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私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その5)[2007年10月09日(Tue)]

  前回は東大寺大仏の鋳造に必要な銅が多田銀銅山から供給されていたとの伝承があり、その鉱石を精錬するために鉱山に近い北摂の山々で製炭技術が生まれ、炭の生産がされるようになった理由のひとつだと書きました。

 もうひとつの理由として自然総研のTOYRO倶楽部の「豊かの国・摂津」では、「この地方の自然環境。材料となるブナ科の落葉高木クヌギの林があり、炭焼窯をつくるのに適した良質の粘土があった。冬の寒さも炭焼きには都合がよい。ちなみに、クヌギは切り株から出た『ひこばえ』(萌芽)が成長して樹木として再生する生産性の高い樹種。一定のローテーションを守れば半永久的に資源を供給してくれる」と書いています。
 そこで、今も池田の菊炭として炭焼きをしている川西市黒川の炭焼き窯を見てきました。


妙見口駅で「21世紀の健康野菜・ヤーコン」を売っていました

 今回の多田銀銅山と川西市黒川へは50ccのバイクで訪れました。
 バイクは小回りが利くので、あちこち寄り道しながら走りましたから、帰宅してから豊能町観光協会の「とよの観光マップ」で位置関係を確認して見ました。

 その観光マップを図5に示しました。




     図5 豊能町周辺の地図

  このあたりは兵庫県川西市と大阪府豊能町、能勢町が入り組んだ山間の町です。
 能勢電鉄一の鳥居駅をUターンするような形で北へ進み、昔よく行った能勢カントリーゴルフ場の前を通り抜けると能勢電鉄妙見線終点の妙見口に出てきます。

 妙見口の駅前では、取れ取れの栗などがみやげ物店で並んでいました。平日でしたが、小学生の遠足やハイキングの人たちでにぎわっていました。
 丹波栗の横にサツマイモによく似た「ヤーコン」が置いてありました。初めて聞く珍しい名前に釣られて2袋買いました。

 その説明用リーフレットには「21世紀の健康野菜・ヤーコン」の中で「ヤーコンは南アンデスの原産のキク科の食物です。芋の形はサツマイモとそっくりで生で食べることが出来ます。味は梨とレンコンの間でみずみずしく歯ざわりがよく甘味があります。生活習慣病に勝てる健康野菜と期待されています。豊能町では、きれいな水と空気を利用して健康野菜ヤーコンを特産物として栽培しております」と書いていました。

 昨日の夕食の一品にヤーコンのきんぴらがありました。しゃきしゃきしてあっさりした味で美味しかったですよ。


里山の空気を満喫してきました

 私は菊炭が北摂の山の中で今でも作られている程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、「みのお 森の学校(里山連携講座)」を受講の中で、11月18日には「里山林観察」として、川西市黒川方面へ行く講座が組み込まれていて菊炭がこの地で生産されていることを知りました。

 秋晴れの清々しい空気の中、一庫ダム湖の知明湖(チミョウコ)のほとりにある川西市青少年野外活動施設「知明湖キャンプ場」に隣接する「黒川ダリヤ園」を目指して行きました。




   写真1 一庫ダム湖のほとりの黒川地区の里山

 写真1はその近くの山並みを写しました。写した場所は兵庫県道沿いでしたが、この県道の際は山が迫っていました。したがって川西市黒川は一庫ダム湖のほとりに開けた谷間のようです。

  黒川ダリヤ園で炭焼き窯のある場所を尋ねると、バイクで5分も走らずに見つかりました。細い山道を少し登っていくと右手に民家があり、小学生くらいの子供とその母親が道沿いに出ていましたのでたずねたところ、その家が菊炭を生産していました。
 炭焼きはもっと寒くなってからするそうで、許可を得て炭窯を見せてもらいました。




     写真2 菊炭生産の炭窯


  炭窯は大小2つありましたが、焚口の開いている大きい方の窯を写しました。屋根の隙間から少し見える煙突の径が太いのが印象に残りました。

 写真3は窯の側に置かれていた菊炭はサンプル用か説明用のようでした




       写真3 菊炭

  写真3に示すように、切り口が菊の花のように美しいことから「菊炭」と呼ばれています。インターネットの菊炭を検索すると、「北摂津の山々で製炭され、大阪府池田市へ集積された事から『池田炭』ともいわれます。炭の材料にはクヌギを用います。生産するには大量のクヌギ材を必要として乱伐採がされていたように思いがちですが、この樹種は元株が残っていれば何度でも生えてくる木なので乱伐どころか何度でも再生して使っていたのです。炭には10年くらいたった木が使われます。ローテーションさせて伐採していました。そのため、川西市黒川地区には日本一といわれる里山が残ったのです」と書いています。


 炭焼き窯の家の奥さんに、「元株が残っていれば何度でも生えてくる木・台場クヌギ」が炭焼き窯の先にあると教えてもらい、台場クヌギをカメラに収めてきました。



        写真4 台場クヌギ

 炭窯の近くの林にはこの台場クヌギが10本近くはありました。



 私たちが管理する森林ではこの台場クヌギを見たことはありませんが、この冬にクヌギの苗木を200本植えることにしています。
 過去4〜5年前からクヌギ苗を植え続けていますが、鹿による食害でほとんど育ちません。
 今冬には初めてヘキサチューブという商品名の保護筒のなかで育つのを待つ計画です。ただ、成木になっているツバキやその他の木の樹皮が冬場鹿に食べられているので不安はあります。

 クヌギを植えるのは10年から15年先に子供たちが、この山(箕面市と協定書結んでいる『体験学習の森』)に来て野外活動の場として、自分でカブトムシ、クワガタムシを取る体験を楽しんだり、落ちてくるドングリが森の小動物の餌になるのを期待してのことです。

 いまや山で木を育てるのは、子供を育てるのと同じように息の長い仕事です。菊炭つくりは別にして、クヌギはキノコつくりのホダギとして利用もできることも併せて期待しています。
私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その4)[2007年10月08日(Mon)]

 「大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?」、この答を見つけるために、インターネットで検索したところ、「そもそも池田炭は多田銀銅山の鉱石を製錬するための製炭技術から生まれた。多田銀銅山の「多田」は現在の川西市多田あたりだけでなく、猪名川町を中心に、川西市、宝塚市、箕面市から豊能郡にかけての広い地域を指していた」と書いている資料を見つけました。そこで、多田銀銅山と今も菊炭を作っている川西市黒川を訪ねてきました。 

10.大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?
10−3 池田炭


  古文書からみると、粟生山の炭焼きの歴史は平安時代末期までしかさかのぼれませんが、インターネットで検索した自然総研、TOYRO倶楽部の「豊かの国・摂津」の菊炭が一庫で生産されるようになったことには2つの理由があるとして、「池田炭として名をはせる以前から、この地方で炭焼きの技術が完成していたことである。そもそも池田炭は多田銀銅山の鉱石を製錬するための製炭技術から生まれた。多田銀銅山の『多田』は現在の川西市多田あたりだけでなく、猪名川町を中心に、川西市、宝塚市、箕面市から豊能郡にかけての広い地域を指していた。
 ここでは古くから鉱石の採掘と製錬が行われており、東大寺の大仏建立に銅を供出したと伝えられるほどに歴史は古く、今世紀の初頭までは日本有数の鉱山であった。製錬には強い火力が必要であり、そのため採掘地周辺から製錬用の炭の供給を受けることになった。多田の採掘地の周辺地図を見ると『一庫』『国崎』『「黒川』などの地名があり、池田炭の産地とぴったり符合する」と書いています。




    図3 多田銀銅山と精錬用炭の供給地

  図―3は平成17年9月発行の「阪神高速道路案内図10万分の1」から、北摂連山に広がる精錬用炭の供給地を示しました。

10−4 多田銀銅山

 箕面市内から多田銀銅山まで、直線距離では約14キロですが、北摂山地の山裾の大阪府道9号箕面池田線で池田市内から川西市を抜けて猪名川町に入りました。

 多田銀銅山では猪名川町が今年の4月にオープンした「悠久の館」で絵図や、古文書、鉱石・鉱山道具などが展示されていました。

 そこで頂いた周辺マップをコピーしたのが図4です。




    図4 多田銀銅山 悠久の館周辺マップ

  そのリーフレットには「多田銀銅山は、北摂地域にわたり鉱区が広がる鉱山です。その歴史は古く、奈良時代の東大寺大仏建立の際に、多田銀銅山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。
 猪名川町では、銀山地区(旧銀山町)を中心に栄え、豊臣政権時には直轄鉱山となり「台所間歩」や「瓢箪間歩」など秀吉ゆかりの間歩(坑道)が残り盛山の様子がうかがえます。江戸時代には代官所が設置され、幕府直轄地となり「銀山三千件」といわれるほどの賑わいをみせ、我が国の鉱山史の一端を担いました」と説明しています。




    写真1 銀山地区(旧銀山町)の説明パネル

10−5 青木間歩

 秀吉ゆかりの「台所間歩」や「瓢箪間歩」のほかに「坑道の年代は特定できませんが、鉱脈に沿ってノミやタガネを使った手掘り跡です」と説明文のある坑道や、空気穴・水抜き穴も見ることができますが、唯一、坑道内を体験できる青木間歩に入ってみました。証明設備はありましたが、見学者は私一人でひんやりした坑道をその採掘の先端まで見てきました。



      写真2 青木間歩の坑口

 その説明文には「周囲にアオキが茂っていたことからその名がついたといわれています。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露天掘りと、削岩機などの機械を使って採掘された坑道との両方を楽しめます」とあり、午前9時から午後5時まで自由に見学できます。



   写真3 青木間歩の坑内


 悠久の館に展示されている多田銀銅山歴史年表には、「西暦742年(天平14年)奇妙山神教間歩(川西市域)より東大寺大仏鋳造の銅を献上(伝承)」と書いていました。大仏開眼が西暦752年ですからその10年前より以前から銅の採掘が行われていたのでしょう。

 大仏鋳造用の銅の量は資料によって443トンから499トンと少し差がありますが、これだけ大量の銅は全国各地から集められたに違いありません。

 なかでも、山口県美東町(秋吉台の南東)の長登(ながのぼり)銅山は奈良時代には東大寺大仏鋳造のための銅を産出していたことがあり、古くから銅の産地として栄えていたようです。

 次回は「豊かの国・摂津」の菊炭が一庫で生産されるようになったことの理由のもうひとつの池田炭の里、川西市黒川を訪れたことを書く予定です。
私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その4)[2007年10月04日(Thu)]


 前回書きましたように、当初は2回に分けて公開することにしていました。その2回目は「大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?」というタイトルでまとめていました。

 その中で、インターネットの検索で仕入れた資料から「大仏の鋳造は747年、聖武天皇の頃に始まり、749年に完成。この鋳造に使われた金は現在の数字に表すと、約440キロ、炭の量は約800トン以上」と書いていました。
 
 内容と校正をしてもらったKさんから「金は現在の数字に表すと、約440キロ」の金は、銅ではないかと指摘を受けました。その当時日本でこれ程の金が産出はしていなかっただろうと思うのは、Kさんだけでなく、私もそう思っていました。

 今回の記事はすでにその3を書いています。脱線したついでに「金か、銅か?」の疑問をどう(銅)しても確かめたくなりました。
ただ、私はこの種の書籍を持ち合わせていないので、インターネットの検索を繰り返しながら、確からしい答を探してみました。


10.大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?
10−1 鋳造に使われたのは、金か、銅か?


1)インターネット「環境思想・環境歴史のページ 梵我一如」から
  「日本の環境問題の歴史」


 「聖武天皇が大仏を作ろうと決意したのは天平15年(743年)であり、近江国紫香楽宮で大仏造立の詔を発した。(当初は紫香楽に作られる予定であったが、山火事などのため今の東大寺の地域に作られることとなった)
天平18年(746年)大仏鋳造のための原型が完成。
天平19年(747年)大仏の鋳造開始。
天平勝宝元年(749年)大仏の鋳造終了。
天平勝宝4年(752年)大仏開眼供養会(魂入れの儀式)が開催。
      (757年)大仏の塗金作業終了
 そして、精錬する量も銅山などに比べれば少ない。東大寺要録に使用した原料の量が記されていて、これを現代の単位に置き換えると、(国史大辞典などによる)
熟銅        443.7t
水銀        2.2t
白蝋(鉛を含んだ錫)7.6t
錬金        0.4t
木炭        18656石(重さの単位ではないので変換不可)
※ちなみに木材・石材の場合1石は約0.2783立方メートル
注:熟銅は精錬した銅、錬金は塗金用の純金」


2) 東大寺要録


 そこで、根拠となった東大寺要録、大仏で検索してみると、「881165『大仏開眼』には「『東大寺要録』に拠りますと、大仏の造営に動員されたのは、無償の労働奉仕が延べ37万人を越え、雇われたもの約51万5千人、8回も鋳造し直した末に高さ約16メートルの座像は完成しました。使った銅250トン、表面に塗った金は57.5キログラムなどと云われます」。

3) 日本金山株式会社のホームページ

  さかのぼること西暦700年代、日本は聖武天皇の代となり仏教が布教され、奈良東大寺の大仏が鋳造されるなど、金の需要が大きく高まりました。しかし、当時、金は朝鮮から入ってくるだけで日本では大量の産金はされませんでした。

 ところが、小田郡の国司が900両もの黄金を朝廷に謙譲したのです。これによって、大仏の鋳造が完成したと言われます。




 写真1 お身拭いの終わった翌々日2007年8月9日の大仏さま


 これらの資料を見ると出典は東大寺要録であり、その資料から大仏鋳造に使った材料を金とするか、銅とするか、それとも鋳造に必要な木炭に注目するかでいろいろの記述がでてきたのだろうと思います。数字も資料によって違っていますが、奈良大仏の建立当時、金を使ってことは確かなようです。

 この記事では「木炭』について書いていますので脱線はここまでとします。


10−2 大仏鋳造と森林

 ずいぶん以前に東海自然歩道を歩いて田上山系の主峰太神山(たなかみやま)の山上にある不動寺へ行ったことがあります。湖南アルプスを歩いていて「岩肌が露出していてずいぶん禿山だな」と思った記憶があります。

 その瀬田川流域の田上山一帯は、大仏鋳造や巨大寺院の建築木材に田上山から切り出されていたとネットの検索で知りました。

 千数百年前はスギ、ヒノキの一大美林で、古代から国家の用材として切り出されていました。『万葉集』には藤原宮造営のために田上山の木を瀬田川、宇治川を経由して木津へ運んだという記述が残されています。
 
 しかし、都や神社仏閣の造営にともなう伐採、燃料用材の乱伐が繰り返されたために、江戸時代には全山荒れ果てて山肌が露出する無残な姿になってしまいました。




   写真2 大仏さんの横顔

寄り道 大仏名物・柱くぐり
 奈良交通グループホームページ「世界遺産コース・奈良公園周辺」の案内に、「大仏さん
の鼻の穴と同じ大きさ直径約40cm!果たしてくぐり抜けて賢くなれるのか?」と書いてい
ましたが、8月9日孫5人を連れて東大寺を訪れました。
 小学2年生の孫は、うまくくぐり抜けることができました。少しは賢くなったかな?




 写真3 大仏名物・柱くぐり


 脱線や寄り道にお付き合い下しまして申し訳ありませんでした。
私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その3)[2007年10月02日(Tue)]

  前回の記事で山折哲雄国際日本文化研究センター所長が「日本列島を3千メートルの上空から撮影したビデオを見ると、森また森、山また山の連なりが眼下に展開していた。しかし、それを1千b上空から映すと、こんどは平野や田園風景が見え、弥生時代以来の稲作、農耕社会の姿が現れてくるだろう。さらに高度を300bまで下げると、都市や工場を中心とする近代文明の世界が見えるはずだ」と基調講演を引用して粟生山周辺の縮尺を変えた地図を紹介しました。

 それならば、インターネットのGoogle Earthで上空から見ると、粟生山周辺はどのように写るか見てみました。

 この記事は日曜日に関係者2人に校正してもらった段階では2回に分けて公開する記事にまとめていました。

 いざ入力する段階になって少し脱線気味になりますが、あれもこれもと関連することを膨らませてしまいました。この記事の全体は書き終えていますので、今しばらく脱線にお付き合いください。


7.グーグルアースから見た粟生山

 グーグルアースで上空からの距離を300メートルくらいにすると、我が家の屋根の形もはっきりと確認できます。ビデオカメラでは3千メートルでも、グーグルアースでは限られた範囲しか写りませんでしたので、上空5kmからの粟生山を見てみました。

 残念ながら、グーグルアースの利用規定でコピーしてこの記事に公開することはできませんが、鮮明な画像で山並や市街地が再現されていました。


8.千里ニュータウン中央公園展望台からの眺め

 そこで、この美しい北摂の山並みを見晴らせる千里ニュータウン中央公園展望台へ行ってきました。

 この展望台は1970年千里丘陵で開催された万国博覧会に先立ち、昭和41年(1966年)4月23日、天皇皇后両陛下(昭和天皇皇后両陛下)が千里ニュータウンをご視察されたとき、できたばかりの展望台(中央公園)にも登られています。

 41年前にできた展望台は今でも開園時間内には登ることができますが、前日の日曜日が近隣の小学校運動会の代休日だったせいか、公園内の利用者は多いのですが、展望台へ昇っていく人はいませんでした。

 実は私も小学校5年生のエジプトから来た娘さんと5歳の孫娘を連れて行きました。

 昭和40年代、私はこの近くの古江台に住んでいたので、懐かしく千里ニュータウンの40年後の変貌をカメラに収めてきました。その東西南北方向の写真を紹介します。




    写真1 箕面の山並みが見える北方向



   写真2 ズームで北方向を写すと北摂の山並みがくっきりと!

 写真中央の手前マンションの上に白く横長の建物が国立循環器センターの病院です。



     写真3 西北方向を望む

 山より高く飛び出た景観を壊すような高層のビルが箕面市内に最近建ったようです。



    写真4 東方向

 遠くに生駒連山、その中央にエクスポランドの大観覧車が見えます。



   写真5 南西方向
 
 この展望台から真南は大阪市のビル郡が遠くに見えますが、カメラを少し西にふると、「アレ!こんな高層のマンションは千里ニュータウンにあったかな?」と一瞬考えました。

 昭和40年時代、都市計画を担当していた人から、「都市計画範囲のすぐ側に開発の規制が入らない地域を残しておくことで、街が活性化する。そのためにニュータウン計画のなかであえて規制が入らない地域を残しておいた」といった意味のことを聞いたことがあります。

 規制がなかったために40年後には時代にマッチした高層住宅が林立したのでしょうか?


9.わが国の炭焼き歴史年表

 前回、前々回の記事の一部で横道にそれてしまいましたが、ここで、元の記事に入ります。

 このわが国の炭焼き歴史年表も、元の原稿では池田炭が出てくるまでの年表を転用させてもらうことにしていましたが、小学校3年までの戦前には近所に炭屋さんが商売していた思い出し、本のすべての年表を転用させてもらいました。

 その炭焼きの歴史年表は「炭のすべてがよくわかる 炭のかがく」(柳沼力夫著、誠文堂新光社、2003年7月25日発行)を転用しました。


年代と主な出来事    木 炭 史
B.C.30万年  愛媛県 肱川村の石灰岩洞窟で木炭の製造と使用
B.C.7〜8千年(縄文式文化)
  竪穴式住居の炉で木炭の使用 住居外に炉はつくられ共同で使用
B.C,300(弥生式文化)
              金属の精錬で木炭の使用量増加 ガラス加工に木炭を使用
701(大宝律令制定)   木炭を税の対象とする
752(東大寺大仏完成)  大仏鋳造に木炭を大量に使用
794(平安京が都となる) 井戸の濾過剤として木炭を使用
995(藤原道長による行政)金属、皮革など各種工業の熱源として木炭の需要増加
1086(院政の開始)    床上暖房用、室内炊事用の木炭需要増加
1185(平家の滅亡)  「大原炭」が誕生
1192(源頼朝による鎌倉幕府)武器鍛造、各種工業用に木炭需要増加
1274(蒙古の襲来)  こたつ、あんか、たどん等の新用途開発
1475 茶道炭の需要始まる  木炭製法、品質の改良
黒炭と白炭の区別が起る
1574           池田炭が現われる
1582(本能寺の変)    炭焼夫に山林伐採、炭焼きが許される
1688           備長炭が現われる
1751           伊豆天城御用炭が現われる
1793           下総佐倉炭が現われる 木炭製造技術の伝承が盛んに成る
1841(天保の改革)    炭問屋は炭商、炭屋と称す
1868(明治維新)     商法会所が各地に設立され、木炭も扱品となる
1877(西南の役おこる)  官許薪炭問屋規約書が作成される
1895(日清事変終了)   菊炭窯が考案される
1902(日英同盟調印)   第5回内国勧業博覧会で林業部が独立し、
木炭産業の発達を促進させる
1907           木炭同業組合の設立
1908           東京薪炭同業組合の設立
1929(世界恐慌がおこる) 全国薪炭組合連合会の設立
1945(太平洋戦争終わる) 木炭の生産量は150万tになる
1946(日本国憲法の制定) 林業会法公布で燃料配給統制組合は林産組合に移行
1950(特需景気)     木炭の統制解除
1953           東京薪炭問屋協会の設立
1957           木炭生産量200万tに達し、最大量となる
1960           石油の消費量が増加し始める
1973           第1次オイルショック
             石油に代わるエネルギーの開発が急務となる
1981           第2次オイルショック
             石油消費量は増加を続ける
1988           木炭生産量3万t程度に減少する
1990      木炭の特質を利用する傾向が盛んになる
2003     現在から将来へ炭が持つ底知れない特性を生かして、人々の幸せのために貢献する製品が開発される

 
 次回は、私たちが森林保全に取り組んでいる山、粟生山で生産した木炭がその当時、この年表に出てくる奈良の大仏さんの鋳造に使われていたのかという疑問に迫りたいと思います。
私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その2)[2007年10月01日(Mon)]
5.粟生山周辺を中心に地図を拡大してみました  

 今朝古い新聞の切抜きを整理していたら2005年3月7日の朝日新聞に、「国民参加の森林づくり」シンポジウムの記事が出てきました。山折哲雄国際日本文化研究センター所長の基調講演「日本人の心育んできた森と山」の中に「日本列島を3千メートルの上空から撮影したビデオを見ると、森また森、山また山の連なりが眼下に展開していた。
 しかし、それを1千b上空から映すと、こんどは平野や田園風景が見え、弥生時代以来の稲作、農耕社会の姿が現れてくるだろう。
 さらに高度を300bまで下げると、都市や工場を中心とする近代文明の世界が見えるはずだ。列島の森、田園、都市という3層構造は、私たちの心の世界における3層構造を表していることが分かる」と書いた記事を見つけました。


 前回の記事の中で示した明治19年製版の粟生山周辺の20万分の1の地図を上空3千メートルと見立てて、地図上で3層構造を見てみました。

 この20万分の1の地図では箕面周辺を高度3千メートルの上空から写したごとく、山また山の連なりの感があります。

 辞書で地図を引くと、「地球表面の一部または全部を一定の割合で縮小し、記号・文字などを用いて平面上に表した図」ですが、現在2万5千分の1の国の基本図は航空写真測量で作成されていることからも上空から地球の表面を一定の縮尺したものと言えます。

 上記山折所長の上空の3層構造は心の3層構造ですが、地図で上空からの高度を下げてみました。

 図2は2005年作成の10万分の1で、人々が暮らす平野や田園風景が読み取れるでしょうか。




    図2 粟生山周辺の10万分の1地図

 現在市販の地図で手に入る一番縮尺が大きいものは、国土地理院の2万5千分の1で、国の基本図として全国整備がなされています。

 図3の地図は、平成8年8月の航空写真を使用し、同9年7月に現地調査され、平成10年4月2日に発行された2万5千分の1の地図です。その地図から私たちの活動拠点である奥山周辺を切り取ってみました。

 高度を下げた2万5千分の1の地図は、霊園や住宅団地も描かれていて都市の姿がわかります。




   図2 私たちの活動拠点・奥山周辺の地図

 この地図はスキャナで読み取ってコピーしたものですので、縮尺は2万5千分の1になっていません。

6.今の箕面の山並みを写真で見る

 私の住む箕面市小野原地区から粟生山の山並みを望むことができますが、その山並に高層マンションがにょきにょきと頭を出して風景を台無しにしています。

 昨年11月千里中央ライフサイエンスビル21階から箕面の山並みを写しました。




      写真2 千里中央ビルの21階から見た箕面の山並み


 左手のグリーベルトに沿って伸びているのは御堂筋・国道423号です。今年の5月末にはこの山を貫通させて箕面トンネルが開通しました。

 手前の住宅は千里ニュータウンで豊中市千里北町の住宅団地です。写真2の右手方向の山並みが粟生山です。

 撮影場所から山並みの頂上まで直線距離で7キロくらいです。


 更に近づいて山並みの頂上まで直線距離で5キロくらいの箕面市小野原から粟生山の山並みを写したのが写真3です。



    写真3 小野原から見た粟生山の山並み

 写真4は、もっと近づいて箕面市環境クリーンセンターへの進入路から写した総称粟生山の奥山です。



   写真4 私たちの活動拠点の奥山

 私が住む箕面市小野原から車で約8キロ分け入ったところが、森林保全の活動場所です。
 1250年くらい前にはこの粟生山で炭やきが行われていた史実をたどることができます。

 次回はわが国の炭やきの歴史を概観しながら、粟生山との関連を見てみようと思います。
私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その1)[2007年09月30日(Sun)]


 私たちが活動している山並は総称粟生(あお)山と呼ばれる立会山で、箕面市環境クリーンセンターのあるこの山は、奥山とも称せられていたようです。
 今仲間で奥山と呼んでいる会員はいませんが、かつて炭の生産地だったこの山のことを調べてみました。


1.立会山記念之碑

 私たちが活動しているすぐ近くに箕面市立環境クリーンセンターの正面左手に写真1に示す立会山記念之碑がたっています。
 
 写真1のように、下の方は草に隠れていたので書き留めてきました。




     写真1 箕面環境クリーンセンターにたつ立会山記念之碑

 それによると、「箕面市立環境クリーンセンターが立地するこの山は奥山と称せられ、東に連ねる黒谷、高丸、小倉の各山並とともに総称粟生山と呼ばれる立会山である。立会山は中世のころから村人の薪や肥料を採取する共同の山として利用し、時代を経るとともに炭の生産、松葉線香等の商品の供給の場となり、まさしく村人の生活を支える山として役割を果たして来た。

 近代市町村制のもと、明治22年豊川村が誕生し、立会山に豊川村大字粟生、大字清水、大字宿久庄のいわゆる部落共同林となり、以降、主に植林経営が行われ、大正年間に入会権の地上権が設定された。

 昭和31年豊川村が箕面市と茨木市分村合併したことにより、立会山は箕面市大字粟生ならびに茨木市大字清水、大字宿久庄及び大字粟生岩阪の四大字財産区の財産となった。

 昭和40年代には立会山にも開発の波が押し寄せ、すでに黒谷、高丸及び小倉の各山林は国際文化都市構想の根幹をなす用地となり、今般四大字財産区唯一の立会山であった奥山に箕面市立環境クリーンセンターが建設され、古来より粟生住民の生活とともに歴史を刻んだ立会山はここに幕を閉じ、生活環境を守る不可欠の施設として箕面市民に貢献する山へと変貌したのである。以下省略」と刻まれていて、この山の歴史を読み取ることができた。


2.中世のころの立会山

 この立会山について「立会山史」を昭和53年2月10日、豊川村大字粟生、茨木市清水、同宿久庄、同粟生岩阪で発行しています。

 この本で‘中世の粟生山’には、「都に近く、山陽道(西国街道)にそった交通便利な当地方では木材など商品化されやすかったのである。そのため、萱野郷民に限らず、近隣の村々住民がこぞって大規模な伐木を行い、住民自身の活動として売木・市木という経済活動を行っていた。したがって、粟生村の住人百姓らもまた粟生山に入山して、売木・市木のために伐木を行っていたであろうことは当然考えられるから、この時代の粟生山は、麓住人の経済的活動の場ともなっていたことであろう。こうして売本・市木に加えて注目されることは、『炭』の生産が行われていたことである。いまのところ炭の生産が確かめられるのは粟生村だけであるが、年不詳の勝尾寺文書の一通には、炭竉のことも見えているので・・・・・・」として「勝尾寺領内の材木をすべて伐られてしまった。そして今では炭竉の周辺は野山のようになってしまったので、今年は必ず破却しようか」という粟生村村民とのトラブルの文書を紹介している。

 また、大阪府の地名1 日本歴史地名大系28 兜ス凡社 1986年2月7日第1刷発行粟生村の項には、「総持寺の所当注に炭を納める土地もあった(文永10年〔1274年〕源臣田地売券)。売券類でみると土地によって差はあるが、だいたい田地1反に炭1籠の割合で徴収されることが多かったようである。このように鎌倉時代頃の粟生村は、大量の官物炭・年貢炭を納める木炭の大生産地であった。粟生村の住民は村の背後の粟生山(寛喜2年(1230年)正月27日勝尾寺四至注文)や勝尾寺山に入って、そこに炭竉を設け盛んに炭焼を行った。勝尾寺僧のある書状は、炭竉のため寺領の林木が伐尽されるので竉の破却を申入れたと述べているものがある(欠年11年26日勝尾寺年行事書状案)。 

 このような炭を調達・管理する役人として粟生村炭司が置かれていた(仁治元年8月24日粟生村領家下文)。また粟生山の林業経営に他村の者を山子として使うことがあり、室町初期、宿久庄村官百姓らが粟生村の山子であるといっている史料がある(応永8年〔14011〕年7月日勝尾寺衆徒等申状案)」。

 先の‘立会山史’にも「鎌倉時代から室町時代の村人が年貢を納めるのに米に比べて官物納炭の納入量が多かったとも書いていました。

注)所当:中世、割り当てられて官または領主に納める物品


3.明治19年製版の粟生山周辺の地図



 上記「大阪府の地名」の特別付録に、明治19年製版の20万分の1の大阪府全図が添付されていました。

 その本の地名は村が出来上がったころの平安時代から使い習わされてきた地名です。明治19年に製版された地図にもこの地名が記載されていましたので、粟生山の全体の様子を概観するために拡大してみました。

 また、粟生、宿久庄、清水の地名をわかりやすく、黄色の矢印で示しています。
 
 私たちが現在使っている国土地理院の等高線で示す表現方法と違ってこの地図の表現方法にはプロシアの10万分1図にならい、葷滃(ケバ)を用いられています。
注:「けば」とは等高線に対して直角に引く(けば)の太さや長さを変えて起伏の感じを表す方法。急傾斜の所ほど線は太く短くなる、葷滃(うんのう)式です。

 少し長くなりましたので、この続きは次回に回します。
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