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私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その4)[2007年10月04日(Thu)]


 前回書きましたように、当初は2回に分けて公開することにしていました。その2回目は「大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?」というタイトルでまとめていました。

 その中で、インターネットの検索で仕入れた資料から「大仏の鋳造は747年、聖武天皇の頃に始まり、749年に完成。この鋳造に使われた金は現在の数字に表すと、約440キロ、炭の量は約800トン以上」と書いていました。
 
 内容と校正をしてもらったKさんから「金は現在の数字に表すと、約440キロ」の金は、銅ではないかと指摘を受けました。その当時日本でこれ程の金が産出はしていなかっただろうと思うのは、Kさんだけでなく、私もそう思っていました。

 今回の記事はすでにその3を書いています。脱線したついでに「金か、銅か?」の疑問をどう(銅)しても確かめたくなりました。
ただ、私はこの種の書籍を持ち合わせていないので、インターネットの検索を繰り返しながら、確からしい答を探してみました。


10.大仏鋳造に粟生山の木炭は使われていただろうか?
10−1 鋳造に使われたのは、金か、銅か?


1)インターネット「環境思想・環境歴史のページ 梵我一如」から
  「日本の環境問題の歴史」


 「聖武天皇が大仏を作ろうと決意したのは天平15年(743年)であり、近江国紫香楽宮で大仏造立の詔を発した。(当初は紫香楽に作られる予定であったが、山火事などのため今の東大寺の地域に作られることとなった)
天平18年(746年)大仏鋳造のための原型が完成。
天平19年(747年)大仏の鋳造開始。
天平勝宝元年(749年)大仏の鋳造終了。
天平勝宝4年(752年)大仏開眼供養会(魂入れの儀式)が開催。
      (757年)大仏の塗金作業終了
 そして、精錬する量も銅山などに比べれば少ない。東大寺要録に使用した原料の量が記されていて、これを現代の単位に置き換えると、(国史大辞典などによる)
熟銅        443.7t
水銀        2.2t
白蝋(鉛を含んだ錫)7.6t
錬金        0.4t
木炭        18656石(重さの単位ではないので変換不可)
※ちなみに木材・石材の場合1石は約0.2783立方メートル
注:熟銅は精錬した銅、錬金は塗金用の純金」


2) 東大寺要録


 そこで、根拠となった東大寺要録、大仏で検索してみると、「881165『大仏開眼』には「『東大寺要録』に拠りますと、大仏の造営に動員されたのは、無償の労働奉仕が延べ37万人を越え、雇われたもの約51万5千人、8回も鋳造し直した末に高さ約16メートルの座像は完成しました。使った銅250トン、表面に塗った金は57.5キログラムなどと云われます」。

3) 日本金山株式会社のホームページ

  さかのぼること西暦700年代、日本は聖武天皇の代となり仏教が布教され、奈良東大寺の大仏が鋳造されるなど、金の需要が大きく高まりました。しかし、当時、金は朝鮮から入ってくるだけで日本では大量の産金はされませんでした。

 ところが、小田郡の国司が900両もの黄金を朝廷に謙譲したのです。これによって、大仏の鋳造が完成したと言われます。




 写真1 お身拭いの終わった翌々日2007年8月9日の大仏さま


 これらの資料を見ると出典は東大寺要録であり、その資料から大仏鋳造に使った材料を金とするか、銅とするか、それとも鋳造に必要な木炭に注目するかでいろいろの記述がでてきたのだろうと思います。数字も資料によって違っていますが、奈良大仏の建立当時、金を使ってことは確かなようです。

 この記事では「木炭』について書いていますので脱線はここまでとします。


10−2 大仏鋳造と森林

 ずいぶん以前に東海自然歩道を歩いて田上山系の主峰太神山(たなかみやま)の山上にある不動寺へ行ったことがあります。湖南アルプスを歩いていて「岩肌が露出していてずいぶん禿山だな」と思った記憶があります。

 その瀬田川流域の田上山一帯は、大仏鋳造や巨大寺院の建築木材に田上山から切り出されていたとネットの検索で知りました。

 千数百年前はスギ、ヒノキの一大美林で、古代から国家の用材として切り出されていました。『万葉集』には藤原宮造営のために田上山の木を瀬田川、宇治川を経由して木津へ運んだという記述が残されています。
 
 しかし、都や神社仏閣の造営にともなう伐採、燃料用材の乱伐が繰り返されたために、江戸時代には全山荒れ果てて山肌が露出する無残な姿になってしまいました。




   写真2 大仏さんの横顔

寄り道 大仏名物・柱くぐり
 奈良交通グループホームページ「世界遺産コース・奈良公園周辺」の案内に、「大仏さん
の鼻の穴と同じ大きさ直径約40cm!果たしてくぐり抜けて賢くなれるのか?」と書いてい
ましたが、8月9日孫5人を連れて東大寺を訪れました。
 小学2年生の孫は、うまくくぐり抜けることができました。少しは賢くなったかな?




 写真3 大仏名物・柱くぐり


 脱線や寄り道にお付き合い下しまして申し訳ありませんでした。
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