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私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その3)[2007年10月02日(Tue)]

  前回の記事で山折哲雄国際日本文化研究センター所長が「日本列島を3千メートルの上空から撮影したビデオを見ると、森また森、山また山の連なりが眼下に展開していた。しかし、それを1千b上空から映すと、こんどは平野や田園風景が見え、弥生時代以来の稲作、農耕社会の姿が現れてくるだろう。さらに高度を300bまで下げると、都市や工場を中心とする近代文明の世界が見えるはずだ」と基調講演を引用して粟生山周辺の縮尺を変えた地図を紹介しました。

 それならば、インターネットのGoogle Earthで上空から見ると、粟生山周辺はどのように写るか見てみました。

 この記事は日曜日に関係者2人に校正してもらった段階では2回に分けて公開する記事にまとめていました。

 いざ入力する段階になって少し脱線気味になりますが、あれもこれもと関連することを膨らませてしまいました。この記事の全体は書き終えていますので、今しばらく脱線にお付き合いください。


7.グーグルアースから見た粟生山

 グーグルアースで上空からの距離を300メートルくらいにすると、我が家の屋根の形もはっきりと確認できます。ビデオカメラでは3千メートルでも、グーグルアースでは限られた範囲しか写りませんでしたので、上空5kmからの粟生山を見てみました。

 残念ながら、グーグルアースの利用規定でコピーしてこの記事に公開することはできませんが、鮮明な画像で山並や市街地が再現されていました。


8.千里ニュータウン中央公園展望台からの眺め

 そこで、この美しい北摂の山並みを見晴らせる千里ニュータウン中央公園展望台へ行ってきました。

 この展望台は1970年千里丘陵で開催された万国博覧会に先立ち、昭和41年(1966年)4月23日、天皇皇后両陛下(昭和天皇皇后両陛下)が千里ニュータウンをご視察されたとき、できたばかりの展望台(中央公園)にも登られています。

 41年前にできた展望台は今でも開園時間内には登ることができますが、前日の日曜日が近隣の小学校運動会の代休日だったせいか、公園内の利用者は多いのですが、展望台へ昇っていく人はいませんでした。

 実は私も小学校5年生のエジプトから来た娘さんと5歳の孫娘を連れて行きました。

 昭和40年代、私はこの近くの古江台に住んでいたので、懐かしく千里ニュータウンの40年後の変貌をカメラに収めてきました。その東西南北方向の写真を紹介します。




    写真1 箕面の山並みが見える北方向



   写真2 ズームで北方向を写すと北摂の山並みがくっきりと!

 写真中央の手前マンションの上に白く横長の建物が国立循環器センターの病院です。



     写真3 西北方向を望む

 山より高く飛び出た景観を壊すような高層のビルが箕面市内に最近建ったようです。



    写真4 東方向

 遠くに生駒連山、その中央にエクスポランドの大観覧車が見えます。



   写真5 南西方向
 
 この展望台から真南は大阪市のビル郡が遠くに見えますが、カメラを少し西にふると、「アレ!こんな高層のマンションは千里ニュータウンにあったかな?」と一瞬考えました。

 昭和40年時代、都市計画を担当していた人から、「都市計画範囲のすぐ側に開発の規制が入らない地域を残しておくことで、街が活性化する。そのためにニュータウン計画のなかであえて規制が入らない地域を残しておいた」といった意味のことを聞いたことがあります。

 規制がなかったために40年後には時代にマッチした高層住宅が林立したのでしょうか?


9.わが国の炭焼き歴史年表

 前回、前々回の記事の一部で横道にそれてしまいましたが、ここで、元の記事に入ります。

 このわが国の炭焼き歴史年表も、元の原稿では池田炭が出てくるまでの年表を転用させてもらうことにしていましたが、小学校3年までの戦前には近所に炭屋さんが商売していた思い出し、本のすべての年表を転用させてもらいました。

 その炭焼きの歴史年表は「炭のすべてがよくわかる 炭のかがく」(柳沼力夫著、誠文堂新光社、2003年7月25日発行)を転用しました。


年代と主な出来事    木 炭 史
B.C.30万年  愛媛県 肱川村の石灰岩洞窟で木炭の製造と使用
B.C.7〜8千年(縄文式文化)
  竪穴式住居の炉で木炭の使用 住居外に炉はつくられ共同で使用
B.C,300(弥生式文化)
              金属の精錬で木炭の使用量増加 ガラス加工に木炭を使用
701(大宝律令制定)   木炭を税の対象とする
752(東大寺大仏完成)  大仏鋳造に木炭を大量に使用
794(平安京が都となる) 井戸の濾過剤として木炭を使用
995(藤原道長による行政)金属、皮革など各種工業の熱源として木炭の需要増加
1086(院政の開始)    床上暖房用、室内炊事用の木炭需要増加
1185(平家の滅亡)  「大原炭」が誕生
1192(源頼朝による鎌倉幕府)武器鍛造、各種工業用に木炭需要増加
1274(蒙古の襲来)  こたつ、あんか、たどん等の新用途開発
1475 茶道炭の需要始まる  木炭製法、品質の改良
黒炭と白炭の区別が起る
1574           池田炭が現われる
1582(本能寺の変)    炭焼夫に山林伐採、炭焼きが許される
1688           備長炭が現われる
1751           伊豆天城御用炭が現われる
1793           下総佐倉炭が現われる 木炭製造技術の伝承が盛んに成る
1841(天保の改革)    炭問屋は炭商、炭屋と称す
1868(明治維新)     商法会所が各地に設立され、木炭も扱品となる
1877(西南の役おこる)  官許薪炭問屋規約書が作成される
1895(日清事変終了)   菊炭窯が考案される
1902(日英同盟調印)   第5回内国勧業博覧会で林業部が独立し、
木炭産業の発達を促進させる
1907           木炭同業組合の設立
1908           東京薪炭同業組合の設立
1929(世界恐慌がおこる) 全国薪炭組合連合会の設立
1945(太平洋戦争終わる) 木炭の生産量は150万tになる
1946(日本国憲法の制定) 林業会法公布で燃料配給統制組合は林産組合に移行
1950(特需景気)     木炭の統制解除
1953           東京薪炭問屋協会の設立
1957           木炭生産量200万tに達し、最大量となる
1960           石油の消費量が増加し始める
1973           第1次オイルショック
             石油に代わるエネルギーの開発が急務となる
1981           第2次オイルショック
             石油消費量は増加を続ける
1988           木炭生産量3万t程度に減少する
1990      木炭の特質を利用する傾向が盛んになる
2003     現在から将来へ炭が持つ底知れない特性を生かして、人々の幸せのために貢献する製品が開発される

 
 次回は、私たちが森林保全に取り組んでいる山、粟生山で生産した木炭がその当時、この年表に出てくる奈良の大仏さんの鋳造に使われていたのかという疑問に迫りたいと思います。
この記事のURL
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/42
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