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第150話 平洋丸の進水式[2011年09月01日(Thu)]


  父のアルバの中で学生時代から就職したころの写真を整理していたら、昭和4(1929)年10月5日に平洋丸の進水式の写真が3枚出てきた。今から82年前の日立造船桜島工場で写したものだ。

進水式の記念写真

 明治39(1906)年生まれの父は、昭和3(1928)年の22歳で日立造船に入社したので、約1年半に進水式の記念写真に顔を出していることになる(写真1)。



写真1 平洋丸進水前の記念写真


 父が書いた自分史「牛歩四十年」にもこの記念写真が貼っていて、写真の下に「平洋丸進水直前の造船工作課員」と説明を入れていた。写真に写っている34人が平洋丸の造船の工作に携わった人たちのようである。
 その下に平洋丸進水の航空写真も貼ってあった。

 記念写真は82年を経過していてセピア色に変色しているが、写真屋が三脚を立てて撮ったと思われる。写っている人たちに焦点がぴったりと合っていて顔かたちがしっかりと確認できる。最年少が父と同じ22歳としても、今年は104歳である。この人たちの了解を得るのは不可能なので半透明の紙で顔にスモークをかけて人物は特定できないようにした。

 わざわざこの記念写真を入れたのは、山高帽やカンカン帽などを手に持つか、被っていて、当時の造船会社での作業の一端を知ることができると思ったからだ。今なら安全靴にヘルメットを持つか、被った姿で写っていることだろう。


平洋丸の進水状況

 この記念写真に比べて進水状況の写真2枚は父が撮影したもので、4.5cm×6.5cmと小さかったので、スキャナで拡大して「平洋丸」と確認できた。

 進水式の儀式は、建造した船体が造船台から滑らせて初めて水に触れることになる。

 何回か進水式を見学したが、確か船底に鋼鉄製のローラーが仕込まれていて、摩擦抵抗を少なくして滑りやすいようにしている。船体を支えていた木枠を順次外していき、下準備が整った段階で支綱が切られ、くす玉が割れ、近くの楽団が景気良い音楽を奏でながら、水面へと滑り降りていく。




写真2 平洋丸の進水状況


 写真1で大きな木材に支えられた船底は可なりの勾配になっているが、写真2では勾配がゆるくなっているのは、滑っている途中で写しているからだろう。

 上記2枚の写真からは、どんな形の船か分からなかったが、写真3で船の概観を知ることができた。




写真3 初めて水に触れた平洋丸



 進水した船体は、原動機や各種の装備を取り付ける艤装(ぎそう)の工程を終えて完成し、船主に引き渡される。

進水式記念絵葉書

 上記のアルバムと別のアルバムも整理していたら、全く偶然にも戦前の平洋丸の進水式記念絵葉書が出てきた。
 何度か進水式に出て記念の進水式絵葉書をもらっているが、戦前の絵葉書を見るのは初めてだった。
 手持ちの進水式の絵葉書を見ると、全長、幅、計画満載吃水、総屯数、速力など船の主要目の次に、船の一般配置図があって、絵葉書と3点セットになっている。

 戦前のものは、絵葉書だけ2枚セットになっていた。




写真4 平洋丸の進水式記念絵葉書


 写真4は建造中の写真を取り込んで富士山に波をあしらった絵葉書である。

 もう1枚は、この船が完成した時の絵を正確に描いた絵に「日本郵船株式会社 南米航路船 平洋丸 進水記念」小さな文字で書いていた。
 この絵葉書は、進水式が10月だから、季節を取り入れて満月にスズキや花をあしらった絵葉書になっている。




写真5 平洋丸の進水式記念絵葉書


平洋丸の運命

 まさかインターネットで「平洋丸」が検索できるとは思ってもいなかったが、「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』」で詳しく知ることができた。
 その後、数奇な運命をたどる「南米航路船・平洋丸」をフリー事典からつまみ食いをしてみた。

 船歴には昭和3年12月4日だから、父が入社して8ヶ月後に起工している。就役昭和5年(1930年)4月19日、喪失は昭和18年(1943年)1月17日で、13年で沈没した。

 主要目は、総トン数9,816トン、全長146.94m、吃水9.14m、出力10,462馬力(最大)、航海速力16.0ノット、乗客一等船客42名、二等船客80名、三等船客500名である。

 上記にも書いたが、進水式は大阪鐵工所櫻島工場で行われたが、平洋丸の長さ146.94mに対して川幅は247mであったこと、さらに、平洋丸は河川に進水する船の大きさとしては当時の国内新記録であったため、式には日本郵船の社長や大阪市長をはじめ1万人近い観覧客が招かれた。幸いにして式は無事挙行され、翌日の新聞には進水式の様子を写した航空写真が掲載された。
 父が航空写真をどこで手に入れたか分からないが、自分史に載せたのは当時話題になった出来事だったからなのだろう。

 昭和5年4月19日に就航してからは、香港や日本とチリの間を往復し続けたが、昭和14年8月に最後ペルー移民を輸送し、昭和16年6月22日の神戸発を最後に南米西岸航路が休航となった後は日本の港に繋船されたままとなっていた。

 昭和16年10月15日、平洋丸は海軍に徴用され、特設輸送艦となった。
 
 平洋丸の最初の任務は11月21日に舞鶴を出港し、サイパン、マーシャル諸島に部隊を揚陸し、その任務を完了した。日米開戦は日本に戻る途中であり、開戦後の平洋丸は横須賀を拠点にサイパン、トラックなどの内南洋を中心に輸送任務を行い、時にはラバウル島などの外南洋への輸送任務も行った。

 昭和18年1月11日、乗組114名、トラック諸島の基地建設要員1753名、東京市の南方慰問団11名の計1878名と食糧や武器弾薬4000トンを乗せて、トラック島に向かって横須賀を出港した。この時の航海は護衛艦なしの単独航海であったため、平洋丸は平均15ノットの高速で航海し、見張員を増員して潜水艦の監視にあたらせた。そのため航海は順調で、1月16日にサイパン沖を通過し、1月17日にはトラックの北約400kmの地点にさしかかった。

 1月17日午後2時5分、入港祝いの赤飯が作られている最中、左舷船首附近に米潜水艦が放った魚雷が命中した。1本目の魚雷命中からすぐ2本目と3本目の魚雷が機関室に命中し、機関室から火災が発生しただけでなく、平洋丸のエンジンは完全に停止した。

 平洋丸からの脱出に成功した生存者たちは、海中にいる人と救命艇や筏に乗っている人とで助け合い、交代で救命艇や筏に乗って体力の消耗を防いだり、乾パンや飲み水を分け合った

 遭難から4日目の1月20日朝、平洋丸からの救難信号を受けて周辺海域を捜索していた海軍の飛行機のうちの1機が救命艇を発見し、現場に到着して救助を開始した。この救助作業により、乗組員70名と便乗者951名の計1021名が救助された。

 昭和5年から昭和14年までの9年間、南米航路船として乗客定員622名、ペルー国、コロンビア国へ移民船として活躍していたのに、第二次世界大戦のため特設輸送艦として徴用されたのは、貨物の積載能力が大型貨物船並みであるということと、船艙のスペースに余裕があったため居住スペースの拡大が可能であったためであるという。

 移民で乗船された方、徴用船で辛くも救助された方1021名など、多くの方々のかかわりがあることを知った。船の耐用年数はどのくらいか知らないが、13年で潜水艦に沈没されるとはあらためて戦争のむなしさを痛感した。


(平成23年9月1日)
この記事のURL
http://blog.canpan.info/dandan-minoh/archive/152
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コメント
 高橋正克様
 ご無沙汰しております。せっかくメールを頂きましたのに、誤って削除してしまいました。こちらのブログで平洋丸の進水式1、2を拝読しました。私の育ったところは安治川の近くです。あそこでこんな進水式ができたとは驚きです。昭和19年、戦時中にできた安治川の川底トンネルのことはご存知ですか。ここでよく遊びました。お父上のこと、よくお知らせ頂きました。有難うございました。
  箕面市議 内海辰郷 拝
Posted by:内海辰郷  at 2011年09月16日(Fri) 09:18

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