私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その6)[2007年10月13日(Sat)]
前回、前々回では、「大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?」という疑問の答を見つけるために、多田銀銅山と池田炭を現在も生産している川西市黒川を訪ねたことを書きました。
奈良の大仏が建立された今から1250年前の北摂連山での鉱石の発掘、その精錬のために必要な炭焼きの技術は、多田銀銅山の「多田」は現在の川西市多田あたりだけでなく、猪名川町を中心に、川西市、宝塚市、箕面市から豊能郡にかけての広い地域を指していたことにも触れました。
そこで、今回は私たちが活動している箕面の山のことを調べてみました。
大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?
粟生の名付けは?
この記事を書くに当たり、箕面市の立会山や炭焼きを検索していて飯島正明さんの「粟生間谷地区の方言70」の資料を見つけました。
その中の「粟生間谷地区の個性的な民俗」に「粟生間谷地区は、古代、三島県(あがた)があり、そこに宿久(宿人)郷粟生野と呼ばれる地がありました。その名の由来は、粟がとれたからといわれています。しかし、谷に銅を好むカナヤマシダが多く見られ、戦前は、椿地蔵の上にも鉱山があり、黄銅鉱が掘られていました。鋳造に要する炭の生産も古く、炭と銅が同時生産された地域を「あを」と名づけられたと考えています。そして、長く「宿久山」と呼ばれていた地区です。間谷の「間」は、坑道をさす「間歩」(まぶ)からついたのではないでしょうか」と書かれています。
また、この資料には炭焼きの方言や粟生城址のことなど興味のある記事がありました。
その中で「谷に銅を好むカナヤマシダが多く見られ、戦前は、椿地蔵の上にも鉱山があり、黄銅鉱が掘られていました」という記事は上記多田銀銅山とも関連していて、箕面から川西に広がる北摂連山はつながっていからだと思いました。
写真1 カナヤマシダ(正式名はヘビノネゴザ・イワデンダ科メシダ属)
写真1はインターネットの取手市植物図鑑からコピーさせていただきました。
私たちが活動する山の近くで湧き水が出ていますが、砒素が基準を超えて含むために飲料に適していないそうです。それは多田鉱山と同じ鉱脈だからと解説してくれた人がいました。
私たちの仲間で植物に詳しいNさんはインターネットに箕面のシダ類の写真を公開されていますが、このカナヤマシダは掲載されていませんでした。
この記事を校正してもらったNさんは、シダ類の名前を見つけるのは大変難しくルーペなどを使って同定することもあるそうです。Nさんの箕面のシダ類の写真は、箕面の滝道でシダ類を観察するガイドとして写したもので、カナヤマシダは見つけられなかったそうです。
また、椿地蔵は、立会山・奥山へ行く大阪府道4号茨木能勢線にあるそうで、この道路を改良したので坑口などは失われたのではないかということでした。また、Nさんは椿地蔵の場所を調べるなら、郷土資料館へ行くとわかるだろうとアドバイスしてくれました。
三座のお地蔵さん
そこで、郷土資料館へ出向き、椿地蔵のことを事務所の方に尋ねたところ、わざわざ5階から資料館のある地下階まで福田 薫 館長が降りてこられ対応してくださいました。
館長からは私が持ってきた資料と調べる目的に沿う形でいろいろ教えていただきました。その話題はいずれ別の形でまとめたいと思っています。
箕面市立郷土資料館からの帰り道、教えていただいたお地蔵さんの写真を撮りに行きました。
写真 2 三座のお地蔵さんがある大阪府道4号茨木能勢線
勝尾寺川沿いの大阪府道4号茨木能勢線は、写真 2の左側は切り立った山裾を勝尾寺川が流れています。
右側も山を切土して勾配のきつい法面を築き、落石防止金網を張っています。
大阪府道4号茨木能勢線は勝尾寺への参道道はこの狭い谷間を縫うようにして作られた道路のようです。
この道路は勝尾寺だけでなく、茨木や亀岡、能勢町へ抜ける道ですからやダンプカーも走っていて、交通量の多い2車線道路です。
私はだんだんクラブの活動日には車からチラッと見る程度でしたが、バイクを止めて近寄って見ると、少しずつ離れたところに、三座ありました。地蔵さんの周辺にはなにも書いていませんでしたので、椿地蔵はその三座のうちのどれかわかりませんでした。
このブログをまとめるにあたり、失礼にも福田館長へメールを入れて親切の教えた頂いたお礼を書くとともに、写してきたお地蔵さんの写真を入れたブログの原稿を送信していした。
今日13日、福田館長から三座のお地蔵さんの名前をメールで教えていただきました。
頂いた返信でやっと椿地蔵の場所がわかりましたが、この機会に三座のお地蔵さんを紹介します。
写真 3 口の地蔵
大阪府道4号茨木能勢線を北に向かって一番南よりの地蔵さんで「口の地蔵」です。
写真 4 桜の地蔵
三座のうち、真ん中にある地蔵で「桜地蔵」と教えてもらいました。
写真右手に『十六丁』と書いている石が立っているのは、勝尾寺の旧参道のものなのだろうか。
写真 5 椿地蔵
大阪府道4号茨木能勢線の一番北のお地蔵さんが探していた「椿地蔵」でした。
他のお地蔵さんには何も手がかりになる文字はなかったのですが、椿地蔵には年代を書いた文字が石に彫られていましたが、私にはとても手に負えませんでした。
先日撮った写真は午後の太陽光線でお地蔵さんの顔が真っ黒で判別できませんでしたので、今朝炭焼きへ出かける途中で再度写しました。
写真には落石防止の金網が見えるように、切り立った斜面で鉱山の跡はわかりませんでした。
今まで6回にわたって、「私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました」を書いてきましたが、10月に入って炭焼きも2回目を今日行いました。
次回は私たちの活動の一つである竹炭やきなどを書くことにしたいと思っています。