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私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その4)[2007年10月08日(Mon)]

 「大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?」、この答を見つけるために、インターネットで検索したところ、「そもそも池田炭は多田銀銅山の鉱石を製錬するための製炭技術から生まれた。多田銀銅山の「多田」は現在の川西市多田あたりだけでなく、猪名川町を中心に、川西市、宝塚市、箕面市から豊能郡にかけての広い地域を指していた」と書いている資料を見つけました。そこで、多田銀銅山と今も菊炭を作っている川西市黒川を訪ねてきました。 

10.大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?
10−3 池田炭


  古文書からみると、粟生山の炭焼きの歴史は平安時代末期までしかさかのぼれませんが、インターネットで検索した自然総研、TOYRO倶楽部の「豊かの国・摂津」の菊炭が一庫で生産されるようになったことには2つの理由があるとして、「池田炭として名をはせる以前から、この地方で炭焼きの技術が完成していたことである。そもそも池田炭は多田銀銅山の鉱石を製錬するための製炭技術から生まれた。多田銀銅山の『多田』は現在の川西市多田あたりだけでなく、猪名川町を中心に、川西市、宝塚市、箕面市から豊能郡にかけての広い地域を指していた。
 ここでは古くから鉱石の採掘と製錬が行われており、東大寺の大仏建立に銅を供出したと伝えられるほどに歴史は古く、今世紀の初頭までは日本有数の鉱山であった。製錬には強い火力が必要であり、そのため採掘地周辺から製錬用の炭の供給を受けることになった。多田の採掘地の周辺地図を見ると『一庫』『国崎』『「黒川』などの地名があり、池田炭の産地とぴったり符合する」と書いています。




    図3 多田銀銅山と精錬用炭の供給地

  図―3は平成17年9月発行の「阪神高速道路案内図10万分の1」から、北摂連山に広がる精錬用炭の供給地を示しました。

10−4 多田銀銅山

 箕面市内から多田銀銅山まで、直線距離では約14キロですが、北摂山地の山裾の大阪府道9号箕面池田線で池田市内から川西市を抜けて猪名川町に入りました。

 多田銀銅山では猪名川町が今年の4月にオープンした「悠久の館」で絵図や、古文書、鉱石・鉱山道具などが展示されていました。

 そこで頂いた周辺マップをコピーしたのが図4です。




    図4 多田銀銅山 悠久の館周辺マップ

  そのリーフレットには「多田銀銅山は、北摂地域にわたり鉱区が広がる鉱山です。その歴史は古く、奈良時代の東大寺大仏建立の際に、多田銀銅山で採掘された銅が使用されたと伝えられています。
 猪名川町では、銀山地区(旧銀山町)を中心に栄え、豊臣政権時には直轄鉱山となり「台所間歩」や「瓢箪間歩」など秀吉ゆかりの間歩(坑道)が残り盛山の様子がうかがえます。江戸時代には代官所が設置され、幕府直轄地となり「銀山三千件」といわれるほどの賑わいをみせ、我が国の鉱山史の一端を担いました」と説明しています。




    写真1 銀山地区(旧銀山町)の説明パネル

10−5 青木間歩

 秀吉ゆかりの「台所間歩」や「瓢箪間歩」のほかに「坑道の年代は特定できませんが、鉱脈に沿ってノミやタガネを使った手掘り跡です」と説明文のある坑道や、空気穴・水抜き穴も見ることができますが、唯一、坑道内を体験できる青木間歩に入ってみました。証明設備はありましたが、見学者は私一人でひんやりした坑道をその採掘の先端まで見てきました。



      写真2 青木間歩の坑口

 その説明文には「周囲にアオキが茂っていたことからその名がついたといわれています。江戸時代に採掘されたと思われる手掘りの露天掘りと、削岩機などの機械を使って採掘された坑道との両方を楽しめます」とあり、午前9時から午後5時まで自由に見学できます。



   写真3 青木間歩の坑内


 悠久の館に展示されている多田銀銅山歴史年表には、「西暦742年(天平14年)奇妙山神教間歩(川西市域)より東大寺大仏鋳造の銅を献上(伝承)」と書いていました。大仏開眼が西暦752年ですからその10年前より以前から銅の採掘が行われていたのでしょう。

 大仏鋳造用の銅の量は資料によって443トンから499トンと少し差がありますが、これだけ大量の銅は全国各地から集められたに違いありません。

 なかでも、山口県美東町(秋吉台の南東)の長登(ながのぼり)銅山は奈良時代には東大寺大仏鋳造のための銅を産出していたことがあり、古くから銅の産地として栄えていたようです。

 次回は「豊かの国・摂津」の菊炭が一庫で生産されるようになったことの理由のもうひとつの池田炭の里、川西市黒川を訪れたことを書く予定です。
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