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私たちの山で炭やきしていた昔をたどってみました(その1)[2007年09月30日(Sun)]


 私たちが活動している山並は総称粟生(あお)山と呼ばれる立会山で、箕面市環境クリーンセンターのあるこの山は、奥山とも称せられていたようです。
 今仲間で奥山と呼んでいる会員はいませんが、かつて炭の生産地だったこの山のことを調べてみました。


1.立会山記念之碑

 私たちが活動しているすぐ近くに箕面市立環境クリーンセンターの正面左手に写真1に示す立会山記念之碑がたっています。
 
 写真1のように、下の方は草に隠れていたので書き留めてきました。




     写真1 箕面環境クリーンセンターにたつ立会山記念之碑

 それによると、「箕面市立環境クリーンセンターが立地するこの山は奥山と称せられ、東に連ねる黒谷、高丸、小倉の各山並とともに総称粟生山と呼ばれる立会山である。立会山は中世のころから村人の薪や肥料を採取する共同の山として利用し、時代を経るとともに炭の生産、松葉線香等の商品の供給の場となり、まさしく村人の生活を支える山として役割を果たして来た。

 近代市町村制のもと、明治22年豊川村が誕生し、立会山に豊川村大字粟生、大字清水、大字宿久庄のいわゆる部落共同林となり、以降、主に植林経営が行われ、大正年間に入会権の地上権が設定された。

 昭和31年豊川村が箕面市と茨木市分村合併したことにより、立会山は箕面市大字粟生ならびに茨木市大字清水、大字宿久庄及び大字粟生岩阪の四大字財産区の財産となった。

 昭和40年代には立会山にも開発の波が押し寄せ、すでに黒谷、高丸及び小倉の各山林は国際文化都市構想の根幹をなす用地となり、今般四大字財産区唯一の立会山であった奥山に箕面市立環境クリーンセンターが建設され、古来より粟生住民の生活とともに歴史を刻んだ立会山はここに幕を閉じ、生活環境を守る不可欠の施設として箕面市民に貢献する山へと変貌したのである。以下省略」と刻まれていて、この山の歴史を読み取ることができた。


2.中世のころの立会山

 この立会山について「立会山史」を昭和53年2月10日、豊川村大字粟生、茨木市清水、同宿久庄、同粟生岩阪で発行しています。

 この本で‘中世の粟生山’には、「都に近く、山陽道(西国街道)にそった交通便利な当地方では木材など商品化されやすかったのである。そのため、萱野郷民に限らず、近隣の村々住民がこぞって大規模な伐木を行い、住民自身の活動として売木・市木という経済活動を行っていた。したがって、粟生村の住人百姓らもまた粟生山に入山して、売木・市木のために伐木を行っていたであろうことは当然考えられるから、この時代の粟生山は、麓住人の経済的活動の場ともなっていたことであろう。こうして売本・市木に加えて注目されることは、『炭』の生産が行われていたことである。いまのところ炭の生産が確かめられるのは粟生村だけであるが、年不詳の勝尾寺文書の一通には、炭竉のことも見えているので・・・・・・」として「勝尾寺領内の材木をすべて伐られてしまった。そして今では炭竉の周辺は野山のようになってしまったので、今年は必ず破却しようか」という粟生村村民とのトラブルの文書を紹介している。

 また、大阪府の地名1 日本歴史地名大系28 兜ス凡社 1986年2月7日第1刷発行粟生村の項には、「総持寺の所当注に炭を納める土地もあった(文永10年〔1274年〕源臣田地売券)。売券類でみると土地によって差はあるが、だいたい田地1反に炭1籠の割合で徴収されることが多かったようである。このように鎌倉時代頃の粟生村は、大量の官物炭・年貢炭を納める木炭の大生産地であった。粟生村の住民は村の背後の粟生山(寛喜2年(1230年)正月27日勝尾寺四至注文)や勝尾寺山に入って、そこに炭竉を設け盛んに炭焼を行った。勝尾寺僧のある書状は、炭竉のため寺領の林木が伐尽されるので竉の破却を申入れたと述べているものがある(欠年11年26日勝尾寺年行事書状案)。 

 このような炭を調達・管理する役人として粟生村炭司が置かれていた(仁治元年8月24日粟生村領家下文)。また粟生山の林業経営に他村の者を山子として使うことがあり、室町初期、宿久庄村官百姓らが粟生村の山子であるといっている史料がある(応永8年〔14011〕年7月日勝尾寺衆徒等申状案)」。

 先の‘立会山史’にも「鎌倉時代から室町時代の村人が年貢を納めるのに米に比べて官物納炭の納入量が多かったとも書いていました。

注)所当:中世、割り当てられて官または領主に納める物品


3.明治19年製版の粟生山周辺の地図



 上記「大阪府の地名」の特別付録に、明治19年製版の20万分の1の大阪府全図が添付されていました。

 その本の地名は村が出来上がったころの平安時代から使い習わされてきた地名です。明治19年に製版された地図にもこの地名が記載されていましたので、粟生山の全体の様子を概観するために拡大してみました。

 また、粟生、宿久庄、清水の地名をわかりやすく、黄色の矢印で示しています。
 
 私たちが現在使っている国土地理院の等高線で示す表現方法と違ってこの地図の表現方法にはプロシアの10万分1図にならい、葷滃(ケバ)を用いられています。
注:「けば」とは等高線に対して直角に引く(けば)の太さや長さを変えて起伏の感じを表す方法。急傾斜の所ほど線は太く短くなる、葷滃(うんのう)式です。

 少し長くなりましたので、この続きは次回に回します。
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