になっている。
ひところ、御堂筋の一等地に店舗を構えていた銀行は店舗を移転するだけでなく、合併や銀行名も変わってしまっている。
 淀屋橋駅近くまで来て、かつての三和銀行本店ビルを思い出して、少し南にいったこのビルの写真を西側の歩道から撮った。(写真9)

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写真9 旧三和銀行本店ビル


 と言うのは、3年ほど前、父親のアルバムを整理していたとき、このビルの建設にかかわったのだろうか、鉄骨が組み上がったときの写真が出てきて、今月から建て替えの解体工事が始まると知ったからである。残念ながら保存しているファイルが見つけられなかった。

 そのビルの花壇に「大阪商法会議所跡」の石碑があった。碑文には「明治11年8月五代友厚らにより、大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)が創設され、明治維新の変革期に大阪経済の再生と近代化がはかられた」と記されている。こうした石碑でその歴史を残している建物などがある一方で、三和銀行本店跡の石碑は残さないだろうと思った。 

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 写真10 大阪商法会議所跡の石碑


 この旧三和銀行本店ビルは1955年の定礎(建築工事で礎石を据えること。工事を開始することをいう)だが、「建築計画のお知らせ」に、平成29年11月末に建物高さ101.3m、21階建ての新しいビルが建つことになると計画が示されていた。 

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写真11 新しいビルの建て替え計画のお知らせ


 このビルは戦後の早い時期に建てられているが、約60年で新しいビルに建て替えられる。御堂筋沿いのビルには高さ規制があって、原則50m、最高60mであったが、高さ規制が撤廃された2013年から、航空法なども適用すると約200mの超高層ビルの建設が可能になった一環と合わせ、また老朽化したビルの再開発になったのだろう。

 1990年代に中ノ島のビルに勤めていたことがある。当時パソコンが社内で普及し始めたころで、その対応として会社では床を数センチ上げて配線をその中に収納していた。
最近のビルの再開発は、老朽化したビルの建て替えだけでなく、情報機器対応の建物だけでなく、環境対策として再生可能エネルギーや省エネ対策など、その仕様が大幅に変化し、対応を迫られていることが背景にあると思われる。

 中ノ島の移ろい

 淀屋橋から大阪市庁舎近くまで来て日本銀行大阪支店の古色蒼然とした低い建物の先に超高層のビルが建っていてびっくりした。新ダイビルで、建物高さ148.5m、31階建の超高層ビルである。

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 写真12 日銀大阪支店の後方に建つ新ダイビル


 昭和39年頃の古いネガアルバムの中に、堂島川の右岸沿いから、大阪市庁舎や日銀大阪支店の建物が写っている写真を見つけた。(写真13)

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 写真13 日銀大阪支店(右)と大阪市庁舎


「日本銀行大阪支店の顔ともいえるのが、こちら、御堂筋に面し、ドーム型の屋根を持つ旧館。旧館は、明治36年(1903年)に建設され……この場所には、江戸時代、島原藩や水戸藩の蔵屋敷があり、明治の初めには、今の郵便局である「郵便役所」が大阪で最初に設けられたほか、実業家の五代友厚が別邸を構え……旧館は、明治建築界の第一人者である辰野金吾博士により設計された」(日本銀行大阪支店のホームページから引用)。

 写真13は西から東に向けて撮っているが、わずかにドーム型の屋根が見える。
旧館は昭和55〜57年(1980〜82年)にかけて、改築工事を行っているが、可能な限り、元の作りを残す方法で工事を行ったそうで、昭和39年ころに撮った写真13では、後方の建物は改築される前の外観である。  

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  写真14 現在の日銀大阪支店の旧館


 現在の日銀大阪支店は写真14であるが、周辺の高層ビルに囲まれた建物は、時代と共に飾り的な存在になってしまったように思えた。

 写真13に写っている大阪市の庁舎は、昭和54年に着工して、昭和61年(1986年)に竣工した11階建てに建て替えられている。

曾根崎あたり

 梅田新道の交差点へ出た。御堂筋の西南角に昭和15年頃の梅田新道付近の写真入りの案内板を見つけた。

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  写真15 昭和15年頃の御堂筋



 写真15で御堂筋の先端に建っている建物は阪急百貨店うめだ本店のビルである。この建物は昭和4年(1929年)に、地上8階、地下2階のデパートとして建てられた。
 76年後の平成12年(2005 年)から建て替えが進められ、平成24年(2012年)11月に新店舗を全館開業している。

 写真16は梅田新道の交差点から阪急百貨店(梅田阪急ビル・オフィスタワー)である。

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写真16 梅田新道交差点から御堂筋を北に見る


 写15は高い所から見下ろしていて、周辺の建物などは異なっているが、御堂筋そのものは現在と大きく変わっていない。

 写真15の下には「この辺りは、古くは淀川とその支流に囲まれた砂州で、水辺に突き出たところ『さき』でした。石ころだらけの荒地であったため、やせた土地や岩の丘をいう『そね』から転じて『曾根崎』とよばれるようなったそうです。15世紀ころから農村へと開発され、江戸時代のはじめころは菜の花見物で賑わうのどかな村だったそうです」と解説していた。
 
 御堂筋は大正15年(1926年)に着工し、昭和12年(1937年)に完成しているから、77年が経っている。御堂筋周辺の建物は、市街地建築物法に基づく百尺規制で高さが揃っていたビルの高さは、昨年から高さの規制は200mの超高層ビルが建てられるようになった。
 
 久しぶりに御堂筋の本町から梅田までの区間を歩いてみて、時代の変化を見ることができた。数年後には御堂筋沿いはさらに大きく変革していることだろう。

(2014年10月14日)




第186話 「第21回メキシコ文化の夕べ」に参加して[2013年09月22日(Sun)]

 毎年9月に「箕面メキシコ友の会」の主催、箕面市国際交流協会共催で「メキシコ文化の夕べ」が行われているが、今年は第21回で、9月19日にあった。
加えて今年は2003年10月12日に箕面市とクエルナバカ市国際友好都市として提携10周年記念の年となり、ホルヘ モラレス バルウ クエルナバカ市長をはじめ、東京からメキシコ大使館や、モレロス大学学術部長さん、クエルナバカ市会議員など来賓多数の参加があり、箕面市メイプル大ホールで開催された。
第1部の「ラ サイエ大学音楽隊」では、会場の参加者を巻き込んで大いに盛り上がった。その会場の様子を写真で少しでも雰囲気を伝えることができればと思う。

エストゥディアンティナ(学生音楽隊)がやってきた

 プログラムに「エストゥディアンティナがやってきた」と言うと「老いも若きも街に飛び出します。それほど親しまれているメキシコの街の音楽隊」と解説されているほどに、音楽に合わせて踊りたくなる雰囲気だった。

 演奏が始まってすぐに、黒くてつばの広い帽子が手元に回ってきた。麦わら帽子よりやや重いかなと思っていたが、かなり重かった。材質は麦わら製もあるが、高級品はフェルト製で、刺繍や飾り紐などさまざまな装飾が施される。強烈な日差しを顔、首筋と肩からさえぎるようつばが広い(参照:ウィキペディア)。
 「長時間被っていたら頭や首がつかれるだろう」と余計なことを考えていたが、どう扱ってよいのかわからず、隣の女性に回した。後方を見ると被ってメキシコの雰囲気を味わう人いた。

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写真1 重いソンブレロを被る女性


 そのうち、細く切った色紙を棒につけた旗が会場のみんなに回ってきて、演奏に合わせて振り始めた。
 プログラムの9番目に「サプライズ」とあって、坂本九のジェンカ「レットキス」だったと思うなじみの演奏になって会場は一気に盛り上がった。

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写真2 舞台から手拍子を求められて!


 手拍子をするように舞台から求められ、会場内は、リズムに合わせて配られている色とりどりの小旗を振りながら、日本語で歌い始めた。

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写真3 「ジェンカ・レットキス」で盛り上がる


 プログラムには13曲目があり、「ラ バンバ」などは、この催しで取り上げられている曲目だが、今までに増して熱のこもった演奏だった。

 学生音楽隊の曲目の最後あたりになると、子供数人が舞台で手をつないで、慣れない振付の踊りをしだした(写真4)。

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写真4 舞台に上がって踊る子供たち


 3年前の2010年に箕面観光ホテルで開催された第18回のプログラムにも、同じ音楽隊が来ていて、その何曲かは、同じ曲目が含まれていたが、会場が狭かったのか、小道具の旗などなかったためなのか、今回ほどの盛り上がりはなかったと記憶している。

民族舞踊

 第2部ではメキシコ南部ユカタン地方が発端といわれる楽しくて優雅な民族舞踊を、第21次箕面研修モレロス大学生が踊りを披露してくれた。研修で箕面に来ている大学生が、民族舞踊を特に勉強しているわけでもなさそうなのに、よく練習しているものだと感心した。

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写真5 楽しく踊る研修に来た4人の大学生


 特に頭にビンのような飾りを乗せた踊りを見ていて、落とさないような何か仕掛けがあるかと思ったが、乗せた表面は平らに見えた。

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写真6 頭に飾りを載せて踊る研修生


マリアチ演奏


 この「メキシコ文化の夕べ」に参加して6回目で、マリアチ演奏は毎回同じ「マリアチ アガベ」である。

 今回のプログラムには「マリアチと言えば、メキシコ、メキシコと言えばマリアチ、マリアチなしでは夜が明けぬと言われるメキシコの街の音楽隊」と解説している。

 ウィキペディアによると「マリアッチは7名ないし12名で編成される楽団である(ただし、人数に上限は無い)。ビウエラ、ギター、ギタロン、バイオリン、トランペットは欠かせない楽器とされ、これらにフルートやアルパが加わる事もある。アコーデオンは本来マリアッチに使われる楽器ではないが、メキシコ以外ではしばしば用いられている。マリアッチは音楽の種類を指すものではない。マリアッチの楽団は様々な種類の音楽を演奏する」と書いている。

 プログラムの「マリアチ アガベ」には、「ハリスコ州の首都グアダラハラ生まれの5人の若者が集まって結成したグループ。結成以来18年を経過」と紹介している。

 メンバーリストには、ギター、ギタロン、レキント・ギター、トランペット、アコーデオンで紹介されているが、左側の奏者はバイオリンを演奏しているし、トランペット奏者はいない。

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写真7 今年のマリアチ演奏


 今回の演奏では、高い音色で響きのある音色のトランペットは聞けなかった。

 ちなみに、2010年の写真8には、左端にはトランペットを吹いていた。

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写真8 2010年のマリアチ演奏


市民交歓ダンスパーティー

 フィナーレは恒例の「市民交歓ダンスパーティー」である。今回は会場の舞台が大きいこともあってか、大勢の人がマリアチの演奏にのってダンスを楽しんだ。

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写真10 大勢の市民が舞台に上がって踊りを楽しむ


 踊りのなかで、「ありがとう!ありがとう!日本のみなさん」と書いた感謝の横断幕(写真11)もあって、例年に比して大いに盛り上がった。

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写真11 感謝の横断幕


 輪になって踊っていたのが、いつの間にかお互いの肩に添えながら、リズムにのって一列になっていた(写真12)。

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写真12 一列になって踊るダンスパーティー



 「メキシコ文化の夕べ」では、最後のダンスパーティーを楽しみに来られる方も多いのではないだろうか。
 今回のプログラムでは、「ラ サイエ」の「レットキス」、第21次箕面研修モレロス大学生がギターで長淵 剛の「乾杯」、「マリアチ アガベ」の「川の流れのように」など、日本人が好みそうな曲目を取り入れていた。メキシコの人たちの暖かい「おもてなしの心」に感謝せずにはいられない。
 陽気に演奏や踊りを楽しみながら、最後のこの盛り上がりに、舞台に上がらず見ている人たちも、大いに満足されたことだろうと思った。

(平成25年9月22日)


第166話 体験学習の森の話題「クサギの油炒め」[2012年05月28日(Mon)]
箕面市体験学習の森では4月中旬に咲くソメイヨシノからヤマザクラに続いて、カスミザクラやウワミズザクラは下旬に咲いていく。
5月に入って、これらサクラは葉桜になっていまい、ウワミズザクラに小さな実が付き始めていた。

 5月12日の活動日に満開だったゴマギの花(写真1)は、第4土曜日の27日には小さな実をつけ始めていた。


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写真1 ゴマギの花(2012年5月12日撮影)


 27日の活動日に、ゴマギの木から少し登った「小鳥の水場」の上には、あまり知られていないがきれいな花が見られた。
 作業道から外れた急斜面にはジャケツイバラの花(写真2)が見事に咲いていた。


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写真2 ジャケツイバラの花(2012年5月26日撮影)


 丈夫で鋭い刺を持っているので、仲間たちは目の敵にしていて被害が無いように作業道では切り取ってしまうが、道から少し外れていたので観賞用に残しているのだろうか。

 さらに登ると、キリが淡紫色の花(写真3)をつけていた。この時期には箕面山中ではところどころで見かけるが、この森では貴重な1本のようだ。


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写真3 キリの花(2012年5月26日撮影)


クサギ(臭木)の葉を摘む

 キリやジャケツイバラの写真を撮りに登っていく途中で、笊(ざる)を持ったFさんたちに出会った。「もしかしてクサギの葉っぱだろうか」と聞くと肯いていた。

 クサギの葉っぱが昼食のおかずの一品に出たので、どこに生えているのか、午後からFさんに連れて行ってもらった。
 クサギは枝や葉に強い臭気があってみんなから嫌われる木である。活動拠点近くでよく見かけたが、最近は見かけなくなった。
 残しておく必要もない植物として、下草と一緒に刈り取られたのだろう。

 行く途中で未だ木といえない小さいクサギ(写真4)を教えてくれた。


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写真4 小さなクサギ(2012年5月26日撮影)


 群生していたのは、午前中登っていったジャケツイバラの花やキリの花の先で、クサギ(写真5)が密集していた。

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写真5 群生しているクサギ(2012年5月26日撮影)


クサギの実

 中野進 著―花の不思議と生きる知恵」(花伝社発行)の「クサギ」の章に「数年前の春のことである。友人から電話があり、種を播いたことも植えた覚えもないのに、庭に見たこともない木が生えてきたと言う。どうも気になる木なので早速見せてもらった。何とそれはクサギだった。『これは小鳥が山から運んで来てくれた贈物ですよ。4、5年したら白い花が咲き、青い実が付きます』」と書いていた。

 写真4の小さなクサギも小鳥が実を食べて糞から育ったのだろう。

 Fさんが「秋になるときれいな白い花が咲くよ」と話してくれたが、どんな花なのか検討もつかないので、Nさんから借りた菱山忠三郎著「夏・秋の樹木−ポケット図鑑(主婦の友社)」の写真を借用した。


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写真6 「クサギの花と実」(夏・秋の樹木から引用)


 上記「花と日本人」のクサギの章の出だしに、「8月も終わりに近い頃、カラスアゲハが掠めていくのを追ってみたら、クサギの花の周りに仲間のチョウが何匹も飛び回っていて、かすかにヤマユリのような香織に誘われて吸蜜にやってきた」と書いているが、結実したころには小鳥たちも実を食しているに違いない。


 クサギの油いため

 以前丹波の山奥で育った友人に「クサギの葉っぱを調理して食べた」と言ったら「あの強烈なにおいの葉っぱを調理して食べたとは信じられない」と軽蔑のように話していた。

 そのことを思い出して調理してくれたFさんに話すと「調理の仕方を知らないからだ。岡山県吉備中央町の道の駅『かもがわ円城』では『クサギ菜のかけめし』として郷土料理として食べられる。クサギの若葉を煮て乾燥させ、水で戻し細かく刻んだものに鶏のささみや人参、玉子、などをごはんの上に盛りつけたどんぶりものだ」と話してくれた。

 Fさんは、悪臭と苦味を取るためにゆでてよく水にさらしたクサギの葉っぱ(写真7)の「残ったのを家で乾燥させてから料理に使う」と見せてくれた。


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写真7 ゆでて水でさらしたクサギ


今日の昼に出たクサギの油いため(写真8)は、乾燥の手間を省いたので、油いためにしたそうだ。

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写真8 少し残ったクサギの炒めもの


 写真8では、最初誰かが持ってきた漬物の食味だろうと思って、ひとつまみだけ食べてみた。そのとき初めて摘んできたクサギの葉っぱがFさんの手料理であることを知った。独特のにおいは消えていて、野菜のいため物の感覚だった。

飢餓を救ったクサギ

 若葉の頃の採取したクサギの葉っぱは、ゆでて乾燥させて保存食として冬の野菜が少ない時期に湯がいて大豆などと煮て食べると、これで結構飢えを癒すことができたという(花と日本人)。

 インターネットで「くさぎ菜(広島の植物のノート別冊)」によると、「クマツヅラ科のクサギは全体的ににおいがある、たいていの人には『臭い』、だからクサギの名が付いた。ところが、クサギの若葉は山菜として古くから食べられている。多くの山菜と異なり、東北地方ではなく、富山県、三重県以西の本州、四国、九州(奄美まで)で利用されている。分布の中心が暖温帯にあるからだろう。広島県内では、旧比婆郡・神石郡の直売所では、クサギの葉を茹でて乾燥させた『くさぎ菜』が販売されている。ポリ袋に詰められた黒っぽい乾燥葉で、100〜200円位。調理法はおろか名前さえ書いてないものがある。分かる人には分かる、というのだろうが、もったいない」と書いていた。


シカの好む植物

 昼食事の「クサギ」談義の時、「生えている植物はほとんど食べられる」と話していたが、今日の作業で4年前に植樹したクヌギの周りのシダ類を刈っている仲間がいた。

 これらのシダを食べてくれれば、作業が省けて助かるのだが、シカは様々な植物をエサにし、その数は1千種を越すと聞いたことがある。
シカはシャガの葉っぱやシダ植物でもゼンマイやワラビなどは食べるようだが、写真9のように、クヌギの植樹をした周りのシダはさっぱり食べてくれない。


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写真9 クヌギの周りのシダ類の刈り込み


 そういえば、小鳥の水場へ登っていく途中、10メートルほど先の岩陰から灰色をした野うさぎが走っていった。

(平成24年5月28日)
第156話 妙見山山頂近くから南西方向を眺めてみれば?[2011年10月29日(Sat)]
  数年前から春と秋の行楽シーズンに、妙見山登山を楽しんでいる。約2時間のハイキングで 登りだけで、帰りは妙見ケーブルで下山する。登った後は、クッキングセンターで焼肉や野菜などのバーベキューと少々のアルコールが、汗を流した後の気持ちの良い楽しみになっている。

 秋は10月22日で行程を組んだが、あいにく雨の予報で28日になり、快晴に恵まれ、陽ざしも強く、能勢電鉄妙見口10時に集まったときには、Tシャツだけの軽装でも登りだすと汗が滴り出ていた。
 
 いつもはケーブル沿いの新滝道コースだったが、今回は上杉尾根コースになった。川西市内在住の2人は、このコースを上り下り下ことがあるといっていたが、残り7人は初めてのコースだった。


上杉尾根(稜線展望)コース


 妙見口駅から国道477号の信号を渡って直ぐに、上杉池の手前を右折れして直ぐに登山道に入っていく。今まで登ってきた新滝道コースでは階段が整備されているところもあったが、
 このコースは地道が山上駐車場まで続き、同じ勾配が長いので一息つく場所が少なく、1時間ほどの登りは少々きつく感じた。




写真1 同じ勾配が続く山道


 ところどころに、妙見宮と彫った石塔がところどころに見られたが、妙見ケーブルが昭和35年4月に開業するまでは、この上杉尾根コースが参道だったのだろうか。

 ウィキペディア「能勢電鉄」によると、「旧下部線を復活。黒川〜山上間623mで、戦前に妙見鋼索鉄道によって設置された妙見ケーブルを自社線として再開業させた」と書いていた。


尾根筋で南西方向に見えた3つの光る点

 頂上に近づくと、緩やかな勾配になってきて尾根筋に出た。ベンチも置いてあって見晴らしのよい絶景場所であった。

 木々に覆われた真下には住宅地が見えた。ときわ台、新光風台といった昭和40年代から分譲された団地である。
 その山のむこうにわずかに見えている住宅地は、清和台だと教えてくれた。
清和台のさらに奥の山々は中山連山だろうか。
 その中山連山の向こうに薄っすらと見える山なみにポッコリとこぶのような丸い山は甲山だ。




写真2 尾根から南西方向を望む


 甲山のすぐ左に肉眼で三つの光が見えた。方向から行ってあれだけ高い物は、明石海峡大橋の塔柱だろうということになった。
 この写真3では、その光るものが見えていたが、記事を書くために、縮小したらかき消されてしまった。持参した14倍ズームで光る物体を撮ってきた。


妙見山と甲山方向の先は?

 帰宅して妙見山、甲山、明石海峡大橋の3つをターゲットにいろんな地図を引っ張り出して直線で結んだのが図1である。

 明石海峡大橋と予測していたのだが、その先には六甲アイランドに突き当たっていた。




図1 妙見山と甲山を結んでみる


 写真3は、ズームで写したものを、甲山と光る物体に照準を合わせてトリミングしてみた。
 甲山の左端に3つの光と薄っすらだが、高層建物と分かる細長い影が写っている。図1の直線の先の六甲アイランドの高層建物だと判断できた。

 肉眼では甲山のさらに奥に薄っすらと山なみが見えたが、写真では再現できなかった。




写真3 甲山と三つの光


 六甲連山は、西端の明石市、鉢伏(はちぶせ)山(246メートル)から、鉄拐(てっかい)山(236メートル)、高倉山(291メートル)、高取山(320メートル)、再度(ふたたび)山(470メートル)、摩耶(まや)山(702メートル)、主峰の東六甲山(931メートル)と東へ行くにしたがって高くなっているから、肉眼で見えた写真3甲山のさらに奥の六甲連山の、その先の明石海峡大橋の塔柱はこの山に遮られて妙見山の尾根筋からはからは見えないことも分かった。

山頂では秋本番

尾根筋で一息入れたあと、山上駐車場までは、左側の斜面には杉の植林地が広がっていて、その林の中を車1台が通れる作業道が整備されていた。
右側は「台場クヌギ・250m先は行き止まり」などと書かれた標識があって雑木林が広がっていた。


 能勢電鉄妙見口駅を10時20分から歩き出して標高660mの山頂には12時前に着いた。山頂付近には能勢妙見宮によって「星嶺」(せいれい)という、能勢妙見宮の紋章をかたどった信徒会館が建てられていて、風変わりな総ガラス張りの礼拝堂の周りは展望が良いので、久しぶりに上がってみた。

 この礼拝堂から急な坂道を下ってクッキングセンターまで、近道を通っていった。途中で、見晴らしのよいところに出たら、銀色に輝いたススキが一面に咲いていた。
 ススキは秋の七草に数えられていて、別名「尾花」と言うから「ススキは咲くというのだろか」と一瞬迷った。




写真4 一面の広がって咲くススキ


 ネットには「花といっても花びらはなく、おしべとめしべだけなのです。ススキは風に吹かれて受粉する風媒花だったのです」と書いていた。

(平成23年10月29日)


第153話 「第19回メキシコ文化の夕べ」に参加して[2011年09月25日(Sun)]


 毎年9月には「箕面メキシコ友の会」の主催、箕面市国際交流協会共催で「メキシコ文化の夕べ」が開催されているが、今年は第19回で、9月22日に箕面市グリーンホールで開催された。
 近所の教授から誘われたのがきっかけで今年は4回目の参加になった。


日本とメキシコの交流

 外務省のホームページで見てみると、「1609年9月、フィリピン諸島総督ロドリゴ・デ・ビベロを長とする一団の船は、ヌエバ・エスパーニャ(当時のスペイン領メキシコ)への帰国途中、千葉県御宿沖で遭難し、村人の献身的な救助により、乗組員317人が救出されました。ビベロ一行は地元城主や村人からの暖かい歓迎を受け、その後、徳川秀忠及び徳川家康に謁見しました。

 翌年、徳川家康がビベロ帰国のため造らせた船はメキシコに向けて出航。ビベロと共に渡航した京の商人田中勝介他20数名の日本人は、メキシコを訪問した最初の日本人となりました
 我が国の時の為政者とメキシコからの政府高官が対面し、初めての会談が行われた意義は大きく、2009年はそれから400年目にあたります」と紹介されている。


箕面市とメキシコとの交流

 「箕面メキシコ友の会のプロフィール」によると、箕面市国際交流協会が1992年からメキシコ・クエルナバカ市にあるモレロス大学で日本語を学ぶ学生たちを、毎年箕面での日本語学習のため受け入れてきたことに始まるという。このプログラムを生活面で支えるホストファミリーから、「箕面メキシコ友の会」を作って発展してきた。
メキシコの国土は196万4375平方キロメートルというから、日本の国土面積37万8千平方キロメートルの5倍強もある。

 国土の大部分は山地と広大な高原からなるが、クエルナバカ市は、首都メキシコ・シティーの南方のモレロス州の州都である。そのモレロス大学で日本語と日本文化の教鞭をとられていた深原先生が箕面市在住で、大阪外国語大学(現在は大阪大学・外国語学部)が箕面市にあるという好条件がきっかけで、今日に至っているという。今年は箕面―クエルナバカ国際友好都市提携8周年になる。


Alejandro Lazzariniさんの独唱

 開会の後、特別番組「ハリスコ州の蛮刀 踊り」に続いて、メキシコ・ハリスコ州出身のバリトン歌手Alejandro Lazzariniさんの協賛出演で独唱があったが、遅れて入場したために聞くことができなかった。

 第3部市民交流ダンスパーティー“マリアチで踊ろう”で孫たち2人が大柄のメキシコ人とステップを教えてもらいながら、手を繋いで最後まで相手をしてもらったのが、Alejandro Lazzariniさんだと終演後に知人から聞いた。




写真1 バリトン歌手と踊った孫たち


 プロフィールには「メキシコ・ハリスコ州在住の音楽家。1997年からメキシコ内外の各種音楽会で活躍している著名なバリトン歌手。2004年、在東京メキシコ大使館の招聘で来日し、日本各地で歌う。現在ハリスコ州コーラスチームディレクター」と紹介されていた。

メキシカン・ マリンバ演奏

 プログラムは三部構成で第二部は毎年「マリアチ・アガベ」のマリアチ演奏だが、第一部は毎年メキシコ文化を紹介するプログラムが組まれている。
 一昨年はメキシカン・ダンスグループの「メキシコ民族舞踊」で、昨年は「メキシコ・ラサイエ大学音楽隊」の演奏だった。

 今年はメキシカン・マリンバの演奏だった。マリンバと言うと木琴の親玉で軟らかい音色を奏でてくれるくらいの理解しかなかった。

 演奏は古徳景子と“Paax・Percussion”で、「メキシカン・マリンパとクラシックマリンバの双方の音色を、多彩に響かせ、描くのが特徴。PaaX(パックス)の意味は、マヤの言葉で『音楽家たち』。メキシカン・マリンバの聖地チアパスから、マリンバの響きを世界に発信している」と紹介していた。




写真2 メキシカン・マリンバの演奏


 フリー事典「ウィキペディア」の「マリンバ」には、「同じ木琴の一種であるシロフォンと同様の構造であるが、シロフォンよりも鍵盤が広く厚く造られており、深みのある音色を表現できる。
 
 さらに、鍵盤の下部に各音階によって長さを変えた共鳴用の金属管が設けられており、その下端を閉じることにより、鍵盤の音に共鳴し増幅させる。それにより、さらに豊かな音色となる……マリンバの源はアフリカにあると言われ・・・・・・現在の形のマリンバが生まれたのは、19世紀後半、グアテマラ(メキシコの南隣りの国)であると言われている。またメキシコ等南米でもマリンバが古くから演奏されており、メキシカン・マリンバとして民族音楽のスタイルを形成している」と説明している。

 パーカッションのリーダー古徳景子さん自身が作曲という「希望の地」の演奏を聞いていると、豊かな音色に凄い迫力を感じた。




写真3 「希望の地」を演奏中


 古徳景子さんのプロフィールには、「東京芸術大学卒業。ボストン音楽院ディプロマコースを経て、スウェーデン国立ピテオ音楽大学院演奏首席修了。現在、メキシコ・チアパス州立芸術科学大学(UNICACH)准教授」と紹介されている。


「マリアチ・アガベ」の演奏

 第三部で、市民参加で“マリアチで踊ろう”の演奏が「マリアチ・アガベ」であり、例年このメンバー6人で演奏するのだが、今年は病気だろうか1名(バイオリン奏者)欠けて5人だった。



写真4 手拍子を入れてマリアチ・アガベの演奏


 今回は会場が広かったこともあって、今年は観客席の最上段から演奏しながら下りてきて、拍手に迎えられながら舞台に上がっていった。

 メキシコの代表的な唄「ラ・マラグェニア」や「シェリト・リンド」「ラ・バンバ」といった馴染みの曲に、美空ひばりの「川の流れのように」をマリアチスタイルで演奏したのは昨年と同じだったが、今年は長渕剛の「乾杯」が加わった。

 美空ひばりの遺作となった「川の流れのように」は、日頃は彼女のしんみりした哀調のある歌声で聞くことが多いだけに、陽気でにぎやかな演奏と、やや訛りが交じった日本語では、曲のイメージとは違った感じがした。

 長渕剛の「乾杯」は、「地元の友人が結婚すると聞いた長渕が、友人への祝福のために書いた、人生の節目に置かれた人間に対する応援歌」といわれているだけに、トランペットやアコーディオン、ギターなどでにぎやかに演奏し、声高らかにうたいあげ、なかなかに聞かせてくれた。


マリアチで踊ろう

 第三部の市民参加の交流ダンスパーティーは、第二部でマリアチを演奏していた“マリアチ・アガベ”が、引き続きマリアチの演奏を始めると、この晴れ舞台のためにやってきたと風にたちまち舞台に上がって踊り始めた。

 40人以上の市民参加の人たちに、演奏した人たちも加わってにぎやかで陽気に踊りを楽しむ舞台になっていった。




写真5 マリアチを踊る人たち


 帰り際に近所の人に出会ったとき、「ラテン音楽は陽気でにぎやかでいいですね」と話しかけられた。

 確かに「メキシコ文化の夕べ」に参加した過去4回を振り返ってみてそういった感想が出てくる。

 翌日我が家で娘婿二人と飲みながら出来上がった写真を見せ、ラテン音楽の話が出た。
 
 確かに陽気でにぎやかな音楽というイメージが強いが、メキシコ音楽にもメキシコオリンピックの閉会式で演奏されたという「ラ・ゴロンドリーナ(つばめ)」は哀愁を帯びた曲調で、日本の「蛍の光」といわれている曲の方もあり、好きな曲だと紹介しておいた。

 リクエストを言えるなら、来年は最後に「ラ・ゴロンドリーナ」で締めくくってほしいいと思った。


(平成23年9月25日)


第139話 箕面市外院の観音堂[2011年01月30日(Sun)]


 寒中お見舞い申し上げます。昨年12月26日の「第138話 今年も箕面の山に植樹をした」を公開して以来、1ヶ月以上のご無沙汰です。今年もよろしくお願いします。

 平成23年の新しい年を迎えて、第1週目の土曜日は元旦だったので、第2週目から今年の活動が始まった。1月8日、9日には竹炭やきなどの作業を行い、第4週目は竹の間伐を外院3丁目の竹やぶで行った。

 昨年もこの場所で竹の間伐をしたそうだが、筆者はこの場所へ行くのは初めてだった。この奥の山裾での竹林の間伐は数年前に何回か実施していたので、この周辺はよく知っているつもりだったが、山麓線の民家から少し北へ上がった斜面に竹やぶに来たのは初めてだった。
 こんもりと木々に囲まれた建物の横を休憩場所にして、その一段下った竹林で作業を行った。  




写真1 観音堂の全景


 この森の入り口には箕面市が1982年4月1日に指定した「保護樹林」の標識が立っていた。指定面積が432uだから、40m×10m強の大きさの森で、この中にぽつんと1棟のお堂(仏堂)と灯篭があった(写真1)。
 近隣の人たちで大切に管理し、「村の鎮守の神様」といった雰囲気があった。

 仲間に尋ねたがわからなかったので、昼食で畑仕事から帰る人に聞くと「観音堂で、年に2回行事をしている」と話してくれた。


帝釈寺で聞く

 インターネットで「観音堂(かんのんどう)箕面市外院3-6、往古は『明王寺』境内に所在していたが、その後久しく廃絶されていた。昭和25年再建」と、検索した結果をもって山麓線から少し南へ下った帝釈寺で聞いてみた。

 折から2月2日の節分会の「火渡り修行」の準備で村の人たちが大勢集まっていたので、古老に尋ねてみた。
 「ここは粟生外院で昔は三島郡に属していた。帝釈寺のちょっと西の道からは豊嶋郡萱野郷外院地区なので、わずかな距離だが他の地区のことはよく知らない。その先に願生寺があるからそこで聞くと分かるはずだ」と応えてくれた。

 三島郡と豊嶋郡の境界らしき道を越えて「観音堂」近くで、出会った年配の人に聞くと「年よりはよくそんなことを言うんですよ。願生寺の屋根が見えているでしょう」と教えてくれた。
 今では同じ箕面市なので、古老の言うような境界意識は薄れてしまっていると思うが、三島郡と豊嶋郡ではわずか幅5メートルほどの道路上の境界だが、昔は行政区域が違うから知らないのは当然だったのかもしれない。


願生寺で聞く

 願生寺の門は閉まっていて横の格子戸から入って呼び鈴を押すと、住職が出てきたので「この辺りに明王寺があるのですか」と尋ねてみた。
 寺のすぐ横の墓地の写真2に示す「明王寺」と右端に書いた地蔵さんを教えてくれた。
 「明王寺の境内は昔『観音堂』の建物の辺りにあったのではないか」と言うことだった。




写真2 地蔵尊の右に「明王寺」の文字


 「詳しく知りたいなら箕面市郷土資料館に行けば分かるかもしれない」と付け加えてくれた。この地蔵さんの横には「青面金剛」の像が並んでいた。

 平成19年の秋に箕面市立郷土資料館で開催されていた「大阪府北部・兵庫県南部の庚申塔展」で、この青面金剛のことを郷土資料館の福田館長から講演を聞いたのがきっかけで、平成19年11月2日に「第54話 庚申講とは酒盛りの会?」で青面金剛の話題を取り上げたこともあり、その足で郷土資料館に出向いた。


郷土資料館で聞く

 ちょうど福田館長がおられ、観音堂のことを聞くと、立て板に水のごとく、次々と解説をしてもらった。「あけおうじ」とも「みょうおうじ」とも言われていたが、願生寺横の地蔵さんに書いている「明王寺」のことも話してくれた。
 文献に出てくる「明王寺」と、石碑の作られた年代からとはかけ離れているという指摘があった。
 「あまりよくわからないが、今建っている観音堂辺りの『明王寺』があっただろう」ということだった。

 館長は以前、青面金剛の調査をされ、講演会でも詳しく話されていて、3年前に聴いた話題を思い出していた。

 帰り際に本棚から「箕面市文化財総合調査報告書T・旧萱野地区・旧豊川地区2001年3月」(箕面市文化財総合調査団発行・編集)を見せてもらった。


観音堂

 上記報告書の第2章 萱野地区の詳細 第9節 外院地区の中で、「寺院(観音堂)観音堂の管理地区の観音講がおこなっているが、天保3年(1832年)の記録には『観音明王寺』とあり、江戸末期には寺院があったようである。
 現在は3体の観音菩薩像が安置されている。地蔵のない外院地区では、この観音堂が村堂として地蔵に似た性格を持っているようである」と書いていた。




 
写真3 木々に囲まれた観音堂


 上記調査書の外院地区の中の「3.その他の民俗」で講のことを書いている。

 ネットで「講」を検索すると、「同一の信仰を持つ人々による結社である。ただし、無尽講など相互扶助団体の名称に転用されるなど、『講』という名称で呼ばれる対象は多岐に渡っている」(ウィキペディアから引用)。

 外院地区では、伊勢講、観音講、ヨウネン講、六斎念仏講、ジュウヤ講の5つの講が書かれていた。


観音講

 上記報告書は箕面市立図書館で閲覧できるが、この紙面を借りて観音講について引用してみた。
 「観音講1月、8月の17日に観音堂に村中で集まる。観音は安産の神様とされ、モツソウ(味なし握飯)をその年に出産予定の女性に授けた。賽銭も500円程度を女性の名前で供える。冬はイナリセンギョウと一括される意から、アカゴバン(小豆ごはん)を5合(現在は1升)炊いて握飯を作り、重箱にバランの葉を敷いて入れ、為那都比古神社の周辺、山中、寺内の稲荷さん・ゴンジュウロウサン(願生寺境内)など狐狸の出そうな所に置いた。

 27軒がヤド(当番)を持ち回りする。ヤドは1軒だが、垣内全体が朝から集まって供物の作成や掃除などの準備をする。

 観音堂の正面に飾る幕と提灯、控帳(会計帳)もヤドの家が管理していたが、現在は幕と提灯は自治会館で管理している。控帳は行事のあとに当番の男性が収支を計算したのち、箱に入れて翌年のヤドに渡す。
 供物はモツソウと直径約3cmの塩味のコモチ(子持ちの意か)を女性がこしらえ、お飾りを男性がこしらえた。コモチは各家に配られた。お飾りは高野豆腐・おくら・椎茸・南京・湯葉・ズイキ、冬は大根や人参など旬の野菜を串に刺して、観音像の前に供える。
平成12年(2000年)からは準備が大変なためパンになった」と説明していた。

 最後に書いている「パン」は、一瞬何かと思ったが、「アンパン」や「食パン」といった本来は西洋から入った食べ物が、餅やアカゴハンに取って代わったということは、伝統行事も時代とともに変化していくのだろう。

 パンの歴史をネットで検索してみると、「ポルトガルの宣教師によって西洋のパンが日本へ伝来したのは安土桃山時代だが、江戸時代に日本人が主食として食べたという記録はほとんど無い」(ウィキペディアから引用)。

 帝釈寺で節分会の準備をしていた村人たちは、年配の人が多かった。

 観音堂近くであった年配の男性に、観音堂や願生寺のことを尋ねたとき「私はよそから来たからあまり知らない」と話していたが、先祖代々住んできた人たちの仲間に、よそから来た人は参加しづらい面があるのだろうと思う。

 箕面市などでも区画整理で新しく出来た新興の街にはこうした講などは全くない。 
 
 近隣の神社の大祭で神輿を担ぐ若者が少なくなってきて、新興住宅地にも参加を呼びかけているとも聞いたが、新旧の人たちと伝統行事への参加は難しい面があると思った。


 最後に、竹林の間伐作を写真4、5に掲載したが、20人強が参加して休憩もなく、黙々と作業したお陰で、午前中だけで50本以上を間伐した。これらは3〜4月ほど乾燥して炭窯で竹炭にする。





(平成23年1月30日)


第127話 箕面の山に「体験学習の森」が2つある![2010年06月04日(Fri)]


箕面市が所有する「体験学習の森」

 5月1日の活動日に、新たに「体験学習の森」の案内標識柱を立てました。大工をしていたMさんが、間伐して乾燥していた杉材を加工し、丹精こめて作ってくれた作品です(写真1)。



写真1 新しく立った「体験学習の森」標識柱


 それ以前は、箕面市環境クリーンセンターの計量所手前の道路わき右手に、木に吊り下げた「ここより体験学習の森」と書いた小さな案内板だけだったのです。(写真2)。
 道路わきの目立たない場所から入っていくので、知る人は知っていますが、少し分かりにくい入口です。
 この案内標識も、元代表のKさんが間伐材を削って書いた手作り作品です。




写真2 今までの案内標識


 この「体験学習の森」への入口は2つあります。阪急バス・与野行きで「クリーンセンター前」のバス停で下車し、歩いて入っていく道は、勝尾寺川支流護岸の、巾50センチほどのコンクリート上を歩いてから林道に入っていくので、そのことを知っていなかったら一寸難しいでしょう。

 車で来た人は、クリーンセンターの駐車場に駐車してから、道路を横断して上記写真1,2で示した入口から入りますが、案内標識も目立つ場所に設置していないので、よく注意しないと分からないと思います。

 蛇足ですが、3年ほど前までは入口には階段もなく、法面防護の天端コンクリートのスロープから入っていました。そのコンクリートと木が植わっている地面とは50センチほどの段差があって、筆者は足を踏み外して右足首を骨折して3ヶ月ほど医者通いをしていたことがありました。

 これら案内標識といい、入口に階段を取り付けたのも、参加しているみんなの知恵と工夫で、廃材や現地調達した建材で作っています。


国有林の「箕面体験学習の森」

 5月1日の作業前の朝礼のとき、作業前に新しい標識柱を立てたことの報告の後に、箕面国有林の「エキスポ‘90みのお記念の森」一帯に、関係行政機関や森林ボランティア団体等と連携した「箕面体験学習の森」のことが報告されました。
 このとき箕面市の山に「体験学習の森」と同じ名称の森が2つ存在していることを初めて知った次第です。


 そういえば、昨年3月20日、21日の両日、箕面市坊島の、かやの広場およびみのお市民活動センター内で、「みどり生き生き みのお生き生きフィールド体験フェア」が開催されたとき、 私たちのブース近くで「オオクワガタの棲める森づくり」のポスター(写真3)の近くで、箕面国有林で市民参加の里山づくりとして、「広葉樹の苗を育て国有林に植える活動に参加してみませんか」と呼びかけていました。



写真3 箕面国有林の里づくりのポスター(09年3月21日撮影)


 この話題は、昨年3月23日に公開した「第121話 『みどり生き生き みのお生き生きフィールド体験フェア』に参加」の「広葉樹の苗を育て、国有林に植える活動」で触れています。
 
 このときには「箕面国有林」と書いていましたが、同じ名前の「体験学習の森」ができていることを知ってどんな活動をしているかを5月22日に見学してきました。


箕面国有林の「体験学習の森」

 「エキスポ‘90みのお記念の森」の中に、写真4に書いているように、「箕面体験学習の森」の整備事業の概要が書いてありました。



写真4 「箕面体験学習の森」の解説板


 「展望台付近の1.94haのスギ、ヒノキを伐採し、箕面に従来から生育していたクヌギを中心にコナラ、エドヒガン、ヤマザクラなどの広葉樹を植樹し里山を再生させます」と現在、伐採直後、約10年後(予想)の写真入で説明されています。

 近畿中国森林管理局のホームページ、箕面森林環境保全ふれあいセンターによると、成20年度の取り組みは、上記「みどり生き生きみのお生き生き体験フェア」で、クヌギ、コナラの苗木の育成を呼びかけ、平成20年度には箕面市の幼稚園、小学校に参加の呼びかけをしていました。




写真5上段:皆伐した跡地の広葉樹の苗木

中段:食害対策のため張られた防護網

下段:鹿対策用の出入口


 ホームページで「具体的な整備」を見ると、林業体験ゾーン(現況:歩道周辺の針葉樹人工林)景観確保のための伐採、里山体験ゾーンでは、広葉樹への樹種転換として展望台周辺の伐採などを書いています。

 写真5で見られるように、展望台周辺は皆伐されていて、すでに苗木が植わっていました。
近くに植樹記念碑があり、「花の万博20周年記念『オオクワガタの棲める森づくり』記念植樹 平成22年5月9日」と書いていました。

 景観確保のための「伐採」などと書いているので、「伐採」を調べてみると、林業における伐採の種類には、主伐(しゅばつ)、間伐(かんばつ)、除伐(じょばつ)、皆伐(かいばつ)、択伐(たくばつ)があります。

 広葉樹に樹種転換する展望台付近では写真5上段のように皆伐でした。仲間の話では皆伐した材木を2,3本ずつヘリコプターで運んだそうです。

 この樹種転換した区域は、写真5中段のように周囲を完全にネットで囲まれていました。
ところどころに設けられた出入口には、写真5下段のように、隙間の空いた桟木で鹿の足が挟まってしまって鹿が嫌がって入られないようし、人は自由に行き来できる工夫がされていました。

 鹿の食害対策として、人間が網に囲まれた中で作業しなければならない実態は、滋賀県高島市朽木村でよく見かけましたが、どちらが森の主なのか本末転倒のようで、網の中で働く農家の人たちの苦労を思い測ったことがありました。
 また、この「箕面体験の森」のような広大な山林に全体を大きくネットで囲うには多大な費用と労力が必要だろうと思います。

 体験学習をする子供たちは、そのネットで囲まれた檻の中で植樹し、観察する自分の姿をどんな風にとらえているのだろうかと考えさせられました。

 同じ「体験学習の森」でも、箕面市所有で「箕面だんだんクラブ」が活動している森では、苗木を生長するまでの間、ヘキサチューブというポリプロピレン製の植生保護管を使っています。鹿の食害対策だけでなく、チューブ内部の保湿効果等により、成長促進にもなっています。
 
 ヘキサチューブやその作業状況などは「第64話 箕面の山で植樹に参加しませんか!(平成19年12月3日)」、第111話 箕面クワガタ探検隊の協力を得て植樹しました(平成20年12月18日)で、公開しています。


体験学習とは

 ネットの辞書で「体験学習」を検索すると、ウキペディアに「体験学習(たいけんがくしゅう)とは、実際的な活動体験を通して学ぶことを狙った学習形態。デューイの提唱する『経験主義』に基づく考え方によれば、被学習者に対し、実際的な活動を通して学習効果を狙った学習形態」と書いていて、世間一般に使われている用語のようです。

 箕面市役所の「まちづくり政策課」によると、「箕面市の所有する『体験学習の森』は、平成8年の都市計画マスタープランの土地利用計画、平成13年の第4次箕面市第4次総合計画にも位置づけされいる市民の森の一つです。昭和60年代に、第二清掃工場の土地を取得する際にあわせて、隣接する山を市が購入し、市民の森として活用を始めました。
 具体には、平成の5〜7年頃(推測)に、当時の環境政策課が森林体験、自然体験、環境学習の一環として、市民に声をかけ学習会を実施しました。内容は、下草刈り、間伐、植樹、自然観察、ネーチャーゲームなど様々でした。
 
 その後、そこで学習された方が中心となり、様々な経過はありましたが、自主グループとして活動を継続されています。それが、『もりもりクラブ」であり、『だんだんクラブ』です。よって、体験学習の森と言う名称は、市民グループが付けた名前ではありません。土地購入に際して、市が計画に位置づける必要があり、付けた名前と思われます』という回答を、市議を通じてもらいました。

 「体験学習」という言葉自身が、世間一般に使われている言葉であり、その後ろに「森」がついても、「山」や「林」がついても、日本人ならさほど問題にならないことだろうと思われます。
 
 かつて中国の企業によって出願された「青森」を商標登録しようとして話題を集めましたが、まさか、「体験学習の森」を中国人が商標登録をする言葉でもなそうです。
「箕面市所有の体験学習の森」「エキスポ‘90の体験学習の森」と区別して呼べば済むことかもしれません。    


(平成22年6月4日)
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