CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
« 第154話 秋の気配 | Main | 第156話 妙見山山頂近くから南西方向を眺めてみれば? »
<< 2017年11月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
第155話 安治川沿いの史跡を訪ねて[2011年10月07日(Fri)]


 第150話、第151のブログ「平洋丸の進水式」で安治川河口の日立造船桜島工場で大型船が進水した話題を取り上げたところ、この安治川沿いで育ち、箕面市在住のU市議からコメントをいただいた。
 市民活動の場で付き合いがあり、Uさんの友人で大阪市西区九条の「川沿いを歩ける町づくりの会」のK代表に、九条の史跡を案内してもらう機会をつくってもらった。
江戸時代初期の新田開発から明治のはじめには外国人居留地として開かれた川口エリアをはじめ、旧府庁が置かれるなどした江之子島エリアなどの史跡を訪ねてきた。


九条 川沿いあるきMAP

 昔の面影を残す狭い九条の路地裏を抜けて9月30日午後3時にK代表と落ち合った。
 当日は雨模様だったが、A3版の「あるきMAP」には、濡れても大丈夫なようにラミネート加工した説明図を準備してもらっていた。




 図1 九条 川沿いあるきMAPの一部


 この地図は安治川からJR環状線、尻無川、木津川を囲んだ地図で、全体は28の史跡が写真入りで解説付きだったが、本稿では安治川沿いの居留地跡周辺の地図に絞った。

九条村の古地図から

 図2は「貞享四年新撰増補大坂大絵図」から九条村を中心に切り取ったものである。
 絵図の右側中央辺りは、碁盤の目の町並みが描かれている。当時の大坂は三郷といって大川で南北に二分されていて、北組(絵図●印)、南組(絵図▲印)それ以外は天満組だった。




 図2 貞享四年(1687)新撰増補大坂大絵図の一部


 本渡 章著「大阪古地図むかし案内」(創元社発行)によると、「大阪平野は大川・尻無用・木津川・中津川・神崎川などの河川がはこぶ土砂が堆積して、面積を広げていった。慶長年間(1569〜1615)の末ごろから、沼沢地や海辺の干拓による新田開発がすすみ、江戸時代にはさらに盛んになって、寛永(1624〜)以後の200余年間で水際線はおよそ4キロメートルものびた。大坂という大都市の形成には、新田の造成が大きく関わっている……


 九条島は中津川・大川の河口に発達した砂洲である。もともと南浦とよばれていたが、寛永元年(1624)に幕吏の高西夕雲が幕府に願い出て、地元の池山新兵衛らとともに開発をはじめ、幕府お抱えの儒学者、林羅山が衢壌(くじょう)島と命名した。延宝年間(1673〜1681)この洪水のとき、一本の木笏(モクシャク)※1が漂着し、京都九条家のものと判明したので九条島と字を改めたという……」と、この町の来歴を書いている。

*1木笏……東帯装束の着用に際して威儀を整えるために手に持った板片。長さがほぼ1尺なので、シャクの名になった。


大仏島と古川

 安治川沿いを歩いていて「元古川が流れていた場所で橋があったのでその名残だ」とか「大仏島と呼んでいた所です」と説明を受けたが、上記「貞享四年大坂大絵図」には記載されていなくてよくわからなかった。

 ネットの検索で「摂津名所図会」の「大仏島」に掲載されていた「文化3年(1803)」の絵図には古川が安治川に平行して流れていて、囲まれたところが大仏島だった。




図3 文化3年(1803)の絵図


 その大仏島の川口3辺りでは「富島」の名を冠した会社が目についた。

 上記ネットの「大仏島」の説明に「富島(大阪市西区川口3)は、もと大仏島と呼ばれていた。江戸時代三傑僧の一人・公慶が、永禄10年(1567)に焼失した東大寺大仏殿の復興を志し、全国勧進行脚の途中、この地に松庵をむすび付近一帯の浄財寄付を募ったところ、膨大な喜捨※2が集まったので大仏島と呼ばれた。後に「富んだ島」ということから富島に変わったという。古川町とともに元禄16年(1703)大坂三郷のうち天満組に編入された。幕末には萩藩の蔵屋敷もあった」と解説してあった。

※2進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること

 昭和の中頃まで安治川には12ヶ所の渡しがあったそうで、「富島の渡しの跡」の碑が図1のHにある。


安治川開削

 安治川の開削で九条の新田開発は進んだが、図1、図2から新川(安治川)がなかったらと絵図を見てみると、九条島が川の流れをふさぐかたちで横たわっていて洪水の一因であり、大坂に出入りする船の運航にとっても障害になっていた。

 「安治川と河村瑞賢紀功碑」には「もとの九条島(衛攘島)はデルタ地帯で、たび重なる淀川洪水のため、被害が絶え間なかった。そこで、貞享元年(1684)2月幕府は治水の専門家である河村瑞賢に命じ、九条島を掘り割り、淀川の水を一直線に大阪湾へ導くことにした。4年の歳月を費やして、貞享4年に開削されたのが安治川である。はじめ新川と呼ばれたが、元禄11年(1698 )この地が安らかに治まるように願いをこめて、安治川と改名された」と書いている。

 ネットの検索では長さ約3km、幅90mで、貞享元(1684)年2月11日起工、4年余を費やし、貞享4年4月竣工を見た。

 この辺りを歩いていると、「海の御堂筋」の幟(のぼり)旗が目についたが、「淀川の水を一直線に大阪湾へ導いた」と言う文言が、一直線に南北を貫く御堂筋になぞられたネーミングだろうかと思った。

 安治川沿いの護岸から繋留した船へ行く階段を登って安治川から下流の大阪湾を望んでみた。




写真 安治川左岸から大阪湾を望む


 写真の遠くにJR環状線のトラスドランガー橋が小さく見える。

 安治川の開削により、大阪湾から直接蔵屋敷に接岸できるようになった中之島や堂島には蔵屋敷が増えていった。
 大坂蔵屋敷表(天保14年)によると、125の蔵屋敷のうち、中之島に42、堂島附下福島23の蔵屋敷があって、数多くの船が往来していたことがうかがえる。

 治水目的で作られた安治川は、水運の発達で町は繁栄したが、治水では目立った効果は得られなかったようだ。

 安治川開削から20年後の1704年2月に起工し、柏原から堺の間約14.5kmに新しい流路を開削する大和川付替工事が8ヶ月で完成した。これで、河内平野は、大和川からの洪水から解放された(大阪府「治水のあゆみ」から)。


河村瑞賢

 河村瑞賢が治水の専門家になるまでを、中央公論社「日本の歴史16」で調べてみた。

 要約すると「瑞賢の父の代までは伊勢の国司北畠氏に仕え、北畠氏が信長に滅ぼされたのちは蒲生氏郷に仕えていたという。生まれつき利発な子で、片田舎にうもれさすのは惜しいと思ったか、父は二、三分の金を与えて江戸へくだらせた。6、7年間働いたが、日の目を見なかった。

 大坂は天下の台所、ここへは諸方から人が集まって成功していると聞いて小田原まで行ったとき、一老人が、『江戸には天下の武士が集まっていて諸国の金銀がたえまもなく流れこんでいる。人の気性も大きく、金づかいもはでである。大坂は商業が盛んだといっても江戸とは比べられない。また上方の人は、はでな使い方をしないから、いっきょにもうけることはできない。江戸を去るのは愚かなことだ』と諭された。

 江戸に戻って日雇頭として働き、人足の口入れ稼業を始め、材木屋までなった。才能のすぐれた人であったから、多数の者が入りこんで、手足を働かせ知恵をめぐらせているなかで、しだいに頭角をあらわしたのだろう」と書いている。

 世界大百科事典(平凡社発行)によると、「江戸の明暦の大火に際し、木曾山林を買占め莫大な資産を作ったという。さらに土建業を営み、幕府や諸大名の工事を請け負った。

 1670年(寛文10)幕府より奥州信夫郡の幕領米数万石を江戸に回漕するように命ぜられた。瑞賢は沿岸を現地踏査し、刷新的回漕策でこれを行い、さらに72年に、出羽国村山郡の幕領米の江戸回漕にも従事し、房総半島を迂回する東廻航路(東廻り海運)と日本海沿岸より下関、大坂経由の西廻り航路を確立した」という。


安治川開削でにぎわった九条

 図1のDは川口運上所跡・川口電信局跡で、「慶応3年(1867)この地に大阪税関の前身である川口運上所が設置され、外国事務や税関事務を取り扱っていた。明治3年川口運上所内に川口電話局が開設され頭まで電話線が架設された。
 これは日本最初の電話線であり、大阪電信の発祥の地である」と説明書きの横に居留地付近の地図があった。




  
図4 川口居留地付近の地図


 図4は明治時代の地図だろうが、地形そのものは大きく変っていないなかで、当時は大阪府庁や警察、大阪市江之子島庁舎など官庁街であったことがわかる。

 このほか、プール女学院跡、現大阪女学院跡、現平安女学院跡、桃山学院跡、雑喉場魚市場跡など案内してもらった。

 かつてにぎわっていた九条界隈は、高層マンションの建設など都心回帰で人口増加率が高いという。


 9月に大阪市内街並み再発見でハイキング仲間と空堀通り付近を散策してきた。

 今回は九条界隈に生まれて70年近く暮らしてこられたK代表に、同行してもらって史跡を解説までしていただいた。充実した「街並み再発見」の午後だった。


(平成23年10月7日)


この記事のURL
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/157
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました
 
コメントする
コメント
プロフィール

箕面だんだんクラブさんの画像
リンク集
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/index1_0.rdf
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/index2_0.xml